著者
久富 悠生 中山 大地 松山 洋
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100223, 2014 (Released:2014-03-31)

本研究の目的は,武蔵野台地における長期的な地下水流動を,数値モデルを利用して再現すること,及び長期的な地下水流動の変化と土地利用の関係を定量的に明らかにすることである.モデルはUSGS(アメリカ地質調査所)が開発したMODFLOWを利用した.MODFLOWは有限差分法を用いた3次元地下水流動解析モデルである.解析期間は土地利用データのある1977年~2012年を対象とし,MODFLOWを用いて1日ごとの地下水位を算出した.また,統計的に推定した気象データを用いて2013年~2050年における地下水流動の予測シミュレーションも行った. その結果,MODFLOWによって降水による地下水の反応や,季節変化を再現することができた.また,計算された地下水位のデータを用いて,1977年~2012年の地下水位の低下量と観測点における涵養域の減少量を算出した.地下水の変動傾向の有無の検出にはMann-Kendall検定を利用した.その結果,涵養域の減少量と地下水位の低下量に相関関係があることが明らかになった.この要因として,1977年~2012年に,水田や農地,森林などの透水面の面積が減少し,建物用地などの不透水面の面積が増加していることが示された.また,局地的な涵養域の減少の他に,武蔵野台地全体における広域的な涵養域の減少も地下水位の低下に影響を与えていることが示唆された.2013年~2050年の地下水流動の将来予測では,降水量の増加に対する地下水位の上昇はみられなかった.したがって,降水量の長期的な変化が地下水位の変動に与える影響は比較的少ないことが明らかになった. 今回のモデルでは長期的な地下水の流動を再現することができたが,再現性に欠ける部分もあった.そのため,今後の課題として更なるモデルの改良が必要であることが明らかになった.
著者
藤本 潔 小野 賢二 渡辺 信 谷口 真吾 リーパイ サイモン
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

1.はじめに<br><br> マングローブ林は、地球上の全森林面積の1%にも満たないが、潮間帯という特殊環境下に成立するため、他の森林生態系に比べ、地下部に大量の有機物を蓄積している。しかし、その主要な供給源である根の生産・分解プロセスは不明のままであった。そこで本研究では、主として細根の蓄積・分解速度を、樹種別、立地環境別に明らかにすることを目的とする。対象地域は、熱帯湿潤環境下のミクロネシア連邦ポンペイ島とマングローブ分布の北限に近い亜熱帯環境下の西表島とする。対象樹種は、アジア太平洋地域における主要樹種で、ポンペイ島はフタバナヒルギ(<i>Rhizophora<br>apiculata</i>)、ヤエヤマヒルギ(<i>Rhizophora stylosa</i>)、オヒルギ(<i>Bruguiera<br>gymnorrhiza</i>)、マヤプシキ(<i>Sonneratia alba</i>)、ホウガンヒルギ(<i>Xylocarpus<br>granatum</i>)、西表島はヤエヤマヒルギ、オヒルギとする。<br><br>2.研究方法<br><br> 各樹種に対し、地盤高(冠水頻度)の異なる海側と陸側の2地点に試験地を設置し、細根蓄積速度はイングロースコア法、分解速度はリターバッグ法で検討した。イングロースコアは径3cmのプラスティック製で、約2mmのメッシュ構造となっている。コアは各プロットに10本埋設し、1年目と2年目にそれぞれ5本ずつ回収した。コア内に蓄積された根は生根と死根に分け、それぞれ乾燥重量を定量した。コア長は基盤深度に制約され20~70cmと異なるが、ここでは深度50cmまで(50cm未満のコアは得られた深度まで)の値で議論する。リターバッグにはナイロン製の布を用い、径2㎜未満の対象樹種の生根を封入し、各プロットの10cm深と30cm深に、それぞれ3個以上埋設した。<br><br>3.結果 <br><br> 1) 細根蓄積速度<br><br> ポンペイ島では、現時点でフタバナヒルギとヤエヤマヒルギ陸側の2年目のデータが得られていないため、ここでは1年目のデータを用いて検討する。細根蓄積量(生根死根合計)は、海側ではいずれの樹種も40~50 t/ha程度であったが、陸側では、ヤエヤマヒルギ、マヤプシキ、およびオヒルギが25 t/ha前後と相対的に少なかった。樹種毎に海側と陸側で比較したところ、フタバナヒルギの死根と生根死根合計、マヤプシキの生根と生根死根合計、オヒルギの生根死根合計で海側の方が陸側より有意に多かった。樹種間で比較すると、海側の生根はマヤプシキが有意に多かった。陸側の死根は、ヤエヤマヒルギがオヒルギ、マヤプシキ、フタバナヒルギより多い傾向にあり、陸側の生根死根合計は、ヤエヤマヒルギとホウガンヒルギがオヒルギ、マヤプシキ、フタバナヒルギより多い傾向にあった。海側の死根は、マヤプシキがヤエヤマヒルギ、オヒルギ、ホウガンヒルギより有意に少なかった。<br><br> 西表島の1年目の細根蓄積量は、ヤエヤマヒルギが海側で6 t/ha、陸側で9 t/ha、オヒルギが海側で4 t/ha、陸側で6 t/haであった。海側と陸側で比較すると、1年目、2年目共、いずれの樹種も有意差はみられなかったが、樹種間では2年目の陸側生根でヤエヤマヒルギがオヒルギより有意に多かった。標高がほぼ等しいヤエヤマヒルギの陸側とオヒルギの海側では有意差はみられなかったが、ヤエヤマヒルギの海側とオヒルギの陸側では前者が有意に多かった。<br><br> ポンペイ島と西表島で比較すると、ポンペイ島の方がヤエヤマヒルギで約7倍、オヒルギで4~7倍多かった。ただし、地上部バイオマスは、西表島のヤエヤマヒルギ林が80 t/ha、オヒルギ林の海側が54 t/ha、陸側が34 t/haであるのに対し、ポンペイ島のヤエヤマヒルギ林は216 t/ha、オヒルギプロットの林分は499 t/haであった。すなわち、地上部バイオマスはポンペイ島の方がヤエヤマヒルギ林で約2.7倍、オヒルギ林で9.2~14.6倍多く、ヤエヤマヒルギは地上部の相違以上に地下部の相違が大きいのに対し、オヒルギは地上部の相違ほど地下部の相違は大きくなかった。<br><br>2)分解速度<br><br> ポンペイ島におけるリターバッグ設置1年後の残存率は、ヤエヤマヒルギの海側10cm深で7.7%と極端に低く、フタバナヒルギの陸側30cm深とオヒルギは60~85%と相対的に高かった。他の樹種はおおよそ40~50%程度であった。西表島はいずれも50~60%で有意差はみられなかった。
著者
山本 政一郎 尾方 隆幸
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

