著者
上原 健太郎
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.95, pp.47-66, 2014-11-28 (Released:2016-11-15)
参考文献数
28
被引用文献数
1 3

若者の「学校から職業へ」の移行過程をネットワークという視点から論じてきた研究は,ネットワークが若者を支える一方で,そのネットワークの閉鎖性・限定性が若者を職業達成から遠ざけることを強調してきた.こうした機能主義的な説明からは,限られた条件内で若者がいかにしてネットワークを活用し,その創造を図るのかという課題が導出される。 本稿は,ノンエリート青年という視角から,若者を主体的な存在として位置づけることで上記の課題に取り組んだ。具体的には,沖縄で居酒屋を経営する若者集団の経営実践を記述した。明らかになったことは,(1)地縁・血縁ネットワークを活用して居酒屋をオープンし,(2)そのネットワークはオープン後も活用され,(3)また,イベントの開催などを通じて職縁・客縁ネットワークを創造する側面であった。(4)そして,地縁・血縁・職縁・客縁ネットワークは,かれらの日々の働きかけによって維持されていた。 以上,若者を主体的な存在として位置づけることで浮かび上がってきたのは,ネットワークを資源化・重層化させながら,職業達成に向けて合理的に取り組む若者たちの姿である。本稿の意義は,従来の研究が看過してきたそれらの側面を実証的に示し,機能主義的説明の問題点を指摘した点にある。
著者
篠宮 紗和子
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.104, pp.193-214, 2019-06-30 (Released:2021-04-01)
参考文献数
37
被引用文献数
1

本研究は,LD(学習障害)の文部省定義(1999年)の作成過程において「中枢神経系の機能障害」という生物学的原因論がどのように採用されたのかについて,文部省定義に関する行政資料と回顧文書から明らかにした。 本研究の社会学的関心は,病の原因論が選択される過程で,生物医学モデルとその他のモデルがどのように並存するのかというものである。先行研究では,LDは医療化(=生物医学モデルの浸透)の事例として研究されてきた。しかし,当時の医学研究ではLDの生物医学的原因の有無を確認できたのはLD児の3割であったほか,治療法も未確立であった。また,LDは当時教育概念と言われており,医学からはある程度独立した概念であった。LDが必ずしも生物医学モデルによって把握できなかったという事実を踏まえてLDという現象を説明するには,単に生物医学モデルの浸透の事例としてではなく,病を捉えるモデルが多様化するなかでその概念や原因論が争われた事例として分析を行う必要がある。 分析の結果,文部省の議論では生物学的原因論を明記するアメリカ案と障害の社会モデルに基づいたイギリス案が検討されたが,①LDが通常の教育では指導できない存在であることを強調でき,②新たに増加する障害児の数が比較的少なく現場の混乱が少ないという利点から,アメリカ案が選択されたことがわかった。当時の社会・制度的状況が考慮された結果,イギリス案は適切ではないと判断されたのである。
著者
久保田 真功
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.92, pp.107-127, 2013-07-25 (Released:2014-07-28)
参考文献数
33
被引用文献数
2

本研究の目的は,中学生を対象とした質問紙調査をもとに,いじめ加害者がいじめによって得られる利益に着目し,いじめをエスカレートさせる要因について検討することにある。 分析を行った結果,①いじめを続けていくなかでの加害者の心情の変化には,「いじめへの後悔」(いじめをすることに罪悪感や情けなさ,不安を抱くようになる)と「利益の発生」(いじめが楽しくなったり,被害者を服従させることで気分がよくなったり,加害者同士で連帯感を感じるようになる)という2つの側面があること,②加害者が女性の場合よりも男性の場合において,いじめがエスカレートしやすいこと,③「異質」な者を排除することを“口実”としたいじめや,被害者を制裁することを“口実”としたいじめ,被害者の属性とはおよそ無関係な身勝手な理由によって行われる遊びや快楽を目的としたいじめは,エスカレートしやすいこと,④加害者がいじめをすることによって得られる利益を実感するようになった場合に,いじめはエスカレートしやすいこと,などが明らかとなった。 これらの結果は,いじめのエスカレート化の問題を考えるにあたり,いじめの“口実”や加害者の私的利害に着目することの重要性を示唆している。
著者
寺沢 拓敬
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.91, pp.5-27, 2012-11-30 (Released:2014-02-11)
参考文献数
21
被引用文献数
1

