著者
戸田山和久著
出版者
名古屋大学出版会
巻号頁・発行日
2000
著者
戸田山 和久
出版者
一般社団法人 日本科学教育学会
雑誌
日本科学教育学会年会論文集 37 (ISSN:21863628)
巻号頁・発行日
pp.112-113, 2013-09-06 (Released:2018-05-16)

本発表では、若手科学者および科学コミュニケーターを対象とした、市民向け科学コミュニケーション研修プログラムにおいて、適切な比喩の使用方法を考えるためのワークの実施結果をもとに、市民向け科学コミュニケーションにおける比喩の使用の適切さは何で評価するべきかという問題について考察する。発表者のこれまでの実践から得られた示唆は、どのような比喩を使うべきかは、「わかりやすさ」にばかり注目すべきではなく、コミュニケーション活動が置かれた文脈を十分に考慮して決定されねばならないということである。
著者
戸田山 和久
出版者
医学書院
巻号頁・発行日
pp.588-594, 2016-08-25

ロジカル界の不思議 一時期ほどでもなくなったように思うが,「ロジカルにシンクしようぜ」「論理的に書こうぜ」という掛け声はまだまだ喧しい。そして,汗牛充棟とは言わないまでも,「論理的思考ノウハウでウハウハ」系の本はいまでも書店のビジネス本コーナーの重要な一角を占めている。 こんな具合に巷には,論理的に思考し,話し,文章を書くにはどうしたらよいのか教えて進ぜようという言説が溢れかえっている。しかし,不思議なのは,「どうしたら論理的にほにゃららできるのか」を問う前に答えておかねばならないはずのもっと重要な問題,つまり,「なぜわれわれは論理的にほにゃららしなければならないのか」,あるいは,これと重なるけれども「どういうときにわれわれは論理的にほにゃららすべきなのか」,という問いに,明確な答えが示されたためしはないということだ。それどころか,これらの問いそのものが明示的に問われることも滅多にない。これを問い始めると,いずれ「論理的とはどういうことか」に答えなければならなくなってしまうからだろう。
著者
唐沢 かおり 山口 裕幸 戸田山 和久
出版者
東京大学
雑誌
挑戦的萌芽研究
巻号頁・発行日
2015-04-01

本年とは次の2点に関する検討を行った。1)集団心の認知、集団への道徳的判断の関係の検討:これまでの検討により、集団心の知覚が集団実体性や凝集性の認知に影響されることが示唆される。この知見を踏まえ、集団心と道徳的判断との関係をさらに明らかにするための実験的検討を行った。具体的には、多様な組織や集団を対象とした調査と企業組織の不祥事場面での反応に関する実験である。そのなかで集団とそこに所属するメンバーの心の知覚のトレードオフ関係、また心の知覚がそれぞれに対する道徳的判断(責任帰属や処罰意図)に与える影響を検討した。心の知覚のトレードオフ関係については、一部の集団において、①実体性が高いほど関係の知覚が弱くなること ②集団実体性が高い場合には、集団だけではなく所属メンバーにもより大きな責任が帰属されることが示された。これらの関係は当初の予測とは異なっており、またそれが安定した結果であるかどうか、質問項目の改変も行いながら再検討が必要である。2)他者の態度推論が自らの判断に与える影響:他者の態度推論は自らの態度や行動に影響する。このことは従来の枠組みでは規範的影響という概念を持ちいて検討されてきたが、内集団の「心」の推論の影響という視座からも分析可能である。この点を踏まえ、他者の心的状態(態度)を内集団の「心」として認知し、それが他メンバーの行動に影響するという素朴理解過程に焦点を当て、自らの判断との関係を以下の3点から検討した。①同じ言語と概念理解を共有する文化としての集団を対象とした素朴理解の共有への影響、②企業組織におけるチーム学習活動や企業内福祉制度の利用への影響、③内集団における他者の態度推論と、裁判員制度の理解や認知の相互影響過程が参加意図に与える影響。その結果、上記1)と同様、対象とする集団や判断領域により関係が異なることが示された。
著者
青木 滋之 吉田 茂生 伊勢田 哲治 戸田山 和久 熊澤 峰夫 渡邊 誠一郎 矢島 道子
出版者
会津大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2011-04-01

これまでの科学哲学ではあまり中心的に扱われてこなかった、地球惑星科学の歴史・哲学に関する基盤研究を行った。第一班:地球惑星科学の方法論、第二班:地球惑星科学の科学史、第三班:科学の科学、という3つの班による研究成果は、Nagoya Journal of Philosophyの10号,11号に論文集として公刊された。
著者
三好 博之 戸田山 和久 郡司 幸夫 檜垣 立哉
出版者
京都産業大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2003

