著者
川口 貢
出版者
横浜国立大学
雑誌
横浜国立大学教育紀要 (ISSN:05135656)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.88-102, 1973-10-31

1.都市中学生のcentral life interestをみると,勉強に重点をおいて生活しているといえる。そのため彼等の日常生活において活発な身体活動は貧弱である。これを満たすものが学校における運動部活動であると考えられる。運動部活動をしない生徒は,その時間をすべて勉強に使うというわけではなく,家の内外の遊びが身体活動の代償となっていると思われる。進学などと関連する塾やけいこごとは,彼等の運動部活動の障害にはなっていないように思われる。また,地域における各種スポーツ教室とか民間のサークルや団体の提供する活動への参加は,現在のところ低い。2.中学生においては,クラブ活動や遊びを通して親友を得たり友人関係を結ぶことが多い。運動部員は選手層と同好会的部員と名目部員にわかれる。運動部では,選手はやや勝つことに傾き,同好会的部員は楽しみと訓練をめざし,名目部員は楽しみを求めている。女子にくらべて男子の方がやや勝敗志向が強く,活動に対しても積極的である。運動部に対する希望や悩みとしては,施設や運営や指導の仕方に関するものを多くあげる。同好会的部員は楽しく仲よくやてていきたいと希望するのに対し,名目部員は全般的に多岐にわたる不満や悩みをあげる。換言すれば,これが彼等を名目部員にしている原因とも考えられる。3.好きなスポーツや遊びについては,アレア,イリンクス,ミミクリー的なものや,パイディア的なものより,アゴーンへの志向が強い。そして実際にやってみたい活動としては,サッカー,バスケットボール,バレーボールなどのアゴーン的な要素が強く,しかも集団で行うものを強く望んでいる。また,スポーツの試合で大切な点として,正々堂々とまじめに行うことや,苦しさに負けずにがんばることなどを高く評価している。彼等中学生は,スポーツや遊びに対して旺盛な興味と健全な意識をもっているとみうけられる。
著者
太田 健一郎
出版者
横浜国立大学
雑誌
一般研究(C)
巻号頁・発行日
1985

溶融炭酸塩燃料電池は第二世代燃料電池として注目され、我国においては通産省におけるムーンライト計画等で精力的な開発が進められている。ここでは高温,溶融塩という厳しい条件下での各種材料の劣化が問題であるが、特にカソードとして用いられている酸化ニッケルの溶解,アノード近傍での析出が電池の長期運転の大きな障害となっている。本研究ではまず現在用いられている酸化ニッケルの溶融炭酸塩中への溶解度を測定した。リチウム一カリウム二元系炭酸塩中への酸化ニッケルの溶解度は650℃、二酸化炭素1気圧下で40×【10^(-6)】(モル分率)であり、高温ほど溶解度は小さくなった。また、二酸化炭素分圧が大きくなると、溶解度は比例して増大した。これらは酸化ニッケルが溶融炭酸塩中へ酸性溶解しているとして説明できた。酸化ニッケルの安定性を向上させるために、他の元素を添加することを試みた。添加元素としては酸化鉄を選び、これと酸化ニッケルの固溶体であるニッケルフェライト(Ncx【Fe^(3-x)】【O^4】)に注目した。このニッケルフェライト中の鉄、ならびにニッケルの溶解度は純酸化ニッケルに比べてかなり小さく、リチウム一カリウム二元系炭酸塩中、650℃、二酸化炭素分圧一気圧下で、いずれも2〜2.5×【10^(-6)】(モル分率)と15分の1ないしは20分の1の値を得た。二酸化炭素分圧が大きくなると溶解度は増大するが、圧力に対する依存性は酸化ニッケルより小さく、溶融炭酸塩燃料電池の作動条件下ではカソード材としてのかなりの安定性の向上が期待できる。以上より、酸化ニッケルを単独で用いるよりは、これに他の元素を添加することにより、炭酸塩中での溶解度は減少し、溶融炭酸塩燃料電池のカソード材料としての安定性が向上する例のあることが判った。
著者
伊藤 信之
出版者
横浜国立大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2007

