著者
古川 不可知
出版者
現代文化人類学会
雑誌
文化人類学研究 (ISSN:1346132X)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.34-53, 2021 (Released:2022-01-29)
参考文献数
48

シェルパの人々が居住するネパール東部のソルクンブ郡クンブ地方は、全域がユネスコ世界遺産の自然遺産に登録された山岳観光地である。エベレストをはじめとするヒマラヤの山々を眼前に望むこの地域には、毎年多くの観光客がその自然を見るためにやってくる。他方で観光客の流れはいまやエベレストの頂上にまで達し、人間から切り離された領域としての自然はもはや想像もしがたい。 本稿の目的は、自然/文化という素朴な世界の見方が問い直されつつある現在において、「自然的なるもの」をどのように考えてゆけばよいのか、ヒマラヤの「大自然」を背景に検討することである。本稿ではティム・インゴルドの自然と環境をめぐる議論を手掛かりとしながら、対象化された自然という領域が想像される以前に、私たちは有機体かつ人格として環境内に位置付けられているという事実を確認し、「環境の中の私」を自然的なるものを記述するための立ち位置として定める。そのうえで山間部における道のあり方を事例に、環境の中における存在とは関係的なものであることを指摘し、「自然」についても同様であることを主張する。 そして米国のNGOが現地の若者に自然教育をおこなう登山学校の事例を取り上げながら、単一の自然とそれを解釈する複数の文化という図式が生じる手前の環境から、複数の自然的なるものが立ち現れ、接触する様相を考察してゆく。結論となるのは、同じ物理的環境でも自然は別様に立ち現れること、また他者に立ち現れる自然は注意の向け方を通して学びうるものであり、とりわけ他者とともに高山中を歩くことを生業としてきたシェルパの人々は、パースペクティヴを切り替えながら複数の自然を生きていることである。
著者
里見 龍樹
出版者
現代文化人類学会
雑誌
文化人類学研究 (ISSN:1346132X)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.1-8, 2021 (Released:2022-01-29)
参考文献数
22

本特集は、「これまで『自然』と呼ばれてきたもの」がさまざまなかたちで取り上げられている現代の人類学において、では、そのような「自然」を記述する民族誌はいかなるかたちをとりうるのか、という方法論的な問題を提起するものである。2000年代後半に登場したいわゆる存在論的転回は、「自然/文化」という近代的な二分法、および狭義の「自然」概念を批判することによって、「広義の自然」と呼ぶべき人類学的主題を明確化した。本特集では、この主題を「いかに民族誌を書くか」という方法論的な問いと結び付けることで、現代における一つの「外の思考」としての人類学/民族誌がとりうるかたちを探究する。
著者
近藤 宏
出版者
現代文化人類学会
雑誌
文化人類学研究 (ISSN:1346132X)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.54-79, 2021 (Released:2022-01-29)
参考文献数
32

本稿では、「存在論的転回」の「真剣に受け取ること」という知的な態度に倣い、「『自然』を/に抗して書くwriting (against) nature」という課題を、パナマに暮らす先住民エンベラの人びとによる「自然を書く」取り組みから考える。具体的には、溺死という出来事をめぐる叙述である。それは文字を使用しない語りによる叙述で、正確には書くことではないかもしれないが、ここでは先住民の考え方を引き受けることを優先させるため、「自然を書く」ことを「自然を叙述する」こととして緩く捉え、人類学者にとっての問いに対応する先住民的な考えを検討する。 その溺死の出来事の叙述は、被害者の身体の様相を詳しく伝えることで、水流の不可解な力に曝された被動作主としての性格を際立たせる。一見すると空白のままとなる溺死を引き起こした力は、不可視の身体を持つ精霊の行為主体性として受け止められている。不幸な出来事の原因を精霊に帰するような語りを、「驚くべき事実Cが観察される、しかしもしHが真であれば、Cは当然の事柄であろう、よって、Hが真であると考えるべき理由がある」[米盛 2007: 54]という形式を取るアブダクションと受け止める。「推論的仮説内容H=精霊が食べた」ことが、溺死の原因としてなぜふさわしいのかを、その仮説内容のかたちづくる際にはたらく「創造的想像力による推測の飛躍」を分析し、検討することから、自然の諸力(水流の力)を自然の要素(ナマケモノという動物)によって叙述するという、自然の叙述の様式が浮かび上がる。 こうした自然の叙述の様式に組み込まれている動物の名前の使用や、動物のイメージを別の自然現象に投影する民族誌的事象の分析や、別の先住民グループの民族誌的記述を手掛かりにしながら、エンベラによる自然の叙述の様式を考察すると、別の「イメージ平面」となる、自然の様態がそこには垣間見える。エンベラによる「自然の叙述」は、自然の事物のイメージが、別の自然の諸力のイメージとして照り返される独特な「イメージ平面」を含みこむ自然の様態が浮かび上がる。
著者
橋爪 太作
出版者
現代文化人類学会
雑誌
文化人類学研究 (ISSN:1346132X)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.9-33, 2021 (Released:2022-01-29)
参考文献数
39

