著者
升水 達郎
出版者
杏林医学会
雑誌
杏林医学会雑誌 (ISSN:03685829)
巻号頁・発行日
vol.3, no.1, pp.59-63, 1972

筆者自身の自他の疑問が絶望に導き, 医師としての自分自身が一度は絶望的に抛棄せられ, その絶体絶命の中に, 自分自身を復活せしめる「先取り」の原理を見出し, 同時に懺悔自体が医学する道であることを説明した。その範を, 田辺元先生の「懺悔道としての哲学」に導かれ, 還相医学の展望するところを示した。今迄の医学の哲学的背景であるデカルト的医学は, あく迄も精神と肉体の二元論であつた。しかしその空間的立場には限界があり, 時間的立場に立つベルクソン的医学によつて修正されねばならない。すなわち, 病は, 患者が精神的にも復活再生しなければ, 真実には治癒しないことを明らかにした。なお「先取り」の世界が, 「自他振替え」によつて, 自が他に「先取らしむ」, これが仏教でいう懺悔報恩行ということの, 私の解釈である。
著者
伊原木 大祐
出版者
北九州市立大学基盤教育センター
雑誌
基盤教育センター紀要 (ISSN:18836739)
巻号頁・発行日
no.27, pp.1-18, 2016-12

エマニュエル・レヴィナスの倫理学的思考の中で「共感(sympathie)」という語は一貫して二次的な意味しか与えられていない。しかし、本稿では、その本来の原初的意味である「共-苦」という考えからレヴィナスの著作群にアプローチすることで、共感という哲学的概念に含まれうる積極的な意義を掘り起こしている。
著者
伊藤 忠夫 Tadao Itoh 中京大学教養部
出版者
中京大学教養部
雑誌
中京大学教養論叢 = Chukyo University bulletin of the Faculty of Liberal Arts (ISSN:02867982)
巻号頁・発行日
vol.36, no.4, pp.1155-1203, 1996-04-26

言語変化における目的論という古代からの問題は最近, 幾人かの理論家によって改めて提起されており, 歴史言語学に関する多くの会議で議論の焦点となっている。Lass の新実証主義に対する Anttila と Itkonen のような学者の目的論支持の主張は, Peirce の哲学に頼ることによって強化され, より広い視野を得ることができる, というのは, 彼の記号の理論と目的因の独創的概念は, 言語構造と言語変化の目標の本性に直接的に適用されているからである。記号と記号行為の Perice の理解, と同時に Aristotles の文脈における動力因関係と目的因関係についての彼の説明を詳しくたどることを通して, 言語変化の「テロス」'telos' は, 図形化, つまり, 意味の諸関係が形態の諸関係に映される記号行為学的図形の形成, として浮かび上がってくる。目的論は, 従って, 言語構造の本体の不可分の一部として見られる時には, 汎時的な記号行為的全一体としての言語の十分な理解に対する理論的基盤という原理的地位をもっていることが明らかにされている。
著者
金杉 高雄
出版者
太成学院大学
雑誌
太成学院大学紀要 (ISSN:13490966)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.51-60, 2011-03

言語学の発展は現代の科学技術の進歩と切り離すことはできない。意味を中心とする言語学ではメタファー、メトニミーの研究がより活発に進められてきた。この分野ではGeorge Lakoff が最も重心的な研究者である。しかし、言葉の意味を研究する上で必要に迫られるのが、言語学以外の隣接分野の知見である。Lakoff は自分の言語理論をより包括的に発展させるために、Mark Johnson (シカゴ大学)という哲学者を招き、共同研究をし、研究書を発表している。あまりにも有名な「Metaphors We LiveBy」である。この著作を発表した後、彼らは再び、「Philosophy in the Fresh」を世に出しその研究成果を問うている。この2 作目の共著では「Philosophy」という言葉がタイトルに取り入れられ言語学と哲学的思考の関係の深さが全面に出ている好例であるといえる。さらに、認知文法(CognitiveGrammar)を提唱する Ronald Langacker は哲学者、Heidegger の影響を大きく受けていることは周知の事実である。彼はHeidegger の思想に基づいて数多くの認知モデルを提出している。言語学がいろいろな形で姿を変えて進展するのには興味が引かれる。そのような動向の中で、特にここ10 年の間に注目されてきた分野として語用論と歴史言語学とを体系的、有機的に組み合わせた「歴史語用論」がある。この言語学は文法化、主観化、間主観化をキーワードに研究が進められてきている。言語学の新しい方向性である。言語学と隣接分野との組み合わせ、そして従来の歴史言語学と比較的目新しい語用論との組み合わせによる研究方法に加えて、認知言語学と歴史語用論とを組み合わせた研究方法に関してのその輪郭について日本語を中心にして、その意味変化を取り扱いながら試論を行うものである。
著者
上野 修
出版者
山口大学
雑誌
山口大学哲学研究 (ISSN:0919357X)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.35-74, 1997

