- 著者
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大貫 静夫
- 出版者
- 国立歴史民俗博物館
- 雑誌
- 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
- 巻号頁・発行日
- vol.151, pp.129-160, 2009-03-31
挹婁は魏志東夷伝 Weizhi Dongyizhuan の中では夫餘の東北,沃沮の北にあり,魏からもっとも遠い地に住む集団である。漢代では,夫餘の残した考古学文化は第2松花江 Songhua Jiang 流域に広がる老河深2期文化 Laoheshen 2nd Culture とされ,北沃沮は沿海州 Primorskii 南部から豆満江 Tuman-gang 流域にかけての沿日本海地域に広がっていた団結文化 Tuanjie Culture に当てることで大方の一致を見ている。漢代の挹婁はその外側にいたことになる。漢代から魏晋時代 Wei-Jin Period に竪穴住居に住み,高坏を伴わないという挹婁の考古学的条件に符合する考古学文化はロシア側のアムール川(黒龍江 Heilong Jiang)中・下流域および一部中国側の三江平原 Sanjiang Plain 側に広がるポリツェ文化がよく知られている。北は極まるところを知らず,東は大海に浜するという点では,今知られる考古学文化の中ではアムール川河口域まで広がり,沿海州の日本海沿岸部まで広がるポリツェ文化が地理的にもっともそれに相応しいことは現在でも変わらない。そのポリツェ文化はその新段階に沿海州南部に分布を広げる。層位的にも団結文化より新しい。魏志東夷伝沃沮条に記された,挹婁がしばしば沃沮を襲うという記事はこの間の事情を反映したものであろう。ただし,ロシア考古学で一般的な年代観を一部修正する必要がある。最近,第2松花江流域以東,豆満江流域以北に位置する,牡丹江流域や七星河 Qixing He 流域において漢魏時代の調査が進み,ポリツェ文化とは異なる諸文化が展開したことが分かってきた。これらの魏志東夷伝の中での位置づけが問題となっている。すなわち,東夷伝に記された挹婁としての条件を考えるかぎり,やはり既知の考古学文化の中ではポリツェ文化がもっともそれに相応しく,七星河流域の諸文化がそれに次ぎ,牡丹江流域の諸文化,遺存がもっともそれらから遠い。しかし,だからといって,これらを即沃沮か夫餘の一部とするわけにはいかない。魏志東夷伝の記載から復元される単純な布置関係ではなく,実際はより複雑だったらしい。