本研究の目的は,走幅跳の助走動作をバイオメカニクス的に分析し,大学生走幅跳選手の助走トレーニングへの適用の可能性を探ることであった.助走後半の走動作は,助走動作局面,移行局面,踏切準備局面に分けられ,それぞれの局面ごとに動作評価のための評価要素を抽出することができた.これによって,実際の競技会などで撮影された動画を対象にして,詳細な動作分析を省いても,的確な評価を行っていくことが可能となると考えられた.
著者
原田 洋 阿部 聖哉 目黒 伸一 持田 幸良
出版者
横浜国立大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2001

環境保全林の機能と構造を研究するため川崎市東扇島と熱海市の環境保全林を対象とした。リターフォール量とその季節的変動を明らかにすると同時に林床に堆積するリターの分解率を測定し、土壌動物の現存量との関係から、環境保全林の管理手法の基礎を確立するとともに、土壌動物相から環境保全林の自然性の回復の度合いを判定すること、樹木による煤塵の捕集量や樹種による付着量の差、ならびにCO2固定量の推定など環境保全林の機能と動態を総合的に把握することを目的としている。リターフォールの月別変化は東扇島では5月に落下量が急増し、夏期は少し減少するが、熱海では初夏にピークが現われている。この落下パターンの違いは熱海のほうが標高が高いため、温度の上昇時期が1.5ヶ月ほど遅くなることによるものである。リター堆積量と落葉量から平均分解率を算出すると、東扇島では64%、熱海では84%であった。これは落葉を摂食する土壌動物の現存量の差によるものであろう。CO2固定量は、m^2あたり熱海では31.3kg(平坦地)と58.7kg(マウンド上)で、1年間にそれぞれ9.1kg,8.4kg増加した。東扇島では23.4kgと25.1kgとなり、1.1〜1.2kg増加した。若齢林の熱海で高いのは立木密度の差によるもので、淘汰されるにしたがい一定量になるものと考えられる。樹幹流中煤塵量は熱海では9本の合計値で50〜60g、東扇島では6本の合計値で110〜170gとなった。樹木サイズは東扇島のほうが大きいが、煤塵量も多くなっている。また、雨量は林外前のほうが多いが,両地域とも林内雨中煤塵量が多く、環境保全林のもつ煤塵捕集機能の高さが確認された。土壌動物群数は熱海のほうが多く、土壌動物による自然の豊かさ評価においても高い値を示した。これは若齢林であっても周辺に土壌動物の供給源となる自然環境が存在しているからである。また、ササラダニ類による自然性の評価においても東扇島より熱海で高く、関東地方の社寺林や明治神宮林なみの高い評価となった。
著者
小川 慎一
出版者
横浜国立大学
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2007

1980年代半ばに最盛期にあった日本の小集団活動は、長期不況や製造拠点の海外展開、新たな経営手法への転換などにより、1990年代以降に実施する企業が少なくなった。しかし現在でも根強く小集団活動を続ける企業がある。そのような企業は従業員が継続的に改善をおこなうことに意義を認めている。普及団体や実施企業も産業構造の変化を敏感に捉えて、新たなニーズを発掘しながら多様な形態での小集団活動を模索している。
著者
小池 文人
出版者
横浜国立大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2003

地域の生物相の種の生態特性から野外の生物群集を予測できれば,外来生物の導入前リスク評価や地球温暖化に伴う生物群集の変化の予測が可能になる.種の生態特性からデータマイニングによって予測する,群集の組み立て規則(assembly rule)の研究がすすめば,これが可能になるのであるが,世界の研究者の間では必ずしも広く認知されていない.研究代表者もこの分野を1990年代前半に立ち上げたひとりであるが,世界的にこの分野の研究を活性化してゆく必要がある.この研究の目的は統計的なアプローチの開発と検証,および複数の気候帯の群集における組み立て規則の確立と予測可能性の評価である.その結果,種のプールの設定と侵入のターゲットの設定については,既存の有害外来植物リスク・アセスメント(Weed Risk Assessment)の検討の結果,侵入ターゲットを広域ではなく個々の群集に設定する必要のあることが確認された.また植物群集はただひとつのニッチからなっており,このため単純なロジスティック回帰を適用することができることが明らかになった.植物の種特性を暖温帯下部と冷温帯上部で測定し,既存の暖温帯上部のデータとあわせて,組み立て規則をもとめた.その結果,フロラの異なる様々な気候帯で,群集タイプ(極相林,植林地,刈り取り草地,耕地雑草群集)ごとに大まかにはほぼ同じ組み立て規則が適用できることが明らかになった.今後,この研究結果が外来種のリスク評価や地球温暖化後の植物群集予測などに応用されてゆくには,植物の生態特性のデータベースの公開が不可欠となる,研究代表者が立ち上げた「Plant trait database in east and south-east Asia(東アジア・東南アジア植物種特性データベース)」に,今回の研究プロジェクトで測定したデータを登録して公開した.
著者
吉岡 克成
出版者
横浜国立大学
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2010

