著者
岩田 修二
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

はじめに 来年度(2013年4月)から高等学校の新教育課程がはじまる。帝国書院の『新詳地理B』(審査用見本;2012年3月検定済み)をみたところ,地形の部分はほとんど変わっていなかった.報告者の関心が深い山地地形についてみると,相変わらず新期・古期造山帯という概念で世界の山地地形が説明されている.これは,最近の変動地形学の進展と適合しないし,生徒に大きな誤解をあたえる可能性がある.問題点を提示し,改善案を示す.高校教科書の造山帯と山地地形の説明 多くの教科書に共通している説明は,「造山帯とは,山脈が形成される地帯である.新生代と中生代に形成された造山帯は新期造山帯とよばれ,険しい大山脈を形づくっている.古生代に形成された造山帯は古期造山帯とよばれ,長期間の侵食によって低くなだらかな山地になっている」というものである.教科書の説明と現実との不一致 高校時代に上記とおなじ造山帯と山地地形の説明を学んだ報告者は,長い間,登山の対象になる高く険しい山は新期造山帯にしかないと思いこんでいた.しかし,古期造山帯である天山山脈・崑崙山脈・チベット高原北半で調査した時,古期造山帯にもヒマラヤ山脈に匹敵する険しい山脈があることを知った.東南極大陸のセールロンダーネ山地で調査をしたときには,安定陸塊にも日本アルプスよりはるかに険しい3000メートル級の山地があることを知った.地形図と地質図(地体構造Geotectonic図)を照らし合わせると,東シベリアからアラスカ北部にかけての,なだらかな山地しかない新期造山帯,広い平原がいくつも存在する新期造山帯,安定陸塊なのに険しい山岳がみられる東アフリカ地溝帯など,教科書の説明とは一致しない場所が多いことが分かった.造山運動とは何か 造山運動 (orogeny) を"The process of forming mountains" (Dictionary of Geological Terms, Dolphin Books, 1962) や「褶曲山脈や地塊山地が形成される運動」(新版地学事典,平凡社,1996)とした辞書もあるが,造山運動とは「山脈の地質構造をつくり,広域変成作用や火成活動をおこす作用のこと」であり,「造山運動もある程度は地形的山脈をつくるであろうが,山脈の隆起の中には造山運動とは関係のない成因によるものもたくさんある」(都城,1979:岩波講座地球科学12:103-6)とされる.つまり,造山運動と造山帯は地質学の概念であり,そもそもは,大陸地殻(花崗岩類)をつくる作用のことである.山地地形の説明に用いるのは不適当なのである. 最近ではプレート論が高校教科書にも導入されたので,本来おなじ内容である変動帯と造山帯とを使い分ける必要がでてきたらしく,「プレート運動によって激しい地殻変動が起こる地帯を変動帯とよぶ。変動帯のうちで高い山脈が形成される地帯が造山帯にあたる」(上記の『新詳地理B』28ページ)という誤った記述がでてきた.改善策 山岳の地形の特徴を示すのは起伏(高さと険しさ)である.だから,世界の山岳地域を起伏という地形の指標で整理するのが山岳地域の地形理解の第一歩である.山地地形の説明には起伏を指標にした地形特性そのもので説明すべきである.わざわざ地質学の概念を借りてくる必要はない.日本の山地の区分でよくおこなわれる大起伏・中起伏・小起伏山地という区分で十分である. 20世紀前半の地向斜造山論を引きずっている造山帯の概念は,しかし,地下資源の分布を整理するには便利である.それならば,はっきりと,地質形成時代を示すことを明記したうえで鉱物資源・鉱業の部分で教えればよい.結論 1)山岳地域の大地形の説明として新期・古期造山帯を用いるのは止める. 2)鉱物資源の説明のために造山帯を使うならば,地質を説明する概念であることをきちんと説明すべきである.
著者
野中 直樹
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

@font-face { font-family: "MS 明朝"; }@font-face { font-family: "Century"; }@font-face { font-family: "Century"; }@font-face { font-family: "@MS 明朝"; }p.MsoNormal, li.MsoNormal, div.MsoNormal { margin: 0mm 0mm 0.0001pt; text-align: justify; font-size: 10.5pt; font-family: Century; }.MsoChpDefault { font-size: 10pt; font-family: Century; }div.WordSection1 { } 近年の日本では3GやLTEと呼ばれる携帯電話回線の普及によって通信機能を有する機器をどこでもインターネットに繋げられるようになった.このような時代背景で遠隔地に設置したセンサを使ってセンシングしたデータを収集し,インターネット上にデータをアップロード可能なIoT機器が数多く登場してきている.また,ArduinoやRaspberryPiなど低価格で初心者にも扱いやすいマイコンボードの登場により,IoT機器を自作するMakerムーブメントがおこり,好きなセンサを組み合わせてIoT関連機器を自作するキットが各社から販売されている.これにより,自分の求めるデータを遠隔でセンシングし収集するIoT機器の作成があたかもブロックを組み立てるかのようにできるようになっている.<br>@font-face { font-family: "MS 明朝"; }@font-face { font-family: "Century"; }@font-face { font-family: "Cambria Math"; }@font-face { font-family: "@MS 明朝"; }p.MsoNormal, li.MsoNormal, div.MsoNormal { margin: 0mm 0mm 0.0001pt; text-align: justify; font-size: 10.5pt; font-family: Century; }.MsoChpDefault { font-size: 10pt; font-family: Century; }div.WordSection1 { } データをインターネットにアップロードして収集する際,データの受け先となるWebサーバを用意する必要がある.情報系の詳しい知識があれば目的にあった機能を持ったWebサーバを自作することも可能だが,そうでない場合は困難である.そこで,IoT機器のセンシングデータを収集し,それをグラフとしてリアルタイムで可視化するWebサーバを提供するサービスとしてKibanaやThing Speakといったサービスがある.これらは高機能で,使いこなすことができればとても便利なサービスではあるが,センシングデータの可視化を思い通りに行うためにはある程度のプログラムを書く能力が必要である.また,各サービス独自の多数の設定項目を持つUser Interface(以下UI)を理解する必要もある.<br>@font-face { font-family: "MS 明朝"; }@font-face { font-family: "Century"; }@font-face { font-family: "Cambria Math"; }@font-face { font-family: "@MS 明朝"; }p.MsoNormal, li.MsoNormal, div.MsoNormal { margin: 0mm 0mm 0.0001pt; text-align: justify; font-size: 10.5pt; font-family: Century; }.MsoChpDefault { font-size: 10pt; font-family: Century; }div.WordSection1 { } そこで本研究では,普段からデータ処理に使うことの多いMicrosoft Excelと同様のUIをもつGoogleスプレッドシートに注目し,より簡単にわかりやすくデータの収集と可視化を行う手法を提案する.
著者
阿子島 功
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.231, 2013 (Released:2013-09-04)