本研究の目的は,新制中学校英語科の「事実上の必修化」がいつ,どのように成立したかを検討し,その上で,必修化を促した要因を明らかにすることである。この分析を通して,ある教育内容が「すべての者が学ぶことが自明視される」という意味での《国民教育》の構成要素に,いかに成長していったか検討する。 新制中学発足当初こそ,選択科目であることが当然視されていた英語科だが,既に1950年代には中1の履修率がほぼ100%に近づき,「全員が一度は学ぶ」という意味での事実上の必修化が現出した。60年代になると中3の履修率も上昇し,「全員が3年間学ぶ」という今日的な意味での事実上の必修化が進行した。 同時期に「3年間必修化」を促した主たる要因は,教育内容そのものに関わる内在的な要因よりも,外在的な制度的・構造的要因であった。すなわち,英語の必要性の増大や英語教員の必修化推進運動ではなく,高校入試への英語試験導入,高校進学率の上昇,ベビーブーマー卒業後に生じた人的リソースの余裕など,構造的・制度的な変化の影響のほうが大きかった。なお,当時,自覚的な「運動」こそなかったが,関係者によって「英語の必要性」論への対抗言説が編まれており,これにより英語の《国民教育》としての正当性が高められ,その後の事実上の必修化を条件付けた面もある。以上のように,英語科の《国民教育》化は,種々の要因の複合的な結果として生じたと言える。
著者
平木 耕平
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.83, pp.107-127, 2008
被引用文献数
1

<p>What significance did people give to "entering university from local areas" in Japan in the period following the Second World War? And how have their views changed in the time since? To answer these questions, this paper focuses on the "advanced course" of Tottori prefectural senior-high schools, using the methods of political-sociology.<BR><BR>The "advanced course" of Tottori prefectural senior-high schools is sometimes called a "publicly funded cram school." The teachers of the prefectural schools give instruction to students who are preparing for a new chance to enter university after failing the first time. In the period around 1960, there were still no private cram schools in Tottori Pref., but the number of students hoping for a second chance to enter university was rapidly increasing. In response, teachers at one prefectural senior-high school began to give them instruction on a volunteer basis, and a few years later, the Board of Education institutionalized it as the "advanced course." This system was spread within the prefecture by the Board. Judging from this analysis, it may be said that the Governor, administrators and teachers recognized the disadvantageous condition of the local prefecture, and devised a policy to train talented youth as a means to overcome the backwardness of their home region.<BR><BR>However, a debate on whether the "advanced course" of prefectural senior-high schools should be maintained or not began in Tottori Pref. about 2005. Private cram schools asked for the abolition of the "advanced course," because the social changes since 1990s had hurt their business. As a result, this demand became a focus of public policy in the prefectural assembly. The groups on both sides of the issue disagreed fundamentally on whether the course should be maintained or abolished, but agreed in regarding the "advanced course" as a device for meeting the "needs of individuals." With the massification of university education, the existence of the "external effect," meaning the social profit brought about by higher education, has come into question. In addition, the "needs of society," meaning the survival of the local prefecture, is not recognized within the policy of the modern "non-profit-sharing" model. In comparison with the "supplementary courses" established by PTAs, which perform a similar function in senior high schools of other prefectures, people do not feel a justification to spend public money on Tottori prefecture's "advanced courses."<BR><BR>This leads to the hypothesis that the significance of "entrance into university from local areas" changes with the movement in perspective from social profit to personal profit. This means that the circuit between "education" and "society/economy" has been severed. Hence, the nurturing and outflow of talented youth from local prefectures is no longer seen as the main issue. However, local prefectures have been seriously affected by recent changes in both the industrial structure and decentralization. Now is the time to rebuild the tripartite affinity between "education," "society/economy" and "local areas."</p>
著者
羽田野 慶子
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.75, pp.105-125, 2004-11-15 (Released:2011-03-18)
参考文献数
18
被引用文献数
3 1

