著者
崔 銀姫
出版者
佛教大学
雑誌
社会学部論集 (ISSN:09189424)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.19-33, 2009-03-01

本稿は,「戦争をメディアはどうかかわっていくべきか」の問題を,『ETV 2001・戦争をどう裁くか』のNHK ドキュメンタリーを糸口に,ジャーナリズムや,公共性,ナショナリズムといった三つの概念の絡み合いを社会的な文脈から照らしつつ,考察したものである。特に本稿では,2001年1月30日に放送された『ETV 2001』シリーズの第二部「問われる戦時性暴力」の番組を中心的に取り上げ,その番組が権力的な圧力によって支配的な表象として「改変」された問題を,放送メディアの公共性における「記憶」や,「他者」,「アイデンティティ」,「戦争」,「ナショナリズム」とのかかわりから探りながら,「マス」メディアとしてのテレビ・ジャーナリズムの位相に関連付けて考えようとした。結論の部分では,「ジャーナリズム」観点から今日の放送界の状況的な問題と課題を検討し,今後のマルチチュードな「市民的公共性」への期待を述べた。
著者
山本 千鶴子
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大學大學院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.93-103, 2007-03-01

ディラン・トマス(1914-1953)は南ウェールズのスウォンジーに生まれ、幼、少年時代はそこで過ごした。1934年にロンドンに住むようになったが、後に終生愛したウェールズに戻って、作品を生みだした。彼の詩は、初期、中期、そして後期と大別される。中期の詩は、詩人が幸せな幼、少年時代を過ごした地方の自然や四季などを通して体験した回想詩である。本稿では、中期の作品に当たる`Reminiscences of Childhood'(First Version,1943),`The Hunchback in the Park'(1941),`After the Funeral'(1938)をとりあげ、これらの作品中に描かれる<Sense of Place>について考える。トマスの心の故郷である<スウォンジー>、彼と共に成長したクムドンキン公園、彼が詩人として想像力豊かに歌っているその公園内でのせむし男と色々なものとの共感、そして田園的な環境のアン伯母の農場で体験した愛別離苦と彼自身が詩人としての復活などには、どのような<Sense of Place>が含まれているのか、本稿はこの点についての考察を目的とする。
著者
坂井 健
出版者
佛教大学
雑誌
京都語文 (ISSN:13424254)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.132-150, 2010-11-27

『小僧の神様』で、小僧が最初に入った屋台は、当時の最新のヒット商品鮪のトロを売り出した有名店であり、鮪一貫六銭という値段は、当時としても、かなり高い値段設定であった。それでも、小僧が執着したのは、番頭という身分への憧れがあったからなのだ。小僧がご馳走になった方の鮨屋は、古いタイプの江戸前鮨を出す店で、小僧は醤油をつけなくてもよいように調理された、盛り込みの大皿の鮨を座敷で箸を使って食べたのである。
著者
原 清治 山崎 瞳
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学教育学部学会紀要 (ISSN:13474782)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.7-18, 2006-03-14

近年の「学力低下論争」において、その中心にあった議論のひとつが子どもたちの学力の二極化であった。ゆとり教育によって、自主的に学習に取り組む姿勢が身につき始めた子どもたちがいる一方で、学力が低下し、「学びから逃走する子どもたち」が生み出されているというのである。本稿では、この学力の二極化現象において、学力が低下していない子どもたちの層に注目した。今日では塾に通うこと(通塾)が、学力を保障するうえで大きな影響力をもつことは先行研究より明らかであるが、塾に通う子どもたちの意識に注目した場合、時代の変化につれてその実態も大きく変化していたのである。インタビュー調査の結果、塾に通う子どもたちのなかには「塾がつらい」と感じている傾向もみられたが、それでも驚くほど長期に渡って通塾を続けるのが一般的であることが指摘された。その背景には、塾に通わない、いわゆる「勉強のできない子」たちとは明確に区別されたいという考えがはたらいているからであった。また、これまで塾がもち合わせていた「補習」型の機能が、学力低位の子どもたちから、学力上位群のなかにいる下位層(文中では「偽装エリート」群と表記)へと対象を変えており、塾の機能そのものにも変化がみられ始めていることも考察された。通塾する子どもたちの層の変化は、親がわが子を強制的に通塾させることが少なくなったことと無関係ではなく、親のなかにも子どもたちと同様に、教育に対する価値の二極化傾向が進行していると考えられる。
著者
山本 博昭
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
vol.40, pp.71-87, 2012-03-01

