著者
保屋野 誠
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2004, pp.137, 2004

1.はじめに<br>都市開発には制度が大きく影響していることは言うまでもない.そこで東京における制度,ここでは特に「地区計画」を中心にその指定状況,運用等について検討していきたい.<br><br>2.都市計画における「地区計画」制度の位置<br>都市計画,都市開発,地区整備に関わる制度にはさまざまなタイプがあるが,大きくスポット型(ポイント;総合設計制度など),ストリート型(ライン;沿道地区計画など),ブロック型(ポリゴン;地区計画,土地区画整理事業,市街地再開発事業など)の3つに分けられる(参考:東京都『副都心整備計画』p.320).<br>地区計画は1981年4月に設けられた制度で,以降何度か変更が加えられている.一定規模以上の区域を対象とし,建築物の建築形態,公共施設等の配置などからみて,一体として地区の特性にふさわしい良好な市街地環境の整備・保全を誘導するため,道路・公園の配置や建築物に関する制限等を定める制度であり(東京都『都市計画のあらまし』),規制によって土地利用や街並み形成を誘導していこうとする,規制色の強い制度である.決定は地域の実情を知る区市町村が決定し,内容の一部について知事が同意することになっているため,自治体の方針が強く反映されると考えてよいだろう.<br><br>3.区による地区計画の運用の相違<br>東京都決定となる「再開発地区計画」以外の地区計画は,東京都区部で1981年から2000年までの間に158件指定されていた.うち,世田谷区が43件,次いで中央区が15件,練馬区が14件となっている.逆に少ない区は,文京区と荒川区は0件(再開発地区計画はそれぞれ1件),豊島区が1件(目白駅周辺地区,1998年),渋谷区と台東区が2件である.主な区についてみると以下のようになっている.<br>1) 千代田区<br>1988年に初めて指定があったが,その後も含めてオフィスビル建設を目的として設定された地区計画はない.特に1990年代以降は定住人口確保,住宅系の中高層化推進に重点がおかれている.<br>2)中央区<br>2時期に分けてまとめて指定されている.第一は1993年の隅田川西岸5地区であり,特にバブル期に地上げ,無秩序な開発の波に襲われた地区において,伝統的な産業の保護,近代化とともに,急務となった定住人口の維持・回復を図ろうとするものである.第二は1997年で佃・月島・勝どき地区であり,特に中高層住宅の確保が強調されている.<br>3)世田谷区<br>1983年から2000年の間に23区で最も多い43件が指定されており,1989年には8件,1993年には19件がまとめて指定されている.1993年に指定されたものは,区の特色ともいえる緑地や農地を適度に残しながら住宅との調和を図ることを目的にしているが,そこには都心区の地区計画で強調されて前面に出されているような定住人口確保は打ち出されていない.<br>4)江戸川区<br>1983年から2000年の間に15件が設定されているが,中央区や世田谷区と異なりまとめて指定されてはおらず,1983年から1994年まではほぼ毎年少しずつ設定されている.1980年代には都営新宿線各駅を中心とする地区計画は設定されたが,1990年代になると1980年代に設定された地区に隣接した地区も計画決定されるようになり,既に決定されていた地区と一体として都市計画を進めていこうとするものである.また,住宅地とともに農地も残されている江戸川区では街区形成が不整形となっている地区が多く,そのため土地区画整理事業が数件行われたが,これを機に,土地の細分化と乱開発を防止し,合理的な土地利用の推進を図ろうと地区計画が設定されたのであった.<br><br>4.まとめ<br>以上のように,同じ「地区計画」という制度でも区による違いが非常に大きく,積極的に活用されている区がある一方でほとんど使われていない区もある.また,区によっても指定のされ方が大きく異なっている.<br>
著者
大島 英幹
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.194, 2011

<B>I はじめに</B><BR> 商業中心地の階層構造の変化については、根田(1985)が小地域の事業所統計を、橋本(1992)が職業別電話帳を用いて分析しているが、データ作成・解析の作業量が膨大になる。本研究では、商業統計立地環境特性別統計編の商業集積地区別集計を用いた簡便な方法により、広範囲にわたり、多時点の変化を商業集積地区(大規模小売店舗を含む商店街)単位で把握した。<BR><B>II 研究方法</B><BR> 東京南西郊外の私鉄5路線のターミナル駅を除いた108駅について、駅周辺の商業集積地区の商品販売額が両隣の駅周辺よりも多い場合、「上位の中心地」とした(図1)。1979~2007年の間の6時点について、上位の中心地が隣の駅と入れ替わるかどうかを見た。<BR><B>III 中心地の階層構造の変化</B><BR> 2007年時点の上位の中心地41駅のうち6駅は、1979年時点では隣の駅の方が上位の中心地であった。中央林間駅の場合、商品販売額の増加が隣の南林間駅の増加を追い抜いている(図2)。湘南台駅と長後駅、新百合ヶ丘駅と百合ヶ丘駅も同様である。日吉駅の場合は、商品販売額が増加するのと同時に、隣の綱島駅の商品販売額が減少して入れ替わった。海老名駅と本厚木駅も同様である。菊名駅の場合、隣の大倉山駅と抜きつ抜かれつを繰り返している。<BR> これに対し、あざみ野駅の場合、商品販売額が増加を始めるものの、隣のたまプラーザ駅には追い付けなかった。相模大野駅と町田駅も同様である。<BR><B>IV 階層構造変化の要因</B><BR>階層構造変化の要因として、駅間距離、乗り入れ路線の増加、大型小売店の出店、都市計画の誘導、人口の密度および世代構成などが考えられる。<BR><B>参考文献</B><BR>根田克彦 1985.仙台市における小売商業地の分布とその変容-1972年と1981年との比較-.地理学評論58(Ser. A)-11 715~733.<BR>橋本雄一 1992.三浦半島における中心地システムの変容.地理学評論65A-9 665-688.<BR>
著者
助重 雄久
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

<b> <b>Ⅰ はじめに<br></b></b> 高度経済成長期以降、多くの島々では進学や就職を契機に島を離れる若年層が増加し、人口の再生産が困難となった。この結果、幼年人口が減少して小・中学校が統廃合され、産業の担い手がいなくなり、島の経済がしだいに脆弱化する、という道のりを歩んできた。<br> このような状況のなかで、いくつかの島々では児童・生徒の民泊受け入れや、地域住民と大学生との交流促進、若年層の国内移住(UIJターン)等の事業を積極的に推進し、島外から来た「若い力」を活かして活性化を図ろうとする動きがみられるようになった。こうした取り組みは、全国の農山漁村でも実施されており横並び感もあるが、島特有の地域性を活かした特色ある取り組みを進めた結果、島に来た若者たちが活性化に関与するようになった事例も見られる。本報告ではこうした事例の考察を交えながら、「若い力」を活かした島の活性化とその課題について論じる。<b> <br> <b>Ⅱ 体験交流型民泊による将来の「若い力」の養成<br></b> </b>山口県周防大島町では2008年に体験交流型観光推進協議会を立ち上げ、体験型修学旅行の受け入れを始めた。協議会では、瀬戸内海における漁業体験やみかん畑での農業体験等の体験交流プログラムを多数用意したが、主眼は体験よりも島民との交流に置き、体験者を「また島の人たちに会いたい」という気持ちにさせるよう気を配っている。<br> 実際、民泊体験者が後日、民泊先の家族を慕って再訪するケースが増えており、中学生のなかには、山口県立大島高校への進学を希望する者も現れた。体験交流型の民泊は高校生以下が対象であるため、体験者がすぐに地域再生の担い手にはならないが、短期的には体験者が再訪することで交流人口の拡大につながる。また、長期的にみれば、島に移住し島を支える人材が育つ可能性を秘めている。<br><b><b>Ⅲ 大学生・大学院生の学びの場としての島づくり<br></b> </b>長崎県対馬市では、韓国人観光客の増加とは裏腹に、少子高齢化や人口減少が加速し、集落機能や相互扶助による地域行事や作業等の継続が困難になってきた。こうした状況下で、対馬市は島外から住民とともに意欲的に活動してくれる人材を集めて、「人口の量」よりも「人口の質」を高める方向性を打ち出した。 <br> 2010年には総務省が制度化した「地域おこし協力隊制度」を利用して専門知識をもつ若者を募り、2013年までに8名の隊員が着任した。隊員はそれぞれの専門知識を活かして、ツシマヤマネコをはじめとする生物多様性の保全、デザイン力による島の魅力創出、ネットやイベントを通したファンづくり等の社会活動に従事している。<br> また、対馬は九学会連合や宮本常一の研究フィールドにもなり、多くの学問分野にとって学術的価値が高い島である。このため、学生や若い研究者に研究環境を提供すると同時に、島づくりにも参画してもらうことを目指している。2012年には「島おこし実践塾」が上県町志多留集落で開設され、全国から集まった学生や社会人が住民とともに地域再生活動に従事しはじめた。2013年からは「総務省域学連携地域活力創出モデル実証事業」の採択を受け、インターンシップや学術研究で滞在する学生や研究者の受け入れを行っている。<br><b><b>Ⅳ 島への移住者の役割と「定住」に向けた課題<br></b></b> 対馬の域学連携事業で学生たちのリーダー的役割を果たしている一般社団法人MITのメンバーは、移住してきた若手の生態学者や環境コンサルタント、国土交通省元職員等であり、島外からきた「若い力」が、さらに「若い力」を育てながら活性化に取り組むしくみが着実に根付きつつある。また、助重(2014)で報告した周防大島への移住者の多くも、前述の体験交流プログラムにも参画しており、ここでも「若い力」が「若い力」を育てる役割を果たしている。<br> ここにあげた移住者の多くはモラトリアム的な移住ではなく「定住」を目指している。島に来てから結婚した人や、安心・安全な環境下で子育てがしたくて家族ぐるみで移住した人も少なくない。また、島内で起業したり地域産業の再生に取り組んだりして、生計を立てようと努力している。<br> しかし、都市部から転入した若い移住者のほとんどは、都市での生活への未練もあり、極端に生活水準が低下すると島での生活にストレスを感じるようになる。 移住者が真の定住者として島の活性化の一翼を担うようになるためには、ここにあげた交流事業への参画を促すだけでなく、子どもの教育環境の整備や、物品購入のためのインターネット環境整備等、生活インフラの整備も進めて、ある程度の生活水準を確保することも重要といえよう。
著者
太田 弘
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