1. 問題の所在<br> 学校教育は,言うまでもなく,学術的な成果に基づいたものでなければならない.しかしながら,地理教育については,その母体となる地理学,さらには関連する地質学や地球物理学などの成果が適切にフィードバックされていない現状があり,特に大地形についてはいくつかの指摘がなされている(たとえば,岩田 2013;池田 2016).<br> 高校「地理」「地学」で扱われる分野には,共通する内容が多い.両科目で共通する分野については,お互いに協調して対象を取り扱うことで,地球に対する理解をより総合的・系統的に身につけさせることができる.しかしながら,同じ内容を説明しているにも関わらず両科目間で用語が異なっていたり,内容の解説そのものに相違があったりする.さらに,同一科目内においても,同じ内容を示す用語が教科書会社によって異なっているなど,混乱がみられる.<br> この現状は学校教育現場に混乱をもたらす.とりわけ,教育を受ける側の生徒にとっては,受験に伴う不公平さえ生まれかねない.これらの問題を即時に解消することは困難としても,教育者側が相違の現状を把握しておくことで,それらに留意した説明をするなど,教育現場での対応が可能になる.そのためには,まずは教育現場で実際に使用されている教科書を分析し,課題を可視化する必要があろう.<br> 本発表では,高等学校「地理」「地学」において,教科書によって記載が異なる事項を中心に,2017年度に使用されている全ての教科書(地理B:3冊,地理A:6冊,地学:2冊,地学基礎:5冊,科学と人間生活:5冊,計21冊)を対象に,用語のブレを比較検討する.地形分野については,大地形および沖積平野,土砂災害に関する用語がどのように扱われているか,またそれらの発達史・プロセスがどのように扱われているかについて報告する.気象・気候分野については,大気大循環に関する用語・説明の範囲,および気候区分に関する記述の違いを中心に報告する.<br><br>2. 用語問題の類型<br>発表者らは用語問題を以下の3つの類型に分類している.<br>類型I)科目内の違い&hellip;&hellip;同一科目内において,同じ内容を示す用語が教科書会社によって異なっているもの.大学受験など,科目内で統一した知識が必要となる際に障壁となる.<br>類型Ⅱ)間の違い&hellip;&hellip;同じ内容を説明しているにも関わらず両科目間で用語が異なる.地理・地学の連携を行う際に障壁となる.<br>類型Ⅲ)学術用語との違い&hellip;&hellip;学術界で死語となった,あるいは変更されて現状で使用が不適切な語.大学での教育を含む日本国内の知識理解の向上のために使用を改めたい.<br><br> この類型に加えて,異音同義語(同じ定義だが異なる用語)と同音異義語(異なる定義だが同じ用語)の分類も重要である.学習者にとってはどちらも混乱を生じるものであるが,前者の問題は同じ定義であることを確認できれば解消しうるものの,後者は学術的に極めて不適切といえる.&nbsp;<br><br>&nbsp;3. 改善に向けて<br> 将来的には「地理」「地学」両領域にまたがって用語の用例・相違の状況を把握できるように,用語の状況を整理・統合して公表しているデータベースの構築が望ましい.文部省発行『学術用語集』のように一時点での情報で,かつ情報がその持ち手に限られる媒体のみではなく,情報を閲覧しやすく,更新しやすいオンライン形式であれば,教員,教科書会社,大学入試作問者,学習者である生徒も使えるものとなろう.&nbsp;<br><br>【文献】<br>池田 敦 2016. 月刊「地理」, 61 (2): 98-105.<br>岩田修二 2013. E-Journal GEO, 8 (1): 153-164.<br>尾方隆幸 2017. 月刊「地理」, 62(8): 91-95.<br>山本政一郎・小林則彦 2017. 月刊「地理」, 62(9): 印刷中.
著者
北島 晴美 太田 節子
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.138, 2005 (Released:2005-07-27)

1.はじめに 筆者らは,これまで都道府県別平均寿命(0歳平均余命)と気候との関係を,『メッシュ気候値2000』(気象庁)を使用して分析し,_I_期(1923, 1928, 1933)には,男・女の平均寿命と降水量には有意な相関関係がみられることから,降雪量の違いが_I_期平均寿命の地域差に影響した可能性を確認した。_II_期(1955, 1960, 1965, 1970, 1975)には,男・女の平均寿命は,全年を通しての月平均気温(日最高,日最低,日平均気温)と正相関があり,最深積雪と負相関がある。_II_期に見られた平均寿命と気温,最深積雪との相関関係は,_II_期の前半までの全国の状況を反映したものと推察された。_III_期(1980, 1985, 1990, 1995, 2000)には,男女の平均寿命は気候要素とほぼ無相関であった(北島・太田,2004)。 _III_期には,平均寿命と気候には相関関係が見られないが,高齢者に限れば冬季の気候条件の違いが戸外での活動を制限し老化の進行に影響する可能性があり,高齢者の平均余命は,全ての年齢階級の死亡率を反映した平均寿命よりも気候の影響を受けやすいと考えられる。 本研究の目的は,高齢者の平均余命が_I_期,_II_期において平均寿命よりも気候条件と関連していたのか,_III_期において高齢者の平均余命は気候条件と関連があるのかを,長期間のデータから明らかにすることである。2.研究方法 北島・太田(2004)と同様の資料から,_I_期,_II_期,_III_期について,都道府県別高齢者平均余命分布図を作成し,平均寿命の分布とどのような違いが見られるのか調べた。 次に,各期間で都道府県別高齢者平均余命は気候要素とどのような相関関係を持つかを検討した。 さらに,各期間の特徴を詳細に検討するために,13年分の65_から_80歳の平均余命と気候要素との相関係数の変遷を調べ,特徴的な相関関係を示した気候要素について,高齢者の平均余命に及ぼす影響を考察した。3.高齢者の平均余命と気候要素との相関係数の変遷 日平均気温(年平均)と平均寿命および65歳平均余命との相関係数(図1)は,平均寿命,65歳平均余命とも_II_期に最も相関が強く,_III_期に最も弱い。_I_期には両者の中間的な値を示す。平均寿命よりも65歳平均余命の方が日平均気温と相関が強い。平均寿命は_III_期には日平均気温と有意な相関関係がないが,65歳平均余命は1985年まで日平均気温と有意な相関関係がみられる。 年最深積雪と平均寿命との相関係数(図2)は,_I_期に最も負の相関が強く,_II_期,_III_期には次第に相関が弱くなり1990年以降は相関係数が0前後となった。65歳平均余命では,_II_期に最も負の相関が強く,その後次第に相関係数が0に近づく。_II_期,_III_期において,平均寿命よりも65歳平均余命の方が年最深積雪と相関が強い。平均寿命と年最深積雪に有意な相関関係がみられるのは,1965年(男性)あるいは1970年(女性)までであるが,65歳平均余命は1980年まで有意な相関関係がある(図2)。75歳平均余命は1985年まで,80歳平均余命は1990年まで有意な相関関係がみられる。 以上のように,高齢者の平均余命は,_I_期の最深積雪を除いて平均寿命よりも気候との相関関係が強く,_III_期初めまで気温・最深積雪と有意な相関関係があった。また,高齢になるほど,有意な相関関係が最近まで持続する傾向があった。北島晴美,太田節子 2004:都道府県別平均寿命の分布の変遷と気候の影響.信州大学山地水環境教育研究センター研究報告,3,53‐75.
著者
山崎 福太郎
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

