著者
松崎 泰子
出版者
日本重症心身障害学会
雑誌
日本重症心身障害学会誌 (ISSN:13431439)
巻号頁・発行日
vol.39, no.2, pp.226, 2014

はじめに筋緊張の強い重症心身障害児(者)は、発汗が多く皮膚トラブルを生じやすい。その予防のため市販の涼感品Aやわらか雪枕® Bアウトラスト®シーツを使用し、その効果を検討するため、体温測定と皮膚のPH値測定を行った。健康な皮膚のPH値は弱酸性だが、発汗が持続するときや皮膚の汚れや感染などでPH値が上昇する。皮膚のPH値低下が皮膚の健康度と相関すると考え涼感品の効果の指標とした。対象筋緊張が強く夏季には発汗が多い重症児(者)6例。男性3名、女性3名、年齢14〜40歳。基礎疾患は脳性麻痺3、SSPE1、急性脳症後遺症1、頭部外傷後遺症1。全例痙直型四肢麻痺、横地分類A1。方法期間は2013年6月〜9月、環境温度は24〜26℃、湿度60〜80%。背部が発汗しているときで、涼感品不使用(コントロール)、A雪枕(背部に当てる)、Bシーツ(下に敷く)使用のそれぞれについて、直前と2時間後のPH値(背部)と腋窩の体温を4回ずつ測定した。PH値は皮膚用測定器(スキンチェッカーMJ120®) を使用。統計解析はWilcoxonの符号付順位和検定を用いた。結果不使用では体温低下は3/6、体温上昇は3/6。背部のPH値は4/6は上昇、2/6は変化なし。A雪枕では体温低下は6/6(p<0.05)、背部のPH値は3/6は上昇、2/6は変化なし、1/6は低下。Bシーツでは体温低下は4/6、2/6は変化なし。背部のPH値は5/6は低下(p<0.05)、1/6は変化なし。考察雪枕では体温低下効果はあったが、背部のPH値はコントロールとの有意な違いはなかった。シーツでは体温低下効果はあるも雪枕より劣っていたが、背部のPH値を低下させる効果があった。したがって、涼感品としての体温を低下する効果は双方ともあるが、皮膚の健康度の維持効果はシーツの方が勝っていると考えらた。また、腋窩の体温低下と皮膚のPH値低下は相関しないことから、涼感品の効果判定には皮膚のPH値測定も取り入れることが有効と考えられる。
著者
冨田 直 生田 陽二 三山 佐保子 雨宮 馨
出版者
日本重症心身障害学会
雑誌
日本重症心身障害学会誌 (ISSN:13431439)
巻号頁・発行日
vol.41, no.2, pp.242, 2016

はじめにオピオイドは非癌患者の呼吸困難に対しても効果があるとされる。今回、呼吸苦緩和および呼吸負荷軽減の治療の両方の目的でモルヒネを使用し、治療困難な肺炎から回復した症例を経験したので報告する。症例症例は8歳男児。原病は脳性麻痺・慢性肺疾患。在胎23週出生体重572gの超低出生体重児と脳室内出血による後遺症で大島分類1の重症心身障害児となった。1歳1カ月で新生児病棟退院後、呼吸不全を伴う下気道炎を繰り返し5歳時に単純気管切開を施行されている。その後、主治医と家族で急変時の対応について話し合い、人工呼吸器装着はしない方針となった。今回RSV感染による最重度の呼吸不全を伴う肺炎を発症し入院。事前の決定事項を家族に再度確認の上、方針に従いステロイド投与、RTXレスピレーター、肺理学療法、持続吸入等最大限の治療を行った。しかし、低酸素血症の進行を認め、治療継続による回復は困難と判断。入院4日目にICUに入室し、集中治療科の協力を得て治療と緩和両方の目的でモルヒネ持続点滴(0.4mg/kg/day)を開始した。病状はその後も進行し開始3日目にはSaO2のベースが40-60%台となり尿量も低下したが、それ以上の悪化はない状態が3日間持続。その後、ゆっくりと呼吸状態が改善、開始8日目にはモルヒネ減量開始でき、9日目に中止。入院71日で退院した。考察呼吸困難に対するオピオイドの効果は苦痛緩和以外に呼吸数低下による呼吸仕事量低下、肺血管抵抗低下による心負荷軽減などがある。RSV肺炎に対しては特異的な治療がなく、対症療法を行い回復を待つことになる。今回の症例ではモルヒネが直接最重度の肺炎を治療したわけではないが、呼吸困難による負担を軽減することで回復を助ける役割をしたと考えている。結語急性の呼吸困難時、オピオイドの使用は呼吸苦をとるだけでなく回復を支える治療的な効果を得られる可能性がある
著者
山内 美幸 小山田 圭吾 長谷 由紀子
出版者
日本重症心身障害学会
雑誌
日本重症心身障害学会誌 (ISSN:13431439)
巻号頁・発行日
vol.43, no.2, pp.376, 2018

はじめに重症心身障害児(者)は様々な原因より骨折しやすい状態にある。A病棟の患者の骨密度は非常に低く、骨折のリスクがあるにもかかわらず、個々の患者の特徴を捉えた明確な安全対策が取られていない。そこで、A病棟看護師にアンケート調査と骨折のリスクのある患者1名の更衣援助場面をビデオ撮影し、安全な看護ケアの検証を行った。研究目的骨折のリスクがある患者への更衣援助での問題点を明らかにし、安全な更衣援助を検証する。研究方法A病棟での経験年数を元に寝衣着脱方法や関節保持について、アンケート調査を行い実際の介助をビデオ撮影し寝衣着脱時の関節保持の実際を理学療法士とともに検証する。倫理的配慮当院の倫理審査委員会の承認を得た。結果アンケートでは経験年数を問わず看護師全員が関節を2点保持し介助していると答えた。その後無作為に看護師のケア場面をビデオ検証した結果、病棟経験年数が4年未満の看護師を含むペアでの更衣援助では、関節を2点保持することができていなかった。病棟経験年数が4年以上の看護師同志のペアでは互い協力し、アンケートどおり関節を2点保持し更衣援助を行っていた。考察経験年数が4年未満の看護師は寝衣着脱時に関節保持を意識しようとする知識はあるが、実際には2人で関節保持することの重要性や骨折に対する危険予測する行動がとることができないと考える。また、経験年数が4年以上の看護師同士は、患者の骨折を防ぐための行動を取ることができていたと考える。実際の更衣援助場面で、病棟経験年数の長い看護師が意識して病棟経験年数の浅い看護師に直接指導を行うことが安全な更衣援助につながるといえる。結論1.病棟経験年数が浅い看護師は更衣援助を行うことに意識が向き、安全な更衣援助ができていない。2.病棟経験年数が長い看護師は安全な更衣援助を行うためにお互い協力をしている。
著者
丸橋 朝奈 上村 ひろみ
出版者
日本重症心身障害学会
雑誌
日本重症心身障害学会誌 (ISSN:13431439)
巻号頁・発行日
vol.43, no.2, pp.277, 2018

