著者
箱崎 真隆 三宅 芙沙 佐野 雅規 木村 勝彦 中村 俊夫 奥野 充 坂本 稔 中塚 武
出版者
日本地球惑星科学連合
雑誌
日本地球惑星科学連合2019年大会
巻号頁・発行日
2019-03-14

十和田カルデラ(青森県/秋田県)と白頭山(中国/北朝鮮)は、10世紀に巨大噴火を起こした。その痕跡はTo-aテフラ、B-Tmテフラとして、北日本の地層に明瞭に残されている。この2つの噴火は、それぞれ過去2000年間で日本最大級、世界最大級のものと推定されている(早川・小山1998)。しかしながら、この2つの噴火に関する直接的な文書記録は、周辺国のいずれからも見つかっていない。そのため、その年代は長らく未確定であった。また、年代が未確定であるために、人間社会や地球環境への影響評価も進んでいなかった。近年、白頭山の10世紀噴火の年代は、日本で発見された西暦775年の炭素14濃度急増イベント(Miyake et al. 2012)を年代指標とする「14C-spike matching」と、日本で実用化された「酸素同位体比年輪年代法」により、西暦946年と確定した(Oppenheimer et al. 2017, Hakozaki et al. 2018, 木村ほか 2017)。この年代は、早川・小山(1998)が日本列島と朝鮮半島のごく限られた古文書(「興福寺年代記」や「高麗史」)から読み取った「遠方で起きた大きな噴火」を示唆する記述と一致した。一方、B-Tmの年代が確定したことにより、十和田カルデラ10世紀噴火の年代に疑義が生じた。十和田カルデラ10世紀噴火は、「扶桑略記」における東北地方の噴火を示唆する記述や、ラハールに埋没する建築遺物の年輪年代をもとに西暦915年と推定されてきた。この915年を基準にTo-aとB-Tmの間に挟まる年縞堆積物をカウントし、上手ほか(2010)は白頭山の噴火年代を929年と推定していた。しかし、先のとおりB-Tmの絶対年代は946年であったため、上手ほかの推定から17年のズレがあることが明らかとなった。つまり、十和田カルデラ10世紀噴火は西暦946年から14年を差し引いて西暦932年である可能性が生じた。もし、これが正しいとすれば、扶桑略記の西暦915年の記述は、十和田カルデラ以外の火山で起きた噴火を示唆している可能性がある。最近、宮城県多賀城跡の柵木に、酸素同位体比年輪年代法が適用され、西暦917年の年輪が認められた(斎藤ほか 2018)。この柵は、考古学的調査ではTo-aテフラ(915年)の降灰前に築造されたと考えられてきた(宮城県多賀城跡調査研究所 2018)。その構造材に西暦917年の年輪が認められたことは、To-aテフラの年代と大きく矛盾する。さらにその構造材には樹皮も辺材も残存せず、伐採年は917年よりも後の年代であることが明らかである。本発表では、「14C-spike matching」と「酸素同位体比年輪年代法」という2つの新しい年輪年代法によって、白頭山や多賀城跡の木材の年代がどのようにして決定したのか、十和田カルデラ10世紀噴火の絶対年代の確定に必要な調査とは何かについて示す。
著者
西本 豊弘 藤尾 慎一郎 永嶋 正春 坂本 稔 広瀬 和雄 春成 秀樹 今村 峯雄 櫻井 敬久 宮本 一夫 中村 俊夫 松崎 浩之 小林 謙一 櫻井 敬久 光谷 拓実 設楽 博巳 小林 青樹 近藤 恵 三上 喜孝
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
学術創成研究費
巻号頁・発行日
2004

弥生時代の開始が紀元前10世紀末であることが明らかとなった。その後、日本列島各地へは約500年かかってゆっくりと拡散していった。さらに青銅器・鉄器の渡来が弥生前期末以降であり、弥生文化の当初は石器のみの新石器文化であることが確実となった。
著者
齋藤 努 坂本 稔 高塚 秀治
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.177, pp.127-178, 2012-11-30