地理学は古代ギリシャ時代以来「諸科学の母」であった。近代においても地理学は諸科学中で最も先進的な「実学」として重要視された。我が国の幕末・明治における近代化でも、世界の諸事情を知ることは国民教育上、必須とされ、福澤諭吉の著した「世界國盡」(1869年発行)がベストセラーともなった。地理学はそれぞれの時代に対応した世界の最新情報を学ぶの役割を担っていたと言える。グルーバル化した現代においては、より重要視されることがあっても軽視されることはない。しかし、この20年間に及び高校では選択科目となり学習の機会が失われ、地理学軽視とも取れる「失われた20年」を迎えた。これは地理学研究、地理教育を担っていた我々の責任であるところが多い。来る2022年度から導入される高校新科目「地理総合」(仮称)では、現代世界の社会的ニーズを汲み、学習者の興味・関心を引きつける科目として再生される必要がある。小学館から出版された「名探偵コナン推理ファイル 地図の謎」は進歩の目覚ましい現代の地図の分野をよりわかりやすく解説する読本として計画された。解説部分には人類の歴史上、地理的発見を反映する世界認識や世界観の表現である地図が紹介され、地図は地理の学習上不可欠の素材となる。天文学上の地球の形や大きさの認識は現代では、最新のGPSや準天頂衛星測位によるGNSSの理解は必須である。最先端の地図作成技術やGIS、Google Earth & Mpasに代表されるWeb地図やカーナビなど、身近になった数多のデジタル地図の利用や住宅地図を盛り込まれる。さらに自然災害を想定したハザードマップ、旧版の地形図や空中写真から、居住環境を地盤条件や過去の地形環境にを知る「地理院地図」の利活用は新科目「地理総合」での「地図リテラシー」の重要な要件となる。当初、「名探偵コナン推理ファイル 地図の謎」は小学館の担当者から企画ではなく、全く別のテーマ「名探偵コナン推理ファイル 農業と漁業の謎」(2012年発行)の監修から始まった。筆者にとっては専門外のテーマであった農業と漁業を監修する中で、地図教育の追加出版を提案し、実現したテーマで結果である。この学習漫画シリーズの狙いはシンポジウムのテーマである「アウトリーチ」の定義から見ると「専門的な学術成果を専門外の人に説明する(狭義の)アウトリーチ」と「科学への親しみやすさ・楽しさを一般の人に伝える科学コミュニケーション」とを共に目指したものと言える。地図学(Cartography)は我が国では世界的な先進性を持ちながらも、欧米のそれとは異なる大学等高等教育で専門教育として少ない講座となった。筆者の恩師でもある野村正七は地図学における稀有な研究者であった。野村正七の「指導のための地図の理解」(1980年発行)は、将来、教職に就く学生に向けた地図学の最適の教科書であった。これは小学校段階から大学教育までを見据えた地図学習のテキストと言うことができるだろう。今回の漫画本は遠く野村先生の書には及ばないが、現代の最新の地図利用を誰にでも読める読本として企画できたものである。しかし、漫画を学習テキストとして利用することに一抹の躊躇がなかったわけではない。本書の出版から3年を経過した現在、地図の世界はGoogle Earthに代表される地図はインターネットの普及による「第四の波」の真っ只中にある。表面的に紙地図となって出版されている様々な地図も全てデジタル化され作製されている。「多種類少量出版」として地図が印刷・出版可能となった。GPSと連携し、精密レーザー測量技術によってより詳細に地形表現が可能となった。もはや読み手に読図を強いる地図ばかりではなく地図表現を考慮した多様な地図が登場している。その点で本書は読者(学習者)への「地図の理解」と「新たな地図利用」を学ぶ良き読本であると思う。小学生でもわかる地図教育の読本を目指した理由もここにある。現在、二刷を経て多くの読者を得ることができた。さらに出版後の地図界の進展を受けて、改訂版を計画中である。さらに広い分野の読者を「コナン」の力を借りて地図の普及を図ろうとしていると言える。福澤諭吉は「世界國儘」で、敢えて七五調の言い回しで記述し歌も作り、多くの人々に当時の世界地理事情に関心を向させ、当時のベストセラーとなった。ある意味、福澤も明治期の「地理学のアウトリーチ」の先駆者と言えるのかも知れない。
著者
大塚 俊幸
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2003, pp.2, 2003

_I_ 研究目的中心商業地縁辺部は、商業地と住宅地の双方を背後に擁することにより、多様な都市機能が複合した生活空間として再生する可能性を秘めている。従来、都市地理学では都市の内部構造について都市機能の地域的分化の観点から論じられることが多く、商業機能と居住機能が複合した生活空間という観点から中心商業地縁辺部について論じた研究は少ない。そこで本研究では、中心商業地縁辺部に焦点をあて、マンションの持つ多様な機能に着目し、店舗併用マンションの立地要因と周辺地域へのインパクトを明らかにするとともに、いかなる地域的要因が絡み合って中心商業地縁辺部の再生に結びついていくのか、そのプロセスを明らかにした。_II_ 対象地区本研究で対象とする四日市市諏訪新道地区(L=716m、会員数107店舗)は、かつては商業の中心であり、現在でも祭りや「市」の舞台にもなっているが、環境変化に伴い住宅地としての色彩が強まっている中心商業地と住宅地との境界地域に位置する地区である。_III_ 研究方法 マンション居住世帯および地区内商業者へのアンケート調査、新規出店者およびマンション供給業者等への聞き取り調査を実施し、その結果をもとに考察した。_IV_ 結果と考察(1)マンション立地と居住世帯当地区では1991年以降、現在建設中のものも含めて6棟の分譲マンションが建設されている。当地区は、本来民間によるマンション建設がなされにくい地域であるにもかかわらずマンション建設が行われた背景には、行政の積極的な誘導による再開発事業の実施がある。6棟中4棟が再開発事業によるものであるが、これらは当初商業系再開発として計画されていたが、厳しい経済情勢のもと計画が変更され、店舗併用マンションという形態になった。マンション居住世帯の家族構成は、30歳代_から_40歳代の夫婦のみおよび夫婦と子ども世帯が全体の約半数を占め、前住地は市内が約3分の2を占めている。居住地選定に際しては、価格、公共交通への依存度、都市的利便性、親との近接性、都心としてのまちのイメージなどの諸要素が絡み合っている。(2)マンション立地が商店街に与える影響マンション立地は個店経営にはすぐには結びつくとは限らないが、街並みが一新されたことにより商店街のイメージアップにつながったこと、そして1階部分に店舗空間が供給されたことにより新規店舗の立地を促す引き金になり、かつての中心商業地であるという街のイメージも作用して、商店街全体の機能集積の拡大に寄与している。具体的には、マンション1階への入居以外にも、商店街の空き店舗へ10店舗の新規出店があった。それらは従来の物販店ではなく、こだわりの店、ショールーム機能を付加した店、実験的性格を有した店、飲食店、サービス業などである。新規店舗の立地要因は、アクセス性、周辺環境、場所性、出店コスト、建物の新しさ、路面店であること、家主との関係、地域コミュニティの存在、マンション居住者への期待などであり、経営主体や経営方針により重視する要因が異なる。(3)中心商業地縁辺部の再生過程中心商業地のコンパクト化により住宅地化を余儀なくされた中心商業地縁辺部は、商業の核心部が駅前に移る以前の中心であり、都市のシンボル的空間であった。そのため、行政もその活性化に向けて積極的に取り組むこととなり、再開発事業により店舗併用マンションの供給を可能にした。それにより商業空間の機能更新を果たすとともに、地区の居住世帯構造に大きな変化をもたらした。当地区は、再開発事業が実施されなければ、居住機能に侵食される地区である。しかし、かつての商業中心としてのポテンシャルが作用し、低層部への商業機能の立地を促すこととなった。このように、中心商業地縁辺部は商業機能と居住機能の双方の影響を受け、それらの機能が複合した生活空間としての再生が期待できる地域である。
著者
大竹 あすか
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2019, 2019