はじめに出生後、心身中隔欠損閉鎖術を受け、24時間の呼吸器装着を余儀なくされた18トリソミーの男児に対し、母親は、「抱っこしてあげたい」「外出や外泊を増やし家族の思い出をたくさん作りたい」との想いがあった。その想いに寄り添うために、呼吸器離脱が可能な状態であることを確認し、離脱時間延長を試みた。結果、安全安楽な離脱環境を提供できたことで、児と母親そして職員との関わりが拡大し、外出や外泊の機会を増やすことができた。その医療と看護の実践を報告する。事例紹介6歳男児、18トリソミー、慢性呼吸不全、心室中隔欠損症術後。夜間呼吸器管理。看護の実際人工呼吸器装着時に、呼吸器の実測モニター画面で(1)自発呼吸の確認(2)体重に応じた1回換気量が45〜75ml以上、呼吸回数は30回/分前後であったが、呼気二酸化炭素分圧は31〜38mmHg、動脈血酸素飽和度は95〜100%と保たれていたことから、離脱が可能ではないかと考えた。平成29年2月17日に呼吸器の設定変更(酸素濃度を28%から25%、呼吸回数を25回/分から20回/分)。2月20日に呼気終末陽圧を5から4へ変更、呼吸状態に変化がないことを確認、1時間の離脱を開始した。2月27日から2時間、3月13日から5時間、9月20日から9時間、10月30日から16時間と段階的に呼吸器離脱を行うことができた。結果離脱中は、呼吸回数20〜27回/分、酸素飽和度97〜100%、心拍数60〜80回/分、呼気二酸化炭素分圧34〜37mmHgと保たれていた。離脱後に初めての散歩に出かけ、出発前は眠っていたが外に出た途端覚醒し、周りをキョロキョロと見ていた。その後、自宅へ4泊5日の外泊も可能となり、家族と仮面ライダーの映画を見に行くことができた。外泊の様子について母親は「テレビをじっと見たり、お姉ちゃん達にたくさん遊んで貰ったり、とても楽しそうにしていました」と話され、自宅で機器を気にすることなく、母と児がゆっくり過ごせる時間を提供することができた。
著者
辻 恵 渡邊 肇子 井合 瑞江
出版者
日本重症心身障害学会
雑誌
日本重症心身障害学会誌 (ISSN:13431439)
巻号頁・発行日
vol.40, no.2, pp.266, 2015

はじめに短腸症候群は小児における小腸機能障害の最多原因である。小腸移植の対象であるが、我が国の移植医療の現状では未だ経静脈栄養を半永久的に必要とする病態であり、家族・本人の抱える負担は大きい。われわれは先天性多発小腸閉鎖術後に短腸症候群となった脳性麻痺児に長期経静脈栄養管理を行った例を経験し、発達支援と管理上の問題点について検討する。症例34週2870g、Apgar scor5/7で出生。臍帯損傷による重症貧血、DICを認めた。先天性多発小腸閉鎖の診断で日齢16に回盲部を含む小腸を大量切除し残存小腸は6cmであった。短腸症候群のため中心静脈栄養管理が開始された。脳室周囲白質軟化症、症候性てんかんを合併。2歳1カ月で在宅へ移行したが、自宅での養育困難となり3歳5カ月で当施設入所。入所時の発達レベルは定頸までで、発語なし、刺激による啼泣が多く情緒不安定さが見られた。この時点で中心静脈ルート入れ替えの既往がすでに5回あった。使用したすべての中心静脈に血栓形成を認め、入所後も感染と閉塞、入れ替えを繰り返した。6歳8カ月時、左鎖骨下静脈の血栓除去術と中心静脈カテーテル再挿入後、抗血小板薬内服を開始したところ消化管出血から出血性ショック、敗血症となり集中治療を要した。6歳10カ月現在、経静脈栄養主体で少量の経腸栄養と経口摂取を併用し安定が得られている。未だ移動運動は不可であるがあやし笑い、聴覚刺激に対する表情変化や上肢の探索行動がみられ緩徐ながらも知的発達が見られている。考察脳性麻痺に加え中心静脈ライン維持の困難さは、在宅養育の難しさを容易に想像させる。度重なるカテーテル感染の完全制御は困難でエタノールロックなどの特殊対応をせざるを得ず医療依存的な状態といえる。今後は残存小腸の延長術も検討されており、安定したエネルギー供給と発達促進が期待される。多臓器に障害を抱えた本児への包括的対応が発達発育支援に不可欠であると考えられた。
著者
本間 りえ
出版者
日本重症心身障害学会
雑誌
日本重症心身障害学会誌 (ISSN:13431439)
巻号頁・発行日
vol.40, no.2, pp.198, 2015

私の息子は特に障害もなく生まれすくすくと成長していました。しかし、6歳になるころから「何か変だ」と思うことがありその頻度はしだいに多くなってきました。いろいろ病院をめぐり最終的に副腎白質ジストロフィー(ALD)いう希少難病であることが知らされました。そのときを境に、息子の宇宙飛行士になりたいという夢は断たれました。また、私も、それまでの人生設計とは異なる別の人生を歩むことになりました。 ALDの唯一の治療法は造血幹細胞移植です。しかし、発症早期に移植を行わないかぎり、その効果は限定的です。息子は、症状がかなり進んでから診断されたこともあり、造血幹細胞移植のお蔭でいのちは取り留めましたが、いまは寝たきりです。息子がALDと診断され、造血幹細胞移植というつらい治療を受け闘病生活を送っているときは、本当につらい日々でした。しかし、日々つらい治療に耐え「いのち」を一生懸命に生きている息子の姿を見たとき、息子が私のもとに生まれてきてくれたことに対する感謝の気持ちがわいてきました。 患者会を作ろうと決意したのは、同じ疾患の宣告を受けた家族を知りお互いに助け合う関係を築きたいという気持ちからでした。この患者家族の絆は、いまでは日本全国だけでなく海を越え世界にまで及んでいます。ALDは、発症前あるいは発症早期に治療することにより、患者の生活の質が大きくかわる疾患です。患者会では、早期発見のために、この疾患の存在を医師だけでなく一般の人にも知ってもらいたいという思いで疾患啓発にも力を入れています。 息子の介護と患者会の活動との両立は決して容易なものではありません。しかし、患者会の仲間や家族、そして何より病を持ちながら輝く命を送っている息子の支えがあり、私は毎日充実した日々を送っています。 そうです。患者とその家族には力があるのです。略歴1984年結婚後、長男・長女に恵まれ、ごく普通の専業主婦としての生活を送る。1995年長男のALD発症を機に、初めての介護生活を経験。2000年1月 「ロレンツォのオイル」の連絡網を元に、ALD患者の家族会「ALD親の会」を発足。会長就任。2006年全国から5家族が集い、顧問医を囲んだ第1回交流会を開催。2007年8月 東京慈恵会医科大学にて、「ALD親の会」主催第1回勉強会を開催。以降、毎年、全国(東京、大阪、名古屋、岐阜、鹿児島、北海道)で定期勉強会や、映画 <ロレンツォのオイル~命の詩~>上映会を開催。2010年8月 「ALD親の会」創設10周年記念勉強会を開催。2010年11月 雑誌STORY(光文社)11月号連載<私の服にはストーリーがある>にて、特集記事6ページ掲載。2010年12月 BS日テレ<よい国のニュース>にて密着特集放映。2012年4月 「ALD親の会」を母体として、「特定非営利活動法人ALDの未来を考える会(A-Future)」を設立。理事長就任。以降、全国の医療施設、大学医学部、セミナー等で、ALD啓発・介護意識向上・医療従事者育成のための講演多数。
著者
木村 英明
出版者
日本重症心身障害学会
雑誌
日本重症心身障害学会誌 (ISSN:13431439)
巻号頁・発行日
vol.41, no.2, pp.183, 2016 (Released:2020-08-08)

