著者
菅沼 若菜
出版者
首都大学東京・都立大学社会学研究会
雑誌
社会学論考
巻号頁・発行日
vol.40, pp.69-92, 2019-12-10

本稿の目的は,アートを政策的に活用した場合,地域とのつながりとアートの公共性との関連をどのような形で見出すことが出来るかを考察することである.その事例として横浜の黄金町を取り上げ,違法風俗業者を一掃し,「アートのまち」としての再生から約10年経った現在の状況に着目する.黄金町の事例から得られた知見は,以下の点である.第1に,「アートのまち」として再生したことによる,まちの治安の改善とそれに付随する子どもの増加がアートを導入したことによる成果である.第2に,地域から必要とされるアートの実践が今後の課題となる点である.また,行政資料や住民へのインタビュー結果から明らかになったのは,「アートのまち」に対する行政と住民両者の間に見解の相違が見られた点である.第3に,こうした課題を克服するためには,「アートのまち」から何か経済活動が生まれる等,アートと協働してまちが経済的に活性化することや,住民とアーティストの距離感を克服し,両者の協働が生まれることが必要であることが明らかになった.創造都市政策の一環として環境浄化を目的に用いられたアートの役割は,その目的が達成されて終わるのではなく,アートを住民主体のイベントや地域資源と絡めることで,地域の住民や地域に開かれたアートの公共性のかたちを見出す可能性があることが明らかになった.
著者
Masuda Tetsuya Taguchi Wakana Sano Ayane Ohta Keisuke Kitabatake Naofumi Tani Fumito
出版者
Elsevier Masson SAS
雑誌
Biochimie (ISSN:03009084)
巻号頁・発行日
vol.95, no.7, pp.1502-1505, 2013-07
被引用文献数
30

Thaumatin, a sweet-tasting plant protein, elicits a sweet taste sensation at 50 nM in humans but not rodents. Although it was shown that the cysteine-rich domain (CRD) of human T1R3 (hT1R3) is important for the response to thaumatin, the amino acid residues within CRD critical for response are still unknown. A comparison of the amino acid sequence (69 amino acid residues) of CRD between hT1R3 and mouse T1R3 (mT1R3) revealed sixteen amino acids that differ. In the present study, we converted each of these sixteen amino acids in hT1R3 to their mouse counterpart and examined the response to thaumatin and sucralose using a cell-based assay. No significant decrease in the response to sucralose was seen among any of the sixteen mutants. However, five mutants (Q504K, A537T, R556P, S559P, and R560K) exhibited a significantly diminished response to thaumatin. The five critical residues involved in the response to thaumatin were dispersed in the CRD of hT1R3 and widely distributed when compared to brazzein. The unique intense sweet-taste of thaumatin might be attributed to the different receptor activation mechanism compared to the small molecule sweetener sucralose.