本研究では,マルウェア動的解析技術の解析結果から検知・駆除といった対策を自動的に導出する方法について検討を行った.特に,ネットワークベース検知・ホストベース検知技術,駆除・無効化技術,遠隔検査技術について検討を行い,ネットワークベース検知手法,ホストベース検知手法,遠隔検査手法を提案・実装した.また,駆除・無効化に関する基礎検討を行った.
著者
田中 稲子 三輪 律江 松橋 圭子 谷口 新 尾木 まり 高辻 千恵
出版者
横浜国立大学
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2007

乳幼児を中心とする子どもとその保護者にとって日常的な居場所となるような街区公園の環境整備を目指して、保育施設による集団利用も考慮した公園に求められる様々な住環境要素についてアンケート調査等を通して把握するとともに、そのような屋外空間での快適な住環境やその必要性を体感できるような温熱環境等の物理環境に着眼した環境教育プログラムを開発した。
著者
深貝 保則 栗田 啓子 高 哲男 中山 智香子 西沢 保 姫野 順一 矢後 和彦
出版者
横浜国立大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2004

4年間の研究期間中に随時、Professor Micheal Freeden(オックスフォード大学マンスフィールド・コレッジ)およびProfessor Hansjorg Klausinger(ウィーン経済経営大学)の2名の海外共同研究者をはじめ、7ケ国15名の海外研究者の参加を得て、研究集会やセミナーなどを開催した。研究集会にあたっては当該の科学研究費補助金の研究組織メンバーをはじめ、国内の近接領域の研究者若干名も加わって、英文のペーパーによって討論をおこなった。19世紀の先進国のあいだでは「進歩」と「自由」を軸にした経済統治(経済についてのガヴァナンス)が比較的順調に進んだ。統一国家の形成それ自体が課題であったドイツやイタリア(および日本)は別格としても、原子論的・個人主義的社会像をベースにおいたブリテンや、実証主義を軸にエンジニア・エコノミストによる経済のアレンジを進めたフランスでは典型的に、進歩に信頼を寄せる方向にあった。しかし19世紀終盤になると、この枠組は大幅に修正を迫られた。現実的な歴史基盤の面でいえば、外交および経済を外延的に拡張させるストラテジーが相互に衝突を起こす可能性に直面しただけではない。各国の内包的な利害の面でも、産業化と都市化のうねりの帰結をめぐって社会階層間で、また一国経済の方向づけとその国際的連関のあり方をめぐって産業利害と金融利害との間で新たな調整を必要とする局面に差し掛かったからである。この研究課題の遂行を通じて、19世紀末からの局面転換を思想史的な観点から捉えた場合に、有機的なヴィジョンが持った構想力の重要性が確認された。T. H.グリーンやデュルケムに担われた有機体説的な社会観と、ダーウィンやスペンサーによって典型的に展開された進化論はともに、世紀転換期以降の社会のあり方や経済的な統治を構想する上で重要な役割を果たしたのである。
著者
中村 博之
出版者
横浜国立大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2007

本研究では、最近めざましい急進展を見せる在中国日本企業子会社において、数々の成功事例があることから、そのような実態の把握に努めた。さらにそれに基づき、今後の経営環境変化に対応する新たな日本企業子会社の管理会計システムの構築を行った
著者
Gamo Sigeo
出版者
横浜国立大学
雑誌
横浜国立大学理科紀要. 第二類, 生物学・地学 (ISSN:05135613)
巻号頁・発行日
vol.32, pp.1-10, 1985-10-30