人類が誕生して以降、地球環境はめまぐるしくその姿を変え、人類の進化に大きな影響を与えてきた。「常春の大地」にあこがれる文明人・古代ギリシャ人の壮大な極北への冒険は、想像を絶する酷寒の自然に阻まれるが、それよりもはるか悠久の昔の氷河時代に人類がこの極北に入り込み、豊かな生活を繰り広げていたことが知られている。人類のダイナミックな移動、交わり、変遷を北海道の考古学を軸に据えつつ紹介したい。 1.氷河期の極北に挑むホモ・サピエンス マンモスが、地下に棲むモグラとして生きながらえてきたことを極北の民が語りついできた。マンモスは真に絶滅したのであろうか? 今から3万年ほど前の大昔、私たちの直接の祖先であるホモ・サピエンスが、北方ユーラシアに広がり、やがて日本列島やアメリカ大陸に足跡を残す。氷河期の酷寒の地で、マンモスの牙を巧みに利用する驚くべき技の持ち主たちが、北海道に及んだ可能性を追う。 2.黒曜石はるかな旅 人類は、道具を製作し、巧みに使いこなす類い稀な生物である。700万年間に及ぶ長き人類進化の歴史も、道具の発達に支えられてきたと言えよう。道具にふさわしい石材を求めて、人びとははるかな旅を続けてきた。北海道のオホーツク海に近い遠軽町・白滝赤石山(標高1147m)は、天然の火山ガラス、黒曜石の日本最大級の産地で、日本ジオパークに認定されているが、原産地の様子とともに、本州やサハリン・シベリアにまで運ばれる黒曜石と先史時代の人類の営みを紹介したい。 3.縄文時代のおしゃれと死への祈り 人類が人類である理由のひとつに、死者を埋葬する行為を上げることができよう。埋葬は、いつ始まったのか? 何故、わざわざ埋葬するのか? また、埋葬された人々には、当時の服装やおしゃれの姿を残す貴重な事例が知られているが、縄文人のおしゃれはどのようなものであったのか? 北海道にのみ分布が知られている巨大で、計画的な竪穴式集団墓を始め、恵庭市カリンバ遺跡で発掘された貴重な合葬墓の例に見られる埋葬の様子を紹介しつつ今から3000年ほど前の縄文人の他界観、優れたファッションの一端を探る。 4.北に広がるヒトとモノの交流 縄文時代以後、本州の稲作農耕文化から切り離された「停滞する北海道の文化」というイメージが広く、また長い間にわたって固定化されてきた。しかし、続縄文時代以降も、狩猟、漁撈を主体とした自律的な経済・文化を繁栄させてきた。一方で、本州からの強い文化的影響を受け、さらには北方の人々との交わりを通して独自の文化的変容を遂げてきた。続縄文や擦文文化、オホーツク文化の住居構造や道具、装身具などの変遷を通してその実態を探る 5.日本列島での人類進化史をめぐる論争と現状 アウストラロピテクス・アフリカヌスの化石を発見した人類学者・R.ダート博士が、人類は「殺し屋のサル」であると称した。事実、世界史に刻まれる民族・人種間の争いは枚挙にいとまがない。とすれば、人類の未来は無きに等しい。 日本列島に目を転ずると、アイヌ復権に向けて事態は大きく改善されつつある昨今であるが、日本人とは何か、アイヌ人とは何か、奥深い理解なくしての表面上の国策のみではなお心もとない。講演のまとめとして、明治期以来、人類学者、民族学者、言語学者などによって繰り広げられてきた「人種論争」の今日的到達点はいかなるものであるか、北海道の考古学の立場から展望する。 略歴 史学博士、ロシア科学アカデミー名誉博士。1943年、札幌市生まれ。1967年、明治大学大学院修士課程文学研究科修了。札幌大学文化交流特別研究所助手、文化学部教授、同大学大学院文化学研究科教授、同学部長・研究科長等を歴任、2008年に退職。国内を始め、イラク、ロシア等での考古学調査に従事。現在、白滝ジオパーク交流センター名誉館長、ロシア科学アカデミー考古学・民族学研究所特別研究員他。著書『マンモスを追って』(一光社)、『シベリアの旧石器文化』(北海道大学図書刊行会)、『まんがでたどる日本人はるかな旅』(監修、NHK出版)、『北の黒曜石の道―白滝遺跡群』(新泉社)、『氷河期の極北に挑むホモ・サピエンス』(雄山閣)他。
出版者
日本重症心身障害学会
雑誌
日本重症心身障害学会誌 (ISSN:13431439)
巻号頁・発行日
vol.43, no.2, pp.246, 2018

協力:学校法人文化学園 文化服装学院第44回 日本重症心身障害学会学術集会ファッションショーによせて僕のおしゃれ東部療育センターの来年成人を迎える吉田優希です。僕はおしゃれが大好きです。僕のおしゃれの原点は母で、僕が好きになった物や興味の持ったことには全力でサポートしてくれました。戦隊シリーズや孫悟空、学校でもとことん変身する楽しさを教えてくれました。そしてたくさん誉めてくれました。次は憧れるということです。僕の大好きなアーティストと同じジャージ、同じ衣装を着ることで気持ちもかっこ良くなれる気がします。自分でも少しかっこ良くなって、回りのスタッフが喜んでくれたり、驚いたりされるのもとても楽しくて嬉しくなりました。最後はこだわりを持つということだと思います。僕達は自分でお店に行ったりすることは出来ないのですが、好きな色や好きなスタイルがあります。僕の母は売っていない柄のネクタイを作ってくれたり、スマホでファッションサイトを見せてくれたりします。その中で僕の好きなアイテムを相談して決めています。大人の男になりたい今は、ときどきネクタイをしてスタッフを驚かせたりしてますが、できることなら毎日シャツにネクタイのかっこイイスタイルで毎日を過ごしたいと思っています。センターで過ごすときは、ラフなTシャツなどを着ています。襟元にこだわったりデザインにこだわったりし、サングラスも母との散歩時には必需品なので買い物のときは必ずチェックして買ってしまいます。母は男の子はかっこいい方が素敵だと教えてくれました。高校を卒業してから母に茶髪にしてもらい、いつか金髪かグレイ系にしたいなあといつも母と話しています。障害があるとおしゃれをしない人がたくさんいてびっくりしますが、ちょっとだけこだわったりすると僕達はかっこ良くなります。自分で考えたり悩んだりすると楽しくて、今まで似合わなかったのが似合うようになると欲がでてきます。おしゃれは僕の心も大人にしてくれました。回りのスタッフとのコミニュケーションツールでもあるし、母の支えでもあると言っていました。おしゃれのこだわりは車椅子にも持っていて自分の意思を伝えています。僕はこだわりを持ち、常にかっこ良くなれるように大好きな三代目JSBの今市隆二さんを目指して元気で過ごしていこうと思っています。僕達にとっておしゃれは生きていくために「感性と元気をもらえる素敵なこと」なのです。これからも色んなことを学んでいきたいです。今回、文化服装学院の先生や学生さんが、僕達の気持ちを受け止めてくれて本当に感謝しています。僕達のような障害を持つ仲間は、体つきも健常者とは違っていますし、手足も十分動かすことができないですが、それが僕達のチャームポイントだと思っています。さあ、これからどんなファションショーになるか本当に楽しみです。そして本当に本当にありがとうを心から贈りたいと思います。そして学生さんたちとの出会いを感謝し大切にしたいです。有難う!吉田 優希 母出演予定者(敬称略 50音順) 東京都立東部療育センター 岩瀬雅弘菊池未来佐田晴香内藤奈々山田桃子
著者
部谷 知佐恵
出版者
日本重症心身障害学会
雑誌
日本重症心身障害学会誌 (ISSN:13431439)
巻号頁・発行日
vol.42, no.2, pp.142, 2017