<p>1.先行研究の展望と研究目的</p><p> 書店を事例として扱った研究は,土屋ほか(2002)と秦(2015)があげられる.土屋ほか(2002)はGISを利用して愛知県を事例として,大型書店が持つ商圏の時空間変化を営業時間に着目して分析した.秦(2015)は,福岡県を事例として書店チェーンの立地展開を取次会社との垂直的企業間関係に着目して分析した.</p><p> 地理学において小売店の流通や店舗の立地を扱った研究は数多く行われてきたが,書店を題材とし店舗構造や書籍のジャンルなどを含む経営方針に焦点を当てた研究は管見の限りほとんどない.さらに上記の研究は2000年代後半から著しく増加したインターネット通信販売との競合が考慮できておらず,現代社会における書店経営に関して改めて分析する必要があると考えられる.</p><p> 今回の研究では,小売業でも特殊な流通制度を持つ出版制度を踏まえた上で,盛岡市の都市構造と都市システムが経営方針にどのように影響を与えているかを分析する.</p><p>2.研究方法</p><p> 調査対象地は岩手県盛岡市に設定した.盛岡市は新幹線や道路網整備により北東北の拠点として機能していること,盛岡市は総務省家計調査で世帯当たりの書籍購入額が全国の県庁所在地の中でも有数であることから,個人書店から全国チェーン展開を行う書店まで多様な経営形態が見られる.</p><p> 調査対象店舗は立地している地域や経営規模を基準に市内の書店を分類した上で抽出し,各店舗の経営者と関係者に対して,客層や経営方針,経営状況などの情報などについて聞取り調査を行なった.調査は2018年8月〜11月に行った.また,2019年5月〜9月に追加で調査を実施予定である.</p><p>3.調査結果と考察</p><p>1)都市構造が規定する経営方針</p><p> 以下2点により,盛岡市の都市構造が盛岡市内における経営方針を規定していることが示された.</p><p>①書店の郊外展開と店舗面積の拡大</p><p> 松原(2015)で指摘されている通り,モータリゼーションによる郊外化と中心商店街の衰退が,郊外への大型書店を中心とした店舗展開と中心商店街における廃業店舗数の増加に影響を与えている.盛岡市では2000年代以降郊外にショッピングモールが進出し,家族連れを含む若年層の購買活動の中心が移ったことが聞取り調査から明らかになった.</p><p>②客層に合わせた書籍ジャンルの選定と店舗構造の方針</p><p> 各書店は立地する地域の利用客に合わせ,販売する書籍のジャンルや,棚の配置などの店舗構造を決定していることが示された.聞取り調査からは次のことが明らかになった.観光客が多く訪れる駅前の書店では,郷土誌を店外から見やすい位置に設置している.また高齢者利用客の割合が高い中心商店街内に立地する書店では,時代小説を中心とした書籍ジャンルが選定されている.一方郊外のショッピングモールでは,児童書を充実させて家族層の集客を図るとともに,開放的な雰囲気を持つ店舗構造に設計することでモール内の回遊客を集めていることが明らかになった.</p><p>2)都市システムが規定する経営方針</p><p> 書店の経営戦略に関する聞取りから,日野(1996)同様,現在も盛岡市が北東北の中核市としての役割を持っていることが示された.盛岡市は道路網と鉄道網の観点から北東北全体の拠点としての機能を持っており,東北地方全体の中心地である仙台市,東京都内への利便性があるからである.同時に岩手県内においても,盛岡市が中心地として役割を強めている.そのため,盛岡市には同県内の他都市と比較しても大規模書店や専門書を取り扱った書店が集中している.</p><p> 以上より,都市構造と都市システム両方が,盛岡市に立地する書店の経営方針の多様性をもたらしていることが明らかになった.</p><p><参考文献></p><p>土屋純・伊藤健司・海野由理 2002.愛知県における書籍チェーンの発展と商圏の時空間変化.地理学評論 75: 595-616</p><p>秦洋二 2015.日本の出版物流通システム—取次と書店の関係から読み解く—.九州大学出版会</p><p>日野正輝 1996.『都市発展と商業立地—都市の拠点性—』古今書院</p><p>松原宏編 2015.『現代の立地論』古今書院</p>
著者
青木 賢人 林 紀代美
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2007, pp.29, 2007

<BR>1.はじめに<BR> 2007年能登半島地震は,2007年3月25日午前9時41分,能登半島西方の門前沖で発生した海底活断層による地震で,Mj6.9,最大震度6強(輪島市,七尾市,穴水町)を観測した.建築物の倒壊や生活インフラの寸断など,様々な被害が輪島市を中心に発生している(青木・林,2007a).気象庁は地震発生の2分後,9時43分に石川県に津波注意報を発令し,11時30分に解除している.実際には,津波は珠洲市長橋で22cmの津波を観測したのが最高で,幸いにも被害は生じなかった.また,第1波が最大波高では無かったとともに,押し波であったことは,本地域での津波対策を考える上で注意すべき点である.<BR> 本研究では,津波被害が生じなかった本地震に際して,地震発生直後に住民が津波に対してどのような意識を持ち,回避行動を取ったのか否かについて明らかにすると共に,その意識や行動を規定した既往教育歴や被災経験を検討するために,被災地である輪島市・志賀町の中学校の生徒およびその保護者を対象にアンケート調査を行った.<BR><BR>2.アンケート調査の概要<BR> 津波回避行動に関する調査を行うために,能登半島の震源地側(西岸)に位置する輪島市,志賀町の中学校の内,校区内に海岸線を持つ7校にアンケート調査への協力依頼を行い,志賀町立志賀中学校,輪島市立門前中学校,上野台中学校,南志見中学校,町野中学校の5校から協力を得た.志賀中学校については生徒に対する抽出調査となったが,他の4校では全校生徒およびその保護者に対する全数調査となった.予稿集投稿時には上野台中から回収できていないため4校の値となるが,回収数は生徒から330通,保護者から308通,合計638通である.<BR><BR>3.アンケート結果の主な内容<BR> 津波からの避難行動を行ったか否か:避難行動を取った生徒は12%(38/309),保護者は22%(62/280).避難を行わなかった被験者には,海から遠い,高台にいたなどの適切な理由から避難しなかったなどもあり,一概にこの値を低いと判断出来ない部分もある.<BR> 津波に関する情報を確認したか:生徒の72%(221/306),保護者の60%(169/280)が,テレビ,防災無線などで津波情報を確認している.また,旧門前町では,停電が発生したため「情報が確認できなかった」という回答もあった.一方で,生徒の54%(169/312),保護者の66%(193/293)が地震発生時に津波を想起している.<BR> 地震発生時の津波の想起,あるいはテレビなどでの情報確認を行った率はかなり高いと言えよう.しかし,その一方で想起や情報が必ずしも避難行動に結びついていない.避難行動を起こさなかった具体的な理由として,以下のような回答が得られていることから,必ずしも適切な判断が行われているわけではないことが推察される.<BR>・津波の心配はないと報じられたから<BR>・父が海に行って「大丈夫」と言っていたから<BR>・海を見ていて、津波が来るけはいがなかったから<BR>・津波の高さが50cmと聞いたので<BR> 現実には,地震発生後2時間近くも津波注意報は解除されていないし,第1波は押し波であった.対象地域内には漁業者も多く居住しており,海に関する経験や知識が豊富であるとも思われるが,その知識が逆に危険な方向に作用している場合もあることが確認された.<BR> このほか,詳細に関しては当日に報告する.
著者
岩船 昌起
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2021, 2021

