著者
植草 昭教
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100098, 2016 (Released:2016-04-08)

日本で最も地価が高い場所と言えば、東京都中央区銀座がすぐに思い浮かぶだろう。銀座は永年地価日本一の座に君臨した土地である。この銀座の価値については考える場合、銀座の空間が有する価値だけでなく、「銀座」の地名に付された価値があるのではないか。有形資産である銀座の土地を使用することによって得られる効用と、無形の資産である「銀座」の名称を使用することによって得られる効用があることが考えられる。そこで「銀座」の名称を有する空間的価値について、考察してみることにする。   ブランドを形成するために必要な要件として「ストーリー(物語)性」と「歴史」が言われている。ブランドを形成するためには「そこにストーリーがあり、それを展開するための歴史があること」ではないか。そこで銀座に付されたストーリーと歴史とはどのようなものであろうか。   銀座の歴史とその歴史が有するストーリーについては、まず銀座の地名は、江戸時代に銀貨を鋳造する「銀座」があったことに由来する。銀座は1872年(明治5年)の大火で焼失。そこで銀座は、建物を煉瓦で作ることが計画され、「銀座煉瓦街」は実行された。煉瓦造にすることは、単に燃えにくい街並みを作るだけにとどまらず、銀座を西洋風の街並みにすることで外国から来た人々に、国際的な体面を示す狙いもあったとされる。しかし関東大震災で「銀座煉瓦街」はほとんど倒壊してしまった。だが銀座は復興し、大正モダンを経て昭和初期にはモボ、モガが当時の銀座を彩った。その後第二次世界大戦でも銀座は破壊されたが、またも復興を遂げ、戦後も時代の流行を発信する街となった。 銀座にはこのような歴史があり、それが銀座のストーリーである。そのストーリーは、銀座が有する無形の資産となっているのではないか。   銀座ブランドは、銀座で事業を行う(行おうとする)者にとって魅力的であり、ステイタスでもあると考えるのではないだろうか。そこに立地したくなるような価値がある空間である。それが、銀座が有するブランド力である。また、銀座はその時代、時代にに流行を発信してきた街である。時代の先端を行く空間を形成していることが、銀座が有する空間的価値であり、銀座ブランドにとっての大きな源泉になっている。銀座が獲得してきたイメージもまた、銀座の価値を向上させる無形の資産ではないか。それに「銀座の地価は日本一高い」との、そのことですら、銀座のブランド価値を上げることになっているのではないだろうか。
著者
福井 幸太郎 飯田 肇 カクネ里雪渓学術調査団
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100016, 2016 (Released:2016-04-08)

はじめに 日本では、立山剱岳に氷河が現存していることが学術的に認められている(福井・飯田 2012)。カクネ里雪渓では、秋になると氷河の特徴を備えた氷体が表面に出てくることが昭和30年代に明らかにされていた(五百沢 1979)。しかし、その後約60年間観測が行われていなかった。2011年6月にアイスレーダー観測を行ったところカクネ里雪渓の氷体は厚さ40 m以上、長さ700 mと立山剱岳の氷河に匹敵する規模であることが分かった。氷河か否か明らかにするために2015年秋に測量用GPSを使用して氷体の流動観測を行ったのでその結果について報告する。 調査方法 ①ポールの移動量の観測(全5地点):9月24日にアイスドリルで表層部の積雪を貫通し氷体に達するまで穴を開け、長さ4.6 mのポールを挿入してその位置を高精度GPSで測量した。10月18日にポールの位置を再度GPSで測量し、ポールの動いた量から氷体の流動を観測した。水平方向の誤差は約1 cmである。 ②クレバス断面での氷体の観測:9月24日と10月19日に雪渓上流部の深さ6 mのクレバスに潜り、数カ所から氷をサンプリングし、現地にて密度観測や薄片の作成・観察を行った。結果 ①ポールの移動量観測の結果、雪渓の中流部では24日間で15~17 cm、上流部と下流部では12~13 cmと誤差以上の有意な流動が観測された(図1)。流動方向は、東北東で雪渓の最大傾斜方向と一致した。 ②クレバス断面での氷体観測の結果、雪渓表面~深さ1 mでは、密度が700-780 kg/m3で積雪中の気泡がつながっているためフィルンであった(図2)。深さ1~6 mでは、密度が820 kg/m3を超え気泡が独立していて氷河氷であった。考察 今回の流動観測では、24日間で最大17 cmに達する比較的大きな流動が観測された。観測を行った秋の時期は、融雪末期にあたり、雪氷体が最もうすく、流動速度が1年でもっとも遅い時期にあたる。このため、カクネ里雪渓は、1年を通じて連続して流動する「氷河」である可能性が非常に高いと言える。 年間の流動速度は、2.5 m前後と推定され、剱岳の三ノ窓・小窓氷河(3~4 m/年)よりは小さいものの立山の御前沢(ごぜんざわ)氷河(0.2~0.5 m/年)よりは大きかった。
著者
阿部 智恵子 若林 芳樹
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

