著者
奥野 哲也
出版者
佛教大学
雑誌
教育学部論集 (ISSN:09163875)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.107-123, 2010-03-01

ソンディ・テスト(Szondi Test)の施行は1回実施するには、10分を超えない短時間での実施が可能である。したがって被験者に身体的な負担を掛けることが少なく、しかも「好き・嫌い」という、極めて単純なやり方の施行法であるから、心理的な負担も少ない。人物顔写真の「好き・嫌いの選択」といった単純で、簡単な方法であるため、施行年齢も3歳以上から可能であるなど、その適用年齢は驚くほど幅広い。また言語を基本的には媒介しないため、聴覚や言語の機能に障害がある場合や日本語を解さない外国人であったりする場合も、施行に困難をきたす事は少ないなど、他のアセスメント法に較べて適応範囲が広い。施行が簡単であるという事は、検査者の側の場合も、施行技術法習得のための訓練はあまり必要がない。他の査定技法に比較して、様々な利点があるにも係わらず、24時間以上・1週間以内という施行条件が設けられているために、正規法とされている10回施行を完全終了するには、かなりの時間が必要とされ、その結果、即戦力にならないのではないかという疑問が生じているのも事実である。そこで152人を対象として、1回法と2回目以上の施行で得られた反応の連関係数を産出する調査を行ったところ、かなりの因子反応において関連が認められ、1回法の有用性が明らかになったので報告する。前回報告では、h因子からp因子までの検討結果を掲載したが、その続編として、それ以降の因子の検討結果とまとめの報告である。
著者
稲吉 昭彦
出版者
佛教大学
雑誌
鷹陵史学 (ISSN:0386331X)
巻号頁・発行日
vol.38, pp.67-90, 2012-09-29
著者
古賀 瑞枝
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.1-18, 2013-03-01

福岡県久留米市の筑後川畔に鎮座する水天宮は、全国の水天宮の総本宮である。文政元年(一八一八)、時の久留米藩主有馬頼徳が江戸へ勧請、以後江戸の人々に篤く信仰された。江戸の流行神と見るむきもある。現在、水天宮は安産の守護神として信仰されるが、本来は水難除けの神であった。水難よけの神が、なぜ安産の神となったのか。また、高度に医療が発達した現代にあって、安産の神が信仰されるのはなぜか。これを明らかにするため、まず、久留米での初期の水天宮信仰について紹介する。次に江戸での信仰、近代に入ってからの信仰、当時の家族と社会について考察する。資料として江戸時代の随筆や日記、明治からは戯作・小説・新聞記事などを使用する。より庶民に近い資料を用いることで、市井の人々が水天宮によせた思いに迫れると考えるからである。その結果、人々の願いをすくいあげて変容していく神の有り方が浮かび上がったのではないかと考える。
著者
張 萍
出版者
佛教大学
雑誌
社会学部論集 (ISSN:09189424)
巻号頁・発行日
vol.49, pp.1-14, 2009-09-01

本稿の目的は,中国における高齢者虐待を定義付けることにある。人口高齢化の加速と高齢者人権意識の高まりにつれて,高齢者虐待という元来家族の内部に隠された潜在的な問題が,すでに顕在化した社会問題になってきている。しかし,中国はまだ「高齢者虐待防止法」を制定しておらず,高齢者虐待の定義も確定されていない。高齢者虐待の実態を把握するためには,その定義を明確化する必要がある。敬老の伝統を持つ中国では,高齢者虐待の行為は真っ先に道徳違反のものとして世論から非難を浴びせられる。その行為が重い場合,違法犯罪のものとして刑罰の対象となる。それゆえ,高齢者虐待の定義を考える際に,道徳と法律という二つの側面から捉えなければならない。現代中国の道徳規範と法規定は昔のものとはずいぶん異なってきているが,従来から継承したものもある。本稿では主に親子関係を軸にして,高齢者権益に関わる道徳規範と法規定の変化を歴史的な視点から整理したうえで,中国の高齢者虐待に定義を下すことを試みた。
著者
大藪 俊志
出版者
佛教大学
雑誌
社会学部論集 (ISSN:09189424)
巻号頁・発行日
vol.60, pp.131-145, 2015-03-01

