著者
岩間 信之 田中 耕市 浅川 達人 佐々木 緑 駒木 伸比古
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

<b>1. </b><b>研究目的</b>&nbsp;本発表の目的は,岩手県下閉伊郡山田町を対象として,東日本大震災から2年が経過した被災地における商業機能の郊外化の現状を,地元事業者,行政,チェーン店の動向から分析するとともに,今後の課題を分析することにある. <b>2. </b><b>研究対象地域</b><b></b> 山田町は岩手県沿岸部の陸中海岸中央部に位置し,北は宮古市,南は大槌町と接する漁業を中心とした町である.市街地は狭い平地に集中して,町域の大半が山林原野に占められていた(図1). 2011年3月11日に発生した東日本大震災では,津波の襲来に加えて,津波後に発生した火災によって中心市街地の大部分が消失した.面積ベースで6割,建物ベースでは8割が甚大な被害を受けた.山田町は三陸沿岸諸都市の中でも平地の少ない地形条件下にあり,小規模の仮設住宅が高台に分散している.高齢化率も高いうえに,震災前から商店街の空洞化も進んでいたため,大震災は町内の買い物環境にさらなる追いうちを与えた.山田町は周辺市町村と比較しても復興が困難な状況下にある. <b>3.</b> <b>買い物環境の復興</b> 大型店の郊外出店が本格化した1990年代以降,山田町では中心商店街の空洞化が進んでいた.震災前,同町における食料品の主な買い物先は,陸中山田駅前と町役場前に店舗を構えるスーパーA(本店:山田町),大沢地区の国道45号線幹沿いに位置するスーパーB(本店:盛岡市),大沢地区の商店街であった.また,大浦・小谷鳥地区には地元商店Eを含む食料品店が3店立地していたほか,国道45号線沿いの道の駅でも食料品が販売されていた.宮古市や大槌町のショッピングセンターに買い物に出かける町民も多かった. 山田町の商業施設は大震災によって壊滅的な被害を受けたものの,震災から2年が経過して買い物環境も改善されている.食料品に関しては,2011年5月に大沢地区の地元商店2店が焼け残った倉庫を使って店舗を再建させたほか,同年8月には地元スーパーが町役場前の本店を再開させている.さらに,同年7月以降は大手コンビニ2店がプレハブで営業を再開し,随時本設店舗へと切り替えている.2012年3月には新たなコンビニも立地した.この頃には住民の自動車保有率も震災前程度の回復し,かつ補助金により公共交通機関も充実したため,山田町の買い物環境は大きく改善された.なお,山田町の仮設商店街は規模が小さく,かつ地元スーパーの近隣に設置されているため,食料品店は入居していない. <b>4. </b><b>大手チェーン店の参入</b><b></b> 震災後,山田町では大手チェーン店などの郊外出店が相次いでいる.大沢地区には,大手の衣料品店チェーンやコンビニ,スーパー,ホームセンターなどから構成される商業集積地が形成されている.同様の商業集積地の形成は,山田町中心部に近い柳沢地区や,内陸の豊間根地区でも計画されている.山田町は,三陸地域の中心地である宮古市と釜石市の間に位置し,自動車でそれぞれ40分程度である.競合店も少ないため,他地域と比べて,大手チェーン店が参入しやすい状況にある.一方,山田町の地元商店街は,様々な要因からその存続も危ぶまれている. 大手チェーンの参入は,町民の買い物環境を向上させる反面,都市中心部における賑わいの喪失や,交通弱者の買い物利便性の低下などのリスクを高めている. 商業機能の郊外化を巡る地元事業者,行政,チェーン店の動向の詳細,および今後の課題については,当日報告する.<br>
著者
竹内 裕希子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

<b>1.&nbsp;&nbsp; </b><b><u>はじめに</u></b><b><u></u></b> 公立小中学校は,児童・生徒の教育の場として子供達の命を守るだけでなく,地域において重要な公共施設として存在し,災害時には避難場所等の役割を果たし,災害が発生した場合には,地域住民の生活の場となる。そのため,学校施設の安全性は防災対策を行う上で重要な課題であり,強い建物としての学校だけでなく,安全性を確保された立地条件において建設を進めることが重要である。 東日本大震災では,6,244の公立学校(幼稚園・小学校・中学校・高等学校・中等教育学校・特別支援学校,文部科学省調べ2011)が被害を受け,そのうち202の学校が「被害状況Ⅰ」に分類されている。この「被害状況Ⅰ」は,建物の被害が大きく,建替え又は大規模な復旧工事が必要とされるものである。建替えを必要とする被害は,学校施設の立地に大きく影響を受けている。 本報告では,岩手県釜石市南部に位置する唐丹地区住民を対象とした学校施設に関するアンケート調査結果から,地区内に立地する学校施設に対する地域住民の要望とその背景に存在する地形条件を考察する。 <b>2.&nbsp;&nbsp; </b><b><u>岩手県釜石市唐丹地区</u></b><b><u></u></b> 岩手県釜石市唐丹地区は唐丹湾に面しており,東日本大震災では15haが津波により浸水した。この津波により唐丹湾を有する唐丹地区では32名の死者・行方不明者,343戸の住宅被害が発生した。 唐丹地区には,唐丹小学校ならびに唐丹中学校が立地している。唐丹小学校は明治9年(1873年)の開校当時は,現在の唐丹中学校の位置に立地していた。その後の児童増加と中学校開設にともない,昭和22年に図1中の唐丹小学校跡へ移転した。東日本大震災では鉄筋校舎3階の天井まで浸水し,校舎は使用不能となった。震災後は釜石市内の平田小学校に間借りをしていたが,2012年に仮設校舎が現在の唐丹中学校敷地内に建設されたことに伴い,現在は唐丹中学校内に併設されている。唐丹中学校は,津波被害は受けなかったが,地震動により校舎が破損被害を受けた。 <b>3.&nbsp;&nbsp; </b><b><u>アンケート調査概要</u></b><b><u></u></b> 岩手県釜石市唐丹町住民を対象として,2011年10月8日~10月24日に実施した。対象数(配布数)は746世帯で,回収数(率)は308世帯(41.2%)であった。配布方法は,地区内居住者は自治会を通じて各戸へ配布し,震災による地区外居住者は郵送した。回収は全て郵便で行った。 <b>4.&nbsp;&nbsp; </b><b><u>学校施設への要望と地形条件</u></b><b><u></u></b> 回答者の50%が,学校施設から高台(国道45号線)へ直結する道路の設置を要望した。これは,東日本大震災時に地域住民が避難をした国道45号線と唐丹中学校の高低差が31.8m存在していること,国道45号線と学校をつなぐ現在の道路は東日本大震災時の浸水ライン上に位置していることが理由として考えられる。平常時の学校運営と学校用地として確保できる敷地面積を考慮した場合の立地場所と,災害時を考慮した場合の立地要因・地形要因を検討する必要がある。
著者
堤 純
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