<b>はじめに</b><br>中世末から現代にかけて三味線を携えて地方を巡業し,興行を催して喜捨を受け生活していた瞽女(ごぜ)と呼ばれる女性視覚障害者が全国各地に存在していた.特に新潟県の瞽女は明治20年代に500人ほど存在し(ジェラルド・グローマー,2014),その後,昭和30年代まで活動を続けていたが,社会の変化に対応する形で現在はその姿を確認することはできない(鈴木,2009).瞽女は師匠から三味線や唄を口承伝承で習うため幼少期に入門し,一人の師匠を中心とした集団を形成して,その集団単位で巡業に出掛けていた.その瞽女集団の複数の存在が新潟県内で確認され,記録されている(鈴木,1972;斎藤,1975など).瞽女の存在については歴史資料の記述や聞き取り調査による報告など記載的な研究のみであり,瞽女集団の形成や巡業範囲などの空間的・時間的変化を検討した研究はほとんどない.そこで本研究では,新潟県内に展開した瞽女の出身分布と巡業範囲,設定時代ごとの各集団の変化について,分布・巡業範囲の特徴,集団と出身分布の位置関係から分析することで,瞽女集団の特徴を地理学的に考察した.<br><b><br>結果と考察<br>集団の形成とその出身分布</b>&nbsp;<br>新潟県内において既存資料から確認できた瞽女集団8組468名の出身分布を分析した.その中でも長岡組と高田組は大きく,出身者も広範囲の分布が確認された.他組の出身者も大規模組の分布範囲と重複する形で各平野内に展開していた.小規模組と大規模であった長岡・高田組を比較すると組織形態や修行年数,弟子の取り方等の類似性が確認できたことから,長岡組と高田組が各平野において影響力を有し,小規模組は大規模組の組織制度等を模倣し,取り入れていたと考えられる.<br><b>時代における集団人数&nbsp;</b><br>瞽女の生存者数は明治後期にピークを迎え,その後,昭和戦後に向かって減少していく特徴がすべての組で見られる.減少の理由は瞽女を生産向上の民間信仰対象として受け入れていた養蚕業の衰退,娯楽・情報の普及等に伴うものとされる(鈴木,1974)ことから,全国の収繭量の推移とラジオ普及率の推移を確認した.収繭量は明治から増加傾向であったが,1931年から1947年の期間で減少している.ラジオ普及率は大正から1944年にかけて高くなっていた.このことから,瞽女の減少は巡業先の受け皿となっていた養蚕農家の衰退とラジオの普及による農村部における娯楽の多様化が進んだことと対応していた可能性が高いと指摘できる.<br><b>巡業範囲の空間分布</b>&nbsp;<br>長岡組と高田組の巡業範囲は米山山地を境に東西に分けられていたが,東頸城地域においては重複が見られた.東頸城地域の重複は既存研究でも指摘されるが,分析の結果,街道に沿って約30kmの入会地の存在が確認できた.この原因としてはおそらく山間地において瞽女を受け入れた住民が寛容であり,かつ積極的に瞽女が持つ情報や芸能を受け取ろうとしていたために巡業の共有地が形成されたと考えられる.&nbsp;<br><b><br>まとめ</b><br>新潟県の瞽女集団は峠を越えて県外巡業に出ていた報告があるため,山地は物理的に越えられない障害ではなかった.県内では山地を越えて,他集団の分布・巡業範囲に入ってしまわないよう勢力範囲の境界を遵守した結果を反映しており,その特徴は出身分布にも見られる.新潟県における瞽女集団は互いの存在を意識した上で組織展開していたことが改めて示された.
著者
クイ レ ゴック フォン 金 どぅ哲
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

本研究は,ベトナム中部のフエ省におけるビンディエン水力発電ダムの建設に伴う,集落の水没と移転,そしてその過程で行われた補償を題材に,ベトナムにおける土地問題と少数民族の地域ガバナンスを考察したものである。ビンディエン水力発電ダムの建設によって移転を余儀なくされたボホン集落はベトナムの少数民族であるカトゥ族によって構成され,ダム建設前まで慣習的な土地所有と利用を続けてきた。ところが,ダム建設による移転過程で,伝統的なガバナンスの物的基盤であった総有的な土地資源がなくなり,その結果長老を中心とする伝統的な地域ガバナンスが急激に解体されていった。また,配分された土地では従来のような生計を営むことができず,若年層を中心に出稼ぎが増えており,コミュニティ自体の存続すら危ぶまれる状況である。
著者
髙﨑 章裕
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

本研究の目的 基地問題を含めた沖縄の環境問題研究については、多くの場合、保護・保全という側面ばかりが強調されてきた。それは、沖縄の豊かな環境や生物多様性が乱開発や基地建設に脅かされることで、「現場」における緊急な保護・保全の対応が求められたからである。言い換えれば、市民が「現場」での対応に追われたことで、環境と地域住民のローカルな関係性が評価されることは少なかった。そこで本研究では、沖縄県国頭郡東村高江におけるヘリパッド建設反対運動を事例として取り上げ、座り込み運動がもつスケールの重層性に注目しながら、どのようなアクターが「高江」といかなる関係性を持って運動を展開していったのかについて明らかにすることを目的とする。高江ヘリパッド建設問題 研究対象地域である沖縄県東村高江区は、沖縄県北部のやんばると呼ばれる地域に存在する。やんばるとは、イタジイを主とした亜熱帯照葉樹林に包まれ、固有種を含む多種多様な生物によって特異な自然生態系を形成し、国指定特別天然記念物ヤンバルクイナ、ノグチゲラなども生息しており、やんばるの国立公園化と世界遺産を目指す取り組みもおこなわれている。高江の世帯数は約60戸、人口は約150人で、人口の約2割が中学生以下である。このやんばるの森では、1957年よりアメリカ海兵隊による北部訓練場の使用が始まり、その規模は総面積約7,800ヘクタールにも及ぶ。ベトナム戦争時には、高江区住民をベトナム現地の住民に見立てて戦闘訓練が行われた地域でもある。1997年のSACO合意によって、北部訓練場の約半分(3,987ha)を返還する条件として、国頭村に存在するヘリパッドを東村高江へ移設することが計画され、2007年に那覇防衛施設局(現沖縄防衛局)によって工事が着工されることになる。高江区は区民総会によって二度にわたる反対決議を行っているにも関わらず、工事が進められたことで、住民は2007年7月から座り込みをはじめ。現在もなお続けている。座り込み運動の展開とスケールの重層性 高江における座り込み運動はまず「ヘリパッドいらない住民の会」による「地元」の住民によるものが挙げられる。有機農家や伝統工芸、カフェ経営など、より静かな環境を求めて高江に移り住んできた家族世帯で構成されており、日々の暮らしと密接なつながりがあるという点で「生活環境主義」に近い立場と考えられる。次に挙げられるのが、労働組合や政党の運動組織などの組織的動員によるもので、例えば、社民党・社大党系の社会運動団体である沖縄平和運動センター、共産党系組織による統一連、大宜味村九条を守る会など、左翼活動家による反基地運動としての座り込み運動も行われている。またやんばるの森を守るために、環境影響評価の再実施を求める沖縄環境ネットワーク、奥間川流域保護基金、沖縄・生物多様性市民ネットワークといった環境運動としてのアプローチも見られる。さらに移住者・旅行者を歓迎するという高江の地域性も相まって、非正規雇用や無職の若者、バックパッカーといった者たちが高江の情報を得て、インフォーマル・セクターとして高江集落内で住民と共に労働作業を行いながら、座り込みにも参加するというケースも数多く見られることも高江の運動の特徴である。その大きな影響を与えているのが、音楽やアートといった文化的アプローチから高江の現状と座り込み運動の意義を全国に発信していく地元アーティストを介した全国的なネットワークとイベントの企画である。このように高江における座り込み運動は、「高江」という極めてローカルな場所にも関わらず、運動のアクターや性質に応じて、重層的な側面を有していることが明らかとなった。本報告では、高江の事例におけるスケールの重層性についてさらに詳しい考察を加えたい。
著者
菅 浩伸 浦田 健作 長尾 正之 堀 信行 大橋 倫也 中島 洋典 後藤 和久 横山 祐典 鈴木 淳
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2012, 2012

