著者
出口 康夫
出版者
関西哲学会
雑誌
アルケ- (ISSN:09197281)
巻号頁・発行日
no.6, pp.60-70, 1998
著者
石井 宏典
出版者
千葉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
千葉大学人文社会科学研究 (ISSN:18834744)
巻号頁・発行日
no.23, pp.64-75, 2011-09

政治学の経験的手法と規範的手法を架橋する熟議民主主義の試みは政治学の再生を掲げる重要な分野であるとともに、民主主義の形を新たに捉えなおす好機となっている。加えて、民主社会の問題解決を提案する学問である政策科学・公共政策学においても民主主義ともにキーワードとなっている「熟議」は、政策形成の仕組みを捉える点で重要な論点であり、ともに形は違えどもどちらも根源的な学問の存在意義の重要性において接近している。熟議民主主義の思想史的総括を終えて実証的・実態的側面への研究が求められる現在、熟議そのものをどう解釈するかには蓄積された実践例の分析が必要不可欠となる。本稿ではその分析に政策科学分野における一領域である「政策類型論」を用いて、政策の分類・類型化を試みたい。その意図するところは、熟議民主主義思想と実際の熟議事例の対応関係を表すとともに、政策類型により漠然として一括りにされている熟議の質、事実-価値関係と熟議民主主義に親和的な政策分類を捉えることにある。この結果は、政治学においては熟議研究の新しい切り口に、政策科学においては古典とされた政策類型論の理論的拡張と政策形成と熟議の一体化を確認することとなる。この政策類型区分には公共的観点、いわゆる公共哲学の理念を加味しており、「熟議-政策-公共」をつなぐ民主主義の形を構築するその為の一試論としたい。
著者
権藤 愛順
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.43, pp.143-190, 2011-03

本稿では、明治期のわが国における感情移入美学の受容とその展開について、文学の場から論じることを目標とする。明治三一年(一八九八)~明治三二年(一八九九)に森鷗外によって翻訳されたフォルケルト(Johannes Volkelt 1848-1930)の『審美新説』は、その後の文壇の様々な分野に多大な影響を与えている。また、世紀転換期のドイツに留学した島村抱月が、明治三九年(一九〇六)すぐに日本の文壇に紹介したのも、リップス(Theodor Lipps 1851-1914)やフォルケルトの感情移入美学を理論的根拠の一つとした「新自然主義」であった。西洋では、象徴主義と深い関わりをもつ感情移入美学であるが、わが国では、自然主義の中で多様なひろがりをみせるというところに特徴がある。本論では、島村抱月を中心に、「新自然主義」の議論を追うことで、いかに、感情移入美学が機能しているのかを検討した。感情移入美学の受容とともに、<Stimmung>という、人間の知的判断、認識以前の本源的な「情調」に対する関心が作家たちの間にひろがりをもつ。そして、文学表現の場で、<Stimmung>をいかに表すかという表現の方法も盛んに議論されている。本稿では、感情移入美学がもたらした描写法の一つの展開として、印象主義的な表現のあり方に着目し当時の議論を追っている。さらに、感情移入美学と当時の「生の哲学」などの受容があいまって、<生命の象徴>ということが、自然派の作家たちの間で盛んに説かれるようになる。<生命の象徴>ということと感情移入美学は切り離せない関係にある。感情移入美学が展開していくなかで、<生命の象徴>ということにどのような価値が与えられているのかを論じている。また、感情移入美学の大きな特徴である主客融合という概念は、作家たちが近代を乗り越える際の重要な方向性を示すことになる。ドイツの<モデルネ>という概念と合わせて、明治期のわが国の流れを追っている。
著者
中尾 央
出版者
京都大学文学部科学哲学科学史研究室
雑誌
科学哲学科学史研究 (ISSN:18839177)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.21-38, 2009-02-28

This paper will focus on and analyze the recent arguments on mental modularity. Although the Massive Modularity Hypothesis (MMH) has been criticized by many philosophers and psychologists, Barrett, Sperber, and Carruthers argue that these criticisms have misunderstood the meaning of the concept of "module" in MMH; they argue that this concept differs from Fodorian module and should be investigated in terms of functional specialization. Through clarifying the concept of module in these arguments and the reasons why MMH based on such mental modules can be supported, the author will consider the relationships between MMH and culture. In particular, the author will argue that MMH can explain social learning because some biases in the Dual Inheritance Theory can be also regarded as modules. It follows that MMH can be compatible with the Dual Inheritance Theory to a significant degree.
著者
入江 識元
出版者
富山大学
雑誌
高岡短期大学紀要 (ISSN:09157387)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.159-170, 2001

