著者
秋本 倫子
出版者
東洋英和女学院大学
雑誌
人文・社会科学論集 = Toyo Eiwa Journal of the Humanities and Social Sciences (ISSN:09157794)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.59-82, 2013-03

A worldwide best seller Yoru to Kiri (the original German title : EIN PSYCHOLOGE ERLEBT DAS KONZENTRATIONSLAGER, the Enlish title: Man’s Search for Meaning) was written by a Jewish psychiatrist Viktor E. Frankl. It was first translated into Japanese by Tokuji Shimoyama, a clinical psychologist and a professor emeritus at Sophia University (an ex-professor of Toyo Eiwa University). Since its publication, it has been read by many people over generations. The book has tremendous power toinspire and to encourage. After he was released from the Nazi concentration camps, he continued to work as a psychiatrist, taught at universities, gave lectures around the world, and lived to be 92. He is a miraculous psychiatrist and a psychologist of a kind that cannot be found anywhere.The aim of this paper was to re-read Yoru to Kiri and examine both from the perspective of modern trauma psychology (1) what kind of psychological reactions, defense mechanisms or coping behaviors Frankl resorted to while he was imprisoned in the Nazi concentration camps, (2) how he overcame the trauma and adapted to his life after the war, and by referencing some literature on his life and on Holocaust survivors’ psychology, (3) what kind of defense mechanisms or coping behaviors were effective in surviving extreme situations.Results:(1) It was found that Frankl showed at least some traumatic symptoms: extreme fear, denial or undoing, dissociation, repetitive and intrusive reactions (nightmares and obsession) , paralyzed or limited emotions, reduced interests, irritability and anger. The nightmares persisted till his ninties. (2) Frankl was not only using the coping behaviors as the Holocaust survivors in the literature, but he 82 was also rich in resources: intelligence, being a psychiatrist, warm and loving family elationships, and Jewish faith. More than anything, he supported himself by his firm convi ction that the life is worthwhile living no matter how harsh it may be.Conclusion: Frankl may have been a gifted person in many ways. But more than anything, he was willing, instead of giving in to the “fate”, he was willing to take responsibility to find the right answers and fulfill the tasks given to him. He lived with this belief all his life and has been other people’s lives meaningful.
著者
有田 亘
雑誌
国際研究論叢 : 大阪国際大学紀要 = OIU journal of international studies (ISSN:09153586)
巻号頁・発行日
vol.34, no.3, pp.57-67, 2021-03-31

This article re-examines the strong effects theory, a popular theory in mass media studies. First of all, there is the theory of bullet effect, typified by Cantril's research on Orson Welles' The Invasion from Mars. However, this has been questioned and controversy continues to this day. But in the first place, Cantril did not advocate bullet theory, nor was the Martian Riot intended by the radio station to panic people. Furthermore, the Martian invasion Riot itself was fake news. Some kinds of hoaxes and also demythologization spread readily according to the media effects theory. In this paper, an overview of this is given and it is suggested that it would be better to reposition the media effects theory, which has been conducted as part of Media Studies, into the category of rumor studies. In that sense, it is argued that it may be possible to reconsider it as message theory rather than media theory.
著者
長縄 祐弥
出版者
拓殖大学言語文化研究所
雑誌
拓殖大学語学研究 = Takushoku language studies
巻号頁・発行日
vol.146, pp.239-263, 2022-03-25

本稿では,dentro de 100 metros「100メートル先」という表現におけるdentro deの空間的意味について考察をおこなう。この前置詞句はdentro de 5 minutos「5分後」のように主に時間的意味に使用される表現であるが,この時間的意味のような振る舞いで用いられる空間的意味も存在する。コーパスにおけるこの空間的意味は,用例数は乏しいものの,文法的に問題はなく,容認される。ただし,時間的意味から空間的意味への拡張という,通例とは反対の方向に意味拡張がおこなわれる点について考察をおこなう必要があると考えられる。結論として,この前置詞句は発話時を基準としたとき,空間よりも時間のほうが必ず「先」を表せる点で時間的意味として用いられやすいことを確認した。これに加え,発話時の地点から終点まで断続的に移動することを含意する必要のある空間的意味は時間的意味に比べ,文脈が限定されるため,時間的意味から空間的意味へ拡張しているととらえることが可能であるとした。
著者
川瀬 由照
雑誌
學苑 = GAKUEN (ISSN:13480103)
巻号頁・発行日
vol.862, pp.36-37, 2012-08-01
著者
荊木 美行
出版者
皇學館大学文学部 ; 2009-
雑誌
皇學館大学紀要 = Bulletin of Kogakkan University (ISSN:18836984)
巻号頁・発行日
vol.53, pp.1-32, 2015-03