<p><b>【はじめに】</b>災害時の新型コロナウイルス感染症(以下,COVID-19)対策が必要な中,「猛烈な」強さに発達が予報された台風10号が2020年9月6~7日に鹿児島県に強い影響を及ぼし,県内市町村で避難所が多く開設された。本発表では,岩船(2020,2021)を踏まえ,鹿児島県「避難所管理運営マニュアルモデル〜新型コロナウイルス感染症対策指針」(以下「県避難所COVID-19対策指針」)と照合しつつ,市町村での避難所運営実態を再検証する。</p><p><b>【「県避難所新型コロナ対策指針」の概要】</b>2020年6月1日に策定され,①避難所となる施設や敷地を事前にレイアウトして事前に空間利用を計画し,定員数等を定める,②受付での水際対策を徹底する,③「感染疑い者」等を認識する目安として,検温や体調の自己申告の他に,行動歴の任意提示も参考とする,④「感染疑い者」には別室での自主的隔離を基本として,非「感染疑い者」と生活空間を別にする,⑤安全確認できれば自家用車も「自主隔離空間」として活用する, ⑥定員超過の場合でも,感染死亡・重症化リスクが高い高齢者等を除き,リスクが低い者から身体的距離2mを短縮する,⑦またその同意を事前に得ること等の特徴がある。</p><p><b>【避難場運営の実態と今後の課題】</b>鹿児島市では, 2020年10月1日現在での市人口598,481名の0.8%に相当する4,854名が避難所に入所し,205施設中13施設で定員超過した。以前から「避難所が定員超でも入所希望する全員を受け入れる」方針であったため,感染リスクを恐れて避難所以外に「分散避難」した市民が多かったが,洪水浸水想定区域や土砂災害警戒区域等に立地する住家が相対的に多く,避難所となる公的施設も人口比で少ないことから,既存の避難所運営計画では十分に対応できなかった。また,HP「避難所における新型コロナウイルス感染症対策」の「避難者の十分なスペースの確保」を定員超過の避難所で実現できず,「県避難所COVID-19対策指針」上記 ⑥と⑦の対応を行わなかった。</p><p> 暴風圏内の屋外では暴風で人が死傷する恐れがあるが,COVID-19「致死率」は80代以上12%等を踏まえると(厚生労働省2020『新型コロナウイルス感染症COVID-19診療の手引き第4.1版』),特に「ステージⅣ(感染者爆発的拡大)」等の感染拡大の警戒基準時や,居住域が広範囲で被災した場合を見越しての対策が講じられるべきである。</p><p> 一方,瀬戸内町では,台風10号避難所入所者総数は176名であり,2019年4末現在で全人口8,941名の2.0%に止まった。117名の避難者が集まった「きゅら島交流館」では,結果として定員数を上回らなかったこともあり,「県避難所COVID-19指針」を参考に町保健師が事前に計画した避難所レイアウト案に沿って,避難者の空間配置を適切に行えた。しかし,台風進路に近い喜界町では, 2020年10月1日現在での町人口6,606名の14.7%に相当する973名が避難所に避難し,17施設中3施設で定員を超過した。「県避難所COVID-19指針」を参考に喜界町では人口密集地域の避難所レイアウト案を事前に作成したものの,想定超の避難者が押し寄せた避難所では,適切な空間利用に至らなかった。</p><p><b>【課題解決の動き】</b>奄美大島では,日本の諸地域と同様に,標高5m以下の沖積平野に居住域が広がり,スーパー台風時に5m高の高潮が発生すれば,避難所も含めた居住域が広く被災する。演者は,COVID-19対策も含めてこの災害想定時の対策づくりとして,地域コミュニティの住民一人一人の避難手段・経路・場所をパーソナル・スケールで検討するワークショップを行っている。例えば,宇検村では,モデル地区での村民アンケート調査を行い,スーパー台風時の個々の避難計画づくりに着手した。来年度以降に全村に活動を広げて村民2,000人の避難台帳づくりを予定している。</p><p><b>【おわりに】</b>鹿児島県内市町村での台風10号避難所運営では,地域性に応じて多少の混乱があった。これらを踏まえて,「県避難所COVID-19対策指針」改訂や,避難所運営計画も含めたコミュティでの地区防災計画立案にかかわる研修等を市町村で行い,課題解決につなげたい。</p><p><b><参考文献></b>・岩船昌起2020.鹿児島県市町村での2020年台風10号避難所運営の実態−新型コロナウイルス感染症対策も含めて.季刊地理学,72(3),ページ未定.※東北地理学会2020年秋発表要旨.</p><p>・岩船昌起2021.新型コロナ下における自然災害への備え−大規模化する災害へ対処するために.生活協同組合研究,540,11-18.</p><p><b><謝辞></b>本研究は科研費基盤研究(C)(一般)「避難行動のパーソナル・スケールでの時空間情報の整理と防災教育教材の開発」(1 8 K 0 1 1 4 6)の一部である。</p>
著者
渡邊 瑛季
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2021, 2021

<p> Ⅰ はじめに</p><p></p><p> 非大都市や選手輩出地を対象としたスポーツイベント開催によるレガシー研究は日本では少ない状況である。本研究は,国際大会や国内上位大会の開催に伴うスピードスケート選手輩出地におけるレガシーを,北海道十勝地方を対象にして考察する。</p><p></p><p> </p><p></p><p>Ⅱ 十勝におけるスピードスケート文化</p><p></p><p> 十勝では,1950年代から冬の体力づくりの一環として学校体育でスピードスケートが指導されてきた。現在でも小学生だけで約1,000人が競技に取り組むスピードスケート盛行地域である。冬季には学校の校庭や各市町村の運動公園などにスケートリンクが造成され,十勝関係者の競技結果は地元新聞紙面をにぎわすなど,スピードスケートは十勝の冬の風物詩である。中学,高校の全国大会では,十勝の学校が上位入賞の常連校であり,競技レベルは非常に高い。清水宏保氏や髙木菜那・美帆選手など五輪メダリストも輩出してきた。よって,十勝ではスピードスケートは世界に通用するスポーツとして認識されている。</p><p></p><p> 勝利志向に特徴づけられるスケート文化の存在の一方で,十勝でのワールドカップ(W杯)などの国際大会の回数は,2007年まで3回のみであった。高校卒業後は,ほとんどの選手がスケート部のある関東甲信の大学や実業団に進む。十勝での選手の引受先も少なかったため,十勝は有望選手の輩出地といえる。</p><p></p><p> </p><p></p><p>Ⅲ 屋内スピードスケート場の建設による国際大会の増加</p><p></p><p> 十勝のスケート関係者は,夏季にも使用可能な屋内のスピードスケート場の設置を長く懇願していた。また,長野五輪で帯広市出身の清水宏保氏がスピードスケート競技では日本初となる金メダルを獲得した。こうした背景から,1999年に帯広市長を会長とする「北海道立屋内スピードスケート場十勝圏誘致促進期成会」が発足し,屋内スピードスケート場建設の機運が高まり始めた。しかし,北海道の財政難により2004年には帯広市が建設主体になった。2006年の帯広市長選では総事業費約60億円とされたスケート場の建設が争点になったものの,地元経済界の後押しもあり,推進派が再選された。その結果,2009年8月に日本で2例目の屋内スピードスケート場である「帯広の森屋内スピードスケート場(明治北海道十勝オーバル)」が帯広市郊外に開設された。地元選手の練習場所でもあるほか,W杯やアジア冬季競技大会などの国際大会が約2年に1度,全国規模の国内上位大会が毎年数回開催されるようになった。</p><p></p><p> </p><p></p><p>Ⅳ 国際大会によるレガシーとしてのスケート文化の強化</p><p></p><p>帯広市での国際大会や国内上位大会を直接観戦する住民が増えている。十勝の小中高生選手は,世界や国内を転戦する自身の学校やチーム出身の一流選手のレースを観戦し,レース後に交流する機会も時折ある。これは,全国制覇を志向する選手が,十勝出身の一流選手を目標的存在として認識する契機となり,また競技力向上への意識を高めることにつながっている。</p><p></p><p>また,主に帯広市に本社を置く企業の経営者が,国際大会や国内上位大会で活躍する十勝や北海道出身選手の姿を見て,子どもの頃と比べた成長に感銘を受け,スポンサーになったり,スケート場内に企業広告を掲示したりするケースが多数みられる。個人競技であるがゆえ社名がメディアで報じられやすく企業の宣伝などに寄与すること,また経営者がスピードスケート経験者であって,競技への理解があることが主な背景にある。国際大会や国内上位大会に伴うこれらの変化は,十勝関係の選手の競技力を育成面・資金面で向上させることに寄与している。</p><p></p><p> </p><p></p><p>Ⅴ おわりに</p><p></p><p>十勝はスピードスケート選手の輩出地と,国際大会や国内上位大会の開催地とが重なる場所である。出身地での一流選手の活躍が大会で住民に可視化されることは,勝利志向に特徴づけられるスケートの文化的価値の強化というレガシーを形成した。</p>
著者
太田 慧 池田 真利子 飯塚 遼
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2018, 2018

<b>1</b><b>.</b><b>研究背景と目的</b><br><br> ナイトライフ観光は,ポスト工業都市における都市経済の発展や都市アメニティの充足と密接に関わり,都市変容を生み出す原動力としても機能し得るという側面から2000年代以降注目を浴びてきた(Hollands and Chatterton 2003).この世界的潮流は,創造産業や都市の創造性に係る都市間競争を背景に2010年代以降加速しつつあり,東京では,東京五輪開催(2020)やIR推進法の整備(2016),およびMICE観光振興を視野に,区の観光振興政策と協働する形で,ナイトライフ観光のもつ経済的潜在力に注目が向けられ始めている(池田 2017).このようなナイトライフ観光の経済的潜在能力は,近年ナイトタイムエコノミーと総称され,新たな夜間の観光市場として国内外で注目を集めている(木曽2017).本研究では,日本において最も観光市場が活発である東京を事例として,ナイトタイムエコノミー利用の事例(音楽・クルーズ・クラフトビール)を整理するとともに,東京湾に展開されるナイトクルーズの一つである東京湾納涼船の利用実態をもとにナイトライフ観光の若者の利用特性について検討することを目的とする.<br><br><b>2</b><b>.東京湾納涼船にみる若者のナイトライフ観光の利用特性</b><br><br>東京湾納涼船は,東京と伊豆諸島方面を結ぶ大型貨客船の竹芝埠頭への停泊時間を利用して東京湾を周遊する約2時間のナイトクルーズを展開している,いわばナイトタイムの「遊休利用」である.アンケート調査は2017年8月に実施し,無作為に抽出した回答者から117件の回答を得た.回答者の87.2%に該当する102人が18~35歳未満の若者となっており,東京湾納涼船が若者の支持を集めていることが示された.職業については,大学生が50.4%,大学院生が4.3%,専門学校生が0.9%,会社員が39.3%,無職が1.7%,無回答が2.6%となっており,大学生と大学院生で回答者の半数以上が占められていた.図1は東京湾納涼船の乗船客の居住地を職業別に示したものである。これによれば,会社員と比較して学生(大学生,大学院生,専門学校生も含む)の居住地は多摩地域を含むと東京西部から神奈川県の北部まで広がっている.また,18~34歳までの若者の83.9%(73件)がゆかたを着用して乗船すると乗船料が割引になる「ゆかた割引」を利用しており,これには18~34歳までの女性の回答者のうちの89.7%(52件)が該当した.つまり,若者の乗船客の多くはゆかたを着て「変身」することによる非日常の体験を重視しており,東京湾納涼船における「ゆかた割」はこうした若者の需要をとらえたものといえる.以上のように,東京湾納涼船は大学生を中心とした若者にとってナイトライフ観光の一つとして定着している.
著者
石川 和樹 中山 大地
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