近年,地域社会における課題の発見や解決にその地域に住む市民が主体となって取り組み,行政と協働しながら住みやすいまちづくりを目指す地域内分権の試みが,各地の地方自治体で実施されている。その背景や理由は自治体により様々であるが,住民自治の拡充と併せ,人口減少や財政の逼迫などの社会経済情勢の変化,公共サービスに対する需要の多様化・複雑化,地方自治制度の見直し(地方分権,市町村合併)など,地方自治体を取り巻く様々な環境変化に対応する必要性が指摘される。本稿では,「持続可能な基礎自治体」の確立を目指し,行政の改革と並行して地域内分権を推進してきた愛知県高浜市の取組み事例を検討することにより,今後の地方自治体の運営の課題と方向性を探る。そのうえで,持続可能な地域社会を確立するためには,行政基盤と住民自治の両面を強化する必要があることを指摘する。
著者
船引 一乗
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大學大學院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
vol.32, pp.57-70, 2004-03-01

清末以降、中国では様々な問題が発生した。その中の一つに"国語"の問題がある。その当時の知識人達は、どのようにこの問題に対処し、解決を模索していったのであろうか。この論文では民国初期にこの問題で活躍した二人の知識人、胡適、黎錦熙が、どのようにして"国語"を生み出そうとし、普及させようとしたのか、またその"国語"は一体誰の為のものであったのかを、その当時に二人が発表した文章、論文に沿いながら、検討していきたい。国語国文語体文注音字母
著者
大束 貢生 長光 太志 井上 未来
出版者
佛教大学
雑誌
社会学部論集 (ISSN:09189424)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.75-88, 2005-09-01

この小論の目的は,近年重要と考えられているボランティア活動やNPO・NGO活動などの自主的な市民活動の可能性を探るために,「子育てサークル」Aを事例として検討することにある。Aの設立者と参加者に自由記述およびインタビュー調査を行った結果,活動内容(理念),運営手段(場所の確保・毎回の参加・掲示板・勧誘・連絡係)双方とも,設立者の役割は大きいと考えられる。しかし,参加者はサークルの活動内容(理念)に共感しており,運営についても消極的な姿勢だけではないところが見受けられる。
著者
加澤 昌人
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
vol.42, pp.69-85, 2014-03-01

本論では、米沢藩二代藩主上杉定勝を生涯にわたって支えた直江兼続の妻おせん(後室=上杉家の呼称)の人物像を『上杉家御年譜』を中心にして論じ、次の点を明らかにした。兼続の死後も後室のために直江家は藩によって維持され、後室は、定勝に対し助言を行い、藩の上級役人を自由に動かせる立場にあること、藩主の婚家である大名家と応対ができ、幕府の証人にもなるという、大きな力を持ち特別な立場にある姿を明らかにした。また、後室の前夫直江信綱出自の総社長尾家の再興と、後室を上杉家の一員として高野山において供養するという点から、定勝の後室に対する生前と死後の孝行について明らかにし、後室が定勝の母としての立場を持つことも指摘した。さらに、直江家関係の文書が上杉家文書に多数含まれることと、その保存状況から、これらの文書は後室から定勝へ継承されたもので、ここでも両者の密接な関係を指摘した。
著者
満田 久義 Mulyanto Rizki M.
出版者
佛教大学
雑誌
社会学部論集 (ISSN:09189424)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.79-96, 2008-03-01