地理学における保育サービスの研究は、主として保育資源の空間的配分や保育ニーズの地域的多様性の面から研究が進められてきた。それらの研究で対象になったのは、主として認可保育所である。しかし、子育て支援は働く母親を主たる対象にした認可保育所だけで充足されるわけではない。政府の子育て支援策でも、近年では全ての家庭を対象に地域のニーズに応じた多様な支援が進められている。その一つが全国に配置された子育て支援センターである。本研究は、従来の研究ではほとんど注目されることがなかった地方都市の子育て支援センターを対象にして、そこでのサービス供給と利用にみられる地域的特徴と課題を明らかにすることを目的とする。<br> 研究対象地域のかほく市は、石川県の中央部に位置し、2004年に河北郡のうち北部の3町(高松町、七塚町、宇ノ気町)が対等合併してできた人口34,659人(2010年国勢調査)の新しい市である。全国的にみて北陸地方は、女性の就業率が高く出生率も全国平均を上回ることから、比較的子育てに恵まれた環境にあるといえるが、かほく市も例外ではない。じっさい、かほく市の認可保育所待機児童数は長年ゼロが続いており、年少人口比率も24.1%と高い。また、3世代同居世帯が18.8%を占めることから、親族からの育児支援も受けやすいと考えられる。<br> 本研究は、質的・量的研究方法を併用した混合研究法を用いた。市内の子育てに関する情報は、かほく市役所での聞き取りと同市のWebページなどから収集した。子育て支援センターの利用実態については、2013年9月に、市内の3カ所のセンターを利用する母親を対象とした質問紙調査を実施し、80名から回答を得た。回答者のうち7名に対しては聞き取り調査を実施した。また、センターの職員7名(全員が女性)への聞き取り調査を通して、支援する側からみた利用実態と課題について検討した。<br> 子育て支援センターは、厚労省の地域子育て支援拠点事業の一環として設置されたもので、育児相談や子育てサークルの支援などを主たる任務としている。市内には公共施設の一部を使って3カ所のセンターが設置され、それぞれ複数の職員が配置されている。認可保育所については、合併後に新たに保育所整備計画が策定され、統廃合が進められた結果、現在10ヵ所ある認可保育所は、2015年には9ヶ所になる予定である。市の方針として、合併前の旧3町の融和と一体化に努めており、地域的バランスに配慮したまちづくりが進められてきた。こうした方針は、ゾーニングによる保育所配置計画や、旧町単位での子育て支援センターの設置にも反映されている。他の自治体では公設民営が多い中、かほく市の認可保育所や子育て支援センターはすべて公設公営という点に特徴がある。<br> 子育て支援センターを利用する母親の年齢は20~30代で、利用頻度は週3~4回と月1~2回が大部分を占め、複数のセンターを利用する人もいる。利用する理由の上位は、閉じこもり予防、親子の友達づくり、ストレス解消であった。当該施設を選んだ理由は、家が近い、雰囲気、スタッフの順に多く、9割以上の回答者がセンターのサービスに満足している。結婚や出産を機に退職した母親の割合は約半数にのぼるが、再就職や復職をめざしている人も少なくない。自由回答で挙げられた要望には、日曜日のセンターの開所、職場復帰後の病時保育、ベビーマッサージなど乳幼児でも参加できる行事、園庭の設置などであった。聞き取り調査からは、専業主婦は子どもの世話に専念できるとはいえ、地域の人の目や世の中から取り残されることへの不安がセンターの利用につながっていることも明らかになった。6.支援する側からみた子育て支援の課題子育て支援センターの職員は、親子の居場所、特に母親がリラックスできるような関わりに配慮しており、子どもの成長や発達を身近に感じられることが仕事のやりがいになっている。子育て情報の提供や育児相談にも丁寧に対応し、それらが利用者の満足度の高さにつながっていると考えられる。また、市外からの利用者も受け入れており、近隣の市町のほか、実家に帰省中の母親が利用することもあるという。一方、職員の大半は保育士の経験があるため、保育所との違いからくる自分の立ち位置や、親子との距離感に戸惑いを覚えていることがわかった。そこにはセンターの職員に資格の厳格な定めがなく、職務の専門性が不明確であることも影響している可能性がある。施設のハード面でも、別の公共施設を転用したセンターでは、設備とサービスが適合していないところがあるという。また、育児サークルの支援を行っているものの、親同士の人間関係の煩わしさから、サークルが拡大しにくい実態が示唆された。
著者
新井 悠介
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2012, 2012

下総台地はMIS5eの高海面期に形成された木下層から構成される下総上位面が最上位の段丘面を形成する(杉原1970).MIS5eの海進最盛期の古東京湾は太平洋側に湾口が向いており,下総台地は浅海底で堆積した木下層上部砂層が広く堆積した.MIS5eの海進最盛期以降に,房総-銚子と松戸-四街道の離水軸及びバリアー島に挟まれたMIS5eの段丘の分布高度が低い印旛沼南部地域は,海退期の泥層が堆積したとされている(岡崎ほか1992).MIS5eに形成された海成段丘の高度分布の差の成因を解明することは活構造を推定するうえで重要な役割を担うが,この海退期の泥層はテフラに乏しいため上岩橋層の泥層(小島1959,杉原1979),竜ヶ崎層の泥層(青木ほか1971),木下層上部層の一部(岡崎ほか1994)と異なった解釈がされている.そこで本研究は層序関係の再検討・テフラの追跡・堆積環境の推定を行った.その結果に基づき,本発表は印旛沼南部地域に分布する泥層を木下層最上部泥層と仮称し,この地域でMIS5eに形成された海成段丘の離水期における陸化過程を報告する.<br> ①露頭観察及び地質断面図において,八街や富里では清川層の上位に木下層上部砂層が堆積する.印旛沼南部地域は木下層上部砂層と木下層下部泥層を欠き,木下層最上部泥層が清川層を覆う.地質断面図から,木下層最上部泥層は木下層上部砂層の上位に堆積すると考えられる.<br> ②木下層最上部泥層は未風化のテフラが堆積し,鉱物屈折率と全岩化学組成がHk-KmP1に類似することから対比が可能である.また,富里の木下層上部砂層最上部と,木下層最上部泥層下部はKlP群に対比可能なテフラが堆積する.<br> ③木下層最上部泥層の下部の堆積環境は,総イオウ含有量が0.3%以下と低い値を示し,汽水域に生息するヤマトシジミと淡水域に生息するマメシジミが産出することから河口域の堆積環境が推定される.一方,木下層最上部泥層の上部の堆積環境は,総イオウ含有量が0.5-1.3%と還元的な堆積環境を示すこと,含泥率が高いこと,色調が青灰色であることから内湾の堆積環境が推定される.<br> 以上のことから,木下層上部砂層はMIS5eの海進最盛期以降に離水し,印旛沼南部地域で木下層最上部泥層の分布する地域はHk-KmP1降下以降,すなわちMIS5eからMIS5dにかけての海退期に離水したと推定される.
著者
井上 学 田中 健作
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

<u>1.はじめに</u><br><br> 乗合バス事業は、明治期の末頃から大正期にかけて始まった。1923(大正12)年の関東大震災の復興に際し、東京市で大規模な路線網によって運行されたことが契機となり、全国的に乗合バス事業が拡大したといわれている。ただし、それら路線網の展開や事業者の参入などの状況については、事業者が発行した社史や事業沿革などの資料に限られ、全国的な事業の開始と展開は明らかにされているとは言い難い。これは、事業開始当初から現在に至るまで、日本全国の事業者や路線網がほぼ明らかにされている鉄道事業と大きく異なる。そこで、乗合バス事業の初期段階における路線網の復原とその特性を明らかにすることを本発表では試みる。くわえて、当時の資料の有用性についても言及したい。<br><br><u>2.使用した資料の特徴</u><br><br> 乗合バス事業の許可については、実質的に各府県が扱っていたが、事業者間競争が激しくなったため、1931年の自動車交通事業法の制定によって鉄道大臣が管理することになった。そのような背景を持って発行されたのが鉄道省編による『全国乗合自動車総覧』(1933)である。本資料は全国のバス事業者と路線、事業規模等などが収められている。路線の空間情報として、起終点については地番までの住所が記載されているものの、経由地は数カ所の地名のみである。路線図についても簡略化された図が添付されているがすべての事業者が記載されているわけではない。<br><br> 一方、大阪毎日新聞社発行の『日本交通分県地図』は東宮御成婚記念として1923年の大阪府から1930年の新潟県まで北海道を除く府県版が発行された。バス路線も記載されているが、事業者名は記載されていない。また、各府県版が同時期に発行されたのではないし、発行順序も地域ごとにまとまって発行されていない。そのため、資料の統一性には欠けるものの、当時の道路網や鉄道路線などバス路線網と比較検討しやすい特徴を持つ。<br><br> そこで、本発表では両資料を用いて当時の路線網の復原を試みた。今回は中部地方の4県(長野県、岐阜県、静岡県、愛知県)を対象とした。<br><br><u>3.バス路線網の特性と資料の有用性</u><br><br> 『日本交通分県地図』の発行時期は長野県・岐阜県(1926年)、愛知県(1924年)、静岡県(1923年)と近接しているが、路線網は各県によって大きく異なった。岐阜県や愛知県では路線網が全県的に広がっているが、長野県や静岡県は局所的にとどまる。『全国乗合自動車総覧』で路線の開設時期を検討すると、静岡県では昭和に入ってから路線の新設が相次いでいる。つまり、乗合バス事業の普及と展開は全国均一に広まったのではなく、地域や時期によって大きく異なる点が想定される。<br><br> 路線網については都市や集落間、街道で運行される路線、鉄道駅から周辺集落への路線、鉄道駅同士を短絡する路線や鉄道と競合する路線も見られた。鉄道にくらべてバスは細かい地域を回ることができるという特性が、すでにこの時点で活かされていたといえよう。<br><br> このように、発行時期の不一致と事業者名がない『日本交通分県地図』と空間情報の解釈が難しい『全国乗合自動車総覧』の2つの資料を用いることで、当時のバス路線網の復原には一定程度有用である点が認められた。ただし、『全国乗合自動車総覧』には消滅した事業者がないため、記載されている事業者が必ずしも運行開始時点からその事業者名であったかについては明らかにできないという限界も見られた。この手法を用いて今後は全国的な路線網の復原を目指す。
著者
宮城 豊彦 内山 庄一郎 渡辺 信
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