Paradoxalement, le Traité théologico-politique de Spinoza s'est attire le blâme le plus furieux des cartesiens hollandais de son temps qui soutenaient, de même que Spinoza, tant la liberté de philosopher contre l'intolérance théologique que la séparation entre la théologie et la philosophie. Ce paradoxe s'explique par l'étrangeté frappante de l'exégèse biblique ou de la "théologie" redéfinie de Spinoza qui propose de ne pas présupposer dans le verbum Dei aucune "vérité des choses." Cette proposition, bien que faite sincèrement pour libérer ces intellectuels de la tâche désespérément conflictuelle de réconcilier la raison avec la foi au niveau de la vérité, ne fit que soupçonner l'artifice d'un athée pour ruiner l'authorité biblique. Spinoza en est pourtant sérieux: il atteste et accepte l'authorité par le fait que l'Écriture, en ce qui concerne de l'enseignement moral, et qui d'ailleurs coïncide avec la raison dans la pratique, s'est perpétuellement gardée contre toute falsification, et cela, en réalité, grâce à la puissance de la multitude (termes à apparaître dans le dernier Traité politique) qui ne sauraient rien de la vérité des choses. La notion de la fonction propice de la non-vérité dans l'histoire est donc ce qui lui permet de concevoir l'entre-deux qui est le dehors aussi bien de la théologie que de la philosophie, dehors où s'exerce pleinement la puissance de la Nature-Dieu.
著者
山内 清郎
出版者
The Japanese Society for the Philosophy of Education
雑誌
教育哲学研究 (ISSN:03873153)
巻号頁・発行日
no.90, pp.1-19, 2004

This paper explores an aspect of Søren Kierkegaard as a humoristic awakening teacher. In the theory of education, Kierkegaard has been well known as an existential thinker. The concepts of 'awakening' and 'subjective decision' are considered to be unique to Kierkegaard. A good deal of effort has been made to clarify the relation of educational theory and existential philosophy, a topic which is not ours here. Our concern is with the examination of the performative role that Kierkegaard intends to play in front of his audience.<BR>Kierkegaard describes himself as a humorist in his <I>Concluding Unscientific Postscript to Philosophical Fragments</I>, whose author is Johannes Climacus (one of Kierkegaard's pseudonyms). The question here is if we have not often overlooked the fact that the text is written by a humorist. Have we paid due attention to the nuances and atmospheres of the narrative of Climacus? <BR>To begin with, we have to inquire into the meaning of "misunderstanding" which Kierkegaard thinks as one of his main themes all through his authorship. A great deal of misunderstanding in his age has made it necessary for Kierkegaard to adopt pseudonymous authorship and to communicate in an experimental form of a humorist.<BR>Then, a detailed analysis of Climacus' humoristic narrative illustrates four features of a humorist : (1) continually to join the conception of God together with something else and to bring out contradictions; (2) not to relate himself to God in religious passion; (3) to change himself into a jesting and yet profound transition area for all the transactions; (4) to renounce the concordance of joys that go with having an opinion and always to dance lightly.<BR>Lastly, it seems reasonable to suppose that Climacus' usage of "existence" is far from that of a conventional context of existential philosophy. This view on humoristic style of Climacus' narrative should throw new light on the relation between educational theory and Kierkegaard.
著者
井上哲次郎 著
出版者
富山房
巻号頁・発行日
1936
著者
加藤 紫苑
出版者
京都大学文学研究科西洋近世哲学史研究室
雑誌
Prolegomena : 西洋近世哲学史研究室紀要 (ISSN:21858098)
巻号頁・発行日
vol.8, no.1, pp.1-16, 2017-06-15