本発表は,大都市圏単位でみればギリシア国外で最大のギリシア系移民が暮らすといわれるオーストラリア・メルボルン大都市圏において,ギリシア系移民がとくに多いオークレイ(Oakleigh)地区に着目して,エスニックグループの心の拠り所ともいうべき地区が形成されたプロセスを検討したものである。使用したデータは,オーストラリア統計局が提供する有料のデータ加工サービス「テーブル・ビルダー」である。<br>移民が移住先において作り出すエスニックコミュニティについての既往研究の多くは,特定の集住地区の時間的変化や機能的変化の説明に大きな関心が置かれており,特定のエスニック集団による集住地区の分布や変化を,大都市圏全体の構造変容のコンテクストから解明しようと試みた研究は,管見の限り多いとは言えない状況である。そもそも,Burnleyが指摘するように,特定のエスニック集団による集住地区は大都市圏内でも就業機会の多い産業地区や,家賃水準が比較的安価なことに誘引される低所得者の多い地区に形成されることが一般的である。しかし,こうした低所得者の多い地区は,とくに欧米先進諸国においてはモータリゼーションによる大都市圏の外延的拡大が始まる以前に,いわば当時の大都市圏の外縁部に相当していた地区に形成された例が多い。こうした地区は,今日では大都市の都心部に比較的近いという利点に目を付けた投資家や開発業者の手により,建物の改築によって資産価値を高めるジェントリフィケーションも起きやすい地区でもある(藤塚など)。 本研究の対象地区であるオークレイは,メルボルンのCBDから南東に約20km郊外に位置する。オークレイ以外にも,メルボルン大都市圏内にはCBDの北部に隣接するカールトン地区,比較的高所得者が多く居住するCBDの約20km東部のドンカスター地区にもギリシア系住民の割合が高い集住地区が存在する。しかし,それらの中でも,オークレイは群を抜いて「ギリシア系移民のセンター」なイメージが高い地区であるといわれている。<br>ギリシア系移民の移住時期メルボルンにおけるギリシア系移民は,第二次世界大戦後の1945年以降に増加を始め,1970年代までに多くの移民がオーストラリアに渡った。とくに1960年代は,他の時期に比べて,ギリシア系移民の数が突出して数が多い。オーストラリアの大都市圏の中でも,メルボルン大都市圏が最も多くのギリシア系移民が暮らす場所となっている。メルボルン大都市圏に暮らすギリシア出身の移民の数は,2011年の時点で48,313人を数え,2位のシドニー(28,786人),3位のアデレード(8,991人)を大きく引き離している。<br>考察なぜ,オークレイはギリシア系移民にとってセンターになりえたのだろうか。もともとは移民が多く暮らす「貧しい郊外」だったオークレイであるが,現在では拡大するメルボルン大都市圏の市街地に周辺を取り囲まれ,いまや住宅価格をはじめとする生活コストは決して安くはない地区である。一般的には,多くのエスニックグループの集住地区は家賃価格の上昇に呼応して,低所得者はより低家賃の地区へ,一方,所得の向上したグループはエスニックの集住地区を離れて,ホスト社会の住民たちと変わらない居住地選好を示すといわれている。家賃価格が過去50年で大きく上昇したオークレイでは,一般的な例に照らせば,ジェントリフィケーションの進行によりDinksや若年の高所得層が流入することに違和感がない地区であるが,実際には依然としてギリシア系移民のセンターとして君臨しつづけている。本発表は,こうしたセンターとしての性格がどのように形成されたかについて,ギリシア正教会の役割,オークレイグラマースクール,ギリシア系日用雑貨店,ギリシア・地中海風食材店,ギリシア・地中海風カフェやレストランなどへの聞き取り調査結果をもとに報告する。
著者
長谷川 裕彦 高橋 伸幸 山縣 耕太郎 水野 一晴
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

ボリビアアンデス,チャルキニ峰西カールにおいて地形調査を実施した。その結果,先行研究により明らかにされていたM1~M10の小氷期堆石の分布を追認し,M10以降に形成されたM11・M12・M13の分布を確認した。M13の形成期は,構成層の特徴などから1980年代の初頭であると考えられる。
著者
長谷川 裕彦 山縣 耕太郎
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

ボリビアアンデス,チャルキニ峰(5392m)西カールに分布する小氷期堆石群は,構成物質の特徴,堆積構造,微地形等の観察結果から,その大部分がプッシュモレーンとして形成されたことが明らかとなった。
著者
高橋 伸幸 水野 一晴
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

<u>1.</u><u>はじめに</u>&nbsp; 低緯度高山帯でも氷河の後退・縮小は進んでおり、氷河から解放された地域には植生の侵入・拡大がみられる。また、氷河からの解放後、周氷河環境下に置かれることから、植生の侵入・拡大過程を考える上で、周氷河環境を考慮する必要がある。本研究では、南米ボリビアアンデスのレアル山脈に位置するチャルキニ峰西カール、南カール、ワイナポトシ南斜面などにおいて周氷河現象の観察、気温・地温測定を行い、低緯度高山帯における周氷河環境の一端を明らかにした。<br><u>2.</u><u>調査地</u>&nbsp; ボリビアの首都ラパスの北方約25kmに位置するチャルキニ峰(標高5392m)の西カールおよび南カールが主な調査地である。チャルキニ峰でも氷河の後退が認められるが、南斜面と北斜面には現在でも顕著な氷河が残されている。一方、西斜面では、カール壁基部にわずかに氷河が残されているのみである。また、西カール内と南カール内には完新世の氷河後退に伴って形成された複数のモレーンがみられる。チャルキニ峰周辺の地質は、主に花崗岩類と堆積岩類によって構成されているが、西カール内に分布する氷河性堆積物は、花崗岩類が主体である。<br><u>3.</u><u>気温・地温観測</u> 表1にチャルキニ峰西カールと南カール内における2012年9月~2013年8月の気温観測結果に基づく値を示した。これによると、氷河の縮小が著しい西カールにおいて気温は高目であり、その結果、融解指数も大きくなっている。凍結融解日数は、両地点ともに300日を超えており、特に氷河末端近くに位置する南カール観測点では351日に及んだ。西カール内における地温観測結果によると、土壌凍結は4月~10月の期間ほぼ毎日生じているが、その凍結深は10cm程度である。これに伴い、同期間中、表層部での日周期的凍結融解が頻出しており、標高4800mの観測点では、その回数が161回(図1)、標高4822m観測点では244回に及んだ。<br><u>4.</u><u>周氷河環境</u>&nbsp; 年平均気温および凍結指数、融解指数から見る限り、チャルキニ峰周辺は周氷河地域に属するが、永久凍土が存在する可能性は小さい。表層付近での凍結融解頻度は、4月~10月(秋季~春季)にかけて非常に高いが、この期間は乾季に相当し(図1)、表層部の含水量が低い。一方、湿潤な雨季には凍結融解頻度が極めて低い。さらに凍結深度が浅いことから、ジェリフラクションやソリフラクションなど、周氷河作用が効果的に働かない。このことは氷河後退後の植生侵入にとって有利であると考えられる。
著者
山縣 耕太郎 長谷川 裕彦
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