沖縄県西表島の大規模なマングローブ林を対象に新しい技術と分析手法を用いて、地生態系の形成過程を分析する可能性を検討した。
著者
佐久真 沙也加
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

1990年代以降日本では自然とのふれあいや保全を商品化した観光活動が推奨されるようになった。本発表では日本でエコツーリズムが発展してきた過程を整理することを目的とし2008年に制定されたエコツーリズム推進基本法に着目する。背景となる国内の観光開発およびエコツーリズムの意義づけに関してポリティカルエコロジー(political ecology)の視点を参考に考察する。エコツーリズムが国内で紹介され始める90年以降の新聞記事や推進基本方針に関する資料を基にエコツーリズムが推進されてきた過程に関してまとめる。&nbsp;<br> <br> 資源管理をとりまくアクター間の衝突など、ポリティカルエコロジーの分野は幅広いテーマを含み統一した定義づけは困難であるとされる。しかしその中でも自然環境の変化を分析することで政治や権力を読み解く取り組みは多くなされている。自然という存在がいかに概念化されまた資源管理の対象として位置づけられているのかを問い、自然という従来は非政治なものとして捉えられてきた存在が大いに政治や権力によって影響されるもののひとつであると唱える研究は多々ある。特に統治性(governmentality)という概念を用いて政治と権力の仕組みについて説いたFoucaultに続き、Agrawal(2005)やLuke(1995)は環境保全と権力という点に着目した研究を行った。 &nbsp;&nbsp;<br> <br> Agrawal (2005) はインドで森林の資源保全が政治手法であると捉え異なるアクターがいかに森林に対して無関心の状態から保全対象として意識を変えたか政策や行政、NGOといった組織そして人々のアイデンティティといった点に着目することで分析した。またLuke (1995) はWorldwatchと呼ばれる国際的な環境保全に関する研究機関と環境に関する知識(eco-knowledge)が形成される過程を分析しいかに特定の情報が資源保全の規範となっていくかを議論した。さらに環境保全を開発の手法として説いたWest (2006) は環境保全の意義や動機付けはアクター間により柔軟に変わりうることを強調する。 本発表では理論的な枠組みとして政治と環境保全との関わりを議論するポリティカルエコロジーの分野における上述のエコ・ガバメンタリティ(eco governmentality)やエンバイロンメンタリティ(environmentality)の視点から、日常生活のなかで自然保全の意義付けにおいて観光政策が果たす役割について考える。<br> <br> 観光を学ぶ中で、上述の自然資源保全と同様に観光を政治手法として捉える研究も多く行われている。「なぜ政府は自国の観光の在り方を気にするのか?」という問いを通しLeheny (2003)は日本国内における観光の発展を議論した。その主な目的は経済大国としての日本の位置づけを強調するため(Leheny 2003)であり、また「民主的で文化的な国家」(Carlile 1996, 2008)としての日本を国内外に広めるためであった。実際に観光政策は江戸時代の頃より外国人の行動を制限する手法や(Soshiroda 2005)他国との輸出入取引のインバランスを調整する仕組みとして用いられてきた。80年代には日本列島のリゾート化が進み、ゴルフコースの建設やリゾート用地開発などリゾート開発が地方経済の火付け役としての期待を担うことも珍しくはなかった(Rimmer 1992, Funck 1999)。しかしゴルフ場建設等に伴う農薬利用など周辺環境への影響が懸念されはじめ、また従来のマスツーリズムのようにツアーを中心とした周遊型ではなく旅先での経験などを重視する滞在型への関心の高まりから(Tada 2015)、観光開発の分野においても「持続可能性」という概念が90年代以降見られるようになってきた。 &nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;<br> <br> エコツーリズムはそのような中で台頭してきた観光のありかたといえるであろう。例えば朝日新聞の過去の記事を見ると、国内でエコツーリズムが新しい概念として紹介されている記事は90年代から2000年代にかけて著しく増加し、当時発展途上国の自然観察観光として紹介されたエコツーリズムは今日では国内の地方活性化のツールとして捉えられつつある。西洋と異なる過程の中で80‐90年代の高度経済成長とバブル経済の崩壊、加速したリゾート開発を顧みる存在としてエコツーリズムが提唱されてきたのだとすれば、自然保全を開発として捉えるエコツーリズムもエンバイロンメンタリティの構築の一例であり、環境問題のみならず経済や行政のつながりから派生する様々な要因が影響してきたものであると言える。今後の調査課題としては地域レベルでこのような政策がいかに具体化されているかを知ることが挙げられる。
著者
竹本 弘幸
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100287, 2012 (Released:2013-03-08)