マラリアは,毎年2億から3億人の患者と,150万から200万人の死者を出す人類にとって最悪の感染症の一つである。日本では稀な病であるからといって,21世紀の地球社会で,毎日3千人もが犠牲になる悲劇に無関心のままでよいだろうか。マラリア問題の解決は,アジアやアフリカだけではなく,人類共有の課題であり,先進国の責任は重い。マラリアは,感染経路や発症メカニズムの医学的研究が進み,治療や予防が可能となっている。ではなぜ,現在もエイズに匹敵するひどい被害が続いているのだろうか。マラリア問題の根底には,医学的な要因だけでなく,劣悪な衛生環境や栄養状態,経済的貧困,社会資本不足,ジェンダー差別,教育の欠如など,人間貧困の悪循環からくる生存権のはく奪状況があるのだ。インドネシアでは,2005年の異常気象で,雨期の11月から3月にかけて激しい集中豪雨が襲った。洪水はマラリア原虫を運ぶハマダラ蚊の大発生を引き起こし,マラリア感染がアウトブレイク(大爆発)した。森林やラグーン(潟湖)の乱開発,都市化と工業化など社会変化による複合要因もアウトブレイクの背景にある。われわれは2006年4月から3年計画で,インドネシア国立マタラム大医学部と国際共同研究「マラリア・コントロール・プログラム」を進めている。そして,バリ島の東にあるロンボク島で,マラリア感染の社会疫学的調査(CBDESS)を実施した。同島では05年のアウトブレイクで,千人以上が感染し多くの死者が出たといわれている。CBDESS調査では,マラリア被害のあった村々の一軒ずつを訪ね,992人の世帯代表者から聞き取り調査を行った。87%の世帯で,貧しさから5歳までの子どもを入院させることができずに亡くしていた。また,半数以上が学校に行っていないか,小学校すら卒業していないなど,教育が欠けている状況だった。マラリアの知識も6割になく,夜間にシャワーやトイレを屋外でするなど感染の危険に身をさらしていた。調査結果を統計解析すると,収入や教育レベルの低さとマラリア感染の危険性とが深く関連していることが明らかになった。これまでのマラリア対策は,発生源のハマダラ蚊の撲滅とマラリア患者の早期発見と治療が中心だった。しかし,今回のアウトブレイクに関する社会疫学的研究は,従来の対策を根本的に見直すことが必要なことを示している。マラリアの被害を抑えるためには,貧困な地域での経済対策や教育の向上によって,母子の健康状態を良くしたり,感染を防ぐ生活習慣を広めることが重要だ。これは人間社会の問題であり,マラリアに対抗できる地域力を高める「コミュニティ・エンパワメント」が求められている。異常気象は,地球温暖化の影響の可能性があると指摘されている。そうであるなら,集中豪雨がもたらしたマラリア・アウトブレイクは,豊かな先進国のしわ寄せを途上国の最も貧しい人々,とくに子どもが受けたことになる。日本ができることは,経済的支援以外にも,たくさんあると考えている。たとえば,自らが村に入って,マラリア教育の手助けをすることもその一つだ。自分たちの行動が子どもの命を救うことを実感できれば,生きる意味を見失っている日本の若者やシニアにとっても,得難い体験になるにちがいない。マラリアから子どもを守る活動への支援の輪を広げていきたい。
著者
宮智 麻里
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
vol.43, pp.35-52, 2015-03-01

成田不動と歴代市川團十郎の関係は広く知られている。成田山新勝寺の初めての江戸出開帳の時に上演された『成田山分身不動』の最後に登場する初代市川團十郎とその息子九蔵が演じた不動明王に江戸の人々が惹きつけられたというのが定説である。しかし「流行神」が乱立し、開帳が頻繁に行われる江戸においては、それだけでは人々を惹きつけるのは難しかったはずである。本稿は、元禄以降、江戸の成田不動信仰の拠点であった「成田山御旅宿」の経営にかかわっていた講中と市川團十郎の贔屓には居住地と職業に共通点があることに着目し、彼らが成田不動を信仰した理由を再検証するものである。彼らは度重なる火災を経験し、疫病により経済的損失を被るという点でも共通している。そこで、元禄十六年の出開帳のときに演じられた『成田山分身不動』を分析し、倶利伽羅龍王(剣)信仰が日本橋地区の「江戸っ子」商人たちを惹きつけた背景にあったことを検証する。
著者
朴 光駿 呉 英蘭
出版者
佛教大学
雑誌
社会学部論集 (ISSN:09189424)
巻号頁・発行日
vol.43, pp.63-78, 2006-09-01