宮城県に在住する刀匠・九代法華三郎信房氏とご子息の栄喜氏のご協力により,代々継承している作刀技術のうち,「卸し鉄」「折り返し鍛錬」「焼き入れ」の3つについて,自然科学的な観点から調査を行い,下記の諸点が明らかになった。卸し鉄では,同じ炉を使い,ほとんど同じような動作をしているのに,軟鉄への浸炭と銑鉄からの脱炭という正反対の反応を起こすことができる。両者において,炉内ではまったく異なるメカニズムが働いていると推測される。すなわち,軟鉄の浸炭では,炉の上部で固体の鉄に炭素が吸収され,融点が下がって半溶融状態となり,炉底に垂れ落ちていく。炉底ではできるだけ風があたらないようにして,脱炭が起こらないようにする。一方,銑鉄の脱炭では,炉の上部で鉄が溶解して液体状態になり,炉底に少しずつ流れ落ちていく。炉底では羽口からの風があたるようにして,鉄中の炭素を燃焼させ,炭素濃度を下げる。折り返し鍛錬において,折り返し回数が増えるにつれて,炭素濃度の均一化されていく様子が観察された。参考文献などにある「折り返し鍛錬によって介在物が減少していく」という現象は確認されず,鍛接面に生じるものもスラグに由来するものも,折り返し回数が増えるほど小さくなり均一に分散されていくことがわかった。鍛造開始時の加熱温度については,仮着けでも泥沸かしでも,鉄の炭素濃度に応じて異なる傾向がみられた。また仮着けと泥沸かしの工程では,加熱温度,作業を行う温度,作業継続時間に相違がみられた。これはそれぞれの工程での目的と刀匠の意識が反映されているものと考えられた。焼き入れにおいて,沸と匂を作りわける場合の加熱温度の違いを実験的に確認できた。これは刀匠の感覚とも整合的であった。また焼刃土の下の鉄の温度の測定により,焼刃土が地部の徐冷に役立っていることが確認された。
著者
春成 秀爾 小林 謙一 坂本 稔 今村 峯雄 尾嵜 大真 藤尾 慎一郎 西本 豊弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.163, pp.133-176, 2011-03

奈良県桜井市箸墓古墳・東田大塚・矢塚・纏向石塚および纏向遺跡群・大福遺跡・上ノ庄遺跡で出土した木材・種実・土器付着物を対象に,加速器質量分析法による炭素14年代測定を行い,それらを年輪年代が判明している日本産樹木の炭素14年代にもとづいて較正して得た古墳出現期の年代について考察した結果について報告する。その目的は,最古古墳,弥生墳丘墓および集落跡ならびに併行する時期の出土試料の炭素14年代に基づいて,これらの遺跡の年代を調べ,統合することで弥生後期から古墳時代にかけての年代を推定することである。基本的には桜井市纏向遺跡群などの測定結果を,日本産樹木年輪の炭素14年代に基づいた較正曲線と照合することによって個々の試料の年代を推定したが,その際に出土状況からみた遺構との関係(纏向石塚・東田大塚・箸墓古墳の築造中,直後,後)による先後関係によって検討を行った。そして土器型式および古墳の築造過程の年代を推定した。その結果,古墳出現期の箸墓古墳が築造された直後の年代を西暦240~260年と判断した。
著者
小林 謙一 坂本 稔
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.196, pp.23-52, 2015-12-25

本稿は,縄紋後期の生業活動において,海洋資源がどの程度利用されていたのかを見積るため,炭素の安定同位体比(δ¹³C値)と炭素14年代をもとに,時期別・地域別の検討をおこなったものである。旧稿[小林2014]において,陸稲や水田稲作が出現する弥生移行期である縄紋晩期~弥生前期の土器付着物を検討した方法を継承して分析した。そのことによって,旧稿での縄紋晩期と弥生前期との違いの比較検討という目的にも資することができると考える。土器内面の焦げや外面の吹きこぼれなど,煮炊きに用いられた痕跡と考えられる土器付着物については,δ¹³C値が-24‰より大きなものに炭素14年代が古くなる試料が多く,海洋リザーバー効果の影響とみなされてきた。一方,-20‰より大きな土器付着物については,雑穀類を含むC₄植物の煮炊きの可能性が指摘されてきた。しかし,これらの結果について,考古学的な評価が十分になされてきたとはいえない。国立歴史民俗博物館年代研究グループが集成した,AMSによる縄紋時代後期(一部に中期末葉を含む)の炭素14年代の測定値を得ている256試料(汚染試料及び型式に問題ある試料を除く)を検討した。その結果,土器付着物のδ¹³C値が-24~-20‰の試料には炭素14年代で100 ¹⁴C yr以上古い試料が多く見られることが確認され,海産物に由来する焦げである可能性が,旧稿での縄紋晩期~弥生前期の土器付着物の場合と同様に指摘できた。北海道の縄紋時代後期には海産物に由来する土器付着物が多く,その調理が多く行われていた可能性が高いことがわかった。東日本では縄紋時代後期には一定の割合で海産物の影響が認められるが,西日本では近畿・中四国地方の一部の遺跡を除いてほとんど認められない。これらは川を遡上するサケ・マスの調理の結果である可能性がある。また,C₄植物の痕跡は各地域を通じて認められなかった。以上の分析の成果として,土器付着物のδ¹³C値は,縄紋時代後期の生業形態の一端を明らかにし得る指標となることが確認できた。
著者
箱崎 真隆 坂本 稔 篠崎 鉄哉
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
学術変革領域研究(A)
巻号頁・発行日
2023-04-01

