著者
伊藤 修一
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2005, pp.46, 2005

_I_ はじめに 地理学における女性就業に関する研究では,一般に,郊外居住の既婚女性が家事や子どもの世話と就業の二重の役割を担うために,「空間的足かせ」によって自宅周辺での仕事に就かざるを得ないとされてきた.その上,条件のよい仕事は郊外の自宅周辺には少なく,希望する仕事との間に「空間的なミスマッチ」を生じているとされてきた.それは既婚女性が短距離通勤者となり,雇用のミスマッチに陥った一因を示している.特に女性のジョブサーチの過程においては,人づての情報は広告や職業安定所に並んで重要な役割を果たしており,最近では,既婚女性の就業継続には別居の親からの支援が有効であるという研究結果もある.よって,こうした「空間的足かせ」や「空間的ミスマッチ」のメカニズムを解明するためには,既婚女性がどのようなパーソナル・ネットワークを持ち,それをどう利用しているかを明らかにする必要がある.本研究では,社会的資源としてのパーソナル・ネットワークの規模と空間的な広がりを明らかにし,その役割について考察する._II_ 研究方法と研究対象地域 分析には,2003年に実施したアンケート調査で得られた,206世帯の夫婦それぞれの回答結果を用い,16世帯からのインタビュー調査結果で補完した.妻の就業状態によるパーソナル・ネットワークの規模と空間的広がりの差異を分析し,彼女らのジョブサーチと育児支援に対する影響を検討した.千葉ニュータウンは当初,東京都心までのアクセスが悪かったこともあり,人口急増期が東京圏内でも遅く,1990年代前半になって夫婦と子どもからなる世帯が多く流入し,その世帯率が東京圏内の市区町村の中で最も高くなった.一方で,この地域の女性就業率は1995年に最も低くなったが,2000年には事業所の増加もあって上昇しはじめている.ただし,都市計画上ニュータウン内に立地できる事業所の種類は限られており,サービス業や小売業の事業所が集中している._III_ ジョブサーチと育児支援に対するパーソナル・ネットワークの役割 対象となった妻のうち107人が就業している.このうち35人が正規雇用者で,通勤距離は平均14.0kmであるのに対して,非正規雇用の72人の平均通勤距離は5.3kmと短い.正規雇用者のうち25人は,前住地から継続して就業しているのに対して,非正規雇用者のうち49人は現住地で再就業しており,移動距離も正規雇用者よりも長い.こうした職に就く際に,正規・非正規雇用者ともに,子どもを介した友人などの,他の世帯の人も現職に就く際の有力な情報源となっている.ただし,他の世帯の人を通じて就職した非正規雇用者の通勤距離は,正規雇用者の平均12.1kmと比べて,3.4kmと短く,それはニュータウンを東西に貫通する北総・公団線の駅間距離と対応している.「他の世帯の人」には,主に子どもを介した友人など,近隣の居住者が含まれている.実際,妻には「日ごろから何かと頼りにし,親しくしている人(以降,親友と略称)」が平均14人程度いるが,このうち,正規雇用者は市町村内に平均4.3人の親友がいるのに対して,非正規雇用者は8.5人と多い.正規雇用者の親友のうち5人は「職場の同僚」であるのに対して,非就業者の親友のうち5人は「(仕事以外の)組織の友人」というように,それぞれの日常生活を明確に反映したものとなっている.親友の中で,妻が世帯外で「就職や転職に関する相談相手」や「子どもの世話を依頼できる人」は,妻自身の親に並んで子どもを介した友人が多い.さらに非就業者のうち13人は,雇用のミスマッチを非就業の理由に挙げており,市区町村内での就業を希望しているものの,非正規雇用者ほど他の世帯の人からの情報を得ていない.これは,就業者と比べて居住年数が短いことと関係が深く,情報を得られる経路が十分に形成されていないことを示唆している.また,正規雇用者が市町村内の友人が少ない一因には,勤務時間が長く,非正規雇用者や非就業者と日常接触する機会が少ないことがある.そのため,正規雇用者からの求人情報はこの地域内に伝達されにくい.一方,育児支援に関しては,育児は自分で行うという意思が強いこともあって,多くは親にも子どもを預かってもらう機会がない.ただし,世帯内で子どもの世話をできない緊急時には,子どもを介した近隣の友人が重要な役割を期待されている.このように妻のパーソナル・ネットワークからみると,これまで議論されてきた「空間的足かせ」仮説は,既婚女性が,近隣に偏った日常生活の中で,利用可能な求人情報や人々との接触を利用するという戦略を採った結果として理解することができる.
著者
小竹 尊晴
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2018, 2018

I はじめに<br><br> 日本で1980年代から本格化した縁辺地域への移住の動きは,今日では20代・30代の若年層からリタイア層まで多様な世代に広がりつつある.近年では,観光業も含めた産業基盤の乏しい山村離島地域においても,若い世代が多く移住する現象が見られるようになった.このような経済的・政治的要因によらず生活の質などを求めて行われる「ライフスタイル移動」と呼ばれる移動形態においては,観光・滞在の経験や,地域に対する想像力が大きな影響力を持つことが指摘され(長友 2015),実際に農村居住の拡大は日本人の農村観の変化とも呼応している.しかし,地理学の既存の移動者研究において,移動における空間表象との関連性はあまり検討されてこなかった.<br><br>かかる状況を踏まえて,本研究では,縁辺島嶼地域へのライフスタイル移動における空間表象と実践の様相を移動者のライフヒストリーから分析する.事例地域として,地理的に近接しつつ産業基盤や観光業への依存度を異にする鹿児島県の沖永良部島・与論島を取り上げる.研究に際しては,2017年9月と10月から11月にかけて,沖永良部島・与論島の役場・観光協会などへのヒアリングとともに,2島への移住者および農業アルバイトに従事する滞在者12名のライフヒストリーを収集した.これに,自治体が発行・運営する移住者支援パンフレットやホームページに掲載されている移住者4名の事例を加え,分析を試みた.<br><br>Ⅱ 事例地域の概要<br><br> 本研究が取り上げる沖永良部島と与論島は,鹿児島県の奄美群島南部に位置する島々である.奄美大島などとは異なりいずれも隆起サンゴ礁由来の低平な島で,群島の中でも特に沖縄に近い文化的・自然的景観を有する.沖永良部島は,花卉・馬鈴薯・サトウキビ生産を基幹とする農業主体の島で,労働力としてボランティアバイト(通称:ボラバイト)をはじめとする農業アルバイトを積極的に利用している.また与論島は,1970年前後には日本最南端の離島として注目を集め,青い海と白い砂浜の美観を有する観光地として発展した.いわゆる「離島ブーム」が去った1970年代後半以降,入込客数はほぼ一貫して減少してきたが,近年では,若い女性にターゲットを絞ったSNSでの宣伝戦略が功を奏して,再び観光地としての脚光を浴びている.<br><br>Ⅲ 研究結果<br><br> 調査対象者16名の語りを分析した結果,以下のような結果が得られた.<br><br>まず移動の動機に関して,大別して「自己実現」,「逃避」,「放浪」の3種類の類型が確認され,それぞれに移動の仕方に特徴が見られた.自己実現は,島嶼空間において開業や地域活性化など自己の願望をかなえることを目的とするもので,地域をあらかじめ選定して来住する者が多い.逃避は,都会的な生活や日常的ストレスからの解放,精神的癒しを求めての移動で,漠然とした「(南の)島」を志向するものが多い.調査対象者の中では与論島に多く見られたが,聞き取りの中で,縁辺地域のボラバイト全般にこのような事例が見られることが明らかになった.放浪は,特定地域や定住への志向が強くなく,居住地を転々とするもので,比較的若い世代に多いほか,自分の趣味や気候的な相性に照らして地域を選ぶ傾向が見出だされる.<br><br>次に,語りの中に表れる空間表象と他の要素の結びつきに着目すると,各島の地域的特性との関連が示唆される.特に沖永良部島に関しては,「農業」を介して移動先に選択されやすいことが明らかになった.この背景には2つの理由が考えられる.1つ目は,観光も含めて知人のつてをたどった移動経路が多いことから分かるように,観光地としての沖永良部島のイメージが確立していないこと,2つ目は,町の移住政策の整備が遅れていることもあり,島への移住あるいは定着のプロセスにおいて,農業アルバイトを含めた農業体験が重要な影響を果たしていることである.一方農業を介した移住が一般的でない与論島では,農業との結びつきは見られない.またやや不明瞭ではあるが,与論島ではメディアや観光経験を通じての移住が多く見られる傾向があった.<br><br><br><br>参考文献<br><br>長友淳 2015. ライフスタイル移住の概念と先行研究の動向: 移住研究における理論的動向および日本人移民研究の文脈を通して. 国際学研究. 関西学院大学国際学部研究会. 4(1). 23-32.
著者
桐村 喬
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2020, 2020