2011.3.11地震によって福島県中通り(阿武隈川沿岸)の内陸盆地では、丘陵地の谷埋め造成地の地すべりや沖積低地の地盤液状化が生じたが、さらに河岸段丘面上にある須賀川市(震度6強)の中心市街地でも建物被害が顕著であった。福島県中通り中央部の地盤災害が大局的には更新統「郡山湖成層」の分布域に一致するという指摘もある(小林2011JpGU)。須賀川中心市街地の震害は中世城館廃城の後に埋められた濠の位置に一致していたと考えられる例もあることを報告する。 [被害個所調査] 被災直後~数ケ月以内の調査報告・写真が多く公表されており現地比定ができる。2012年後半に現地で震災前の住宅地図と比較しながら被災個所の分布と微起伏を調査した。このとき中心市街地では更地、駐車場への転用、工事中の建物、道路の修復工事が目立ち、市役所やまちなかセンターなど大型建物の取り壊しが始まっていた。福島県中通りは震災の後の航空写真撮影やGoogleEarth画像の更新はされていない。 [中世末の二階堂氏時代の町割りの復元] 二階堂氏居城時代は、文安年間(1429~1449)築城より150年後の天正17(1589)年[伊達政宗の攻略によって落城]までであり、伊達・蒲生・上杉氏の支配を経て江戸時代初期に廃城となり宿場町として整備された。このとき二ノ丸を貫いて南北の街道が開かれた。須賀川町は近世を通じて奥羽地方の交通の結節点として大きな宿場町を形成していたが、そのために近世城下町地割をひきつぐ多くの都市とは異なって、城の遺構と城下町地割が明瞭ではない。 二階堂氏居城時代の町割は江戸時代になって記憶で描かれた城下町地割の絵図[須賀川市博物館蔵。絵地図1]があり、さらに現地比定を行うにあたって江戸時代後期の文化年間(1805-1815)の精密な鳥瞰図[白河藩絵師白雲筆による「岩瀬郡須賀川耕地之図」。同博物館寄託展示。絵地図2]および明治時代末の1:50,000地形図[M41年。地図3]が参考になる。絵地図2には段丘崖や開析谷の表現がなされているので現地比定の参考になり、寺なども対照点となる。ただし後代の地図3には城下町特有の“鉤の手“のくいちがいがよく表現されているのに絵地図2には表現されていない。 絵図1によれば二階堂氏居城は南北に細長い段丘面の中央を占め、城下町を含めてその西と東を段丘崖、その南と北を(浅い開析谷を利用した)堀切によって区画している。町屋は城の南に新町・本町、東に中町・道場町、北に北町がおかれた。江戸時代後期の絵図2には本丸の西側水濠(現在は道路)、二ノ丸の南西外縁の谷間の水田(現在は埋められて加治町公園)が描かれているが、二ノ丸東側の濠跡と二ノ丸の北側(搦手)の堀切の窪地(堀火掛の注記)はすでに埋められて読めない。江戸時代の白河藩(儒官広瀬典著)白河風土記巻十二によれば、(1)(中)町ノ地、元ハ二階堂氏城郭ノ内ニシテ、町ハ東ノ方ヲ回リシトナリ、今ニ町家ノ西裏ニ古ノ土居ノ残リ、高サ二丈計リ、長サ百間計リ、・・・(2)(本町ト)中町ノ接セシ所ハ、古二階堂氏城郭ノ堀アトニテ、町屋トナセシトキ土石ナントヲ以テ填ケレドモ、容易ニ埋メラザリシ故ニ、桁ヲ亘シ、上ニ土ヲ置キ、今ノ街トハナセシトナリ、云々[須賀川市史3(近世)1980,p.181-188]。現在の中心市街の中町筋は二ノ丸城内を南北に貫いたのであるが、(2)は南側濠大手付近を指し、(1)は本町筋を北へ延長した(新しい)中町筋ではなく、もともとの中町筋の西側に土塁があったことを述べているのであろう。[震害個所と埋没濠] 本丸跡の西側水濠(現在は道路)にそって路盤損傷、二ノ丸南西縁の濠跡(加治町公園)の両岸斜面で建物損壊、その南の延長の谷頭の浅く広い谷筋(加治町)の南岸で建物倒壊、谷中央で墓石倒壊が起きた。東側濠に沿う(と考えられる裏)通りに沿って建物損壊が起きている。しかし、二ノ丸城内にあたる現中心街(前述(1)の県道須賀川・二本松線沿い)でも多くの建物被害・路盤損壊が生じている理由の説明が残されている。
著者
谷口 博香
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100094, 2016 (Released:2016-04-08)

グローバル化の中で、国境を越えた人口移動が盛んに行われ、移民の存在とその処遇はすべての国家において重要な課題となっている。人文地理学の移民研究では、1980年代以降移民のエスニシティとエスニックな空間に注目した研究が数多く行われてきた。しかし、日本においては1990年以降になってようやく研究が進められている段階であり、まだ十分な展開が見られない。 本研究では、1980年代後半以降に「アジア系労働者」として来日した東京都周辺に在住するバングラデシュ人たちの日常生活の一端にアプローチした。1990年代の研究との比較により、現在日本で生活するバングラデシュ人国内の出身地、年齢、家族・友人関係、社会階層といった個人が持つ背景や彼らのネットワークがどのように変化したのか。そして在日バングラデシュ人のエスニック空間が、移民自身の戦略や葛藤、ホスト社会の権力関係等と絡みながらどのような形で生成されているのか、それは移民とホスト社会の双方にとってどのような意味合いを持ちうるのかを検討した。 研究方法は、文献・資料研究のほか、在日バングラデシュ人が多く集まるイベント、ハラールフード店、モスクなどでのフィールドワーク、ならびに当事者である在日バングラデシュ人や関係者、イベントを後援している自治体へのインタビュー調査が中心である。インタビューに際しては、筆者自身がボランティアとして活動に携わっていたNPO団体APFSからご紹介を得たほか、知人からの紹介やフィールドワーク中に出会った方など個人的な伝手を利用し、10名からの協力を得た。 調査の結果、現在の在日バングラデシュ人は東京都北区、中でも滝野川地域や東十条地域周辺に集中していることが明らかとなった。また、ほとんどの者が正規の在留資格を持ち、自らビジネスを行ったり事務職に就いたりと、労働市場の底辺を担う単純労働者としてみなされていた1980年代末とは異なる様相を見せている。そして、彼らのネットワークや生活圏は、彼ら自身の持つ属性(宗教や職業、滞在資格など)の違いによって細分化されており、よりミクロなスケールでの関係性にもとづき構築されている。 一方、彼らの構築するエスニック空間については、大別して2点の特徴が挙げられる。第一に、彼らは上述地域への集住傾向を示すものの、当該地域においては彼らのエスニシティが顕示されず、恒常的なエスニック景観は極めて不可視的である。第二に、彼らが集い、エスニシティを前面に出しうるのは、池袋西口公園で開かれる「ボイシャキメラ(正月祭り)」など、限られた一時的な機会のみである。このイベントは、公園という開かれた空間で行われ、彼ら個々人の存在自体が持つエスニシティ(服装や言語、容姿など)、そしてナショナルな性質を帯びるエスニシティ(国旗や国歌、文字など)が際立って可視化されている。すなわち、本国における彼らの「日常」がホスト社会においては「非日常」となり、ホスト社会である日本の政策と権力の影響を受け、普段の生活において戦略的、あるいは必要性のなさから自分たちのエスニシティや存在を隠していることとは対照的に、それらを示す重要な機会となっている。 以上から、移民によるホスト社会におけるエスニシティの体現は、様々な権利獲得や、観光資源あるいは商業上の必要性による「戦略的」なものであるが、在日バングラデシュ人にとってはこの一時性こそが、日本社会における生存戦略の一環となっていると考えられる。また、在日バングラデシュ人が、ホスト社会における公共物としての性格が強い公園において、その権力性を乗り越え、自らのアイデンティティと差異を誇示しつつも日本社会との良好な関係や友好を示す機会を継続して作り出しているという点は、移民コミュニティとホスト社会が関わり合うことによる多様な空間生成の可能性を示唆している。ある程度の可視性や持続性を前提とした文化的景観に加え、こうした一時的かつ非日常的に構築されるエスニックな空間の持つ意味を検討したこと、そして移民による空間形成の背後にあるホスト社会の権力とアクターを含めた検討ができたことは、エスニック地理学における新たな見方を提示することができたのではないか。
著者
鈴木 康弘 廣内 大助 渡辺 満久
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100262, 2015 (Released:2015-04-13)

2014年長野県北部の地震は糸魚川-静岡構造線(糸静線)の北部、神城断層が活動して起きたものである。長野県はこの地震を神城断層地震と命名した。政府の地震調査研究推進本部(地震本部)は、110の「主要活断層」を定めて地震発生長期予測を行ってきたが、この地震は主要活断層が起こした初めての地震となった。震源断層面が浅かったために局地的に強い揺れが発生し、白馬村神城・堀之内地区では甚大な被害が生じた。気象庁は正式に認定していないが、震度7相当の揺れに見舞われていたと推定される。地表のずれ(地表地震断層)は、既存の活断層地図で示された場所に出現した。しかし、この地震は糸静線のごく一部が小規模に活動して起きたものであり、地震本部の予測とは異なっていた。地震規模が小さく死者は出なかったが、活断層地震の長期評価(発生確率)や強震動予測に再考を促す重要な地震であった。
著者
林崎 涼 鈴木 毅彦
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100171, 2015 (Released:2015-04-13)

