著者
高木 仁
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

1.はじめに<br> 東ニカラグア・ミスキート諸島海域には、中米最大規模のサンゴ礁海域が発達し、そこに暮らす住人のみならず、多くのものがこの豊饒な海の恩恵を受けて暮らしている。地元住人達による漁場利用に関する先行研究は、この地で優れた業績を残したアメリカ人地理学者のベルナルド・ニーチマン博士による極めて詳細で、かつ広範囲を網羅している認知地図研究がある(Nietschmann 1997)。しかしながら一方で、この残された認知地図そのものや漁場としての機能にはいまだ謎が多いとも感じる。本発表の目的は、①東ニカラグア住人による漁場利用の実例を提示し、その結果が先行研究者の提示する認知地図を読み解く一助となりうるのか否か、もしなり得るのであればどのような点であるのかを議論することである。現地調査方法は漁師たちの航行に加わって、船上で聞き取りや観察する方法をとった。<br>2.研究結果<br>1)ミスキート諸島海域の漁場利用、その概況<br> ミスキート諸島は、ミスキート族やその混血子孫たちが暮らす複数の村々が共有するこの地域では比較的大きな漁場であった。中心的な利用は、海岸部に発達した人口5万人の港町Aとその北側の湿地に位置するA~Eの5つの小規模漁村(約千人~3千人程度)と中規模の村F(人口約1万人)の一都市、6村落であった。 <br> 各村々で漁撈・漁業の対象とする生き物やその空間・利用の強度には違いがあるようであった。例えば、港町Aに隣接するA村とB村は比較的交通の便がよく、氷の入手がしやすい。大きな湖の河口に位置しており、豊富な沿岸汽水域の魚を捕獲・流通させて暮らしていた。また、極端に人口の多い港町Aや湿地によって陸上交通が未発達のD~F村では、より沖合にて巻貝やロブスターを対象とした潜水漁業や大型魚に力を入れているといった印象を受けた。主な調査地のC村だけは、アオウミガメの網での捕獲をほぼ独占的に発展させていた。<br>2)アオウミガメ漁による漁場利用<br> アオウミガメ漁師たちは一週間から10日、多い時ではそれ以上を木造船の上で過ごした。漁師たちはこの地域に広く分布するサンゴ礁が堆積する小島や比較的浅い海域を停泊拠点とし、季節ごとに異なるアオウミガメの分布・経路を見極め、なんとか過酷な漁を手短に終わらせようと専心していた。<br> 漁船の船長たちが最も注意を払っていたのは、「アオウミガメが夜眠りにつく岩」と考えられている海底の岩場(Walpa)の位置であった。船長や乗組員たちは毎日のように浅瀬の位置を変え、海面の色の変化に注意しながら、好ましい漁場を見つけては網を仕掛けた。漁が成功した時は、その岩場の位置を目印にして近隣の岩場を攻め、失敗したときは、長い航海の末に別の新しい岩場を発見し、そこでの成功を祈って網を仕掛けていた。<br>3.考察<br> 文献には、先行研究社が部分的に提示した認知地図が残っており、その中には計43ヶ所の名称がある。中でも海底のいわば(Walpa)に通ずる言葉は、20ヶ所に記載がある。<br> 本発表で提示するアオウミガメ漁に関する結果は、この岩場を重視する住人の認識を支持するものであった。ただ、得られた結果では、この岩場に関する漁師たちの認識はかなり流動的で、実際、漁師たちはその場その場で想像力豊かに「アオウミガメが夜眠りにつく岩」を生み出したり、消失させたりしていたので、認知地図での岩場に関する記載も、それほど固定的ではないのかもしれない。先行研究者が残した東ニカラグア住人の認知地図には数多くの個人名称、地形境界、Bunfka, Tiufka, Muhtaなどのよくわからないミスキート語が凝縮して平面図に投影され、非常に難解である。今後は、こうした疑問点を現地調査で更に追求していきたい。<br><br>参考:Nietschmann Bernard. 1997 Protecting Indigenous Coral Reefs and Sea Territories, Miskito Coast, RAAN, Nicaragua, in "Conservation Through Cultural Survival: Indigenous People and Protected Areas, Stanley F. Stevens (ed). Island Press, Washington.
著者
増根 正悟
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2016, 2016

&nbsp; 1989年の体制転換以降、中東欧の旧社会主義諸国では、旧土地所有者への農地返還の過程で多くの個人農が創出された。農地返還は社会主義体制以前の土地台帳に基づいて行われたため、歴史的に零細農家が多かったスロヴァキアでは、きわめて狭小な農地を所有し家族労働力に依拠した小規模個人農が多く誕生した。現在のスロヴァキアでは、大規模な農業経営体である協同組合と会社農場が卓越しているが、近年は商業的な農業経営を行う小規模個人農の増加が目立っている。とくに、スロヴァキアにおける小規模個人農の特徴は、ワイン生産農家が卓越する点にあり、スロヴァキア農業の全体像を明らかにするうえで、小規模ワイン生産者の動向の分析が不可欠となっている。そこで本研究では、体制転換後の新たなスロヴァキアの農業形態と農地所有状況の変化を把握するために、首都ブラチスラヴァの近郊に位置するペジノク郡を研究対象地域として取り上げ、小規模ワイン生産者の経営実態を明らかにすることを目的とする。<br>&nbsp; &nbsp;ペジノク郡では、2000年代以降、これまであまりみられなかった小規模ワイン生産者が急激に増加するようになった。その要因としては、まず市場経済に適応できない協同組合の解体が相次いだことがあげられる。すなわち、協同組合の中には、市場経済に適応できず、消滅や規模縮小を余儀なくされる経営体が多かったが、解体に伴って生じた耕作放棄地を借地したり購入したりすることにより、小規模ワイン生産者が農地を確保することが可能となった。また、2004年のEU加盟前後からスロヴァキア経済が急成長を遂げ、それに伴って消費者の嗜好が従来のバルクワインから上質ワインに転換していったことも、小規模ワイン生産者が経営基盤を確立するうえで重要であった。こうした消費者のニーズの変化が、個性豊かな上質ワインをおもに生産してきた小規模生産者にとって有利に働く結果となった。 小規模ワイン生産者は、ブドウ栽培・ワイン醸造の専門学校の授業や、長年自家製ワインを生産してきた家族を通じて、経営を開始する以前からブドウ栽培・ワイン醸造の十分なスキルを身に付けていた場合が多かった。また、ワイン関連以外の仕事に従事した経験をもつ者が多く、そのことがブドウ栽培・ワイン醸造に必要な資金を調達することを可能にした。さらに、家族労働力を主体とする経営であるため人件費を抑制できたことや、知人・家族から無償または廉価で農地を借入れたり購入したりするなど、低コストで経営拡大を実現できたことも、生産者の増加の要因として重要であった。<br>&nbsp; &nbsp;小規模ワイン生産者は、ブドウの自家栽培の有無、専業か否かなどにより、いくつかのタイプに区分することができるが、多くの生産者はブドウの自家栽培とワイン生産の専業化を目指している。生産されたワインの出荷先は、ペジノク郡及び近隣自治体である場合が一般的であり、醸造所での直売のほか、近隣の飲食店やワイン専門店への出荷が多い。また、市場の確保だけでなくワインツーリズムの集客についても、首都ブラチスラヴァに近接していることが大きな意味をもっていることが分かった。そして、各自治体で開催されるワイン関連のイベントへの参加も、ワインの販売促進において重要な役割を果たしていた。 しかし今後、小規模ワイン生産者が経営の拡大を図っていくうえでは、いくつかの課題も存在する。1つ目は、非効率的な土地利用の問題である。小規模ワイン生産者は市内外の複数の土地所有者から農地を借入れるか、または購入してブドウ栽培を行っているが、それらの農地は分散して存在している場合が多い。その上、各圃場の面積がきわめて狭小であるため、機械による作業を行うことが難しい。2つ目は、耕作放棄地の耕地化の問題である。長期に及んだ土地整理事業の中で拡大した耕作放棄地を、再びブドウ栽培が可能な状態にするためには、新たな苗木の購入や除草等の労力が必要であり、生産者への負担が大きい。3つ目は、地価上昇の問題である。近年ペジノク郡はブラチスラヴァの近郊住宅街として人気が高まっており、土地所有者にとっては住宅地としてより高額で売却する方が魅力的であるため、農地の確保が次第に難しくなっている。 ただ、これらのネガティブな条件にもかかわらず、多くの小規模ワイン生産者はブドウの自家栽培にこだわり、農地のさらなる借入れや購入を志向する場合が多い。その背景には、近年のブドウの買取り価格の上昇のほか、保護原産地呼称制度の導入にともないブドウの原産地が消費者に重視されるようになってきたこと、個性的なワインを生産することで大規模ワイン生産者との差別化を図れること、などがある。小規模ワイン生産者は、美しい農業景観の維持や、ワイン生産の伝統継承という役割も担っており、今後の一層の発展が期待されている。
著者
アコマトベコワ グリザット
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