本研究では,ボリビアアンデス,チャルキニ峰において,完新世以降の温暖化に伴い縮小した氷河前面における土壌の生成過程を検討する.氷河前面では,氷河から解放された時点から土壌の生成が開始する.このため異なる時代に解放された地点の土壌を比較することによって,土壌の発達過程を検討することができる.また,土壌は,その生成過程において,気候ばかりではなく,地形や地質,植生,水分条件など,様々な環境因子の影響を受ける.こうした地表面環境と土壌発達過程の関係について検討する.<br> チャルキニ峰(5392m)は,東コルディレラ山系レアル山脈の南部に位置し,山頂周辺には5つの小規模な氷河とカール地形が確認される.このうち,西カールを調査対象地とした.調査地域の年降水量は800~1000mmで,植生は,高山草原から高山荒原となっている. 西カールは,長さ約5㎞,幅約3㎞の広がりを持ち,カール底には,複数列のモレーン群が発達している.これらのモレーンは,完新世初頭のモレーン(OM),小氷期のモレーン(M1~M10)および,1980年代初頭に形成されたモレーン(M11)に区分される(Rabatel&nbsp;<i>et.al.</i><i>,</i>2005;長谷川ほか,2013).&nbsp;<br> チャルキニ峰西氷河の前面において,地形単位ごとにピットを作成して,土壌断面の観察を行った.モレーン間の平坦部分は,地表面の形態と構成物から,さらに氷河底ティル堆積面,氷河上ティル堆積面,氷河底流路,氷河前面アウトウォッシュに区分し,各地形単位毎に断面を観察した.&nbsp;<br>その結果,ほぼ同じ時代に形成されたと考えられる隣接した地形単位間でも土壌発達の違いが認められた.特に,凸状の部分に比べて,凹状の部分で土壌の発達が良い.その要因として,凸状地においては,より物質移動が活発で浸食が生じていることが考えられる.浸食作用としては,霜柱の影響が大きいようである.また,リャマおよびアルパカの放牧も影響していると予想される.一方で凹部では,物質移動で細粒物が集積して土壌の成長が進んでいるものと思われる.<br> 各地形単位について,異なる時代に形成された地点の土壌断面を比較すると,完新世初頭に形成された地点と小氷期の地点の間では明瞭な土壌層厚の違いが認められる.小氷期モレーンの中でも,モレーン間の平坦部では,時代とともに土壌層厚が厚くなる傾向が認められた.一方で,ターミナルモレーンの頂部ではこうした傾向が認められない.これは,先述したように凸部では侵食の影響が大きいからであろう.
著者
髙橋 伸幸 水野 一晴
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

<u>1.</u><u>はじめに</u>&nbsp; <br>2012年からボリビアアンデスのレアル山脈に位置するチャルキニ峰周辺において周氷河現象の観察、気温・地温測定、土壌水分測定を行い、低緯度高山帯における周氷河環境の一端を明らかにしてきた。しかし、現地調査は8月~9月(冬季、乾季)に限られていたため、それ以外の時期については気温・地温等の観測結果から積雪状況等を推定するのみであった。そこで、2013年9月に同峰西カール内にインターバルカメラを設置し、ほぼ通年(2013年9月~2014年8月)にわたるチャルキニ峰西カール内の様子を画像で記録した。その結果、周氷河環境に関するより実証的な知見を得ることができた。なお、写真撮影は、毎日正午頃に一度行い、その時点での西カール内の様子(とくに積雪状況)と天気(画像内の空域の状況)を記録した。<br><u>2.</u><u>調査地<br></u> 調査地は、ボリビアの首都ラパスの北方約25kmに位置するチャルキニ峰(標高5392m)の西カール内である。チャルキニ峰でも氷河の後退が認められ、西カール内ではその谷頭部のカール壁基部にわずかに氷河が残されており、谷底には完新世の氷河後退に伴って形成された複数のモレーンがみられる。<br><u>3.天気</u> <br> 画像に含まれる空域の状態から、天気を晴天(空域に青空が見られる状態)とそれ以外の天気(空域が100%雲に覆われている状態:曇り、霧、雨、雪)に区別した。観測期間中(361日間)の晴天の頻度は166回(46%)であった。とくに2014年6月と7月には、それぞれ28回と27回記録されたが、2013年12月~2014年2月には、それぞれ4回、1回、5回のみであり、乾季と雨季との天気状況の違いが顕著であった。<br><u>4.</u><u>降雪・積雪と地温<br></u> 画像から判断する限り、年間を通して断続的に降雪が認められる。ただし殆どの場合、降雪の継続時間は、一日以内あるいは数時間程度と判断される。積雪状態になることは少なく、複数日にわたって積雪に覆われたのは、2014年5月下旬や7月下旬など冬季の数回程度であった。M2観測点における表層地温は、冬季を中心に年間約150回に及んだ。また、積雪が複数日に及んだ期間のみ、日変化が小さくなった。<br><u>5.</u><u>周氷河環境</u>&nbsp;&nbsp;<br> 髙橋・水野(2014)で示した通り本調査地域においては気温の凍結融解日数が300日を超え、土壌表層部の凍結融解頻度も244回に及ぶ地点があった。しかし、その一方で周氷河地形の発達は貧弱である。その原因として、とくに土壌の凍結融解が頻出する時期(冬季)が乾季と重なり、地表面付近の水分量が少なく、周氷河地形形成が効率的に行われないと考えられていたが、今回のカメラ画像でこのことがより明らかになった。また、顕著な積雪をもたらす降雪頻度が少なく、雪が地温変化に与える影響は小さい。また、積雪状態もきわめて一時的であることから、水分供給源としての役割も小さい。<br> 本研究は、平成26年度科学研究費補助金基盤研究(A)「地球温暖化による熱帯高山の氷河縮小が生態系や地域住民に及ぼす影響の解明」(研究代表者:水野一晴)による研究成果の一部である。
著者
増野 高司
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2012, 2012

本報告では,大阪府の公園で行われた花見を事例として,その花見活動を概観するとともに,各地の公園管理の側面から,花見に対する行政による対応の違いを把握することを試みる. 調査地は,①造幣局「桜の通り抜け」(大阪府北区),②万博記念公園(大阪府吹田市),③大阪城公園(大阪市中央区),④元茨木川緑地(大阪府茨木市),⑤安威川河川敷(大阪府茨木市),である.調査は,2012年4月から5月にかけて実施した. 公園管理の側面から,各地の花見に対する対応をみたところ,火気利用および飲食,具体的にはバーベキューの可否,に対する対応に大きな違いがみられた. 都市部の公園における花見は,都市部への人口集中が進むなかで,例えばバーベキューに対する行政による対応の違いが示すように,その社会環境に合わせた実施形態が求められており,その試行錯誤が続けられている.
著者
山下 宗利
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2012, 2012

本研究では、1980年代後半と現在の空間利用を比較するとともに、空間利用の変容の大きな要因となる不動産の変化、とくに土地所有の変化を検討し、両者の関連を見出したい。<br> 主たる研究対象地域は東京都中央区日本橋三丁目6番地である。この小さなブロックの西端は中央通りに面し、3ブロック北には日本橋高島屋が店舗を構えている。東京駅八重洲口にも近接し、金融・保険機関とともに多数の商業施設が立地している。発表者の山下は1987年当時に当該地域を対象として階数別の空間利用調査を実施しており、これらの既存データを比較検討に用いた。また不動産の所有とその変化に関しては登記簿データを用いた。<br> 1987年と現在の日本橋三丁目6番地の空間利用を比較したところ、以下の変化を特記することができる。それは、空間利用の純化である。当時は中央通り沿いとその東側では空間利用に大きな違いを看取できた。表通りの金融機関に対して、ブロックの中央部には木造2階建ての小規模な建物が塊状に集中し、これらは主に飲食店として利用されていた。また倉庫や青空駐車場といった低未利用地も多く、1階の利用はきわめて混在していた。しかし階数の増加とともに空間利用はオフィスへと純化する傾向にあった。現在では多くの木造建物は再開発事業(日本橋フロント、2008年5月竣工)によって大規模な建物に置き換えられ、大企業のオフィスが入居している。ブロックの東側においても同様に高層化が生じ、低層階の商業的利用と上層階での居住利用の組合わせがある。またワンルームマンションの立地もみられ、新たな空間利用も出現している。低未利用地の減少とともに表通りと裏通りの差異がより鮮明になっている。<br> 1986年頃までは土地所有に大きな変化は認められなかったが、その後は個人から法人への変化が生じている。現在ではブロックの西半分の土地は複数の企業が所有している。この土地での再開発事業には土地信託制度が活用され、共同化手法を用いて敷地を整形し、建物を大型化することにより、土地の有効活用を図っている。このように対象地域の表通りでは、大規模なオフィス空間が出現し、一方の裏通りでは当該地で店舗を営む個人所有地が依然として卓越し、小規模な商業的な利用と居住利用が卓越している。
著者
岩間 絹世 小野寺 淳
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