筆者は2016年の9月から12月にかけて、京都出町柳GACCOH において、計3回にわたって「やっぱり知りたい! シェリングとドイツ・ロマン主義」と題する連続講義を行なった。本稿は、第2回「産出的構想力の発見--シェリングの精神哲学」を文章化したものである。
著者
清水 純一
出版者
日本哲学会
雑誌
哲学 (ISSN:03873358)
巻号頁・発行日
vol.1958, no.8, pp.70-76, 1958-03-31 (Released:2009-07-23)

今日のイタリアにおける哲学研究発達の有様を省みると、明治維新以後の我が国のそれと似通ったところがある.イタリアは、ルネサンス以来、諸外国勢力の干渉によって分裂をつづけてきたために、近代国家としては他のヨーロッパ列強に立遅れることとなった.イタリア国家の独立統一が事実上成立したのは、一八七〇年 (明治三年) のことなので、このおくれを取戻すためには、まず先進北欧諸国の文明文化を輸入することから始めなければならなかった.そしてイタリア哲学界に真先にはいってきたものが、当時の世界に君臨していたドイツ哲学であったことはいう迄もない.戦前のイタリアの代表的思想家といえば、ジェンティーレ (G.Gentile) とクローチェ (B. Croce) をあげるのが普通であるが、この二人もまたヘーゲル右派と左派とも呼ばれるように、ドイツ観念論の影響を多分にうけている.つまり戦前のイタリア哲学界の主流をしめていたものはドイツ観念論の研究であり、指導的学者もまたその研究家に多かったので、現代イタリアの哲学はドイツ哲学の輸入から出発したといっても過言ではない.また、戦前から戦中にかけては、周知のようなファッショ政権の国粋主義的傾向によって、ファシズムの理論的裏づけと同時にイタリア思想の研究が積極的に支援助長された.さらに戦後思想の発展についても、敗戦後の我が国の思想界が帝国主義への反省から出発したように、イタリアでもまたファシズムへの批判がその出発点となったところへ、マルクシズムや実存主義やプラグマティズムといった諸思想が洪水のように流れこみ溢れでて、諸観念の混沌時代を現出したのである.このように我が国とイタリアとの間には類似性があるけれども、イタリアの哲学がまた独自の足どりをもって前進したことはいうまでもない.まずその哲学を生み出しているイタリアの社会的地盤、その長い輝かしい歴史と伝統はイタリア民族の意識と思想を強固に規制している.古代ローマ文化の時性としてよく引合に出される現実的性格は、今日までイタリア民族の底を一貫して流れているものである.この現実的性格は目前に現われたものを貧欲に吸収しようとして多面的となる.たとえばいわゆるルネサンスの万能天才レオナルドのディレッタンティズムはその典型といえる.その点ではイタリアに輸入されたドイツ観念論が果してどれだけ血肉化したかは問題で、さまざまのイタリア的消化をせねばならなかったのであって、むしろおくれてはいってきたコントの実証主義の方がやすやすと受け入れられたという見方もされるのである.学者の研究活動も一般に多面的で、学究生活と社会生活の結びつきが密接なため、我が国のように専門化が徹底せず、いいかえれば哲学と市民生活或は社会実践との境界線はより複雑である.こうした性特はまた何よりもイタリアの歴史のうちに最もよくあらわれているので、自己の歴史伝統の尊重がイタリア哲学の特性ともなってくるのである.したがってイタリア思想史の研究は、ファシズム時代にぱっと燃えおちた花火線香のような一時的現象ではなく、戦後の今日も性格こそ異ってはいるものの依然として続けられ、しかもかえって隆盛になって今日のイタリア哲学研究の一特色とまでなりつつある現状である.上の如き一般的特性を背景に思い浮べながら、第一に時代思潮の流れからみたイタリア哲学界の現況及び傾向を素描し、第二にルネサンス哲学の研究状況を紹介することによってあわせてその特性の一半をうかがうよすがとしたい.