著者
栁澤 節子 小林 千世 山口 大輔 上原 文恵 吉田 真菜 鈴木 風花 松永 保子
出版者
信州公衆衛生学会
雑誌
信州公衆衛生雑誌 (ISSN:18822312)
巻号頁・発行日
vol.12, no.2, pp.107-113, 2018-03

本研究の目的は、主観的健康感と生活形態、健康維持への意識、および地域社会活動との関連を検討することであった。2015 年7 月にM 市内の総合球戯場でゲートにいた成人と、2016 年9 月から10 月にM市内の商業施設の成人の来店者とS 大学医学部主催の健康講座に来た成人の参加者を調査対象者とした。調査内容は対象者の属性、主観的健康感、生活形態、直接スポーツ観戦の有無などであり、無記名式質問紙調査を実施した。分析は、主観的健康感について「主観的健康感高群」と「主観的健康感低群」に分けて、それらを従属変数とし、「地域活動に関する事柄」、「生活習慣に関する事柄」、「健康維持に関する意識」、「直接スポーツ観戦の有無」を独立変数として、多重ロジスティック回帰分析を行った。その結果、「夢中になれるもの」(OR=3.41、95% CI=1.270─9.167)、「規則正しい生活」(OR=2.64、95% CI=1.251─5.585)、「直接スポーツ観戦」(OR=2.584、95% CI=1.158─5.766)が、主観的健康感を高める要因であった。これらのことから、人生において、夢中になれるものがあることや、規則正しい生活を送ること、直接スポーツを観戦することが、主観的健康感に大きな影響を与えていることが分かった。また、直接スポーツを観戦することや、直接スポーツをすること以外にも、スポーツに関わる、あるいは携わることが、健康に対する意識を高め、健康の保持増進に影響を与えることが推察された。したがって、スポーツができない高齢者や患者においても、スポーツを観戦することで、主観的健康感が高まり、人生における楽しみや生きがいにつながり、「近隣の人との交流」、「地域での活動に参加する」などの社会的活動やその役割、意識をも高め、主観的健康感も高まると考えられた。今後、健康寿命の延伸に向けた健康づくりのためには、今回明らかになった主観的健康感を高めるような要因が充実する介入や支援ができる体制を作り上げることが重要であると考えられた。
著者
西島 央
出版者
東京大学大学院教育学研究科
雑誌
東京大学大学院教育学研究科紀要 (ISSN:13421050)
巻号頁・発行日
vol.43, pp.57-76, 2004-03-10

In Japan, what sort of people attend classical music concerts? It has been said that the classical music is an orthodox current of culture from the West, which was set up alongside the establishment of the modern educational system in Japan. Recently, however, the number of classes of music and other arts related subjects has been reduced as a result of the new national curriculum. In addition, the development of the Internet has provided a dramatic increase in terms of alternative access points to music. These are resulting in a dramatic change of music culture. Under these conditions, is it probable to think that attitudes towards classical music concerts might be in a process of change? The purpose of this paper is to illustrate the current conditions in relation to classical music concerts attendance from a sociological perspective. Methodologically, the paper draws upon evidence garnered from a questionnaire survey conducted at classical music concerts in Tokyo, Niigata and Kagoshima, between April and August 2002. To date, there have been few studies to investigate the sociological profile and associated behaviour related to classical music concert attendees, except the index of a stratum research. In this research, I will make use of sociological description of attendance, exploring the issue of regional difference. Subsequently I will analyze attendee's first experiences vis-a-vis the concert. Finally I will specify the features of attendance in relation to those classified as ""Jouren"" i. e. regular goers and those labeled ""Ichigen"" i. e first-timers. I will analyse the differences between them in light of a number of sociological indicators and their musical experiences during their formal education. As a kind of pilot study, I will propose a research framework that could provide a signpost for future research exploration.
著者
李 暁辰
出版者
関西大学大学院東アジア文化研究科
雑誌
文化交渉 : Journal of the Graduate School of East Asian Cultures : 東アジア文化研究科院生論集 (ISSN:21874395)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.185-201, 2013-12-01

Keijō Imperial University was Japan’s sixth imperial university and first imperial university to be built outside Japan proper. In 1928 Taipei Imperial University opened with two faculties, the faculty of literature and politics and the faculty of agriculture and science. In this paper I analyze modern Sinology at Keijō Imperial University in Seoul, Korea, and Taihoku Imperial University in Taipei, Taiwan during the Japanese colonial era. First I describe the mission, ideology, and roles of the first presidents of both imperial universities. Next I elucidate the characteristics that distinguish the organization of these imperial universities between 1872 and 1879 from other imperial universities. Finally, I discuss the professors who were in charge of courses on Chinese philosophy at both universities, including the structure of the courses and the human network involved. Using this approach of tracing the flow of modern academic knowledge of Chinese philosophy, I will follow the trends from the imperial universities of Japan to those of Korea and Taiwan.