三好は計算が二つの意味で記述不可能であるという困難を明確にし,リフレクションと呼ばれる計算から着想を得た形而上学的装置一式を導入してこの困難を間接的に手懐けるというアプローチを見いだした。その記述と理解のためにHume-Bergson形式と呼ぶ記述形式を導入し,これらと上記の困難を結びつけて,その困難を超えた明証的な理解があり得ることを示した.さらにこれが時間論における入不二の考察と近いことを示した。また精神病理学および物理学への応用に向けて予備的な研究を行った。戸田山は今までFieldらにより主に数学と物理学について議論されている認識論の自然化を,現象としての計算に適用する場合の問題点について,普遍的な計算概念よりもむしろ個別の事例について検討を行うことにより研究を行った.そこでは認識論の自然化と同時に実在論を擁護する立場を強調した。郡司は動的情報射を用いた動的・局所的意味論に関する研究を行った。さらに観測由来ヘテラルキーの理論についての研究を行い,ゆらぎを持つ環境の中で頑健な挙動を示すシステムの一般的理論を展開した.現在これらはオープンリミットというアイデアとして一般化されつつある。檜垣は西田幾多郎の哲学において議論されている数理的な議論が現象としての計算という観点から見ると重要な意味を持つことを見出し,このことについて検討を重ねた.その際西田およびドゥルーズの生命論との関連に特に着目して議論を行った.そこでは西田の哲学における数理的側面についても改めて光を当てている。塩谷賢は、「計算」とは科学哲学、技術論、哲学的方法論を含む様々な問題に関する集約点の一つを示す根源的な自然種であるという立場から、「計算」について得られた知見を「計算=操作性のレベルにおける接続子による操作性の延長」として再検討することを提唱した。
著者
戸田山 和久
出版者
日本哲学会
雑誌
哲学 (ISSN:03873358)
巻号頁・発行日
vol.1998, no.49, pp.56-69, 1998-05-01 (Released:2009-07-23)
参考文献数
25

Especially in Japan, physicalistic/nominalistic reinterpretation of mathematics is regarded as an attempt that has relevance, if any, only to a small group of “peculiar” philosophers and hence has no general significance to philosophy itself. My aim of the paper is to show that this reputation is ill-founded. Two main strategies for nominalization of mathematics, (i. e. Hartry Field's instrumentalist program and Geoffrey Hellman's modal-structuralist program) are examined. It is shown that both of these are fruitful research programs that will have a major influence on philosophy of science and language, even if they might prove to be unsuccessful in the end.
著者
戸田山 和久
出版者
名古屋大学オープンコースウェア委員会
巻号頁・発行日
2011-04-12 (Released:2014-03-24)

「社会システム情報学特論」第7回: 「情報」と呼ばれるものは考えれば考えるほど不思議な存在者に思われてくる。それは、世界を流れたり、事物に担われたりする。量的に把握される一方で、「内容」をもっている。われわれはそれを生み出したり、知ったり、それに影響されたりする。この摩訶不思議な「情報」の概念をできるかぎり厳密に分析することを試みる。
著者
久木田 水生 神崎 宣次 村上 祐子 戸田山 和久
出版者
名古屋大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2016-04-01

28年度においては、主に次の調査・研究を行った。(1) 心理学、人類学、認知科学などの自然科学の諸分野における、道徳性に関する近年の研究について調査・研究。(2) 人工知能の分野における倫理や道徳に対する取り組みについての調査と検討。(3) 伝統的な倫理学において道徳性というものがどのようにとらえられてきたということについて調査。これらは本科研の主要な目的である、近年の科学の成果に基づいて道徳性の概念をアップデートして、新しい道徳性のモデルに基づく人工的な意思決定システム、行為システムをデザインするということに直接つながる調査である。上記の調査・研究の結果として以下のことが明らかになった。すなわち人間の道徳性は、霊長類など他の社会的な動物や、また言語を話す前の幼児にも見られる、協力的な行動・利他的な行動を選好する態度にすでにその萌芽が現れている。このことは従来の倫理学が考えてきた、「十分な理性的能力を有する人間(典型的には成年に達した人間)に特有のもの」ではないことが示唆される。その一方で人工知能の分野においては、技術の進展が目覚ましく、またその進歩の勢いに不安を抱く人々も多い。そこから「人工知能の倫理」、あるいは「ロボットの倫理」、「ロボット倫理学」というテーマが注目されている。そしてそれに即した研究の中には、人工知能やロボットに人間や社会の価値を反映させるということを目標としているものも多く、本科研の研究の方向性が社会的な重要性を持つものであることが確認できた。
著者
戸田山 和久
出版者
人間環境学研究会
雑誌
人間環境学研究 (ISSN:13485253)
巻号頁・発行日
vol.1, no.1, pp.1_5-1_10, 2003 (Released:2009-06-22)
参考文献数
21