享保2(1717)年,長久保赤水は常陸国多賀郡赤浜村(現,高萩市)の農家に生まれた。本年は赤水生誕300年を迎える。赤水は「改正日本輿地路程全図」をはじめ,「大清廣輿図」などの中国図,本研究で扱う世界図「地球萬国山海輿地全図説」を刊行し,江戸時代中後期を代表する地図製作者として広く知られる。長久保赤水作製の地図については,すでに数多くの優れた研究がある。この中で,赤水作製の世界図は赤水のオリジナルではあるものの,参照した世界図が古典的であるとの評価がある。さらに,世界図の刊行は赤水主導か否か,むしろ板元の浅野弥兵衛から持ちかけられて出版したのではないかとの見解もある(金田・上杉2012),本研究では,これらの評価に対する検討を意図するものではなく,科研によって見出された長久保赤水の子孫宅や長久保赤水顕彰会収集の資料群から得た「地球萬国山海輿地全図説」に関する知見を報告する。 「地球萬国山海輿地全図説」は,寛政7(1795)年ころに刊行されたとされる(金田・上杉,2012)。当初は無刊記で発行され,板元の記載も無く,現在この初板の無刊記板は神戸市立博物館,国立歴史民俗博物館,長久保和良家(子孫の一家)所蔵(写真参照)の3鋪の現存が確認されている。その後,大坂の浅野弥兵衛より刊行され(一軒板)や,浅野弥兵衛を含む5つの書肆より刊行された五軒板があり,これらはいずれも大型版である(表1)。すでに蘭学系世界図が刊行される一方で,赤水没後には,長久保赤水閲とされる天保15(1844)年の中型版や小型版が嘉永3(1850)年まで刊行された。 ところで,享保5(1720)年,原目貞清「輿地図」が江戸の書肆出雲寺より刊行された。本図は最初のマテオ・リッチ系世界図の刊行とされ,赤水の「地球萬国山海輿地全図説」は本図を参照し,実際赤水の書き込みが残る「輿地図」(明治大学図書館蘆田文庫)が残されている。本報告では,長久保和良本と蘆田文庫本の比較,長久保赤水の子孫宅や長久保赤水顕彰会収集の資料群の検討を行った結果を報告する。 なお,本研究は科学研究費基盤研究(C)「長久保赤水地図作製過程に関する研究」(代表者:小野寺淳)の成果の一部である。
著者
水野 勲
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

福島第一原発という名前が、もしも別の名前(たとえば、双葉大熊原発)であったなら、福島県の農産物の風評被害を避けられたのに、というコメントを、発表者は福島県での調査の際に何度か聞いた。そもそも風評被害とは何であり、それは地名とどのように関わるのだろうか。 地名は単に、特定の土地に付けた名前であるだけではなく、集合や関係についての論理階型(logical type)の問題を含む。そこで発表者は、集合論のアプローチにより、原発事故後に「福島」という地名が、さまざまな地理的スケールで、どのような区別と「空間の政治」を含んでいたかを考察したい。<br>2011年3月の福島第一原発事故の前には、「福島」は福島県か福島市としか関係がなかった。しかし、原発事故後、県と市と事故原発が同じ名前をもった、自己言及性の集合関係におかれた。このため、「I love you & I need you ふくしま」という応援ソングが、原発事故から1ヵ月後に猪苗代湖ズ(福島県出身のミュージシャンの即席グループ)によって歌われたのである。ここで福島県という行政領域が、原発事故をめぐる言説の特権的な地理的スケールになったことに注目したい。福島ナンバーの自動車、福島県産の農産物、福島県出身者が、何のコミュニケーションもなく区別されたからである。これは、放射能汚染地=福島県という単純化(区別)を行うことにより、さまざまな空間政治的な効果をもった。東京オリンピックの招致では、福島は東京から遠いという言説が用いられたのは、その区別の一例であろう。 しかし、別の地理的スケールによって、問題の地平を提示することができる。福島県内のスケールでは、福島第一原発の事故によって避難を余儀なくされている「警戒区域(後に避難準備区域)」、あるいは原発事故によって避難している住民および役場の場所を、「福島」と呼ぶこともできる。また広域ブロックのスケールでは、放射線管理区域の指標である年間1mシーベルトの空間放射線量の地域(東北、関東の一部)あるいは福島第一原発から電力を供給されていた関東地方を、「福島」と呼ぶことができる。そして、国家スケールでは、福島から自主避難している住民の居住地(全国都道府県に分散)あるいは全国の原発施設のある地域を、「福島」と呼んでもいいのではないか。さらに、グローバルスケールでは、諸外国が日本からの農産物輸入を禁じている都道府県(東日本に広がる)あるいは原発事故の放射性物質が大量に撒き散らされた太平洋地域を、「福島」と呼ぶべきではないか。「福島」という地名を、県という地理的スケールに閉じ込めて議論することは、きわめて恣意的な「空間の政治」であると考える。
著者
林 琢也
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