海底地形図や空中写真から沈水カルストの存在は指摘されていた。しかし,多くは陸上の露出部によって沈水カルストであると認識されており,海底の地形図は提示されていない。浅海域の地形を具体的に可視化することは難しく,地形の広がりについて議論されることは世界的にもなかった。本研究では石垣島名蔵湾中央部の1.85km&times;2.7kmの範囲でワイドバンドマルチビーム測深機R2 Sonic 2022を用いた三次元地形測量を行い,沈水カルスト地形を見いだした。本発表では測深によって作成した1mメッシュの詳細地形図を基に,潜水調査結果などをあわせて,大規模かつ多様な形態をもつ名蔵湾の沈水カルストについて報告する。<BR><br> 測深域では多数の閉じた等高線をもつ地形が可視化された。類似の地形はサンゴ礁地形など海面下で形成される地形になく,スケールもサンゴ礁の微地形より大きい。このため閉じた集水域より,地下水系によってつくられた地形,すなわちカルスト地形と判断できる。ここでは以下の5つのカルスト地形が認められ,これらがブロックごとに異なったカルスト発達過程を反映しているようである。 1) ドリーネカルスト,2) 複合ドリーネおよびメガドリーネ,3) コックピットカルスト,4) ポリゴナルカルスト,5) 河川カルストである。名蔵湾ではこれらのカルスト地形が現成の礁性堆積物によって覆われ,海底の被覆カルストを形成する。この過程で「カレン」のような規模の小さなカルスト地形は埋積されたとみられる。礁性堆積物の被覆により,水中の露頭で母岩を観察するには至っていない。名蔵湾でみられるような比高30mに達する凹凸の大きいカルスト地形は一般に透水性が低い石灰岩の弱線に沿って発達する。琉球石灰岩は透水性が高く,このようなカルスト地形を形成しにくい。名蔵湾の地形が頂部および旧谷底部に定高性をもつことから,母岩は陸棚で発達した第三紀宮良石灰岩ではないかと推定される。<BR><br> 本研究では名蔵湾の中央部で沈水カルスト地形が確認された。空中写真で視認できる沿岸域の地形とあわせて,名蔵湾のほぼ全域が沈水カルスト地形の可能性が高いといえる。名蔵湾は南北6km,東西5kmの広がりをもつ。この範囲は南大東島や平尾台とほぼ同じ大きさであり,日本最大の沈水カルスト地形の存在が示唆できる。
著者
岡 秀一
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

はじめに気候景観とは、気候現象がある地域的な広がりを持って、しかも目に見える姿で地表、植物、人間の生活などにその影響の痕跡を残したものである(青山ほか 2009)。2012年春季学術大会シンポジウムでも報告されている通り,日本の現在および過去の気候はきわめて特徴的であり、地形や植物、人間生活などに大きな影響を与えている。これらの姿かたちを仔細に注目すれば,その影響の内容や程度を読み解くことも可能である。このような気候景観の視点は、地域の様々な資質を背景にしており、大地の遺産を理解する視点としても重要な意味を持つのではなかろうか。本報告では気候景観の視点が大地の遺産選定にどうコミットできるのか、対馬の石屋根板倉の発達過程を紐解きながらその試案を述べる。板倉とは 日本海南西端に位置する対馬の集落の一角には板倉が敷設され、独特な景観をつくっている。板倉は湿度を適切にコントロールし、すぐれた貯蔵機能を持っている。中には衣類や食料、季節的な用品などが収納される。この板倉は火災に弱いのが難点である.対馬では冬や春に強風に見舞われ、大火が頻々とした歴史を持つ。住居は山麓に沿って風を避けるように立地しているのに対し、板倉は居住に適さない谷底の河岸や海岸沿いなど群れ、火気のある住居からは隔離されている(青山 2009)。屋根は石で葺かれているものも多い。石屋根板倉である。これは対馬が頁岩や砂岩などで構成される対州層群(漸新統~中新統)からなっており、屋根に葺く頁岩が入手しやすかったからではあるが、瓦の使用が許されなかった時代の板倉機能の維持と強風対策、火災防備に大いに貢献してきた。石屋根板倉の存在は強風環境の反映でもあるのだ。板倉の有無 集落単位でみると板倉が発達している集落と発達していない集落があることが分かる。これは土地所有と深いかかわりを持っている。対馬では寛文年間(1661~1673)に農地制度や税制の改革が行われた。これは島を郷村と府中に分け、郷村には郷士を置き給人として防衛の任に当て、少しばかりの土地を与えて自給生活をさせる一方、その他の土地は公領として村の百姓の戸数に分けて耕作させるものであった。耕地を所有する農民は、地先と呼ばれる磯で藻をとる権利や網漁権を持った。これらの農民は給人とともに本戸と呼ばれた。多くの権利を有していた本戸は相続人にのみ引き継がれ、分家したり漁業のために他国から移り住んだものは寄留戸と呼ばれてこのような権利は一切所有することができなかった(青山 2009)。本戸の多数占める集落と寄留戸からなる集落を比べてみると、前者には多数の板倉が見出されるのに対し、後者では皆無だったり、数はきわめて少ない。板倉の分布 1990年代の調査では板倉は全島的に見出された(岡 2001)。とくに北東部には新築の板倉が目立つ。しかし、石屋根をもつものに注目すると西岸域に偏在している。これは何を物語るのか。対馬の地形をみると、分水界が東偏していることが分かる。傾動的隆起・沈降が生じた結果である。西岸域に流出する河川は、東岸域に流出するそれと比べ大きく、谷底平野は西部に広く分布し、水田は西岸域に広がっている。必然的に本戸からなる集落は西岸域に成立したはずである。したがって板倉も発達したに違いない。しかし、西岸は東岸に比し風が強い。浅茅湾や南西部の豆酘は石材の切り出し地となっており、石屋根に供する石材の入手は容易であった。強風対策として石屋根板倉が発達する道理である。一方、漁業を生業とせざるを得なかった寄留戸は平地の少ない風の比較的弱い東岸に居住せざるを得なかった。このすみ分けに基づけば、もともとは板倉は島の東西で大きく偏在していたに違いない。だが昭和24年、新漁業法の施行により地先の買い上げで占有権がなくなり、離島振興法による港湾整備も相まって自給的農民の兼業漁民化が進み、本戸と寄留戸のすみ分けが不明確になっていった。その結果、無差別的な板倉の普及が全島に進行したのであろう。対馬における板倉の分布形成にはこのような背景があり、その中で強風環境が景観形成に寄与しているとみなすことができる。石屋根板倉に象徴される対馬は大地の遺産にふさわしい 対馬の石屋根板倉は西岸域に偏在する。そこには地質や地形の成り立ちと、それらに規制され、またそれらを利用しながら生活する人々の生産様式・生活様式の複合的な関わり合いという背景があり、強風環境が相まって形成された景観であるといえよう。気候景観分析の視点は大地の遺産選定にあたっても有用であり、石屋根板倉を持つ対馬は大地の遺産としてふさわしいと考える。
著者
橋詰 直道 稲田 康明
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100047, 2016 (Released:2016-04-08)