<p><b>I 研究目的・方法</b></p><p>日本では2月下旬以降にCOVID-19の感染拡大が進み,3月には「行動変容」が求められるようになり,大都市を含む都道府県を中心に,知事による週末の外出自粛要請が行われた.4月には日本政府による緊急事態宣言が出され,罰則のある外出禁止ではなく,"自粛"という形で,人々の移動が実質的に制限されてきた.5月以降,感染者の増加が弱まってきたことで,5月25日には緊急事態宣言が解除され,6月19日からは政府による都道府県間の移動の自粛要請も撤廃されたが,7月に入って再び感染者が大きく増加してきている.</p><p>そこで,本報告では,位置情報付きTwitterデータを利用して,2020年1月以降の日本におけるTwitterユーザーの移動状況の時系列変化の実態を明らかにし,それによって「行動変容」をはじめとする人々の日々の移動に関する変化の一端を示すことを目的とする.分析に用いるデータは,米国Twitter社が提供するAPIを通して収集できた,日本国内の位置情報が付与されたTwitterデータのうち,2020年1月6日〜7月26日までのデータである.</p><p><b>II 都道府県別のTwitterユーザーの移動状況</b></p><p>同一市区町村内でのみ移動するTwitterユーザーに注目し,Twitterユーザーに関する市区町村内移動ユーザー率を1日単位で求める.市区町村内移動ユーザー率は,ある1日において,1つの市区町村内でのみ投稿しているTwitterユーザーの数を,その市区町村内でその日に投稿したことがあるTwitterユーザーの総数で割ることによって算出される.ただし,1日の投稿件数が2件以上のTwitterユーザーを分析対象に絞る.市区町村内移動ユーザー率は,都道府県を含めた複数の市区町村で構成される空間単位で算出することもできる.</p><p>図1は,2月上・中旬の日曜日である2日・9日・16日の都道府県別の市区町村内移動ユーザー率の平均値を1としたときの,各日の値の比を示したものである.3月29日には,埼玉県,東京都,神奈川県,山梨県,大阪府で1.50を超え,市区町村内移動ユーザー率の上昇が,外出自粛要請が行われた地域を中心に生じていることがわかる.5月6日の時点では,全都道府県で2月上・中旬よりも高い状況は続いている.都道府県間の移動自粛要請の撤廃後の6月21日には1.00を下回る都道府県も増えてきたが,大都市圏の都道府県では依然として高く,7月26日には大阪府で1.44,東京都で1.39となっている.</p><p><b>III 東京・京阪神大都市圏でのTwitterユーザーの移動状況</b></p><p>東京・京阪神大都市圏における市区町村内移動ユーザー率をみると,特に東京において平日に低く,休日に高いパターンとなっている.2月下旬以降の両大都市圏では,休日を中心とする市区町村内移動ユーザー率の上昇が確認でき,いずれも平日に低く,休日に高いという明瞭なパターンが確認できる.3月29日から5月下旬までは,おおむね京阪神よりも東京のほうが高い傾向にある.5月16・17日を最後に,両大都市圏の市区町村内移動ユーザー率が80%を超えることはなくなっており,平日に低く,休日に高い傾向を維持しつつも,徐々に低下してきている.</p><p>次に,昼間を11〜16時台,夜間を0時台と19〜23時台として,それぞれの大都市圏全体と,各大都市圏内のうち,2015年の昼夜間人口比率が100以上の市区町村(中心地域)とそれ以外の市区町村(周辺地域)ごとに求めたユーザー数をもとに,夜間ユーザー数に対する昼間ユーザー数の比率を求める.2020年第2週(1月6〜12日)の平日を100とした指数を求めると,東京では第10週(3月2〜8日)に上昇し,周辺地域では中心地域よりも高い値を示した.第14週(3月30日〜4月5日)以降,特に周辺地域において大きく上昇し,昼間のユーザー数が相対的に多くなってきたものと考えられる.第22週(5月25〜31日)以降は低下傾向に転じているが,第30週(7月20〜26日)の時点では,まだ第2週の水準にまでは戻っていない.京阪神については,おおむね似た推移を示しているものの,値の上昇は東京ほどではない.</p>
著者
経亀 諭
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2004, pp.8, 2004

1.はじめに<br><br> 都市内部および大都市圏の構造変容に関する研究の中で,小売業の分散の担い手としての大型店,特にスーパーの重要性が指摘されて久しい.地理学におけるスーパーの研究の中には,スーパーという業態そのものを固定的に捉えた上で店舗数や立地の変化を追うものや,スーパーの立地形態や販売形態の多様化を企業戦略から述べるものが多数を占めている.しかし,前者ではスーパーの店舗規模や形態(本研究では「業態類型」と総称) の多様化への言及がほとんど行われておらず,後者では都市の構造変化との関連についての言及が少ない.<br><br> そこで本研究では両者を統合し,都市内における各スーパーの店舗規模や形態の差異,またその変化の過程を明らかにすることを目的とした.<br><br><br><br>2.研究方法<br><br> 本研究では,札幌市を事例地域とし,商業統計基準の「食品スーパー」「総合スーパー」を対象店舗とした.具体的な研究方法は以下の通りである.<br><br> まず,わが国と札幌市におけるスーパーの発達史を概観し,業態類型を析出する.その際,GISを用いて1972・77・82・87・92・97・2002年の7年次の札幌市における各店舗の立地変化と,その他の社会経済的指標(おもに人口・小売業・交通に関する変数)との比較を行なう.また,より詳細な考察を行うために,2002年度の店舗データを用い,行要素を各店舗,列要素を各指標に基づいた立地特性とした因子分析を行なう.最後に,因子得点の業態類型ごとの平均値を比較し,業態類型ごと,あるいは業態類型内部における立地特性の差異を整理する.<br><br> なお,資料として,(株)商業界・『日本スーパーマーケット名鑑』『日本スーパー名鑑』各年度版,札幌市企画調整局・『札幌市の地域構造』各年度版,(財)統計情報センター・『地域メッシュ統計 平成7年度国勢調査,平成8年度事業所・企業統計調査のリンク』を用いた.<br><br><br><br>3.結果<br><br> 分析の結果,札幌市におけるスーパーの業態類型の差異に基づく棲み分けやその変化の過程は,以下のように要約できる.<br><br> 1)1960年代,主に徒歩による近隣商圏をもつ形の食品スーパー(「伝統的食品スーパー」,「ミニスーパー」)が人口分布にほぼ比例する形で分布を開始し,2)続いて1970年代には公共交通機関および徒歩によるより広い商圏をもつ総合スーパー(「伝統的総合スーパー」)が出店をはじめた.3)1970年代後半には,郊外化やモータリゼーションの進展に伴い,総合スーパーは次第に自動車による更に広い商圏をもつ大型の店舗を幹線道路沿いに立地させるようになり,4)店舗が増加するにつれて,1980年代には差異化のために商品の高級化・低価格化をはかる総合スーパー(「高級総合スーパー」「総合ディスカウントストア」)が出現しはじめた.5)大店法規制が緩和された1990年代には,食品スーパーの中にも自動車による広い商圏を特色とした大型の店舗が幹線道路沿いに立地しだし(「食品ディスカウントストア」「スーパー・スーパーマーケット」) ,6)旧来の公共交通機関や徒歩に依存する形の総合スーパーのうち品揃えが不充分であった小型のものがカテゴリーキラー等の影響からより採算の取りやすい大型の食品スーパーに置き換えられはじめるという傾向がそれを後押しした.また,7)大型の食品スーパーやコンビニエンスストアに商圏を奪われた小型の食品スーパーの一部は,24時間化等の対応で生き残りを図った(「コンビニエンスストア対策形食品スーパー」).<br><br> なお当日の発表時には,本稿で述べたスーパーの業態類型および立地展開の変化に加え,既存の小売業や人口の分布の変化との関連性についても更なる検討を加え,より詳細な結果を報告する予定である.
著者
岩間 英夫
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

1.はじめに<br> 東海村は、東日本大地震の津波で東海原子力第2発電所の発電機3基のうち1機が冠水した。外部電源が復旧したため、かろうじて危機を回避できたが、人災が起こっても不思議ではなかった。<br> 発表者は、これまで鉱工業を中心とする産業地域社会形成の研究を行なってきた。本研究の目的は、その視点から、日本の原子力産業のメッカである茨城県東海村を研究対象に、原子力産業地域社会の形成とその内部構造を解明し、かつ原子力産業との問題点を指摘することである。<br><br>2.東海村原子力産業地域社会の形成<br> まず、東海村への進出決定の背景を捉える。次に、原子力産業の集積では、1957年8月、日本原子力研究所東海研究所において日本最初の原子の火が灯った。1959年3月には原子燃料公社東海精錬所が開所し、核燃料の開発、使用済み燃料の再処理、廃棄物の処理処分の技術開発を本格化した。1962年、国産1号炉(JRR-3)が誕生した。1966年7月日本原子力発電㈱がわが国初の商業用発電炉である東海発電所の営業運転を開始した。1967年4月、大洗町に高速増殖炉用のプルトニウム燃料開発・廃棄物処理の実用化を目指した大洗研究所、1985年4月、那珂町(現、那珂市)に那珂核融合研究所が発足した。2005年10月、日本原子力研究所と核燃料サイクル開発機構が統合して「独立行政法人日本原子力研究開発機構」となり、本社が移設された。 これによって、日本原子力研究開発機構の本社事務所を中核に18の原子力施設が集積、4,386人の職員が研究開発・運営する「日本の原子力産業のメッカ」となった。<BR><br> 2013年5月現在、東海村の人口は3万7883人で、東海村発足時からは約50年で約3.3倍に増加した。<BR><br><br>3.東海村原子力産業地域社会の内部構造<br> 日本原子力研究所の内部構造は、国道245号線に沿った事務所を中心に、臨海部の砂丘地帯に生産(研究開発)機能、国道245号線から原研通りに沿って阿漕ヶ浦クラブ、原子力センター、諸体育施設、原研診療所のサービス機能、そして最大規模の長堀住宅団地、荒谷台住宅団地からなる居住機能が東海駅に近接して造成された。住宅団地の中央部には、商業機能として生活協同組合の店舗・売店が設けられた。このように、日本原子力研究所はその事務所を中心に生産、商業・サービス、居住の3機能からなる1極型圏構造を展開した。同様に、原子燃料公社東海精錬所、東海原子力発電所にも1極型圏構造が展開した。これらの3公社によって、東海村の原子力産業の内部構造は多極連担型となった。<br> 2005年に統合すると、日本原子力研究開発機構の本社事務所を中心に、大洗研究所、那珂研究所も含めて、広域にわたる一大原子力研究開発センターを形成した。その内部構造は、日本唯一の原子力産業による総合的研究開発の1核心(多極重合)型圏構造となった。<br> これらの結果、東海村の原子力産業地域社会は、日本原子力研究開発機構本社を中核とする、海岸部と村の外縁部に生産地域、村の中央部に位置する常磐線東海駅を中心とする商業地域、商業地域に隣接して公営住宅団地や企業社宅、そして周辺に拡大する職員の持ち家と日立市・ひたちなか市の工業都市化による宅地化が重なって住宅地域が形成した。<br><br>4.まとめ(原子力産業地域社会の形成と問題点)<br> その結果次のことが明らかとなった。<br> 1. 日本唯一の原子力産業による総合的研究開発型の1核心(多極重合)型圏構造を形成した。しかし、 これは一般的産業地域社会の内部構造であって、核の危険性と安全性を大前提として配慮した原子力産業地域社会の展開とは言えない。<br> 2.1956年の候補地選定条件においても、津波に関しては全く触れていなかった。アメリカからの原子炉導入を含めた安全神話が先行し、日本の自然環境の特性をも踏まえた日本人による原子力の主体的研究が欠落したまま今日に至っている。<br> 3.東日本大震災後義務づけられた避難区域で換算すると、20㎞圏内の警戒区域で人口約90万人が、半径120㎞圏に放射能が拡散したら、首都圏を含む約2000万人が避難しなければならない。もはや避難が現実的に無理であるとするなら、東海村は原発などの危険施設は除去して対応する段階にきている。
著者
石川 義孝
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.13, 2010