<b>1.&nbsp;&nbsp;&nbsp;</b><b>はじめに<br> </b> 地名とはその地域に付与された名称であるが,その由来は山や川などの自然由来のものから,方位に由来するもの,施設に由来するものなど様々である.また,漢字表記される地名であればその読み方が存在するが,時間経過に伴い読み方が変化する地名の存在や,難読地名の存在などから,地名を漢字のまま分析することでより地名の本質的な分析が可能となる.そこで本研究では,地形図に記述してある地名を漢字のままDPマッチングを行い地名間の類似性を求めたうえで,ある特定の漢字を含む地名の時間的変化を定量的に求めることを目的とした. DPマッチングとは,Dynamic Programming(動的計画法)を用いて2つの対象間の類似性を数値化できるアルゴリズムで,音声認識や画像認識において多用される手法である.<br>&nbsp;<b><br> 2.&nbsp; </b><b>研究手法<br></b> 1/50,000旧版地形図「菊池(隈府)」,「阿蘇山」,「御船」,「高森」の範囲を対象地域とし,地形図は1902年から1984年のうちなるべく同時期になるように選択した各図郭6枚,計24枚を用いた.同時期の地形図ごとに1枚のレイヤーにまとめ,時代の古いものからlayer1~6 とした.そしてこれらの地形図をデジタルデータ化し,座標(日本測地系・公共測量座標系)を付与した.次にlayer1~6に表記されている全ての文字列についてデジタイズし,そのうち居住地域名のみ(6680地名)を抽出した.これらの居住地域名の表記から,DPマッチングを用いて2つの地名間の類似性(不一致度)を求めた.この際,文字不一致のペナルティを50,1文字ずれのペナルティを1とした.これにより求まった類似性を2地名間の距離とし,全ての地名間の距離行列を作成した.この行列に対して,統計ソフトRを用いてWARD法によるクラスター分析を行った.得られたデンドログラムを非類似度5000で切り,22個のクラスターを得た.これにより,同一クラスターには同じ漢字を含む地名が分類されたことになる. 次に,河川と現在の小地域境界に対してコストを与えて地名の代表点からの加重コスト距離を計算し,これに基づいて空間分割を行って地名のかかる範囲を決定した.この際,河川または小地域境界のある部分をコスト10,それ以外を1とした.このようにして6時期分の地形図に対して地名のかかる範囲を決定し,22個のクラスターのうち減少傾向にあったクラスター3個についてその分布の変化を地図化した.そしてそれらの要素を確認し,減少している地名の特徴を探った.<br><br><b>3.&nbsp; </b><b>結果</b><br> 得られた22個のクラスターのうち,含まれる地名の傾向が明確なクラスターは17個あり,傾向が明確ではなかったクラスターは5個であった.17個のクラスターのうち時間経過とともに含まれる地名数が減少するクラスターは3個みられた.一方,地名数が増加するクラスターはみられなかった.以降,減少するクラスター3個の結果について述べる.減少するクラスターは「田」,「尾」,「古閑」のつく地名であった.「田」地名においては「無田」・「牟田」の付く地名の消滅がみられた.「尾」地名はデータの精度の問題から,減少した結果となった.「古閑」地名においては,特に対象地域西部の熊本市街地の拡大にともなう宅地開発による消滅がみられた.「無田」・「牟田」や「古閑」の付く地名は九州に多い地名であることから,本研究ではその地特有の地名の減少傾向が確認された.
著者
坪井 塑太郎
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

集合住宅に付与される名称には,町名,近隣の駅名,公園名,名所・旧跡名を冠する「場所性」を持つもののほか,地形(丘・ヒルズなど)や自然構成要素(森林・河川名・山地名)の名称を冠することで良好な地域イメージを形成する事例がみられる.本研究では,既往の研究手法を援用しながら,河川や海などの物理的要素から,清新性や涼感など心理的要素を含む幅広い概念を有する「水」関連の名称を有する集合住宅(アパート・マンション)を対象として,東京都江戸川区を事例に,その立地特性を明らかにすることを目的とする.水関連の名称を冠する集合住宅は全332件確認され,このうち,親水公園の名称を冠する集合住宅(39件)の多くは,JR新小岩駅から徒歩15分圏域に位置する小松川境川親水公園においてみられた.これは,同地区が1970年代半ばより宅地開発が進められる中で1985年に竣工した同親水公園が,その空間的象徴として名称波及したものであると考えられる.また,河川に関連する名称を冠する集合住宅は,英語のほか,フランス語,ドイツ語,イタリア語,スペイン語で河川や河畔,小川を指す表現がみられ,区内ほぼ全域において分布していることが特徴となっている.また,最も多くの名称として用いられる「リバー」(163件)のうち,立地に起因する「リバーサイド」(76件)のほか,眺望・景観を想起させる「リバービュー」(3件)「リバースケイプ」(1件)「リバーウィンズ」(1件)などが特徴的な名称として用いられている.これは,地勢上,江戸川区が荒川,新中川,江戸川に隣接している地理的条件の他,「水」自体の持つ良好なイメージがその背景にあるものと考えられる.このほかにも東京湾に面した区南部地域を中心に,海の名称を冠する集合住宅が立地していることが明らかになった.今後は,マンション等の販売広告からイメージの表象に関する検討を行うほか,竣工年代や地形等を考慮し,定量的に立地や分布の特徴を把握することが課題である.
著者
関戸 明子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2018, 2018

本報告は,昭和初期に推進された群馬県の観光プロモーションの特徴について,当時の社会的・地域的文脈との関わりから考察するものである。群馬県では,1935(昭和10)年3月20日に群馬県勝地協会が創立された(昭和10年「商工雑事」群馬県立文書館)。会長には当時の群馬県知事・君島清吉,副会長には群馬県経済部長と県会議長など,理事には群馬県総務部長・学務部長・警察部長・土木課長・林務課長・商工課長・衛生課長といった行政職や前橋・高崎・桐生市長など,幹事には前橋・高崎の商工会議所会頭など,評議員には伊香保・水上・草津・四万といった温泉の組合長や各郡の町村長会支部長などが就任しており,官民挙げての組織だったことがわかる。群馬県勝地協会の解散に関する記録は確認できていないが,出版物の刊行状況からみると,1943(昭和18)年までは活動が続いていたことがわかる。1940年以降,不要不急の旅行が抑制され,鉄道輸送の旅客制限が強められていくが,勝地協会の事業はこうした時期にも行われていた。<br> 「設立趣意書並会則」(県史資料「群馬県勝地協会関係綴」群馬県立文書館)には次のようにある。「本県は三面秀嶺を繞らして坂東太郎の清流を養ひ(中略)山河襟帯到る処風光明媚の勝地である。加ふるに史蹟,伝説の人口に膾炙するもの極めて僥く,動植物の世に珍稀なるもの亦少くない。更に温泉は各所に湧出して,古来著しき霊験を伝へ,帝都に近く交通至便なるは真に本県独特の天恵と謂はねばならぬ。殊に上毛三山の一たる赤城山には,昨秋 畏くも 聖駕を枉げさせ給ひ次で奥利根一帯の地は国立公園に指定されて景勝群馬の名声は愈々揚り,正に錦上花を添うるの趣がある」。 このように群馬県は風光明媚の勝地であり,史蹟や温泉も多く,東京に近いことをうたっている。「聖駕を枉げ」とあるのは,1934年11月,群馬県庁に大本営を置いて陸軍特別大演習が行われて,さらに県内を昭和天皇が行幸したことによる。また1934年3月に初めて3か所の国立公園が指定されたのに続き,同年12月に指定を受けた日光国立公園に「奥利根一帯の地」である尾瀬が含まれた。こうしたことが協会設立の契機となったのであろう。<br> さらに「地元大衆の理解と用意とは未だ此の天資に添はず動もすれば其の勝景を傷け,或は適当の施設を誤り,却て造化の殊寵を暴殄するものさへあるは,夙に識者の憂ふる所である。(略)近時一般保健思想の向上は交通機関の発達と相俟て,野外趣味の勃興を促し,国策亦国立公園の開設を計つて以来,各地競うて其の助成策を講じ,天下靡然として観光施設に汲々たる状況である本県民たるもの,豈此の勝地を擁して拱手傍観するを得やうか。(略)是に於て関係者並に有志相諮り,官民合同の勝地協会を設立し,統制ある組織の下に県下の景勝霊地を江湖に紹介し,其の愛護開拓を図つて,来遊者に利便を与え,大いに内外の観光客を迎へ,以て益々国土の精粹を顕揚し,文化の進展に寄与すると共に,天与の恵沢を頒つに遺憾なきを期せんとするものである」と設立の趣意を述べている。保健思想の向上,野外趣味の勃興とは,この時期に健康への関心が高まり,スキー,スケート,ハイキングなどが人気となったことがある。このように群馬県勝地協会は,官民合同の組織のもとで景勝霊地を紹介し,内外から観光客を迎えることを目的として設立された。<br> 「昭和十年度歳入歳出決算並事業成績」には,1.国立公園映画作製,2.赤城公園座談会,3.温泉とスキー展覧会,4.スキー大会,5.「勝地群馬」刊行,6.勝地絵葉書刊行の六つの事業が記されている。「勝地群馬」の著作権兼版権所有者は吉田初三郎,この鳥瞰図の印刷費は3453円32銭で,同年度の歳出の53%を占めていた。図裏面の案内情報には,名所・温泉・スキー場・スケート場・神社・仏閣・史蹟・天然記念物・国宝・重要美術品・古社寺の188箇所を掲載する。さらに勝地協会は1941年に『群馬の史蹟めぐり』,1943年に『群馬健康路 史蹟と温泉巡り』を発行している。 昭和初期の群馬県では,どのような場所がツーリズムの対象となり,意味や価値を付与されたのか,当日報告を行う。<br> [文献] 関戸明子2008.吉田初三郎の鳥瞰図.中西僚太郎・関戸明子編『近代日本の視覚的経験-絵地図と古写真の世界-』119-124. ナカニシヤ出版.
著者
古河 佳子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2018, 2018