本研究は,東京大都市圏の超郊外地域に位置する静岡県田方郡函南町の別荘地南箱根ダイヤランドを事例に,定住化に伴う高齢化の実態と居住環境に関わる諸問題について,これまでの調査結果と比較しながら明らかにしようとしたものである。調査では,この別荘地の管理会社から,開発の経緯と現状を聞き取り調査し,ダイヤランド区民の会の協力を得て,2014年9月に戸建て定住世帯と別荘に対してアンケート調査を実施した。その結果は,以下のように要約できる。 アンケート回答定住世帯(202世帯)の世帯主は,8割近くがリタイアした「無職」の世帯で(平均年齢72歳),いわゆる退職移動に伴うリタイアメント・コミュニティを形成している。この別荘地を購入し,転入を決めた理由に「富士山の眺望」と「温泉付き」を魅力としてあげた世帯が多いことがこの別荘地の特徴である。この高齢定住者の多くは,主に首都圏から定年退職を機に,富士山の見える自然の中で,ガーデニングや家庭菜園,ゴルフなどの趣味を楽しみながら第二の人生を満喫することを目的に「アメニティ移動」をした富裕層を中心とする住民達である。彼らの多くは,趣味をとおして「リゾート型リタイアメント・コミュニティ」を構築しているが,別荘地であるが故の不満や将来の生活に対する不安も抱えている。例えば,住宅地内では雑草や樹木の管理,空き地管理などに,環境面では,バスの便や,食料品・日用品の購入などに対して不満を持ち,近い将来「車が運転できなくなった時への不安」が常に付きまとっている。それでも約6割の住民が,この別荘地に「永住する」と回答しているのは,彼らにとってこの場所が不満や不安を忘れさせてくれる豊かな自然と眺望,趣味が楽しめる「楽園」であるからであろう。しかし,既に定住者の高齢化率が53%を超えていることを考え合わせると,老人保健施設が未整備の別荘地では,加齢とともに生活の不安や不満が増すことになり,転居して第三の人生を送る場所を探し始める居住者も少なくない。このことは,千葉県や栃木県の事例(橋詰,2013;2014)と同様,超郊外地域の別荘地ならではの共通の課題を抱えていると言える。
著者
米島 万有子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

<b>1.研究背景と目的<br></b> 終戦後まもなく蚊の発生原因としてみなされていた彦根城堀の一部の埋め立ては,マラリア防疫の偉業として知られている(小林1960).しかし,その埋め立てが実際に蚊の発生を抑制した程度は不確かである.さらに,彦根城堀の埋め立てをめぐり衛生土木事業による歴史的景観を問題視する一部の住民組織と行政が対立した経緯も明らかになっている(米島2011).このような歴史的景観としての堀の環境衛生問題は,過去の出来事に限定されない.京都新聞の記事(2010年5月3日付 二条城が蚊の「大量発生源」?住民指摘、京都市が生息調査)によれば,2009年の秋に二条城北側周辺の住民から「蚊が多い」こと,さらに堀を蚊の発生源と指摘する意見が寄せられ,堀に環境衛生上の問題を懸念する意見が表明された.京都市は蚊の発生調査を実施し,記事が掲載された5月の時点において幼虫は確認できなかったとされている.しかし,住民の蚊の被害実態や堀についての歴史的景観としての評価ならびに環境衛生問題への懸念について明らかにされていない点が多い.そこで,本研究は郵送質問紙調査により,二条城周辺の住民の蚊による被害実態および蚊の発生をめぐって堀に対する意識を明らかにし,堀の景観保全と健康・公衆衛生との関係を検討する.<br><br><b>2</b><b>.研究方法<br></b><b></b> 調査は,二条城北側の住宅地から蚊の発生に対する苦情が寄せられたことから,二条城の北側に位置し,堀川通,千本通,竹屋町通,丸太町通の範囲内にある,京都市上京区の12町を対象とした.調査票の配布対象は,これらの町内にある全住宅および事業所2,853軒である.調査票は,指定した地域のポストが設置されている住宅,事業所全て(郵便の受取拒否をしている場合を除く)に配布できる日本郵便のタウンプラスを用いて,2013年1月下旬に上記の町内全戸に郵送配布し,郵送で回収した.調査票の回収数は882通(30.9%)であり,そのうち自宅752通(85.3%),事業所70通(7.9%),自宅兼事業所47通(5.3%),その他7通(0.8%),無回答6通(0.7%)だった.<br><br><b>3</b><b>.結果<br></b><b></b> アンケート調査の結果,蚊による吸血被害に「毎日」あるいは「2,3日に1回」の高頻度で遭っている回答者が全体の48.2%を占めた.特に高頻度の吸血被害は,二条城の堀に隣接しない町(42.6%)よりも,堀に隣接する町(54.5%)の居住・勤務者の方が多い.また,自宅ないし事業所敷地内で蚊に刺されることについて,気になるという回答率は71.1%にのぼった.すなわち二条城北側の住宅地,とりわけ堀と隣接する町では,蚊に悩まされていることが明らかになった.京都市が二条城堀において蚊の発生調査を行った結果,蚊の発生は認められなかったことを伝えた上で,堀が蚊の発生源になっていると思うかについて問うたところ,高頻度で蚊の吸血被害を受けている人ほど堀が蚊の発生源と認識している傾向があった.<br> 次に,二条城の堀から蚊が発生する疑いを受け,堀に対してどのような対策をとった方がよいのかについて質問した.ここでは,A:現段階で,堀から蚊が発生する可能性に備える場合,B:将来,堀から蚊の発生が確認された場合,C:将来,堀から発生した蚊からウエストナイル熱ウイルスが確認された場合の3つの状況を設定し,それぞれの好ましいと思う対策について回答を求めた.その結果,Aの蚊の発生がない段階では,将来の蚊の発生を未然に防止する対策には消極的であった.しかし,C堀から発生した蚊からウイルスが検出される状況では,「堀を埋め立てる」べきとの回答数が著しく増加した.他の質問項目と照らしてみると,地域住民は,城(建造物)と堀をひとまとまりとして,歴史的価値ないし観光資源としての価値を認めてはいるものの,感染症という脅威にさらされた場合には,彦根市のマラリア対策と同様に,健康・身の安全を守るためには堀を埋め立てる選択肢もやむを得ないと考える意見も多く示された.<br><br><b>4</b><b>.おわりに<br></b><b></b> 蚊による被害を受けている人ほど堀を蚊の発生源としてみなしている傾向があり,堀の水の衛生環境が悪い印象を与えていることが考えられる.また,堀の景観上の価値を認めつつも,仮に堀が原因で健康に支障が生じる場合には,保全よりも堀の埋め立てを推進する意見がみられることから,彦根の事例と同様に堀の保全と衛生的と思われる環境の形成との間には,潜在的に対立しうる関係が認められる.歴史的景観としての堀の保全には,その景観が「衛生的である」ことにも配慮する必要がある.
著者
長谷川 直子 宮岡 邦任 元木 理寿 大八木 英夫 谷口 智雅 戸田 真夏 山下 琢巳 横山 俊一
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100036, 2013 (Released:2014-03-14)