Philosophical naturalism is made up of two basic claims as follows. (1) Ontological claim (physicalism); Only 'physical entities and phenomena' and what supervene upon them really exist. (2) Epistemological claim; There is no 'first philosophy', that is, every method of investigation including philosophy itself must consist of the methods which are regarded as legitimate in empirical sciences. One consequence of the latter claim is called 'naturalization of philosophy of science' which has grown to be a powerful alternative to the traditional philosophy of science such as logical positivism or Bayesianism. The main concern of this paper resides in the question whether a philosophical naturalist could believe in these two claims at the same time. For, if naturalized philosophy of science found, in empirical data from the real history of science, the fact that the ultimate aim of scientific investigation is not to reach the literally true description of the world but to attain some other epistemic values (e.g. to control the nature or to make better predictions), it might undermine the realistic reading of the ontological claim of philosophical naturalism. This possibility is overlooked by virtually all the naturalists, but might pose a serious difficulty on their philosophic research program. In the last section of this paper, I tired to propose a way-out from this predicament for a philosophical naturalist like myself. The proposal consists of these two measures. (1) to adopt a Hackingean operationist criterion concerning what exists and what not, (2) to reinterpret scientific theories not as sets of theoreteical sentences but as semantic models.
著者
服部 裕幸 美濃 正 大沢 秀介 横山 輝雄 戸田山 和久 柴田 正良
出版者
南山大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2000

われわれはコネクショニズムと古典的計算主義の対比を行ないつつ、コネクショニズムの哲学的意味の解明を行なった。美濃は、ホーガン&ティーンソンのアイディアを援用し、古典的計算主義を超えつつも、いくつかの点で古典的計算主義と前提を共有する立場の可能性を模索した。服部と金子はコネクショニズムにおける表象概念(すなわち分散表象)がはたして「表象」と呼ぶに値するかということを研究し、その有効性の度合を明らかにした。金子はどちらかといえば、分散表象を肯定的に評価し、服部は否定的に評価しているので、この点についてはさらに具体的な事例に即した研究が必要であることが明らかとなった。柴田と柏端は、「等効力性」議論を検討することを通じて、「素朴心理学」的説明による人間の行為の説明が真ではないとする主張の意義を研究し、柏端は、コネクショニズムが素朴心理学の消滅よりはむしろその補強に役立ついう評価をするに至った。他方、柴田は、条件つきではあるものの、素朴心理学は科学的心理学を取り込んだ形で生き残るか、道具主義的な意味で残るであろう、と結論するに至った。戸田山と横山はコネクショニズムが認知の新しい理論であると言われるときに正確には何が言われているのかということを研究した。特に横山は、コネクショニズムを科学についてのより広いパースペクティヴから見なければならないと結論した。大沢は、古典的計算主義における古典的表象のみならずコネクショニズムにおける分散表象もともにある種の限界をもつと論じ、それに代えて新たに像的表象の概念を提案し、そこでの論理を具体的に提案した。しかし、この点はまだ十分に展開しきれてはいないので、今後も引き続き研究する必要のあることが判明した。
著者
戸田山 和久
出版者
Society for Human Environmental Studies
雑誌
人間環境学研究 (ISSN:13485253)
巻号頁・発行日
vol.1, no.1, pp.5-10, 2003

Philosophical naturalism is made up of two basic claims as follows. (1) Ontological claim (physicalism); Only 'physical entities and phenomena' and what supervene upon them really exist. (2) Epistemological claim; There is no 'first philosophy', that is, every method of investigation including philosophy itself must consist of the methods which are regarded as legitimate in empirical sciences. One consequence of the latter claim is called 'naturalization of philosophy of science' which has grown to be a powerful alternative to the traditional philosophy of science such as logical positivism or Bayesianism. The main concern of this paper resides in the question whether a philosophical naturalist could believe in these two claims at the same time. For, if naturalized philosophy of science found, in empirical data from the real history of science, the fact that the ultimate aim of scientific investigation is not to reach the literally true description of the world but to attain some other epistemic values (e.g. to control the nature or to make better predictions), it might undermine the realistic reading of the ontological claim of philosophical naturalism. This possibility is overlooked by virtually all the naturalists, but might pose a serious difficulty on their philosophic research program. In the last section of this paper, I tired to propose a way-out from this predicament for a philosophical naturalist like myself. The proposal consists of these two measures. (1) to adopt a Hackingean operationist criterion concerning what exists and what not, (2) to reinterpret scientific theories not as sets of theoreteical sentences but as semantic models.