1981年6月6日より8月4日まで,東京大学海洋研究所の白鳳丸によって,東北沖の日本海溝付近海域の海産生物を中心にした研究航海(KH-81-4)が行なわれた。この航海でビーム・トロールによって採集された次に示すクマ類2種(Diastylidae)は研究の結果,何れも新種として記載さるべきものであった。Makrokylidrus (Makrokylindrus) hystrix sp. nov.は,金華山の遙か沖のSt. 12-Bt (KH-81-4),水深6380-6450mより得られ,体長約17.3mmを有する雌であった。Makrokylin-drus属はBacescu (1962)によって,全自由胸節が自由関節しているMakrokylindrus亜属と,第3と第4自由胸節が互いに融合しているCoalescuma亜属とに分けられている。本新種はこのうちの前者に属する。本種に近似のものに,北大西洋の700-1100m深より知られているM. (M.) tubulicauda (Calman, 1905)と,ジャワ海溝の7160m深より記載されたM. (M.) hadalis Jones, 1969があるが,本新種の体表に生じている棘が,背甲前方,特に前側縁付近で長くなっていないこと,第3顎脚と第1歩脚の基節の形態などに相違がみられることなどによって,前述の2既知種から明らかに区別される。Leptostylis quadridentata sp. nov.は,金華山の遙か沖のSt. 11-Bt (KH-81-4),水深5350-5370mから採集された。体長約12.3mmの幼雌の標本はクマ類中では可成り大きい方であるが,第5歩脚が全く現われておらず,未だmanca幼生期にあるものと思われる。Leptostylis属の既知の種には,第5腹節背面に4歯をもったものは知られていない。ケルマデック海溝の4410と4450m深産のLeptostyloides calcar Jones, 1969には,第5腹節背面に奇異な突起物をもつが,背甲とこの奇異な突起物との形態は,全く本新種と異なっている。
著者
関戸 英紀
出版者
横浜国立大学
雑誌
横浜国立大学教育紀要 (ISSN:05135656)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.235-247, 0000

本研究では,質問に対してエコラリアで応じるCA12歳5ヵ月の自閉症男児に対する言語指導について報告する。対象児は,「買い物・トーストづくり」ルーティンの文脈を用いて,五つの型の質問に対する適切な応答的発話の習得を目的とした指導を受けた。「買い物・トーストづくり」ルーティンは,"導入","買ってくる物を決める","買い物をする","トーストを作る","トーストを食べる"の五つの場面から構成された。対象児のほかに,3名の精神遅滞児と1名の指導者がこのルーティンに参加した。その結果から,次のことが検討された。1)ルーティンのスクリプトの理解が深まるにつれて,言語の理解と表出が促進された。2)対象児は,標的行動とした五つの応答的発話のうち三つを獲得することができた。この結果から,応答的発話に困難を示す自閉症児に,共同行為ルーティンの文脈を用いた言語指導を行うことによって,質問に対して適切に応答できるようになると考えられた。3)質問に対してエコラリアを示す自閉症児の適切な応答的発話の習得過程は,最初にエコラリアが消失し,その後誤答をへて,正答が表出されるようになる可能性が示唆された。4)What型,Which型,(Where型),Who型,Whose型,およびHow型の質問に対する応答的発話の習得の順序性に関しては,自閉症児と健常児は同様であると考えられた。
著者
福田 周 小川 捷之
出版者
横浜国立大学
雑誌
横浜国立大学教育紀要 (ISSN:05135656)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.21-39, 1988-10-31

The purpose of this study is to discuss the dependency and sex role in interpersonal relationships in female adolescents. Two questionnaires were administered to 123 female university students and 60 female technical college students. The first questionnaire asked Ss how dependent they were in what mode on 5 objects (father, mother, the most intimate friend of the same sex, the most intimate friend of the opposite sex, i.e., love object, the most intimate brother or sister). The second was a MHF scale composed by Ito (1978) asking Ss the view of sex role they had. The following 2 points were discussed:(1) The generally dependency structure on objects close to female adolescent.(2) The relation between the dependences and the view of sex role. The main results were as follows: There were differences in quality with objects in dependency structure.(2) Female adolescents depended on their fathers on the instrumental side.(3) Female adolescents depended on their mathers on the emotional side.(4) Dependency structure in them had each differents with every view of sex role.
著者
関 彌一郎
出版者
横浜国立大学
雑誌
横浜国立大学人文紀要. 第一類, 哲学・社会科学 (ISSN:05135621)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.A23-A45, 1977-11-30