1.研究目的<br> 観光農園とは,都市住民を対象に農業者の生産した農産物の収穫体験や鑑賞,直接販売等を行うために整備した農園を指す。農村の自然環境と農業生産をレクリエーションの対象として利用している点に特徴がみられ,農村空間の商品化を体現する典型的な農業経営といえる。本研究では,岐阜市長良地区のブドウ狩りを例に観光農園経営の展開を検討し,その有効性と課題について考察することを目的とする。<br> <br>2.「長良ぶどう」の誕生と発展,ブドウ狩りの衰退<br> 岐阜市長良地区のブドウ栽培は,山梨県より移住した窪坂宗祐氏らが1922(大正11)年に長良河畔の農地にブドウを植栽したのが始まりである。当地域では,当時,養蚕が盛んで,桑園が広がっていた。ブドウの栽培が面的に拡大していくのは,昭和に入ってからで,高度経済成長の最中の1961年8月にブドウ狩りは開始された。最盛期の1964年には「長良川畔観光園芸組合」の会員数は54戸に達した。名鉄と提携し,市や農協,観光協会,バス会社等の支援を受け,大々的に行われていた。しかし,ブドウ狩りの人気は長くは続かず,集客力の低下した1970年代半ば以降は,沿道でのブドウの直売の方が販売方法の主流となっていった。さらに,生協との取引や農協の運営する直売所への出荷,住宅地への近接性を活かし,庭先や農地に幟を立てた簡易型の直売などの方法を重視する農家も増えていった。その結果,1990年代にはブドウ狩りに対応する農家は6戸となり,2017年現在,「長良ぶどう部会」には39戸が加入しているものの,ブドウ狩りを行う農家は2戸となっている。<br> <br>3.ブドウ狩りの再興<br> 1980年代~2000年代にかけて観光農園数は減少し続けたものの,その間も一定程度の需要は存在していた。こうしたなか,2008年以降,ブドウ狩りの入園者数は増加傾向に転じ,再び活況を呈するようになった。この変化に大きな影響を及ぼしているのが,同年より開始されたタウン誌への割引券の添付である。これによって,身近な地域の住民に「長良ぶどう」を再認識させるとともに,新たな観光需要を喚起することが可能になったのである。こうしたタウン誌は地元の飲食店や観光・レクリエーションに関する情報が多数掲載されているため,小さな子どもをもつ親や孫の手を引いた祖父母の入園を促すことに効果を発揮した。また,旅行専門雑誌にも長良地区のブドウ狩りの記事が掲載されている。こうした雑誌への掲載は,岐阜市および周辺地域からの入園だけではなく,「一宮」や「名古屋」ナンバーに代表される愛知県北部からの自家用車での訪問も増加させている。インターネットやSNSを通じて全世界に情報を発信可能な時代ではあるものの,長良地区のブドウ狩りは,岐阜・愛知周辺の住民が日常的に目を向ける多種の情報誌を上手く活用することで,身近な地域の潜在的な観光需要を実際に入園してくれる現実の観光客に転換させることを可能にしたのである。<br><br> 4.長良地区における観光農園経営の意義<br> 岐阜市長良地区のブドウ栽培は市街化区域内に多くの農地が包摂されているため,規模も小さく,ローカルなブドウ産地に過ぎない。ただし,周辺には競合するブドウ産地もなく,岐阜市から名古屋市に至る地域に居住する都市住民の観光レクリエーション需要を一手に引き受けることが可能なため,農園数やキャパシティ(受け入れ可能人数)に比して,需要過多の状態にある。ただし,現時点で観光農園経営に新たに参入する意思をもった農家はおらず,需要はあるのに,供給が足りないという状況に陥っている。これは,市街地に近接し,就業先にも恵まれ,通勤も容易なことから農家子弟にとって,農業での利潤の最大化を追求する必要性に迫られていないことも影響していよう。その一方で,沿道や庭先で直売のみを行う農家直売所では,販売量が停滞傾向にある農家も少なくない。<br> 両者の差異はどこにあるのだろうか。ここでは,ブドウの生産現場を訪問し,ブドウを自ら収穫し,その場で消費するという行動自体に依然として大きな需要が存在し,それが,新鮮な農産物の購入や生産者との交流を目的とする直売や朝市よりも代替のきかない重要な存在となっていることを示している。<br> その意味では,日本において人々の生活や日常から農業にまつわる活動が縁遠いものとなっていることが,観光農園のニーズを高めているといえるが,根本的には,担い手の問題等が改善しなければ,人々の求める農業生産(物)や農村景観を維持することは難しく,観光農園による農村空間の商品化自体も刹那的なものになりかねないといえる。農村空間の商品化という視点は,単なる余暇やレクリエーション需要への対応のみならず,都市住民に「農」の価値を考えてもらうきっかけづくりの場としても機能させていくことが重要である。
著者
小林 優一 河端 瑞貴
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

2011年,厚生労働省は医療圏の設定において,従来の人口規模に加え,基幹病院までのアクセシビリティを考慮するとの指針を示した.そこで本研究では,医療機関へのアクセシビリティに基づく新しい医療圏(医療アクセス圏)を提案し,沖縄の事例を通じて医療の受けやすさを比較する.対象地域は,地理的に内外の流入の少ない沖縄本島とし,対象医療機関は基幹病院の1つである救急告示病院とした.<br> まず,保健医療サービスの需要(人口)の分析を行った.医療サービスを受診する需要サイドの2010年から2050年にかけての人口総数の推移を調べた.その結果,沖縄本島の3つの医療圏の中で,北部医療圏の総面積が沖縄本土の36.2%と最も大きく,2010年から2050年にかけての人口減少率が2倍以上に該当する地区数が,他の医療圏と比較して著しい多いことがわかった.沖縄本土の2倍以上減少率をする地区全体に占める,北部医療圏の割合は39.8%である.<br> 次に,沖縄本島における,救急告示病院から30分圏域を表す医療アクセス圏を作成した.移動限界距離は,カーラー救命曲線(Cara,1981)を基に,多量出血を伴う疾患の致死率が50%以上に高まる30分圏域と定めた.その結果,沖縄北部医療アクセス圏では医療アクセス圏外で暮らす人が101,272人中20,620人になっていた.さらに,各医療圏の救急告示病院数と医療アクセス圏内の地区数を比較した.北部医療圏の総面積は中部医療圏に比べ,約1.9倍大きい.しかし,救急告示病院の圏域内の総数は同数である.これらの数値から,北部医療圏の救急医療を受療出来る機会は相対的に少ないと予想された.<br> さらに,北部医療アクセス圏と隣接する圏域との救急医療の受診しやすさを比較するために,各医療圏のアクセシビリティ指標を算出した.アクセシビリティ指標の算定式は, two-step floating catchment area (2SFCA) 手法(Luo and Wang,2003)を用いた.当初は,北部医療圏は沖縄本島の3つの医療圏内で面積が最も大きく,救急告示病院も少ないことから,需要に比べ供給が少ない,いわゆる需要過多になろうと予測していた.しかし,アクセシビリティ指標を計算することにより,医療アクセス圏内だけで,隣接する圏域同士を比べたら,北部医療圏は中部医療圏に比べ約2.8倍受診しやすいことがわかった.<br> 上記の様な,圏域ごとのアクセシビリティ指標を用いた比較だけでは,具体的に圏域内の,何処の地区から救急告示病院までのアクセシビリティにコストが生じるのか見えづらいという課題があった.これを改善するために,アクセシビリティの算出にODコストマトリクスのデータを用いて,北部医療圏内の医療サービスが相対的不足地区を見つけるための分析を行った.ODコストマトリクスのデータには,3つの救急告示病院と町丁字毎の重心からの1.距離と2.病院病床数,これら2つの変数を用いて(Huff,1964)の修正ハフモデルを用いて,分析した.修正ハフモデルとは,商業施設の集客力を測るためには,売り場の面積に比例し,距離の2乗反比例するというモデルである.今回は,北部医療圏にある3つの救急告示病院における吸引力を算出するために,商業施設の売り場面積に当たる変数に病床数を用いた.北部医療アクセス圏の小地域(町丁字)毎に修正ハフモデルを参考としAccess Cost Index(ACI)を求めた.2010年より,厚生労働省が沖縄県の医療圏見直し対象圏域として指摘した北部医療圏を対象に,救急告示病院へのアクセシビリティを小地域毎にACIを算出した.その結果,北部医療圏の中心市街地の北西部から南部にかけて,3つの救急告示病院から離れるに従いACIは徐々に下がることが確認された.<br> 本研究では,アクセシビリティ指数を医療アクセス圏毎に計算し,比較することで,隣接する医療アクセス圏同士の受診のしやすさが明確になった.2013年,沖縄県保健医療計画(第6次)によると,北部医療圏は今後も医療過疎地域として指摘されており,人口対医療従事者数や人口対病床数で同県他医療圏同士を比較する分析方法だと,救急医療へのアクセスのしやすさに関してやや現状に即していない結果が出てしまっていた.<br> 本研究では,救急医療へのアクセスのしやすさをより現状に即した分析をする為に,医療の受診しやすさに関して,アクセシビリティという指標に着目して,医療圏の現状を分析した.具体的には,救急医療を受診する際に用いる医療アクセス圏マップを作成した.さらに,医療アクセス圏同士を,アクセシビリティ指標を用いて比較することで,医療アクセス圏ごとの受診しやすさが明らかになった.
著者
佐藤 将 後藤 寛
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2012, 2012

