- 著者
-
村田 雄二郎
- 出版者
- 東京大学
- 雑誌
- 基盤研究(C)
- 巻号頁・発行日
- 1998
研究1年目の今年度は、当初の研究計画にしたがい、備品購入による研究環境の整備、基礎的な文献の収集と調査を行った。また、北京に出張した機会を利用して、中央民族大学を訪問し、胡振華・索文清教授と面談し、中国の民族学研究をめぐって、研究交流を進めた。索教授からは、大陸におけるチベット近現代史研究の現況に関して、貴重な提言と示唆を得た。さらに研究開始後まもなく、日本の外交資料館に収蔵される外交文書「西蔵問題及事情関係雑纂」に、本研究に有用な資料が含まれることが判明した。次年度も引き続き、これらの資料や情報を活用した研究を進めて行くつもりである。以上の作業にもとづく今年度の研究成果は、次の通りである。1、 南京国民政府はその成立当初から、周辺民族、とくにチベット・新疆・モンゴルの統合問題を重要な政治課題に掲げ、行政院(内閣)に蒙蔵委員会を設置するなど、その実効支配のための制度や環境を整えようとした。2、 しかし、そうした努力にもかかわらず、対チベット関係においては、東チベット地区(中央は1939年に西康省を設置)で1930年唄から、チベット・漢軍の激しい武力衝突が頻繁に発生したことが物語るように、中央政府がチベットに実効支配を及ぼす力はなかった。1931年の満州事変が、国民政府による国家統一の危機をさらに深めたことはいうまでもない。3、 こうした状況の中で、1933年にダライ・ラマ13世が死去したことは、中央政府にチベット「介入」へのまたとない機会を提供するものだと受けとめられた。34年、ラサでのダライ・ラマの葬儀に列席した黄慕松は、中央大官の初めてのラサ入りとなった。また、40年の新ダライ・ラマ即位式典に蒙蔵委員会委員長呉忠信が参列したことは、国民政府のチベット関与を一歩前進させるきっかけになった。4、 ただし、呉忠信の式典参加をめぐっては当時から、「主宰」か「参列」かで、その解釈が大きく分かれており、民国期の中蔵関係を考える上での、一つの焦点となっている。次年度は、この点に的を絞り、黄慕松および呉忠信のチベット入りをめぐる中蔵関係の展開について、档案資料を駆使した個別研究を行うことにする。