著者
砂澤 雄一
出版者
学習院大学大学院
巻号頁・発行日
2014-03-31

マンガ研究において、改稿の有無を確認しどのテクストをもって定本とするかは研究の第一歩である。改稿データを研究者が共有し、客観的に妥当だと認められたテクストを策定する作業は、今後のマンガ研究において欠くことのできない重要なステップであると考える。本稿ではこうした基礎研究を「生成論的研究」と位置づけ実践するとともに、今後の多くのマンガ研究で行われることを提唱するものである。\n\n宮崎駿の唯一の長編マンガ『風の谷のナウシカ』(以下『ナウシカ』と略す。アニメ版の同名作品を指す場合はその都度「アニメ版」と付す)は、「アニメージュ」連載時と「アニメージュコミックスワイド版」刊行時との間に相当数の異同が見られる。また、「腐海は、人類が汚染した大地を浄化するために生まれた生態系」というアニメ版のコンセプトが、マンガ版では相対化され、「腐海は、旧人類が人工的に作り出した清浄化システムであった」というものに変更されている。これは、読者の意表を突く「どんでん返し」だった。\n本稿は、改稿分析を通じて「改稿はなんのために行われたのか」と「〈どんでん返し〉を宮崎駿は何時の時点で着想したのか」という二つの点について考察することを目的としている。\nこのことについて、第1章では執筆経緯と当時の世界情勢、先行作品や後続作品との影響関係を、第2章では第1巻から第7巻までの具体的な改稿箇所を、第3章では先行論文について検証し分析した。\n \n『ナウシカ』は、1982年2月号から1994年3月号まで足かけ13年連載された。連載時には国内外で世界史的な出来事が立て続けに起こった。1986年4月チェルノブイリ原発事故、1989年1月昭和天皇崩御、2月手塚治虫死去、6月天安門事件、11月ベルリンの壁崩壊、12月冷戦終結、1990年10月東西ドイツ統一、1991年12月ソ連邦崩壊、1992年ユーゴスラビア解体などである。宮崎に最も大きな衝撃を与えたのはユーゴスラビア紛争であった。「人間は同じ過ちを何度でもする」と痛烈に感じたからだ。それは1983年に亡くなった母・美子の口癖であった「人間はしかたのないものだ」を思い出させた。母の言葉は、尊敬する司馬遼太郎と堀田善衛によって「人間は度しがたい」という言葉に昇華される。『ナウシカ』を終わらせようという時期に宮崎は〈マルクス主義をはっきり捨て〉、〈人間は度しがたい〉という〈ごくあたりまえのところ〉に〈もう一度戻〉った。それは母と同じ場所に立つことでもあった。\n この宮崎の内面の変化に呼応するように、作品内の時間の在り方も変化していった。初のオリジナル作品であった『砂漠の民』(1969-1970)は、ソクート人がどのようにして滅んでいったかを主人公テムの目を通して描かれている。父、親友、好意を寄せる少女、尊敬していた師が次々と殺されていくというかなり惨い物語である。『砂漠の民』は、予告編の段階ですでにソクート人が滅びることを告げており、時間は「滅び」へ向かってリニアに流れていた。\n1978年、宮崎が実質的に初監督をつとめたテレビアニメ『未来少年コナン』では、最終戦争後から物語を出発させるという変化が見られる。しかし、直線的に時間が進むという構造は『砂漠の民』と変わらなかった。ところが、1983年に刊行された『シュナの旅』に流れる時間はそれまでのものとは違っていた。〈いつのころからか/もはや定かではない/はるか昔か/あるいはずっと/未来のことだったか〉という書き出しで始まるこの作品では、時間は確定されていない。それは過去か未来かも定かではない。これは『ナウシカ』の描く世界が、産業革命を起点に考えれば西暦3800年くらいの未来を描いているにもかかわらず、その風俗が現代から見て過去のものに見えるという設定に通じる。