子どもの疾患に関する治療の決断は、親に委ねられることが多い。特に、子どもに障がいがある場合は、疾患の進行や成長発達に伴う二次的な障がいにより治療や手術を受ける機会が多く、親はその決断を迫られる場面に幾度となく遭遇します。子どもは成長発達しているため、治療や手術には適切な時期が大切で、その時期を逃すと、治療や手術の意味がなくなることがあるため、親はすぐに答えを出さなければいけない状況に立たされることもあります。    今回、私は家族として、医療者として小学校3年生になった甥の航大の股関節の手術を決断する妹を支えてきました。入学直後に医師から言われた「今すぐに股関節の手術をしなければいけない。」の一言に、私たち家族は選択を迫られました。航大は脳性麻痺で、ひとりで座ることも寝返りもできません。てんかんがあり、毎日何度も発作があります。そんな航大に、股関節の手術が必要なのか。弟や妹にまだ手のかかるこの時期にどうしてもやらなければいけない手術なのか。ようやく学校生活にも慣れてきたばかりの航大、今のリズムで生活を続けていけたらと思っていました。しかし、医師からは、早急に手術を決断するよう言われています。私は、勤務先の特別支援学校の看護師や教員に相談し、妹も、航大が通っている施設のスタッフや、以前通っていた施設の医師やスタッフ等多くの方に相談しました。患者会や学習会に参加して、先輩ママさんたちにもアドバイスをもらいました。手術に関する意見は分かれました。そのため、私たちはなかなか決断することができませんでした。  もっと、専門的な意見を聞きたいと思い、私たちは恩師が紹介してくれた小児専門看護師に相談しました。小児専門看護師は、私たちが心配していた入院生活や手術について丁寧に説明してくれました。説明を聞くことで、手術や入院生活がイメージでき、漠然とした不安が少し減少しました。妹の気持ちもいくらか手術に対して前向きになったようでした。そして、私たち家族はセカンドオピニオンを受け、手術をするかを決めることにしました。セカンドオピニオンを受けるため大阪の病院を受診しました。そこでも脱臼が進行しており、手術の適応であることが告げられました。ただ、最初に診察した医師とは違い、レントゲン写真と股関節の様子だけを見て早急な手術が必要だというのではなく、航大の全身状態や表情にも目を向け、今後起こりうる可能性のある股関節の痛みのこと、なぜ今手術をしたほうが良いのかについて丁寧に説明してくれました。すぐに決断を迫るような態度とは異なる温かい対応は、私たち家族に手術をする決断をさせるきっかけになりました。  医師から告げられる手術や治療の宣告はとても重たいものです。私たち家族には、周りに相談できる環境があり、親身になってくれる専門職に出会えました。その結果、手術を決断することができました。航大は、手術を受け、現在元気に毎日を過ごしています。子どもを持つ家族の中には、手術や治療の決断を迫られても相談できず、結論が出せない家族もたくさんいると思います。医師には、データだけをみて治療や手術の必要性を家族に伝えるだけではなく、子どもの表情や様子などすべてをみていただきたいと思います。そして、現在の医療を考えるとき、医療チームとして重症児に詳しい看護師(CNS等)とともに対応してもらえると、家族は相談がしやすくなると思います。治療や手術の決断の際、不安や心配を打ちあけることができる看護師を含め受診に関わる多くの職種の方に相談できる体制があると家族は救われると思います。 家族だけでは病気や障がいについて正しい知識を持ち合わせた支援者や理解者を見つけるのが難しいです。子どもと家族が手術や治療を決断し、大変な時期を乗り越えていける力を持てるような支援の輪は医療チームから広がっていくのではないかと考えます。 略歴弘前大学教育学部特別教科(看護)教員養成課程を卒業後、滋賀医科大学大学院医学系研究科看護学専攻に入学する。家族看護学を専攻。修了後は、岐阜大学医学部附属病院に勤務、糖尿病療養指導士として、糖尿病患者の指導にあたる。  脳性麻痺の甥の誕生を機に障がい児と関わる仕事がしたいと思い、岐阜県立希望が丘特別支援学校看護講師となる。この4月からは、特定非営利活動法人らいふくらうど放課後等デイサービスゆうで看護師、児童指導員として子どもたちと楽しく過ごしている。
著者
小沢 浩 林 時仲 土畠 智幸 齋藤 大地 金田 実
出版者
日本重症心身障害学会
雑誌
日本重症心身障害学会誌 (ISSN:13431439)
巻号頁・発行日
vol.42, no.1, pp.29-33, 2017

Ⅰ.はじめに厚生労働省は、地域包括ケアシステムを提唱している。地域包括ケアシステムとは、30分でかけつけられる圏域を日常生活圏域と定義し、地域包括ケア実現のために、医療、介護、予防、住まい、生活支援という5つの視点での取り組みが包括的、継続的に行われることが必須であると説明している。またそのために①医療との連携強化、②介護サービスの充実強化、③予防の推進、④見守り、配食、買い物など、多様な生活支援サービスの確保や権利擁護など、⑤高齢期になっても住み続けることのできるバリアフリーの高齢者住まいの整備、が必要不可欠であると述べている。今後、リハビリテーションについても、訪問リハビリテーションや、学校および通所施設など、病院以外のリハビリテーションがますます重要になってくるだろう。北海道は、広大であるため、障害児が地域に点在していることも多く、その中でさまざまな工夫を凝らして療育を担ってきた。日本は、高齢化社会を迎え、特に地域において、人口の減少、障害児の地域の点在化が進んでいくであろう。そのため、北海道モデルからわれわれが学ぶことは多く、新たなモデルを構築していかなければいけない。そのために、必要なのは、ライフステージを見据えた長期的視点による生活へのアプローチであり、多職種との連携の中でのリハビリテーションの役割を担っていくことであろう。以上の視点より、北海道の先進的な取り組みを紹介する。Ⅱ.北海道療育園における在宅支援北海道療育園 林 時仲遠隔過疎地域を背景にもつ北海道療育園(以下、当園)の在宅支援とその課題、解決策について報告した。当園は北海道旭川市にある医療型障害児入所施設・療養介護事業所で、入所336床、短期入所6床の入所支援のほか、通園事業所、訪問看護ステーションを併設している。主な担任地域は北海道北部、北・中空知および北オホーツクで、東京の8.5倍の面積に人口約65万人、163人の在宅重症児者が居住している。近年、在宅で療養する重症心身障害児者(以下、重症児者)と在宅で医療行為を行わなければならない「医療的ケア児」が増加している。この3年間で在宅重症児者(半数は要医療的ケア)は旭川市内で26人、全道で約200人増加した。遠隔過疎地は社会資源が少なく、在宅重症児者や医療的ケア児とその家族を支える調整役が不足し仕組みが十分に機能していないために彼らは多くの問題を抱えながら生活している。たとえば、短期入所を利用したくても地域に重症児者や医療的ケア児を受入れている事業所がないため、利用者によっては250km離れた北海道療育園まで車で移動しなければならない。緊急時には車が確保できなかったり、冬期間は吹雪で道路が閉鎖されるといった困難を抱える。地域の基幹病院は福祉サービスである短期入所を受託していない。当園ではこれらの問題に対し以下の支援を実施している。1.直接的支援:目に見える形で提供する支援サービスとして、①短期入所、②通所支援、③訪問リハビリテーション、④訪問看護、⑤日常生活補助具や姿勢保持具の製作と提供、⑥相談支援、⑦巡回療育相談、⑧外来療育等指導事業、⑨テレビ電話相談、⑩小児慢性特定疾病相談室の運営等を行っている。短期入所は空床利用型6床で年間400件、延べ2000日を受けているが、利用申請の2割は満床等当園の理由でお断りしている。また、入所支援と在宅支援を同一病棟、同一スタッフで実施することの難しさを実感している。短期入所枠の増床は物理的に困難であり、新規棟の建設が望まれる。小児慢性特定疾病相談室は平成27 年1月より中核市である旭川市から小児慢性特定疾病児童等自立支援事業の委託を受けて開設した。小児慢性特定疾病児童(重症児や医療的ケア児が重複する)を対象に自立支援員による相談支援やソーシャルワークが行われ、医療と福祉の橋渡しになっている。2.間接的支援:医療機関や福祉サービス事業所が重症児者や医療的ケア児の受け皿となってもらえるよう支援事業に取り組んでいる(資源の再資源化)。①職員研修(実習見学会、交換研修等)、②当園職員を派遣しての研修(出前研修、保育所等訪問支援事業、医療的ケア支援事業、子ども発達支援事業等)、③テレビ電話による遠隔支援等である。市立稚内病院小児科では当園で研修した看護師が中心となり、親の付き添いの要らない重症児の入院が始まった。道北のある就労支援b型事業所は出前研修後に生活介護事業所を併設し地域の重症児者の受け皿になっている。思いはあっても踏み出すことが難しい医療機関や事業所の背中を押して、一緒にやろうという姿勢が重要である。重症児者のための協議会を立ち上げて課題解決や相談支援等に当たっている。この協議会は周辺自治体に働きかけて重症児者のための協議会立ち上げを支援している。将来の仲間作りのために医学生や福祉科学生の実習を受け入れている。地域住民や首長に重症児者に対する理解がなければ在宅支援が進まないことから啓蒙活動にも力を入れている。課題と解決策:①北海道においては、地域の基幹病院など医療機関の医療型短期入所事業への参入が求められる。これには自治体による福祉サービス料と医業収益との差額補償や空床補償、国による報酬単価引き上げ等の対策が必要である。②当園のような重症児者施設における在宅支援が不十分である。当園では、家族の要望があるにもかかわらず、重症児者外来や訪問診療を始められておらず、短期入所や通園事業枠も長年増やすことが出来ていない。重症児者施設のさらなる取り組みが求められる。③厚労省のモデル事業により標準的な療育を学ぶためにテキストが整備されたが、研修を担う人材が不足している。これには協会認定重症心身障害看護師の活躍が期待される。④協議会の運営や研修活動が継続した活動となるためにはこれを国や自治体の事業とし、財政基盤を確保する必要がある。国は、人材育成や市町村・広域のバックアップ、スーパーバイズ機能を持たせた地域の中核となる支援センターを設置して支援体制の構築を進める都道府県等に補助を行っているが(重症心身障害児者支援体制整備モデル事業)、現時点で受諾は大阪府のみであり拡充が必要である。⑤調整役(相談支援専門員、自立支援員)の増員と地位向上、および「つなぎ先(受け皿)」の充足に最優先で取り組む必要がある。(以降はPDFを参照ください)
著者
米田 歩 平野 大輔 谷口 敬道 下泉 秀夫
出版者
日本重症心身障害学会
雑誌
日本重症心身障害学会誌 (ISSN:13431439)
巻号頁・発行日
vol.42, no.2, pp.262, 2017 (Released:2019-06-01)