過去100年間のメラネシア地域における文化・社会人類学は、西欧近代的な自然/文化概念の民族誌的批判から、熱帯の自然と社会が互いに互いを創造し合うメラネシア的な社会性のモデルを打ち出してきた。しかしそこで前提とされている熱帯の自然の能産性は、熱帯林の大規模開発や人口増加といった人新世的状況が進行する現代のメラネシアでは、必ずしも自明なものではなくなってきている。本論はソロモン諸島マライタ島北部西ファタレカ地域における森林伐採事業の進出と、それと並行する現地の人々と土地の力の新たな関わりを、自然・社会双方における「ギャップ・空白」の創出に着目して描くことを通じて、自己と他者が入り混じる現代メラネシアの自然‐人間関係を概念化し、さらにそこから人間化された地球という新たな自然と向き合う我々自身について省察することを試みる。 マライタ島の山間部に居住してきた西ファタレカの人々は、ギャップ創出によって更新される熱帯林の特性を焼畑農耕として模倣することで土地の成長力を引き出してきた。しかし伝統的な生業が森林の一部を利用するのに対し、森林伐採事業は1つのクランの土地のほとんどが伐採される。このギャップと森林の図地反転は、土地と数百年以上関わり続けてきた人々の中に、自らの将来の生活や未解決の過去の問題といった、現在の自己を断絶させるような「空白」を創出している。他方、我々にとっては生態系の劣化として見える、地面が抉られ岩盤が露出した伐採後の景観は、不動の大地こそ「生きている」ものと考え、その内部に秘められた力を予感する現地の人々にとっては別様に立ち現れている可能性がある。 切り開かれ、予測不能なポテンシャルを露呈する新たな自然と向き合うメラネシアの人々は、不穏な未来の予感に怯える我々の同時代人である。こうした人々の経験を民族誌的に記述することを通じて、人新世に対しメラネシアから応答する道筋が開かれるであろう。
著者
吉田 航太
出版者
現代文化人類学会
雑誌
文化人類学研究 (ISSN:1346132X)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.80-105, 2021 (Released:2022-01-29)
参考文献数
38

本論文は、環境汚染や不透明な民営化などの潜在的な問題を抱えつつもそれが表面化せずに機能しているインドネシアの埋立処分場の事例を通じて、インフラの不可視性の様態を探究するものである。これまでのインフラ人類学は不可視で当たり前の存在とされてきたインフラに光を当ててその在り方を明らかにする試みが中心的である一方、いかにしてインフラの不可視性が日常的に維持されているのかという側面は取り上げられてこなかった。不可視性はインフラという地によって図としての別の何かを可能にする効果を持っており、そのため、不可視性が何によって維持されているのか、そして不可視性の効果として何ができるようになっているのかという観点からの分析が求められている。また、こうした不可視性は新自由主義批判を基調とする近年のダーク人類学でも扱われており、両者の議論を接続させることによって「ダークな不可視性」という観点から埋立処分場を理解することが可能となることを提示する。しかし同時に、本事例の埋立処分場はダーク人類学がしばしば描くような単純な権力関係によって非問題化されているのではなく、実際には物理的形状・統計手法・契約書類・賠償金・処理技術といった様々な要素が動員されることで不可視化が成立している。特にインドネシアの「汚職」概念と内実が曖昧な「ガス化」技術のセットによって未来という時間性が導入されていることが(一応の)安定化に寄与していることが指摘できる。埋立処分場の「民営化」とは権力者の腐敗だけでなく廃棄物処理システム全体の改善や将来への先延ばしといった様々な理解が折り畳まれた複雑な状態なのである。結論では、埋立処分場が不可視であることによって住民レベルのゴミの問題化=可視化という別の政治が可能となっており、「不決定」という政治の形式が見られることを論じる。
著者
相田 豊
出版者
現代文化人類学会
雑誌
文化人類学研究 (ISSN:1346132X)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.54-76, 2021 (Released:2021-01-21)
参考文献数
46