この研究は1987年成立した韓国の男女雇用平等法の成立過程を,社会統制理論の観点から分析し,同法律成立の政治過程を明らかにするとともに,その法律の成立過程に対する社会統制理論の説明可能性と限界を明らかにすることをその目的としている。社会統制理論そのものについても,その発展と内容,限界や批判,そして適用上の問題などを中心に,多少詳しく紹介している。研究方法は文献研究とともに,当時の男女雇用平等法案づくりに携わっていた担当者に対する面談調査が併用された。男女雇用平等法の形成過程については,主につぎの3点を中心に分析された;(1)その立法化が女性団体の立法要求に対する政府の反応であったのか,(2)政府,与党からみた政治的状況は,女性有権者を政治的に包摂する必要に迫られていたものなのか,(3)実際成立した法律の内容は,事前に計画されたものなのか,それとも予期されなかったものであったのか。研究結果は次のようにまとめられる;(1)男女雇用平等法は1980年代後半から成長してきた女性運動の組織化がその背景にあり,それは立法化の重要な圧力になっていた,(2)同法の立法化論議の時期は,総選挙と大統領選挙の時期と一致していて,その重要な目的は女性有権者の政治的動員であった,(3)実際に成立された同法律の内容は必ずしも女性団体の要求が反映されたものではない。平等法成立における女性包摂も女性平等労働権保障より既存の統治権維持を優先視し,核心的な政策決定に関する女性側の提案は受け入れられていない。
著者
黒沼 精一
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大學大學院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.175-188, 2007-03-01

本稿は、自然が美しい北海道において展開されている道州制議論と市町村広域合併議論の展開に関連づけ、北海道の特殊性を活かしたウェルフェアミックスの可能性を模索するものである。英国保守党政権における行財政改革、NPMと民営化政策を比較検討しながら、農村社会に必要な道州制議論における北海道型ウェルフェアミックスの提案を総括したものであり、コンサーバティズムの潮流を再認識していくものである。本稿の構成は、1ではウェルフェアミックス理論の形成過程から近年に至るまでの経緯を分析し、2では北海道における道州制議論と市町村広域合併議論の展開を把握するために地方政府と中央政府の主張を分析し、3では英国保守党政権における行財政改革からニューレイバー労働党改革路線への歴史的変遷、民営化政策、財政の健全化について分析し、北海道の農村社会に必要と思われる政策の<coreからsolution>の比較と関連性を述べた。4では農村社会に必要な道州制議論における北海道型ウェルフェアミックスの提案と北海道型リベラルアーツを総括するものである。本稿の特徴は、第一に北海道におけるインフォーマルセクターの活動を補完的に支援する福祉ビジネスを非営利セクターと営利セクターに類型化し、<コアコンピタンス(特殊性や長所)を伸ばして、社会貢献(地域貢献・国際貢献)に結びつけいていく地域振興>を<coreからsolution>として捉えていくところにある。第二に本来的なリベラルアーツ(自由七科)を北海道型リベラルアーツにアレンジして、道州制議論における北海道型ウェルフェアミックスに必要な七つの課題について総括するところにあり、北海道あるいは北海道の農村社会の発展に寄与するものである。
著者
佐伯 慈海
出版者
佛教大学
巻号頁・発行日
2016

終了ページ : 136
著者
上田 道明
出版者
佛教大学
雑誌
社会学部論集 (ISSN:09189424)
巻号頁・発行日
vol.58, pp.19-42, 2014-03-01

2007 年に成立した国民投票法は,その後施行され,現在では憲法改正の是非を問う国民投票の実施も制度上可能になっている。しかし,同法は成立時に18 項目にも及ぶ付帯決議がなされたように,未解決の多数の課題を積み残したままでもあり,その意味で,あるべき国民投票の姿をめぐってはなお議論を尽くす必要がある。本稿は同じ直接投票である住民投票の経験から,その国民投票の制度化論議に一石を投じようとするものである。
著者
小島 康誉
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 (ISSN:13498444)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.1-163, 2014-03-30