2013年春の日本地理学会において、地理学の社会的役割を考えるというシンポジウムが開催された。発表者の何人かは、一般の人に地理学的な視点(広い視野、総合的な視点、現象間の関係性を理解する)がないことが問題であると指摘していた。それでは一般の人にそのような視点を持ってもらうためにはどうしたら良いか。具体的に何か作成し、普及できないか。そのような視点に立ち、筆者らは2013年春から研究グループを立ち上げて活動を開始している。地誌学的な視点の一般への普及の手段として、地誌学の視点から地域を理解する教材を子供向け(義務教育における副読本や教員向け実践実例集等)と大人向け(旅行ガイドブック)に作成できないか考えた。現在市販されているガイドブックを地誌学の視点から眺めると、単なるスポット・事象の羅列になっており、スポット間の関係性や、スポット・事象がそこに存在する理由などの地誌学的説明が見られない。旅行ガイドブックにこれらの説明をうまく入れられれば、旅行者がガイドブックを読むことで地誌学的視点が身に付くようになるのではないかと考えられる。そして、観光ガイドブックにどのように項目を取り上げ、地誌学的な記載をするかについて、検討を行った。
著者
山本 晴彦 岩谷 潔 張 継権
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.210, 2005 (Released:2005-07-27)

中国東北地区(戦前の旧満州、以下「満州」と称す)に広がる畑作地帯はダイズ・トウモロコシなどの穀物の大生産地であり、わが国へも輸出されている。地球温暖化に伴う高緯度地帯の気候変動に基づく収量予測を行うには、長期間の気象観測資料の収集・分析が必要である。ここでは、戦前の満州における気象観測業務の変遷と気象資料の保存状況の調査、満州気象デジタルアーカイブの構築について紹介する。満州における気象業務は、わが国が日露戦争に際して軍事上の目的から、中央気象台(現在の気象庁)が1904年8月に大連(第6)・營口(第7)、1905年4月に奉天(第8)、5月に旅順(第6・出張所)に臨時観測所を設けたのが始まりである。その後、これらは関東都督府に引き継がれ、名所変更をはじめ、長春、四平街、周平子等に測候所や支所が開設された。1925年以降は、南満州鉄道株式会社(満鉄)に一部を委託し、満鉄委託観測所が開設されて気象業務の充実が図られた。満州国設立当時には、関東観測所(大連)、関東観測所支所(旅順・營口・奉天・四平街・新京)、満鉄委託観測所(鞍山・開原・撫順・鄭家屯・林西・洮南・齊々哈爾・哈爾濱・海倫・鳳凰城・海龍・敦化)が設けられていた。建国以降は、新京に中央観象台を設置し、黒河・海拉爾等に観測業務が開設されたが、1937年12月、治外法権の撤廃及び満鉄附属地行政権の委譲に伴って、旅順・奉天・四平街・新京の4支所は満州国に委譲された。1940年の満州気象月報によれば、観象台(所)は新京の中央観象台を含めて42ヶ所、簡易観測所が126ヶ所となっている。大連の関東観測所は、関東気象台官制(昭和13年勅令第705号)により、関東気象台として引き続き気象業務を施行している。わが国が満州における気象業務を開始する以前、ロシアは満州を横断する東清鉄道を敷設し、1898年に哈爾濱_-_大連間の南満鉄道の敷設権と関東州の租借権を獲得していた。ロシアは、この年に東支鉄道建設局において哈爾濱に気象観測所を設置し、さらに10数ヶ所の気象観測所を設けていた。東支鉄道は、満州国建国とともに北満鉄道と改称し、1935年3月調印の満ソ条約に基づき満州国に委譲された。筆者らは、三菱財団平成15年度人文科学研究助成を受けて、山口大学経済学部の東亜経済研究所、気象庁図書館、国立国会図書館、広島大学附属図書館気象文庫、北海道大学附属図書館旧外地関係資料(北方資料データベース)の膨大な満州関連の資料から、気象観測記録に関わる資料を収集(図2)・整理(表1)し、データベース化を行っている。中国では「旧満州 東北地方文献職合目録」が大連市・黒龍江省図書館が編者となり出版されているが、中国の図書館における旧満州の気象観測記録に関わる資料の蔵書数はきわめて少ない状況にある。また、中国国家気候資料センターの所蔵資料も1940年以降の気象資料は見当たらないのが現状である。1940年までの月データについては満州気象資料と東亜気象資料に掲載されている。デジタルカメラで資料を撮影し、OCRソフトを用いて画像のデジタルデータベース化を進めている。未掲載データを満州気象月報(図2)で補完し、2005年3月には完成する。1941年3月以前の気象観測の日データについては、主要都市においてデジタルアーカイブの構築を予定している。
著者
加藤 隆之 日下 博幸
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.8, 2013 (Released:2013-09-04)