1. 目的 <b><br></b>&nbsp;キルギス国有財産管理局の所有である温泉施設オーロラは, 一年中営業し温泉や泥治療を提供している. 夏季にはイシク・クル湖で湖水浴をすることもできる. オーロラのソ連時代の正式名称は,「ソ連共産党中央委員会管理部門所属サナトリウム-イシク・クル湖」であった. 一般人はオーロラの敷地内に入ることすらできなかった. しかし, 1991年のソ連からの独立と国家の体制転換に伴い, オーロラの利用者も変化していった. 本研究は, 社会主義時代と資本主義化以降のオーロラの利用や利用者の属性(集客圏,年齢,性別,職業)および温泉施設での利用形態や利用時期を明らかにすることを目的とする. <br>2. 研究の手続き&nbsp; <br>&nbsp;まず, オーロラ滞在者のソ連時代1989年12月~1990年12月末(1543人)および独立以降の2011年(342人)の「診療・処方カルテ」の分析を行う. 次に, 利用者と温泉施設スタッフへのインタービュー調査や参与観察を分析する. そして, オーロラの過去と現在を照らしわせ,キルギスの観光への影響を考えたい. <br>&nbsp;3. 結果&nbsp; <br>&nbsp;ソ連時代オーロラリゾートの最多滞在者は, ロシアからの滞在者691人(44.8%)であり, オーロラへのバウチャー配給は, モスクワにおいて決定されたが, 原則として全ソ連の地域別面積に比例して配布されていた. <br>&nbsp;オーロラリゾートでは, ソ連時代, 共産党員が温泉や泥治療等を受けていた.しかし, 党員の党内階級レベルにより訪問時期が異なっていた. オーロラに滞在した共産党の書記官115人を所属階級別に分けた結果, 中央の書記官は100%が多客期の夏に滞在しており, 「特権」を利用していたことが伺われる. 一方, 地方レベルの書記官とソフホーズとコルホーズの書記官の多くは, 冬に滞在するという傾向があった. <br>&nbsp;ソ連からの独立後は, オーロラは一般解放されたため, 職業・地位に関係なく利用者が訪れている. しかし, 料金設定が高いため, 滞在できるのは高所得者に限定されている. しかし, 高所得者以外も外来診療で「オーロラ」の温泉治療・泥治療や理学治療を受けることができ, さらにオーロラの湖畔も利用可能である.&nbsp; <br>&nbsp;以上のように, 社会体制の転換は, 温泉施設利用の変化にも影響を与えている. 具体的には, 旧ソ連時代, オーロラは社会主義エリート限定の健康管理施設であったが, 資本主義化に伴って富裕層を中心に国民一般のためのリゾート施設になった. このように社会体制の転換が, それまでの健康管理施設をリゾート施設に変化させることが, ポスト社会主義国の観光の特徴と考えてよいであろう. &nbsp; <br>
著者
池田 真利子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

都市ベルリンは,分断都市としての歴史を背景とし東西で異なる変化を遂げてきた.とくに政治転換期以降,ベルリンの旧東西境界域では,その場所の開発を巡り,都市の在り方と併せ議論が成されてきた.本研究は,2000年代初頭から計画されていたシュプレー川沿岸域におけるメディアシュプレー計画と,それに対抗する文化施設および市民団体の反対運動に着目することにより,都市空間において文化が担う意味を多面的に分析する. 東西統一以降,旧東ベルリン地区では芸術や音楽に関連する文化的利用が発現した.なぜなら,東西分断期にて急進的に近代化・都市化が進められた旧西独地区に比較して,旧東独地区には,放置・老朽化した空き家や未利用地が未修復・未解体の状態で残されていたためである.また,こうした空き家や未利用地の一部は,旧ドイツ民主共和国(以下,DDR)に位置したため,その所有権の所在において不明確なものも多かった.こうした所有権の不明な土地・建物において,東西統一前後から,アーティストや市民団体による文化的利用が積極的になされた.シュプレー計画とは,シュプレー川沿岸域において計5地区にわたり計画された事業であり,事業面積は約180haにも及ぶ.事業主は,2001年に土地所有者である市議会・地区議会・商工会議所(IHK)の代表者により期間限定的に設立されたメディアシュプレー有限会社(Mediaspree GmbH)である.同有限会社は,2001年から,「コミュニケーション及びメディア関連産業」を中心とするオフィス・商業施設の誘致を開始した.2006年にメディアシュプレー計画に対して,最初の反対運動が発生した.運動主体は文化施設運営者や市民イニシアチヴから成る市民イニシアチヴ連合(以下,市民連合)であった.この市民連合は,公共緑地の不足と,シュプレー川沿岸域の文化施設の立ち退きに対する反対を主張した.特にメディアシュプレー計画が多く位置するフリードリヒスハイン=クロイツベルク地区では,反対運動への賛同者が多く,デモンストレーションや署名活動の結果,16,000人分の有効署名を基に地区選挙が開催された.地区選挙の結果,①新規建設に際し,河岸より50m以上の距離を保持,②地上から軒下までが22m以上の高層建築の禁止,③橋梁建設の禁止という案が87%採択された.しかし,投票結果はその後,市政に反映されず,現在では個々の文化施設が移動する際に反対運動が発生する程度にとどまっている.旧東西境界に近接する場所は,東西分断時には国家の縁辺部として衰退していたが,統一後に地理的中心性を回復した.こうした衰退地域において,アーティストや市民が文化的利用を行った結果,クリエイティヴな場所のイメージが創出され,こうした都市イメージを利用した都市開発メディアシュプレー計画が考案された.こうした文化的価値が経済的価値へと置換されていく過程は,新たなジェントリフィケーションとして理解することができるのではないであろうか.また,こうした変容過程において,市民運動の主体は観光資産としての重要性において自らの存続を主張する.こうした市民運動そのものが,新自由主義経済下において変容を遂げつつあると解釈できる.
著者
小川 正弘
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2007, pp.15, 2007