目的 重症心身障害児(者)は、四肢に重度の障害があり既存の認知機能評価では発達段階を評価することは困難であり、客観的な評価方法が確立されていない。そこで、視線入力装置を使用することによる追視と物の永続性課題の評価方法の可能性を検討した。 方法 対象者は20歳代前半の女性、横地の分類ではA1、遠城寺式・乳幼児分析的発達検査法では2〜6カ月の発達段階である。本研究では視線入力装置(Tobii Pro X-2-30)を用いて、視線を測定し、Tobii studioソフトにて解析を行った。測定課題は「乳幼児の精神発達と評価」(I・C・ウズギリス/ハント)の認知発達課題を参考にして、カップで犬が隠れる課題を作成し、パソコン画面上に提示した。なお、5分間の課題を10日間、同じ課題を提示して視線の動きを計測した。スライド画面の注視時間から注視率を解析し、さらにカップを見ていた時間から課題注視率も解析した。課題注視率より、対象者の追視と物の永続性について乳幼児の発達課題通過率と比較し発達段階を検討した。 結果 注視率は初回時46%、最終時59%とスライドを見る時間が増加した。犬が1/2隠された場面の課題注視率は初回および最終時ともに100%となった。また、完全にカップに隠された場面でも課題注視率は100%となった。このことから、対象者の追視と物の永続性課題は8〜12カ月前後の発達段階であることが示唆された。 考察 対象児のように既存の評価バッテリーでは、発達段階の評価が難しい方であっても視線を用いることでより詳細な評価の可能性が示唆された。客観的な指標として発達段階が示されたことで、対象者の発達段階に合わせた玩具の選択や関わり方の一助となると考える。
著者
清家 幸子 川口 英里香 石黒 千鶴
出版者
日本重症心身障害学会
雑誌
日本重症心身障害学会誌 (ISSN:13431439)
巻号頁・発行日
vol.41, no.2, pp.319, 2016

はじめに私たちは2015年5月に予期せぬ死亡事例を経験し、当日居合わせたスタッフと周囲のスタッフの中に疑問が解決されないまま不信感につながり困惑した空気が病棟内に流れることになった。そのため事故分析チャートをもとにグループワークを行い事故要因の共有、初期段階でそれぞれの思いが語れる場となり、前向きに今後の事故再発防止に取り組むことができたのでここに報告を行う。事例63歳男性診断名は脳性麻痺、知的障害、徐脈頻脈症候群。大島分類:1。日常生活全介助、自力での動作は困難。事故発見時の状況19:10発見。発見時は布団に入床、多量の発汗、深めの側臥位、廊下と反対方向を向き顔を枕で埋めている体勢で心肺停止、嘔吐の様子もなく顔色蒼白、窒息または循環器疾患が主な原因として考えられた。実施および結果事故後の病棟の対応として、事実の確認を明確にし、皆が当事者意識を持ってもらいスムーズな業務改善を行うこと、リフレクションの機会にすることを目的とし、要因の背景を全スタッフと共有していくために6〜10名ほどのグループに分け説明した。また、疑問や不安な声に対してはミーティング等を活用し、早急に解決していくようにした。次に強化月間として2カ月間、ミーティング時に安全チーム10か条を読み上げ、指差し確認を実施。これによって皆が急変時に必要な情報を確認し、チームとして取り組むことで安全風土が構築されつつあると考えられた。考察チームで早期に事実背景を共有することは改善に向けた構築にはとても重要であり、分析を可視化することで一つの事例にはいくつもの要因背景が重なり合っていることを明確にすることができた。しかし死因が明確にされていないことで当日居合わせた職員の罪悪感は軽減することはできても無くすことはできない。医療事故調査制度の施行もあり、このような事故事例発生時のセンターとしてのシステムの構築が今後の課題となっている。
著者
今里 知世 山本 秀美 熊谷 あずみ
出版者
日本重症心身障害学会
雑誌
日本重症心身障害学会誌 (ISSN:13431439)
巻号頁・発行日
vol.43, no.2, pp.377, 2018

はじめにA氏は、人工呼吸器装着中であり、徐々に精神運動機能の退行がみられ、低い覚醒水準が持続している寝たきり重症心身障がい児(者)の状態にあった。幼少期の在宅での記憶や、食事摂取していたころの嗜好に関連した五感刺激を与えることにより、覚醒状態の改善・反応の改善・看護の好循環がみられたのでここに報告する。研究方法1)対象者:A氏 40歳代 男性 2)研究期間:2017年6月〜7月 3)方法 視覚:アイマスクの使用・高照度光療法の導入。聴覚:朝は生活音・日中はラジオや音楽・就寝時はオルゴールを流す。臭覚:家庭での朝の臭いを回想できるよう味噌・就寝時はミントの臭いを使用。味覚:いちご味の口腔スプレーを使用。皮膚感覚:乾布摩擦・爪もみを導入。時間を決めて刺激を行い、覚醒・半覚醒・睡眠の割合を研究期間前と期間中で比較・分析した。結果夜間の睡眠割合が29%増加し、日中の覚醒時間がわずかながら増加した。また、反応が乏しかったA氏に、目がパチッと開いたり、鼻をひくひくさせたり、口をもごもごして味わっているような動作や、手を払いのけるような反応がみられた。考察高照度光療法や、自律神経系へ作用するとされている皮膚感覚刺激の導入、夜間の睡眠環境の整備、在宅時の記憶や摂食時の嗜好に関連した五感刺激をバランスよく行うことで、1日のリズムが整い、入眠・起床時間の規則性が得られた。その結果、夜間の睡眠時間の増加、日中の睡眠時間の減少につながったと考える。また、日中の覚醒時間の増加と、積極的に五感刺激を与えていくという目標をスタッフが共有することでA氏への関わりが増えた。反応の乏しかったA氏が、目をパチッと開いたり、鼻をひくひくさせたりする様子を見せたことで、看護の与える影響の大きさを実感し、感動や喜びへつながり、さらにA氏との関わりを持つという看護の好循環につながっていったと考える。
著者
郷間 英世 吉田 高徹 牛尾 禮子 池田 友美
出版者
日本重症心身障害学会
雑誌
日本重症心身障害学会誌 (ISSN:13431439)
巻号頁・発行日
vol.42, no.2, pp.199, 2017