Ⅰ はじめに八ッ場ダム建設問題で実施された国交省(本省)・関東地方整備局(河川計画課)がまとめた検証報告書のうち,ダムの有効性と災害対策の視点から,裏付けとなる地形地質の基礎資料解析の妥当性の検討を行った.その結果,ダム建設に不都合な資料(堆砂量問題・災害履歴)の隠蔽・排除などの情報操作と思われる内容が数多く確認できた.Ⅱ 情報操作と災害履歴の隠蔽・排除などの6つの問題点①      想定されるダム堆砂量(1750万t)の基礎データは,ダム運用中に活火山の浅間山・草津白根山が噴火しないことを大前提とし,草津白根山東縁の二河川(1つは二次支川)の堰堤堆砂量を運用解析に使用していること.② 八ッ場ダムへの最大土砂供給源:浅間山麓の河川・砂防データや過去の土砂災害履歴を運用解析で排除していること③ 八ッ場ダムの堆砂報告では,近傍類似ダムであまり確認できない【火山性黒ボク土】が流れ込むが,これは放水で流れるので,堆砂量評価は過大としている.しかし,浅間山南東の霧積ダム流域でも同じ【火山性黒ボク土】は分布しており,この記述は偽りである.ダムは想定の3倍以上で堆砂が進行している.④ 国交省の報告では,昭和6年の西埼玉地震に関する資料掲載をしているが,ダム予定地に活断層は存在せず地震の影響も少ないという関連のみである.しかし,この地震は,震源から遠い長野原町でも石垣の崩壊20箇所,山崩れ200箇所と突出して大きな被害を記録している(前橋測候所,1931).これは,同町が急峻な吾妻渓谷や地盤が脆弱な熱水変質帯と凝集力の乏しい山体崩壊物のOkDAが分布するためである.3.11.後の検証でこの事例を勘案すると,堆砂量の想定は,大きく上回ることから意図的に隠蔽されたと考えられる.⑤ 国交省タスクフォースは,3.11.の際,群馬県内の平井断層(総延長80kmの深谷断層の一部)上に並ぶ4つの貯水池被害(中村,2011)や堤防被害の報告を受けているが,西埼玉地震同様に災害の詳細について言及をしていない.⑥ 同タスクフォースは,草津白根山の噴火災害・ヒ素汚泥で満杯の品木ダムへ泥流が流下した場合や野積状態の土捨場の安全性確保についても,十分な検討を行っていない.5月末に,火山性地震の増加と熱変化があったことを考慮すれば,火山活動の監視と防災対策が急務のはずである.Ⅲ 日本学術会議土木工学建築部門によるずさんな検証大熊(2011)は,国交省河川局がダムの必要性を示す資料として同部門会議に提出した八斗島上流での氾濫図(1970年利根川統合管理事務所作成を参照)が捏造だった可能性を指摘している.そこで,この可能性について地形図の点検・分類図の作成など独自の再検証を実施した結果,次の4点でも大熊氏の指摘したとおり,捏造が疑われる図であることが判明した.Ⅳ 八ッ場ダムに伴う吾妻渓谷の被害想定ダム湛水後に想定される土砂災害の進行は,水位を上下することで,OkDAは膨張と収縮・凍結と融解の繰り返しによる表層剥離と土砂流亡⇒柱状崩落・湖面津波⇒谷頭状ブロック崩壊へとつながり,OkDAで埋積された旧谷壁斜面(基盤岩)との間の地下水位を度々上下させれば⇒深層崩壊へとつながるだろう.Ⅴ 八ッ場ダムは,砂防機能を低下させ災害を誘発するダム国交省によれば,八ッ場ダムは砂防機能まで持つとされている.しかし,OkDAが脆いため,地すべりと崩壊に伴いダム湖の埋積は急速に進むと考えられる.これは,下流域にとっても大規模土石流の準備層を蓄えるだけでなく,火山噴火が起これば,その被害はさらに拡大するものと考えられる.
著者
後藤 拓也
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.34, 2005 (Released:2005-11-30)

近年,「食」をめぐるグローバル化の進展は著しいものがあり,それに対する地理学の分析枠組みも再検討を迫られている。そのような状況下で,農業・食料部門のグローバル化を捉える分析枠組みとして欧米の地理学者に注目されているのが,「フードレジーム論(Food Regime Theory)」である。実際,1990年代以降における欧米の地理学では,このフードレジーム論に依拠した実証分析が相次いで蓄積されている。しかしながら,日本の地理学においては,これまで農業・食料部門のグローバル化を捉える理論的な枠組みとして,このフードレジーム論が十分に導入・活用されているとは言い難く,その有効性と限界について議論する必要があろう。そこで本報告では,欧米やわが国におけるフードレジーム論の展開を整理し,それが「食」の地理学へどのように適用が可能なのかについて検討を行うことを目的とする。 フードレジーム論とは,アメリカの農村社会学者であるFriedmannやMcMichael(1989)が提唱した概念である。この概念は,国際的な農業・食料システムの変化を歴史的観点から説明しようとする枠組みであり,現在までに3つのレジームが確認されている。具体的には,イギリスが基軸となる農産物貿易を特徴とする第1次レジーム,アメリカに基軸が移行する第2次レジーム,日本や欧米など先進諸国の多国籍企業が農産物貿易に主導的役割を果たす第3次レジームから成り,現在は第3次レジームへの移行期であるとされる。このフードレジーム論を実証する上での重要なキー概念となるのが,「NACs」と呼ばれる新興農業国の出現である。「NACs」とは,成長著しいアジアや南アメリカの農産物輸出国を総称した概念であり,中国・タイ・ブラジル・アルゼンチン等が該当するとされる。この「NACs」の出現において重要な役割を果たしているとされるのが,日本や欧米など先進諸国のアグリビジネスであり,その企業活動の空間的展開,農産物の調達戦略、現地での農産物調達拠点の形成行動が,フードレジーム論を「食」の地理学へ導入する重要な論点になり得るものと考えられる。 これまで日本の地理学において,フードレジーム論の枠組みに基づいて国際的な農産物貿易に言及した論考は,管見の限りでは高柳(2005)が先駆的な論考といえる。しかしながら,第3次のフードレジームで重要な役割を果たしているとされる日本のアグリビジネスが,どのように中国や東南アジアの「NACs」化を進めてきたのかは未解明であり,日本のアグリビジネスによる海外進出状況を包括的に整理した論考さえも未だに得られていないのが現状である。本報告では,日本の食品企業による1980年代以降の海外進出状況を整理し,日本の農業・食料部門においてフードレジーム論や「NACs」概念がどの程度当てはまるのかを検証したい。
著者
松木 駿也
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100192, 2015 (Released:2015-04-13)