長石を用いた新たな光ルミネッセンス(OSL)年代測定法として, post-IR IRSL(pIRIR)年代測定法 (Thomsen et al. 2008) が近年確立された.pIRIR 年代測定法では,それまでの長石を用いた OSL 年代測定の際の Fading という問題が解決され,過去数十万年間の堆積年代を見積もることが可能となった(Thiel et al. 2011 など).しかし,pIRIR 年代測定法では正確な堆積年代を見積もるためには,長時間(数ヶ月)太陽光へ露光し,ブリーチしていることが必要である(Buylaert et al. 2012).そのため,一般に露光しにくい河成堆積物の堆積年代を求めるのに,pIRIR 年代測定法は不向きだと考えられる.しかしながら,時間指標となるテフラなどに覆われていない中期更新世の河成堆積物の堆積年代を求めることは難しく,pIRIR 年代測定法を試みる価値は大きい.本研究では,立川市/武蔵村山市の榎トレンチにおいて,まず年代の明らかな立川面の段丘構成層を対象として,pIRIR 年代測定法により河成堆積物の堆積年代を見積もることが可能か検討した.次に,榎トレンチ底から採掘されたボーリング試料(TC-12-1 コア)から,青梅砂礫層に相当すると考えられる埋没礫層の堆積年代をpIRIR 年代測定法により推定した.トレンチ壁において立川面の段丘構成層中の砂層に塩ビパイプを挿入し,太陽光への露光を防いで試料を採取した.ボーリング試料は暗室において半割し,礫層中に挟まる砂層において,太陽光へ露光していないと考えられるパイプの中央部分から試料を採取した.暗室において,OSL 強度が減衰しにくいとされるオレンジ光源下で試料処理を行い,180〜125μm のカリ長石を抽出した.抽出したカリ長石は,ディスク上へ直径 2 mm の円盤状に接着し,東京大学工学部所有のデンマーク Risø 研究所製 TL / OSL-DA-20 自動測定装置を用いて OSL 測定を行った.pIRIR 年代測定は Theil et al.(2011)と同じ測定手順を用いた.河成堆積物は,運搬・堆積過程において露光が不十分であると考えられる. そこで,pIRIR 年代測定によって求められた各ディスク試料の等価線量から,最もよく露光していたディスク試料を抽出することができると考えられる,Minimum age model(MAM: Galbraith et al. 1999)を適用し,堆積物の等価線量を見積もった.得られた等価線量を試料採取箇所の年間線量で除することにより,扇状地礫層の OSL 年代を求めた.榎トレンチは立川Ⅱ面(山崎1978)に位置しており,段丘構成層の堆積年代はAT (30 ka)降灰以降で,UG(15〜16  ka)降灰以前だと考えられている.pIRIR 年代測定法の結果に,MAM を適用した段丘構成層最上部(OSL-5)の OSL 年代は,22.7 ± 2.4 ka となり,先行研究の年代と矛盾しない.OSL-5 から約 3 mほど下位のOSL-3 において MAM を適用した OSL 年代は30.3 ± 3.1 ka で,立川Ⅰ・Ⅱ面のどちらの段丘構成層とも解釈できる. MAM を適用して見積もられた OSL 年代は,先行研究の堆積年代と整合的であり,運搬・堆積過程で充分に太陽光に露光し,ブリーチしていた鉱物粒子を抽出することができたといえる.以上のことから,pIRIR 測定法の結果に MAM を適用することで,段丘構成層の真の堆積年代を見積もることができる可能性があるといえる.武蔵野台地西部では,古くから段丘構成層の下位に厚い礫層が埋没していることが知られている(寿円 1966 など).これは青梅砂礫層と呼ばれ,堆積開始年代の解釈には下末吉面形成以前(角田 1999 など)と以降(高木 1990;貝塚ほか 2000 など)があるが,正確な堆積年代は明らかでない.pIRIR 年代測定法の結果に,MAM を適用したボーリング試料上部(3.62-3.66 m)の OSL 年代は,65.4 ± 8.2 ka で,武蔵野礫層に相当すると考えられる.ボーリング試料の下部(17.25-17.30 m)では,MAM を適用して 235.7 ± 25.7 ka という MIS7-8 頃の OSL 年代が得られた.本研究の結果から,青梅砂礫層は少なくとも 2 つの堆積時期に分けられる可能性があることが分かった.高木(1990)では,青梅砂礫層中から Hk-TP と考えられるテフラを見出しており,これはボーリング試料の上部で求められた堆積年代と一致する.植木・酒井(2007)では,青梅砂礫層はMIS 6 以前の間氷期に形成された谷を埋積した地層の集合だと考えているが,ボーリング試料の下部の OSL 年代は矛盾していない.
著者
髙木 亨 田村 健太郎 大塚 隆弘 佐藤 竜也 佐藤 亮太 清水 康志 高橋 琢 吉池 隆 鳥海 真弘 浜田 大介
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100235, 2012 (Released:2013-03-08)

東日本大震災を起因とする福島第一原子力発電所の事故は、福島県を中心に甚大なる放射性物質による汚染被害をあたえ、今なお多くの住民に避難を強いている。 今回の原子力災害では、県内をはじめ各地域で、避難「する」「しない」といった住民の「分断」が見られる。これは、住民間に対立を生み、地域コミュニティの崩壊を招く恐れがある。本研究では、このような分断を発生させる要因について、一つの集落での住民の避難行動を分析することによって明らかにし、「分断」の予防について検討することを大きな目的としている。今回の報告では、以前から交流のある福島県いわき市川前町高部地区を事例に、住民の原発事故発生直後の「避難する・しない」の判断をさせた要因について明らかにする。 高部地区は福島第一原子力発電所から半径30km圏のすぐ外側、31~32kmに位置しており、事故発生直後からその影響が心配された地区であった。事故発生当時はどの程度の放射能汚染があるかははっきりと把握できなかった。このため事故発生直後、高部地区外へ避難した住民と避難しなかった住民とに二分される結果となった。表1は事故発生直後に避難した住民への聞き取り調査結果である。避難先は、福島第一原子力発電所から遠いところであり、遠方にいる親戚や子息を頼って避難している。避難理由は様々であり、親族の病気や娘の避難の呼びかけに応じて、というものである。しかし、避難先での暮らしが窮屈なこともあり、早々に避難先から高部地区へ戻って来ている。 一方、避難しなかった住民は、住民同士が声を掛け合い、15日あたりから集会所に集まって過ごしていた。17日には屋内待避指示の関係で福岡県警の警察官が集会所に常駐、放射線の観測機器等を持っていたことから、住民に安心感を与える事となる。避難しなかった理由は、仕事の関係、家畜の飼育などの理由であった。 「避難した・しなかった」は、住民間にとっても微妙な問題である。個々の住民が抱える状況によってその行動に差異が生じている。このため住民間のコンフリクトを引き起こし、地域コミュニティの崩壊につながる可能性があった。一方で、一時避難から戻って来た住民を「受容」するなど、コミュニティ維持への「知恵」ともいうべきものがみられた。
著者
佐藤 浩 青山 雅史
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100197, 2014 (Released:2014-03-31)

1944年12月7日に発生した東南海地震(M7.9)では、紀伊半島沿岸で甚大な津波被害が発生した。その3日後には、米軍が偵察飛行によって被害状況を調べ、縮尺1/16,000の空中写真を残した。先行研究は、空中写真判読によって三重県尾鷲市中心部の被害状況を報告した。本研究では、尾鷲市南部に焦点を当てて、その空中写真判読によってその被害状況を報告する。
著者
清水 龍来
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100174, 2014 (Released:2014-03-31)