目的 特別支援学校に看護師が配置され医療的ケアを担うようになったものの、看護師と教員の立場の違いによる連携の困難さを感じることが少なくない。そこでその問題点や課題について調査を行った。 方法 対象は近畿地方A県の「医療的ケア」を実施している特別支援学校30校の教員各3名および看護師各2名である。質問内容は「情報交換が十分かどうか」、お互いに「望むことや、理解してほしいこと」などであった。回答は、選択式質問はχ2検定を、記述内容はコード化しカテゴリーに分類した。 結果 18校(60.0%)から回答があり、教員45名看護師33名分を分析した。障害について情報交換が十分と回答したのは教師42名(93.3%)看護師16人(48.5%)、ケアの手技について情報交換が十分と回答したのは教師37名(82.2%)看護師14人(42.4%)と看護師は教員より低値で有意差(いずれもp<0.01)を認めた。記述内容では、教員は看護師に対し『十分コミュニケーションが取れている』という記述もあったが、「最大限活動に参加させたい教員の気持ちを尊重してほしい」「安全第一で守り過ぎないように」など『教育活動の理解』や「看護の立場からの考えや方向性を教えてほしい」「教育の場での医療的ケアについて共通理解をしたい」など『看護の考え方の理解や話し合いの必要性』を望む意見もみられた。看護師から教員に対しては「生育歴や内服薬など」「保護者と教員のやり取りの内容」など『ケア以外の情報の伝達や共有』、「安全への意識」「身体的な問題の基本的な理解」など『教師の医療的考えの理解不足』、「教育計画を立てるときの相談」「打ち合わせや話し合いの時間」など『コミュニケーション不足』について多くの記載が認められた。 考察 医療的ケアが必要な子どもに関わる教員と看護師の考え方の違いが認められ、お互いの立場の理解や連携のあり方についての方法の検討が必要と考えられた。
著者
木村 英明
出版者
日本重症心身障害学会
雑誌
日本重症心身障害学会誌 (ISSN:13431439)
巻号頁・発行日
vol.42, no.1, pp.3-8, 2017-04-01 (Released:2019-04-01)

Ⅰ.はじめに 人類がアフリカで誕生したことを明らかにしたR.ダート博士は、その人類を「殺し屋のサル」と称した。古代メソポタミア、バビロニアの英雄・ギルガメシュも、王宮の守り神「ライオンを絞め殺す巨人」として描かれる。今日に目を転ずれば、無差別殺戮、移民・難民の排斥などの悲劇が世界に拡散している。歴史の生き証人、世界歴史遺産の破壊も報ぜられている。いずれもが、仮に捨て難き本性のなせる業とすれば、人類に未来はなかろう。 一方、近代科学が導入され始めた明治時代以来、日本列島人の起源を巡り、南方説がしばしば語られる。考古学は、混沌とした「虚実皮膜」の世界にまで分け入り、遺跡、遺物を通して人類が歩んできた歴史的事実を究める学問、とされる。はたしてどうか? 北海道の先史時代を話題の中心に据え、北半球の中・高緯度地帯に繰り広げられた人類のダイナミックな移動、ヒトとモノの交わり、豊かな心性世界などを紹介する。結びとして、日本列島人の起源論に関する今日的到達点を概述する。 Ⅱ.氷河期の極北に挑むホモ・サピエンス 700万年ほど前に誕生した人類は、やがて生まれ故郷のアフリカを飛び出し、ユーラシアへの旅を開始。180万年ほど前の最古級の原人化石と礫器の出土が、グルジアのドウマニシ遺跡から報じられているが、原人、旧人の足跡は、北欧など高緯度地帯を除くユーラシアの広い範囲に及ぶ。特に、南シベリアのアルタイ、中部シベリアなどに中期旧石器時代のムスティエ文化の洞穴・開地遺跡が多数残されており、旧人、すなわちネアンデルタールによる拡散、人口増加は疑いない。 近年の遺伝子研究の進展により、われわれの直接の祖先である新人、いわゆるホモ・サピエンスは、20万年ほど前にアフリカで誕生し、再び世界へ旅したことが説かれている。ミトコンドリアDNA分析から導き出された「イヴ仮説」である。その当初、ネアンデルタールとホモ・サピエンスとの遺伝的交雑はなかった、あるいはネアンデルタールはホモ・サピエンスによって絶滅に追い込まれたという不確かな説が支配的であったが、北回りルートのユーラシアでの考古学的証拠からは、両者の密接な交流、交雑は否定できない。 注目すべきは、現在より平均7〜8度も低かった最終氷期最盛期、ホモ・サピエンス、すなわち後期旧石器時代の人類が、マンモス動物群などの豊かな資源に支えられながら各種の道具や技術を高度化させ、多くの遺跡を残している事実である。コスチョンキ、メジリチ、マリタ遺跡など大規模な拠点集落があちこちに位置し、しかもとりわけ厳しい酷寒の極北にまで生活圏を拡大させている。北回りルートでの人類の拡散を物語る確かな証しである。 今から3〜1.5万年ほど前、北方ユーラシアに拡散したホモ・サピエンスが、日本列島やアメリカ大陸へも歩を進めている。マンモスの牙を巧みに利用する驚くべき技、細石刃を埋め込んだ植刃尖頭器(組み合わせ道具)など最新の道具を駆使する人々が、北海道に足を踏み入れたことは間違いない。なおこれまでのところ、更新世の人類化石と見られるものが琉球列島に偏在し、日本列島の後期旧石器文化の起源を南方に求める見解が有力とされる(小田静夫2011他)。ただし、それら「石器を使わぬ人」を起源とするには難がある。現状の考古学的証拠からはユーラシアでの人類拡散の北回りの波が日本列島に及んだものと予察する。 Ⅲ.黒曜石はるかな旅 人類は、道具を製作し、巧みに使いこなす類い稀な生物である。700万年間に及ぶ長き人類進化の歴史も、道具の発達に支えられてきたと言えよう。道具にふさわしい石材を求めて、人びとははるかな旅を続けてきた。北海道のオホーツク海に近い遠軽町・白滝赤石山(標高1147m)は、日本最大級の黒曜石産地で、置戸、十勝三股、赤井川と並ぶ北海道を代表する黒曜石産地である。黒曜石の化学組成分析法により出土石器の産地が同定され、産地から運び出された黒曜石の動き、先史時代人類の営みの一端が具体的に明らかにされている。 後期旧石器時代に、シベリアに住む集団が獲物や黒曜石を求めて白滝など北海道に進出し、集団間のやり取りを通して、白滝産黒曜石の原礫、あるいはその半加工品、完成品などが本州(遠くは山形県) やサハリンにまで運び込まれている事実は動かし難い。とりわけ、細石刃を特徴とする集団での長距離移動、遠隔地への搬出が著しい。最新の情報によると、白滝産黒曜石が中国東北部の吉林省にまで運ばれているという。 なお量こそ比較にならぬが、白滝産黒曜石の遠距離移動は、続縄文時代まで続く。 Ⅳ.縄文時代のおしゃれと死への祈り 1.3万年ほど前に始まり、1万年以上の長期にわたって農耕も持たずに存続した縄文文化は、世界にも稀有な文化と言えよう。氷河期を過ぎた日本列島の豊かな自然の恵みに支えられてのことであろうが、一方で、極東での新石器文化成立期に対比可能な縄文時代の草創期、あるいは縄文時代の「オホーツク文化」にも準えることが可能な早期の「石刃鏃文化」を好例として、縄文文化が独自の展開をしたとは言え、情報もモノも入らぬ閉ざされた世界では決してなく、ヒトとモノが行き交う開かれた社会であったことは注目されよう。 ところで、人類が人類である理由のひとつに、死者を埋葬する行為を上げることができよう。埋葬は、いつ始まったのか? 何故、わざわざ埋葬するのか? また、埋葬された人々には、当時の服装やおしゃれの姿を残す貴重な事例が知られている。縄文人の精神文化はどのようなものであったのか? ここでは、北海道にのみ知られる巨大で、計画的な竪穴式集団墓、そして他に類を見ない大量の漆製品に彩られた貴重な合葬墓の例を紹介しつつ、今から3000年ほど前の縄文人の他界観、優れた装飾の一端を垣間見る。 前者は、恵庭市柏木B遺跡で全容が初めて明らかにされた縄文時代後期後葉の竪穴式集団墓であるが、直径10〜20mほどの大きな円形の竪穴を構築し、その床面、ローム中の淡い黄褐色の床面に深さ1m以上の楕円形の土坑を掘り、順次、遺体を埋葬していった集団墓地である。納められた遺体にはベンガラが厚く撒布され、石棒や石斧、ヒスイ製玉類など被葬者にゆかりの装身具や副葬品が副えられた。中には、複数の遺体が同時に埋葬されたケースも含まれる。また遺体の埋納、掘削土を被覆、埋め戻し完了後に大きな柱状節理の角柱礫を土坑墓の前後に立てる例、あるいは大きな円礫を周辺に廻らす例、あるいは大量の円礫を土坑墓上に集積する例などがあり、墓標の社会的役割が注意される。竪穴式集団墓の構築当初から、所属集団別、階層別などによって人々の葬られる場所が想定されていたことを示唆する。きわめて計画的な共同墓地であったことが理解されよう。石棒、あるいは呪具を有する男性の族長、呪術師(シャーマン)がまとめる社会、緩やかな階層社会が浮かび上がってくる。千歳市キウスでは、竪穴径が40mを超える巨大なものも知られている。 一方、縄文時代後期末葉の恵庭市カリンバ遺跡では、櫛、腕輪、首飾り、頭飾り、帯などの漆製品、鮫歯、玉類など大量の装身具・副葬品に彩られた多数の遺体を埋葬した比類のない合葬墓4基(各々7人、4人、2人、5人の合葬)が、単葬墓多数とともに発見されている。大量、多種多様の漆製品はもちろん、色鮮やかな飾りに身を包まれた多くの人物がどのような関係にあったのか、またいかなる理由を持って同時に埋葬されたのか、断片的な人骨片から断定することは難しいが、墓の主人は、赤い漆塗り帯を装着した女性シャーマンの墓、一緒に眠る人物たちについては、推測たくましくすればそのシャーマンに身を任せた女性たちとみなすことができよう。シャーマニズムの精神世界、そして男性によってまとめられる社会がやがて女性によってまとめられる社会へと変動する様子を垣間見ることが許されよう。 Ⅴ.北に広がるヒトとモノの交流 縄文時代以降について、稲作文化から切り離された「停滞する北海道の文化」というイメージが固定化されてきた。しかし、続縄文時代以降も、狩猟、漁撈を主体とした自律的な経済・文化を繁栄させ、本州からの強い文化的影響、ヒトやモノの流動の余波を受けながらもその独自性を保持し続ける。一方で、北方の人々との交わりを通して独自の文化変容を遂げてきた。ここでの具体的な言及は省くが、続縄文文化や擦文文化、オホーツク文化などを特色づける各種の道具や住居構造、埋葬様式などにその変遷が表示されている。また、自家生産できなかった金属製品、貴重な奢侈品などに時々の距離関係がよく表れている。 Ⅵ.日本列島での人類進化史 近代化の黎明期、シーボルト父子による「アイヌ説」、E.モースによる「プレ・アイヌ説」、J.ミルンによる「コロポックル説」など欧米の研究者たちによって発議された「日本列島人」のルーツを探る議論は、坪井正五郎、小金井良精、鳥居龍蔵らに引き継がれ、華々しく繰り広げられたことはよく知られていよう。正確には、遺伝子研究が急速な進展を見せる今日なお、この課題に対する確かな回答は得られていない、というのが実情であろう。 (以降はPDFを参照ください)
著者
大越 桂
出版者
日本重症心身障害学会
雑誌
日本重症心身障害学会誌 (ISSN:13431439)
巻号頁・発行日
vol.42, no.2, pp.127-128, 2017