1.  はじめに 近年の観光形態の変容により観光客に対する地域の説明には、バスガイドのような画一的なガイドから専門知識と観光客を楽しませる技術が必要な解説活動(インタープリテーション)へ求められるものが変化してきた。そこで注目されているのが地域住民による観光ボランティアガイドである。世界遺産のような観光客の多く訪れる地域では受け入れ態勢の整備としてガイド育成が求められ、さらに、ジオパークのような学習観光の場では専門知識と適切な安全管理を行える有償ガイドも出現している。 そのような中で、島原市、南島原市、雲仙市からなる長崎県島原半島には、現在、有償無償の10ほどの観光ガイド組織が存在しており、世界遺産とジオパークという二つの大きな観光政策のもとガイド組織の再編が行われている。本報告では、その概要について述べ、観光ガイド組織やガイド個人への聞き取り、アンケート調査をもとに、再編過程にある島原半島の観光ガイド制度に対するガイド個人の認識や、ガイド間・組織間関係の変化から、現在のガイド制度の問題点と今後の持続可能性について考察していく。   2.  世界遺産による観光ガイドの統合 南島原市の日野江城跡、原城跡は、2007年に世界遺産暫定リストに記載され、2015年1月に推薦が決定した「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の構成資産となっている。これにより、日野江城跡、原城跡では観光ガイドの需要も高まると予想される。そこで市内の合併前旧町ごとに存在した5つのボランティアガイド組織を管轄する南島原ひまわり観光協会を中心に協議を重ね、5組織を「有馬の郷」に統合することとした。観光協会は旧町域を超えて地域資源を相互に通しで案内可能な人材(「スルーガイド」)を養成しようと画策している。これに対し、各組織は人材育成の必要性を強く実感しており、各組織にできる範囲での対応・協力をしていくこととしている。強いリーダーシップを発揮する観光協会のもと、目的を共有した既存ガイド組織が連携を図っていくこととなるが、一部のガイドへの負担増加が危惧される。   3.  ジオパークによる観光ガイド・ボランティアの再配置 1990年代前半に噴火災害の起こった島原では、2004年からNPO団体がまだすネット(のちに島原半島観光連盟)に所属するガイドが有償の火山学習プログラムを行っていた。2008年に日本ジオパーク、2009年に世界ジオパークに島原半島が認定されるのを契機に、ジオパーク推進協議会事務局では2007年から養成講座を開講しジオガイドの育成を行った。参加者の多くは既存のガイドやボランティアであり、事務局はジオパークガイドとしての制度を確立することをしていなかった。しかし、世界ジオパーク再審査直前の2012年12月にこれまでに養成講座を受講した者などの希望者に認定試験を課し、これに合格した27名を有償ガイドを行う認定ジオパークガイドとし、観光連盟の中に組織した。そのため、観光連盟ガイドなど他の様々なガイド組織に重複所属する者もいる一方で、これまでにガイド活動を行ったことのない者も多く含まれる組織となった。また、かつて莫大な災害支援を受けた島原にはボランティア意識の強い者も多く、ガイド個人の背景の違いから組織内での意識がまとまらない。また、ジオパーク事務局と観光連盟の2つの上部組織、認定ジオパークガイドと観光連盟ガイドの2つのガイド組織が併存することもその溝をさらに深める要因となっている。ジオパーク事務局がガイドを把握し、まとめることができておらず、現場であるガイドとの意思疎通をとれる制度の確立がもとめられる。
著者
根元 裕樹 中山 大地 松山 洋
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100111, 2012 (Released:2013-03-08)

1582(天正10)年旧暦5月、岡山県の備中高松にて備中高松城水攻めが行われた。このとき、羽柴(豊臣)秀吉は、基底幅21m、上幅10m、高さ7mの水攻め堤を3kmに渡って築き、備中高松城側の足守川を堰き止め、その水を引き入れることによって備中高松城を水攻めした。この水攻め堤は12日間で完成したと伝わるが、12日間で築くには大規模すぎると指摘されていた。近年の研究では、備中高松城の西側には自然堤防があり、それを活用したからこそ、12日間で水攻め堤を完成できたとされている。しかし、備中高松城水攻めを水文学に基づいて研究した事例はない。そこで本研究では、水攻めを洪水と考え、洪水氾濫シミュレーションをメインモデルとした水攻めモデルを開発し、備中高松城水攻めをシミュレーションした。その結果から水攻めの条件を考察した。  備中高松は、微地形の多い海抜10m以下の平野の側に海抜約300mの山地があるところに立地する。この土地条件を考慮し、山地の流出解析にkinematic wave modelを用い、洪水氾濫解析にdynamic wave modelを用いた水攻めモデルを開発した。さらに備中高松の微地形を反映させるために基盤地図情報の縮尺レベル2500標高点から高空間分解能のDEMを作成した。このDEMに現地の発掘調査の報告書や現地踏査で調べた盛り土の状況を参考に、過去を想定したDEMを作成した。DEMの種類、水攻め堤の有無と高さによって複数のシナリオを作成し、水攻めの状況をシミュレーションした。  その結果、備中高松城の西側にある自然堤防を利用した上で、水攻め堤の遺跡である蛙ヶ鼻周辺の水攻め堤と足守川の流入が水攻めにとって必要であることが示された。この結果と史料を考慮しながら蛙ヶ鼻周辺の水攻め堤の高さについて考察したところ、その高さは約3.0mが合理的であるという結論が得られた。
著者
佐藤 廉也 鳴海 邦匡 小林 茂
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100208, 2014 (Released:2014-03-31)

はじめに 演者らは、1945年8月までアジア太平洋地域で日本が作製した地図(広義の外邦図)の調査を継続する過程で(小林編2009など)、アメリカ国立公文書館Ⅱ(NARAⅡ)の収蔵資料の調査を重ね、同館でU-2機撮影の中国大陸偵察空中写真を公開していることを知った。地形図や空中写真の利用が厳しく制限されている中華人民共和国の地理学研究に際しては、すでにCORONA偵察衛星の写真が広く利用されてきた(渡邊・高田・相馬2006、熊原・中田2000など)。これに対しU-2機による空中写真は、高度約2万メートルで撮影されたもので、地上での解像度は2.5フィート(75センチ)といわれ、実体視も可能である。ただし、その撮影はアメリカの軍事的関心に左右され、また衛星写真と違い広範囲をカバーしないことなど、利用に際しては注意が必要である。まだ未調査の点も多いが、本発表ではここ一年間にわかってきたことを報告し、関係者の関心を喚起したい。U-2機による偵察撮影の背景 よく知られているように、U-2機はアメリカ合衆国の秘密の偵察機として開発され、当初はソ連の核兵器やミサイル開発の偵察に利用された。高空を飛行するため、その攻撃は容易でなかったが、1960年5月にソ連軍により撃墜されパイロットが捕虜になって以後、その存在が広く知られるとともに、ソ連上空の偵察飛行は停止された。当時CORONA衛星の開発が進行していたことも、この停止に関与すると考えられる(Day et al.1998)。これ以前より中華民国空軍のパイロットに訓練を施すなど、U-2による偵察の準備が開始されていたが、1962年初頭からその中国大陸上空飛行が本格的に開始された。 中華民国空軍では、すでに通常の飛行機による中国大陸の空中偵察をアメリカとの秘密の協力関係のもとで実施しており(通称「黒コウモリ中隊」による)、U-2機の偵察についてもアメリカの関与を秘匿するため特別の中隊(通称「黒猫中隊」)を創設し、アメリカ国家安全保障会議の専門グループと大統領および中華民国政府の承認のもとで偵察飛行を行った。撮影済みのフィルムはアメリカに運ばれてからポジフィルムが複製され、中華民国に戻されていたが、一時期には横田基地のアジア写真判読センター(ASPIC)で処理されたこともある(Pedlow and Welzenbach 1992: 226,229)。なお最近の台湾では「黒猫中隊」に関する公文書が公開されるようになっている(荒武達朗徳島大准教授による)。U-2機の撮影対象、写真の特色と今後の課題 以上のようなU-2機の偵察飛行については、CIAが刊行したCentral Intelligence Agency and Overhead Reconnaissance: The U-2 and OXCART Programs, 1954-1974 (Pedlow and Welzenbach 1992)が詳しい。2013年6月に新たに公開されたこのテキストにも伏せ字が残るが、核兵器開発や潜水艦の建造、飛行場やミサイル基地の偵察が主目的であった。また中印国境紛争(1962~3年)に際しても偵察を行い、インドのネルー首相に写真を提供している。ただし中華人民共和国の防空能力は徐々に向上し、1968年以降陸上の偵察は行われなくなり、電子偵察に移行する。 U-2機搭載のカメラは首振り型で、垂直写真のほかその両側の斜め写真も撮影し、いずれも各コマは進行方向に向かって長細いかたちとなる(47×22.5cm)。またフィルム・ロールは右と左に分かれている。1フライトで撮影されるコマは8000にのぼり、ロールが50本以上に達することもあり、特定の地域のコマを探し出すのに長時間が必要である。この背景としては、経度1度、緯度1度の表示範囲に分割されているNARAⅡ備え付けの標定図(マイクロフィルム)からフライトやコマの番号を知ることができても、目指す番号のコマを参照するにはフィルム・ロールの缶に記入された番号だけが頼りなので、場合によってはカンザス州の倉庫に保存されている当該フライトのロールを全部取り寄せる必要があるという事情がある。取り寄せに数日かかるだけでなく、1回の閲覧で参照できるのは10ロールにすぎない。また偵察飛行なので、雲のため地上が写っていないこともしばしばである。今後はU-2機による写真の全容を把握するためには全104のフライトの飛行ルートの図示も目指したいが、標定図のないフライトのある可能性もみとめられ、利用の条件整備には関係者の協力が必要である。なお、本発表の準備に際しては、岩田修二首都大学東京名誉教授のご教示を得た。
著者
廣野 聡子
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.48, 2013 (Released:2013-09-04)