米山海岸地域は、近年のGPS観測によって明らかになった最大剪断歪み速度の大きい地帯(新潟−神戸構造帯)(Sagiya et al. 2000)に含まれ,日本海東縁変動帯の陸域への延長部と考えられている。そこでは、歪みが塑性的な変形として蓄積され、主要な活構造が分布している(大竹ほか 2002)。近年、本地域の南西部に位置する高田平野の東縁に高田平野東縁断層帯(渡辺ほか 2002)が報告され、また周辺海域において2007年7月16日新潟県中越沖地震(M6.8)の震源断層と考えられているF−B断層や,より南西のF−D断層(原子力・安全保安委員会 2009)も報告されており,詳細な変動様式の解明と定量的な評価に基づく本地域のネオテクトニクスの解明が必要である。本地域には数段の海成段丘が分布し、分布高度が南西に向かって増大する傾向が指摘されていた(渡辺ほか 1964)。しかし、米山海岸地域全域に渡る系統的な地形・地質調査に基づく編年・対比は行われておらず,また隆起を引き起こす活構造など詳細は不明であった。本研究では米山海岸地域全域の地形・地質調査を実施し段丘の編年・対比を試みた。その上でそれらが示す地殻変動の傾向と周辺の活構造との関連を考察した。 本研究では米山海岸地域に分布する段丘地形を、HH、H1、H2、M1、M2、Lの5面に区分した。岸ほか(1996)はM1面構成層と風成砂層との境界付近にNG(中子軽石層=飯綱上樽cテフラ:15–13万年前噴出(鈴木 2001))を見いだし、M1面を下末吉面相当とした。本研究では、M1面構成層とされる安田層及び大湊砂層を、より南西方まで追跡し、M1面の分布を明らかにした。また小池・町田(2001)などによってMIS5eに対比されていた上輪新田付近の段丘について,東京電力株式会社(2008)は、構成層にクサリ礫を含むことに加え、風成層上端から90cm以内にAT,DKP,Aso-4を確認しその下位に数mの風成ローム層を挟んで、温暖期を特徴付けると考えられる古赤色土(松井・加藤 1962)が存在することから,本面の形成を下末吉期より大きく遡ると考えた。本研究でも東京電力株式会社(2008)の見解を支持する結果が得られ本面をH1面に対比した。 研究地域全域に広く分布するM1面の分布高度から地殻変動の傾向を明らかにした。M1面の旧汀線及び分布高度は、柏崎平野付近において約20mで南西に向かって高度を増大し、青海川付近で約50m、笠島付近で45mと概して北東へ傾動する傾向を示すことがわかった。 周辺に分布する活断層の活動が,段丘の形成や高度分布に影響すると仮定し、Okada(1992)のディスロケーションモデルに基づき活断層の地殻変動量をモデルを用いて計算した。またF−B断層に関しては、国土地理院が公開している新潟県中越沖地震時の地殻変動データを参考にした。その結果、米山海岸地域の北東への傾動は、上越沖に分布するF−D断層の活動による南西側の大きな隆起による効果と,F−B断層の活動による北東側の沈降が大きく寄与すると考えられる。一方、ひずみ集中帯の重点調査研究による地殻構造調査では、高田平野東縁断層最北部では上端の深さは約3kmの東傾斜の断層が地下に認められている。この断層がより北東方向へ伸びるとすれば、米山海岸地域の傾動に寄与する可能性がある。   参考文献 Okada 1992.BSSA 82:1018-1040.大竹ほか編 2002『日本海東縁の活断層と地震テクトニクス』.岸ほか 1996.第四紀研究135:1-16.原子力・安全保安委員会 2009.東電柏崎刈羽原発敷地周辺の地質・地質構造に関わる報告書. 小池・町田編 2001.『海成段丘アトラス』.地震調査研究推進本部2009a.高田平野東縁断層帯の長期評価について:1-31.鈴木 2001.第四紀研究40:29-41.東京電力株式会社 2008.東京電力株式会社柏崎刈羽原子力発電所 敷地周辺の地質・地質構造に関わる補足説明:1-14.ひずみ集中帯の重点的調査観測・研究プロジェクト『平成23年度成果報告書』.松井・加藤 1962第四紀研究 2:161-179. 渡辺ほか 1964.地質学雑誌70:409.渡辺ほか 2002.国土地理院技術資料 D・1-No. 396. Zeuner 1959.The Pleistocene Period :447 Hutchins
著者
山下 博樹
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100004, 2013 (Released:2014-03-14)

1.はじめに   大都市圏での都心回帰の進展、都市計画法改正による郊外の大規模集客施設の原則開発禁止など、コンパクトなまちづくりに向けた動きが進むなか、地方都市の中心市街地の活性化は依然遅れていると言わざるを得ない。中心市街地が抱える多くの課題の根本原因は、モータリゼーションを背景とした交通結節性の低下と、居住人口の郊外化による人口減少・高齢化の進展の影響が大きいと考えられる。そのうち、後者に対応する「まちなか居住」の推進に取り組む、あるいは検討する自治体が増えている。本報告では地方都市における「まちなか居住」に関連する課題を整理し、各自治体が取り組む支援策の特徴と問題点を明らかにしたい。 2.大都市での都心居住と地方都市のまちなか居住  東京など一部の大都市では、バブル崩壊後の地価下落、企業・行政の遊休地放出、不良債権処理にともなう土地処分などによりマンション開発の適地が増加した。さらに、都市計画法で高層住居誘導地区が導入され、それによる容積率等の規制緩和によって増加した超高層マンションを都心においても手ごろな価格帯で取得可能になったこと、都心居住の利点が見直されてきたことなどによって、都心部で居住人口が増加に転じてきた。   他方、地方都市では中心市街地の人口空洞化への対策として、まちなか居住の推進が課題になっている。地方都市においても中心市街地でのマンション開発は2000年代に比較的多くみられたが、依然として強い戸建て志向と郊外での安価な住宅供給により、相対的に地価の高い中心市街地ではこうしたマンション開発地区以外は人口の減少・流出が続いていることが多い。   大都市の都心部、地方都市の中心市街地のいずれにおいても、それぞれの郊外に比べて日常生活の利便性は相対的に低く、とりわけ買い物難民に代表されるモータリゼーションに対応できない高齢者世帯は負担が大きく、公共交通の利便性が低い地方都市ではより深刻な状況にある。また、首都圏の一部の地域では、大手流通企業の新業態として、小商圏に対応したミニスーパーが立地展開されるなど、都心部の買い物環境は改善されつつある。 3.地方都市のまちなか居住の課題  地方都市の中心市街地は、大都市の都心部とは異なり、中山間地並みに高齢化が進展している。そのため、人口再生産の機能が極めて低く、周辺からの流入人口の増加に期待せざるを得ない。たとえば、鳥取県では年間約3,000人の人口が減少しているが、そのうち自然増減によるマイナスはおよそ1割で、それ以外は若年層を中心とした社会減である。つまり、進学や就職などを機会に県外に流出する人口が多く、県内のこうした機能が脆弱であることを示している。県庁所在地レベルの都市であれば中心市街地には一定のオフィス立地がみられるが、それ以下の都市では中心市街地の就業先としては商業施設や医療機関などが中心となり、多くの就業が期待できる製造業の多くは郊外立地であるために、多くの地方都市では郊外での居住の方がむしろ職住近接となる場合が少なくない。近年では、郊外でも工場の閉鎖などが相次ぎ、地方都市の雇用環境は極めて厳しい。  地方都市の中心市街地における商店街の衰退は言うまでもなく、公共交通の脆弱さも深刻化している。そのため、中心市街地に居住するメリットは、比較的整備されている医療機関や図書館など公共施設への近接性、古くからの街並みなど郊外にはない文化的な雰囲気など限定的で、相対的にリバビリティは低い。4.まちなか居住推進支援策の特徴と課題  地方都市の自治体は、中心市街地の居住人口減少の影響として、空き家・空き地、駐車場などの低未利用地の増加とそれによる税収の減少、コミュニティ活動の停滞、防犯上の課題などへの対応が新たに必要となっている。こうした課題解決のために、まちなか居住推進のための支援策が多くの自治体で導入されつつある。大別すると、①賃貸・売買など空き家等の情報提供、②持家取得のための支援、③賃貸住宅入居のための家賃補助、④中古住宅の流通促進等のためのリフォーム補助などである。こうした支援策を講じている複数自治体へのアンケート調査の結果、人口規模の大きい金沢市などでは多彩な支援メニューを用意して対応しているのに対し、人口規模の小さい自治体では主にリフォームへの補助が多く利用されていた。これは流入人口による住宅取得ニーズが影響していると思われる。また、多くの自治体の取り組みは国の財源(社会資本整備総合交付金)に依存したもので、そうした都市では事業の継続性が低いことなどが明らかとなった。   本研究は、平成24年度鳥取市委託研究調査「他都市まちなか居住施策実績調査」の成果の一部である。
著者
丸本 美紀
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100076, 2013 (Released:2014-03-14)