従来、首都圏においてニューファミリー層が居住するエリアは都心部での地価の高さの影響から都心から離れた郊外が多かった。しかしバブル経済の崩壊以後は地価が安くなった影響で都心部での住宅購入は比較的容易になったこと都心回帰傾向がみられるようになった。ただその一方で交通の利便性の悪い郊外部に居住するニューファミリー層は減少し、オールドタウン問題が顕著にあらわれるようになった。このように住宅双六が変化する中で最近のニューファミリー層の居住地選択嗜好の把握をする必要があるといえる。この選択嗜好を把握することで都市経営の安定、少子化問題対策の道標になるといえるのではないかと考えられる。本研究では首都圏を対象として第一に1966~1970年出生コーホート、1971~1975年出生コーホート、1976~1980年出生コーホートの3つの出生コーホートについて10~14歳時点の人口と30~34歳時点の人口の比を算出し若年単身層も含めた人口の流出入を明らかにする。第二にさきほど設定した3つの出生コーホートの30~34歳時点での有配偶率を分析し、人口の流出入とあわせてニューファミリー層の現在における居住地選択を検証する。なお本研究での首都圏の定義は特別区に通勤・通学するする人の割合が常住人口の1.5パーセント以上である市町村とこの基準に適合した市町村によって囲まれている市町村とした。1976~1980年出生コーホートでは都内中心部から都県境に隣接する市で流入が多いことがわかった(図1)。都内以外で見ると埼玉県では戸田市、和光市に神奈川県では川崎市、横浜市港北区と南武線、東横線の沿線への流入が特に多い。1971~1975年出生コーホートでも同様の傾向が見られた。1966~1970年出生コーホートでは他の2つと同様に東京西南部で流入が多い傾向にあったが特に流入が多いのは都内ではなく和光市、浦安市、川崎市中原区といった都県境に隣接する市であった。また30~34歳時点での有配偶率の分析結果から都内中心部ではどの出生コーホートも有配偶率が低いことがわかった。ただし例外もあり1971~1975年出生コーホートでは江東区の有配偶率は高かった。これは近年の湾岸エリアでのタワーマンションの影響しているものと思われる。全体的にどの出生コーホートで見ても有配偶率で高かったのは埼玉県の戸田市と朝霞市、神奈川県の横浜市都筑区と川崎市宮前区であった。以上、出生コーホートを視点に見てきたが人口の流出入と有配偶率での相関は見られなかった。都内中心部への流入の多くは若年単身層が多いことがこの結果からわかった。しかし都県境に隣接する市で見ると人口の流入が多い地域で有配偶率が高い地域も見られた。都内中心部と比べて地価が安い影響からニューファミリー層の流入も多いことが考えられるが、こうなった要因について解明していく必要があるといえる。
著者
板谷 侑生
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

<b>Ⅰ.はじめに</b><br>&emsp; 本研究では、財政負担を抑えたインフラ整備が必要とされる日本で、2025年までに一般廃棄物焼却施設(以下、焼却施設とする)を削減することでごみ処理の広域化を実現する場合に、どこの焼却施設を廃止し、どこの焼却施設に統合させるのがよいのかをコストに着目し検討した。2025年という時代設定については、1990年代後半に都道府県と国がごみ処理の広域化を推進してから約30年が経つことから、当時建設された焼却施設が耐用年数を迎えることが想定されるためである。<br> <b>Ⅱ.研究の方法と調査の概要</b><br> &emsp;研究対象とした焼却施設は、全国と比べて人口減少速度が速く、道央への人口集中が日本の縮図と言われる北海道にある、52箇所の焼却施設のうち離島(利尻島、礼文島、奥尻島)の3箇所を除く49箇所である。<br> &emsp;まず、道内で2025年までに耐用年数を迎える焼却施設23箇所を抽出し、それらの焼却施設を廃止とする場合に行き場を失うごみを近隣の焼却施設で受け入れ可能かを検討した。検討では環境省公表の焼却施設ごとの年間処理量と1日あたり処理可能量のデータを利用し、ごみの処理にまだ余裕がある焼却施設を探した。次に、焼却施設が廃止となる際に行き場を失うごみを受け入れ可能な焼却施設が見つかった時は、廃止となった施設跡地に新規の焼却施設を建設した場合と、受け入れ可能施設にごみを運ぶために廃止施設跡に中継輸送施設を建設し、そのごみを受け入れ可能施設に輸送する場合のコストを比較し、よりコストのかからない方を採用した。近隣に受け入れ可能焼却施設が複数個所存在する場合は、ESRIジャパン株式会社の『ArcGISデータコレクション道路網2015』の道路ネットワークデータを利用し、最も輸送コストのかからない焼却施設を比較対象とした。他にも様々なパターンが存在し、それに合った方法でコストを比較し、よりコストのかからないものを採用した。<br> <b>Ⅲ.結果と考察</b><br> &emsp;本研究のシナリオに基づくと、現在52箇所存在する北海道内の焼却施設は33箇所に削減されることになる。廃止対象となる焼却施設の多くは人口低密集地域に立地し、なおかつ小規模な焼却施設が多い傾向にある。これらの焼却施設は近隣の大規模施設に統合される形で広域化が進められることになる。この結果は、処理圏の再編は、大都市圏やその郊外地域よりもむしろ農村地域に生じやすいとした(栗島2004)の通りである。<br> &emsp;しかし、依然として国が最低限の目標とする100t/日の処理量を満たしていない施設も多く、国が示す目標の達成を目指すならば、さらに長期的な視点を持って統廃合の検討を行う必要がある。また、本研究はコスト面からの比較に重点を置いており、自治体の政治・経済の力関係など、他に検討するべき要素も多い。
著者
井田 仁康
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