<BR>1.はじめに<BR> わが国では,高度経済成長期以降,地域に根ざした生活様式や伝統文化が変貌する一方で、全国で町づくり,村おこしなどの地域活性化の手段として伝統的な祭りや新しく創出された市民祭りを活用するなどの行政側の動きが見られた.<BR> 本研究の対象地域である八王子市は,第二次世界大戦後の1955年さらに1959年,1964年と合併を行い,市域拡大や人口増加が急速に進んだ.そこで,新旧住民の連帯感を高め,合併後の新市一体化を促進するために,行政主導で創出された市民祭りが「八王子まつり」である.<BR><BR>2.研究方法<BR> 本研究では,市民祭りとして新たに創出された「八王子まつり」を事例としてとりあげ,市民祭りの成立や展開過程を考察し,伝統的祭礼とは異なる市民祭りの特徴を,まつりの担い手とその内容に着目した.また市民祭りを通して,いかなる地域文化が,実践・継承されているのかについて検討を行った.<BR><BR>3.結果<BR> 現在の八王子まつりにおける内容の特徴は,伝統的祭礼である山車や神輿を全面に押し出している内容であるが,実は市民祭から開始されている.また,まつりの変遷過程を考察した結果,大きく以下の4つの時期ごとに異なるまつりの特色が把握された.それは,1)市民祭形成期(市民祭的内容),2)八王子まつり原型期(鎮守的神社祭礼の参加,融合,共存,まつり名称の変化),3)八王子まつり発展期(伝統的文化と非伝統文化(イベント型)の対立,差異化,4)八王子まつり変革期(伝統的文化の重視と非伝統文化の排除)である.<BR> また,八王子まつりの運営主体であるまつり事務局も時期ごとに変化していた.前述の時期区分によると,市民祭形成期~八王子まつり発展期においては,行政主体で企画・立案を行っていたが,八王子まつり変革期移行は,市民祭開始以前から八王子の旧宿場町を中心にして行われていた神社祭礼の氏子組織やまつり参加団体の代表等が多数参加し,新たなまつり実行委員会が組織されて,まつりの企画・運営等を行っていた.<BR> 八王子まつりが時代的に変化した要因は,八王子まつり開始期から現在におけるまつりを主催する行政団体におけるまつりの運営・実施方針などが大きく影響している.とくに2002年にだされた八王子まつり検討委員会の答申の影響は大きく,従来の八王子まつりの形態・内容及びまつりの運営組織まで変化させたことが判明した.<BR> 八王子まつりにおける担い手は,大別すると伝統的祭礼の担い手と非伝統的祭礼(イベント)の担い手に分類できる.伝統的担い手としては,神社の氏子町会組織が中心であった.その氏子組織は,多賀神社と八幡・八雲神社から構成された.また氏子組織(町会)内には他町会に対する競合意識や市外祭礼に積極的に出向する氏子組織もあった。このことから氏子町会が八王子まつりの形態・内容に影響を与えた.<BR> 一方非伝統的担い手としては,子ども音頭と民踊流しの参加団体及び構成員を事例としてとりあげた.いずれの担い手とも行政関係の支援を得ながら,子ども会組織や地元の民踊教室,企業,学校,民踊クラブ等などを活用して組織された.また踊りで使用される曲は、まつりを主催する行政団体が八王子という地域に因む曲を作成し,それを参加団体に提供した。これは演技だけでなく郷土愛育成等を意識しながら,八王子まつりに参加させるねらいがあった.<BR> 以上のように,八王子まつりにおける地域文化の一部分として存在し,実践・継承をしている担い手や文化は,現在の時点で氏子町会が所有する山車・神輿等にみられる伝統的祭礼,子ども音頭,民踊流しと考えられる.そして,これらは八王子まつりを通してそれぞれが所有する文化の知識・技術の維持管理や継承の努力を続け,知識や技術の伝達する必要性や継承性の強い地域文化として再生され創出されたものといえるだろう.
著者
野上 道男
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100012, 2015 (Released:2015-04-13)

対馬海峡の流速は0.5m/sec程度であり(九州大応用力学研WEB公開データ)、速さがその4倍以下の人力船は大きく流される.海図も羅針盤もなく航路距離は測定不可能な値である.そこで倭人伝に記述されている里数は測量による直線距離であると判断される.つまり天文測量である1寸千里法(周髀算経)で得られた短里による数値である. 帯方郡(沙里院)から狗邪韓国(巨済島)まで七千余里、女王国(邪馬台国)まで万二千余里、倭地(狗邪韓国と邪馬台国の間)は(周旋)五千里と記述されている.これらの3点はほぼN143E線上にある.この方位線は子午線と、辺長比3:4:5のピタゴラス三角形を作る(周髀算経と九章算術で頻繁に使われている) .帯方郡での内角は36.78度であり(N143.22E)、東南(N135E)あるいは夏至の日出方向を東とする方位系での南(N150E)の近似である可能性が高い. 1.2万里は斜め距離であり、南北成分距離は、1.2万里x4/5=9600里である.1寸千里によると日影長の差は9.6寸となる.帯方郡は中国の行政内であるので、日影長による定位が行われていたはずである.現在の知識では郡(沙里院)の緯度は38.5Nであり、日影長は21.53寸と計算できる.それより9.6寸短い11.93寸という値が得られる緯度は31.92Nである.方位N143E線と合わせると郡から1.2万里の点は宮崎平野南部となる. 測定誤差に配慮すれば、倭人伝では邪馬台国は九州南部にあったと認識されていたといえる.それより詳しい比定は考古学の問題である.漢文法に時制はなく、「邪馬台国女王之所都」は文意を補って、邪馬台国はかって(倭)女王(卑弥呼)が都して(治めて)いたところである、と読むべきであろう.邪馬台国が倭国の首都であるとするのは明らかに誤読である.
著者
浜田 純一 松本 淳 ハルヨコ ウリップ シャムスディン ファドリ 山中 大学
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

「海大陸」と呼ばれ、モンスーンなど大規模大気循環の熱源と考えられるインドネシア域では、オランダ統治下の1860年代より、ジャカルタ(当時のバタビア)を始めとした地点で気象観測が実施されてきたが、社会的・経済的な理由によりデータが一般に公開されず、これまで気候学研究の「空白」領域となっていた。しかし、近年、「データレスキュー」活動など、現地の観測研究環境の変化を通して、インドネシアを含む東南アジア域においても、気候変動の解明に資する「日」単位の長期気象データが整備・公開されつつある(例えばSACA&D: Southeast Asia Climate Assessment & Datasetなど)。 <br><br>これらの長期気象データセットに基づき、ジャカルタの気象極端現象の長期変化や、降水極端現象の年々変動とENSOとの関連に関する研究などがインドネシア人研究者自身らにより活発に進められ始めている(Siswanto et al., 2015, &nbsp;Supari et al., 2016, Marjuki et al., 2016など)。また、我々自身も、日降水量データを中心としたインドネシアでの気象データベース構築を内外の研究者との協力の上で進め、海大陸域におけるモンスーン降水の年々変動の動態把握、ENSOや冬季アジアモンスーンとの関連について研究を進めてきている(Hamada et al., 2012, Lestari et al., 2016など)。<br><br>インドネシアの首都であるジャカルタにおいては、気象台が設置された1866年より定常的な観測が開始され(雨量観測は1864年より実施)、150年以上に及ぶ気象観測データが蓄積されている(K&ouml;nnen et al., 1998, Siswanto et al., 2015)。また、これらのデータのデータベース化も進められ、観測開始当初からの日単位の気象データがSACA&D、月降水量に関してもGlobal Historical Climatology Network (GHCN) などで公開されている一方、1990年代以降の近年のデータは、依然、十分に整理されていない状況にある。 従って、本発表においては、近年のインドネシアにおける気候変動研究の動向を概括し、最も長期間のデータが蓄積されたジャカルタに焦点を当て、気象観測資料のデータベース化状況、及びモンスーン降水長期変動に関する初期解析結果について報告する。
著者
谷 謙二
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2012, 2012

1.はじめに<br> 筆者は90年代から地理学関連のソフトウェア等の開発を継続している。当初はソフトを開発してもその配布が困難だったが,90年代末からのインターネットの普及により,公開・配布が飛躍的に容易となり,現在では様々な領域で利用されている.ここでは,ソフトウェア等の開発から公開,ユーザー対応まで,筆者の経験を述べる.&nbsp; <br><br>&nbsp;2.ソフトウェアの開発 筆者の開発しているソフトウェア類をその利用の専門性と機能を軸として示したものが図1である.一般に,多機能なソフトほど開発に時間がかかり,そのプログラム・コードも大きくなる.ソフトを開発する際には、既存のソフトでは実現できない機能を実現することが重要で,そうでなければ単なる模倣に終わってしまう.ただし、時間をかけてソフトウェアの開発を行い,継続的にメンテナンスを行っても,論文にはなりにくいという問題がある. &nbsp; <br><br>3.ソフトウェアの利用状況と利用促進<br> 筆者Webサイト(http://ktgis.net)からの2011年3月~12月末までのダウンロード状況を見ると,MANDARAは約2万2千回,今昔マップ2は1万回で,VECTOR,窓の杜等の外部サイトからのダウンロードを含めるとさらに多くなる.一方で,専門性の高い「OD行列集計プログラム」は60回に過ぎない. 多くの人が利用できる多機能なソフトを開発しても,存在が知られていなければ利用されない.認知度を高めるには,VECTOR,窓の杜といったライブラリに登録することが重要である.一方,Webサービスではこのようなライブラリが存在しないので,検索エンジンにおいてより上位に表示されるための,SEO対策が重要となる.一方,専門家に活用されるようになるには,専門家間の対面接触による口コミも役立っていると推測している.<br><br>&nbsp; 4.ユーザー対応<br> ある程度の専門性があり,かつ多機能なソフトの場合は,操作方法に関するユーザーからの質問が発生する.MANDARAの場合は基本的にWeb上の掲示板で質問に対応しており,最近3年間では約260の質問に対応した.基本的に質問の出された翌日までには返信を行っており,これは確実に対応する姿勢を示すためである.掲示板での質問の中には,時々バグ情報も含まれており,ソフトへのフィードバックとして重要な役割を果たしている.<br>