本研究では、先史時代の日本列島域の古環境変遷を「酸素同位体比年輪年代法」および「炭素14スパイクマッチ法」を用いて高い時空間解像度で復元する。特に①「鬼界アカホヤ噴火」の誤差0年決定、②過去6400年間の降水量と太陽活動の復元、③世界的寒冷化イベント(4.2-4.3kaイベント)の影響評価を目的とする。そのために、埋没木と遺跡出土木材の網羅的な酸素同位体比分析と炭素14分析を実施する。並行して新規の木材資料獲得と年代決定を行ない、より古い時代まで復元できる基盤形成を進める。本研究によって、日本列島域における古環境の形成と先史人類の適応について明らかにする。
著者
小林 謙一 春成 秀爾 坂本 稔 秋山 浩三
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.139, pp.17-51, 2008-03-31

近畿地方における弥生文化開始期の年代を考える上で,河内地域の弥生前期・中期遺跡群の年代を明らかにする必要性は高い。国立歴史民俗博物館を中心とした年代測定グループでは,大阪府文化財センターおよび東大阪市立埋蔵文化財センターの協力を得て,河内湖(潟)東・南部の遺跡群に関する炭素14年代測定研究を重ねてきた。東大阪市鬼塚遺跡の縄文晩期初めと推定される浅鉢例は前13世紀~11世紀,宮ノ下遺跡の船橋式の可能性がある深鉢例は前800年頃,水走遺跡の2例と宮ノ下遺跡例の長原式土器は前800~550年頃までに較正年代があたる。奈良県唐古・鍵遺跡の長原式または直後例は,いわゆる「2400年問題」の中にあるので絞りにくいが,前550年より新しい。弥生前期については,大阪府八尾市木の本遺跡のⅠ期古~中段階の土器2例,東大阪市瓜生堂遺跡(北東部地域)のⅠ期中段階の土器はすべて「2400年問題」の後半,即ち前550~400年の間に含まれる可能性がある。唐古・鍵遺跡の大和Ⅰ期の土器も同様の年代幅に含まれる。東大阪市水走遺跡および若江北遺跡のⅠ期古~中段階とされる甕の例のみが,「2400年問題」の前半,すなわち前550年よりも古い可能性を示している。河内地域の縄文晩期~弥生前・中期の実年代を暫定的に整理すると,以下の通りとなる。 縄文晩期(滋賀里Ⅱ式~口酒井式・長原式の一部)前13世紀~前8または前7世紀 弥生前期(河内Ⅰ期)前8~前7世紀(前600年代後半か)~前4世紀(前380~前350年頃) 弥生中期(河内Ⅱ~Ⅳ期)前4世紀(前380~前350年頃)~紀元前後頃すなわち,瀬戸内中部から河内地域における弥生前期の始まりは,前750年よりは新しく前550年よりは古い年代の中に求められ,河内地域は前650~前600年頃に若江北遺跡の最古段階の居住関係遺構や水走遺跡の遠賀川系土器が出現すると考えられ,讃良郡条里遺跡の遠賀川系土器はそれよりもやや古いとすれば前7世紀中頃までの可能性が考えられよう。縄文晩期土器とされる長原式・水走式土器は前8世紀から前5世紀にかけて存続していた可能性があり,河内地域では少なくとも弥生前期中頃までは長原式・水走式土器が弥生前期土器に共伴していた可能性が高い。
著者
坂本 稔 小林 謙一 尾嵜 大真 中村 俊夫
出版者
名古屋大学年代測定資料研究センター
雑誌
名古屋大学加速器質量分析計業績報告書
巻号頁・発行日
no.16, pp.91-94, 2005-03