<B>外国人の移動研究の重要性</B><BR> 日本が現在直面している人口減少は、労働力人口の減少や経済的活力の衰退を招き、場合によっては、従来のコミュニティの消滅につながる深刻な問題である。そのため、こうした窮状を救う打開策の一つとして、外国人の流入が検討される必要がある。外国人の移動率は、概して日本人より高く地域人口の変化への影響が大きい。それゆえ、日本への新規入国外国人あるいは日本在住外国人が、いかに移動を行い、国内の特定の地域を居住地として選択しているのかに関する研究が、重要な意義を持っている。<BR><BR><B>個票データの必要性</B><BR> わが国における外国人データの主要な出典である『国勢調査報告』において、外国人の掲載データが近年次第に詳しくなりつつあるのは歓迎すべきことであるが、総人口(あるいは日本人)に関するデータの詳しさには、まだ遠く及ばない。これが、わが国における外国人研究全般の遅れの有力な原因となっている。とりわけ、地理学においては移動が重要な研究テーマであるが、『国勢調査報告』には外国人のODデータが全く掲載されていないため、上述したような課題に取り込むことができない。<BR> この問題点を打開するために、筆者は2004年春に総務省統計局への申請を開始し、同年12月に2000年国勢調査の外国人約131万人のうち、約11万人分の個票データのサンプルを入手した。このデータを用いた研究成果は、既に石川(2007:197-319)に所収した4論文にまとめている。時間的制約から、ここでは、第9章「わが国在住外国人による都道府県間移動からみた目的地選択」(K.L.リャオとの共著)のみ簡単に紹介したい。<BR><BR><B>分析結果</B><BR> この論文は、外国人の国内人口移動、具体的には都道府県間移動の特徴とその規定要因の解明を行っている。主な特徴としては、名古屋圏や中部地方に位置する製造業の強い県への大きな転入超過が目立っている一方、東京圏への転入超過はさほど大きくないこと、国籍別では、主要4国籍のうち、製造業の雇用機会への敏感な反応を示すブラジル人の移動率が他の国籍より移動率が明らかに高いこと、教育水準別では、学歴が上昇するほど、移動率が高くなる傾向があること、などを指摘している。さらに、それまで住んでいた県に残留するかあるいは離れるかという選択と、離れると決めた外国人による目的地の選択に、それぞれ二項ロジットモデルと多項ロジットモデルを適用した。その結果、前者の選択では、国籍・年齢・教育水準という個人の属性や、新規流入者との競合や同一民族集住の吸引力という場所の属性が重要であり、後者の選択では、距離などの空間的分離度や都道府県の規模という要因の説明力がきわめて大きく、これに雇用機会や同一民族集住の吸引力という要因の説明力が次ぐ、という知見を得た。<BR> こうした知見を『国勢調査報告』に掲載されている集計化されたデータの分析から得ることは、ほとんど不可能であり、個票データの利用によって初めて可能となった。<BR><BR><B>個票データ利用の意義</B><BR> 個票データの意義は、非集計データとしてそのままの形でも使えるし、集計化しマクロデータとしても使えるため、きわめて多様で柔軟な分析が可能となることである。例えば、小地域別に集計しGISソフトを使って、詳細な地図を描くこともできる。<BR> 個票データは個人単位のデータなため、使用者は被調査者のプライバシー保護に充分な配慮が求められる。とはいえ、2007年5月の統計法の全面改正により、オーダーメイド集計や個票データの提供といった形で、わが国の公的統計の二次的利用が拡大することになり、2009年4月から統計局所管の統計調査のサービス等が開始されたことは、地理学をはじめ多くの分野の研究者にとって朗報といえよう。この概略については、例えば、総務省統計局のホームページ(http://www.stat.go.jp/info/tokumei/index.htm)を参照いただきたい。<BR><BR><B>文献</B><BR>石川義孝編 2007.『人口減少と地域―地理学的アプローチ』京都大学学術出版会.
著者
竹内 裕希子 ショウ ラジブ
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.79, 2010

1. はじめに<br>2009年8月に発生した台風8号(MORAKOT/モーラコット)は、台湾南部・高雄県甲仙郷小林村が村ごと土砂によって埋没するなど、台湾全土で死者・行方不明者が600名を超える災害となった。台湾は島国であり、その内陸部の多くは山岳地域である。台北などの都心部も含めて、多くの地域が斜面を有しており、台風等による豪雨災害、土砂災害への対応は必須である。現在台湾では、テレビによる災害情報の伝達やハザードマップの作成、災害直後の住宅危険判断指標など、日本の防災技術を取り入れた対策が一部で進められている。<br><br>2.リスクコミュニケーションの必要性<br>自然災害の防止は、ハード対策とソフト対策が併用されて成り立つ。ソフト対策の充実には、住民・地域・行政間において、平常時に防災に関する情報の共有と理解、信頼関係の構築、防災における役割分担等のリスクマネジメントが重要である。このリスクマネジメントを支える方法の一つがリスクコミュニケーションである。リスクコミュニケーションは、個人・集団・組織間のリスクに関する情報と意見の相互的な交換過程であり、リスクコミュニケーションの効果に影響を与える要因は、送り手・受け手・メッセージ内容・媒体の4つに集約することができる(吉川,1999)。<br>リスク情報(リスクメッセージ)の一つとしてハザードマップがある。日本においては、その認知と利用に関して多くの研究が行われており(例えば、竹内2005)、その提示方法や利用方法、配布方法等に問題点を提示している。しかし、2009年に兵庫県佐用町で発生した災害後の調査結果からもこれらの問題点が改善されているとはいえず、ハザードマップに記載される内容を理解する防災教育の場の設定や、地域に見合った行動計画を立案する過程がリスクマネジメンに求められている。<br><br>3.調査概要<br>調査対象地域である台湾中部・雲林県・嘉義県では、2009年台風8号災害にて死者・行方不明者40名、多数の家屋破壊、道路破壊が発生した。また2008年にも大規模な土砂災害が発生しており、雲林県・嘉義県の土石流危険地域では、試験的に土砂災害ハザードマップの作成・公開を行っている。著者らは2009年並びに2010年に雲林県並びに嘉義県内の4つのコミュニティ208世帯を対象としたアンケート調査を実施し、168世帯より回答を得た。アンケート項目は、住民の災害情報の理解と受け取り手段、災害前・後の行動、今後の防災対策、地域における信頼性に関するものであり、これらの結果から、リスク情報の提示方法とリスク情報を活用するための防災教育、またリスクコミュニケーションを行う利害関係者(ステークホルダー)の抽出とその関係性について明らかにした。<br>本発表では、アンケート調査結果と該当地域におけるリスクコミュニケーションの実施概要について報告する。
著者
平井 幸弘
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2021, 2021