The purpose of this thesis is to clarify some questionable points in regard to the 4th expedition to Central Asia, specifically China Xinjiang, by Sir Marc Aurel Stein (1862-1943), the archaeological explorer born in Hungary and naturalized later in England. He spent 326 days for the expedition, leaving Srinagar in Kashmir on Aug. 11, 1930, and arriving back there July 2, 1931. During this period, even though Sir Aurel Stein encountered such troubles as "the cancellation of the visa and an immediate deportation" directed by the Government of the Republic of China, he struggled to reach the Niya ruins where he had established "glorious achievements" through three previous expeditions. He managed to excavate and collect 130 or so antiquities in the Niya ruins and others, all the while avoiding the Government's observers. I have visited Xinjiang more than 140 times since 1982 and worked on numerous Japan-China joint activities, including the restoration and preservation of the Kizil grottoes, archaeological research of the Niya ruins, archaeological research of the DandanOilik ruins along with the conservation of its wall paintings, a network to raise awareness of cultural property protection (www.wenbao.net.), and a provision of a grant for researchers engaged in conserving cultural relics. The results of this research and these studies were disclosed via reports and symposiums, and the efforts of Chinese as well as Japanese researchers are still being made. I also had an opportunity to present much of the research about the Niya and DandanOilik ruins at the "International Conference-Archaeology of the Southern Taklamakan: Hedin and Stein's Legacy and New Explorations," which was held in November 2012 at the British Library.Stein's reports helped me greatly as useful references in the course of researching in the Taklamakan Desert, which led me to become interested in his way of life and to write this thesis. As I have been fortunate to know Xinjiang very well along with the desert research noted above, I am in a somewhat better position to come to grips with Stein's undertakings than the academic scholars of Central Asia and the so-called "Silk Road enthusiasts." While Stein's first (1900-1901), second (1906-1908), and third (1913- 1916) expeditions were well known because a massive volume of his reports on those expeditions was published due to the great success of them, the report of his fourth expedition (1930-1931) was not issued due to a humiliating failure. Thus his expeditions to Central Asia were thought to be only three until recently and the fourth expedition was not well-known. As information of this expedition has gradually spread in recent years, the archival records of the fourth expedition were beginning to be disclosed. Yet there remain a number of unclear points. As references for my research, I have mainly used the following materials. The Xinjiang Archaeological Archives of Modern Foreign Explorers, Archives of Stein's Fourth Expedition to Xinjiang, and Historical Archival Documents of Sino-Sweden Scientific Expedition to North-West China, all of which were published jointly with Xinjiang Uygur Autonomous Region Archives. "Stein's Diary" was acquired from the Bodleian Libraries of Oxford University, and the "Stein-related Archives" was acquired from the British Museum – both of which deserve deep thanks and support. I also refer to Jeannette Mirsky, SIR AUREL STEIN : ARCHAEOLOGICAL EXPLORER published by University of Chicago Press in 1977; Susan Chan Egan, A LATTERDAY CONEFUCIAN: Reminiscences of William Hung published by Harvard University in 1987; Shareen Blair Brysac, Last of the Foreign Devils, Archaeology published by the Archaeological Institute of America in 1997; Annabel Walker, AUREL STEIN-PIONEER OF THE SILK ROAD published by University of Washington Press in 1998; Helen Wang, Sir Aurel Stein in The Times published by Saffron Books in 2002; and Wang Ji Qing, Deliberations on Stein's Diary of the Fourth Archaeological Expedition to China published by Gansu Educational Publisher in 2004. I would like to express my sincere appreciation to all parties mentioned above, as they provided me with important information and inspiration. Why did people like Professor Paul J. Sachs at the Fogg Art Museum of Harvard University, who understood how the views on cultural heritage were drastically changing among the Chinese (specifically scholars in Beijing), propose the Xinjiang expedition to Stein with a $100,000 grant? Especially considering that the funds were proposed following the Great Crash at the New York Stock Exchange (Oct. 24, 1929), which triggered the Great Depression? Harvard University envisioned filling the Fogg Art Museum with relics excavated in Central Asia. Langdon Warner at the Fogg Art Museum was not allowed to remove some parts of a wall surface on his second visit to Dunhuang. To make their wish come true they hired Stein as a "professional" explorer. America, a country with a short history, was longing for ancient cultural heritage. During the "Museum Era," when museums were being built one after another, people