二〇一二年七月に発見された集安高句麗碑は、広開土王碑・中原高句麗碑につぐ、高句麗時代の数少ない金石文として話題を集めた。最近、正式な報告書である『集安高句麗碑』が刊行され、日本でも入手できるようになったのをきっかけに、同書の概要を紹介しつつ、この碑文について検討を加えたのが、小論である。集安高句麗碑は、広開土王碑と関係が深く、時期的にも近いものと考えられるが、高句麗王陵の守墓制度が故国壤王やその子の広開土王の時代に整備されたことをうかがう格好の史料である。
著者
玉懸 元
雑誌
文学部紀要 = Journal of Faculty ob Letters
巻号頁・発行日
vol.50, no.2, pp.248-233, 2016-03-15
著者
平田 昌弘
出版者
光琳
雑誌
食の科学 (ISSN:02871734)
巻号頁・発行日
vol.310, pp.24-32, 2003

2003年12月号
著者
仲道 隆史
出版者
電気通信大学
巻号頁・発行日
2015-03-25

思考ゲームの研究では強い AI を作ることを目的とした研究が主流であったが,様々なゲームでトッププレイヤを上回るパフォーマンスを示すようになってきて,対戦して楽しいという方向性のゲーム AI の研究が注目されている.これらの研究では人間から見たゲーム AI の不自然さの解消を課題とし,人間的な振る舞いをゲーム AI に実装することが試みられている. 本論文では思考ゲームの将棋を題材に不自然さの原因について考察し,観測者の棋力によって不自然に感じる手が変化することを棋譜の評価実験から示した.この結果から,不自然さの知覚は棋力の差によって生じるのではないかという仮説を立て,「ユーザと同程度の悪手を指す」「勝敗の確定が遅いシーソーゲームを演出する」という二つを実現する将棋AI の作成を行い,この AI を多くのプレイヤに利用し,評価してもらうことでこの仮説の検証を試みた. 実装した将棋 AI は,現局面の候補手の中から最も評価値が 0 に近い手を着手として選択するアルゴリズムを採用した.形勢が均衡している評価値 0 の状態を継続する事で悪手を咎めず拮抗した勝負が続くことを目指した.AI 同士の自己対戦実験によって提案手法導入前後での AI の振る舞いを比較した結果,本来は勝率 99%を上回る弱い AI に対して勝率を5 割程度に抑えられたこと,互いに悪手を指しあうなどの評価値の乱高下が観測され,2 つの目標に有効なアルゴリズムであることを確認した. また,この将棋 AI をインターネット対局場の bot として公開し,自由に対局してもらい,アンケートによる評価を行った.対局結果からレーティング 1200 以上の対局相手に対して勝率 5 割以上の成績を残すことができており,アンケートの主観評価から負け越したユーザであってもシーソーゲームが演出できていること,同程度の棋力と感じていれば楽しいと評価していることが確認された. しかし,一方で不自然さの抑制という点では新たな課題も見つかった.ユーザが自分の能力において本来指さない悪手をヒューマンエラーによって指した場合に,着手した直後に自分のその手を悪手だと気付く.このとき,これを咎めない将棋 AI の振る舞いが「必然手を指さない」不自然さとして回答されていた.この不自然さを解消するには,その着手がヒューマンエラーであるか判定して咎めるかを決定することや,咎めない着手の中でヒューマンエラーと感じさせる手を選ぶなど,将棋 AI にヒューマンエラーを生成・判定させる取り組みが必要になる.

4 0 0 0 OA 摂津名所図会

著者
秋里 湘夕
巻号頁・発行日
1796-09

寛政8年(1796)9月, 刊26.2×18.2cm6巻12冊一住吉郡: 73丁, 76コマ二東生郡: 58丁, 61コマ三東生郡・西成郡: 73丁, 76コマ四上大坂部: 51丁, 54コマ四下大坂部: 51丁, 54コマ五嶌下郡嶌上郡: 66丁, 69コマ六上豊嶌郡河邊郡: 44丁, 47コマ六下河邊郡: 45丁, 48コマ有馬郡能勢郡: 59丁, 62コマ武庫郡菟原郡: 62丁, 65コマ矢田部郡上: 43丁, 46コマ矢田部郡下: 93丁, 96コマ序: 寛政6年(1794), 中山前大納言愛親卿跋: 寛政8年(1796)8月, 秋里湘夕画: 竹原春朝斎書林等の記載は有馬郡能勢郡の巻末にあり
著者
山本 一生
出版者
上田女子短期大学
雑誌
紀要 (ISSN:21883114)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.41-57, 2018-01-31

本稿は華北占領地後の北京大学において日本留学経験者が「対日協力者」として果たした役割を考察した。日本が華北を占領すると、主だった国私立大学は蒋介石政権と共に「南遷」し、国立西南連合大学などを結成した。一方で残った北京大学や清華大学などを統合して、「国立北京大学」が「対日協力政権」である中華民国臨時政府唯一の総合大学として設置されることとなった。 当初「国立北京大学」の設立に批判的であった銭稲孫は、家族問題を理由に北京に留まり、その批判対象であった機関の長という「対日協力者」となった。「国立北京大学」文学院長、華北政務委員会教育総署督辦となった周作人も家族問題などを理由に北京に留まり、結果的に「対日協力者」となった。