<p><b>1. ハザードマップの基礎情報としての地形分類図参照の意義</b></p><p></p><p> 2011年3月の東日本大震災では、避難時にハザードマップを過信することの弊害や、マップそのものの限界が指摘された。これに対し鈴木編(2015)や地理学会災害対応委員会(平井ほか、2018)では、ハザードマップを真に有効な地図として使うには、マップ作成の基礎情報となっている地形分類図や土地条件図への理解が重要で、マップ利用の際にそれらを参照することを強く推奨してきた。</p><p></p><p>一般に利用可能な地形分類図として、地理院地図には土地条件図、治水地形分類図、土地分類基本調査の地形分類図等が整備されている。しかしこれらはそれぞれ凡例が異なり、災害リスクについての具体的な言及がないために、ハザードマップと併用する際には専門的な知識や経験がなければ困難であった。そこで最新の地理院地図(ベクトルタイル提供実験)では、「身の回りの土地の成り立ちと自然災害リスクがワンクリックで分かります」とうたい、地形分類図の各地形をクリックすると、その場所の「土地の成り立ち」と「自然災害リスク」について解説が表示されるように工夫されている。</p><p></p><p></p><p></p><p><b>2. 地形分類図を参照する際の問題点</b></p><p></p><p> 地理院地図での地形分類図の整備は進化してきたが、以下に述べる2つの重大な問題がある。一つは、「自然災害リスク」の解説が、地形要素ごとに一般的な記述で定型化されており、必ずしも実際の現場のリスクを示していない点である。自然災害のリスクは、同じ地形でもそれぞれの場所・地域によって異なるので、一般的・定型的記述は、それぞれの場所での実際の災害に対して、誤解や避難の判断ミスを招く恐れがある。例えば、関東平野中央の加須低地花崎付近は、台地面が河川氾濫堆積物の下に埋没しかけている場所で、ローム層に覆われた更新世堆積物が島状の微高地を作っている。地理院地図の地形分類図ではそこは「台地・段丘」と表示され、自然災害リスクとして「河川氾濫のリスクはほとんどないが、河川との高さが小さい場合には注意」と表示される。現地では、この微高地と沖積面との比高はほとんど無く、微高地上に築かれた戦国期の城の一部が、厚さ1m以上の河川堆積物に埋もれ、洪水の影響を強く受けてきたことがわかる。加須市の洪水ハザードマップでも、ここは「最大浸水深が0.5〜3.0m未満の区域」とされ、近隣の小学校の3階以上に避難するよう記されている。この場合、地形分類図を参照することはかえって混乱を招きかねない。</p><p></p><p> 2つ目の問題点として、ベクトルタイルの地形分類図の元データは主に「数値地図25000(土地条件)」と「治水地形分類図」(更新版)であるが、これらが作成されているのは都市部、平野部の一級河川沿いの非常に狭い範囲に限られ、近年水害や土砂災害が頻発している河川上流部や支流、山間部は未整備という点である。これに対し国土地理院では、全国を広範囲でカバーしている土地分類基本調査の地形分類図を使用して、地形情報の整備・提供を目指している(2018~21年)。しかしこの地形分類図は、縮尺が1/5万で、作成された時期がおもに1970年代と古く、また凡例が図版ごとに微妙に異なり多種・多様である。そのような地図をベクトルタイルのベースマップとして全国的に整備した際、どうすればハザードマップの参照すべき情報として有効なものになるだろうか?</p><p></p><p></p><p></p><p><b>3. ハザードマップの実践的活用のために</b></p><p></p><p> 地理院地図のベクトルタイルの地形分類図の利用は、一般的な防災教育などでは非常に有益であろう。しかし実際のそれぞれの場所におけるハザードマップの参照情報として活用するためには、さらに工夫が必要と考える。すなわち災害には地域性があるために、まずはハザードマップを市町村レベルの広い行政区ではなく、地域コミュニティの範囲で整備すること、そしてそこでの過去の災害履歴や近年の土地改変などを踏まえ、地形分類図で示されるその場所の地形情報と、想定される災害との関係をしっかり把握することが重要である。そのためには、それぞれの地域のことをよく理解し、地形や災害に関する専門的な知識を持った人材が、その作業に関わることが必要であろう。それはまさに、現在各地で活躍している自然地理学研究者が、地域の人と一緒に現場へ出て汗をかくと言うことではないだろうか。</p><p></p><p></p><p><b>文献</b></p><p></p><p>鈴木康弘編(2013)『防災・減災につなげるハザードマップの活かし方』岩波書店</p><p>平井幸弘ほか(2018)防災の基礎としての地形分類図. 地理63-10.</p>
著者
村山 良之 小田 隆史
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2021, 2021

<p>1 東日本大震災における大川小学校の被災</p><p></p><p> 2004年3月,宮城県第三次地震被害想定報告書が公表された。同報告書内の宮城県沖地震(連動)「津波浸水予測図」(https://www.pref.miyagi.jp/uploaded/attachment/95893.pdf)によれば,石巻市立大川小学校(当時)や付近の集落(釜谷)までは津波浸水が及ばないと予測され,同校は地区の避難所に指定されていた。1933年昭和三陸津波もここには到達せず,1960年チリ地震津波についても不明と,この地図には記されている。しかし,想定地震よりもはるかに大規模な東北地方太平洋沖地震による津波は,大川小校舎2階の屋根に達し,釜谷を壊滅させた。全校児童108名のうち74名(津波襲来時在校の76[MOユ1] 名のうち72名),教職員13名のうち10名(同11名のうち10名)が,死亡または行方不明となった(大川小事故検証報告書,2014による)。東日本大震災では,引き渡し後の児童生徒が多く犠牲になった(115名,毎日新聞2011年8月12日)が,ここは学校管理下で児童生徒が亡くなった(ほぼ唯一の)事例であった。</p><p></p><p>2 大川小学校津波訴訟判決の骨子</p><p></p><p> 2014年,第三者委員会による「大川小学校事故検証報告書」発表の後,一部の児童のご遺族によって国家賠償訴訟が起こされた。2016年の第1審判決では,原告側が勝訴したが,マニュアルの不備等の事前防災の過失は免責された。しかし,第2審判決では事前の備えの不備が厳しく認定され,原告側の全面勝訴となり,2019年最高裁が上告を棄却し,この判決が確定した。</p><p></p><p> 同判決における学校防災上の指摘は,以下の通りである(宮城県学校防災体制在り方検討会議報告書,2020を一部改変)。</p><p></p><p>① 学校が安全確保義務を遺漏なく履行するために必要とされる知識及び経験は,地域住民が有している平均的な知識及び経験よりも,遙かに高いレベルのものでなければならない(校長等は、かかる知見を収集・蓄積できる立場にあった)。</p><p></p><p>② 学校が津波によって被災する可能性があるかどうかを検討するに際しては, 津波浸水域予測を概略の想定結果と捉えた上で, 実際の立地条件に照らしたより詳細な検討をすべき 。</p><p></p><p>③ 学校は,独自の立場から津波ハザードマップ及び地域防災計画の信頼性等について批判的に検討すべき。</p><p></p><p>④ 学校は,危機管理マニュアルに,児童を安全に避難させるのに適した避難場所を定め,かつ避難経路及び避難方法を記載すべき。</p><p></p><p>⑤ 教育委員会は学校に対し, 学校の実情に応じて,危機等発生時に教職員が取るべき措置の具体的内容及び手順を定めた 危機管理マニュアルの作成を指導し,地域の実情や在校児童の実態を踏まえた内容となっているかを確認し,不備がある時にはその是正を指示・指導すべき。</p><p></p><p> 災害のメカニズムの理解と,ハザードマップの想定外を含むリスクを踏まえ,自校化された防災を,学校に求めるものである。</p><p></p><p>3 大川小学校判決と地理学が果たすべき役割</p><p></p><p> 大川小判決確定を受けて,「在り方検討会」は,2020年12月「宮城県学校防災体制在り方検討会議報告書」を発表し,判決の指摘や従前の取組を踏まえて,以下の基本方針を提示した。</p><p></p><p>① 教職員の様々な状況下における災害対応力の強化</p><p></p><p>② 児童生徒等の自らの命を守り他者を助ける力の育成</p><p></p><p>③ 地域の災害特性等を踏まえた実効性のある学校防災体制の整備</p><p></p><p>④ 地域や関係機関等との連携による地域ぐるみの学校防災体制の構築</p><p></p><p> ここにある③だけでなく,4つの全てにおいて,学校や学区の災害特性について学校教員が適切に把握できることが前提となり,専門家や地域住民との連携が求められる。そのためには,災害に対する土地条件として指標性が高い「地形」の理解が有効かつ不可欠である。このことは,地理学界では常識と言えるが,学校現場(および一般)には浸透していない(小田ほか, 2020)。ハザードマップの想定外をも把握できるよう,たとえば「地形を踏まえたハザードマップ3段階読図法」(村山,2019)等の教育が求められよう。</p><p></p><p> 大川小判決は,教員研修や教員養成課程において,地理学や地理教育が果たすべき役割が大きいことを示している。2019年度からの教職課程で必修化された学校安全に関する授業や免許更新講習等において,また,高校で必修化される「地理総合」において,地理学および地理教育は,最低限必要な地形理解や地図読図力の向上に貢献し,もって学校防災を支える担い手を増やしていく必要があると発表者らは考える。</p>
著者
河野 忠
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.83, 2006 (Released:2006-05-18)

大分県には84ヶ所,総数にして400体ほどの磨崖仏が存在しており,日本全国の8割近くの磨崖仏が集まっているといわれている.これまでの湧水調査の中で磨崖仏には必ずといってよいほど湧水が見られたので,便利な指標として利用していた.従来,磨崖仏の造立は密教との関係を指摘され,深い信仰心から造立されたといわれていたが,水の存在から磨崖仏をみた研究は知られていない.石像文化財保護の観点からみると,磨崖仏に湧水が存在する事は風化が早まる可能性があり好ましい事ではない.にもかかわらず,大分県の磨崖仏に湧水が存在する事は,そこに何か理由があるのではないかと考え,磨崖仏と湧水の悉皆調査を開始した.これまでに54ヶ所の磨崖仏を訪れ,湧水の存在を確認した結果,確実に湧水が存在するものが35ヶ所,湧水跡のみられたものが16ヶ所,存在しないもの3ヶ所となった.未調査の磨崖仏が30ヶ所ほどあるものの,9割以上の磨崖仏に湧水が確認された.しかも湧水のない3ヶ所の磨崖仏は,移動可能な石仏と横穴式墳墓に彫った磨崖仏であった.従って,調査した磨崖仏には必ず湧水が存在するといってよい.磨崖仏における湧水の存在理由は自然科学的には次のように説明できる.大分県には9万年前に噴火した阿蘇の溶結凝灰岩が大野川流域を中心に堆積し,各地に垂直の懸崖を形成しており,磨崖仏の格好の造立地を提供している.溶結凝灰岩はよい帯水層ともなっているので,多くの湧水が見られる事も確かである.磨崖仏に湧水が存在するその他の理由としては,制作者の硯水(作業の合間にとる水)と磨崖仏への閼伽水等が考えられる.製作現場での実質的な問題として,飲み水がなければ長期間にわたる磨崖仏製作は不可能といってよいだろう.また,閼伽水は神仏に毎日欠かさず供えるもので,近くに水場がなければならない.閼伽は密教と密接な関係を持つ言葉であり,磨崖仏に塗られている赤い塗料である水銀から作る朱(しゅ,アカ)にも通じている.しかも大分県には水銀産地である事を示す丹生地名が3ヶ所も知られている.このことから,大分県の磨崖仏は密教の影響を強く受け,水の存在に対する感謝の念と実用的な問題から,湧水の存在する場所に造立されたと考えるべきである.また,大分県外でも磨崖仏に湧水が存在する例は多く,海外の磨崖仏(中国のキジルや莫高窟など)にもその例が見られる事は特筆すべきであろう.
著者
長谷川 直子 横山 俊一
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