1.はじめに<br><br>近年,日本における地域振興の手法の一つとして,観光産業が注目されている.そうした観光による地域振興手法は,今日,多くの地域で試みられる傾向にある.<br><br>1970年代から,観光キャンペーンや文化財保護法の施行を背景に,国内観光は日本らしさや伝統文化を新たな素材とするようになってきた.この結果,都市化の波から取り残された地域で,自地域の資源を活用して観光を誘致する取り組みがなされるようになった.<br><br>観光による地域振興については,住民意識や活動の影響など,地域内での展開に着目した研究が数多くあるが,本稿では,個別地域内での展開ではなく,実施地域間の関係に着目する.この関係を解明することは,類似の地域振興手法が広がっていく現象を理解し,その趨勢を把握する一つの糸口になると考える.本稿では,全国的に活用されている観光素材として,観光ひな祭りを取り上げ,地域同士の情報の伝播や広域的な関係が全国的展開をもたらした過程と,全国的展開へ向かう動きが収束した後における広域的な関係に焦点を当てる.<br><br>ここでは,観光ひな祭りの概要と地域間の関係を広く把握するために,全国的展開の核となった徳島県勝浦町,大分県日田市を中心とした12か所のひな祭り関係者に対する聞き取り調査(2017年3月~11月実施)に加え,69か所のひな祭り関係者に対するアンケート調査(同年10月実施,回収数40,回収率58.0%)を行った.<br><br><br><br>2.観光ひな祭りの概要<br><br>観光ひな祭りとは,家庭の習俗であったひな祭り・ひな人形を素材として,2~3月の特定の時期に,町内の軒先や公共施設に飾りつけをする観光イベントのことである.観光ひな祭りは,1990年代から2000年代にかけて全国的に広まり,筆者が把握しているだけでも130以上の地域で実施されている.特徴としては,2月の観光オフシーズンに合わせて開催される傾向にあるほか,ひな人形が地域内で調達可能であるため,必要な資金が少額で済むことや,住民を巻き込み,なかばボランティア的に開催できることが挙げられる.これらの特徴が,各地で類似のイベントが急速に広まることを後押ししたと考えられる.また,直接的には採算性に乏しいこともあり,観光振興だけでなく,地域内のコミュニティや住民のアイデンティティに対する効果も含めた目的をもって実施されている.<br><br><br><br>3.観光ひな祭りの全国的展開と交流形成<br><br>観光ひな祭りの広域的展開には,①形式の伝播,②開催手法の伝承,の二種類の過程が存在する.①形式の伝播は,他地域から「ひな人形を町に飾る」というアイデアを取り入れるが,自地域で開催する過程は手探りで行うというものである.②開催手法の伝承は,開催地域が先進地域とのネットワークやイベント成功への強い意識を持っている場合に,先進地域からイベントや組織の運営に関する助言を得た上で観光ひな祭りを始めるというものである.<br><br>これに加えて,送り手による働きかけが,観光ひな祭りの全国的展開に大きな役割を果たしたという面も見られる.九州のひなまつり広域振興協議会では,九州各地で,貴重なひな人形の一般公開を呼びかけるとともに,人形の鑑定やコーディネートを行っている.徳島県勝浦町では,ひな人形里親制度を通じて他地域にひな人形を提供することで,ひな祭りと強く結びついた背景を持たない地域での観光ひな祭りを実現させている.<br><br>全国的展開に向かう動きは,2010年以降飽和状態に達しており,その結果,地域間に競争が見られるようになっているが,観光ひな祭りを実施する各地域は,他地域を競合相手とは捉えておらず,ひな祭りサミットを開く等の手段を通じて,広域的な情報交換を行い,自らの独自性を出そうとしている.しかし,観光客のルートに即して連携しようとする動きはほとんどなく,年間のうちの同じ時期に行われている利点を活かしきれていないのが現状である.また,ひな祭りが同じ時期に行われることは,広域的連携の一つの障害となっており,これらの連携が持続的に深まっているとは言えない.<br><br> こうした結果を踏まえると,地域振興手法の全国的展開には,形式の伝播によるアイデアの入手と,開催手法の伝承があり,加えて送り手の働きかけが大きな役割を果たしていると言える.また,全国的展開が収束した後も,地域間関係は友好的であり,地域の独自性を出すために,さらなる情報交換が行われることになる.各イベントが地域の手探りで行われ,地域の特徴と深く結びついているために,他地域の模倣と認識されにくいことや,情報の送り手となる地域が,先進地域として認識されることを肯定的に捉える傾向にあることが背景にある.
著者
高橋 裕介 川久保 篤志
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2007, pp.66, 2007

<BR> I .はじめに<BR> 本発表でとりあげる神楽とは,能の影響を色濃く受けた演劇風の里神楽のことである.近世初頭に佐太神社(松江市)で成立した神能(演劇風神楽)は,徐々に伝播し現在では出雲はもちろん西日本全域で広く舞われている.1970年に行われた大阪万博,1975年の文化財保護法改正などを契機として,島根県では現在でも大きな盛り上がりを見せている.江戸時代における神楽は神職のものであったが,1871年(明治3年)に松江藩から神能演舞禁止令が出されると,担い手は農民へと移行し,その後今日まで農村を中心に伝承されてきた.しかし戦後,高度経済成長期を通じて農村社会は大きく変貌し,その影響は神楽社中にも及んだ.そこで今発表では,神楽社中の変化を農村社会の変化を関連付け分析を進めていく.<BR> II .対象地域と対象社中<BR> 研究対象地域は,島根県雲南市大東町である.大東町は松江市から南へ車で30分ほどの山間部に位置する.大東町ではかつて林業が盛んであったが,現在は兼業化が進み成人の多くがへ通勤している.<BR> 現在大東町には活動を行っている神楽社中5つある.神楽社中はおよそ10~20人で組織されており,平均年齢は50歳代である.主な活動としては,秋祭りで神楽奉納,各種イベントへの出演,また最近では神楽の演大会へのなども行っている.<BR> III .社中構成員の属性と神楽社中の変容<BR> 大内(2002)はイエ制度のもとにある戦後農村社会において,昭和ヒトケタ世代(世帯主),後継者,高齢者,女性という4つの社会層を確認し,昭和ヒトケタ世代はイエ制度のライフサイクルに従った最後の世代であり,後継者のライフコースはイエ制度から離れていったと述べた.筆者が,小河内社中の拠点とする下小河内集落において実施した神楽経験を中心としたライフヒストリー調査の分析によると,昭和ヒトケタ世代(第一世代),後継者世代(第二世代),さらにその次の第三世代という3つの異なるライフコースを確認することができた.神楽社中の活動のあり方は,どの世代を中心に社中が結成されているかに強い影響を受ける.小河内社中は,大正時代に結成された神楽社中で,その中心となっているのは,山上さん講に参加しているイエ出身のものである.しかし1980年代以降そのような枠組みは変化し,現在では集落外から社中に参加するものもいる.<BR> 本発表では小河内社中の社中員のライフヒストリー分析を中心に神楽社中の変容を述べていく.
著者
三上 絢子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2012, 2012