1 0 0 0 OA 場所論再々考

著者
熊谷 圭知
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100235, 2015 (Released:2015-04-13)

報告者は、「場所論と場所の生成」と題した報告を2012年春の地理学会で行い、「場所論再考――グローバル化時代の他者化を越えた地誌のための覚書」(お茶の水地理52、2013年)を著した。本報告の目的は、その後に翻訳が刊行された場所論をめぐる重要な著作、ハーヴェィ『コスモポリタニズム』(大屋定晴訳、2013年)と、マッシー『空間のために』(森正人訳、2014年)を加えて、場所論を再度検討することである。
著者
濱田 浩美 真砂 佳菜子 小林 静江
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.000017, 2003 (Released:2003-04-29)

1.調査地域の概要 日光国立公園内にある日光白根山五色沼は、北緯36度48分5秒、東経139度23分5秒に位置する湖沼である。栃木県日光市と群馬県片品村の県境付近にあり、日光火山群の最高峰といわれる日光白根山の東北東1kmに位置し、白根山の火成作用によって形成された日光火山群唯一の火口湖で、湖水面標高は2170mである。五色沼は西南西に位置する白根山の火成作用によって形成された日光火山群唯一の火口湖である。冬季は完全結氷し、2001年11月下旬の調査において氷の厚さは13cm、2002年11月末では18cmであった。2.研究目的 同湖沼に関する調査は、日光地域の一湖沼として観測された研究が数編報告されている。宮地・星野(1935)は氷殻下における水温・pH・溶存酸素量・溶存酸素飽和度を測定し、1979年7月に小林純ら(1985)が、湖心部における水温・電気伝導度・pHの測定および19項目の水質分析を行った。水質は無機化学成分の濃度が非常に希薄で、清澄な水であったと報告している。しかし、今までに日光白根山五色沼に関する継続的な調査は行われておらず、水温・水質の鉛直分布の測定、湖盆図さえ報告されていない。 五色沼は閉塞湖であり、水位を安定に保とうとする自己調節機能をもっているが、水温・水質の季節変化と同様に明らかにされていない。そこで本研究では、日光白根山五色沼において、水位変動および水温変化を連続観測し、湖水の主要イオン濃度の分析を行うとともに、光波測量を行い、正確な湖盆図を作成した。これらの観測結果から、閉塞湖における水温・水質の季節変化および水収支を明らかにした。3.研究方法a.現地調査 現地調査は2001年11月21日,2002年5月19日,6月8日,8月28日,10月5日,11月27日の計6回行った。観測は全て湖心部において行い、採水は1mまたは0.5mおきに行った。水温および水位の連続観測は、2002年5月19日よりデータロガーを設置し、記録を開始した。湖の北側湖岸の1地点に(株)コーナーシステム製の水圧式自記水位計(KADEC-MIZU)を設置した。b.室内分析 採水して持ち帰った湖水は、後日実験室にて、主要イオン(Na+,K+,Mg2+,Ca2+,Cl-,NO3-,SO42-)濃度の分析とpH4.8アルカリ度の測定を行った。4.結果および考察a.水温・水質の季節変化 五色沼が水深5m弱と浅く、光が湖底に達している。夏季の成層は極めて小さいことがわかったが、透明度は最大水深より大きく、水体および湖底全体が受熱していると考えられる。冬季は逆列成層が形成されていた。b.主要イオン濃度分析 年間を通して、湖水の主要イオン濃度は極めて希薄であり、雨水に近い値を示した。白根山は休火山であるにもかかわらず、硫酸イオンや塩化物イオンは低濃度を示しており、火山性の影響が認められなかった。c.日平均気温と水温変化 水温変化は、日平均気温の低下が続くと、少し遅れて低下傾向を示すことから、気温が影響しているといえる。常に水温が日平均気温よりも高いのは、日光白根山五色沼は透明度が高く、日射により水体および湖底の全体が受熱しているために、高い水温を示すと考えられる。d.水収支 日光白根山五色沼は閉塞湖である。調査期間における13ヶ月の降水量は約1560mmであり、流入河川および流出河川を持たないために、相当量の漏水がなければ水位は維持されない。漏水深は、水位が上昇するにしたがって、大きくなる傾向が認められた。7月10日に131mmの日降水量があり、水位は4日間で約50cm上昇するが、漏水深も大きくなるために、無降水時および2~3mm/day程度の降雨時には水位降下の傾向がみられた。
著者
島津 弘
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2012, 2012

上高地の徳沢-明神間の梓川で上高地自然史研究会が1994年以来行ってきた調査により,上高地における梓川河床の地形は数年に一度変化することがわかっている.2010年夏および2011年夏に簡易測量に基づいて作成した地図の比較および現地観察から,2011年に地形変化が生じたことが明らかになった.また,2011年7月3日から10月4日まで設置した継続観察地を撮影したインターバル撮影カメラの映像から,当該期間について増水の状況,降雨との対応が明らかになった.そこで,この地形変化の特徴を記載するとともに,地形変化と降雨の関係について検討した.2011年の最大級の連続降雨を記録したと推定される6月22~25日の降雨では23日の10:00~11:00に17mm/hを記録した.その後,23日13:40にアメダスが計測不能となり27日まで欠測が続いたため,この期間の23日の日雨量,期間の総降水量は不明である.明神橋近くにある信州大学上高地ステーションにおける雨量計による計測によると,6月豪雨の期間内に検証を要する値が含まれているものの6月23日の日雨量はおよそ120mmであった.このほか2011年には梅雨入り前の5月10日に123.5mm,台風15号が接近した9月20日に148.5mmを記録した.継続観察地の地形は2009年以降毎年変化が生じた.主流路は幅250mの河道の中央部に主流路が位置するという傾向は2007年以降変化していないが,2010年と比較して主流路の位置の移動と流路分岐のパターンの変化が認められた.この地形変化は観察と降雨状況から5月10日または6月23~25日の降雨のいずれか,または両方で生じたと推定される.カメラの設置許可が梅雨入りに間に合わず,6月の豪雨時の地形変化を記録することはできなかった.カメラ設置後の9月20日に日雨量140mmを超える降雨があったが,主流路がわずかに側刻された程度で地形変化は小さく,カメラで捉えられるような流路の移動は生じなかった.なお,このときには主流路周辺は河床の一部を除いて全面的に流れで覆われていた.以上のことから,以前からの予測通り,梅雨時期あるいは融雪時期における日雨量120mm程度以上の降雨で地形変化が生じるが,梅雨明け以降は豪雨が降っても大きな地形変化は生じないことが確かめられた.
著者
森 泰規
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2016, 2016