\n 『ナウシカ』の連載後に制作された短編アニメ『On Your Mark』の絵コンテには〈永劫回帰シーン〉というメモが見られる。円環する時間の流れへの変化は、先に述べたマルクス主義を捨て生活実感に根ざした身体的思想とも言うべき境地に戻った宮崎の航跡と重なる。\n\n 『ナウシカ』のマンガ表現上の特徴は、コマ割が細かくコマ数が多いことにある。大ゴマが少なく、あったとしてもキャラクターのアップは少ない。ページ全体のレイアウトよりもコマの完成度に重きを置いている。「漫符」の使用頻度は低く、使われるものも限定的である。「光芒」と「集中線」の使用の多さは、『ナウシカ』が〈気づきのマンガ〉であることを示している。「音喩」については、コマを跨いだりするものはなく抑制的である。また音喩が描かれるレイヤーの位相が、一般的なマンガによく見られるように一番読者側にあるわけではないという特徴がある。音喩については宮崎独特の文法が存在するように感じられる。\n \nコミックス刊行時に行われた「加筆」「さしかえ」「描き直し」「挿入」「台詞等の変更」の5項目の改稿についての分析の結果は以下の通りであった。\n「加筆」は、改稿の中で最も多いものだが、その主な要因は連載時の描き込み不足を補うものであった。背景が緻密で情報量が多い、と言われることの多い『ナウシカ』であるが、連載中には緻密な描き込みができずにそのまま掲載された場合が少なくない。ただし、後半に見られる「加筆」には「血糊」を意図的に増やすなどの演出上の要請から行われたものが見られる。\n 「さしかえ」は、視線誘導に関係する可能性が高いもので、その意味で既成のマンガ文法との関係が問題になる改稿でもある。しかし、結果的に視線誘導の大幅な変更は見られない。\n 「描き直し」も同じ構図の絵であるために視線誘導の変化には関与しない。ただし、同じ絵をわざわざ描き直すために物語内容に対する作者の何らかの特別な意図が感じられる改稿である。「描き直し」は第7巻に多く、「庭の主」との対決の場面などに顕著である。\n 「挿入」はページ毎のものが多く、結果的に視線誘導に絡む場合は殆どない。挿入されたページもその他のページと同様で、特にコマ割に変化が見られるわけではない。挿入については第4巻の挿入が特徴的である。粘菌兵器のエピソードをかなり前倒しして投入したり、クシャナの母にまつわるエピソードを新たに入れたりしており、作品全体の構成が固まりつつある時期との関連が窺われる。\n 「台詞の変更」はコマ割に関わらないが、物語の内容に大きく影響を与える重要な改稿の一つである。特に第7巻に多い。これは「墓所の主」との対決の場面に見られ、挿入された新たな台詞と共に、宮崎が連載終了後にもこの場面を深化させようとしていたことが窺える。\n 以上の分析から、『ナウシカ』における改稿が「読みにくく」しているものかどうかについては、少なくとも「読みにくく」はなっていないという結論に達した。ただし、既存のマンガ文法に従う形で改稿が行われているとは考え難い。したがって既存のマンガ文法には従っていないものの、結果としては物語の展開が理解しやすくなり読みやすくなっているという場合が多い。強いて言えば「読みやすく」はなっていないとしても「わかりやすく」はなっていると言えそうである。「読みやすさ」は表現論的な分野に関わりが深く、「わかりやすさ」は物語論的な分野に関わりが深いという予感がするものの、今後の課題としたい。\n\n先行研究を「表現論的分野」「物語論的分野」「倫理の問題」の3分野に関して分析し、あわせて手塚治虫との関係について検証した。\n 表現論的な研究では阿部幸弘と久美薫を取り上げた。阿部は、『ナウシカ』が後半読みやすくなるのは宮崎が自身で作り上げようとしたオリジナルのマンガ文法が次第に機能するからだと述べている。