本論では植民地期において官線と同様の規格を持った唯一の私鉄である台北鉄道を事例に、その特徴と性格について明らかにする。台北鉄道は、台北と台北郊外の新店を結ぶ台車軌道をその前身とし、1921年に官設鉄道と同様の軌間1067mmで敷設された鉄道であり、相対的に旅客輸送のウェイトの大きい鉄道会社であった。鉄道の成立は、当時台湾総督府が民間資本の導入によって縦貫線と接続する地域鉄道網を整備する姿勢を持っており、そうした思惑のもと総督府が台湾の内地人企業家や資本家に働きかけた結果である。台北鉄道は10km程度と路線が短く鉄道収入の飛躍的な伸びは中々期待できない中で、世界的な恐慌や災害など不運も重なって経営は低迷する。1930年代初頭には総督府による買収が議論される厳しい局面を迎えたが1930年代半ばからの経済成長を追い風に鉄道の営業成績は向上し、1941年頃には借入金を完済、そして1945年の日本敗戦により国民政府に接収されて歴史を終えるのである。 ただし旅客数は開業初期から比較的堅調に伸び、その後1930年代後半の大きな成長をみることから、台北鉄道の性格を見るうえで台北の都市発展との関連性に着目する必要があろう。 蔡(1994)は、台北の都市内には台湾人と日本人の間で居住分化が見られたこと、また職業面でも公務員や商業で日本人が多く、台湾人は工業従事者の割合が高いことを指摘しているが、台北鉄道沿線の内地人比率を見ると竜口町87.3%、川端町80.0%、古亭町66.5%と極めて内地人比率の高い地域が存在する。沿線地域全体で見ても相対的に日本人が多く住む地域であった。これら日本人は公務員・商業などホワイトカラー職に就く者が多かった点を踏まえると、台北鉄道沿線は台北市内でも相対的に通勤通学人口を多く抱えていたことがわかる。その上で台北鉄道における旅客一人当たりの平均運賃を見ると、開業当初は15.2銭であったのが、1937年には7.7銭 と、輸送の実態が短距離輸送へと変わっていったことが確認できる。 植民地期の私設鉄道の特徴は貨物輸送の大きさであるが、台北鉄道は相対的に旅客の割合が高く、台北と郊外とを結ぶ鉄道として台北の都市拡大の影響を強く受け、通勤通学輸送が卓越した都市鉄道としての性格を強く持っていた。 ただし、その沿線は日本人が多く居住する地域であったため、地域社会に根ざした鉄道というよりも、日本人利用の多い支配階層のための鉄道という性格は免れなかったものと思われる。
著者
野上 通男
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100004, 2016 (Released:2016-04-08)

倭国は海を渡って、大陸の国々と外交を行ってきた.後漢・魏から5世紀の劉宋代までの遣使の史料記録から、それが行われた季節についての考察を扱う. 月の記述がある場合、その年の月の月朔干支を後漢四分暦あるいは景初暦・元嘉暦で計算し、太陽暦の「中」の干支から、その月が太陽暦のいつに当たるか明らかにして、季節との対応を考察した. 対象としたのは次の時代の遣使である      1)倭による後漢代の遣使: 2)魏・倭王卑弥呼時代の遣使: 3)倭および百済・高句麗の遣使:
著者
橋田 光太郎
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100233, 2015 (Released:2015-04-13)

本研究は「都市地理学の視点から見た八幡の変遷に関する研究」の一部をなすもので,研究の目的は旧八幡市の戦災を概観し,市長・守田道隆が展開した復興内容を明らかにすることである。検討の際には,地域形成者としての公権力や為政者の重要性に着目して考察した。
著者
小室 譲
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100167, 2014 (Released:2014-03-31)