&nbsp;<b><u>1. </u></b><b><u>はじめに</u></b> 地理学ではある場所を訪れてその地域を現地で学び理解する巡検という活動を盛んに行う。一方観光は、同じくある地域を訪れる活動だが、増すツーリズムでは特に、その地域の風土や文化、地理を学ぶという活動に結びつかない形で行われることが多い。旅行の中に巡検的要素を入れられれば、その旅行が直接的な地理の普及につながる手段になりうるのではないだろうか。演者は昨年表参道~原宿周辺の学生向け巡検の際、当該地域に対する旅行と巡検の認識の違いについて調査し報告を行った(長谷川2015)。今回は大学の授業の中で、巡検と旅行を両方行い、その融合系としての地誌的視点を取り入れた旅行ガイドブックのサンプル作成を行ったので、その成果を報告する。 &nbsp; <b><u>2. </u></b><b><u>授業の概要</u></b> 授業はお茶の水女子大学の地理学コース向けの地理環境学演習Iという科目で、4学期制の1学期に1日2コマ(1コマは90分)連続で8週間で終了するという授業である。2コマ連続の授業の利点を生かし、現地調査を3回取り入れた。履修学生は18名であった。授業は、はじめに古今書院の巡検虎の巻(東京都地理教育研究会2002)の千駄ヶ谷から原宿のページのエリアと情報を基本として、これに掲載されている情報に肉付けする形でスポットを分担して調べて室内報告をしてもらい、後日2週かけて実際にそのエリアを巡検した(分担したスポットについて、担当学生が案内者を務めた)。その後、旅行者としてこのエリアを訪れた場合にどのようなコンセプトでどこを周りたいかを室内報告してもらい、翌週実際にその場所を訪問してもらった。最後に、巡検で学んだ地域の情報と旅行とを融合させた旅行ガイドブックのサンプルを各自が作成し、最終回の授業で発表するという形で授業は終了した。 &nbsp; <br> <u>3.</u><u> 旅行のテーマ</u> 各学生の旅行プランのテーマとしては、緑、市販のガイドブックにはあまりないところをめぐる、明治神宮と外苑をつなぐルートを作る、あえてファッションとグルメ以外を訪ねる、写真を趣味とする人向けコース、ドラマのロケ地、アート、文房具、ライダー、青山霊園へ旅行者を向かわせる試み、変わった建物巡り、アニメ、等である。緑と癒し、緑とアートなどの複合形もあった。市販のガイドブックでは定番の、買い物やおしゃれといったテーマを中心としたのは1名だけであった。この時点ですでに一般的な視点からはかなり離れていることが伺える。 &nbsp; <b><u><br>4.地誌的視点を取り入れた旅行ガイドブックのテーマ</u></b> &nbsp;学生の作成した旅行ガイドブックサンプルはそれぞれ以下のようなテーマで作成されていた(作成者の意図を説明)。1)都心の緑と癒しを求めて、2)オタク文化を訪ねて(聖地巡礼など)、3)原宿・表参道の意外な魅力発見の旅、4)日本の歴史を歩いて感じるコース、5)ブラタモリファンに捧ぐ表参道さんぽ、6)子どもと楽しむ明治神宮・神宮外苑、7)ハイセンスな街 表参道で自分磨きをしよう、8)原宿・青山 歴史と散歩の旅、9)じゃらんじゃらん千駄ヶ谷、10)月曜日に巡る美術館・アート巡り(月曜日には美術館の休館日が多いため、その日でも巡れる場所を提示)、11)ハカマイラーのための歴史散歩(青山霊園は良いスポットなのに市販のガイドブックではことごとく無視されているので、なんとか青山霊園に人を呼び込めないかという工夫の成果)、12)表参道・青山の建物めぐり(変わった建物が多い) &nbsp; <br> <u>5.</u><u>学生作成のガイドブックから見えてきたこと</u> &nbsp;学生主体の地誌的視点を取り入れたガイドブックは以下のような特徴を持っていた。 ・&nbsp;&nbsp; 地誌的視点を取り入れつつも話題となっているスポットを取り入れている(聖地巡礼、ハカマイラー、文具カフェ、ブラタモリ、パワースポットなど) ・&nbsp;&nbsp; 様々なターゲット層を扱っていた ・&nbsp;&nbsp; 財布に優しい飲食店やスイーツ店、タダで見られる場所等を選定していた(逆に今人気の高額なパンケーキ店等は一人も取り上げていなかった) ・&nbsp;&nbsp; 通常の巡検でも利用できるポイントも記載(富士塚など) ・&nbsp;&nbsp; 女性的な紙面構成(ことりっぷ的) &nbsp; (本研究はJSPS科研費(課題番号26560154)を使用した。) <br> <b><u>参考文献:</u></b> 長谷川直子(2015)旅行と巡検の違いを探るー1日巡検授業実践報告&mdash;.お茶の水地理.54.31-34. 東京都地理教育研究会(2002)エリアガイド地図で歩く東京I東京区部西.101p.
著者
吉田 道代
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

<B>Ⅰ. 研究の課題</B><br> 難民とは,国際的な定義(1951年の難民の地位に関する条約および1967年の難民の地位に関する議定書)においては,政治的・社会的迫害を受けるおそれのために国外に逃れた人々と定められており,その保護が義務づけられている.この難民の地位を求める人々は庇護申請者とよばれ,その扱いは国によって異なっている.<br> 庇護申請者の処遇は国際的な課題であるが,その具体的な対応は庇護申請者がたどりついた国の問題となり,しばしば国内での政治的な論争の的となる.本発表では,庇護申請者の急速な増加を受けて政治的議論が巻き起こったオーストラリアを事例に,国内に設置された庇護申請者収容施設と地域住民との関わりに焦点を当て,庇護申請者に関わる排除と包摂の問題を論じることとする.&nbsp;<br><br> <B>Ⅱ.オーストラリアの難民政策の変遷</B><br> オーストラリアは,先に挙げた難民条約の定義のほか,「人道的配慮」の枠を設けて比較的寛容な難民の受け入れを行ってきた.その対象は主にオーストラリア国外で庇護を申請する人々であり,無認可で入国して申請する者には厳しい対応をとっている.1990年代には全ての違法入国者が収容所に収監されるようになり(Mandatory Detention),収容期限が廃止・無期限化された.また,庇護は永住と結びつけられることが多かったが,一時的庇護制度も導入された.<br> 庇護申請者への厳しい処遇は,1990年代末にボートで領海に入ってくる人々が増加するにつれ,さらに強化されるようになった.当時政権にあった自由党・国民党が規制を一段と強めたきっかけは,2001年8月にノルウェー船籍の貨物船タンパ号がクリスマス島近海で難破しかけていた漁船の433人の乗船者を救出し,オーストラリアに受け入れを求めたことであった.オーストラリア政府は受け入れを拒否し,隣国に受け入れを求める「太平洋解決策(Pacific Solution)」を採用した.国内にボートで到着したその他の人々については,都心部から遠く離れた地域に設置した収容所に収監し,コミュニティから隔離した.この徹底した排除・隔離の実践により,避難先としてオーストラリアをめざすボートピープルは前年の5516人から1人に激減した.<br> 「太平洋解決策」は国内では支持を受けたが,国際的には大きな批判を浴びた.そのため,2007年の選挙で労働党が政権につくと,ボートで領海に入った人々を国内に収容するよう政策を緩和し,収容施設のあり方も見直した.コミュニティに近い,より開放的な収容施設(Alternative Places of Detentions: APODs)を建設し,逃亡やコミュニティに害を及ぼす危険性の低い庇護申請者,特に子供を含む家族をそこに住まわせた.<br> しかし,こうした規制緩和は,ボートでオーストラリアに向かう庇護申請者の増加を促す結果となった.このため,労働党政権は規制強化の方針を打ち出したが,その増加に歯止めがかからず,2012年度には2万5173人がボートで領海に入った.2013年に政権が交代したのちは自由党・国民党連合党の政府がボートへの対応を軍の管轄下において規制を一層強化している.<br><br>&nbsp;<B>Ⅲ.ADOPをめぐる議論</B><br> APODの設置計画が2010年に発表された際,設置予定場所となった南オーストラリア州アデレードヒルズ地区にあるインバーブラッキー(Inverbrackie)では,地元住民から強い反対の声が上がった.インバーブラッキーの住民の多くはADOP建設反対の立場をとっていたが,ADOPは設置され,2014年7月現在も存続している.ADOPはこれまでの隔離された収容所と異なり,地元住民を雇用し,施設内で暮らす子供が外の学校に通い,コミュニティの人々との交流も行われている.反対者からは否定的な意見が公に発表されていたが,建設後は表立った反対意見は見られなくなったことが報告されている(Curtis & Mee, 2012).発表においては,庇護申請者への規制圧力が強まる中で,ADOPへの反対意見が沈静化していった理由を探り,地域住民との交流可能という特徴を持つ施設の庇護申請者包摂の可能性について論じたい.<br><br><B>文献</B><br>Curtis, F. and Mee, K. J. 2012. Welcome to Woodside: Inverbrackie Alternative Place of Detention and performances of belonging in Woodside, South Australia, and Australia. <i>Australian Geographer</i> 43(4): 357-375.<br>
著者
岩船 昌起
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2018, 2018