久美薫は、映画の場面のつなぎ方の分析を援用し、後半読みやすくなるのはコマ割というよりはコマのつなげ方が巧みになるからであると述べている。その方法は映画的とも言え、この点を夏目房之介は「アニメからの逆輸入」と呼んでいる。\n 物語論的な研究では小山昌弘の「語り」の見地から分析した論考を取り上げた。小山は『ナウシカ』にナレーションが少ない理由と、その代替としての登場人物の内語について分析している。小山も『ナウシカ』は読みにくいが後半読みやすくなるとして、その理由をマンガ文法に従うようになるからだとしている。もっともコマ割自体は変化せず、最後までコマ数は多いままだとも述べている。\n 倫理の面から稲葉振一郎と夏目房之介を取り上げた。稲葉は『ナウシカ』における「青き清浄の地」が、実在するがたどり着くことのできないユートピアであるという点でノージックのユートピアの「枠」を超えた存在だと論じた。夏目は戦後マンガに流れていた手塚治虫的「生命倫理」が引き継がれている作品として『ナウシカ』を見ている。宮崎駿は手塚治虫の継承者だったというとらえ方である。\n『ナウシカ』における「どんでん返し」の時期について、久美はそれを『紅の豚』制作時、ユーゴスラビア紛争の時期と見、稲葉は冷戦構造が解消した時点と見ていた。二人ともその時点から宮崎が、『ナウシカ』の結末を変更せざるを得ない思想的立場に立ったと分析した。\n 以上の分析から、改稿の多くは連載時に十分時間をかけられなかった部分を補筆する形で行われているが、第4巻においては、全体像がほぼ固まった時点から遡って行われており、作品全体の整合性を保とうとしている様子が窺えること、また、改稿は一般的なマンガ文法にはよっていないため、必ずしも「読みやすく」はなっていないが、物語の内容的にはより深まりかつ理解しやすくなっているという結論を得た。\n 全体的な構想がまとまった時期は、第4巻の刊行時の1987年中頃にかけて、「どんでん返し」については第5巻の改稿が行われた時期に着想されたと考える。ただし、『シュナの旅』には『ナウシカ』における「庭」や「墓所」に相当する場面が登場するため、1983年頃には大本になるアイディアはあったと考えるべきである。また、「人間はしかたのないものだ」という母の考え方に、ユーゴスラビア紛争の激化に伴って戻ったと見ることもできる。1983年の『シュナの旅』刊行と母の死、1986年のチェルノブイリ原発事故、1991年からのユーゴスラビア紛争の激化などの要素が「どんでん返し」に至らせたと考えるのが妥当であろう。\n\n 最後に「文化人≒思想家」としての宮崎駿と、「町工場のオヤジ≒職人」としての宮崎駿の関係について検証した。宮崎は自ら「文化人ではなく町工場のオヤジでいたい」という旨の発言をしているが、結果として「文化人」と見なされることで、アニメ制作に好都合な面はあった。宮崎を、当初から「作家」として扱おうとしたのは1981年にアニメージュで「宮崎駿特集」を組んだ当時の編集部、とくに鈴木敏夫であった。大人数で制作するアニメにおいて「作家性」を強調し、宮崎駿の特異性をアピールした。鈴木は1982年当時、仕事らしい仕事のなかった宮崎に『ナウシカ』の執筆を勧め、連載が決まると『ナウシカ』のタッチを「読みにくい」ものにし、連載が危うくなると鉛筆での執筆を勧めた。鈴木は、宮崎にアニメを制作させるための一段階として、既存のマンガ文法によらないオリジナルマンガを描かせようとしたと見ることもできる。『ナウシカ』の成立には鈴木敏夫が大きく関与しているのである。 \n\n 今回本稿で行った『ナウシカ』の改稿分析が、基礎資料として『ナウシカ』研究の進展に寄与することと、「生成論的研究」が今後のマンガ研究において基礎研究の方法として定着することを望む。