1. はじめに榧根(1989)によると、「気候は『寒暖』と『乾湿』によって表現できる」としている。奈良盆地と京都盆地はKÖPPENの世界の気候区分によると同じ温暖湿潤気候区に属し、日本の気候区分でも同じ瀬戸内気候区の東端に属している。また、地形においても両地域は盆地であるため、盆地気候を有していることも同じである。その上、両地域は隣接しており、その間は標高120mほどの丘陵で区切られているにすぎない。しかし、古代より奈良盆地では「干ばつ」が多発し多くの溜池が築造され、一方、京都盆地では夏の蒸し暑さや大雨・洪水というかなり異なった気候特性を持っている。そこで本研究では、両地域における気候特性、特に乾湿に注目し、奈良盆地と京都盆地の気候の乾湿がどのように異なるのか、気候学的水収支の解析を行った。2. 研究方法一般に、「ある土地における気候」を表現するものとして、気温と降水量の平年値から作成した雨温図やハイサーグラフなどが使用される。しかし、各気候要素の季節変動が、毎年平均値と同じような変動をするとは限らない。また平均値では災害となりやすい高温と低温、あるいは大雨と少雨が相殺されてしまう恐れがある。そのため本研究では、奈良地方気象台と京都地方気象台における1954年~2012年の日最高気温月平均値と月降水量を用い、平年値と毎年の年候的ハイサーグラフを作成し、比較を行った。また気候学的水収支は、Rf =P-E (Rf:流出量、P:降水量、E:蒸発量)で示される。本研究では、Thornthwaite法を用いて、 奈良と京都における最大可能蒸発散量と実蒸発量、水分余剰量、水分不足量を求め、両地域の年候的比較を行った。データはハイサーグラフと同じ奈良地方気象台と京都地方気象台の1954年~2012年の月平均気温と月降水量を使用した。3. 解析結果ハイサーグラフの平年値と毎年のグラフからは、平年値と同じような気候がほとんど出現しないことが分かった。また奈良と京都の比較では、おおよそ毎年冬季の気候が同じであるのに対して、夏季の気候、特に降水量が異なるということが分かった。Thornthwaiteによる蒸発散量の解析では、年間の水分余剰量はほぼ奈良よりも京都の方が多く、これが両地域における乾湿の差に反映していると思われる。このような乾湿の差は、両地域における瀬戸内気候の影響の違いと考えられる。今後は、両地域の気候において、さらに影響を及ぼしていると思われる盆地気候がどのように異なるのか、気温の年較差・日較差から解析を行う予定である
著者
山本 晴彦
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100241, 2014 (Released:2014-03-31)

1.日露戦争の開戦による臨時観測所の開設日露戦争に際して軍事並びに航路保護の目的から、1904年3月の勅令第60号により、中央気象台(現在の気象庁)の管轄のもとに5月までの間に臨時観測所が釜山(第1)、木浦(第2)、仁川(第3)、鎮南浦(第4)、元山(第5)に設置された。関東州においても、その直後の8月に青泥窪(第6、大連)・営口(第7)、翌年には戦火の拡大により4月には奉天(第8)、5月に旅順(第6・出張所)と順次設けられた。さらに、朝鮮には城津(第9)、樺太には九春古丹(第10、大泊)にも臨時観測所が開設され、計11ヶ所の観測所は日本の中央気象台臨時観測課)が統轄した。また、清国には臨時観測員を日本領事館に派遣し臨時出張所(芝罘、天津、杭州、南京、漢口、沙市)を開設した。2.東清鉄道(北満鉄道)による北満気象観測ロシアにより北満で連続的に気象観測が開始されたのは哈爾浜の1898年が最初で、少し遅れて1903年に鉄道沿線の数ヶ所で、その後測候所は漸次、数が増えていった。「北満農業気候概論」では、哈爾浜は1989年から、満洲里、海拉爾、免渡河、扎蘭屯、斉々哈爾、一面坡、牡丹江、太平嶺は1908年から、その他の観測所は全観測期間の観測資料が掲載されている。なお、一部の表では、博克図、安達、哈爾浜農事試験場、三姓、密門、愛河農事試験場、延吉も含め、計16ヶ所の観測所の気象概要が記載されている。多くの測候所は東清鉄道沿線に位置するが、三姓と延吉のみが例外的に沿線より外れている。1935年3月、北満鉄道は満洲国に譲渡されることとなり、これらの気象観測所と観測記録は満洲国中央観象台に引き継がれた。3.関東州における気象観測施設の変遷1906年7月、関東州に関東都督府を置く「関東都督府官制」が制定され、9月からは文部省が管轄していた中央気象台の臨時観測所は関東都督府へ移管され、大連、営口、奉天、旅順の臨時観測所は測候所に改称された。本台の大連観測所には技師1人、技手4人、営口・奉天・長春・旅順の各支所には技手1人のみの配置で、わずか9人で関東都督府観測所の本台と各支所の観測業務が行われていた。1926年6月には「関東都督府観測所」が「関東庁観測所」へ改称され、前年の1月からは南満洲鉄道株式会社の委託観測所での観測記録の整理、無線電信に関する気象業務が加わっていることから、徐々に増員が図られている。1929年9月には上層気流観測も加わっている。1934年12月には「関東庁観測所」が「関東観測所」に改称され、四平街でも観測所が開設され、1938年にはら関東気象台に改称され、技手が22名と当初の3倍弱の人員にまでに増員されている。なお、後述するが、満洲国中央観象台が1933年11月に創設され、奉天・四平街は移管、長春(新京)は新設されたが、周水子(大連飛行場出張所)、海洋島、貔山窩、普蘭店に測候所が開設されて、航空気象を中心に充実し、技師9人、属4人、技手45人の58人の体制となっている。4.南満洲鉄道株式会社における気象観測施設の開設1906年に設立された南満洲鉄道(株)は、1909年の熊岳城を初めとし、鉄道沿線の附属地に農事試験場・試作場・事務所を開設し、農業試験研究における業務内容の一部に気象観測を附設していった。1931年には、公主嶺、鳳凰城、鄭家屯、洮南、開原、斉々哈爾、敦化、林西、海龍、哈爾浜、海倫、遼陽の13ヶ所にまで拡充された。本観測記録は、「産業資料第35輯 第三次 満洲農業気象報告」など3冊に纏められ、中央観象台の気象資料にも掲載されている。5.満洲国中央観象台の創立と変遷 当初は関東観測所の長春(新京)支所を借りて気象業務を開始したが、関東軍参謀部の満洲国観象機関設置計画により、国防上きわめて重要な満洲北部の満ソ国境の黒河と満洲西部の海拉爾の地方観象台の整備を1934年に先行させ、翌年には新京の南嶺地区に本台が整備された。創設当初は、台長以下、技正3人、属官3人、技士6人のわずか13名の人員体制であり、日本の測候所クラスの規模であった。1935年には7ヶ所(富錦、綏芬河、満洲里、克山、赤嶺、興安、哈爾浜)、翌1936年は6ヶ所(牡丹江、索倫、延吉、承徳、密山、東寧)に観象台・観象所が開設され、定員も約60名まで増員されている。以降、毎年のように観測台・所の開設による測候職員等の増員が図られ、1940年には340名となり、北満の満ソ国境付近の鷗浦、呼瑪、佛山、羅子溝にも観象所が相次いで開設されている。これにより、1943年は458人、1944年には716人にまで職員が膨れ上がっている。
著者
松村 嘉久
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.171, 2014 (Released:2014-10-01)