<b>【はじめに】</b>本発表では,気象庁が火山活動を24時間体制で監視している「常時観測火山」の一つである霧島山に注目し,観光の核心地の一つであるえびの高原での「災害危険区域」に相当する地区の設定の可能性と,観光と防災が両立できるための持続的な利用のあり方について検討する。<br><br><b>【調査地域】</b>霧島山は,大小20座以上の火山群の総称である。我が国最初の国立公園の一つとして1934年に指定された霧島国立公園の系譜を受け継ぐ霧島錦江湾国立公園の「霧島地域」と,その範囲がほぼ重なり,多くの観光客等が訪れる。えびの高原では,平成27年度で約70万人の観光客入込数を記録しており,えびの高原で自然散策,周辺の韓国岳や白鳥山等への登山,レストラン等の観光施設への立ち寄り等の利用行動が展開されている。<br><br>えびの高原に位置する硫黄山では,2016年12月6日14時から「噴火警戒レベル」が運用されている。噴火警戒レベルは,火山活動の状況に応じた「警戒が必要な範囲」と防災機関や住民等の「とるべき防災対応」が事前に協議されて,5段階で整理された指標である。このうち,特に立ち入り規制範囲を設けない「レベル1(活火山であることに留意)」,硫黄山を中心に概ね1㎞圏内を立ち入り規制とする「レベル2(火口周辺警報)」,概ね2㎞圏内を規制する「レベル3(入山規制)」,概ね4㎞圏内を規制する「レベル4(避難準備)」,4㎞圏を越えて居住域の住民に避難勧告等を行う「レベル5(避難)」に分かれており,実際,硫黄山では,火山性地震の多発や火山ガスの発生等の火山活動が高まりに応じて,レベル1からレベル2の引き上げが2015年以降時折行われている。<br><br><b>【霧島山えびの高原でのホテル誘致計画】</b>環境省では「国立公園満喫プロジェクト」に取り組んでおり,霧島錦江湾国立公園は,その先導的モデルとなる8か所の国立公園のひとつに選定された。これを受けて,宮崎県では,えびの高原の「環境省所管地の旧えびの高原ホテル跡地」に上質な宿泊施設を誘致し,周辺地域を含めたエリア全体の魅力向上を図ることを目的とした事業者の公募を平成30年度中に実施することを予定している。<br><br><b>【「災害危険区域」の火山地域での適用の可能性】</b>「災害危険区域」は, 1950(昭和25)年に公布された建築基準法第39条の規定に基づき,地方公共団体が条例で指定した「津波,高潮,出水等による危険の著しい区域」であり,災害防止上の必要性から,その範囲内では「住居の用に供する建築物の建築の禁止その他建築物の建築に関する制限」が行われる区域である。1945年枕崎台風,1946年昭和南海地震による津波,1947年カスリン台風等によって,低標高の居住地で甚大な被害を受けた経緯から,考案された「災害防止」のための手段の一つであろう。<br><br>一方,火山地域での防災対策の強化に関わり,1973(昭和48)年に「活動火山対策特別措置法」が施行され,これを改正する「活動火山対策特別措置法の一部を改正する法律」が2015(平成27)年12月10日施行されてきた。これによって火山周辺の居住地だけでなく登山者等も対象として,特に「常時観測火山」50火山を中心に活動火山対策の強化が一層進められている。しかしながら,火山は,元々人間の居住地から離れており,「災害危険区域」のように,災害防止のために「住居の用に供する建築物の建築の禁止その他建築物の建築に関する制限」が行われる区域が設定されることはなかった。<br>ここ数十年で火山地質学や火山物理学等の成果が蓄積され,これに基づき,火山地域での災害ハザードが明瞭に示されてきた。これに基づき「噴火警戒レベル」の設定が行われており,基本的に同心円で示された「警戒が必要な範囲」で,より火口に近い場所ほど,災害リスクが高い場所である。これを「災害危険区域」と同じ発想で考えるのであれば,「警戒が必要な範囲」のより火口に近い場所には,火山活動が活発な状況下で人間の立ち入りが規制されることを考えると,住居に準じる宿泊施設等の恒常的な施設を建設することについては,より慎重に,相当の議論が必要であるだろう。
著者
前田 一馬 谷端 郷 中谷 友樹 板谷 直子 平岡 善浩
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

Ⅰ.問題の所在<br>2011年3月に発生した東日本大震災から4年の歳月が経とうとしている。被災地域の復旧・復興のプロセスにおいては、まず災害に耐えうるまちづくりが課題とされ、講じられる復興策として、被災地域の建造環境の再構築が重要視されてきた。しかし、地域が培ってきた祭礼や文化活動の復興も同様に重要性を持っていることが、阪神淡路大震災の被災地域における研究で指摘されている(相澤2005)。そこでは祭礼に関わる住民の取り組みを取り結ぶ媒介として「記憶」が重要な役割をはたしてきた。 <br>本研究では、東日本大震災による被災地域である宮城県南三陸町志津川地区を対象として、震災後において変化を迫られ、消滅の危機さえある地域で行われてきた祭礼や年中行事にまつわる「記憶」を抽出した。さらに、そこで得られた情報を記録した「記憶地図」が、地域文化の継承に配慮した復興まちづくりに貢献する可能性を検討した。<br><br>Ⅱ.調査概要・研究方法 <br>対象地域において、古くから祭礼の運営や地域信仰の中心的な役割を担ってきた五つの神社(上山八幡宮・保呂羽神社・荒島神社・西宮神社・古峯神社)を取り上げ、それぞれの神社の関係者である禰宜・別当・世話人・氏子の計8名に対して聞取り調査を実施した。主な質問項目は、東日本大震災被災前の、①祭礼や年中行事の運営方法、祭礼における行列のルートの記憶、②祭礼とともにある場所・風景の「記憶」、③氏子の居住地区などコミュニティの広がり、④祭礼や神社と地域とのつながり、また、⑤震災後における祭礼の実態や神社と人々との関わりについてである。これら聞取り調査の結果得られた情報はGISを利用して地図上に記録し、祭礼にまつわる「記憶地図」を作成した。<br> また、聞取り調査における関係者の発話は音声データとして記録を行ない、それらは可能な限り文字データ化し、「記憶地図」と併せて利用した。なお、南三陸町における聞取り調査は、2014年8月26日から8月31日にかけて実施したものである。<br><br>Ⅲ.「記憶地図」が語るもの <br>志津川地区内の五つの神社は、五社会という組織を形成しており、上山八幡宮の宮司がすべての神社の宮司を兼任している。まずは、中心的な存在である上山八幡宮への聞取り調査の結果から作成した「記憶地図」(第1図)を検討した。秋の例大祭における稚児行列のルートをみると、この祭礼が子供の成長を地域社会にお披露目するという意味を持つことから、多数の氏子が居住する地区を取り囲むようなルートが、街をあげてさまざまな視点から調整されていた。例えば、志津川病院移転後には病室から稚児がみえるようにと、ルートを変更しており、地域社会の動向をふまえた柔軟性に富む運営が行われていた。また、上山八幡宮のルーツは保呂羽山と密接な関係があり、保呂羽山山頂、旧上山八幡神社の所在地と現上山八幡宮を結ぶ一直線のライン(祈りのライン)は由緒を確認する象徴的な景観上のしかけとなっている。 <br>以上のように、「記憶地図」は今まであまり可視化されることのなかった、地域で行われてきた祭礼の実態や意味づけされた場所の視覚的把握を可能とする。復興計画では、居住地の移転が計画されているが、神社へのアクセスは考慮されておらず、上山八幡宮の禰宜は、地域文化を継承する計画上の仕組みの必要性を主張している。すなわち、復興という建造環境を再構築する中で、祭礼に関わる人々の取り組みを取り結び、意味づけされた場所を新たに創り出すための装置が求められている。「記憶地図」は、これまでの祭礼で取り結ばれていた人々の想いを住民が自らの手で確認し、まちづくりの方向性を考えるための一つのツールになり得ると考えられる。<br><br>参考文献 &nbsp; <br>相澤亮太郎 2005. 阪神淡路大震災被災地における地蔵祭祀――場所の構築と記憶. 人文地理57-4: 62-75. <br><br>&nbsp;[付記] <br>本研究は、科学研究費・基盤研究C(25420659)「地域の文化遺産が被災後の復興に果たす役割に関する研究」(研究代表者:板谷直子)の助成を受けたものである。
著者
関 陽平 立花 義裕
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2018, 2018

天気予報などで耳にする気温の前日差は,体感温度に関係しており,寒暖差アレルギーや熱中症などの健康面への被害だけでなく,商品の売り上げ等に関連する経済的にも重要な指標である.<br> どの地域どの季節で前日差が大きいかを気候学的に理解しておくことは重要である.しかし,前日差の地域性・季節性について詳細に検討した研究例はない.今回は最低気温の前日差に着目して,地域性・季節性を気候学的に解析した結果を報告する.<br> 結論から記述すると,北海道の冬季は最低気温前日差が非常に大きい.そのため,北海道と比較して,最低気温前日差が大きい条件を考察していく.
著者
有馬 貴之
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2021, 2021