1.はじめに斜面温暖帯の研究は古くから行われ、近年ではKobayasi et al (1994)は夜間の斜面上複数地点の鉛直気温分布を明らかにする実測的研究を行った。また、斜面冷気流、斜面温暖帯、冷気湖が動的相互作用を示すために斜面温暖帯を単独では考えられないことについても明らかにされている(Mori and Kobayasi 1996)。しかしながら、斜面温暖帯の詳細な時系列変化について、上空の風の場を含む観測や高解像度化した数値シミュレーションによる検証は現在まで行われていない。本研究は筑波山を例として、斜面温暖帯と斜面下降流の詳細な構造の時系列変化を観測と数値モデルにより明らかにすることを目的とする。2.斜面温暖帯の観測筑波山での斜面流・温暖帯の実態を明らかにするため2012年12月9日よりウェザーステーション、サーモカメラ、パイバル、係留気球を用いた観測を行っている。本観測は、斜面流・斜面温暖帯の時間変化を気温・風の鉛直分布という双方の視点から捉えることが可能である。12月13日夜~14日の早朝の事例では、筑波山斜面南および北西斜面において顕著な斜面温暖帯が観測された。12月13日21時の筑波山西側斜面のサーモカメラによる表面温度分布(図1左)によれば、標高200~300m付近に上下よりも3℃程温度が高い斜面温暖帯が存在している。一方、14日5時(図1右)のサーモカメラによる観測では、標高400~500mに帯状に高温帯が出現している。この時の斜面温暖帯は、前日21時のものよりも温度差としては小さく、その強度は1.5℃程度である。3.斜面温暖帯の数値実験数値モデルには階段地形を導入した二次元非静力学ブジネスク近似の方程式系を採用した。このような数値モデルは筑波山のような斜面の角度が複数段階となっている地形の斜面温暖帯の時間変化について議論が可能である。計算対象領域を水平20km、上空2500mとし、基本場の温数位勾配を0.004K/m、上空の地衡風を0m/sに設定した数値シミュレーションを行った。実験の結果から、十分に時間が経った山麓(計算開始5時間後)では地上に冷気湖が形成され、基本場の気温逓減率によって冷気湖面上部の斜面上に相対的に気温が高くなる斜面温暖帯が再現された(図2)。この結果は斜面温暖帯が冷気湖面の高度に対応しているという従来の研究結果と合致する。風速分布のシミュレーション結果からは冷気流の流入が活発になる高度と斜面温暖帯が同一であることや、冷気湖の発達により冷気湖面より下部に位置する地点では湖面上部と比較して風速が弱くなる様子が再現された。また、斜面下降流に対する補償流は、主に山地上部の水平方向から供給されており、斜面温暖帯形成要因として鉛直方向からの上空の高温位空気の流入(断熱圧縮による気温上昇)はないものと考えられる。
著者
久野 勇太 日下 博幸
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

1. はじめに<BR> 日本有数の大都市である名古屋が位置する濃尾平野およびその周辺では, 1時間に数十mmにも及ぶ強雨が度々観測されており, 研究が行われてきた. 統計解析を行った研究としては, 以下のようなものがある. 田中ほか(1971)は, 1961~1965年および1968年の計6年間において, 東海地方4県(静岡・愛知・岐阜・三重)の中で日雨量200 mm以上を観測した地点が1か所以上存在した計41日に対して, 名古屋のレーダーによるエコーセルの移動方向と雨量図との関係を調査した. 小花(1977)は, 1975~1976年の計2年間の5~10月に関してアメダスデータを用いて, 東海地方における強雨の発生域と潮岬の下層風向・混合比・不安定度との関係を調査した. 田中ほか(1971)と小花(1977)はともに, 濃尾平野周辺の山地における風上側に強雨域が見られることを示した. このように, これまでの研究の多くでは, 濃尾平野周辺で発生する降水に関して, 風向と降水発生域の関係性に著しい調査がなされてきた. 強雨による災害への対策のためには, さらに空間的・時間的に詳細な降水分布や強雨が発生しやすい時間帯の把握が, 重要であると考えられる.<BR> 本研究では, 空間的・時間的に高密度な観測データを用いて, 夏季の濃尾平野周辺における降水の発生分布・発生時間帯の特性を明らかにすることを目的とする.<BR><BR>2. 方法<BR> 本解析では, アメダスデータおよび愛知県・岐阜県の川の防災情報の10分間雨量データを使用する. 解析期間は, 2002~2009年の6~9月の全日(計976日)および真夏日(計510日)とする. また, 日界は日射の効果を考慮し, 日の出の時刻として06時(日本時間)と定めた. 解析に際して, 強雨日・短時間強雨日をそれぞれ, 以下の条件を全て満たす日と定義する.<BR> 強雨日:<BR> 1) 10 mm/h以上の1時間降水量(連続する6つの10分間降水量の合計値, 以下P_hour)を記録した日.<BR> 短時間強雨日:<BR> 1) 10 mm/h以上のP_hourを記録した日.<BR> 2) 短時間強雨開始時刻から短時間強雨終了時刻までが3時間以内.<BR> 3) P_hourが10 mm/h以上の期間の前後6時間に, 10 mm/h以上の降水が観測されていない.<BR>これらの定義において, 濃尾平野周辺における月平均降水量・強雨日出現確率・短時間強雨日出現確率を調査する. さらには, 濃尾平野周辺における, 強雨・短時間強雨の発生時間帯, 日最大1時間降水量の降水量別頻度を調査する.<BR><BR>3. 結果と考察<BR> 2002~2009年の6~9月における濃尾平野周辺の降水分布および降水発生時間帯の特徴として, 以下の点が挙げられる.<BR>1) 濃尾平野より北~北東側の山地において, 標高の高い地域を除いて, 月平均降水量・強雨日数・短時間強雨日数が多い.<BR>2) 濃尾平野における月平均降水量・強雨日出現確率・短時間強雨日出現確率は, 伊勢湾を囲む他の低標高地域における月平均降水量・強雨日出現確率・短時間強雨日出現確率に比べて値が大きい. さらには, 濃尾平野内でも北部の方がより値が大きい傾向にある.<BR>3) 濃尾平野より北東の山地では, 解析対象期間・真夏日ともに,10 mm/h以上の強雨・短時間強雨の発生は夕方に顕著なピークを持つ. また, 傾向は小さいものの, 濃尾平野内でも真夏日の夕方に10 mm/h以上の強雨の発生ピークが見られた.<BR><BR>謝辞<BR> 本研究は,文部科学省の委託事業「気候変動適応研究推進プログラム」において実施したものである.<BR><BR>参考文献<BR>田中勝夫・深津林・服部満夫・松野光雄 1971. エコーの移動方向で分類した東海地方の大雨の型. 気象庁研究時報 23:431-443.<BR>小花隆司 1977. 東海地方の強雨と地形(Ⅰ). 天気 24:37-43.<BR>
著者
谷口 智雅 濱田 浩美 Bhanu B.Kandel 岡安 聡史
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

