著者
小林 由実 川端 博子 薩本 弥生 斉藤 秀子 呑山 委佐子
出版者
日本家庭科教育学会
雑誌
日本家庭科教育学会大会・例会・セミナー研究発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.55, 2012

【目的】 伝統的・文化的な技術や習慣が伝承されにくく、関心も低くなっている中、2008年改訂の中学校学習指導要領の家庭・被服領域において「和服の基本的な着装を扱うこともできる」が明記された。しかし、教師自身の知識・技能が十分でない、教材の確保が困難といった理由から、和服に関する授業の実践例はまだ少ない。この様な現状をふまえ、ゆかたの着装を含む体験的学習を通してきもの文化を次世代に継承する家庭科の教育プログラムを開発し、その学習効果を検証することを目的とする。【授業実践】 本研究では、埼玉大学教育学部附属中学校(2年生4クラス173名)の協力を得て、2011年5月から4週にわたり50分授業を4回実施した。授業は、和服の基礎的内容の学習にはじまり、たたむ、帯を結ぶ、ゆかたを着装する体験学習へと、段階的に進めた。着装技能/ゆかた着装時の気持ち/ゆかたへの興味・関心の視点に関するアンケートと授業ごとの感想をもとに、授業の効果を考察した。【結果と考察】 着装技能の評価 ゆかたの着装技能について、「帯の結び方」等の3項目について8~9割の生徒が理解できたと感じていた。また、写真によるゆかた着装の生徒の自己評価では、「背中心がまっすぐである」等の全ての個別評価と、総合評価「外出できる出来ばえになっている」で有意な相関がみられた。「えり」「すそ」の評価項目では男女とも相関が比較的高い傾向となり、出来ばえに関連する要素とみなされる。男子においては「帯の形が整っている」の相関が最も高く、着付けにおいて帯結びの美しさが総合的な出来ばえに及ぼす影響は大きい。また、教師が同様の評価を行ったところ、5項目について自己評価と教師評価の間に有意な相関がみられた。特に帯に関する項目で、生徒と教師の評価基準が一致する傾向となった。 モデルのゆかた着装時における気持ち ゆかたの着付け体験は2~3人のグループ活動とし、そのうちの一人をモデルとした。授業の前後にモデルを対象にゆかた着装時の気持ちを評価させたところ、「うれしかった」等のゆかたのよさに関する5項目については、全てで高まった。「帯がきつかった」「歩きにくかった」の否定的な2項目においては授業後にはあまり変化せず、比較的低くとどまった。 ゆかたへの興味・関心 授業の前後に、ゆかたへの興味・関心(7項目)を評価させ比較したところ、男女ともに全ての項目で興味・関心が大きく向上した。事後調査においては、「和服について関心がもてた」等の項目で全体の約8割が「(やや)そう思う」と回答した。また、「家族と和服の話をした」の項目では全体の52%が「はい」と回答したことから、授業を通して生徒にきもの文化の継承に関わるきっかけを与えられたと考える。 自由記述の分析 授業後の感想を観点別に分析したところ、帯結びの体験では「帯の形」「長さ調節」「きつさ」が、着付け体験においては、「帯」「おはしょり」が困難な点として最も多く挙げられていた。これらの記述を参考に、要点をおさえた、より簡潔でわかりやすい指導につなげていくことが課題である。
著者
板倉 和裕
出版者
JAPANESE ASSOCIATION FOR SOUTH ASIAN STUDIES
雑誌
南アジア研究 (ISSN:09155643)
巻号頁・発行日
vol.2014, no.26, pp.46-72, 2014