心が見える突破口 双胎第二子、819グラムの超未熟児で誕生した私は、重度脳性まひとともに現在28歳になった。一人では何もできなくても多くの人に支えられて今日を生きている。山積する課題の中にあっても、未来の希望やよいことを確信できることこそが私にとっての「幸せ」である。ここにいていい、と確かに許されている実感に包まれている。 全介助の重い障害者という私と、自由気ままな内面にいる私。独立した二人の私を生きてきた。二人が互いの距離に耐え切れなくなったとき筆談に出会った。外界に伝えたい内面の私を一言ずつ伝えながら、私は海の底の石から等身大の人間になっていった。 どの一日も常にそこにいる人に向かって「心をみて」、と叫び続けた。全身全霊で表現することだけは諦めなかった。私を人として関わる人といるときだけは、確かに人になれることを知っていたからである。 ここに至る忘れられない突破口が5つある。(その1・6歳) ハムストリング手術のために1年間入院した。初めて両親と離れる生活で、障害がある子どもがこんなに多くいることを知った。同時に、私の障害が一番重いことも知った。自力移動し、片言でも会話ができる子どもの要求は率先してくみ取られた。私は常に待ち続けた。一番最後でも、必ず関わってくれる人がいることも知った。 友だちの会話は面白くてたまらなかった。もっと聞きたくて、統制のない首を思わず持ちあげて見ようとした一瞬を、面会にきた母が見逃さず言った。「この子、わかっているのかもしれないよ。」(←そうなんだってば。気づくの遅すぎ・・心の声)(その2・7歳) コミュニケーション支援機器を利用して、スイッチで初めて「おかあさん」と呼んだ。自分の言葉を自分のタイミングで伝えることが私にもできるのだと知った。母は感動して泣いた。(←弟に先を越されたけど、私だって呼べた。嬉しくて泣いた)(その3・11歳) 伝えたいことが伝わらないストレスで嘔吐発作を起こすようになった。肺炎を繰り返して呼吸器を装着していたとき、スタッフの足音が聞こえるだけで不安になり心拍アラームが鳴った。服薬で眠っているように見えても実は起きているのかもしれないと母が気づいた。希望を聞いてもらえるようになり、好きな音楽やケアの要望をアラーム音と心拍数で伝えられるようになった。 (←本当に眠いとき話しかけられるとやかましい)(その4・13歳) 気管切開で失声した。通信手段がなくなり困惑した。支援学校の訪問教育で筆談を教わる。初めて文字を書いたとき、体中の細胞が口から飛び出すかと思うほど歓喜した。死んでもやり遂げると強く誓った。(←後に危篤のときに勝手にお別れを言われて怒りで峠を越えたことを伝えて溜飲を下げた)(その5・14歳) 常に介護で共に過ごす母と大喧嘩をした。それまでの恨みつらみをぶちまけてやっと対等になれた。初めて本当に呼吸が楽になった。(←母子の喧嘩は遠慮がない分壮絶) 詩を通して、多くの人と出会った。アーチストの表現と詩のコラボレーションは、想像もできない美しい世界を作り出す。表現する人も受け取る人もともに一度しかない今を共有し、いのちの存在を実感する至福のときを体験する。詩と触れた人々が行間に生み出す人間性に引かれる。美しいものを味わい、感動する心は当たり前のようで当たり前ではない。どの表現もすべての人が精一杯生きるいのちの表現として行っている。それらを感じ取るたびに共鳴する。自分自身が昨日よりも今日、ひとつ豊かになろうとする生命力でいっぱいになる。 誕生後10カ月の告知のとき。両親が聞いたという青年医師の言葉だ。 「この白い線は白質といって命令を伝える神経の道です。今は細くてよく見えませんが、刺激を与え続ければ、もしかしたら道が太くなるかもしれませんよ。」 『かもしれない』この一言がすべての始まりだった。 そうして、今日の私は幸せになった。略歴1989年、仙台市生まれ。819グラムの未熟児で誕生し、重度脳性まひ、未熟児網膜症による弱視など重度重複障害児として過ごす。9歳頃より周期性嘔吐症を併発し障害の重度化により要医療管理になる。13歳で気管切開により失声。筆談によるコミュニケーションを開始。2004年「第4回One by Oneアワード/キッズ個人賞」(日本アムウェイ主催)を受賞。詩と切り絵のコラボ展「みえない手」(2017)などのコラボ活動多数。2011年「花の冠」が野田佳彦総理大臣の所信表明演説に引用される。ブログ「積乱雲」http://plaza.rakuten.co.jp/678901/詩集 「花の冠」朝日新聞出版)「海の石」光文社(2012)、「あしたの私は幸せになる」ぱるす出版(2016)
著者
山際 英男 甲斐 結城 松木 友美 矢崎 有希 小町 祐子 軍司 敦子 山本 晃子 加我 牧子 益山 龍雄 荒井 康裕 本澤 志方 太田 秀臣 立岡 祐司 野口 ひとみ 高木 真理子 真野 ちひろ
出版者
日本重症心身障害学会
雑誌
日本重症心身障害学会誌 (ISSN:13431439)
巻号頁・発行日
vol.42, no.2, pp.262, 2017 (Released:2019-06-01)