In England, an interesting and important Act called "Congenital Disabilities (Civil Liability) Act" came into force on July 22, 1976. Although the Act passed the Parliament as being a provisional step (interim measure) pending more comprehensive legislation, it may, at the present stage, be considered as a definite criterion whereby the litigious conflicts between the injured child born disabled or with disabilities and the negligent person who has produced an effect on the child en ventre sa mere would be decided. The gists of the provisions in the Act are as follows: (i) A child born alive with a disability caused by someone's fault, either before or at the time of its birth, or before conception, should be entitled to sue in respect of that disability-Sec. (1) & (2). (Only a child of the first generation is entitled to sue.) In relation to pre-concepetion occurances, the defendant, provided he is not the father, is not liable to the child if either or both of the parents knew of the risk of the child being born disabled as a result of such occurances-Sec. 1 (4). (ii) A child so born can not sue its mother if her conduct was the cause of its disability-Sec. 1 (1), except when that disability was a result of her negligent driving of a motor vehicle whilst pregnant with it-Sec. 2.(There is no such limitation on the child's right to sue its father.) (iii) A defendant is not liable in respect of a disabled birth if the advice or treatment given by him in a professional capacity is in accordance with "then received professional opinion." The mere fact of a departure from such an opinion does not necessarily involve liability-Sec. 1 (5). (This is a reflection of rules of the Common Law and is included in order to avoid doubt.) (iv) The fact that the mother is volenti, enters into a contract whereby a third party's liability was excluded or limited, or is contributorily negligent, will adversely affect any action by the child when born alive-Sec. 1 (6) & (7). However, a parent's predecease, failure to take action or inability to take action because he or she suffered no actionable injury, will not debar the action of the child-Sec. 1 (3). (v) The compensation provisions of the Section 7 to 11 of the Nuclear Installations Act, 1965, is to be applied, where damage results from a nuclear incident, and a child is born subsequently with disabilities which are attributable to the incident-Sec. 3 (1)-(3). And in such a case, the contributory fault of the plaintiff is regarded as the contributory fault of person under the Section 13 (6) of the aforesaid Act-Sec. 3 (4). (vi) Damages for loss of expectation of life can not be recovered unless the child lives for at least 48 hours-Sec. 4 (4). In these provisions, there are several problematic points of view whereof we have to take notice carefully. For instance, the liability under this Act is said to be called "derivative liability", because "just as in life injuries to the child may be ascribed to an event involving the parent, so in law liability to the child is derived from liability to the parent" (cf. Mr. R. Carter, H.C. vol. 904, col. 1592). As regards such a kind of civil liability, here remains a certain kind of ambiguity or obscurity, as is expressly mentioned by the Law Commission that there were "technical" difficulties in stating a general rule (Law Com. Report, Para. 45-52 & 75). And for instance, it is said that Section 1 (6) of the said Act created a new exception to the doctrine of "privity of contract" (cf. M.D.A. Freeman's annotations of this Act). And again for instance, it is said that the said Act effects, regardless of the attitude of common law, or contrary to the way of thinking of common law, a revival of that notorious doctrine of "Identification" (cf. P. J. Pace, M.L.R. vol. 40, No. 2, p. 157). To his regret, the present writer could hardly realize these difficult points completely. Still more, there stand a good many Common Law rules or doctrines all of which are hard nuts to crack for him, -for example, a well-known legal maxim of "Actio personalis moritur cum persona [A personal action dies with the person]," or "Damnum sine injuria esse potest [There may be damage or loss inflicted without any act being done which the law deems an injury]," or "Volenti non fit injuria [That to which a man consents cannot be considered an injury]," etc. And more, "neighbour principle" in the case of Donoghue v. Stevenson as to the duty of care in the law of torts, or "sine qua non [without which nothing] rule" as to the proving a causal nexus between the defendant's wrongful act and the plaintiff's defective condition on birth, or "last opportunity doctrine" as to the contributory negligence, and so on. All these profound rules, doctrines, or principles above, are, in the writer's view, too complicated to understand, and still ought to be searched and studied in order to deeply comprehend this Act in the context of Common Law tradition. At any rate, it would be the fact that this Parliamentary Act considering the protection and/or remedy (albeit they means only "compensation") of children who are injured owing to "some person's fault" as in the Thalidmide or Minamat types of cases, established the progressive or one-step advanced principle, by which the conventional rules of Common Law would get to be shaken or shocked. Thus, these traditional rules are sure to be re-examined in compliance with the "Zeitgeist" of this age. Now, the present author brings to his mind the seemingly well-worn proverbs, "Hard cases make bad law," as well as "Hard cases make good law." Didn't we Japanese, feel those tragic cases of Thalidmide and Minamat litigations as "hard cases"? And shall we think of this Act in England, as "a bad law" or "a good law"? If it be bad or good, the author considers, we Japanese, especially members of Legislature, seriously have to watch the application and effect of this noteworthy Act, with eyes wide-open and with keen interest.
著者
守屋 康正
出版者
横浜国立大学
雑誌
横浜経営研究 (ISSN:03891712)
巻号頁・発行日
vol.24, no.4, pp.357-373, 2004-03