The purpose of this paper is to clarify the mechanisms for the reproduction and sustenance of the myth of “male physical superiority” through sport practice, using data from field research in a judo club at a junior high school. The myth of “male physical superiority” refers to the social belief that “males are superior to females in physical capabilities.”The judo club is one of the best sport clubs of the school, and its training is the hardest. Unlike other sport clubs, boys and girls always practice together following the same practice schedule. However, during practice, it is found that they are always gender-segregated, and boy-dominated. That is to say, the gender equality of the practice schedule and gender segregation of the physical relationship are the gender systems of the judo club.In the budo-jo(judo-training room), a fixed “borderline” can be observed between boys and girls. The practiced area for the girls is only a third of the size of that for boys. Girls occasionally try to pass across the “borderline, ” but the subversion is only transitory, and the boys' domination of the budo-jo never wavers.Next, the paper analyzes boy-and-girl pairings for randori(technical training in pairs). When choosing a randori partner, weaker players must ask the stronger players. The boy-and-girl pairings seem like a subversion of gender segregation, but in reality a regularity can be seen in the pairing that does not subvert the male-dominated gender relations. For example, whereas a girl will ask a boy from the same year, boys will only ask girls who are their seniors.Not only judo, but almost all sports have systems that segregate males and females, and prevents them from competing with one another. Gender systems in sport are utilized to sustain the myth of “male physical superiority.” The myth is reproduced by various sport practice, such as the ones observed in a judo club, which are produced from a gender-segregated sport system.
著者
盛満 弥生
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.88, pp.273-294, 2011-06-10
被引用文献数
2

本稿では,エスノグラフィーという手法を用いて,学校生活の中で貧困層の子どもに特徴的に表れる課題を明らかにし,それらの課題が学校や教師から貧困層の問題として捉えられにくい背景にある学校文化のあり様について検討した。対象となった生活保護世帯出身生徒の約半数が「脱落型」の不登校を経験し,不登校経験や学習資源の不足等が直接的に影響して低学力に陥っており,将来の夢や進路に対する「天井感」が見られた。このような目立った課題を有する彼らであっても,生徒を家庭背景や成育歴によって「特別扱いしない」日本の学校文化の中にあっては,学校や教師から「貧困層」の子どもたちとして,特別に処遇されることはない。しかし,彼らの不利が他の一般生徒との違いとなって学校で表れた場合には,学校や教師から特別な配慮や支援がなされることになる。ただ,この場合の支援のあり方は,貧困による不利を解消しようとする積極的な働きかけというよりはむしろ,集団の中で顕在化してしまっている不利を隠そうとする消極的なものとなる。本来であれば,子どもの状況を一番把握しやすい,そして,貧困層の子どもが常に一定数存在し続けていたはずの学校現場で,貧困の問題がこれまでほとんど立ち現れてこなかった背景には,こうした「特別扱いしない」学校文化と,差異を見えなくするための「特別扱い」の影響があったと考えられる。
著者
森 一平
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.89, pp.5-25, 2011-12-30 (Released:2012-12-03)
参考文献数
30