<b><b>1.国際地理オリンピックでの日本の成績 <br></b>&nbsp;第10回となる国際地理オリンピックが、2013年に京都で開催された。日本チームは、800人近くの予選参加者を勝ち抜いた4人の選手が参加した。結果は、銀メダル1つ、銅メダル1つと2つのメダルを獲得した。2つのメダルを獲得したのは、2008年の第7回からの国際大会の参加から、初めてのことである。32の地域・国が参加したが、チームとしての団体成績も、今までは下位だったものから中位へと上昇した。国際地理オリンピックの試験は、マルチメディア試験、記述式試験、フィールドワーク試験の3つからなる。試験はいずれも英語での出題、解答である。日本の生徒の特徴は、選択式のマルチメディア試験では比較的いい成績を残すが、フィールドワーク試験で高い得点がとれない。配点は、マルチメディア試験が20%、フィールドワークが40%であることから、フィールドワーク試験の点の低さは、総合点に大きな影響をおよぼす。しかし、京都大会では、日本の生徒はフィールドワーク試験も健闘をみせ、メダルの獲得にいたった。<br><b>2.国際地理オリンピックからみる日本の地理教育の課題</b><b></b> <br>&nbsp;国際地理オリンピックの日本チームの成績から明らかなように、日本の地理教育の課題の一つは、地理の醍醐味ともいえ、国際的にも重要視されているフィールドワークが、中学の社会科地理学習、高校での地理歴史科地理学習においてもあまり実施されていないということである。学習指導要領には野外調査をすることが明記されてはいるが、実施率は低いと推測される。地理の面白さ、有用性、そして世界の中での地理教育を高めていくためには、フィールドワークの実施が一つの鍵となる。国際地理オリンピックの国内大会においても、2013年度から第3次試験まで設け、1次試験のマルチメディア、2次試験の記述を突破した上位約10名が3次試験のフィール-ドワークに挑戦することになっている。国際地理オリンピックの国内大会でも、地理ではフィールドワークが重要であることを示すことになる。 また、国内大会でも2割は英語での出題、解答としている。すなわち、英語でのコミュニケーションの重要性を示している。国際大会に参加した生徒たちは、英語での出題、解答に難儀を感じているようだが、日本の高校生の英語レベルで十分に対応できる。英語を使うこと、それ自体に自信を持たせてあげることが肝要であろう。<br><b>3.地理オリンピックからみた国際化への具体策<br></b> 国際地理オリンピックでは単なる知識を問う問題は少ない。地理的な知識に基づいてどのように考えるか、すなわち地理思考力が問われる。したがって、地理教育で国際化を進めるには、フィールドワーク、地理的思考力を高める教育をし、英語や地図などをコミュニケーションツールとして、世界の人たちと対峙できる地理的能力を習得することであろう。</b>
著者
横山 俊一 長谷川 直子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

<b><u>1. </u></b><b><u>はじめに</u></b><br><br>娯楽指向の一般の人たちへ地理的視点を広めるには、世の中で広く受け入れられている地理コンテンツを活用するのが得策であると考える。そこで演者らは、一般普及に効果のある地理コンテンツの形式や現状について調査してきたが<sup>*</sup><sup>1</sup>、日常的に見られるテレビ番組や雑誌など一般社会での地理的コンテンツへのニーズは潜在的に存在していることが確認できた。そのようななか、比較的安価な値段でコンビニなどで販売されているペーパーバック書籍に注目した。本発表ではこれまでに確認できた地理的な内容を含んでいると考えられるペーパーバック書籍を中心に、その特徴について報告する。<br><b><u>2. </u></b><b><u>コンビニペーパーバックについて</u></b><b></b><br>コンビニペーパーバックは多くの種類が販売されているが、当初人気マンガの廉価版としてはじまった。1冊500円程度の値段で手軽に購入できることから売り上げも伸び、マンガ以外のアイドルなどの芸能関連、マニアックな歴史ものなど種類も増えていった。そのようなことか様々な出版社からペーパーバック書籍が販売されることとなり、地理的コンテンツを含んだペーパーバックも出版されるようになった。特にD社の地図帳シリーズは1シリーズで40万部を売り上げ学校教員も参考として購入している<sup>*2</sup>。地理的コンテンツを含んだペーパーバックを多数出版しているD社であるが、ここ数年は文庫や新書の販売にシフトしている。<br><b><u>3.</u><u> 方法</u></b> <br>これまにコンビニで販売されたペーパーバックの中から地理的コンテンツを含んだものがどれくらい出版されているのかを各出版社のwebサイト、出版年鑑などから調査しており、書籍のタイトルに「地図」「地名」「地理」というキーワードのあるもの、またそれに近い地理的な要素となる単語を含むもの(都市、都道府県、日本、世界、紀行、鉄道)を基準として実物の書籍の確認を行っている。それらの編著者、出版社、総ページ数、出版年、サイズ、価格等をデータベース化している。<br><b><u>4.</u><u> 結果</u> </b><br>タイトルは表1にあるように「地図」あるいは「地図帳」となっているものが圧倒的に多い。これは演者らがこれらの出版社の編集者に聞き取りを行ったときにも、「地理」というよりも「地図」といったほうが一般受けがいいと言われたことと矛盾しない。ペーパーバックの著者名は◯◯地理研究会や◯◯地理学会といったものもが多く一見アカデミックなものとなっているが、これらのほとんどは学術団体ではなくライター集団が名乗っている名前である。1冊のみ地理学者が監修した本がある。<br><b><u>5.</u></b><b><u> 考察</u></b><b> </b><b></b><br>D社の№16-23の地図帳シリーズは40万部を売り上げたということからも、地理の一般への普及手段としてペーパーバックは見逃せない。そしてこの地図帳シリーズの購入者として、学校教員も多いということからも地理教育の面からも重要である。地理学研究者の書籍の多くは専門分野のフィードバックであり、専門書やさらに平易に記した新書などが中心である。これは自らか学ぼうとする人や知的好奇心の強い一般の人には非常に有効である。しかし自ら学ぶ意欲の少ない人を対象とした場合、その取っ掛かりには限界がある。そこでコンビニを中心として販売されているペーパーバックをもちいることで地理の一般普及が進んでいくのではと考える。
著者
上村 博昭
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