<p>Ⅰ</p><p></p><p> 2021年3月現在,日本には観光を学べる系学部・学科が100以上ある.それらは大きく研究中心型教育と産業人材育成型教育に分けられるが,いずれの教育においても学外(実社会)における体験との親和性は大変高い.そういったなかで,地域を多面的な要素から理解する地誌学も大変重要である.ただし,観光学は多様な学問領域の総合体であり,そのことを前提に地誌学の役割を考察する必要がある.そこで,本発表では複数の大学における学外観光教育実践の事例を報告し,観光教育と地誌学との接点についての議論の題材を提供する.</p><p></p><p></p><p></p><p>Ⅱ</p><p></p><p> 報告者はこれまでに複数の大学で教鞭を取ってきたが,それぞれの大学の学問や学びに対する姿勢や意義が異なるため,実施してきた学外教育の内容も異なってくる.以下では,それぞれの実施内容から地誌学との関連性を検討する.</p><p></p><p></p><p></p><p>1.</p><p></p><p> 首都大学東京自然・文化ツーリズムコースでの学外教育は,地理学調査の意味合いが強いものであった.具体的には,学生は各観光施設への聞き取り調査や施設の分布調査などを行った.地誌学(的思考)は事前知識としての箱根の地域把握において活用された.本事例は,既存の地理学教育の枠組みとして提供されたものであることから,「観光地域の把握方法の理解」が目的であり,地誌学的学習との親和性も高かった.</p><p></p><p></p><p></p><p>2.</p><p></p><p> 帝京大学観光経営学科は産業人材育成型大学であり,学生も観光産業への就職を希望して入学するものが多い.そのような場合,実践的な場,具体的には企業や地域団体と連携した教育が学生に好まれる傾向にあり,教員もそのような舞台を確保しがちである.学外団体との連携を前提とした教育では,学外団体のメリットとなることも求められ,これまでに街歩きアプリにおけるスポット紹介コンテンツの作成や,プロモーション動画の作成などを行ってきた.これらの学外教育では,「観光地域のプロモーションの理解」を目的とした.このような活動においても,地誌学は事前の地域理解の手段として活用された.ただし,本事例では,地域の理解と同等に,市場,つまり消費者(観光者)理解や,アプリや動画撮影などの広告に対する理解も学生に必要となる.そのため,地誌学的理解に割かれる時間は物理的にも減少した.</p><p></p><p></p><p>3.</p><p></p><p> 帝京大学観光経営学科での学外教育では学生企画によるツアーやイベント造成も行った.段取りとしては,ツアー・イベント作成事前には地域調査として資料収集や聞き取り調査などを行い,それを基にイベント企画や散策ツアーの造成を行うといものである.なお,自身が自らガイドを担う場合はガイド(プレゼンテーション)の練習を,ガイドを地域の方々に担ってもらう場合には,ガイド原稿の作成を行った.これらには地誌学的ストーリーの構築が必要とされた.また,ツアーやイベントにかかる他機関との調整や,ポスター等のデザイン作成も行った.これらの学外教育は「観光商品の作成過程の理解」を目的としており,地誌学的な地域理解にさける時間を減少させてしまった.そのため,風景の見方,資料収集の方法,地域の要点を理解する思考などは,当該科目とは異なるところで学習が必要となる.ところが,産業人材育成型の観光系大学において,地誌学的思考法を教授している大学は決して多くないであろう.</p><p></p><p></p><p></p><p>4.</p><p></p><p> 現在実践している学外教育は,築地場外市場商店街と連携した取り組みである.ここでは長期的な視点を持った地域のプロモーションやブランド化を目的に,現地組織の協力を経て実施している.これらは,これまでの教育実践の景観を組み合わせたものでもある.また,SNSマーケティングや,マネタイズの側面すなわち「ビジネス面をも考慮した地域経営の理解」を目的としている.地誌学的理解としては,現在,地域の歴史とともに店舗への聞き取り調査を実施している最中である.</p><p></p><p></p><p></p><p>Ⅲ</p><p></p><p> 地理学者としては,研究中心型教育の実践が自らの研究指向性と合致する.しかしながら,観光学における地理学という側面では,観光という文脈において,他の学問分野との接点を見出した教育が求められる.例えば,地誌学による地域理解だけではなく,その地域理解を消費者に伝達していく発想力やプレゼン力,マーケティングの知識も教育に必要になってくる.そのような知識を,地域理解の後に加える必要があるのである.</p><p></p><p> ただし,大学における学生の学習時間は有限である.そのため,純粋な学問的意義とかけ離れていくジレンマが観光教育における地誌学にはある.特に,産業人材育成型大学では,地誌学の重要性の比重は下がっているとも考えられる.上記の報告者の教育実践でも反省すべき点であるが,地誌学を地域理解の手段としてのみ捉えるのではなく,学問性として地域の課題発見の方法としての有効性や,ビジネス的視点との関連をより追求する等の新しい動きがあっても良いのかもしれない.</p>
著者
大和田 美香
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.43, 2010

1.はじめに<BR> 開発途上国への支援のなかでも、人材の能力強化や生産性向上につながる教育分野への支援の重要性は大きい。特に職業訓練は就業や起業と直接の関連性が高く、労働市場のニーズに対応した人材の育成と供給の役割を果たすことが期待される。本研究では紛争国の復興・開発期における効果的な職業訓練とは何かを、事例地域である南部スーダンの労働市場の把握もふまえ、訓練生の要望と、雇用主の意見の聞き取りを行った上で考察する。<BR><BR>2.南部スーダンにおける労働市場と職業訓練<BR> スーダン国では南部と北部の対立から第一次内戦(1954~1972年)、第二次内戦(1983~2005年)が起こり、2005年に南北包括和平合意が署名され平和が訪れた。現在、南部スーダンには自治権が認められている。労働人口のうち約8割を第三次産業、約2割を第一次産業が構成しており、第二次産業はわずかである(JICA, 2007)。インフラ整備が急務であることや、開発援助機関の本部の多くが所在することなどから今後復興・開発が進むうえで特に人材ニーズの高い業種は建設業、自動車整備業、ホテルサービス業であると考えられる。これらの業種の企業への聞き取り調査から、従業員の半数以上が外国人労働者であること、高い職位になるほど外国人労働者の割合が高くなること、人材の採用に関して英語の言語能力が重要であることが分かった。新たな国づくりが進められる中、技能労働の多くが外国人によって担われており、自国での技能を有する人材育成が必要である。また、紛争直後のため地域の住民が生計を向上させるための基礎的な技能訓練も求められている。このような要請から南部スーダンで日本の独立行政法人 国際協力機構(JICA)による「基礎的技能・職業訓練強化プロジェクト(英語名Project for Improvement of Basic Skills and Vocational Training in Southern Sudan, SAVOT)」が実施中である。公的訓練実施機関と民間訓練実施機関の能力強化を行っている。訓練卒業生への追跡調査(SAVOT, 2008)と満足度調査の結果、卒業生の72%が訓練後就業しており、雇用に貢献していること、59%で収入が増加しており生計向上に寄与していることが分かった。一方54%が長期あるいは短期の契約ベースで働いており、不安定な就業であることも分かった。今後の改善のための要望について、訓練卒業生からは起業の支援、より高いレベルの訓練の実施などが挙げられ、雇用主からは訓練期間の延長、実践を重視したカリキュラムの編成を望む意見が多かった。また、プロジェクトでは除隊兵士の社会復帰のための訓練も行われた。<BR><BR>3.おわりに<BR> これらの調査からプロジェクトでは、ジュバの雇用市場において、産業の現場で中核的な役割を担う部門従業員層と起業者層に人材を育成し送り出していることが分かった。また、南部スーダンにおける職業訓練の課題と提言として、(1)政策と資格制度が定められたうえで、(2)公的・民間訓練実施機関が人材の受け手である産業界との結び付きを強め市場のニーズに適したカリキュラム改訂をすること、(3)卒業生の起業支援体制を強化することが挙げられる。むすびに、紛争復興・開発期における職業訓練全般においては、復興期は必要な施設や機材を整備したり、指導員のやる気を引き出したり、運営スタッフの能力強化をしたりすることが特に重要である。また、開発期には訓練機関が自立するための収入創出活動の導入と指導員の質の向上が大切であることが指摘できる。
著者
松多 信尚 石黒 聡 村瀬 雅之 陳 文山
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.247, 2011