1.序論 2003年の観光立国宣言以降,政府の積極的なインバウンドツーリズム施策に伴い,訪日外国人客数は約521万(2003)から1,036万人(2013)へ増加している(日本政府観光局「JNTO」).しかしながら観光産業が抱える慢性的な課題として,出国日本人数に対する訪日外国人客数の大幅な赤字が指摘でき,更なる訪日外国人客数獲得のためには各観光地における外国人客への受入れ態勢強化が急務である.2000年代に入り,北海道のニセコに端を発した豪州客を中心としたスキーブームは,近年では白馬や野沢,さらに妙高や蔵王といった幾つかの本州のスキー場においてもみられる.本研究では,長野県白馬村の八方尾根スキー場周辺地域におけるインバウンドツーリズムの動向を分析し,ツーリズムの発展に伴う変容と発展の要因を明らかにする事を目的とする.併せてインバウンドツーリズムの発展に伴う新たな地域課題について検討したい. 2.インバウンドツーリズムの動向 村内最大規模を誇る八方尾根スキー場は, JR大糸線白馬駅から西へ2km程度進んだ北アルプス唐松岳の東斜面にあたる.本研究では,この八方尾根スキー場およびスキー場の麓に位置し,60年代からのスキー観光拡大期にスキー場の宿泊地としての性格を強めた和田野,八方,エコーランドの3地区を研究対象地域とする.2002年に0.3万人であった村内外国人客数は,2011年には5.6万にまで急増しており,また世界最大の旅行口コミサイトTrip adviserの「ベストディスティネーション(観光地)トップ10」において国内第6位の人気観光地に選出されるなどインバウンドツーリズムの発展が顕著である. 3.インバウンドツーリズムの発展に伴う変容 泊食分離と長期滞在を嗜好する外国人スキー客の増加に伴い,スキー場や宿泊施設,さらに飲食施設や娯楽施設では受入れ態勢の強化が進められている。特にキッチン完備の長期滞在施設や異文化体験型施設など従来みられなかった新たな形態の施設が拡充する一方で,外国人スキー客の受入れの有無により施設間,地区間において格差が増大している点が課題として明らかとなった. 4.インバウンドツーリズムの発展要因 ツーリズムの発展要因として,(1)外国人客の直接的な来訪動機となるスキー場の規模や雪質に加えて,民宿発祥の地に根付く「もてなしの文化」による宿泊施設の固定客確保や残存する民宿や温泉といった地域観光資源の存在,(2)70年代以降のペンションブーム期に移住した和田野地区の宿泊施設を母体とする民間主導の外客誘致団体による発地国へのプロモーション活動や素泊まり客に対応した外国人のための飲食店ガイドブック作成と二次交通の拡充,(3)ゲストのホスト化により在住外国人が自ら旅行代理店や空港バス,宿泊施設など外国人スキー客に対応したサービス(事業)を創出している点に大きく分けられる. 5.結論 外国人スキー客の急増は受入れ側である観光地の施設や地域に変容をもたらした.同時にインバウンドツーリズムの発展は新たな地域的課題を与え,ゲストの増加に伴う治安悪化や騒音問題,また施設間・地区間格差の増大やゲストのホスト化に伴う不動産投資や景観問題など,外国人客(住民)と既存住民の共存・共生が求められている.
著者
鈴木 比奈子 内山 庄一郎 堀田 弥生 臼田 裕一郎
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.234, 2013 (Released:2013-09-04)

1.背景と目的過去の自然災害の履歴は,その場所における現在の自然災害リスクに大きく関係するため,ハザード・リスク評価に必須の情報である.特に,地域等での防災の現場において,その場所で発生した過去の自然災害を知ることは,地域の脆弱性をより正確に把握し対策を立案していく上で欠かすことができない.一方で,国内の過去の災害事例は膨大であり,それらが記載された文献資料の種類や形態も様々である.そこで,日本国内における過去の自然災害事例を網羅的に収集し,一般にも公開可能な共通の知識データベースを構築することを目的として,全国の地方自治体が発行する地域防災計画に記述されている自然災害事例の抽出とそのデータベース化を開始した.データベースは現在試験段階であるが,将来的には相互運用可能なAPIを通して配信し,外部システムから動的に呼び出して使用可能となる予定である.2.自然災害事例のデータモデリング災害事例をデータベース化するためには,地域防災計画等の出典資料から,発生した災害の記述を読み取り入力する必要がある.しかし地域災害史の項目は説明的な記述が多く,統計データ的な取り扱いをすることが難しい.そのため,次の要件を満たすべくデータモデリングを行った.要件1:情報の取りこぼしを最小限に抑える要件2:できる限り簡易な作業で入力できる要件3:内容をベタ打ちする項目を作らないこの結果,データベースの内容を9つに大分類し,合計112の入力項目を設定した.データ項目を詳細に区分したこと,およびデータ入力の際に,文献に記載がない情報は原則として空欄とするルールを設定したことによって,出典資料の情報の取りこぼしを抑え,入力作業に必要な専門的な判断を最小限にした.また,分類項目のいずれにも格納できない例外的な情報の発生は許容することとし,例外情報を文章としてベタ打ちでデータベースに入力しないこととした.この理由は,入力作業の簡易化とデータベースとしての可用性向上である.また,歴史災害を対象とした自然災害事例の抽出を行うため,現在の災害種別と災害発生当時の災害種別とを対比させる必要がある.災害種別は大分類として5種類に分け,さらに小分類として23の災害種別を設定した.過去の文献における災害の呼称と,小分類の災害種別との対応を各種文献から調査し対応表を作成した.この他,災害名称は地域の自然災害のインパクトを推し量る上で重要な要素と考え,比較的詳細な入力仕様を設定した.3.今後の展開現在,約34,000件の災害事例を試行的に入力した.このペースでは,日本全国でおよそ10万件程度の災害事例が抽出されると推定している.まずは,このデータベースの充実を推進する.次のステップとして,このデータベースから自然災害が社会に与えたインパクト‐災害マグニチュード‐を求める手法を検討する.一定の災害マグニチュード以上の自然災害については調査・解析を行い,データベースの高度化を行いたい.このデータベースによって,地域の災害脆弱性とその影響範囲をより明確に提示し,地域の防災力向上に資するシステムを目指す.
著者
香川 雄一 莫 佳寧
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100175, 2015 (Released:2015-04-13)