朝鮮総督府は、韓国「併合」以来、三次にわたる教育令改正により学校教育制度上の「国語」普及・常用政策を推進した。そして日中全面戦争以後、志願兵制実施及び徴兵制施行による朝鮮人青年を総動員する時期に至り、それまでの「忠良なる国民」から「天皇の神兵」「銃後の臣民」である「皇国臣民」となるための「国語」習得を推進するため、国民精神総動員朝鮮連盟・国民総力朝鮮連盟等との官民合同の「国語」普及・常用運動を展開した。1933年2月11日結成の在朝日本人民間団体緑旗連盟は、この官民合同の「国語」普及・常用政策推進をその事業方針に掲げ、運動を展開し、朝鮮植民地支配の一翼を担い支えた。その活動相を主として連盟発行の『緑旗』及び『大和塾日記』を対象に考察する。
著者
坂井 健
出版者
佛教大学
雑誌
京都語文 (ISSN:13424254)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.100-117, 1998-10-03

『野の花』論争で花袋が主張したいわゆる「大自然の主観」の論は、従来いわれている『審美新説』よりも、ハルトマンの美学の影響によって成り立っているものである。花袋は、ハルトマン美学を高瀬文渕に触発されて受容したため、その理解も文渕色の濃いものとなった。すなわち、冥想と人生修養の重視である。花袋は、ハルトマンの「小天地説」と文渕の「意象」の説とによって、「大自然の主観」の説を形成したと見られるが、その際、作者の主観を人生経験と修養によって徐々に進めていけば、「大自然の主観」に近づくことができると考えたので、冥想にこだわる必要がなくなり、修養がもっぱら重視されることとなった。ここに宗教色の濃い日本自然主義の源がある。
著者
松田 智子
出版者
佛教大学
雑誌
社会学部論集 (ISSN:09189424)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.99-110, 2001-03-01

本稿の目的は,性別役割分業を基盤とする高齢夫婦の問題,特に高齢男性の配偶者への依存性に焦点をあて,その依存性を規定している要因を明らかにすることである。ロジスティック回帰分析の結果,配偶者への依存度が高い群と低い群を分けるのは,学歴,家事遂行度,夫婦愛意識の3変数であった。すなわち,高学歴の男性,家事遂行度の低い男性,夫婦愛意識が強い男性で配偶者に対する依存度が高くなっていた。これらの分析結果から,高齢男性の中でも特に高学歴層に配偶者への依存度が強いこと,高齢男性の配偶者に対する依存性を軽減するためには,男性の家事分担の促進,夫婦愛にとらわれない意識が重要であることが明らかとなった。
著者
原田 敬一
出版者
佛教大学
雑誌
文学部論集 (ISSN:09189416)
巻号頁・発行日
vol.88, pp.15-29, 2004-03-01

第一次世界大戦で00万人以上の戦没者母出した英数仏三ケ国は戦後、戦場に大小の戦争慕地(軍用慕地〉を建設した。若物たちの大量死という現実は、相当な慰霊の施設を作ることを世論として国家に要求することになった。英仏の首都にある「無名戦の墓」が有名ではあるが、それは戦場に作られた基地のおり方を前提として存在する。逆ではない。こうたあり方の究明を通じて、国民国家の戦没者追悼の現代的あり方が考察されねばならはない。
著者
濱田 時実
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
vol.43, pp.55-71, 2015-03-01

大阪府富田林市にある美具久留御魂神社の秋季例大祭はだんじりが出る特徴がある。同地域は、「都市」や「農村」ではなく「郊外」と呼べる地域である。南河内においてだんじりが出る祭りは太子町にある科長神社の夏祭りで始まり、美具久留御魂神社の秋季例大祭で終わると言われている。したがって、だんじりが地域の祭礼における象徴ともなっている。本稿ではだんじりに関係する行事を主として取り扱う。これまでの地域研究において、民俗学が扱ってきたフィールドは大きく分けると「都市」「農村」「山村」「海村」に分類することが可能だが、現代におけるフィールドの概況は必ずしもそれらだけでは十分と言えない。祭礼研究においてもフィールドがそれらの分類に属していることを前提として論が進められているのが現状であり、祭礼研究の大きな課題である。本稿では、「都市」「農村」などに属さず、これまで民俗学が取り扱うことのなかった「郊外」という立場に注目し神社祭祀の現状を取り上げる。そして都市祭礼とも村落祭祀とも呼べない、郊外における神社祭祀の事例から、祭礼研究における課題を主張したい。
著者
■田 幸子
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
vol.38, pp.57-71, 2010-03-01

16世紀後半、キリスト教布教・伝道を目的に来日した宣教師によって伝えられ、日本語に翻訳された『イソップ寓話集』は、ローマ字口語体で書かれた『イソポのハブラス』と国字文語体で書かれた『伊曾保物語』の二種である。『イソポのハブラス』は、文禄2(1593)年天草学林で出版されたが、鎖国時代の発禁措置もあり、一般には流布せず、現在世界中に唯一冊、大英博物館の所蔵本があるのみである。一方『伊曾保物語』は、一般に広く普及し、芸の道の教えや子弟の教育のための教訓書として受容された。キリスト教の宣教師によって伝えられた書物であるにもかかわらず、鎖国後も『伊曾保物語』が出版され読み続けられたのは、物語の寓意が、その時代にふさわしい教訓として受け入れられたからであろう。『伊曾保物語』の本文と書物に引用された本文及び寓意に着目することで、日本の近世における『伊曾保物語』の受容のあり方を考察した。
著者
内山 淳子
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大學大學院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.79-93, 2006-03-01