はじめに 重症心身障害児(者)(以下、重症児者)は視覚刺激に対する応答がきわめて乏しい者があり、環境情報取得の制限から周囲の人や物との相互作用が乏しくなりがちである。何をどのように知覚しているのかの視覚認知機能評価は、療育上きわめて重要であり、自覚応答に頼らない視覚機能検査により、視覚情報提供の際の注意点を明らかにするため検討を行った。 対象 重症児者施設長期入所利用者50名(平均年齢37歳、男性26名、女性24名)、大島分類1:39名、2:4名、3:2名、4:3名、5:1名、9:1名。 方法 小町ら(日本重症心身障害学会誌、2013)の方法に準じて検討し、評価した。定性的視覚機能評価は対光反射、光覚反応、回避反応、視覚性反射性瞬目、睫毛反射、視運動性眼振(OKN)、注視、追視、瞥見視野)を調べ、反応状態により、反応あり、条件付き反応、反応無しの3段階の順序尺度で評価し、追視、瞥見視野は角度も測定した。注視・追視可能な者は縞視力測定を行った。機能の有無は評価に参加したセラピスト2/3以上の同意をもって判定した。 結果 各項目の反応出現率は睫毛反射94%、対光反射94%、光覚反応84%、視覚性反射性瞬目68%、注視66%、追視54%、瞥見視野52%、OKN58%、縞視力34%、回避反応40%であった。追視、瞥見視野の結果は個人差が大きく、かつ方向・範囲の制約がみられた。 考察 以上より対象者のうち、94%は情報取得手段として視覚を何らかの形で利用できる可能性があり、追視と瞥見視野の結果は刺激提示場所としてどの位置に提示すれば視覚応答が得られやすいかが示され、個別に考慮、対応すべきことが確認された。重症児者の多くは適切な視野を確保するための自動的な頭部コントロールが困難なことが多いため、「見える位置・距離」に対象を提示することが、残存視力を活かし豊かな相互作用につながると考えられる。
著者
中村 達也 野村 芳子 加藤 真希 北 洋輔 鮎澤 浩一 小沢 浩
出版者
日本重症心身障害学会
雑誌
日本重症心身障害学会誌 (ISSN:13431439)
巻号頁・発行日
vol.41, no.3, pp.445-449, 2016-12-01 (Released:2019-04-01)
参考文献数
14

大脳基底核損傷後には、咽喉頭の知覚低下により、不顕性誤嚥を来すことが多い。咽喉頭の知覚低下改善に、黒胡椒嗅覚刺激が有効であるとする先行研究があるが、これを小児に適応した報告はない。今回、黒胡椒嗅覚刺激により嚥下機能が改善した小児症例を経験した。症例は1歳3カ月時、脊髄梗塞後に生じた心肺停止による蘇生後脳症のため大脳基底核を損傷した。安静時の嚥下反射は認めず、気管内吸引は頻回であったが、味覚刺激時には嚥下反射惹起を認めた。また、嚥下造影検査では咽喉頭に嚥下前の食物の残留を認めるも誤嚥は認めなかったことから、咽喉頭の知覚低下が唾液貯留の主な原因と判断し、2歳3カ月より黒胡椒嗅覚刺激を行った。気管内吸引回数を指標に、A1B1A2B2デザインで検討したところ、黒胡椒嗅覚刺激時には気管内吸引回数が徐々に減少する傾向がみられ、最終的には1日数回程度まで減少した。黒胡椒嗅覚刺激は、本症例の咽喉頭の知覚を改善し、良好な唾液嚥下の契機となった。これは、黒胡椒嗅覚刺激が小児の咽喉頭知覚の改善にも有用である可能性を示唆する。
著者
大平 昌美 岩本 彰太郎 山川 紀子 樋口 和郎 岡村 聡 辻岡 朋大 綿谷 るみ 村山 萌 高橋 悠也 東久保 和希 福喜多 晃平 牧 兼正
出版者
日本重症心身障害学会
雑誌
日本重症心身障害学会誌 (ISSN:13431439)
巻号頁・発行日
vol.42, no.2, 2017

はじめに タナトフォリック骨異形成症(TD)罹患児では人工呼吸管理が必須であるため早期に気管切開が行われ、その後に経口摂取可能となる例も少なくない。しかし、生後から長期間の経口気管挿管を経たのちに摂食可能となった症例の報告はなく、特に喉頭蓋欠損を合併した症例に対する摂食嚥下訓練方法は確立されていない。今回、生後から長期間の経口気管挿管を経た無喉頭蓋合併TD罹患児に対して実施した摂食嚥下訓練の取り組みについて報告する。 症例 出生前にTDと診断された9歳女児。出生直後より呼吸障害のため人工呼吸管理されていた。諸事情から経口気管挿管管理が8年5カ月間続いた。その間、経鼻経管で栄養管理され、経口摂取は行われなかった。気管切開施行後、唾液の嚥下を認めたことから摂食嚥下訓練の適応があると判断した。訓練開始にあたり、喉頭内視鏡検査では喉頭蓋欠損を認めたものの声門閉鎖可能であった。嚥下造影検査(VF)では、水分およびミキサー食・まとまり食・ゼリーの形態を10°〜30°のギャッジアップの姿勢で試みたが、誤嚥および喉頭侵入は認めなかった。同結果を受け、週5回、1日1回の頻度でPTによる呼吸リハビリ後、STによる口腔内マッサージおよび経口摂取訓練を実施したところ、約1カ月にはヨーグルト10cc程度の経口摂取が可能となった。 考察 経口摂取開始にあたり、長期間の経口気管挿管に起因する声門閉鎖不全が懸念された。そのためVF前に喉頭内視鏡検査を実施したことで、喉頭蓋欠損を同定することができた。その後のVFでは、喉頭蓋欠損による誤嚥に留意したが問題なく嚥下できていることが確認できた。また、本症例は嚥下機能が比較的保たれており、感覚過敏等による摂食拒否がなかったことがスムーズな経口訓練につながったと考える。今後、経口摂取機能のさらなる 発達を促すにあたり、無喉頭蓋の嚥下機能への影響に関して精査・検討する必要がある。