satisfied their desires with a variety of art pieces and antiques. Why did England, including its Indian Empire, continue to support Stein's Xinjiang expedition? Stein had brought a large volume of Central Asia's relics, including those from Niya, DandanOilik, Loulan, and Dunhuang, to the British Empire while championing the norms of the Imperialism Age. He was considered a great hero in terms of culture, similar to a general winning a war. To seize those relics by endorsing him was one of the best ways to show how great this imperial power was. I am wondering why a person such as Stein, who was superb in collecting information and familiar with Chinese affairs, misread thesituation in those days. Harvard University invited Stein to deliver a series of lectures at the Lowell Institute at the age of 67 just one year after he retired from the Archaeological Bureau of the Indian Empire. We can sense the desire of both Stein and Sachs for relics through their correspondences. Mirsky referred to Stein's attempt to climb Mount Mustagh Ata on his first Central Asia expedition in a rivalry with Hedin. While Hedin was proceeding with comprehensive research of the Chinese northwestern area jointly with China, Stein thought he could singlehandedly manage this expedition with British diplomatic power as well as his own exploring capabilities overriding objections from John Leighton Stuart and William Hung from the Harvard side. In the end of April the next year, he arrived in Nanjing to discuss acquisition of a visa with British Minister Miles Lampson on the 28th. The following day, the minister visited the director of the Nanjing Government's Foreign Affairs, Wang Zheng Ting, to submit memorandums regarding both Stein's expedition and arms exports requested by the Xinjiang Province. He pressed for the issuance of Stein's visa. On May 1, Stein, along with Minister Lampson, visited the Director of Foreign Affairs, Wang, to explain the expedition plan and request the visa. The visa was issued on May 6th and received 7th. The reason Stein asked the British Museum to subsidize the Harvard proposal was that he focused more on Great Britain's diplomatic power rather than on financial assistance. The visa could not have been issued without British involvement. The interpretation of this visa was widely different between the Chinese side and Stein, which led to the subsequent turmoil. The visa was described as " 遊歴護照", meaning "a travel passport." Minister Lampson also cited in his telegram of June 12, 1930, to the Secretary of Foreign Affairs of the Indian Empire, "Stein has merely been furnished with a passport for ordinary travel in Hsinchiang and Inner Mongolia, and, if he intends to collect antiquities and remove them from the country, he should submit to the Institute a statement of the object, scope and plans of his proposed research and obtain their approval." However, according to Stein's counterstatement (dated May 10, 1931) sent from Kashgar during his exploration to address reproaches from both the Chinese Foreign Affairs and the National Commission for the Preservation of Antiquities, "I received a passport authorizing me to travel in Hsin-chiang and Inner Mongolia for archaeological purposes, this permission being understood to include needful surveys…. It was on a definite understanding that I was to be allowed to examine and, where necessary, to clear any ancient ruins traced." He stated in "The Times" on July 16, 1931 on his way back to Srinagar: "Passport was understood to provide also permission for such survey work." And in the preface of the research report conducted in India and Iran, Archaeological Reconnaissance's in North-Western India and South Iran (1937), he stated, "…to obtain the issue by the Chinese Ministry of Foreign Affairs of a passport authorizing me to trace and closely investigate ancient remains in Hsing-chiang and Inner Mongol." Thus, both parties argued on different planes, and Stein was thwarted from entering China. Minister Lampson worked hard to successfully let him enter the country, but he was stuck in Kashgar. Finally, thanks to the tremendous efforts made by Consul General George Sherriff and others, Stein could proceed eastward on the South Road of the Taklamakan Desert on November 11, 1930. Observers dispatched by the Government accompanied him. Every trick came into play on the Stein side, wishing to reach neighboring Keriya without letting them know their true destination -- the Niya ruins. The Xinjiang side wanted to summon Stein to Urumqi to check on his intention. The scene was described in lurid detail in the Xinjiang archives, Stein's diary, and in the British Government's archives. Developing bronchitis, Stein had to stay in Keriya for treatment for 20 days or so. Soon afterward he advanced to the Niya ruins to research there for about a week and collected a number of relics. In spite of being summoned to come to Urumqi by Jin Shu Ren, the Chairman of Xinjiang Province, Stein ignored it because he may have anticipated that it was risky to return to Kashgar via Keriya carrying the relics. Thus he