現在、世界の各地で湖の面積縮小問題が湖沼の保全面において難題になっている。アラル海をはじめ、カスピ海やチャド湖、中国の洞庭湖や鄱陽湖などでこうした問題が起こっている。長江の中流に位置する洞庭湖は、19世紀前半までの面積が約6,000km2にまで達していた。その後の土砂堆積と人工的な農地干拓により、1998年には約2,820km2にまで縮小した。本研究では過去の地形図の変遷を通して、洞庭湖の面積縮小の具体的な過程を検討する。 本研究では外邦図と中国で発行された地形図を資料とする。1910年代は「中国大陸五万分の一地図集(湖南省部分)」、1920年代は「東亜五十万分の一地図(洞庭湖地区)」、1930年代と1950年代は「洞庭湖歴史変遷地図集」、1960年代は「1964年 湖南省地図集」、1970年代は「旧ソ連製 中国五万分の一地図(洞庭湖地区)」、1980年代は「1985年湖南省地図集」、そして最新のものは「2005年洞庭湖地区地図」を利用し、洞庭湖の面積変化の過程を洞庭湖全体と詳細な部分とで解析していく。 全体の湖面積の比較から見れば、1920年代から1930年代までの間が洞庭湖の変化がもっとも著しかった時期であり、面積と形状が大きく変化している。1930年代から1950年代までの時期には洞庭湖本湖の面積が縮小しながら、周辺の大きな内湖の面積も次第に小さくなっていった。1950年代から1970年代までの間に洞庭湖の本湖が次第に縮小し、大規模な国営農場の建設や河川整備のために、本湖の周辺に分散している内湖の面積も激しく縮小した。1970年代から1980年代には洞庭湖本湖の面積は安定していたが、周辺内湖で面積縮小が進んだ。1980年代に中国水利部は洞庭湖付近での干拓停止を決定した。また、1998年の長江大洪水を契機として、中国政府は治水政策の転換をはかり、「退田還湖」政策を実施し始めた。2000年以降、「退田還湖」政策により洞庭湖の面積は少しずつ回復してきている。こうして1980年代以降は、政府が環境政策を転換したため、2005年までに洞庭湖では779km2の水面が増加した。 洞庭湖の各部分として、東洞庭湖・南洞庭湖・西洞庭湖の変化を比較すると、1920年代から1950年代の間にかなりの面積縮小が進んでいたことが分かった。1950年代以後は面積縮小が緩くなり、周辺の内湖の数量と面積が急減した.これは新中国の成立後、食糧危機と人口増加にともなって湖を干拓し、耕地化させるという政策と密接な関係があったと考えられる。 洞庭湖の周辺では湖の面積が縮小したため、洞庭湖の洪水調節能力が低下し、洪水被害が頻繁に発生した。1998年の夏秋に発生した長江大洪水は洞庭湖地区に非常に重大な損失をもたらした。1998年の大洪水期の衛星画像と1920年代の地図を比較すると、洪水期の東洞庭湖に生じた浸水域の面積は過去の水域とほぼ一致し、西洞庭湖とその周辺地区で水没した地域は過去の地図ではほぼ湖であったことが分かった。 地図の比較を通じて、洞庭湖の面積変化の原因は時代の変容にともなって変わっていくことが分かった。1950年代以前は主に周辺住民が浅い沼で自発的に新田開発を行ったことより面積が縮小した。1950年代からは政府に主導された堤防の建設や国営農場の建設が面積縮小の主な原因であった。過去約1世紀にわたる地形図の変遷を追うことにより、洞庭湖の面積縮小過程を理解することができ、環境問題の要因も把握できた。
著者
植村 円香
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100104, 2015 (Released:2015-04-13)

I 研究の目的<BR> 高度経済成長期以降,東北地域では農家の兼業化が進展した.東北地域の兼業農家の特徴として,農業経営面積が大きいことが挙げられる.それは,東北地域の労働市場が安定的なものではなく,出稼ぎなど不安定なものとなることから,農業への依存度が高いからである.<BR> 不安定兼業に従事してきた農業者は,加齢に伴って兼業先を退職した後,専業的に農業に従事する傾向がある.その際,高齢農業者は,生きがいとしてではなく,生計維持の手段として農業に従事する可能性がある.それは,不安定兼業に従事してきた高齢農業者の年金受給額が恒常的勤務であった者のそれと比べて低いため,戦略的な農業経営を行うことで生計を補う必要性があると考えられるからである.<BR> そこで本発表では,不安定兼業に従事してきた農業者の多い地域として知られる秋田県羽後町において,高齢農業者の農外就業と農業経営を分析することで,彼らの生計戦略を明らかにすることを目的とする.こうした視点は,高齢農業者を農地管理や生きがい農業をする者として捉えてきた既存研究とは異なる.<BR> <BR>II 羽後町の概要<BR> 羽後町は秋田県南部内陸部に位置し,雄物川沿いの水田地帯と出羽山地に入り込んだ山間地帯からなる.また,県内屈指の豪雪地帯であり,山間地の積雪量は2mを超すこともある.高度経済成長期には,農家の次男,三男だけでなく,長男も出稼ぎに従事するようになった.その理由としては,地場産業の衰退,東京オリンピックを契機とする建設事業ブーム,米の生産調整が挙げられる.特に,米の水田単作地帯であった羽後町では,減反政策による米代収入の減少が,出稼ぎに拍車をかけた.<BR> 1970年代に入ると,出稼ぎ需要が低下するなかで,羽後町の出稼ぎ労働者は地元で求職せざるを得なくなった.しかし,地元の労働市場が狭小であるため,正規雇用として就業するのは簡単ではなかった.そのため,農業を主要な生計手段としながら,羽後町で開始された土地改良事業や地元の公共事業の作業員として,農閑期である冬に不安定兼業に従事したのである.<BR><BR>III 羽後町における農家の生計戦略<BR> 2014年12月から2015年1月にかけて,羽後町新成地区嶋田集落(農家世帯数50戸)の農家に聞取り調査を実施した.その結果,ほとんどの農家は農閑期である冬に不安定兼業に従事していた.不安定兼業の種類には世代差がみられ,70歳代以上の農家は出稼ぎや地元の公共事業に70歳代まで従事し,50歳代から70歳代の農家は除雪作業に従事していた.不安定兼業からの収入は,出稼ぎ,除雪作業とも100万円程度であった.<BR> 農業経営に関しては,1970年の生産調整以降,農協が米から大豆,スイカ,施設野菜への転換を唱えたことで,複合経営が展開されるようになっている.農家への聞き取りでは,栽培作物のうち米や大豆など価格の低い作物を集落営農組織等へ委託し,価格の高いスイカや施設野菜を集中的に栽培する傾向がみられた.特筆すべき点は,こうした負担の大きい戦略をとる傾向が,50歳代だけでなく70歳代においても多くの農家でみられたことである.このことから,東北地域の豪雪地帯の高齢農家が,農地管理や生きがい農業でなく生計維持の手段として農業に従事しているということが示唆された.<BR><BR> 本研究は,公益社団法人東京地学協会平成26年度研究・調査助成金(植村円香,東北地域における高齢離職就農者の農業経営とその役割)を使用した.
著者
橋爪 孝介 児玉 恵理 落合 李愉 堀江 瑶子
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.1, 2014 (Released:2014-10-01)

本研究では、水田を利用した内水面養殖業が盛んに行われてきた長野県佐久市を取り上げ、佐久鯉に焦点を当てることで地域の内水面養殖業の変容を明らかにすることを目的とする。 現在では水田養鯉はほとんど行われなくなり、一部の自給的な生産を除き、養鯉のほとんどが内水面養殖業に特化した事業者によって担われるようになった。これらの事業者は養魚事業者、加工事業者、自給的養魚者の3つに類型化できる。事業者は佐久鯉の養殖だけでは現在経営を成り立たせることは困難であり、他の収入源を確保した上でコイの取り扱いを継続している。 厳しい経済状況でコイの取り扱いが継続されている背景として、地域に根差した鯉食文化の存在を指摘できる。佐久市では正月や慶弔時にコイを食べる習慣が維持されているほか、佐久鯉まつりの開催など地域のシンボルとして佐久鯉が活用されている。また市民団体・佐久の鯉人倶楽部による佐久鯉復権運動、食育活動、佐久鯉を活用した新商品の開発など、佐久鯉の消費拡大に向けた取り組みが行われ、地域の内水面養殖業を支えている。