ヘンリー・ジェイムズの中編『ねじの回転』は視覚や聴覚が形成する認識と記憶の構造についてすばらしいモデリングを提供する。実際『ねじの回転』ほど主人公の認識のメカニズムが複雑な作品も珍しいし、これらは全て作家ジェイムズが仕組んだプロットであるが、こうした「語りの多重性」が語りの歪みと曖昧性を生み、幽霊の出現を読者に納得させる。この作品の視点について考察する場合、まず女家庭教師の視点の曖昧性に注目するだろう。伝統的なイギリスの教養を身につけた彼女にとって、上流階級の豪邸やそれを取り巻く美しい自然は、彼女の想像力を掻き立たせるに十分な素材であったし、理性的な教養人たる彼女は、その後次々に出現する幽霊を理性的な証明により合理化する。そしてこの物語の信憑性は全てこの女家庭教師のロマンス熱に浮かされた「眼差し」に委ねられている。彼女は相手の見せる表情から疑念を持ち、想像を増幅させるに至る。この作品はラカンやカント、ハイデガーなどが提示した強迫神経症や純粋理性や時間的存在といった哲学的問題とも絡めて論じることができる。この作品はそうした問題について解決の糸口を与えていることは間違いない。
著者
牛尾 弘孝
出版者
九州大学中国哲学研究会
雑誌
中国哲学論集 (ISSN:03856224)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.1-22, 2008-12-25 (Released:2010-09-14)
著者
相澤 伸依
出版者
京都大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2007

本年も昨年に引き続きミシェル・フーコーの方法論についての研究を進めた。特に、言語行為論に関する文献を読み進めた。また、フーコーとカントをつなぐテーマである啓蒙についての研究も進めた。カントの歴史哲学と啓蒙論は、フーコーが自身の方法を練り上げる上で強く意識していた事柄である。というのも、フーコーは自身の研究を現代における「批判哲学」と位置づけ、自己創出のプロセスとして系譜学を構想しているからである。哲学における自己創出という問題は晩年のフーコーの研究テーマでもあり、2008年に出版された講義録Gouvernement de soi et des autresでパーレシア概念の研究という形で展開されている。そこで、カントの歴史哲学について概観するとともに、フーコーの前述講義録に依拠しつつ、フーコーと啓蒙について研究会で発表した(社会哲学研究会)。フーコー研究と平行して、セックスの哲学についての研究も行っている。英米圏で展開されているPhilosophy of sexは、「性的」とはどういうことかといった原理的問いから売買春やセクシュアル・ハラスメントのような応用倫理学的な問いまで含んだ興味深い領域であるが、日本での受容はさほど進んでいない。そこで、本年はセックスの価値に関する研究や売春合法化論をめぐる議論の検討などを行い、発表した(京都生命倫理研究会)。
著者
本郷 均
出版者
東京電機大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2009

フランスの現象学者メルロ=ポンティの遺稿草稿(『眼と精神』の下書きやメモ類、およびゲシタルト派の芸術心理学者アルンハイムの読書メモ、『見えるものと見えないもの』関連の未刊草稿など)の調査を行った。また、晩年のメルロ=ポンティの他の芸術に関する考察に対して取っていたスタンスを、メルロ=ポンティ自身の前期の「セザンヌの懐疑」における考え方と比較・考察し、かつミシェル・アンリという哲学者の芸術論とを比較することなどを通して、メルロ=ポンティの後期存在論構想に対して、「芸術」が果たしている役割が根本的であることが確認された。
著者
大出 晃
出版者
三田哲學會
雑誌
哲学 (ISSN:05632099)
巻号頁・発行日
no.43, 1963-10

Il s'est dit traditionellement qu'il n'existe pas la quatrieme figure dans le classement aristotelicien des syllogismes assertoriques. Ce qui ne signifie pas, comme il est bien connu, qu'Aristote ne reconnaisse les syllogismes de la quatrieme figure pour valides. Le philosophe examine tous les syllogismes de la quatrieme figure et les admet pour valides, mais il ne les classe pas dans une figure particuliere qui est nommee au cours de temps la figure galenique. Pourquoi donc n'existe-t-il pas la quatrieme figure dans son classement ? Les explications donnees par des commentateurs, me semble-t-il, n'eclaircissent pas beaucoup ce probleme. Au congres de l'association japonaise pour philosophie des sciences tenu au mois de mai 1959, j'ai propose une explication qui le concerne. Mon argument en est suivant Le classement ordinaire des syllogismes aristoteliciens suppose qu'Aristote lui-meme le fasse selon la meme methode que celle-ci: [table] Mais a mon avis cette supposition ne trouve aucune justification dans l'interpretation fidele du texte d'Analytica Priora. La methode de classement authentiquement aristotelicien est plutot suivante: [table] En bref, elle est lineaire et de ce point de vue la non-existence de la quatrieme figure est bien naturelle, Les phrases d'Analytica Priora, surtout 25b 32-37, 26b 34-39, 28a 10-15, justifient entierement cette explication. Recemment M. Kneale a propose la mene explication dans son excellent ouvrage "The Development of Logic". J'ai developpe dans cet article l'argument plus detaile qui est favorable a la nouvelle explication.