本稿は,「知っている」ということがいかなることであるのか,このことを,それが成立するための条件を問うことで,明らかにしようとするものである。この条件とは,「知っている」という記述が,状況において適切なものであるための条件である。本稿ではこの条件を,相互行為の組織のされ方のなかに見出していく。 本稿ではこの問いをとりわけ,IRE 連鎖に着目することで解いていく。IRE 連鎖は,「知識の確認」のために用いられることが知られており,そのときそれは,「知っている」ということを前景化する装置になる。この場合,IRE 連鎖の成立条件を問うことが,「知っている」ということの成立条件を問うことと重なるのである。 本稿では,「概念分析としての相互行為分析」という方針のもとで,相互行為が分析される。概念分析とは表現同士の結びつき方の分析であり,相互行為の分析も,行為の記述表現同士の結びつき方を明らかにすることによって検討することができる。この点で,概念分析と相互行為分析の方針は一致することになる。 相互行為の分析を通して明らかになるのは,「知っている」ということが,「知らない」ことの可能性を条件として,初めて成立する現象であるということである。「知らない」ことの可能性は,さまざまな実践的課題に導かれながら,多様なあり方で現出することで,「知っている」という言語ゲームを多重的に構成している。
著者
岩田 弘三
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.54, pp.147-166, 1994-06-10 (Released:2011-03-18)
参考文献数
17
被引用文献数
1
著者
丸山 和昭
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.75, pp.85-104, 2004-11-15

Organizations of clinical psychologist were organized on two occasions in Japan at the initiative of professional societies. The move toward professionalization in the 1960s used a strategy which gave priority to the acquisition of specialist status and autonomy than to obtaining a state-granted qualification. As a result, it failed to obtain the support of professionals working in the clinical field. However, in the 1970s, the whole clinical mental occupation reached consensus on the need to promote specialist status, from a sense of crisis brought about by the unwillingness of the Ministry of Health and Welfare and doctors to create a qualification. In the second professionalization in the 1980s, calls were made for the advancement of specialist status and the establishment of a training system. Thanks to a strategy of professionalization aimed at developing an educational field, it came to attain "miraculous" growth. This professionalization of clinical psychologists was based on the leadership of professional societies, which developed specialist attributes for the cultivation of a "science-profession" core based on a "dual strategy", to gain professional status. The clinical psychologists used a dual strategy toward the Ministry of Health and Welfare and the Ministry of Education, expanded the market autonomously and produced a great deal of "science-profession." However, it can be said that the professional society-led model has the danger of following the route of very unstable professionalization, which can be easily influenced of many domains although it has the potential for expanding new markets and the development of an autonomous training system.
著者
湯川 やよい
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.88, pp.163-184, 2011-06-10
被引用文献数
1

本研究は,高等教育・研究者養成における教員-学生関係の社会学研究として,アカデミック・ハラスメントの形成過程を明らかにする。そのため,医療系の女性大学院生を事例に,学生が「被害」を認識する契機となるエピソードに着目し,被害の背景にある教員-学生間の信頼関係の変遷を,対話的構築主義アプローチを用いたライフストーリーとして再構成する事例研究を行う。考察の結果,学生が「被害」と認識した出来事は,それ単独として存在するのではなく,多忙化した教員の研究・教育関与の低下,研究室間の不文律システム,教員同士の確執等,日常に埋め込まれた諸文脈の累積により学生の教員への信頼が失われ,その結果初めて学生にとって不快で不当な「ハラスメント被害」が構築されるという過程が明らかになった。また,対話的構築主義アプローチをとったことにより,上記のハラスメント形成過程は,従来のアカデミック・フェミニズムの中でのモデル・ストーリーとなってきた「ジェンダー要因を中核とするハラスメント体験」の語りに対してずれを含む新たな対抗言説として導出された。研究室の教員-学生関係で生じる困難を,単に学生相談の臨床心理からのみ論じるのではなく,背景にあるジェンダー関与的文脈と非関与的文脈の総体について社会学的に検討し,政策・教育機能分析と指導の実践レベルの研究とを接続する必要があると考える。
著者
木村 祐子
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.79, pp.5-24, 2006-12-10 (Released:2011-03-18)
参考文献数
15
被引用文献数
5 1