took a detour by circling the Taklamakan Desert and stopping at Cherchen, Charkliq, Korla, Kucha and Aksu. He finally returned to Kashgar on April 25, 1931. Stein negotiated through the Consul General to bring back the relics he had collected from the Niya ruins for research and then return them to China. But as his request ended in rejection, Stein had no choice but to leave Kashgar for home on May 18. Why did Stein "dig up" the Niya ruins despite the fact that research and excavations were forbidden? The collections of the ruins in Niya and other places rewarded him with the title of "Sir" as well as being naturalized in Britain. He needed to secure that honor first of all. He also had to perform "the relics providing agreements" with Harvard University and the British Museum. Stein also put the words "complete cleaning" in his dairy in place of "excavation" and let his Indian and Uygurian subordinates work ahead of him. Meanwhile, he kept records in a tent to keep the observers off guard. He also made investigations while the observers were sleeping. And what kinds of actions were taken domestically in China, including by the Central Government, Xinjiang and local regions? Social turmoil was prevailing there soon after the establishment of the Republic of China, intensive intrusion by foreign powers, and rivalry between the local warlords. In fact, the Xinjiang Province took a different tack from the Central Government. Concerning local treatment for Stein, a welcoming response was recorded thanks to the issue of an arms import in some quarters. Within Xinjiang, conflicting ideas were observed among local governments of Urumqi and other regions. Even among ethnic groups, different views were expressed. Stein received a big welcome from old friends, but some local supporters from the first expedition were arrested and cast into prison. Where are the relics collected by Stein now, as they were forbidden from being removed by the Chinese Government? Is the rumor true that some parts of the banned relics are stored at the British Museum? Though we can verify by Chinese archives that the relics Stein left at the British counsel in Kashgar were actually transported to Urumqi, no one knows their current whereabouts. That is because rumors have been spread that they are at the British Museum, in Beijing or were sold within China. The pictures that were banned from leaving along with relics are now stored at the British Library and at the Library of the Hungarian Academy of Sciences. In addition, how should we come to grips with the activities of bringing out cultural materials by explorers from abroad, including Stein's Britain, Germany, Japan, the U.S., and France? From the end of the 19th century through the beginning of the 20th century, when the "exploration boom" was being exploited by the major powers, excavations and removal of artifacts were partly allowed for research purposes. That is why every explorer from any country could hire people at the site and work together with them. However, that way of thinking had changed by the time of Stein's fourth expedition. We have to recognize that the activities conducted up until the third expedition should be clearly distinguished from those of the fourth expedition. It is no wonder that the fourth expedition to Xinjiang is denounced. While ideally cultural materials should be stored where they actually were, we often see examples where removed relics have been preserved, yet those left at sites were destroyed or scattered. England and Russia (the Soviet Union) raged an intelligence-gathering battle to expand territory across the entire Central Asia including Xinjiang after the middle of the 19th century. The explorers of each nation could be called vanguards in the intelligence-gathering battle to acquire territory. Because so many people from England and Russia lived in Xinjiang, somerecords show that it is similar to a settlement, which is the so-called "Great Game." Though we can see an old example of "The Great Game" in the area of the Wakhan Corridor in Afghanistan, it continues now not only in Central Asia but across the world. While the protagonist of Stein's fourth expedition was nobody but Stein himself, the "scriptwriter" and director were Harvard University and the British Empire, respectively. Stein's expeditions and research, which extended over a wide variety of fields, have been highly valued. Their spectrum, depth and volume are almost superhuman. We cannot discuss the history of Central Asia without referring to him just as we cannot easily pass over a huge mountain. It is also noteworthy that he offered what he had done to the public through a massive volume of books. Whereas Stein has been highly regarded in Europe as well as in Japan, the Chinese people consider him to be the epitome of a looter. "The lifetime explorer wandering around strange lands" who turned "his inferiority complex and defiant spirit against an irrelevant discrimination" into his own energy source is sleeping in Kabul.
著者
中井 真孝
出版者
佛教大学
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.1-19, 2015-03-01