<B>1.はじめに</B><BR> 高度経済成長期には,人口や諸機能の東京一極集中が生じた一方で,その他の地域においては,人口の過疎化,高齢化など地域的課題が生じた.グローバル化の影響によって産業基盤が変化するなかで.農林漁業やその関連産業,観光など,域内資源を活用する方向性が打ち出されてきた.こうした社会的変化に伴い,1990年代以降に自治体がアンテナショップ(AS)を設置する動きが目立っている.ASは,民間事業者がマーケティング活動の一環として,市場ニーズの探索等を目的に設置する店舗であるが,近年では行政が公的に設置する事例が増加している.しかし,雑誌記事や一部の経営学における研究を除けば,十分に学術的検討はなされておらず,特に立地・運営の態様は明らかとなっていない.<BR> そこで本研究では,東京都区部の事例に対する検討を通じて,都道府県ASの立地・運営方式について明らかにしたい.調査方法は,本研究では各都道府県のアンテナショップ設置状況を把握し,各施設の概要や設置方針を検討することを目的に,2012年6月から12月にかけて,47都道府県を母集団としたアンケート調査を行った.その結果,回答のあった41道府県(87.2%)のうち,東京都区部へASを設置するものが31道府県であった.さらに,30道府県に対してはヒアリング調査を実施し,立地選定の経緯や現在の運営状況,今後の方針に関する調査・分析を行った.なお,本研究では都道府県ASを,行政施策の一環で設置される施設と捉えているため,実質的に行政の関与が存在しない施設については,本研究の調査対象から除いた.<BR><BR><B>2.都道府県アンテナショップの立地・運営状況</B><BR> 1つの都道府県が2~5カ所のASを設置している場合があるので,都道府県数と件数は一致しない.件数ベースでみると,2012年8月時点では,全国に48件の都道府県ASが存在する.都市別にみると,大阪や名古屋などの大都市圏,各道府県の県庁所在地への分布がみられるが,件数で最多の地域は東京都区部(32件)である.都区部では,千代田区7件,中央区13件,港区5件という分布を示し,銀座・有楽町周辺部への集中傾向がみられるほか,少数ながら新宿や池袋など副都心部への展開がみられる.設置目的は,地元のPR,観光誘客,域内経済の振興,そして都区部での情報収集(都市住民のニーズを把握)にある.ヒアリング調査によれば,都区部のASを通じて域内の魅力を発信し,物産販売や観光誘客を促進するとの回答が目立った.これは,都道府県ASの大半を商工観光系の部署が所管していることに関係している.<BR> 上記目的のもとで,各都道府県ASには食品中心の物産販売,観光案内,軽食提供やレストランなどの機能が置かれ,商談会の開催など事業者向け支援機能を持つ事例がみられた.ASの運営に際しては,都道府県が事業の統括と予算措置を行い,物産販売や飲食などの営利部門の管理・運営を,社団法人や民間企業へ委託する方式が採られている.都道府県ASには,行政の設置目的,運営方式に共通性がみられる一方で,いくつかの点で多様性がある.第1に,ASの施設総面積は1,658㎡から33㎡までと幅広く,施設規模では50倍の差がある.第2に,年間販売額では8億円から860万円までと,運営実績でみた場合にも,約100倍の差が生じている.第3に,施設形態では,一般にみられる物産販売,観光案内,喫茶・レストランを併設する型だけではなく,大分県のレストラン特化型,埼玉県や徳島県のコンビニエンスストア併設型など,設置方針によって施設形態に差異が生じている.<BR><BR><B>3.本研究の知見</B><BR> 本研究で得られた知見は,以下の諸点である.第一に,都道府県ASの立地方針は,コンセプトへの適合度や人通りの多さなど,事業内容に基づく明確な立地方針を持った事例と,他の道府県の分布状況を見て,大勢に追随した事例に分かれる.近年では,銀座,日本橋地区への集中化傾向が強まっており,立地選択の方針として後者タイプの増加を指摘できる.第二に,設置目的には共通性がある一方で,各都道府県ASの運営方式に多様性がみられた点である.都道府県ASは,百貨店における物産展と比べて常設である点が特徴的であり,都道府県ASの運営方式,および相対的な事業規模には,各道府県の方針が色濃く反映されている.第三に,既存研究においては,都道府県ASの課題として費用対効果が指摘されてきたが,本研究においても同様の課題が裏付けられる.AS不設置の府県には,費用対効果を懸念する回答があるほか,都区部に設置する道府県のなかには,コンビニエンスストア併設型を選択する事例もみられる.地元のPRや観光誘客などの目的に対し,明確な経済的効果を求められる一方で,行政活動であるために営利追求に対する制約があるという点に,都道府県ASの課題が存在する.
著者
井上 公夫
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100047, 2015 (Released:2015-04-13)

◆はじめに  本州中央部には,フォッサマグナ(大地溝帯)に沿って日本アルプスが南北に走り,地質構造が非常に複雑なため,大規模土砂移動(地すべり・大規模崩壊・土石流)が地震や豪雨、噴火を誘因として数多く発生している。演者は歴史時代に発生した土砂災害事例を収集整理している。特に,日本各地で山地河川が河道閉塞され,天然ダムが形成・決壊した61災害168事例1),2)を収集・整理した。発生密度の高い日本アルプス周辺の事例を紹介する。◆五畿七道地震(887)による事例  仁和三年七月三十日(887.8.22)に五畿七道地震(南海トラフ沿いの巨大地震)が発生し,多くの地区で津波災害や土砂災害が発生した。この地震によって,山梨県の釜無川上流小武川のドンドコ沢で大規模岩屑なだれ(推定土砂量1700万m3)が発生した3),4)。また,北八ヶ岳の火山体が強く揺すられ,大規模な山体崩壊(移動土砂量3.5億m3)が発生し5),6),大月川岩屑なだれとなって流下し,千曲川を河道閉塞し,日本で最大規模(湛水高130m,湛水量5.8億m3)の天然ダムを形成した7)。303日後に決壊し,仁和洪水砂が千曲川を95kmも流下し,条里制遺構を埋没させた8)。◆越後南西部地震(1502?)による事例 姫川右岸の真那板山が大規模崩壊(堆積土砂量5000万m3)9),10)し,姫川は河道閉塞(現在も葛葉峠として残る)され,大規模な天然ダム(湛水高140m,湛水量1.2億m3)が形成され,数年後に数回に分かれて決壊した11),1)。湛水域の下寺地区には常誓寺があったが,現在は糸魚川の市街地に移転した。松本砂防事務所では,姫川の侵食防止のため,対策工事が行われ,現在は元の崩壊堆積物の状況は見えなくなった12)。1)田畑ほか(2002)天然ダムと災害。2)水山ほか(2011)日本の天然ダムと対応策。3)苅谷(2012)地形など。4)苅谷ほか(2014)合同学会。5)河内(1983)地学雑誌など。6)石橋(1999)地学雑誌など。7)井上ほか(2010)地理など。8)川崎(2010)佐久など。9)古谷(1997)地すべり学会シンポ。10)小疇・石井(1998)地理学会予稿集。11)井上(1998)北陸の建設技術。12)松本砂防事務所(2003)土砂災害冊子。13)井上ほか(2014)歴史地震。14)市川大門町教育委員会(2000)市川大門一宮浅間帳。15)都司(1993)地震学会予稿集。16)鈴木ほか(2009)地すべり学会。17)松本市安曇野資料館(2006)。18) 森ほか(2007)砂防学会誌。19)白馬村(1959)白馬村誌。20) 横山(1912)地学雑誌。21)町田(1964)地理学評論など。22)稗田山崩れ100年事業実行委員会(2011)シンポジウム冊子。◆宝永地震(1707)による事例 宝永四年十月四日(1707.10.28)に発生した宝永・南海地震(M8.4が2回)は,津波被害だけでなく,多くの土砂災害(現時点で17か所)が発生した2),13)。日本アルプス南部でも,安倍川上流の大谷崩れ,富士川流域の八潮崩れ,白鳥山等の大規模崩壊・天然ダムが知られている1),2)。富士川左支・下部川上流の湯之奥では,天然ダム(湛水高70m,湛水量370万m3)が形成され,下流の下部温泉などの住民が決壊を恐れて避難した14),2)。川筋の人夫2800人が出て開削工事をし始めたが,崩壊岩塊が固く湛水を排除できなかった(徐々に湛水域に土砂が溜まり,海河原と呼ばれる)。湯之奥上流部は武田の金山として採掘が行われていたが,宝永地震時には衰退しており,詳しい史料は残っていない。航空写真やLP図で崩壊地形は良く分り,2011年の台風15号の襲来で,林道付近にかなり大きな変状が現れた。◆信州小谷地震(1714)による事例 正徳四年三月十五日(1714.4.28)の地震で小谷村から白馬村で大きな被害がでた15)。鈴木ほか16),2)は史料分析により,姫川右岸の岩戸山で大規模地すべりが発生し,姫川本川を河道閉塞し,湛水高80m,湛水量3800万m3の天然ダムが形成されたことを明らかにした。3日後の18日夜に天然ダムは決壊し,下流域に大きな被害をもたらした。岩戸山周辺にはさらに大規模な地すべり地形が存在し,この地すべり全体が大きく変動すれば,白馬村の北城盆地全体を水没させる可能性がある。昨年の12月の神城断層地震によって,岩戸山周辺でも小規模な崩壊が発生した。雪解け後に大規模地すべり地形に地形変化がないか,確認調査をすべきである。