企業<u>風土</u>というように<br>筆者は、基本的に経営課題について考える際、企業というものは人が創り出すものであるということを大前提に、ウェーバー(Max Weber, 1864-1920, 独・社会学者/経済学者)の<象徴的相互作用論>[1]、すなわち構造を主語とせず、人の理念に基づく行為(したがって人々の相互行為)が社会を創出するという考え方をとる。端的に言えば「ピューリタンの理念と行為が資本主義の形成につながった」ことを類推して想定するものである。 ところが、企業についての諸問題を考える際、<企業風土>といったきわめて地理学に近い捉え方にさしあたることが多い。特にウェーバー的アプローチを取る際、<企業理念>にとって起こる問題は、地理学に於いてと同様の課題と感じられることがある。そこで当の地理学(乃至、地理学的枠組み)に近接すると思われることを挙げてみる。 &nbsp;<br> <br>『風の辞典』, <b><i>Le sauvage et l&rsquo;artifice.</i></b> <br>関口武(1985)(『風の事典』 原書房)によれば、同書刊行時点で日本には風の名前が2145個ある。普通の日本人はそのような呼び名を知らないが、<u>個々の生活実感と結びついたものは<不可視であっても概念として具象化する></u>のだ。 このことは、地理学者のオギュスタン・ベルク(Augustin Berque、1942- , 仏・地理学者)がたびたび指摘した、「『風景 paysage』に当たる語彙が、絵画の対象と成りえるような美しい景観と触れ合っていた地域の言語にさえ、必ずしも自生的には存在しないこと」[2]とは貴重な対照をなす。こちらは<u>当たり前のように目の前にあっても、むしろ<浸透しすぎていることによって意識されない></u>ということだ。 優れた企業理念は以上に述べたような事態に陥ることがよくある。第一に、すなわち現場組織にはいくつもの貴重な実感が見出されているのに組織全体では体系化・一般化されにくいこと。第二に、当たり前のように意識されている貴重な習慣が組織内部では貴重なものとは評価されていないこと、である。これらは長い時間をかけてよい意味でも悪い意味でも<企業風土>を形成し、必ず課題として噴出する。逆にそれぞれを課題と思って対処していけば効果が得られるともいえる。 これらはいずれも地理学による示唆である。 <br><br>システムの外部にも影響する、地理学の価値<br>筆者は、地理学という学問体系の外から、実務上の類推をもとに本稿での主旨を問いかける。だからそのシステム内部にいる専門家にとっては、当然に違和感を覚える題材なのかもしれない。しかしそのシステム外にある筆者にとっても地理学の価値は影響を及ぼすということであって、筆者はもう少し、その真価を学び、現業に生かそうと考えるが、同時にシステム内の秩序や安定性に意義を唱えるつもりはない。この点は明確にご理解いただきたい。 <br> <br> [1] Symbolic Interactionism. この整理は定説といってよいが、ここではアンソニー・ギデンズによる『社会学』(第六版)の記述体裁にならう。Giddens, A. (2009), <i>Sociology (6th edition)</i>, Polity Press, London, UK.<br> [2] Augustin Berque. (1986). <b><i>Le sauvage et l&rsquo;artifice. Les Japonais devant la nature.</i></b>Paris, Gallimard. P154他
著者
財城 真寿美 小林 茂 山本 晴彦
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

1.はじめに発表者らは,19世紀の日本列島各地から東アジアの隣接地域における気象観測記録を収集し,それらをデジタル化・補正均質化して科学的に解析可能な状態に整備するデータレスキューに取り組んできた.その過程で,日本を含めた各国の公使館や領事館において,外交業務や領事業務のかたわらで気象観測業務が行われていたことが明らかになってきた.東アジアでは,おもに台風の襲来予測のため,1876年以降電報による気象観測データの交換が行われるようになり(China Coast Meteorological Register、香港・上海・厦門・長崎のデータを交換),以後それが活発化する.公使館や領事館における気象観測は,このようなデータ交換のネットワークに組み込まれたものではなかったと考えられるが,在外公館という組織に支えられて,観測が持続された場合もあった.本発表では,この例として在京城日本公使館(領事館)における約15年間(1886-1900年)にわたる気象観測記録を紹介し,今後の類似記録の探索と研究の開始点としたい.2.在京城日本公使館(領事館)の気象観測記録在京城日本公使館(領事館)で行われた気象観測の記録は,「氣候経驗録」というタイトルを持つ独特の様式の用紙に記入されたもので,毎日3回(6時,12時,18時)計測された華氏気温にくわえ,やはり3度の天候記録をともなう(図1).現在,その記録は外務省外交史料館に収蔵されており,アジア歴史資料センターがウェブ上で公開している資料によって閲覧することができる. アジア歴史資料センターの資料にある外務省と海軍との交渉記録によれば,「氣候経驗録」は京城(漢城)に日本公使館が設置されて間もない1881年には作成されていたようである.これには,当時榎本武揚らと東京地学協会に設立にあたっていた初代公使花房義質(1842-1917)の近代地理情報に対する考え方が関与していると考えられる.しかし,壬午事変(1882),甲申政変(1884)と相次ぐ動乱で公使館が焼かれ,以後の公使館・領事館の立地が確定するのは1885年になってからである.そのため,今日までまとまって残されている「気候経験録」の観測値は1886年から始まっており,同年の送り状には「當地気候経驗録之儀久シク中絶シ廻送不仕候處當月ヨリ再興之積ニ有之・・・」と長期間の中断について触れている. こうした「氣候経驗録」の報告は1900年4月まで続き,以後は中央気象台の要請により,最高最低気温や雨量の観測値もくわえ「京城気象観測月報」が報告されるようになった.ただし,このデータは直接中央気象台に送られるようになったためか,外交史料館には現存しないようである.3.課題と展望前近代の朝鮮半島では,朝鮮王朝による雨量観測のほか,カトリック宣教師による気温観測が行われた(『朝鮮事情』)。また1888年頃には,朝鮮政府が釜山・仁川・元山に測候所を設置し、気象観測を開始した(アジ歴資料,B12082124200).さらにほぼ同じ頃,日本は釜山電信局に依頼して観測を行わせ,電報によるデータ収集を行うようになり,また京城のロシア公使館でも気象観測が行われたという(Miyagawa 2008).ただし,韓国気象局が提供するデジタルデータには,これらの観測結果は収録されていない.「氣候経驗録」にある観測値を,現代の気象データと連結・比較するには,様々な解決すべき問題点がある.しかしながら,首都京城における19世紀末期の約15年間にわたる気象データとして活用をはかることは,当時の気候を詳細に復元するだけでなく,日韓のこの種のデータの交流という点でも意義あるものとなろう.今後は,観測値のデジタル化にくわえ、観測地点の同定を行って補正・均質化を行うことにより、現代の気象データと連結したり,比較したりすることにより,長期的な気温の変動の特徴を明らかにしていく.
著者
戸所 隆
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