Since the later half of the 1990s, lack of adaptability of children to the educational setting has been explained through the new medical category of “developmental disabilities.” In this paper, medical intervention is conceived of as “medicalization, ” and the educational setting is focused on and inspected. In particular, the paper focuses on “developmental disabilities” as a medical diagnosis characterized by uncertainty, situational dependence and feelings of resistance toward labeling, and clarifies how these characteristics are interpreted in the educational setting.Section 1 reviews previous studies that look critically at the elements of medicalization, pointing out the characteristics and problems of “developmental disabilities” as medicalization.(1) The elements of “developmental disabilities” are vague despite the fact that they are medical concepts, and consequently there is a lack of scientific grounds, standardized tests and treatment. This enables interpretation by a diverse range of knowledge.(2) These disabilities function as a form of “risk management.” This study dynamically analyzes how these medical diagnoses are interpreted in the educational setting, with the aim to approach the reality of medicalization.Section 2 summarizes the research method which was used in the interview research of nine teachers.Section 3 examines medicalization in children, first from the viewpoint of responsibility and the role and position of children. The viewpoint of medical treatment has made rapid advances through the intervention of institutionalized medicine. Medical labeling exempts parents and teachers from responsibility, based on the assumption that the problem is a “disability.” In this way, the children are obliged to play the “sick role.”Parents and teachers sometimes display feelings of rejection or resistance toward medical labeling. In addition, uncertainty regarding the cause of the “developmental disability” creates difficulties in medical practice. However, the feelings of rejection and the medical uncertainty can be minimized by medical practice and interpretation in the educational setting.
著者
牧野 智和
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.78, pp.129-146, 2006-05-31 (Released:2011-03-18)
参考文献数
33
被引用文献数
4 1

The purpose of this study is to examine the feelings of “uneasiness” that have become the dominant image where we consider the issue of juvenile crime, and which became the driving force for the enactment of various ordinances. The material used for this examination is reports of the juvenile crimes in the pseudo-environment that mediates the holding of this image, that is, in the mass media. Concretely, the analysis and consideration were done based on reports on juvenile homicides in “Asahi Shimbun” in the postwar period. As a result, the following tendencies in recent years have been extracted as a symptom that people have come to feel uneasiness.1) The number of juveniles arrested on charges of homicide in recent years is low compared with the peak in the 1950s and 1960s. However, newspaper reports on homicides have become much more numerous since 1997. This made people widely aware of crimes by “ordinary children, ” and it appears that this is related to the uneasiness people feel that they or their children might be victims of juvenile crime or that their child might become an assailant.2) In recent years, the malicious nature and cruelty of assailants is often reported along with the tendency to focus on “psychological problems”(kokoro no yami) in the articles. As a result, assailants and their parents and teachers have been subjected to criticism that did not exist in the past.3) From the same focus on “psychology, ” references to “child-rearing” and “educational methods” have been made from a professional viewpoint by specialists in psychology. As a result, everyday life, which was once selfevident, has come under questioning. Moreover, the usage of psychological terms in recent years has been used not only to label assailants as abnormal, but also to make parents and teachers reflexively think, “Is your child OK?” It was thought that the rise of uneasiness is related to these psychological references that destroy the self-evidence of everyday life of parents and teachers.
著者
水野 進
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.103, pp.89-108, 2018-11-30 (Released:2020-06-26)
参考文献数
27

本稿は,文科省による検定の正統性確保メカニズムの展開とそこから産出される歴史教科書知識の性格に関し,B・バーンスティンの〈教育〉装置論とM・アップルの「妥協した知識」という概念を手がかりに考察したものである。その結果以下のことが明らかになった。①文科省は,政治社会的,学説的な背景要因のもと検定の正統性を確保するためにその透明性の向上,公正・中立性確保を至上命題としたが,そのことが逆に「複数の視線」による検定過程の環視を可能にさせ,その結果文科省は従来よりも強い修正意見を出しにくい状況を自ら作り出したこと,その際それを補完するものとして教科書会社の検定・採択通過のためのリスク管理が重要な役割を果たし上記の正統性確保に寄与していること,②2014年以降,一方で検定基準見直しで歴史教科書知識は検定の許容範囲を広げ,通説やそれ以外の事象に関する政府見解や最高裁判例などからなる確定的知識の領域と教科書に関わる諸勢力によって生成された「妥協した知識」等からなる未確定な知識の領域とに分かれ多様化したこと,また一部の事象では非記述という教科書会社の対応も招来させたこと,他方で検定審査要項見直しで執筆者・教科書会社の自己規制さらには教科書の多様性の減少へと繋がる可能性が生じたこと,以上である。
著者
片瀬 一男 阿部 晃士
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.61, pp.163-183, 1997-10-15 (Released:2011-03-18)
参考文献数
28
被引用文献数
1 1

