著者
横路 佳幸 高谷 遼平
出版者
日本科学哲学会
雑誌
科学哲学 (ISSN:02893428)
巻号頁・発行日
vol.52, no.2, pp.61-83, 2020

<p>&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;In his "Demonstratives", David Kaplan discussed certain nonintensional operators called monsters. The operators, unlike ordinary ones, change the reference of indexicals by shifting the parameter of context. Although Kaplan denied monsters at least in English on the ground of both the doctrine of direct reference and the principle of compositionality, many monstrous phenomena of singular terms have been confirmed by some semanticists lately, which seems to urge Kaplanian semantics to be revised. In this survey article, we offer a survey of recent developments in the semantics of indexicals, variables, and proper names by focusing on monsters, and give some suggestions about direct reference, monsters, and compositionality.</p>
著者
瀧澤 利行
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.17, no.1, pp.15-30, 2009

体力の概念は、前近代日本の健康思想の展開においては決して一般的ではなかった。明治維新以前の日本においては、養生が健康の維持と寿命の延長に関わる基本的な思想であった。 養生は、東洋文化における生命の賦活と日常生活における摂生のための思想である。日本においても、 江戸時代(1603-1867)の間、養生論の刊行は次第に増加していった。<br> 明治新政府は、個人の健康維持に関わる概念として養生に代わって衛生を採用した。明治前半期の衛生思想の下では、「体力」は人々がどの程度働くことができたかを示す概念としてみなされていた。明治後半期になると養生や衛生の本質は、社会や国家の事項を包含すべく敷衍されていった。 伊東重は、『養生哲学』と題された著書を刊行し、その著書において、政府が「国家の養生」を実施すべきであると主張した。また、衛生局長を務めた後藤新平は、彼の主著である『国家衛生原理』において、富国強兵のための健康管理と衛生行政の理論を創出した。後藤や伊東に代表される明治期の衛生思想の基本原理は、主として社会ダーウィニズムと社会進化論に基づいていた。この理論の下では、個人の健康は国家経済の発展と軍事力の増大に関連するとみなされたのである。<br> 他方では、国民総体の健康について考えるという視点は、彼らの健康水準を平等化することを目的とした社会衛生思想を受容する契機となった。社会衛生学・労働科学の先駆者であった暉峻義等は、産業国家の発展の立場から、労働者における体力を充実させる必要性を指摘した。その暉峻は第2次世界大戦の下では、労働者が国家における人的資源であることを認識し、また、労働の体力は日本の軍事力そのものであると主張した。このように、社会衛生の理論は、次第に人間の健康を国家の資本として見なす側面を含んでいった。<br> 日本における社会衛生から公衆衛生への主潮の変化は、予防医学と健康教育に重点を置いていたアメリカ合衆国の公衆衛生政策の影響を受けた。それは次第に国際的な公衆衛生運動としてのヘルスプロモーション運動に展開していった。その過程で、体力の問題は、生活習慣病の予防と個人的な活動的な生活の文脈に向かって個人化されてきた。 そのような状況の下では、体力の社会的かつ文化的な側面から再考することが不可欠である。
著者
池田 誠
出版者
日本イギリス哲学会
雑誌
イギリス哲学研究 (ISSN:03877450)
巻号頁・発行日
vol.37, pp.31-44, 2014

<p>John Rawls is famous for his Kantian conception of justice, and also well known for reviving the significance of Henry Sidgwick's ethical thought in contemporary ethics. Rawls praises Sidgwick partly because Sidgwick attempted to justify a Method of Ethics by appealing to its ʻreflective equilibriumʼ with our considered judgments. However, this interpretation of Sidgwick by Rawls has been criticized by some utilitarians such as Peter Singer. I argue that, against his wish, Singer rather supports Rawlsʼs interpretation of Sidgwick as a reflective-equilibrium-theorist. Furthermore, I defend Rawlsʼs reflective-equilibrium methodology by pointing out his conception of justification behind it and by showing Singerʼs inappropriate conception of objectivity in ethics.</p>
著者
大渕 久志
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
vol.34, no.1, pp.1-33, 2018