第17回名古屋大学タンデトロン加速器質量分析計シンポジウム平成16(2004)年度報告 Proceedings of the 17th symposiumon Researches Using the Tandetron AMS System at Nagoya University in 2004\日時:平成17 (2005)年1月24日(月)、25日(火) 会場:名古屋大学シンポジオン Date:January 24th and 25th, 2005 Place:Nagoya University Symposion Hall
著者
春成 秀爾 小林 謙一 坂本 稔 今村 峯雄 尾嵜 大真 藤尾 慎一郎 西本 豊弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.163, pp.133-176, 2011-03-31

奈良県桜井市箸墓古墳・東田大塚・矢塚・纏向石塚および纏向遺跡群・大福遺跡・上ノ庄遺跡で出土した木材・種実・土器付着物を対象に,加速器質量分析法による炭素14年代測定を行い,それらを年輪年代が判明している日本産樹木の炭素14年代にもとづいて較正して得た古墳出現期の年代について考察した結果について報告する。その目的は,最古古墳,弥生墳丘墓および集落跡ならびに併行する時期の出土試料の炭素14年代に基づいて,これらの遺跡の年代を調べ,統合することで弥生後期から古墳時代にかけての年代を推定することである。基本的には桜井市纏向遺跡群などの測定結果を,日本産樹木年輪の炭素14年代に基づいた較正曲線と照合することによって個々の試料の年代を推定したが,その際に出土状況からみた遺構との関係(纏向石塚・東田大塚・箸墓古墳の築造中,直後,後)による先後関係によって検討を行った。そして土器型式および古墳の築造過程の年代を推定した。その結果,古墳出現期の箸墓古墳が築造された直後の年代を西暦240~260年と判断した。
著者
坂本 稔
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.137, pp.305-315, 2007-03-30

土器の使用に伴って付着した物質は,その炭素14年代が土器の使用年代を示すものと考えられる。その起源物質の推定を目的として,土器付着物の炭素・窒素分析を行った。多くの試料は陸上生物に特徴的な値を示し,炭素14年代について海洋リザーバー効果の影響が少ないことが分かった。一方,東北や北海道では海洋生物に特徴的な値を示す試料の割合が増え,その影響は無視できない。炭素の安定同位体比からは,土器付着物に雑穀類などのC4植物の存在が確認され,また窒素の安定同位体比との相関では,食材を反映する内面と燃料材を反映する外面とに違いが見られた。
著者
青野 友哉 西本 豊弘 伊達 元成 渋谷 綾子 上條 信彦 大島 直行 小杉 康 臼杵 勲 坂本 稔 新美 倫子 添田 雄二 百々 幸雄 藤原 秀樹 福田 裕二 角田 隆志 菅野 修広 中村 賢太郎 森 将志 吉田 力 松田 宏介 高橋 毅 大矢 茂之 三谷 智広 渡邉 つづり 宮地 鼓 茅野 嘉雄 永谷 幸人
出版者
伊達市噴火湾文化研究所
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2014-04-01

北海道南部の噴火湾沿岸は日本有数の貝塚密集地帯であり、1950年代から貝塚研究の中心地の一つであった。この60年以上にわたり蓄積された調査成果と、現代的な視点で行った近年の発掘調査による新たな分析は、当該地域の環境変遷と人類活動の実態の復元を可能にした。本研究では、噴火湾沿岸の遺跡データの集成と、伊達市若生貝塚及び室蘭市絵鞆貝塚の小発掘により得た貝層サンプルの分析の成果として、時期ごとの動物種の構成比を明示した。これは縄文海進・海退期を含む気候の変動期における当該地域の環境変遷の詳細なモデルである。
著者
坂本 稔 今村 峯雄 一色 史彦 若狭 幸 松崎 浩之
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.176, pp.129-140, 2012-12