専修念仏に対する糾弾の嚆矢たる「興福寺奏状」について、これまでの定説を覆し、停止要請がなされたのは専修念仏それ自体ではなく、専修念仏者の逸脱行為であったとする研究が登場した。専修念仏停止の院宣・宣旨は繰り返し出たので、歴史上類例のない宗教弾圧とみてきたが、改めて関係史料を読み直すと、これまで専修念仏停止とみなしていた歴史事象の多くは、必ずしも専修念仏そのものを停止したのではなく、問題を起こした専修念仏者への法的措置であった。これまで専修念仏停止を命令したと見てきた院宣・宣旨等は、元久二年、同三年、建永二年、建保五年、同七年、貞応三年と史料に現れる。これらを詳細に検討したところ、いずれも糾弾の対象となった専修念仏者への法的処断であり、考察した元久元年から貞応三年までの間、一度も専修念仏は停止されていなかった。
著者
原田 敬一
出版者
佛教大学
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.21-41, 2015-03-01

本稿は、新出の史料である「従軍日誌」一編を使用して、「日清戦争」を従軍者がどのように描いているか、を追究した『歴史学部論集』創刊号以来掲載してきた論考の続きである。「従軍日誌」の著者は、混成第九旅団野戦砲兵第五聯隊第三大隊第五中隊に属する将校(下士官の可能性は完全には排除できていない)であり、一八九四年六月六日から翌年二月一四日まで日記を書き続けた。戦争が終わって後の清書や、整然と整理された刊行物ではなく、戦場という現場で書いていた日記と推測される。しかもこの執筆者は、日本の大本営が、日清戦争開戦前に、「居留民保護」を名目に朝鮮に派兵した混成第九旅団のうち、最初に派遣された部隊の一員であったという特色がある。参謀本部が編纂し、刊行した『日清戦史』全八巻には、中塚明氏や一ノ瀬俊也氏などにより遺漏や改ざんの跡がいくつか指摘されており、そのことも、「従軍日誌」という軍人自身の記述により再検討することができる。『歴史学部論集』創刊号に六月六日から七月二六日まで、同第二号に七月二七日から九月一四日(平壌総攻撃前日)まで、第三号に九月一五日(平壌総攻撃日)から一〇月二三日まで、第四号に鴨緑江渡河戦にむかう一〇月二四日から、鴨緑江渡河戦、九連城攻略戦を経て、冬期の鳳凰城攻略戦情報までを掲載した。本号は、朝鮮の義州での冬営、年末の九連城ヘの進駐と続き、二月一八日突然終わる。今回がこの『従軍日誌』についての最終報告である。
著者
原田 敬一
出版者
佛教大学
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.43-63, 2013-03-01

本稿は、新出の史料である「従軍日誌」一編を使用して、「日清戦争」を従軍者がどのように描いているか、を追究した前号・前々号掲載論考の続きである。「従軍日誌」の著者は、混成第九旅団野戦砲兵第五聯隊第三大隊第五中隊に属する将校であり、一八九四年六月六日から翌年二月一四日まで日記を書き続けた。戦後の清書や刊行物ではなく、現場で書いていた日記と推測され、しかも執筆者は、日本が日清戦争開戦前に朝鮮に派兵した最初の部隊の一員であった。参謀本部が編纂し、刊行した『日清戦史』全八巻には、中塚明氏などにより遺漏や改ざんの跡がいくつか指摘されており、そうした点も、「従軍日誌」という軍人自身の記述により再検討することができる。『歴史学部論集』第1号に六月六日から七月二六日まで、同第2号に七月二七日から九月一四日(平壌総攻撃前日)までを掲載した。本号には九月一五日(平壌総攻撃日)から一〇月二三日まで掲載する。鴨緑江渡河戦以降は次号となる。