<br><br>1.前橋・高崎の都市特性<br><br>前橋・高崎は東京都心の北西100kmに位置する首都圏外縁部に隣接する拠点都市である。両市の都市機能には数量的な差はないものの、性格的に前橋は県庁所在地で文化に特化し、高崎は交通・商業に特徴を持つ。また、前橋34.0万・高崎37.1万の人口(2010年国調)をもち、両市役所間は9kmに過ぎず、連坦市街地で結ばれる人口70万強の一体化した都市地域を構成する。<br><br>江戸期には親藩・譜代の有力大名領や天領が入り組み、歴史的に複雑な地域性が形成されてきた。また、幕末から明治期には蚕糸業によって日本経済を牽引する地域であった。そのため、近代的な交通体系や都市システムは相対的に早期に整備され、全国的に著名な有力企業を多く生み出してきた。また、この地域は日本列島のほぼ中央部に位置し、太平洋岸と日本海岸を結ぶ横断軸と日本列島縦断軸が交差する地理的条件をもつ地域である。<br><br>&nbsp;<br><br>2.前橋・高崎における1990年代以降の構造変化<br><br>1990年代以降の主な構造変化は、以下である。<br><br>①市街地面積の急激な拡大による郊外の発達、<br><br>②中心商業地の衰退 <br><br>③大規模工場の撤退<br><br>④中心機能の一翼を担う事業所の減少<br><br>⑤日常的生活圏・経済圏の拡大と地域間交流の活発化 ⑥東京の影響拡大と自立性の低下<br><br>⑦地域発祥企業の本社機能の東京流失<br><br>⑧人口減少と高齢化<br><br>⑨新築戸建て住宅・アパートの増加と空き家の急増<br><br>&nbsp;<br><br>3.都市構造変化の要因<br><br>前項の構造変化①②には、自家用車の普及と郊外への大型SC建設の影響が大きい。それを可能に要因として、畑作社会でありながら都市計画規制が緩く、首都圏の県庁所在都市にしては安価な地価にある。<br><br>③は高度経済成長期に立地した企業の撤退である。要因として日本経済の構造変化と地域政策の失敗がある。<br><br>④は、新幹線や高速道路などの高速交通整備による、首都圏都市システムの構造的変化結果である。すなわち、高崎・前橋が新幹線で東京1時間圏となることで、従前の自立性が喪失してきた。他方で、さいたま市が首都圏における北関東の業務核都市として都市力を向上させた。⑤⑥⑦もこれと陰に陽に関係する。その結果、高崎駅周辺には高層マンションが増加し事務所撤退を補完する出張者用ビジネスホテル・全国チェーン型店舗の増加がみられる。これらは東京一極集中の影響でもある。<br><br>⑧人口減少の要因として、少子化と工場・事務所の撤退の影響がある。また、隣接自治体の地価の安さと緩い都市計画規制がそこへの人口流失をもたらしている。他方で、空洞化した中心市街地の地価低下がそこでの新築住宅建設を可能とし、相続税対策のアパート建設の増加も相まって空き家・空室を急増させている。<br><br>&nbsp;<br><br>4. 大都市化分都市化による構造変革<br><br> 高速交通網・交通体系の充実、郊外の発達と自立化、経済圏・生活圏の広域化により、都市システムは都市間・都市内共に、階層ネットワークから水平ネットワークの大都市化分都市化型に転換してきた。この動きを平成の大合併は広域化した経済圏・生活圏を行政的に一体化・推進した。しかし、地域間連携の重要性は理解しても歴史的経緯などから意識面での一体化は簡単には進まない。たとえば、自動車のご当地ナンバーで「前橋」と「高崎」がつくられ、電話の市外局番は同じ027であっても同一通話エリアにならないなどの問題がある。時代に対応したハード・ソフト両面で調和した都市システムへの再構築が求められる。<br><br> <br><br>5.立体化および公私の止揚による構造変革<br><br>地方都市にあっても1990年代以降は都市空間の立体化の進展を見た。その結果、所有権では公私の区別があっても利用形態で公共的空間が増加した都市システム・構造に転換している。しかし、それに対応できない市民が多く、都市生活面に新たな問題を惹起しつつある。<br><br>また大規模高層マンションの都市中心部での増加は、高齢化と相まって郊外から中心部へ人口移動させ、郊外の衰退を招く。これが都市中心と郊外の対立を惹起し、新たな都市システムの転換をもたらすと考えられる。<br><br>&nbsp;<br><br>6. あるべき都市構造と国土構造の在り方<br><br>日本が中進国の罠にはまらず先進国になれたのは、公共事業をうまくコントロールし、農村の貧困を避けたことにある。豊かになった日本を持続的に発展させるためには、深刻化する地域間格差を是正する地方再生・国土構造の再構築が不可欠となる。それには首都機能移転を実現し、北関東信越メガロポリスの創生など、国土を水平ネットワーク型都市システムに転換する必要がある。
著者
宮岡 邦任 谷口 智雅 大八木 英夫
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

<b>1.はじめに</b>伊勢湾に面する三重県津市白塚海岸沿岸域における海底地下水湧出については,潮汐の変化に伴って湧出地点,淡水・海水の混合割合,水質,湧出量などに変化が生じることが確認されている(Miyaoka, 2007)。一方,白塚海岸の南側に隣接する河川の河口域において,潮汐の変化に伴う栄養塩の流出や伏流水の挙動の変化については明らかにされていない。本発表では,三重県津市を流れる志登茂川および安濃川の河口付近を対象に,潮汐の変化に伴う海底および河床からの地下水湧出形態の変化について調査を行った結果を報告する。<br><b>2.対象地域の概要</b> 研究対象地域を図1に示す。志登茂川および安濃川は,いずれも布引山地を源にする河川である。流域の土地利用形態は共通しており,中流から下流の沖積地の土地利用は,水田が広がり,いくつかの集落が点在している。海岸平野は市街地となっている。安濃川の流域内人口は,1970年以降増加傾向にある(三重県, 2003)。志登茂川流域においても同様の傾向がみられることから,これらの河川流域では,人間活動に由来する河川に流入する排水の量や質の変化が,沿岸域の水環境に影響を及ぼしていると考えられる。安濃川河口付近の河床堆積物は砂および小礫であるのに対し,志登茂川では砂および泥である。<br><b>3.研究方法</b> 志登茂川河口域において,電気伝導度分布調査を2012年7月と11月に実施した。いずれも中潮で7月は干潮,11月は満潮時に調査を実施した。また,2013年7月には,安濃川河口から約1km上流の約100mの区間において,電極間隔を4mに設定しシュランベルジャー法による比抵抗探査を,干潮から翌日の同時間帯の干潮にかけて3時間おきに実施した。また,志登茂川河口域では電気伝導度測定地点から数地点を選択し,安濃川では20m間隔で干潮時と満潮時に100mlの採水を行った。<br><b>4.結果および考察</b> 2012年7月および11月の志登茂川河口域における海底の電気伝導度分布調査では,顕著な淡水地下水の湧出が認められなかったが,河口部付近に周辺よりは値の低い35,000&mu;S/cm以下の範囲が認められたことから,この範囲で若干の淡水成分の流出が存在していることが示唆された。一方,北側の海岸付近には30,000&mu;S/cm以下を示す海域がみられた。このことから,河口付近では,陸地部とは異なり海水が陸側に侵入しやすく,沿岸付近で強制的に上向きのフラックスを得ることが少ないため,海底からの淡水流出が顕著に発生しないことが考えられた。2013年7月に実施した安濃川での比抵抗探査では,干潮時と満潮時で海域からの海水侵入の状態の違いから,河床からの湧出傾向にも変化が生じることが明らかとなった。<br><b>文献 </b><b></b>Miyaoka, K. (2007): Seasonal changes in the groundwater-seawater interaction and its relation to submarine groundwater discharge, Ise Bay, Japan. A New Focus on Groundwater-Seawater Interactions. IAHS Publ. 312, 68-74.三重県(2003):安濃川水系 河川整備計画.29p.<br><b>付記</b> 本研究は科研費 基盤C(課題番号23501240 代表:宮岡邦任)の一部である。
著者
益田 理広
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100234, 2015 (Released:2015-04-13)