少子化傾向が続く現在、その根本理由として、女性の子どもを産むことに対する心の問題が考えられる。主体的にライフスタイルを選択する女性の生き方は、結婚や家庭に対する固定的な考えを新たにし、子どもを産み育てる意識を変化させるものとなった。本稿では、エリクソンが成人の発達課題として掲げる「世代性(生殖性)」を中心的な視点として、社会文化的背景の推移による家庭教育と女性のライフコースの変化について検討し、子育て後の女性、子育て中の母親、および男女大学生に対して、子育ておよび家庭教育への意識を問う質問紙調査を行った。その結果、各世代の女性は共通して子どもをもつことに対する普遍的な価値を感じているが、実際の子育ての時期には否定的感情や孤独感を感じる母親が多くみられた。女子大学生では子どもをもつことに肯定的だが仕事との両立を希望する人が多く、大学生は家庭教育を基礎的な人間形成の場として重要視していた。これらから、子育て環境の整備により、本来子どもをもち育てたいと考える女性への支援の可能性がうかがえた。
著者
津田 敏
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学教育学部学会紀要 (ISSN:13474782)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.79-94, 2015-03-18

2014(平成26)年3月25日、「職業実践専門課程」に認定された学校、課程名が公表された。本稿は、専門学校の新たな道「職業実践専門課程」について、どのような学校が認定を受けたかを分析し考察した。結果、専門学校数が全国で中位から下位に位置する県の学校が、認定校の割合で上位に位置していること、認定校がゼロの県もあることが分かった。認定校は、県内外に複数校の学校を持つ専門学校が多く、認定ゼロ県の学校は、単独校が多いことが分かった。このことから、認定を受けた専門学校は組織力があるが、認定を受けていない学校で単独校は認定要件を満たすには非力と推察され、この制度を機に専門学校は二極化が進むのではないかと推察される結果となった。
著者
橋本 章
出版者
佛教大学
雑誌
鷹陵史学 (ISSN:0386331X)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.151-175, 1995-09-30
著者
青木 京子
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大學大學院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.67-81, 2003-03-01

『人間失格』の「コキュ」の問題については、志賀直哉の『暗夜行路』を想定した作品だと指摘されている。「コキュ」そのものを追及した論文もみられ、示唆的ではある。しかし、『人間失格』と『暗夜行路』の詳細な比較を通し、その根拠を提示した論文は見られない。『人間失格』の草稿には、「コキュ」の場面に「暗夜行路」の記述が見られ、『暗夜行路』を想定した作品であることは明確である。が、「コキュ」の問題だけではなく、母の欠落、醜い女や淫売婦の造形、代理母のような年上の女性との接触等、双方には多くの共通点が見られる。従って、『人間失格』は『暗夜行路』をかなり意識した作品であるといえる。『暗夜行路』は多くの女性と接触することにより、「暗夜」を乗り越え、「明るい」世界へと向かう作品であるが、『人間失格』は、徐々に女給や淫売婦との深みにはまり、全幅の信頼を寄せた内縁のヨシ子にも裏切られ、破滅してゆく。太宰は晩年には志賀直哉を辛辣に批判しているが(「如是我聞」)、志賀直哉の作品をかなり視野に入れ、作品を構築している(「懶惰の歌留多」、『津軽』等)。太宰は『人間失格』を構築するのに、志賀直哉の集大成ともいえる『暗夜行路』をかなり意識していたのではなかろうか。
著者
高場 秀樹
出版者
佛教大学
雑誌
京都語文 (ISSN:13424254)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.164-180, 2004-11-27

『孔雀』(『文学界』一九六五[昭四〇]・二)を素材となった事件記事と比較することで、その技法について考察してみたい。1、作中の「脅迫電話」の機能について。2、野犬の習性について。3、「2」の語りについて考察し、刑事の機能を追求する。4、作品の対応関係、特に「遠吠え」という語に着眼して、細君の意味を考察する。
著者
松本 桂子
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大學大學院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.53-64, 2006-03-01

「ハイビスカスとサルビアの花」は、ロレンスの詩集「鳥・獣・花』に収録されている長詩である。新約聖書の『ヨハネの黙示録』に登場する赤い竜を、隠れた題材として扱っているこの難解な詩を探究するには、同じくロレンスのエッセイ『アポカリプス』を無視する事はできない。両作品には、彼の思想、特にヨーロッパのキリスト教観が必然的に相対しているからである。『アポカリプス』との綿密な照合により、詩中で謳い上げる詩人ロレンスの内面の声に耳を傾けながら、そこに浮かび上がる赤竜の真意を解き明かすことを本稿での目的とする。ハイビスカスサルビア主義者怒り赤い竜