The purpose of this paper is to show accumulativeness and complexity in causes of regional inequality in educational attainment. Although numbers of studies have been made on inequality in educational attainment, little is known about accumulativeness and complexity in causes of inequality. The main reason is that many of these studies neglect the effects of geographical determinants, regional history and regional culture on education. To solve this problem we examine the formation processes of parents' educational hopes for children and students' educational aspirations in the Sendai area and Kesennuma city, considering these factors.We conducted surveys on students at 13 high schools and their parents in the Sendai area (including Sendai, Tagajou and Natori City) in 1987 and on students at 10 high schools and their parents in three other cities in Miyagi Prefecture (Shiroishi, Furukawa and Kesennuma City) in 1988. The results may be summarized as follows:(1) in comparison with the Sendai area, parents' status (according to educational and occupational status) is lower in Kesennuma city;(2) in general, higher parental status promotes their educational hopes for children, but this effect is weaker in Kesennuma city.We used historical and statistical materials and conducted hearing from informants to clarify cultural and historical backgrounds to these results. Kessennuma is located on the south coast of the Tohoku area, and the main industries are fishing and marine product-processing, so before World War 2, educational credentialism permeated later in Kessennuma. Because educational attainment is not a beneficial strategy in a coastal area, parents attach greater importance to practical science. On the other hand, regional culture may cause changes in the meaning of modern education. We conclude that interaction between school education and regional society is needed to elucidate the social function of education.
著者
上原 健太郎
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.95, pp.47-66, 2014
被引用文献数
3

<p> 若者の「学校から職業へ」の移行過程をネットワークという視点から論じてきた研究は,ネットワークが若者を支える一方で,そのネットワークの閉鎖性・限定性が若者を職業達成から遠ざけることを強調してきた.こうした機能主義的な説明からは,限られた条件内で若者がいかにしてネットワークを活用し,その創造を図るのかという課題が導出される。<BR> 本稿は,ノンエリート青年という視角から,若者を主体的な存在として位置づけることで上記の課題に取り組んだ。具体的には,沖縄で居酒屋を経営する若者集団の経営実践を記述した。明らかになったことは,(1)地縁・血縁ネットワークを活用して居酒屋をオープンし,(2)そのネットワークはオープン後も活用され,(3)また,イベントの開催などを通じて職縁・客縁ネットワークを創造する側面であった。(4)そして,地縁・血縁・職縁・客縁ネットワークは,かれらの日々の働きかけによって維持されていた。<BR> 以上,若者を主体的な存在として位置づけることで浮かび上がってきたのは,ネットワークを資源化・重層化させながら,職業達成に向けて合理的に取り組む若者たちの姿である。本稿の意義は,従来の研究が看過してきたそれらの側面を実証的に示し,機能主義的説明の問題点を指摘した点にある。</p>
著者
松岡 亮二
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.96, pp.241-262, 2015-05-29 (Released:2016-07-19)
参考文献数
47
被引用文献数
8 1