1 はじめに 1980年代,満州国(1932-1945年)に郷愁を覚える日本人が,日中友好ムードのなか,中国東北を旅行するブームがあった(高媛2001)。それから30余年が過ぎ,満州国で過ごした記憶を持つ人々は,日本でも中国でも減り,これからの30年で確実にいなくなるであろう。満州国時代の観光資源に関しては,近い将来,その時代の当事者がいない状況で,見る側と見せる側とのせめぎあいのもと,編集され消費される時代が到来する。 満州国の首都・新京,現在の長春には,満州国時代の都市計画や地割が色濃く残り,当時の政府・軍部関係の近代建築を中心として,「観光」対象となり得る地域資源が多数存在する(周2011;邸ほか2010)。一般に,現代中国の近代化遺産は,植民地の負の「記憶」と重なるため,歴史的文化的な普遍的価値を評価しようとする動きがある一方,対外的にも対内的にも政治的な思惑や意味付けが埋め込まれ,不安定な状態に置かれ続けてきた。 本報告では,長春における満州国時代の近代遺産が現在,「観光」という文脈のもと,どのように保全・利用されているのか,加えて,見る側と見せる側のせめぎあいのなか,満州国時代の観光資源がどのように編集されてきたのかに迫りたい。2 満州国時代の観光資源の分布と保全・利用状況 人民広場や新民広場を中心に放射線状にのびる道路網,寸分狂わず南北軸を描く人民大街や新民大街。長春の衛星画像を見ると,日本や中国の伝統的都市にないヨーロッパ的な文法も取り込み,満州国の新首都を建設しようとした当時の技術者たちの意気込みが感じられる(越澤2002)。 満州国時代の近代建築が現存しているのは,旧市街地の人民広場や新民広場や文化広場の周辺,南北に走る人民大街や新民大街の沿道である。これら近代建築の多くは,補修保全され大学や病院などの施設として利用されていて,文物保護単位などで史跡指定はされているものの,一般の観光客は立ち入り難い状況にある。観光利用されているのは,太陽泛会所(旧満州国外交部)と松苑賓館(旧関東軍司令官官邸)くらいである。 中国共産党吉林省委員会(旧関東軍司令部)などは,外観の写真撮影すら阻まれる。革命政権の共産党は,旧権力の施設を接収利用したため,雲南省などの辺境でも,土司の要塞のような邸宅や大地主の立派な古民家の類も観光資源化されていない。 一方,旧市街地の中心の人民広場から,東北の外れに立地する「偽満皇宮博物館」と,西南の外れに立地する「長春電影制片廠」(旧満映)は,博物館として内外の観光客に公開されている。3 観光資源をめぐる諸相の動態 満州国時代の近代遺産を見る側は,満州国への郷愁を求めた80年代の日本人客から,90年代半ば以降,中国の国内観光客へと劇的に移行した。同時に,中国では国内観光振興と愛国主義教育との連動が強まり,見せる側の観光資源の意味づけも変容し,「愛国」・「抗日」・「中華民族」といったナショナリズムを喚起する言葉が目立つようになる(松村2000)。日本人の中国東北観光では,送り出す日本側での宣伝と,受け入れる中国側での解説に80年代からギャップがあり,90年代に広がった。 見せる側の論理に関して言及するなら,偽満皇宮博物館や長春電影制片廠などは,域外からの国内観光客の対内的なまなざしを意識して,満州国の負の記憶を増幅し,ナショナリズムを強化する象徴として,利用されている。しかしながら,その他の近代建築の多くは,それらを日常生活のなか淡々と利用することが,負の記憶を克服する手段であるかのように,全く観光資源化されていない。 2005年にマカオ歴史地区が世界文化遺産登録され,中国本土でも植民地支配と絡む近代化遺産を再評価する動きが高まった。近年,長春でも,対外的なインバウンド客のまなざしも意識しつつ,満州国時代の近代建築の普遍的価値を認め,観光利用しようとする機運も生まれつつある。日中双方で満州国世代がいなくなるなか,両国の未来を切りひらく議論は,満州国時代の遺産をどのように後世へ継承していくのかをめぐって,展開していくのかもしれない。参考文献越澤 明 2002. 『満州国の首都計画』ちくま学芸文庫. 高 媛 2001. 記憶産業(メモリアルインダストリー)としてのツーリズム─戦後における日本人の「満州」観光─. 現代思想29(4):219-229. 周 家彤 2011. 長春市における「満州国」遺跡群. 現代社会研究科研究報告6(愛知淑徳大学):97-111. 松村 嘉久 2000. 祖国中国をいかに見せるのか─観光,スペクタクル,中華民族主義─. 中国研究月報623:1-26. 邸 景一・荻野 純一 2010.『中国・東北歴史散歩─広大な大地に刻まれた近代日本の足跡─』日経BP出版.
著者
佐藤 将
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100003, 2013 (Released:2014-03-14)

1.研究目的と分析方法これまで都心部での地価の高さから郊外部に住居を構える子育て世帯が多かったが,バブル経済の崩壊以降は都心近郊に居住する子育て世帯が多くなり,居住選択の多様化がみられるようになった.このように住宅すごろくが変化する中でこれまでの進学・就職時点での居住地選択の研究に加え,子どもを出産した時点での居住地選択を把握する必要もでてきた.報告者はこれまで出生順位ごとの子どもの出産時点での居住地分析から子育て世帯のライフコースごとの居住地動向の把握に努めたが,全体での把握に過ぎず,さらに属性を分解して分析を進める必要が出てきた. そこで本発表では首都圏の対象は特別区に通勤・通学するする人の割合が常住人口の1.5パーセント以上である市町村とこの基準に適合した市町村によって囲まれている市町村とし,その上で0歳児全体を分母とした子どもを出産した時点での核家族世帯数を出生順位別かつ子育て世帯を専業主婦世帯と共働き世帯に分けて市区町村ごとに分析し,居住地選択の地域差について検討した.2.分析結果第1子出産時点の居住地分布について専業主婦世帯では都心中心部で低い一方,特別区周辺の市区において高いことがわかった(図1).共働き世帯では都心中心部で高く,さらに中央線,南武線,東急東横線沿線地域においても高いことがわかった(図2).第2子出産時点の居住地分布について専業主婦世帯では第1子の専業主婦世帯で高かった地域に隣接した地域において高く,共働き世帯では都内および郊外周縁部において高いことがわかった.3.まとめ分析結果を踏まえて出生順位ごとの居住地選択選好の特徴を考察する.第1子出産直後の専業主婦世帯は久喜市,茅ケ崎市と都心から距離がある地域でも高いことから子育て環境を重視した居住地選択をしているといえる.一方,共働き世帯は都心または都心アクセスの容易な沿線が高いことから,交通の利便性,都心への近さを重視した居住地選択をしているといえる.第2子出産直後の専業主婦世帯は第1子と比較して居住地選択が類似あるいは隣接地であることから第1子を出産直後から居住またはより良い住宅環境を求め,近隣から引っ越してきた世帯が多い地域であるといえる.共働き世帯は都心,郊外周縁部ともに職住近接を要因とした居住地選択をしているといえる. このように専業主婦世帯と共働き世帯にわけて居住地選択を見ることで子育て世帯の地域ごとの特徴をつかむことができた.
著者
大平 晃久
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100088, 2015 (Released:2015-10-05)

住宅営団は,1941年3月に「労務者其ノ他庶民ノ住宅供給ヲ図ル」(住宅営団法第一条)ために設立された特殊法人である.資本金は1億円でその全額が政府出資による公益性の強い企業体であり,1941年度から5か年で30万戸の供給を計画していた. 住宅営団が供給した住宅地について塩崎らは,戦後の都市化の中で良好な住宅ストックとなり,定住人口増加に寄与するとともに,公共施設や公園整備を促したことなどを評価している(塩崎・中山・矢田2000).また,戦前・戦中期の営団住宅地は軍需工場の近隣に多く,営団住宅地の研究は,総力戦体制下の中での地域像を解明するものになろう.さらに,都市形成の歴史地理的な解明としても営団住宅地の研究は意義を持つものと考えられる.   住宅営団による住宅地建設・経営の具体的な状況を全国的に把握できる資料として,1943年11月末時点での「一般会計住宅経営状況調書」(以下、「調書」)がある.ただし,営団はこれ以降の戦中も住宅地を建設し,戦後には戦災復興住宅地を数多く建設した.これらを含めた全国的動向は不明である. 営団住宅地の既往研究としては,特定の住宅地を扱うもののほか,大阪支所管内といった地域を対象に住宅地の位置や規模を復原・比定するものがある.九州の営団住宅地については,松尾らの研究がある(松尾・塩崎・堀田2003).ただし,住宅地19か所の位置を明らかにしたのみで,長崎県内では「調書」記載の5か所中,3か所にとどまる.加えて,営団住宅地は『新長崎市史』・『佐世保市史』などの地元自治体史でもほとんど取り上げられない.資料に乏しいことがこうした研究の遅れの原因といえるだろう. 本研究では,1941年~1947年の長崎県内で刊行された新聞を可能な限り閲覧し,住宅営団関連記事の収集を行った.合わせて,空中写真や住宅地図,土地台帳を用い,現地調査を踏まえて,長崎県内における戦前・戦中期の営団住宅地9か所(表1中の①~⑨,従来知られていなかったもの5か所),営団戦災復興住宅地4か所(⑪~⑭,同3か所)を明らかにした. 住宅地の位置,規模,残存状況は表1の通りである.住宅営団が供給した住宅地は,決して優れてはいないが特徴的な市街地として今日の景観に残るとともに,戦後につながるインフラ整備として明瞭なインパクトをもたらしたといえるだろう.
著者
田林 明
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.146, 2014 (Released:2014-10-01)