<b>1、はじめに</b><br> 1946年2月2日、北緯30度線以南のトカラ列島、奄美諸島、沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島は、日本政府から政治上・行政上、分離されて、アメリカ海軍軍政府の支配下に置かれた。鹿児島と奄美諸島との間の海上が境界線で閉ざされ、この「海上封鎖」で自由渡航も禁止、日本本土との交易は断絶した。海上封鎖が解禁され自由渡航が実現したのは、日本国とアメ リカ合衆国との間で、日本返還の締結が発効したことによって, 1953年12月25日に奄美諸島が1972年5月15日に沖縄が日本に返還されたことによる。<br>奄美において、1946年3月、軍政府は食糧問題について「食糧は、米食本位の考えは改めよ、補給はするが米の外に缶詰類、メリケン粉等を送る.」「一人一日2000カロリーは絶対に保障するであろう」と島民にメッセージを送った。放出食糧の配給価格も1946年6月当時から次第に値上りする。さらに配給基準量が半減し大人1人1日につき2000カロリーの基準は、実質的には1200カロリーから1400カロ リー となり、5月下旬には500カロリーと激減している。その結果、奄美においては食糧が不足することになった。<br> <b>2、研究目的</b><br> 食糧不足を補うために食糧生産を増加させる必要に迫られた。その1つの事例として、三方村大字有良集落は、農地は狭く三方が山に囲まれ耕地の少ない中で、条件の悪い山の耕地を使わなければならなかった。山の耕地での農産物は主食となる甘藷栽培で、大量の甘藷が生産されて名瀬の食糧不足を補っている。この事実から有良集落において、どのような生産過程であったか、どのようなルートによって、農産物が流通したかを明らかにしたい。<br> <b>3、結果</b><br> 有良集落の特徴は、藩政時代の黒糖生産に土地が狭いために集落を囲む東西の山は,背後から集落周辺まで砂糖黍耕作地であった。その土地の再活用に着手して、共同体のユイワクによって条件の悪い山の耕地において、大量の甘藷の生産を可能にしている。<br> その結果、名瀬の消費を目的に大量の農産物が生産され、カツギ屋や集落所有の板付け船によって、名瀬に運ばれ食料不足を補っている。<br>本研究によって、事実から有良集落において、食糧不足を補った農産物の生産過程と農産物が、有良集落と名瀬との間における流通の仕組みが明らかにされた。
著者
青木 賢人
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.249, 2009

I 金沢大学における自然災害対応の枠組み演者の所属する金沢大学では常設の災害対応組織が構築されていない状況下で,2007年3月25日に能登半島地震が発生し,県下の災害に対し全学的な対応を求められることになった.発災当日より,本学のいくつかの災害調査関連の教員グループが自発的に現地調査を開始したが,大学としての正式な組織の発足以前から当該教員間では相互に連絡が取られ,動向が相互に把握されている「緩やかな連携」が成立していた.これは,能登半島地震が発生する以前の2005年より,金沢大学の理学系・工学系・文系教員のうち,災害関連調査を行う教員によって「白山火山勉強会」が設立され,定期的な情報交換が行われていたためである.本学教員による能登半島地震関連調査は,大学の正式組織に整理統合されていくが,通常時の「緩やかな連携」が発災時において重要な役割を果たしたことは,他大学における防災体制構築のヒントにもなるのではないだろうか.II「白山火山勉強会」の設立と展開白山は金沢市の南方約45kmに位置する活火山である.1659年の噴火記録を最後に比較的静穏な状況にあるが,本学名誉教授(元文学部地理学教室)で火山地形学の守屋以智夫氏による一連の研究(守屋,1984など)によって,最近数千年間は100~150年程度の静穏期と300年程度の活動期を繰り返しており,近々活動期に入ることが予想されている.しかし,白山の噴火を前提とした産官学の連携や,発災時の連絡・協力体制,ハザードマップの作製などの事前対策は十分に構築されていない状態であった.そうした中,2005年に白山山頂直下で顕著な群発地震が観測され,噴火の可能性が危惧された.この活動を受け,群発地震の観測成果を速やかに共有することに加え,発災時の協力体制を事前に構築することを目的に,前述の守屋以智夫氏と,自然科学研究科助教授で実際に地震観測を行っていた平松良浩氏を中心に,文系学部(文学部・教育学部)を含む学内の関連教員および,石川県・白山市などの自治体職員,金沢地方気象台,建設コンサルティング会社による「白山火山勉強会(以下,勉強会)」が設立され,演者も早い段階から参加することとなった.III 2007年能登半島地震発生時の災害対応体制2007年能登半島地震は3月25日という,春季休業中の日曜日に発生したこともあり,教員・学生とも多くが大学を不在にしていた.演者も金沢を離れており,直接的な対応をとることが難しかった.こうした状況下で,文・理・工の各領域の災害調査関連教員の所在確認と調査動向の相互把握が勉強会のネットワークを通じて行われ,スムースに情報交換が進んだ.演者が金沢を離れている間にも,勉強会参加教員の調査状況や成果はもちろん,それ以外の教員らによる成果が勉強会のネットワークを通じて提供され,その後の調査計画の立案に大いに役立った.その後,各教員の調査・研究は4月5日に発足した学長直轄の組織である「金沢大学2007年能登半島地震学術調査部会(以下,調査部会)」に集約されるが,この12日間の初動時に,特に文・理をまたぐ情報交換に勉強会が果たした役割は大きかった.また,勉強会として文・理の協働が既に取られていたことが,正式な組織立ち上げの素地となったともいえる.調査部会の発足後は,情報交換,成果の共有・発信,自治体との連携などが調査部会を核として行われている.また,自治体,消防,自主防災組織,一般市民に対する情報提供・防災教育などが,調査部会に参加した各教員によって行われている.IV「緩やかな連携」が果たした役割現在,勉強会は地震調査から離れ,本来の火山を中心とした防災に関する勉強会として調査部会とは独立に活動を継続している.能登半島地震の発生に際して,勉強会が果たした役割を再整理すると,災害発生以前から「学内にいる災害調査関連教員の把握(人材の発掘)とFace to Faceの関係構築が,教員個人レベルにおいてボトムアップ的になされていた」ということを挙げられる.一方,大学の組織である調査部会は,予算措置(とオブリゲーション)を伴うトップダウン型の組織であり,形骸的である側面も否めない.また,正式な組織は公的である反面,その設置までのステップや,多くの教員や様々な学外組織が参加するためには制約も多く,ハードルが高い.発災時において,混乱した状況下で調査組織を立ち上げ,効果的に運用するためには事前の準備が不可欠である.本学のように公的な組織が未整備な大学にあっては,その組織の発足までに多くの時間が費やされ,最も重要である初動時の調査が混乱の元で進められる可能性があった.その意味で,勉強会を通じて「緩やかな連携」が構築されていたことは重要であったといえよう.
著者
白坂 蕃 漆原 和子 渡辺 悌二 グレゴリスク イネス
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.180, 2010

<B>I 目的</B><BR> 世界のかなりの地域では、厳しい気候条件の結果として、家畜飼養はたったひとつの合理的土地利用としてあらわれる。それにはさまざまな形態があり、定住して営む牧畜のひとつの形態が移牧transhumanceであると筆者は定義する。<BR> 本稿では、ルーマニアのカルパチア山脈におけるヒツジの二重移牧の変容を通して、山地と人間との共生関係の崩壊を考えたい。_II_ジーナの人びととヒツジの二重移牧 ジーナJina(標高950m)はカルパチア山脈中にあり、年間降水量は約500-680mmである。ジーナ(330平方_km_)の土地利用は、その25%が放牧地、15%が牧草地(採草地)で、耕地は1%にも満たない。牧草は一般には年二回刈り取れる。第二次世界大戦後の社会主義国であった時代にもルーマニアでは、山地の牧畜地帯は、これ以上の生産性向上を期待できない地域であるとして土地の個人所有が認められていた。ジーナの牧羊者(ガズダgazdā)は定住しており、多くの場合、羊飼い(チョバンciobăn)を雇用して移牧をする。<BR> ジーナはヒツジの母村であるが、ヒツジがジーナの周辺にいる期間は短い。毎年4月初旬から中旬にかけて、低地の冬営地からヒツジはジーナにもどってくるが、約2週間滞在して、さらに標高の高いupper pasture(ホタル・デ・ススHotarul de Sus)に移動し、5月中旬から6月中旬の間そこにいる。ホタル・デ・ススは約10,000haあり、ここに150-200ほどの小屋(sălaş)がある。<BR> 6月中旬にヒツジは高位の準平原までのぼり9月10日くらいまではここにいる。ここは森林限界を超えた放牧地 Alpine pasture(面積5,298ha)である。移牧はセルボタ山Vf. Şerbota (2,130m)の山頂直下の2,100mに達し、ここが夏営地の上限である。<BR> 遅くとも9月中旬には、ヒツジは高地の放牧地からホタル・デ・ススに下り1-2週間滞在し、10月初旬にはジーナに降りるが1-2週間しか滞在せず、10月中旬には冬営地であるバナート平原、ドブロジャ平原やドナウ・デルタにまで移動する。バナート平原までは約15日、ドブロジャやドナウ・デルタまでは20-25日かかる。<BR><BR><B>III 1989年以前の移牧とその後の変容</B><BR> 社会主義時代には約150万頭(1990年)のヒツジが飼育され、state farmsとcooperative farmsがその1/2以上を飼育していたが、ヒツジの場合、個人経営individualも多かった。1989年の革命後、state farmsとcooperative farmsで飼育されていたヒツジは個人に分けられたが、多くの個人はその飼育を放棄した。したがって、1998年の革命以降ヒツジの飼養数は半減した。また平野部の農用地は個人所有にもどったため、作物の収穫後であっても農耕地のなかをヒツジが自由に通過することは困難になり、さらに道路を通行する自動車などをヒツジが妨げてはならないというRomanian regulationもできた。そのために1,000頭程度の大規模牧羊者gazdāは、バナート平原などの平地でヒツジを年間飼養せざるをえなくなった。しかし彼らはラムのみに限っては夏季に平野部からジーナまでトラックで運搬する。そしてHotarul de SusやP&acirc;şunatul Alpinまでは徒歩で移動し、帰りもまたジーナからはトラックで輸送する。したがって、P&acirc;şunatul Alpinにおける夏季のヒツジの放牧数は1988年の革命以前に比べて極端に減少した。<BR><BR><B>IV EU加盟とヒツジの移牧</B><BR> 今日ではルーマニアの農牧業もEU regulations(指令)のもとにあり、ヒツジの徒歩移動は最大でも50_km_である。さらに条件不利地域への補助金もある。このように、1989年の革命後、それぞれの家族は彼らの持つ諸条件を考慮して牧畜を営むようになった。その結果、こんにち、ジーナにおける牧畜は次のような三つのタイプに分けられる。<BR>1)ジーナに居住し、通年ジーナでヒツジを飼育する世帯(Type 1)<BR>2)ヒツジの飼育もするが、ジーナとHotarul de Susの間で乳牛の 正移牧を主たる生業とする世帯(Type 2)<BR>3)平野部に本拠を移し、ヒツジの飼育を生業として維持する世帯(Type 3)<BR><BR><B>V まとめ</B><BR> 1989年の革命以前には、カルパチア山脈における二重移牧は見事なばかりにエコロジカルな均衡を具現していたが、社会主義体制の崩壊によって、変貌を余儀なくされた。しかしながら、現在のところその形態を変化させつつも、生業としての移牧は継続している。しかしながら、ルーマニアのヒツジの移牧は、「平野」の農村における農業生産力の発展、都市経済の変貌にともなって衰退すべきものであるとみるのが妥当なのかもしれない。
著者
佐々木 リディア
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.151, 2009