近年,国内データを用いた教育分野における社会関係資本研究は増えつつあるが,社会関係資本の可変性を考慮した上で教育不平等との関連を検討した実証研究は未だに行われていない。そこで本稿は,厚生労働省が収集する21世紀出生児縦断調査の個票データを使用し,(1)家庭の社会経済的地位,(2)父母の学校における社会関係資本,(3)子どもの社会関係資本を含む学校適応の関連を実証的に検討した。 大規模な3時点の縦断データを用いたハイブリッド固定効果モデルによる分析の結果によると,世帯収入(経済資本)と父母学歴(文化資本)が,父母それぞれの学校行事出席・保護者活動参加で指標化された学校社会関係資本を分化していた。これらの学校社会関係資本の多寡は子ども間の学校適応差異を部分的に説明し,資本量の変化は観察されない異質性を統制しても子どもの社会関係資本を含む学校適応の変化と関連していた。世帯収入と親学歴の学校社会関係資本を介した学校適応への影響は強くはないものの,社会関係資本の差異を通した不平等の再生産という傾向は確認された。 縦断データを用いた本稿の実証結果は,階層的基盤を有する父母の学校活動関与で示される社会関係資本が子どもの学校適応を促していることを示している。一方で,本稿の知見は,父母の学校関与という「つながり」の増加を通して対人関係を含む学校適応を促すことができる可能性も示唆している。
著者
中西 啓喜 耳塚 寛明
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.104, pp.215-236, 2019-06-30 (Released:2021-04-01)
参考文献数
33

本稿の目的は,平成25年度から29年度に実施された全国学力・学習状況調査における学校パネルデータを用い,学級規模の縮小が学力を向上させるのかについて検証することである。 学級規模の縮小が児童生徒の学力を改善するのかどうかについては,教育政策研究の中でも注目される分野のひとつである。ところが,学級規模の効果に関する知見はしばしば整合的ではない。このような知見の不一致は,観察されない異質性の影響が一因だと考えられている。近年の日本の学級規模研究では,データの階層性や内生性バイアスを除去した分析が蓄積され,小規模学級ほど学力向上に好影響があることが示されてきた。しかし,こうした一連の研究の多くは一度きりのクロスセクションデータによる知見に留まっている。そこで本稿では,5年間の学校パネルデータを用い,学級規模の効果検証を行った。 分析結果は次の通りである。第一に,計量経済学における固定効果モデルによる分析の結果,小規模学級ほど学力スコアが高くなるという知見が得られた。この結果は,観測不能な異質性を除去しており,同一の学校における学級規模縮小による学力スコアの上昇を意味している。第二に,小規模学級の全体的な効果は,小学6年生と中学3年生の両方に対し,全ての教科において統計的に有意な結果が得られた。第三に,小規模学級のポジティブな効果は,就学援助を受けている児童生徒が毎年多く通う小学校6年生に対してのみ統計的に有意であった。
著者
仁平 典宏
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.96, pp.175-196, 2015
被引用文献数
1

20世紀後半から進行する福祉国家の再編にともない,社会保障制度は,教育や訓練を通じて雇用可能性を高めることを目指すワークフェアとしての性格を持つようになってきた。このワークフェアは社会的排除を改善するベクトルと悪化させるベクトルを孕む。本稿の目的は,その分岐の条件を,主にイギリスのニューレイバーの「第三の道」の社会政策の検討を通じて,導出することである。<BR> ニューレイバーは,人的資本への社会的投資を通じた社会的包摂政策を掲げ,子どもの貧困や若年失業の改善に取り組んできた。それらは一定の成果を上げたと評価される一方で,批判的社会政策論からは,むしろそれが貧困家庭や脆弱性のある若者に対する抑圧や排除を深刻化させたと批判されている。問題の所在は,第三の道のワークフェアが,社会構造の転換によってではなく,個人のハビトゥスの矯正によって社会的排除に対応するように仕向ける統治性として性格をもっていた点にある。<BR> 以上を踏まえて,社会的排除を避ける方向性が,福祉国家レジーム論や生産レジーム論の知見も参照しつつ,教育の内部と外部においてそれぞれ示される。ワークフェアは――教育と同様――成功可能性が確率に委ねられるゲームとしての側面を幾重にも有している。よって社会的排除を回避する掛金は,ワークフェアへの参加/離脱の前提として,無条件で普遍主義的な社会権保障を論理的かつ制度的に先行させることにある。