近年、日本の文化人類学において音楽は急速に重要なテーマとなりつつある。こうした日本の音楽人類学研究においては、アメリカの民族音楽学におけるグルーヴ研究や、文化人類学全般で関心が高まった身体や身体化を巡る議論の影響を受けて、音楽が為されている瞬間の身体的な対面相互行為をミクロに分析しようとする研究が集中的になされてきた。しかし、こうした研究の視角では、音が実際に鳴り響いているわけではない時に行われている音楽家同士の交渉や、音楽に影響を与える過去の出来事の想起といった、単一の対面相互行為の時間的スケールを超えた、音楽実践の伝記的次元を捉えることができない。こうした問題に対し、本論文では、ボリビア・フォルクローレ音楽家の音楽観を「アネクドタ的思考」として取りあげることによって、これまでの音楽人類学とは別の視点から音楽実践のあり方を捉えることを目指す。具体的には、筆者自身もその一部に参加することとなった、あるフォルクローレ音楽のコンサートの開催プロジェクトを取りあげて、その企画から準備、実施に至る一連の過程について、とりわけ二人の中年の音楽家の思いと葛藤に注目して記述を行う。そしてこの記述の分析を通じて、フォルクローレ音楽家にとっての音楽観や社会関係について考察を行い、音楽人類学が取り得る別様の方法について検討を行う。
著者
渡 正
出版者
現代文化人類学会
雑誌
文化人類学研究 (ISSN:1346132X)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.37-53, 2021 (Released:2021-01-21)
参考文献数
16

本稿では、オスカー・ピストリウスやマルクス・レームのパラリンピック/オリンピック秩序への挑戦を事例として、それがどのように問題化されていったかを朝日新聞の記事を追った。記事の変化からは、それまで肯定的な評価をされていた義足が、ピストリウスの越境以降、明確に問題含みのものとされていったことや、それが義足の性能とその公平性への問題と矮小化されていったことが判明した。 このような義足のアスリートを理解するモデルとして、福島真人による身体のモデル1・2を確認した。義足のアスリートの「問題」は近代スポーツの想定する自然な身体=身体0からの「過剰」として捉えることができた。さらにこの問題を乗り越えるモデルとして福島のいうモデル2的な身体、あるいはサイボーグの身体のメタファーを概観した。また、こうしたメタファーが失敗する事例として義手ラケットによるテニス選手を検討した。この事例は、私達が義足に関しては、それを過剰に身体化して議論していることを明らかにしてくれた。 そこで本稿では障害学/社会学における議論を参照し、スポーツにおける障害者アスリート、あるいは義足のアスリートの排除の位相にいくつかの区別があることを確認した。 スポーツにまつわる多くの議論は「義足は身体か」という問いをめぐるが、その前提には、義足が身体として捉えられないという想定があった。義足の問題は、「人工物の装置」が「身体」化することで浮かび上がる、身体の内部にある外部=異質性なのではないか。外部と内部のカテゴリーミステイクが、スポーツにおける議論を不明瞭にしている。身体と外部環境との相互作用システムとしてのアスリートという理解は、陸上のような個人競技ではいまだ想像力の埒外にあるものの、チームスポーツにおいては問題なく成立している現実でもある。
著者
吉村 竜
出版者
現代文化人類学会
雑誌
文化人類学研究 (ISSN:1346132X)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.103-118, 2021 (Released:2021-01-21)
参考文献数
14