1970年代前半,ラジカセやポケット電卓が市場にでまわり,電子機器のポータブル化が浸透を始めていた.当時急速な進化を遂げつつある半導体技術の賜物であり,その中核は情報技術を劇的に進化させるマイクロプロセッサである.マイクロプロセッサはまさに産業の米ともいえる存在で,それまで空調設備の備わった快適な部屋に鎮座していたメインフレームの存在を脅かし,一方では人の目に触れずに電化製品や産業機器の中へと浸透を開始した.しかしながら,人々が今日のように携帯電話を持ち歩き,ワイヤレスでかつてのメインフレームの何万倍もの処理速度をもつパソコンを利用する姿を,当時誰が想像できたであろうか.いつの世にも将来の予測は極めて難易度が高い.バトラー・ランプソン,チャック・サッカー,ボブ・メトカルフ,アラン・ケイをはじめとするゼロックスPARCの著名な研究者たちは,30年以上も前に今日の情報化社会を展望し,自らの夢の実現に向けた研究成果としての技術的な礎を築いた.これらが技術の進化の過程であるとするならば,米国西海岸のシリコンバレー型モデルとでもいうべき新しい産業構造の興隆が,情報技術の進化にもたらした影響も計り知れない.シリコンバレー型モデルとは,半導体,コンピュータ本体,周辺機器,OS,アプリケーションソフトウエア,ネットワーク基盤,ネットワーク機器,ネットワーク管理ソフトウエア,各種サービスプロバイダなど,コンピュータやネットワークのアーキテクチャを構成するベンチャー企業の固有技術を統合するマルチベンダ型の事業モデルをさす.すなわち,メインフレーマとその傘下の企業が提供するクローズドなシングルベンダシステムの対極である.このシリコンバレー型モデルに参加する企業群は,デファクトスタンダードに沿ったオープンシステムの一翼を担うだけではなく,各層内での競争と協調を繰り返しながら,情報技術の進化を加速した.インターネットを中心とした情報技術分野では,市場受容への適合の力学が存在する.すなわち,優れた技術が市場に適合するとは限らず,市場内の顧客数の閾値,判りやすい商品技術の訴求力,あるいは市場操作能力が適合の条件となる場合が多い.インターネットが商用公開された当時には,多くのプレーヤーがポータルポジションの獲得のためのワンストップ化にしのぎを削り,外部の技術とコンテンッを呑み込んで質量を高めるブラックホールさながらの様相を呈していた.ユビキタスな社会環境が浸透し始めた今日ではこのようなココンペティションの激しさが増している.本書では,このようなユビキタスの技術と事業の相関と競争原理の考察に関する報告である.
著者
YOSHIHARA Ken-ichi
出版者
横浜国立大学
雑誌
横浜国立大学理科紀要. 第一類, 数学・物理学・化学 (ISSN:00858366)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.19-32, 1970-03

The question concerning the equivalence of stationary Gaussian processes defined on the finite interval [0, T] was fully solved in the case where their spectral densities are rational in λ, (cf. [1], [5] and [7]). The object of this paper is to consider a criterion for the equivalence of two one-dimensional stationary Gaussian processes on [0, T] with, not necessarily rational, spectral densities (Theorem 2) : The main result is that P_ξ^T_<10> and P_ξ^T_<20> are equivalent if f_1(λ) and f_2(λ) are positive for almost all λ and if [numerical formula].