1.研究の背景と目的 地理学という分野に冠された「地理」なる語が,五経の第一である「易経」,詳しく言えば,古代に記された「周易」本文に対する孔子の注釈である「十翼」中の一篇「繋辭上傳」に由来することは,漢字文化圏において著されたいくつもの地理学史や事典にも明記された,周知の事実である.しかし,その「地理」はいかなる意味を持つのか,何故地理学の語源となり得たのか,といった概念上の問題については,余り深く注視されてはこなかった.確かに,「繋辭上傳」の本文には「仰以觀於天文,俯以察於地理」とあるのみで,そこからは「天文」と対置されていること,「俯」して「察」るという認識の対象となっていることが読み取られるばかりである.それ以上の分析は,「地」「理」の二字の意味を知るよりほかはないであろう.「土地ないしは台地のすじめであり,大地における様々な状態つまり「ありよう」を指したもの」(海野,2004:44)「地の理(地上の山川で生み出される大理石や瑪瑙の筋目のような形状)」(『人文地理学事典』,2013:66)といった定義はまさに字義に依っている.辻田(1971:52,55)も「易経でいう地理をただちに今日的意味で理解するのはやや早計」としながらも,「古典ギリシャ時代の造語であるゲオーグラフィアに相当する地理という文字」とする.また,海野は後世における「地理」の使用例から,客観的な地誌的記述と卜占的な風水的記述をあわせ持った,曖昧模糊たる概念とも述べている. それでは,この「地理」なる語は古代より明確に定義されぬままであったのであろうか.実際には,「地理」の語義は「周易」に施された無数の注釈において様々に論じられてきた.そしてその注釈によって「地理」を含む経典中の語が理解されていたのも明らかであり,漢字文化圏においてgeographyが「風土記」ではなく「地理学」と訳された要因もこうした注釈書に求められよう. 中国の研究においてはそれが強く意識されており,胡・江(1995)は「周易」の注釈者は三千を超えるとまで言い,「地理」についても孔頴達の「地有山川原隰,各有條理,故稱理也」という注に従いながら「大地とその上に存在する山河や動植物を支配する法則」を「地理」の語義としている.また,于(1990)や『中国古代地理学史』(1984)もやはり孔頴達に従っている.ただし,孔頴達の注は唐代に集成された古典的なものであり,「地理」に付された限定的な意味を示すものに過ぎない.仮にも現代の「地理学」の語源である「地理」概念を分析するのであれば,その学史的な淵源に遡る必要があろう.そしてその淵源は少なくとも合理的な朱子学的教養を備えた江戸時代の儒学者に求められる(辻田,1971).「地理学」なる語も,西洋地理書の翻訳も,皆このような文化的基礎の上でなされたものなのである.従って,現代に受け継がれた「地理学」の元来の概念範囲は,この朱子学を代表とする思弁的儒学である宋学における「地理」の語義を把握しない限りは分明たりえないであろう.以上より,本研究では,宋学における「地理」概念の闡明を目的として,宋代までに撰された「周易」注釈書の分析を行う. 2.研究方法 主として『景印 文淵閣四庫全書』(1983) 經部易類に収録されたテキストを対象とし,それらの典籍に見出される「地理」に関わる定義を分析する.また,上述のように「地理」は「天文」と対をなす語であるため,この「天文」の定義に関しても同様に分析する.なお,テキストは宋代のものを中心とし,その背景となる漢唐の注釈も対象とする. 3.研究結果 「天文」および「地理」なる語に対する古い注釈としては王充の論衡・自紀篇の「天有日月星辰謂之文,地有山川陵谷謂之理」および班固の漢書・郊祀志の「三光,天文也…山川,地理也」がある.周易注釈書としては上述の孔頴達の疏が最も古く,これは明らかに上記二者や韓康伯の系譜にあり,「天文地理」は天上地上の物体間の秩序を表すに過ぎない.ところが,宋に入ると,蘇軾は『東坡易傳』において,天文地理を「此與形象變化一也」と注し,陰陽が一氣であることであるという唯物論的な解釈を行い,朱熹は「天文則有晝夜上下,地理則有南北高深」と一種の時空間として定義するなど,概念の抽象化が進んでいく. 【文献】 于希賢 1990.『中国古代地理学史略』.河北科学技術出社.海野一隆 2003.『東洋地理学史研究・大陸編』 .清文堂. 胡欣・江小羣 1995.『中國地理學史』. 文津出版. 人文地理学会編 2013.『人文地理学事典』.丸善書店. 中国科学院自然科学史研究所地学史組 主編 1984.『中国古代地理学史』. 科学出版社. 辻田右左男 1971.『日本近世の地理学』.柳原書店.
著者
柴岡 晶 石黒 輝 大館 佳奈 佐藤 健二 渡部 哲平
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

Ⅰ.はじめに<br>&nbsp;近年、高齢者や身体に障害を持つ人々が障壁を感じることなく生活できるような、バリアフリーなまちづくり整備がいっそう求められている。 こうした社会的背景の中で、バリアフリー設備の実用性や効果を評価し、その課題を見出す研究が行われている。また、情報通信技術の発達により、調査で得られたデータをある一定の基準をもとに数値化し、比較分析を行ったり、得られたデータを地図上に表現したりすることで、より視覚的にわかりやすく分析し提示することも可能となっている。本研究ではこのような定量的かつ地理学的な分析手法を用いて、①バリアのデータベース化及びそれに基づく現状分析、②それらのバリアの情報を活用し、GoogleMapsによるバリアの可視化及びGoogleEarthでの立体的表示を用いて、あらゆる対象者にとって有用性の高いマップを作成すること、の2点を目的とする。<br>Ⅱ.対象地域と研究手法<br> JR飯田橋駅を中心に、近隣に位置するJR水道橋駅、地下鉄神楽坂駅、牛込神楽坂駅、九段下駅に及ぶ範囲である半径800m圏内を調査区域と設定し、その中の道路及びその歩道を調査対象としている。 調査にあたっては、まず対象となる道路を、交差点を目安に分割し、調査ブロックを設定した。次に、計測と目視による実測調査と白杖や車いすを使用した体験調査を主体としたフィールドワークを行い、調査ブロックごとにバリアやバリアフリー整備状況を調査してバリアの可視化の基礎となる調査データを蓄積させていった。 これらのフィールドワークによって得られたデータは、定量評価基準によってブロックやバリアの項目ごとに点数化するとともに、バリアの属性によって細分化した。これらのデータから、実測調査、白杖調査、車いす調査の3つの調査に基づくバリアマップをそれぞれ作成し、バリアの分布を地図化して分析を行った。 これらの調査や分析によって、調査区域の道路及びその歩道が、車いす利用者や視覚障がいを持つ人にも通行しやすいものであるかを評価し、加えて自治体ごとに交通バリアフリーへの取り組みの差異について、詳細や存在する原因について考察した。<br>Ⅲ.データベース化とバリアの可視化<br> 本研究においては、各ブロックにおける項目ごとの評価点数のほかに、実際の測定値、沿線の特徴や駅からの距離などのファクター、点字ブロックや自転車専用レーンなどの整備状況、そして実測調査、白杖体験調査、車いす体験調査それぞれのバリアの地点数という、計56項目のデータを、全87ブロックにおいて収集した。これをもとに、「何が」「どこで」「誰に対して」バリアなのかを明確にしつつ、多角的な分析を行った。<br>Ⅳ.バリアマップの作製とその有用性<br> 収集したバリアの情報は、GoogleMapsやGoogleEarthを用いてマップ化した。インターネットに接続しているPCやスマートフォンから利用できるバリアマップで、ただバリアをマッピングするだけでなく、現地のバリアの具体的な状況や写真をプロットしたバリアそれぞれに紐づけることで、そのバリアの特徴をわかりやすく表現した。
著者
木村 昌司
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.121, 2013 (Released:2013-09-04)

