- 著者
-
岡ノ谷 一夫
- 出版者
- The Ornithological Society of Japan
- 雑誌
- 日本鳥学会誌 (ISSN:0913400X)
- 巻号頁・発行日
- vol.49, no.2, pp.79-85,100, 2000-09-10 (Released:2007-09-28)
- 参考文献数
- 25
一般に,鳥の歌にはなわばりの防衛とつがい相手の誘引の2つの機能がある.後者の機能に重点をおいて歌をつかう種においては,歌は異性間淘汰により進化してきたと考えられる.このレビューでは,複雑な歌の性淘汰が鳥の脳の構造を変化させたかどうかを検討する.複雑な歌をうたうには,それを可能にする脳のコストがあるはずである.また,複雑な歌をきいてそれにもとづきつがい相手を選択するのにも,選択に要する認知機能が脳のコストとして存在するはずである.頭蓋の容量は成熟後は変化しないから,脳のコストは端的に頭蓋内でどのくらい容量を占めるかで比較できるであろう.したがって,歌に関わる特定の機能に特化した脳部位の体積を測定した研究を検討してみよう.鳴禽類における歌制御回路は図1のとおりである.歌の実時間産出は直接制御系と呼ばれる回路(神経核 HVc,RA)で行われる.一方,迂同投射系と呼ばれる回路(神経核Area X, DLM,LMAN)は歌の学習と知覚に関連するとされている.直接制御系の神経核の体積には性的2型があり,歌行動の性的2型と対応しているが,迂回投射系ではそのような対応は見られない.Area X はメスでは全く同定できないが,LMAN はメスでもオスと同じくらいの体積をもつ.これらのデータから,迂回投射系は歌の学習と知覚に,直接制御系は歌の実時間制御に関係すると仮定されている.直接制御系:直接制御系の神経核の体積は種レベルでみれば歌の複雑さと関係するが,同一種内では関係は明白ではなく,むしろ全く関係がないことを示したデータもある.種間比較では,歌の複雑さの指標も100倍からの違いが得られるが,同一種内の比較ではせいぜい4倍程度である.おそらくこれが,種内比較で肯定的な結果が出ない理由であろう.メスの歌選択性は,歌のプレイバックに対してどのくらい交尾誘発姿勢(CSD)が誘発されるかを指標とすることが多い.カナリアでは,HVc の破壊により CSD の選択性がなくなったという報告があるが,キンカチョウでは HVc の破壊による影響はなかった.これが種差と考えられるべきかどうかは不明である.迂同投射系:歌の複雑性と迂回投射系の関係を研究した報告は少ない.キンカチョウでは,LMAN の体積と歌の複雑さが逆相関したという報告がある.また,コウウチョウではAreaXの体積と歌の誘引力が逆相関したことを示す研究がある.歌の誘引力と複雑さの関係については不明である.一方,そのような関係は全くないという報告もある.キンカチョウでは,オスのAreaXを破壊することで,オペラント条件付けにより測定された歌の識別能力が低下した.また,同様な研究で,カナリアのメスの LMAN を破壊すると歌の識別に影響があるという.ムシクイに属する種では,メスの LMAN の体積がその種のオスの歌の複雑さに関係するらしい.コウウチョウではLMANの体積とメスが選り好みする程度が相関した.その他の脳構造:伝統的に考えられている歌制御系とはまったく別の部位であるが,NCM と呼ばれる部位では新奇な歌を聴くことで遺伝子発現が見られる.この部位の神経細胞も,新奇な歌にのみ反応することがわかっている,メスのホシムクドリでは,オスの歌の長さに応じて NCM の異なる部分で遺伝子発現が見られたと報告されている.ハトでは,視床下部の神経細胞がメスの特定の鳴き声に反応する.もし鳴禽でも同様な細胞が発見されれば,歌を分析するのは何も大脳だけではないということになろう.結論:メスの歌知覚と脳構造の研究はデータそのものがほとんどない.しかし,これはたいへん重要な分野であり,今後の展開が期待される.メスの歌知覚には迂回投射系が関わっていることは間違いないであろう.オスもメスも迂回投射系の破壊により歌の弁別力が下がるという報告は一致しているが,メスはLMANが大きい方が選択性が高く,オスは LMAN が小さいほうが誘引効果の高い歌をうたう.こうした一見矛盾したデータから LMAN の働きを洞察することが可能ではないだろうか.歌の複雑さと脳構造の関係は,種間比較では検出できるが,同一種内の個体比較では検出されていない.しかし,性淘汰により歌と脳が変化したことを示すためには,同一種内のデータがぜひとも欲しいところである.問題は脳にかかるコストを定量するための解剖学の技術と,歌の複雑さをどう定義するかにある.これからの研究では,脳の体積をはかるだけではなく,神経細胞の活性の度合いも定量化するような方法が必要である.また,歌の「複雑さ」とはいえ,要素のタイプ数のみが問題にされてきたが,要素配列規則も含んで複雑さを議論する必要があろう.