This paper investigates changes undergone by self-definition in Japanese-Brazilian (Nikkei) society. After World War II, the first generation of immigrants sought social integration of Japanese immigrants and an affirmation of their place in Brazil with the formation of the Cultural Association (Bunkyo). Later, identity consciousness in the Nikkei society changed due to an increase in temporary labor migration to Japan.   For Nikkei of Pilar do Sul, an exclusive identity is recently appearing that is distinct from “race-based identity.” Bunkyo has revised membership regulations limiting membership to people of Japanese descent due to non-Nikkei Brazilians’ involvement in the association. These revisions have caused emergent changes to Bunkyo’s organizational “order and regulation”, which were shared by the group’s members. Accordingly, members have begun to differentiate themselves and others according to Bunkyo’s “order and regulation”. Therefore, I examine the grounds for local Nikkei identity irreducible to the conventional frameworks of Nikkei studies.
著者
ゴロウィナ・クセーニヤ
出版者
Japanese Society for Current Anthropology
雑誌
文化人類学研究 (ISSN:1346132X)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.77-102, 2021 (Released:2021-01-21)
参考文献数
58

本稿は、在日ロシア語圏女性移住者を対象として、聞き取りと自宅訪問調査をもとにした研究である。この研究は、対象者が移住先において向き合い形作ってきた、消費財との関係の変化を辿ることを目的としている。1990年代にロシアを始めとするポストソビエトの国々を後にした、多くの在日ロシア語圏女性移住者の移住前の生活は、それらの国々の政治的不穏ないし経済的不確実性によって特徴付けられていた。日本を行き先としてこれらの国々をより遅く離れた人々にとっても、移住者本人や、それらの親、親戚、友人などが経験した消費財の不足は移住前の過去の記憶の中で中心的なものとして語られることが多い。本稿は、移住前のこのような経験の後、受入れ国である日本での「無限」の消費選択肢に伴う幸福感という移住当初の感情が、女性たちが日本での生活に慣れるに従ってどう変わってきたのかを考察する。彼女たちのライフコースの展開に伴う新しい感情や態度は、「謙虚に生きること」や「少ないものでやりくりすること」「地球環境を大事にすること」「ジェンダーや健康の意識を維持すること」などといった、新たな価値観が彼女たちの内面に浸透したことによって引き出されたということがわかった。また、一部の対象者は、消費実践や贈与交換、自宅での商品の存在や配置といったことについての、家族との交渉の不成功などの結果として消費財が身の回りに過剰に存在することに対する不快な感覚について語った。本研究は移住者の人生・暮らしという文脈を背景とした消費的物質性に伴う生の経験が、対象女性らによる消費ライフスタイルの「具象化された批評」や「道徳的自己」の談話的構築をどう導いているのかを明らかにしている。
著者
小木曽 航平
出版者
現代文化人類学会
雑誌
文化人類学研究 (ISSN:1346132X)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.12-36, 2021 (Released:2021-01-21)
参考文献数
45