領域 北陸地方は古代の北陸道に由来する名称で、福井(若狭、越前)、石川(加賀、能登)、富山(越中)、新潟(越後、佐渡)の4県(7国)の範囲である。北端と東端は山形県境の念珠ヶ関と朝日岳、南端と西端は京都府境の三国岳と青葉山であり、東西の直線距離は約480kmもあるが、幅は最も広い能登半島付近でも100kmほどで、狭いところでは10~20kmにすぎない。2012年の面積と人口は25,208km2と539.1万で、それぞれ全国の6.8%と4.3%を占めた。自然環境 北陸地方では、海岸から他地域との境界の方向に平野と丘陵そして山地と配列されており、山地の面積が広い。境界地帯には北東から南西方向に、朝日・飯豊山地、越後山地、三国山脈、飛騨山脈と両白山地、伊吹山地と続き、険しい地形は他地方との人や物や情報の流動を妨げてきた。また、フォッサマグナが新潟県西部を南北に走っており、その西縁をなす飛騨山脈が日本海岸まで達していることから、北陸地方内の流動が大きく妨げられた。それ以外では、主要平野相互の境界となる山地や丘陵は、交通の大きな障害とはならなかった。陸地は他地方に対して閉鎖的であったが、日本海は他の地方に対しても、対岸のアジア大陸に対しても開かれていた。北陸地方はまた、世界有数の豪雪地帯でこれが人々の生活に大きな影響を与えてきた。積雪日数は平地で60日、山地で120日におよび、積雪量は平野部では50cm程度であっても、山地では4~5mにも達することがある。積雪は日常生活や稲作、水力発電などのために貴重な水資源であったが、農業やその他の経済活動、交通、日常生活の障害となってきた。地域の性格 北陸地方は日本の中央部に位置するが日本海側にあるため、中心部からの隔絶性が強い。また、日本中央部に東西に長く広がっている北陸地方は、西日本と東日本の漸移的な性格をもっている。新潟県と富山県は東京と、福井県は大阪との結びつきが強く、石川県は大阪とのほか東京との結びつきも無視できない。また、北陸地方は寒地型稲作の南限に位置するとされ、寒さや短い成長期間を克服するために歴史的に様々な技術改良が試みられた1つの拠点としての性格をもっていた。文化的に北陸地方が西日本の境界であることはよく指摘されている。例えば、富山・新潟県境と愛知・静岡県境を結ぶ線が、東西方言の境界とされている。また、経済活動についても独特な性格がみられる。積雪によって冬季の農作業が制限されるために、農業は水稲単作によって特徴づけられ、また、古くから出稼ぎなどの農外就業が盛んであった。1960年代からの工場進出によって、出稼ぎが通勤兼業に転換された。北陸地方では古くから地場産業が盛んであり、各地での織物業のほかに、刃物や食器、漆器や陶磁器、薬、桐ダンスなど多様な産業があった。さらに大正期から昭和初期にかけ電力と石灰石、石油や天然ガスなどの資源開発によって近代工業が発達した。江戸期から明治初期にかけては、高い米の生産性と北前船による物流の繁栄により、北陸地方の経済的地は高かった。しかし、明治期後半以降、太平洋側を中心とする経済開発が進められる、北陸地方の経済的地位は低下し、労働力とエネルギー、食料の供給地となった。 北陸地方の人間に共通する特徴としては、まじめさ、がまん強さ、人情の厚さ、近所づきあいの深さとよそ者意識の強さなどがある。また、北陸地方では浄土真宗が古くから栄えたところである。浄土真宗の教えは「弥陀の本願を信じて念仏となえることであり、勤勉に働き蓄財することが弥陀のみこころにかなう」とされた。1960年代までは浄土真宗が北陸地方の人々の生活に深く浸透しており」、これが北陸地方の人々の生活を規定する重要な要因であった。地域性とジオパーク 北陸地方の各県にはそれぞれ性格の異なったジオパークが立地しており、それぞれが固有の地域資源を活用してジオストリーをつくり地域振興を進めようとしている。さらには、北陸地方という1つのまとまった独特の地域の性格を活かしながら、ジオパーク相互の連携が図られるならば、より複合的で多様なジオパークの魅力を発信することができるだろう。
著者
大和 広明 高橋 日出男 三上 岳彦
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100057, 2012 (Released:2013-03-08)

筆者らの研究グループでは首都圏全体のヒートアイランド現象を空間的・時間的に高密度に観測するために,気温の観測網を展開している.この観測網を「広域METROS」と呼称している. この広域METROSのデータを使って,夏季日中に南寄りの風が吹いた日を対象に気温分布を解析したところ,首都圏の気温分布は海風の影響を強く受けていたことが明らかになった.典型的な海風前線が見られた日には,海風前線が関東平野の中央部を進行する13~15時には,海風が進入している沿岸域が低温となり,海風前線の前面で気温が高い傾向が見られた.このうち,東京の風下では特に他の地域に比べて海風前線の進入が遅く,風が弱く,気温が高かった.東京の風下に形成される高温域の中心は埼玉県川越市付近に位置していた.この時間帯には従来のAMeDASデータの解析から関東平野の高温の中心であるとされた埼玉県熊谷市付近でも周囲よりも気温が高く,午後の早い時間の内陸の高温域は,関東平野の中央部と北西部の2つの地域に分離されることが明らかになった.一方で、総観規模でやや強い南寄りの風が吹きやすい気圧配置の日の気温分布を解析したところ,海風前線が風の水平分布からはほとんど見られずに,午後の早い時間帯に川越市付近に顕著な高温域が見られずに,関東平野の北部に高温の中心が位置していた.このことから,川越市付近の高温域の形成には海風前線が関係していることが示唆された. 内陸の高温域(川越市付近と熊谷市付近)の気温が沿岸部と比較して相対的に一番高くなるのは,典型的な海風前線が見られる日であった.特に川越と沿岸部の気温が拡大する時には東京の風下で海風前線が停滞しているときであった. 内陸の高温域で気温が高くなりやすい原因として下降流の存在が考えられた.川越付近では海風前線の通過前に露点温度の顕著な現象が観測される.これは海風前線前面に存在する弱い下降流に対応していると考えられ,海風前線の進入が遅いことで川越付近では長く下降流域に存在することによって気温が高くなると考えられる.一方で,熊谷付近では海からの空気の進入が他の風向の日に比べて遅く,谷風循環の下降流が長く続くために,気温が高くなっていると考えられる.また,地上の観測データから移流量を計算したところ,高温域形成に移流の影響はないと結論づけられた.
著者
中條 曉仁
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100128, 2014 (Released:2014-03-31)

近年の離島をはじめとする農山漁村ではコミュニティの小規模高齢化や地域経済の空洞化が進み,それらをいかに維持あるいは補完するかが喫緊の課題となっている。観光まちづくりは,こうした地域の状況に対する有効な取り組みとして注目されている。また,都市農村交流という点でも重視されている。本報告では,条件不利地域であり隔絶性の強い離島における観光まちづくりの実践を取り上げ,それが進められてきたプロセスとそれを可能にする地域的条件,および課題を検討する。 対象地域として取り上げるのは,長崎県五島列島北部に位置する小値賀町である。同町は佐世保市から西に90kmの航路距離にあり,人口2,780人,高齢人口比率は45%(2012年)に達している。主な産業は漁業であるが,近年は魚価の低迷と担い手不足に直面するなど,地域問題がさまざまな面で顕在化している。 小値賀町で観光開発が始まったのは,1988年代に策定された「ワイルドパーク構想」であった。同町を構成する野﨑島において宿泊施設と野生シカを飼育する牧場が整備されたが,集客施設というハードを整備しただけの観光開発は来訪者の増加にはつながらず失敗に終わる。 1990年代の観光開発の失敗経験を受けて,2000年以降ソフト面を重視した事業が展開される。すなわち,町内に広がる西海国立公園と野﨑島の宿泊施設を活用した「ながさき島の自然学校」を開設(2000年~;自然体験活動事業)したり,欧州の音楽家を招いてコンサートや音楽講習会を開催する「おぢか国際音楽祭」が開催(2001年~)されたりしていることが挙げられる。こうした事業展開は,地域資源の魅力発揮と域外交流人口を拡大する基盤整備として位置づけられる。 こうした中で,小値賀町は「平成の大合併」という地域再編に直面する。人口減少と高齢化に伴う財政の悪化に対して,2002~2008年にかけて佐世保市や隣接する宇久町との合併が繰り返し模索され,町を二分する議論に発展し住民投票に至った。最終的に周辺市町とは合併せずに単独町政を維持することを選択したが,合併問題を契機に住民の多くが町の将来を考え,それが観光まちづくりへの意識を醸成させることになったといわれている。 観光まちづくりの主体となる組織として,NPO法人「おぢかアイランドツーリズム協会」が町内の既存の観光組合等を統合して2006年に設立され,観光窓口の一元化が図られた。さらに,2009年にはそれを母体としてさらなる事業拡大を目指して「小値賀観光まちづくり公社」が発足している。同組織はIターン者を担い手としてまき込みながら,NPOから引き継いだ民泊や修学旅行の受け入れ事業を拡大することに加え,町内の古民家を買収・改装して高付加価値の宿泊施設やレストランの経営事業を展開し,小値賀町における観光まちづくりの主体となっている。こうした事業展開は来訪宿泊客と観光収入の増加をもたらし,民泊参加世帯の増加や新たな雇用の創出など一定の地域的効果をもたらしている。小値賀町における観光まちづくりのねらいの一つは,観光を基幹産業となってきた漁業を補完する産業に育成することにあるといえる。 小値賀町の観光まちづくりは,域外交流人口の拡大から地域経済を維持・拡大するための展開にその性格を変化させ,地域経済に対して一定の効果が認められる。また,女性や高齢者が主要な担い手として関与しているという点でも重要である。しかし,観光まちづくりが経済的手段としてのみ担い手にとらえられているかどうかについてはさらなる検討が必要である。また,現状では集落が担い手となっているわけではなく,高齢社会化に直面するコミュニティの維持にいかに対応していくかが課題である。
著者
卯田 卓矢 益田 理広 金 錦 細谷 美紀 久保 倫子 松井 圭介
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.120, 2013 (Released:2013-09-04)