共同浴場は,交流の「場」として重要な意味をもっており,毎日人が集まることにより,地域の様々な情報があつまる「情報センター」としての機能を有している(印南 2003).しかしながら,現在,日本各地の共同浴場では利用者の減少,利用者の高齢化といった問題に直面しており,地域社会で共同浴場を維持管理する意味を問われている.本研究では,地域住民を主体とした自治共同的な取り組みによる温泉資源の維持・管理体制と地域住民の温泉利用,また共同浴場を支えている地域コミュニティに着目し,長野県諏訪市における温泉共同浴場の存続要因を明らかにする. 諏訪市では豊富な湯量を生かして,一般家庭や共同浴場において,地域住民が日常的に温泉を利用できる体制が整っている.温泉共同浴場は市内各地区の64か所に存在する.その大部分は,各地区の温泉組合や区によって維持管理されており,地域住民のみが利用できる形態となっている.諏訪市の温泉供給システムをみると,源泉の利用によって2つのタイプに二分することができる.Ⅰ型は,市が管理する源泉を利用するタイプ,Ⅱ型は,地区の温泉組合が管理する源泉を利用するタイプである.I型では,市内10か所の源泉が統合され,一般家庭(2160戸),市内の共同浴場(47か所)などに供給されている.この温泉統合は,1987年に完了したものである.しかしながら,その供給は近年減少を続けており,いかに温泉離れを食い止めるかが課題となっている.諏訪市では,2012年3月から温泉事業運営検討委員会を立ち上げ,市の温泉事業のあり方について議論している. Ⅱ型では,市の統合温泉を利用せず,各地区で保有している源泉を用いて,共同浴場を運営,また各家庭に温泉を給湯している地区もある.市から温泉を購入する必要はなく,経営的にも余裕がある. 本研究では,I型の諏訪市大和区,Ⅱ型の諏訪市神宮寺区を事例に,温泉共同浴場の存続基盤を探った.I型の大和区では,諏訪市の統合温泉を利用し,区の温泉委員会によって5か所の共同浴場が維持管理されている.大和区の世帯数は1,032,人口は2,441(2012年)であり,そのうち共同浴場を利用するのは119世帯(285人)である.統合温泉を用いて,自宅に温泉を引くことも可能であり,約450世帯が自宅に引湯している.大和区では,共同浴場利用者の高齢化が進んでおり,積極的に利用しようという機運は少ない.しかしながら,自宅に温泉を引く世帯から月に500円の協力金を徴収するなどして,共同浴場の維持管理に努めている. Ⅱ型の神宮寺区では,自家源泉を保有しており,神宮寺温泉管理組合によって3か所の共同浴場が維持管理されている.隣接する4地区へも売湯していることから,経営に余裕があり,2005年~2009年にかけて3か所の共同浴場の建て替えを行った.神宮寺区の世帯数は670,人口は1,809である(2012年).共同浴場の利用者は,286世帯(689人)と多くの利用がある. 大和区,神宮寺区のいずれも,御柱祭にみられるように地域の結束力が高く,その地域基盤から共同浴場も維持,管理されている.日常から行事や会合も多く,頻繁に顔を合わせる機会は多いが,共同浴場はその一翼を担っていると考えられる.しかしながら,大和区と神宮寺区では源泉の有無の違いから,経営基盤に差があり,それにより温泉共同浴場の存続基盤も異なっていることが分かった.利用者も少なく,経営的にも苦しい大和区で,住民が協力金を支払うなどしてまでも共同浴場が維持されているのは,諏訪の伝統を重んじる地域性が背景にあるといえよう.一方,神宮寺区では源泉を保有し,経営に余裕があることから,共同浴場の施設刷新を行っている.これにより住民の温泉利用が促進され,共同浴場は持続可能な維持管理体制を実現している.
著者
畠 瞳美 奈良間 千之 福井 幸太郎
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100288, 2016 (Released:2016-04-08)

北アルプス北東部に位置する白馬大雪渓は日本三大雪渓の一つで,夏季には毎年1万人以上の登山者が通過する日本屈指の登山ルートである.白馬大雪渓上では岩壁の落石や崩落で生産される岩屑により毎年のように登山事故が起こっている.本研究では,落石・崩落の実態や大雪渓周辺の地形変化を明らかにすることを目的として,2014~2015年に現地調査を実施した.2014年の7月~8月に設置したインターバルカメラの撮像結果より,この時期に岩壁から生産された礫の雪渓への侵入はわずかであり,雪渓上に無数に点在する礫の多くは雪渓内部から融出したものであった.UAVの空撮画像を用いて作成した50 cm解像度DEMから得られた表面傾斜角をみると,大雪渓本流では緩傾斜地と急傾斜地が交互に存在し,インターバル撮像から急傾斜地で礫の再転動・再滑動が多く確認された.また,大雪渓上には6種類の礫を確認し,その分布は本調査地域の地質を反映していた.2011~2014年にかけて,大雪渓上流(白馬岳,杓子岳),2号雪渓,3号雪渓及び大雪渓下流右岸側において岩壁が部分的に後退していた.アイスレーダー探査の結果によると,雪渓の厚さは薄いところで約3 m,厚いところで約20 mであり,場所による雪渓の厚さの違いが確認された. 白馬山荘において観測された気温・地温データから,気温が0度付近となる時期は4月末~5月末であり,凍結融解作用で岩壁から礫が生産される時期は非常に短く,7~8月は降水や再転動などの要因で落石事故が生じていると考えられる.さらに,融雪に伴い岩盤が露出することで,凍結融解作用によって生産された岩屑が落石へと発展することがわかった.雪が著しく融けて昨年の雪渓表面が出現する場合,少なくとも雪渓上には2年分の礫が存在するため,礫の再転動・再滑動による災害のリスクが高まると考えられる.本流において急傾斜地で再転動・再滑動が多く起こるという結果から,より急傾斜な2号雪渓と3号雪渓ではそのリスクは非常に高くなることがわかった.本調査地域の地質,大雪渓上の礫の関係及び岩盤の経年変化から,落石はほぼ全ての方向の岩壁斜面から発生しているが,特に杓子岳周辺では落石による激しい岩盤侵食と崖錐の形成が起こっていると考えられる.
著者
麻生 将
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

<b> </b>本報告では、国指定文化財となっているキリスト教関連施設の観光地化の可能性について、都道府県ごとの立地係数を求めて検討を試みた。その理由は以下のとおりである。<br> 1. キリスト教関連施設を含むある施設や場所は、文化財指定を受けることが観光地化のアドヴァンテージになる可能性が考えられるため。 <br> 2. 文化財指定を受ける際、当該施設または事物の真正性や文化的・歴史的な価値が重要な要素となるが、それは観光地化の主要な要素でもあるため。 <br> 3. キリスト教関連施設の観光に関する統一的な統計資料がほとんど存在しないため。 <br><b></b> 本報告では2014年9月時点での国宝・重文・登録の各有形文化財(建造物)を対象とする。その中でキリスト教関連施設は159件に上ることが明らかになった。内訳は国宝が1件、重要文化財が26件、登録文化財が132件となっている。重要文化財の半数に当たる13件が長崎県に存在するが、これらは幕末から明治・大正期にかけて建設されたカトリック教会の建物である。また、登録文化財が10件以上の都府県は東京都、愛知県、滋賀県、京都府であるが、このうち愛知県については、犬山市の明治村に全国各地から移築された近代期のキリスト教関連施設が存在するためである。滋賀県については、近江兄弟社を設立したヴォーリズによって設計された複数のキリスト教関連施設が指定されたことも大きく関係すると考えられる。なお、東京都と京都府については、ミッションスクールの複数の校舎が登録文化財指定を受けたため、このような件数となった。 <br> 国指定文化財のキリスト教関連施設の立地係数を都道府県ごとに求めて地図化した結果、幕末から明治前期の比較的早い時期にキリスト教が伝わった都道府県で立地係数が2.0以上と高い値を示していることが明らかになった。こうした都道府県では現在もキリスト教関連施設が観光地として観光ガイドなどでも紹介されることが多い。他方、立地係数が低い(0~0.5)複数の県では明治期にキリスト教への排撃運動がたびたび見られたが、こうした歴史的経緯も現在のキリスト教関連施設の観光地化の状況を規定する要因の一つと考えられる。すなわち、立地係数による観光地化の可能性の検討を通して、地域の近代化または近代史に関わる社会的・文化的文脈を捉える材料の一つとなり得る。<br> &nbsp;&nbsp;キリスト教関連施設の観光地化の指標として、国指定文化財の立地係数がある程度有効であることと、立地係数が地域の近代化の歴史的背景や社会的文脈を読み解く際の指標としても少なからず有用であることが確認された。今後はデータのより精密な分析とともに、本発表で用いたデータを活用して都道府県ごとのキリスト教関連施設の観光地化の調査を進めていきたい。また、国指定のみならず各都道府県によって文化財指定を受けたキリスト教関連施設の調査・検討も行っていきたい。 <br>(参考文献)<br>&nbsp;麻生将2015.現代日本におけるキリスト教関連施設の分布状況と観光地化の可能性に関する試論.立命館大学地理学教室編『観光の地理学』259-280. 文理閣. <br> 福本拓2004.1920年代から1950年代初頭の大阪市における在日朝鮮人集住地の変遷. 人文地理56-2:42-57. <br> 松井圭介2012. ヘリテージ化される聖地と場所の商品化.山中弘編『宗教とツーリズム―聖なるものの変容と持続―』192-214. 世界思想社.