台湾島はフィリピン海プレートとユーラシアプレートの境界に位置し,フィリピン海プその収束速度は北西―南東方向に90 mm/yrと見積もられている(Sella et al., 2002).台東縦谷断層は地質学的なプレート境界と考えられ,その東側は付加した堆積岩や火山岩で構成された海岸山脈,西側は変成岩からなる中央山脈である. 台東縦谷断層は台東縦谷の東縁に位置する東側隆起の逆断層で,奇美断層付近を境に北部と南部に分けられる.南部は北から玉里断層,池上断層,利吉断層,利吉断層の西側に併走する鹿野断層などが分布する.これらの断層は逆断層がクリープしているとされ,GPSによる測地データ(Lee et al., 2003)だけでなく,水準測量(Matsuta et al., 2009)やクリープメータ(Angelier et al.,1986 etc)でそのクリープ運動の確認がなされ,20-30mm/yr程度の早さで短縮しているとされている.一方,台東縦谷断層は1951年にマグニチュード7前後の地震を立て続けに起こした.北部のセグメントは複数のトレンチ調査の結果,活動間隔が約170-210年程度と報告されている.南部のセグメントでは活動間隔が100年程度と推定され,2003年の成功地震が1951年の地震の次のイベントだと考えれば50年程度の可能性もあるとされる(Chen et al., 2007 ).玉里断層はクリープしている区間の北端に位置する.この断層は,1951年の地震では縦ずれ1.5m以上の地震断層として出現しているため,地表変形はクリープ運動と地震性変位の両方による.我々はこの断層を横断する30kmの測線で水準測量を2008年より毎年8月に実施し,玉里断層を挟む200mの区間で年間1.7cm,約1.5kmの区間で約3cmの隆起が2年間認められた.この運動が継続しているならば,過去30年間の累積変位量は1m近くなることが予想され,空中写真測量を用いた平面的な変位量の分布を得ることを試みた. 台湾における空中写真は最近ではほぼ毎年更新されている.我々は台湾大學所有の1978 年撮影の約2 万分の1 の縮尺の空中写真と2007 年撮影のほぼ同じ縮尺の空中写真を利用して航空写真測量を試みた.座標変換に用いるグランドコントロールポイント(GCP) は2007 年撮影の航空写真に関しては2009 年12 月に実測し,1978 年撮影の航空写真に関しては当時の三角点の測量記録を用いて補正した.それぞれの写真の座標を求めた後,ほぼ同じ位置の地形断面を測量し,地形断面を比較した. 我々は写真測量の誤差は絶対値では大きいが,地形断面上の相対誤差はより小さいと考え比較した. 我々は1978年の空中写真の同定に利用するGCPを得る必要があるが変位を受ける前の位置を実測することは出来ない.そこで,両年代に実測された三角点の座標差を利用して,1978年当時のGCPを推定した. まず,求めたいGCP点を三角点の近傍に見つけ,三角点とそのGCP点との相対位置は十分に小さく両者は同じ変位をしたと考え,2007年度の空中写真上で位置を計測した. 我々は空中写真判読から地形面を7段に分類し古い面からT1―T7とした.特に断層上盤側にはT3からT7までの5面が分布する.これらの地形の年代は不明であるが,堆積物の風化程度や赤色化の度合いなどから, T4面以下の離水年代は1万年前程度と推定される.対象地域南部の地域では断層運動に伴うと思われるバルジ状の地形が確認できるほか,分岐断層や逆向きの高角断層などがあり,複雑な断層トレースが認められる. その結果T4面はT7面に対して,変位が累積していること.逆向き断層についてはT4面で明瞭であるが,T7面では顕著でないことなどがわかった. 調査範囲北部の断面である,Line1-3は,30年間に断面図を比較すると上盤側が隆起していることが確認できた.一方南部の測線では,人工改変を除けばほぼ地形断面が重なり,北部と比較して,顕著な上下変位を認められない. これは写真測量の精度の問題か,変位量の分布に狭い範囲で地域差があるか今後検討が必要であり,新たに水準の測線を昨年設けた. 水準測量の測線はT7段丘上にある.この段丘面は台東縦谷断層と平行にブロードな背斜・向斜状の地形が認められる.この段丘を刻む東側から流れ出る支流は背斜軸を横断して先行谷化して本流と合流している.このことはこの背斜・向斜状の地形が変位地形である可能性が高い事を示す.この背斜・向斜構造は水準測量でも観測されており,普遍的な変形と考えられる.ただし,水準測量の結果は測線が構造と斜行しているため,断層形状の側方変化等を見ている可能性もあり,その検証のための新たな水準測線も昨年設けた.
著者
深見 聡
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2004, pp.17, 2004

_I_.はじめに 近年、まちづくりの新たな手法として、地域住民みずからが主体となって行政等と協働のもと「地域資源」を再発見し、それを発信しようというエコミュージアム活動が各地でみられる。まちづくりを進める上で不可欠な交流人口(観光客)の拡大につながるものとして、現代の多様化した観光形態に応えうるものとの期待も高い。 エコミュージアムと従来の博物館との相違は_丸1_主体としての住民の存在、_丸2_対象となる資料の分散範囲をテリトリーとする、_丸3_官民が対等の位置づけにあり、まちづくりに取り組むという3点に集約できる(新井,1995)。国内における動向もほぼこれに沿った形での運営がなされている。その先駆けは1989年の山形県朝日町における研究会発足にあり、2000年にはNPO法人朝日町エコミュージアム協会が誕生している。また、鹿児島県隼人町では地元の志學館と町生涯学習課などと住民が協働して築100年の駅舎を中心とした、決して数年前まで地域資源として一般には注目さえ集めなかった地域が、農産物の販売や散策マップの配布で地域資源が見直された。2004年にはJRの観光特急列車が停車するまでになっている。いずれも成功地といわれる地域に共通するのは、度合いの濃淡はあるにせよ上掲3つの要件を備えていることにある。しかし、これらのほとんどの事例は、農村地域(周辺地域)で展開されている(井原,2003)。エコミュージアムの定義からすれば、都市部での取り組みが少ないのは意外ともいえる。本研究では、都市のなかの過疎地域と言うべき旧中心市街地における活性化の手法としてエコミュージアムに注目し、地域住民の取り組みの模様や意識の実際を、参与観察法にもとづいて把握しその効果と課題を明らかにしていく。_II_.対象地域の概要 鹿児島市南部に位置する谷山地区は、1967年に鹿児島市と合併するまでは谷山市として国鉄谷山駅や市電谷山電停から南側にのびる国道225号沿いおよび周辺は商店街を形成するなど谷山市としての拠点性を持っていた。しかし、合併以後現在まで人口は約4倍の増加をみたが、それは郊外の新市街地の誕生の結果であり、旧市街地の停滞化は著しい。2002年に谷山TMO構想が策定されたものの、まちづくり手法として有効性を発揮するには至っていない。_III_.谷山エコミュージアムの確立に向けた動き エコミュージアムの対象地からみた旧市街地は、周辺地域にはない「地域資源」が存在する。たとえば、谷山地区には鹿児島市内唯一の19世紀建造の石橋が旧街道の河川に架かり、近世から近代にかけて塩田が広がっていたことを伝える塩釜神社がある。また、商店街には樹齢100年を超える保存樹がある。ところが、これらを一体のものと位置づけた固有の資源として、地域住民(とりわけここでは専門的な関心を抱く者を除いて地域住民という)が主体となり積極的に発信、すなわち活用してこなかった。以下、参与観察による成果を示す。住民みずからが「地域資源」を探すワークショップの開催 このような経緯を踏まえて、地元のNPO法人「かごしま探検の会」が常設の組織機能を担い、『たにやまエコマップ』作りをとおしたエコミュージアムの確立を図った。 ワークショップは2003年9月から毎月第2土曜日に計5回開催した。参加者は延べ62名で、その多くは高齢者と小中学生、旧市街地外の谷山地区に居住する者であった。毎回、ファシリテータとなるNPOのスタッフがおよそのルートを提示して、地域資源と感じたものに理由を添えて写真やスケッチに収め、散策後は各自がそれらをブレインストーミングしながら白地図1枚に集結させていった。とくに、子どもの視線がおとなだけでは見つけにくい、何ら変哲のないような空地や河川に棲む生き物に関心を向けさせ、遊び空間を実体験に基づいて記録していたことは特筆すべきであろう。
著者
山本 峻平 髙橋 彰 佐藤 弘隆 河角 直美 矢野 桂司 井上 学 北本 朝展
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2018, 2018

デジタル技術とオープンデータ化の進展によりデータベースの活用が注目されている。近年では、インターネット環境の充実により画像や写真に関するデータベースの制作が多くなってきている。例えば、横浜市図書館や長崎大学図書館における古写真データベースなどがあげられる。これらの写真は明治・大正頃の写真や絵ハガキを中心に構成されるが、当時の都市景観がわかるデータベースとして貴重である。発表者らも立命館大学において戦後の京都市電を主な題材とした『京都の鉄道・バス写真データベース(以下京都市電DB)』を公開している(http://www.dh-jac.net/db1/photodb/search_shiden.php)。京都市電DBの活用策としては市電車両を被写体としながらも当時の都市景観が背景として写りこんでいることから、景観研究や都市研究に活用できること、また、年代が戦後から廃線の1978年までの時代であり、記憶の呼び起こし、まちあるきや観光への応用が期待できる。<br>近年、まちあるきが人気を集め、テレビや雑誌などで特集が組まれ、関連する書籍が多く出版されている。その中で、景観の変化や復原、相違点を探すことが行われているが、過去の景観を示す資料は探しだすことは容易ではない。そのような資料の一つとして京都市電DBを活用することが期待される。<br>写真データベースに収蔵されている写真を現地に赴き照合することで、当時の景観との差異が発見でき、まちあるきのアクティビティとして楽しむことができる。また、まちあるきの利用だけではなく、当時の景観との比較から眠っていた当時の記憶が呼び起こされ、記憶のアーカイブなどの研究へも活用できる。<br>本研究は、写真データベースのまちあるきツールとしての有用性の検証を行うとともに、記憶を呼び起こすツールとしての有効性についても検証を行なう。<br>本研究では、国立情報学研究所の北本氏を中心とした研究グループが開発を行っている、アンドロイド・スマートフォン用アプリ、「メモリーグラフ」をアレンジし、「KYOTOメモリーグラフ」アプリを作成し、使用する。アプリには当時の写真が位置情報を持った形で収蔵されおり、それを基に撮影された場所に赴く。次に、スマートフォンの画面に当時の写真を半透明で表示することが出来るので、今昔の写真を重ね合わせ、当時と現在の同アングルの撮影が可能となる。また、撮影された写真には位置情報が付加され、撮影場所の地図による表示やGISと連動することができる。さらに、撮影した写真にはタグが入力でき、コメントや思い出などを入力することができる。これらのデータはスマートフォン内部だけでなく、サーバーに保存することができ、撮影された今昔の写真データや付加されたコメントなどのメタデータをアーカイブし蓄積することができるようになっている。また、当時の写真を現在の風景と重ねる行為は撮影位置や傾きなど撮影時の条件に近づけなくてはならず、当時の撮影者の追体験が得られる。現在、実証実験と位置づけ、プロジェクトメンバー及び近接の関係者数人を被験者として「KYOTOメモリーグラフ」を利用したまちあるきを数回実施する予定である。被験者にはこちらで用意したスマートフォンを貸与するほか、各自のスマートフォンを用いる。今回の実験は、グループで実施し、機器やアプリへの習熟度、安全性、行動観察などを検証する。