本稿は、社会的マイノリティに対して、留保議席のような政治的保障措置を世界に先駆けて導入したインドの経験に注目し、インド建国の指導者たちがなぜそのような措置を憲法の中に盛り込むことにしたのかを考察する。インドの制憲過程を扱った研究の多くがムスリムの処遇問題に関心を寄せてきた一方で、指定カーストの指導者たちによる、政治的権利獲得のための主体的な活動を考察に入れた政治過程の分析は十分に進められてこなかった。そこで、本稿では、指定カーストの中心的指導者であったB・R・アンベードカルに焦点を当て、制憲議会を取り巻く政治環境の変化に対するアンベードカルの適応過程と、それと同時に形成された会議派指導者との協力関係に注目し、インドの制憲政治を再検討することにより、指定カースト留保議席がインド憲法にいかにしてもたらされたのかを明らかにする。
著者
宮坂 賢一
出版者
日経BP社
雑誌
日経ベンチャ- (ISSN:02896516)
巻号頁・発行日
no.294, pp.13-19, 2009-03

人気ブランド「ローリーズファーム」と聞いてもピンと来る読者は少ないかもしれない。今、20代の女性に大人気の洋服のブランド名だ。東京都中央区に本社を置くポイントは、その製造小売り(SPA)を手掛け、「ユニクロ」のファーストリテイリングを上回る高利益率を実現している。 ポイントの会長、福田三千男の執務室は本社の中にはない。
著者
北村 由美
出版者
日本図書館研究会
雑誌
図書館界 (ISSN:00409669)
巻号頁・発行日
vol.66, no.5, pp.312-324, 2015-01-01

本稿は,アメリカで最も重要な東南アジアコレクションの一つであるコーネル大学図書館ジョン・M.エコルス・東南アジアコレクションの分析を通して,冷戦下におけるアメリカの学問の進展と大学図書館の役割について考察することを目的としている。冷戦下における学問の発展については,冷戦終了以降数多くの批判的検討がなされてきているが,図書館という学術情報基盤を通した考察はほとんど見当たらない。本稿では,第2次世界大戦後からベトナム戦争期にかけて東南アジア研究発展の経緯を俯瞰した後,ジョン・M.エコルス・東南アジアコレクションの設立と発展の経緯を辿る。
著者
八尾 隆生
出版者
東洋史研究会
雑誌
東洋史研究 (ISSN:03869059)
巻号頁・発行日
vol.74, no.1, pp.39-75, 2015-06

The first half of the period from 1450 to 1680, which was called "the Age of Commerce" by Anthony Reid, corresponds to the first half of the Le era in Dai Viet (Vietnam). In scholarship on Vietnamese history, the viewpoints of historians who focus on the landmass or a single nation have been the mainstream, so the relations between the outer maritime world in the East and Southeast Asia and the foreign policy of the Le government, especially of the most prosperous reign of King Le Thanh Tong, have yet to be fully analyzed. In recent years, however, the number of studies from the viewpoint of maritime history, using the outcome of the research on ceramics trade and emphasizing the importance of the existence of the Ming empire and the Ryukyu kingdom has increased. This essay will employ the limited number of records in the Vietnamese chronicles and laws as well as information from newly introduced inscriptions to indicate the following points. According to an analysis of the foreign trade policy in the first half of the Le era and the aim of the military expansionist policy of King Thanh Tong, we see that the Le government also took administrative control of foreign trade, issuing a "sea ban" similar to the haijin policy of the Ming, though less rigorously enforced. The government, however, had to cooperate with illegal trade ships that resisted the Ming ban to export new commodities like ceramics. Ryukyu kingdom, which played an important role in the fifteenth century maritime world of Southeast Asia, did not maintain an official trade relationship with Dai Viet because the kingdom had been established as a new trade center with the aid of Ming empire and Dai Viet had continued its dispute with the Ming from the time of its founding. With respect to the military expansion policy of King Thanh Tong, we cannot deny the possibility that he sharpened his consciousness of being a "Middle Kingdom" and succeeded in exploiting commodities from small peripheral "vassal states" in the tribute system for a short time. However, it is not possible to conclude whether his policy of military expansion was closely link to the foreign trade policy because research on this point has been insufficient.