20世紀以降、マラソンのような長距離走は人間の持久力の限界を見極めようとする科学的実験の対象となり、人間にとっての走ることの意味にそれまでとは異なる地位を与えてきた。 本稿の目的は、マラソンのような長距離走を通じて人間の身体がスポーツ科学や種々のテクノロジーと協働しながら、いかにして走るという運動形態を変容させてきたのかについて検討することである。なかでもナイキが2017年以来、世に送り出してきた「Nike Zoom Vaporfly 4%」や「Nike Air Zoom Alphafly Next%」などのレース用ランニングシューズと、やはりそのナイキが主催した「Breaking 2」及びその後に続いた「INEOS 1:59 Challenge」というフルマラソン2時間切りを目指した2つの世界記録更新プロジェクトに着目し、そこにおけるアスリートとスポーツ科学の異種協働関係に焦点を当てた。 結果として、スポーツにおける運動形態は身体の適切な使用によって、アスリートの身体から自ずと生まれるわけではなく、むしろ、道具やスポーツ科学との相互作用の中で共-身体的に発生してくると考えることができた。こうした考察から、現在のスポーツがeスポーツやデジタルテクノロジーの介入によってその在り様を変容させているとしても、それが示唆することは身体観や人間観の変容ではなく、異種協働による共-身体化によって、私たちがこれまで見たことのなかった運動形態がそこに発生してきているからであると示唆された。したがって,現在のスポーツを理解する上で必要なのは、身体観や人間観の概念的更新というよりは、スポーツする身体が見せる運動形態の生成過程に、人間の身体とそれ以外のどんな他者が関係しているのかをつぶさに観察していくことであるといえる。スポーツする身体の人類学を試みるとき、本稿の主たる主張はここにある。
著者
出崎 達也 小板 隆浩
雑誌
研究報告情報システムと社会環境(IS) (ISSN:21888809)
巻号頁・発行日
vol.2020-IS-154, no.12, pp.1-2, 2020-12-05

近年,リモートワークを取り入れる企業が急速に増えている.しかしリモートワークには目の届かない所でちゃんと働いているかわからないといった不安の声が多くあり,遠隔での労働状態を把握することが一つの問題となっている.遠隔での状態を把握するための手段としてアイトラッカー等を設置し視線に関する情報から状態を分析する研究がされているが,特別な機器を必要とする手法は配備に費用がかかり,手法の大規模な実践が困難となる課題を抱えている.そこで本研究はアイトラッカーを使用せず視線情報を得る手法として PC 等に備わった web カメラから視線情報を予測する技術に注目し,この技術での視線予測精度を評価しながら労働状態の分類にアイトラッカーに代わり用いることの可能性を調査した.
著者
小竹 康代 王 丹? 中嶋 宏
出版者
日本知能情報ファジィ学会
雑誌
日本知能情報ファジィ学会 ファジィ システム シンポジウム 講演論文集 第34回ファジィシステムシンポジウム
巻号頁・発行日
pp.668-669, 2018 (Released:2019-01-09)

In ordinary manufacturing lines, worker’s proficiency degree in the manufacturing operations was evaluated by a unit time or cycle time of making products. In this manner, it is hard to understand how the worker accomplishes the manufacturing operation and tasks with specific motions and objects derived from the hands, body and/or eyes. To overcome this limitation, we investigated the degree of worker’s proficiency of four elemental processes with methods of evaluation to estimate the connectivity between the sensory and motor integrations in human brain information processing. We measured eyes and body movements when workers manufactured products through three months. The developed method could differentiate the worker’s proficiency degrees between experts and novices. Coincidentally, expert workers had relatively high levels at every elemental process compared to novice workers who had low levels in two of the four elements. These results show the possibility that novices are not as proficient as experts when memorizing correct procedures as they are more likely to discriminate a specific point to accomplish tasks due to immature memory functions within the brain.
著者
高橋 知花
出版者
東北社会学研究会
雑誌
社会学研究 (ISSN:05597099)
巻号頁・発行日
vol.105, pp.87-108, 2021-02-15 (Released:2022-03-10)
参考文献数
23

本稿の目的は、森林の過少利用を改善するための取り組みが、どのような諸条件の下で実践されうるのかを考察することである。過少利用問題の改善策としては、これまで生業や経済的な観点が重視されてきたが、本稿では「コモンズ」の観点から、新たな改善策を検討し、森林の過少利用問題が改善されうる諸条件を明らかにする。事例として取り上げるのは、秋田県能代市二ツ井町梅内地区で活動する任意団体「二ツ井宝の森林(やま)プロジェクト」である。 考察の結果、本事例においては、①まず、共有林や私有林において、入会慣行や総有に基づいた独自の森林整備が展開されており、②そこでは、必ずしも経済的に生活を成り立たせるわけではない活動にマイナーサブシステンスとしての意義が見出されていること、③また、地区における先人たちの功績としての植林の歴史が想起されることが、活動をまとめる契機となっており、そのことが森林の過少利用問題が改善されうる条件になっていることが明らかになった。