茨城県牛久市に所在する観音寺(茨城県牛久市久野町2976)は,嘉禄2年(1226),十一面観音を祀る堂として建立されたと寺伝にあり,その後大永5年(1525)に再興され,現在の本堂は宝永4年(1707)の再建によるものと考えられている。本研究では,観音寺本堂および仁王門の保存修復工事等に伴う旧部材等の保管資料の炭素14年代測定を行った結果について,棟札などの文字資料から推察されてきた建立あるいは修復時期などとの関連を比較検討した。仁王門の保存修復工事で得られた本堂側廻りの旧柱材(ケヤキ)2本の最外層の年代は炭素14-ウィグルマッチ法(¹⁴C-wiggle-matching)によりいずれも13世紀後半か,14世紀初頭に伐採された材と見られた。建立期の嘉禄2年(1226)より新しいが,再興されたとする大永5年(1525)よりはかなり古い年代となっており,「宋風彫刻」とされる十一面観音の鎌倉後期~室町期の年代と整合している。観音寺本堂の細部様式による建築時期の年代認識(鎌倉期)とも矛盾しない。また十一面観音の寄木構造の固定保持のため用いられていた竹釘(昭和の本堂保存修復時に得られ保管),同じく観音像の着衣部分の塗装面の布(麻)の年代は,寛永7年(1630)の十一面観音修理の時期に符合する結果となった。The Kannon-ji temple in Ushiku, Ibaraki Prefecture (2976 Kuno-cho, Ushiku City, Ibaraki Prefecture) was founded, according to temple legend, in 1226 as a hall to house an Eleven-Faced Kannon statue. It was rebuilt in 1525, and the present main hall is believed to date from a 1707 reconstruction. In this research, radiocarbon dating of the preserved materials such as old lumber was done in conjunction with the restoration work on the temple's main hall and the Nio Gate, and the results were compared in terms of their relationships with the construction and repair periods assumed from written records such as on the ridgepole signs.The age of the outermost layer of the two old pillars (made from Keyaki [Zelkova serrata]) from around the main hall obtained during restoration work on the Nio Gate was seen using 14C-wigglematching to both be from trees harvested around the latter half of the 13th century or the start of the 14th. They are newer than the 1226 founding of the temple, but also considerably older than the 1525 reconstruction, and instead match the late Kamakura or Muromachi date of the Eleven-Faced Kannon, which is considered to be in the Song dynasty style. The era suggests by the style of the details of the temple's main hall (Kamakura) does not contradict this either. In addition, the bamboo nails used to fix the different wooden parts of the Eleven-Faced Kannnon statue together (which were stored separately after the Showa-period restoration of the main hall) and the age of the cloth (hemp) covering the clothing parts of the Kannon statue both point to the 1630 restoration of the statue.
著者
小林 謙一 坂本 稔 松崎 浩之 宮田 佳樹 坂本 稔 松崎 浩之 宮田 佳樹 遠部 慎
出版者
中央大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2007

縄紋時代の居住期間、特に竪穴住居の構築・使用・廃絶の時間経過を研究する目的で福島県井出上ノ原遺跡、神奈川県相模原市大日野原遺跡の縄文時代中期集落発掘調査を行い、データをとりながら年代測定用炭化種実・炭化材・土器付着物を採取し、年代測定を両遺跡あわせて約60測定行った。他に、日本先史時代の火災住居、重複住居や盛土遺構などの年代を測定し、縄紋集落の形成期間や形成過程を明らかにした。
著者
山本 光正 宇田川 武久 齋藤 努 三宅 宏司 保谷 徹 山本 光正 坂本 稔 PAULJACK Verhoeven 前川 佳遠理 高塚 秀治 村上 藤次郎 法華 三郎信房 法華 三郎栄喜 伊達 元成 服部 晃央
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2006

国内・国外に所蔵される銃砲に関する文献史料(炮術秘伝書)および実物資料(銃砲)の調査を行い、16世紀なかば鉄炮伝来から19世紀末の明治初年までの日本銃砲史が5期に区分できることを示し、またその技術的変遷を明らかにした。鉄炮銃身に使用されている素材である軟鉄を作るための精錬方法である大鍛冶はすでに技術伝承が途絶えていたが、文献記録にある各工程の意味を明らかにし、その再現に成功した。