本研究では、ルーマニア、ドナウデルタにおける観光の持続性と、環境保全との共存・両立の可能性を考察し、そのために必要とされる対策を明示することを目的とする。 近年、自然環境保全への意識が高まる中、より持続性が高く新しい型の観光が求められている。中でもエコツーリズムはその筆頭である。「環境保全の側に立ち、地元の生活向上に貢献する、責任ある旅行の仕方である」と定義されている(TIES, 1990)。つまり、エコツーリズムは環境保全に貢献し、地元文化の伝承、地元への財政に利益をもたらし、来訪者と地元の双方の環境意識を高めることに寄与する。 1989年の政治・経済改革以降、中東欧諸国では観光業の振興が優先課題となった。ルーマニアも豊富な自然・文化資源により観光業の育成が期待されたが、消極的な政策を採り他の中東欧諸国の後塵を拝することとなった。その結果、2006年の外国人観光客数は604万人、国全体の観光業のGDPへの貢献度は1.92%と期待を下回る。このような、ルーマニアの観光業の発展の阻害要因として、以下の4つの点が挙げられる。_丸1_ 国の観光振興政策・戦略の欠如; _丸2_ 政府と民間との連携の欠如; _丸3_ 地方のインフラ整備不足(交通、宿泊のみならず、上下水道・下水処理場、ごみの収集などといった基礎インフラでさえ不足している); _丸4_ 観光業の人材が質量共に不足。そのため2007年にEU 加盟したルーマニアは、新しい観光振興戦略に基づき、EUからの支援金を受け持続的な観光業の振興に力を入れた。 本研究では、持続可能な観光に豊富な自然資源を有するドナウデルタに焦点をあてる。ドナウデルタ生態系保全地域(DDBR)は、ルーマニア最大の生物圏保存地域であり、多様な生物種(植生、野鳥327種、魚類65種など) により世界遺産に指定されている。1989年以前のドナウデルタは、自然保全エリアを除き、漁業、葦の採取販売、自給自足的農牧業、零細な観光業などが複合的に機能していたが、1990年以降厳密な自然保護地域に指定されたため、これまでの生業の継続が難しくなり新たな収入源が必要になった。当初、観光業は有望な選択肢と見られ、観光客は徐々に増加した。しかし一方で、観光は地域の資源である環境を汚染し、野生動物の生活環境を侵害し、地域文化を喪失するなどマイナスの影響をもたらす。その解決としてエコツーリズムの導入することにより、自然環境と地域文化の保護に対する、観光や地域発展という相反する目的を共に満たし、地域社会の持続的発展を可能にできると考える。 最後に、発表者は持続的地域発展を目的とする真のエコツーリズムを浸透させるためには、以下の4点が重要な対策であることを提言する。_丸1_環境保全、地域発展と観光を調和させるための新しい地域の観光振興戦略を策定する_丸2_国、地方公共団体、DDBR当局と地域コミュニティの間の連携を高める_丸3_行政が、基礎インフラ、そして観光のための投資を優先的に行う_丸4_環境保全活動に対する地域住民の意識を高め、積極的に関与させる
著者
川久保 篤志
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2005, pp.74, 2005

1.はじめに 近年、わが国で農産物の輸出拡大をめざす議論が高まっている。これは、近年のアジア諸国の経済発展に伴う購買力の上昇やFTA交渉の進展による関税率の低下などに期待したものであり、現に2000年以降のわが国の農林水産物輸出額は対アジア諸国を中心に20%以上の伸びを示している。 そこで本発表では、このような議論が高まるなかで本当に輸出の拡大は有望なのかを、果実の中で最大の輸出量をもち歴史も古いミカンを事例にその現状と拡大への課題について検討する。2.わが国におけるミカン輸出の近年の動向 わが国のミカン輸出は1980年代にピークに達して以来減少続きで、1990年代後半以降も回復の兆しはみられていない。輸出先についても、カナダ・アメリカの北米2ケ国で輸出量全体の約95%を占めている状況は従来と変わっておらず、東・東南アジア諸国への輸出もそれほど伸びてはいない。また、価格についても1990年の162円/kgから2003年の98円/kgへと大きく低下している。したがって、ミカン輸出の減少はカナダ・アメリカでの販売動向の結果であるといえるが、なぜこのように北米向け輸出が1990年代に減少してしまったのか。 その要因の1つは円高の進行による採算の悪化である。1980年代前半には1$=200円台であった為替レートは、1990年代前半には100円台前半へと大きく円高が進んでしまった。もう1つは、相手国の事情で、カナダについては、円高の進行とも関連して価格競争力を強めた中国産のミカンがカナダでのシェアを伸ばしたことが大きい。一方、アメリカについては、植物検疫上の問題が大きい。アメリカは、ミカンの潰瘍病やヤノネカイガラムシ等の病害虫の侵入に対して強い警戒を示しており、輸出希望国は生産園地の指定とアメリカ人検査官の立ち入り調査など数々の検査手続きを受ける必要があるのである。 このような状況下で、わが国の輸出ミカン産地ではどのような生産流通が行われているのか。以下では、静岡県の現状について検討する。3.静岡県における輸出向けミカンの生産・流通の現状1)旧清水市におけるミカン輸出への取組み 旧清水市は、静岡県で最大の輸出ミカン産地であるが、近年はその生産を大きく減じている。その要因としては、清水市でのミカン栽培自体が衰退傾向を強めていることと、ミカンの栽培品種構成が晩生(12月収穫)の青島種に大きくシフトし、通常11月に行われる輸出時に間に合うミカンそのものが減少してきたことが挙げられる。 現在、JA清水市では青島種以外のミカンのすべてを輸出に振り向ける方針にしているが、輸出向けミカンの採算は目標を大きく下回っている。しかし、そのような中でも労働力基盤が弱く青島種への系統更新を進めることに消極的な農家層にとっては、早生ミカンの輸出は国内相場の低迷する11月に出荷できることや、加工向けに出荷するよりもはるかに利益をもたらすことから、一定のメリットがあると認識されている。2)三ケ日町におけるミカン輸出への取組み 三ヶ日町は静岡県最大のミカン産地で、かつ近年輸出向けミカンの生産が増加している。これは、青島種の大玉果(3Lサイズ以上)の輸出に取組み始めたからである。青島種は静岡産ミカンの主力品種であり、国内販売でも有利に取引きされるため本来なら輸出向けに販売されるものではないが、大玉果は国内販売でも低価格なため、等級によっては輸出向けに回した方が利益が出るという判断がなされるようになってきたからである。 しかし、三ヶ日町で輸出に向けられているミカンは決してグレードの高いものではない。生産者は、国内向け販売から得られる収入との比較の中で輸出向けミカンを選別しているのであり、実態としては国内向け果実の最低ランクと加工向け果実との中間レベルの果実を樹上で選別して収穫しており、極めて特殊である。また、選果箱詰めに関しても農協が行うのではなく旧清水市内の集出荷業者に委託しており、農協の関与は国内向け販売とは比べものにならないくらい小さい。3)藤枝市におけるミカン輸出への取組み 藤枝市は現在ミカンの対米輸出を行っているわが国唯一の産地である。輸出指定園となっているのは、海岸から約10kmも離れた山間部の29haで、気候的に冷涼なため糖度重視の現在の国内市場へ販売するためのミカン作りには適していない。また、園地は急傾斜にあり農作業面でも条件不利地域である。輸出に向けられているのは、輸出指定園内で生産されたミカンの約50%で、品種的には青島種以外の品種の全量と青島種の3Lサイズ以上である。しかし、対米輸出は対カナダ輸出よりも高値で取引されていることから、三ヶ日町のように3Lサイズの中からさらに低級品を選別するといったことは行っていない。