北陸地方は「真宗王国」とも称されるように浄土真宗(以下,真宗)の篤信地帯として知られている.真宗は「講」を基盤とした集団活動を通して教線を拡大させたといわれるが,北陸においても小地域単位での講の組織化が信仰を拡大,あるいは持続させていく上で大きな役割を果たした. 他方で,講のような信仰集団は,精神的な結びつきを生むだけでなく,村落の社会構造を反映し,村落社会の秩序や成員相互の紐帯を維持・強化する機能も有している.真宗の講組織においても,庚申講や山の神講などの信仰的講と同様に,村落社会と構造的に結びつていることが指摘されてきた.宇治(1996)は,村落の社会構造が寺御講や村御講の基盤となり,かつ講組織の維持にも深く関係すると述べている.また,宇治は村落構造を分析する視点として,集落内の階層性や血縁関係,社会組織などに着目している. そこで,本研究ではこの視点を踏まえ,富山県下新川郡入善町の道市地区を事例に,当地区の血縁・同族関係,社会組織との関係性から,講組織の構造とその持続性について明らかにすることを目的とする. 入善町道市地区は市街地の入膳地区から1kmほど西に位置し,人口は241人である(2012年9月現在).住民によると,ここ50年の間に当地区へ転入したのは2世帯のみであり,新住民が僅少であることが地区の特徴の一つといえる. 道市地区の社会組織は班,及び地区を単位とする組織から構成される.班は同族関係を基盤に形成され,冠婚葬祭などの諸行事において顕著に結びつく.一方,地区の組織は自治会と各種団体が存在し,住民は年齢ごとに地区の様々な行事の運営,維持に携わる.こういった活動は地区の伝統や文化を継承することの重要性を自然と吸収し,道市住民としての自覚を養うことに寄与している. 次に真宗の講組織について見ると,当地区では住民のほとんどが大谷派,及び本願寺派の門徒である.講組織は寺御講,村御講,報恩講が存在し,地区内の門徒はいずれの講にも積極的に参加している.その中で,村御講は毎月大谷派と本願寺派の門徒が合同で営み,講の当番は各戸の戸主が担当し,当番と同じ班の戸主の参加が慣例となっている.ここからは,班と深く結びつく形で村御講が営まれていることがわかる. 以上を踏まえ,講組織(村御講)の構造とその持続性について検討すると,村御講は班との構造的な関係性,班及び地区の社会組織の活動を通した住民意識,また真宗門徒が多数を占め,かつ新住民の僅少といった道市地区の地域性が重層的に結びつく中で,現在に至るまで維持されていることが確認できる. 当地区を含む北陸地方では真宗の篤信地帯という特性から,講組織の維持に対して信仰や宗教的側面に関心が向けられることが少なくなかったが,こういった地域の社会構造との関係についても注視する必要があると考えられる.
著者
山元 貴継 鎌田 誠史 浦山 隆一 澁谷 鎮明
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100329, 2014 (Released:2014-03-31)

報告の背景と目的  沖縄本島南部および宮古・八重山諸島を含む広い範囲で,「格子状集落」と呼ばれる,長方形状の街区群によって構成された集落がみられる.この「格子状集落」は,琉球王朝下で18世紀以降,既存集落の再構成や,集落移転などを伴う新規集落造成の中で,各地にみられるようになったとされる.そして,「格子状集落」の成立は,琉球王朝が実施した,土地はあくまで集落共有のものとして私有を認めず,住民には耕作権などのみを与えるとする土地旧慣「地割制度」が背景となっていることが指摘されてきた.土地を計画的に配分し,一定期間後にはその再配分を行う「地割制度」の前提のもと,四角形かつほぼ同面積の屋敷地を整然と配列させた街区群で構成された「格子状集落」が,琉球王朝下で広くみられるようなったという解釈となる. ただし「格子状集落」も,土地整理事業(1899年~)に伴い「地割制度」が撤廃されて土地の私有が進み,土地集積や細分化も進展して,さらには沖縄戦の被害も受けた.その沖縄戦の中で,土地整理事業以降使われてきた地籍図の多くが失われ,住民も大きく入れ替わっており,「格子状集落」の原型的な構造がどのようなものであったのかについて明らかにしにくくなっている.そこで本報告では,かろうじて土地調査事業当時のものとみられる地籍図面の写しを残す南城市玉城(旧玉城村)の前川集落などを事例とし,それらの図面をもとに,「格子状集落」に映る集落について,原型的な空間構造の復元を試みる.同時に,聞き取り調査および現地確認の成果をもとに,周囲の農耕地を含めたそれらの構成がいかなる条件のもとで形づくられた可能性があるのかを検討する.研究対象集落の空間構成  前川集落は,『球陽』などによれば,1736年に現位置に移すことを認められた.かつて住民の多くは,ここから1km以上離れた通称「古島(旧集落)」に居住していたが,以降段階的な住民の移住と,後の人口増加により,前川集落は現在のような規模に発達した.現在集落は,南向き緩斜面の標高45~90mにわたって長方形状の街区が整然と並び,そこに住宅が建ち並んで,まさしく「格子状集落」となっている. 土地調査事業に基づく地籍図面などを確認すると,宅地の増加や細分化以前の,同集落の原型的な空間構造を把握できる.そこでは,「格子状集落」とはいえ同集落内の街路は大きく曲線を描き,各街区が弓なりな形態をみせていたことがより明確となる.また,全体的には南北方向1筆×東西方向3~7筆で構成された「横一列型」街区が卓越するものの,とくに集落中央部などにおいて,南北方向が2筆となるといった不定型な街区もみられる.ほかに各宅地(屋敷地)は,地筆により約2倍の面積差があったことが明らかとなった.面積が大きく不定型な宅地は相対的に集落の中央部にあり,そこから上方・下方に向かうに従って,それぞれ正方形に近く定形で,比較的面積の小さい宅地群がみられるようになる.そして,これらの宅地群の周囲には同心円的に,集落の宅地部の幅の約2倍長さを半径とする範囲まで,農地が展開していた.その範囲の周囲を取り囲むように,第二次世界大戦の前後までは,「抱護」と呼ばれた松並木群があったとされ,その存在を示す山林地筆が環状に分布していた. こうした傾向を,国土基本図および航空写真の判読で明らかになる地形条件と重ね合わせてみると,集落のうち宅地は,緩斜面の中でも舌状になっている部分に発達していることが示される.そして,面積の大きい宅地は傾斜約1/10の斜面部分を中心に存在しており,比較的面積の小さい宅地群は,そこからより急斜面となる上方と,ほぼ平坦地となる下方へと展開していた.同様の構成は,八重瀬町具志頭(旧具志頭村)の安里集落などでも確認できる.また,宅地-農耕地の外側を囲む形になる山林地筆は,集落周囲の急崖や,わずかな高まりを丁寧にたどって分布していた. 「格子状集落」拡大のプロセス 以上の分析の過程においては,住民の多くがかつて居住していた「古島」の平坦地を離れて,この舌状の緩斜面に「格子状集落」を展開させた形となることが明らかとなる.そして,集落中央の面積が大きく不定型な宅地は,集落内でも最も早期に移住者の子孫が居住してきた屋敷地に該当する.そこを軸に当初は上方に,後に下方に街区を拡大させて現在の集落構成となったとする住民の認識をもとにすれば,集落の拡大はより急斜面での街区の造成を伴っていた.その過程において,東西方向の等高線に沿うような曲線街路が設定されることになり,かつ,各屋敷地内にあまり高低差をつくらないようにする,南北方向の幅を狭くした宅地群-「格子状集落」を形づくる「横一列型」街区が前提となったのではないかと想定された.