イスラームの哲学的神学(philosophical theology)についてイブン・スィーナー(アヴィセンナ、1037年没)の影響力が一般的に強調されるが、哲学的神学形成の立役者とされるファフルッディーン・ラーズィー(1210年没)は、イブン・スィーナーおよびアブルバラカート・バグダーディー(1152年没)の哲学のみならず、占星術や魔術のようなオカルト諸学にも造詣が深かった。これまでの研究は、これらオカルト諸学が自然学系の哲学として当時見なされていたにもかかわらず、ラーズィーの神学において占めるその価値を評価してこなかった。本論文は13世紀初頭における哲学的神学の実態を明らかにする研究の一部として、オカルト諸学を含む哲学がラーズィーの神学へどのように摂取されているかを考察する。第Ⅰ節の序論に続き、第Ⅱ節において彼の神学著作を時系列に沿って精査し、彼自身がどのような思想体系を哲学と認め、実際に受容したのかを検討する。すでに知られているように、ラーズィーはシャフラスターニー(1153年没)がその代表作『諸信条と諸宗教』(<i>al-Milal wa-l-niḥal</i>)においてサービア教徒内の分派、霊魂崇拝者のものとして記述していた宇宙論を、預言者を天使の下位に位置づける「哲学者」の教説として批判していた。霊魂崇拝者はヘルメスという神話的存在の権威を認め、占星術や宇宙霊魂を仲介とした魔術などのオカルト諸学を実践していたが、彼らの宇宙論をラーズィーが最晩年の『神学における崇高な課題』(al-Maṭālib al-'āliya min 'ilm al-ilāhī)では一転して自らの学説として採用している事実を筆者は新しく指摘する。第Ⅲ節では、ラーズィーが受容したところの「哲学者」すなわち霊魂崇拝者の由来を問う。近年の研究が明らかにしているように、サービア教徒と関連づけられてきたヘルメスという神話的人物が、シャフラスターニーを端緒としてイスラーム思想に積極的に取り入れられた。ラーズィーもこのアラビア・ヘルメス主義の興隆という時代に活動していた点を筆者は確認し、彼が認めた「哲学者」はこうした秘教的由来を有していることを指摘する。最後に第Ⅳ節では『神学における崇高な課題』をさらに読み、先の霊魂崇拝者の宇宙論のみならず、占星術や関連する天体魔術('ilm al-ṭilasmāt)などオカルト諸学の理論を神学へ受容していること、また彼がここで天体魔術師(aṣḥāb al-ṭilasmāt)を「古代の哲学者」と呼びあらわしていることを示す。ラーズィーは天体魔術師の思想を彼自身の神学へと受容した結果としてイブン・スィーナーと対照的に、流出(fayḍ)ではなく痕跡(athar)を鍵概念にする普遍霊魂論を採用し、人間のあいだの種(naw')を認める。霊魂崇拝者と天体魔術師はともにヘルメスの権威を認め、宇宙霊魂を仲介として地上に魔術的事象を実現することができると信じる。ラーズィーが両者を同一視していたか否かは断言できないが、彼はアヴィセンナ哲学の構造・概念をある程度保持しながらも代替となるべきものとして、オカルト諸学と通常呼ばれるような「哲学」を「神学」に統合したのである。
著者
渡植 彦太郎
出版者
富山大学経済学部経済研究会
雑誌
富大経済論集 (ISSN:02863642)
巻号頁・発行日
vol.4, no.2, 1959-03

これは純粋な思弁哲学上の問題ではない。史的唯物論において存在が意識を決定するといわれる場合の存在と意識との関係を社会理論の視点から考えて見たい。この場合存在とは意識の外部にあってこれと独立しているものを指すと共に物質の社会的生産と関連して考えられている。したがって、それは単に自然的存在に止るものでなく、寧ろ社会的な存在としなければならない。ところが観念論の立場からは、社会的存在自体が既に意識の媒介なしに考えられないとするのであるから、存在が意識を決定するといっても、一つの意識的なものが他の意識を決定するという工合に解せられざるを得ない。更に史的唯物論は経済的なものを同時に物質的と見倣すが、観念論の立場からは、経済的なもの自体が既に文化として当然意識と関連すると考える。したがって経済的なものが下部構造として上部構造としての意識形態を決定するという命題を到底受入れることが出来ないことになる。否、更に進んで、逆に意識形態が経済的なものに大きく作用を及ぼすことを認めざるを得ない。マルクス主義もイデオロギーが或る種の反作用を経済的なものに及ぼすことを否みはしないが、究極的に決定するものは経済的なものであることを譲歩しはしない。そこで観念論の立場で、イデオロギー其の他の上部構造によって決定されるとする経済的なものと、史的唯物論において、上部構造を決定するとする経済的なものとは、同じ名称の下に相異るものを指していうのではないかという疑問が当然生じて来る。このような疑問は筆者がマルクス主義をよく理解していないが故の幼稚な疑問であるかも知れないが、一方ストレチーの如き一応マルクス主義者であった人迄が、上部構造としての政治が経済を大きく支配することを、主張するのを見れば、筆者の疑問は必ずしも幼稚なものとして斥けられてよいとは思われない。そこで以下少しくこの筆者の幼稚な問題を掘り下げて見て、識者の教えを乞い度いと思う。
著者
佐藤 真一
出版者
国立音楽大学
雑誌
国立音楽大学研究紀要 (ISSN:02885492)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.168-162, 2006

ハイデルベルク大学教授時代に、近代歴史学の方法が伝統的な神学にもたらす帰結について考察を深めたトレルチ(一八六五-一九二三)は、第一次世界大戦のさなかの一九一五年以降ベルリン大学において歴史哲学を講じ、「われわれの思考の根本的な歴史化」の問題に取り組むことになった。その際、「近代歴史学の父」といわれるレーオポルト・フォン・ランケ(一七九五-一八八六)の歴史学をどのように捉えていたのだろうか。本稿では、一九一〇年代に相次いで出版された史学史の著作との関連も視野に入れながら、一般的な通念とは異なりランケのヘーゲルとの近さを強調するトレルチ独自のランケ観を考察する。