高濃度のヒ素が検出されるテライ低地のナワルパラシ郡パラシの東西約6km、南北約10kmの地域において、地下水の動態とその利用の実態を把握するために、地下水調査を実施している。この地域における生活用水の水源の多くは地下水に依存しており、各家庭で掘られた井戸や共同井戸から地下水が汲み上げられている。井戸は伝統的な開放井戸と15年ほど前から掘削の始まった打ち込み井戸に分類されるが、その多くは打ち込み井戸が中心で、開放井戸の数や分布は限られている。本発表では、対象地域におる開放井戸について報告する。 調査地域内の25の集落を対象に地下水調査を実施し、各集落において開放井戸、掘り抜き井戸1か所を原則とし調査を行っている。その過程の中で聞き取り調査により集落内の開放井戸の有無について調査を行った。調査は2012年3月2日~6日、8月19~23日に実施した。観測項目として、現地において井戸の形状・大きさ・地下水位・ヒ素濃度・水温・pH・EC・ORP・DO等を測定した。その結果、開放井戸のある集落は未使用と見られる4つを含む15集落で、Mahuwa(地点8)については集落内に2つの開放井戸が存在していた。聞き取りによる井戸の作成年は150~200年前と回答した井戸が11箇所と非常に古くから設置されている。井戸の形状はAtharahati(地点2)の正方形、Khokharpurwa(地点4)の五角形を除き、円形である。また、Goini(地点26)の井戸は井戸自体が円形だが、前方後円噴のような型どりになっている。2012年3月の観測結果に基づく井戸概観において、井戸枠高は0.00~0.95mで、地盤高と同じ高さを除く、井戸枠の高さの平均は0.43mである。井戸底までの深さは、Mahuwa(地点8)の9.3mが一番深く、一番浅いのは井戸枠も崩れて未使用井戸であるPipara(地点9)の2.55m、使用されている井戸の中ではGoini(地点26)の3.40mであった。井戸底までの深さの平均は6.02mである。 2012年3月における地下水面までの深さは2.15~6.55m、湛水深は0.4~4.35mであった。8月の地下水面までの深さは0.94~4.73m、湛水深は1.61~4.22mであり、3月の乾季における湛水深が小さくなっている。地下水面は、乾季(3月)より雨季(8月)の方が低く、湛水深でSarawal(地点21)の4.9m差が最大、最小でManari(地点27)の0.69m、平均は1.76mであった。浅層地下水の流動形態は、地下水等高線図として示すことが有効であるが、地下水面計測および対象地域の地形や地質構造の把握が不十分なため、今回は示すに至っていない。
著者
渡辺 和之
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

ネパール国内には、チベット難民のためのキャンプが数カ所ある。その多くは、1959年、中国がチベットに侵攻し、大量の難民が押し寄せた際に作られたものである。ソルクンブー郡にも、1960年代にチャルサに難民キャンプが作られた。ここにはネパール政府の国営絨毯工場ができ、難民たちが絨毯を織っていた。1990年代に発表者がこの地域で調査していた際、定期市でチベット絨毯が売られていた。<BR> 本発表では、このチャルサのチベット絨毯の原料となる羊毛がどのような経路で運ばれ、製品となった絨毯がどのような経路で流通していったのか、2011年夏に調査した結果を報告する。結果的にチャルサの絨毯工場は1990年後半代に閉鎖されており、このキャンプでおこなわれていた絨毯産業の盛衰と当時の流通事情がわかった。<BR> チャルサの絨毯工場は、郡庁所在地のあるサレリから1時間半ほど山道を上った場所にある。難民キャンプのあるチャルサには現在では40-50人程度の人しか住んでいないが、最盛時には1000人以上のチベット人が住んでいたという。絨毯工場は難民保護の目的で設立されたものである。国営ではあるが、ネパール政府は土地を提供しただけで、実質的な経営は赤十字がおこなっていた。難民キャンプを設立する予算も、絨毯の原料となる羊毛や染料の調達、および製品である絨毯の販売もすべてスイスの赤十字が経営していた。羊毛はチベット産のものを用いていたが、これはコダリを経由し、自動車で運ばれてきたものをジリから運んできたという。染料もスイス製の化学染料を用いており、コンクリート製の近代的な染色小屋で染めていた。染色した糸を乾燥させる際も、はじめは薪を燃料に用いていたが、この地域の森林破壊につながることを危惧し、電気の乾燥機をスイス政府が用意した。できあがった製品はカトマンズに輸送し、よいものはドイツやスイスに輸出されていた。<BR> 一方で、難民キャンプで働く人々は羊毛を買ってきて自分の家で絨毯を織ることもあった。発表者が1990年代にナヤバザールの定期市でチャルサの絨毯といって売られているのを見たのは、この自家製の絨毯であった。工場で作る最高級品と比べると質は落ち、値段も工場で織った絨毯が1枚15000Rs(1990年代なかばには約3万円)したのに対し、家で織るものは1枚3000ルピー(約6千円)程度で買えた。この自家製の絨毯を織る機はthijaという。足踏み式の機であり、経糸の数は67本×2本であった。<BR> 現在では家で自家製の絨毯を織っている人はほとんどいなくなってしまい、数世帯残るのみだという。ナヤバザールの定期市で売っている絨毯のほとんどがカトマンズから持ってきたものである。サレリの役場に赴任した役人が実家に帰省する時にみやげとして「チャルサのチベット絨毯」を買ってゆくそうで、「向こう(カトマンズ)で作ったものを向こう(カトマンズ)に持ってゆくのだから、手間のかかることだ」と、地元ではいわれている。<BR> チャルサの工場が閉鎖されたのは1996年前後である。ネパール政府に払う税金(年30万ルピー)が払えなくなって工場を閉鎖したという。ちょうど1990年代は児童労働が問題になり、チベット絨毯の国際的な不買運動により、全国的に絨毯産業は衰退した頃と重なっていた。チャルサに住むチベット難民の多くはその後カトマンズに移住したという。<BR>
著者
櫛引 素夫
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

1)はじめに<br> 整備新幹線は2002年に東北新幹線が八戸開業、2010年に新青森開業を迎えるなど、2015年1月までに5路線中、3路線が営業を開始した。2015年3月には北陸新幹線が金沢開業、2016年3月には北海道新幹線が新函館北斗開業を迎える。<br> 整備新幹線の開業に際しては経済的な効果の研究が多数なされているが、地域社会総体や住民生活の変化、さらに沿線住民の評価に関する研究例は非常に少ない。<br> 発表者は2014年8~9月、青森県内の青森、弘前、八戸の3市で、住民896人を対象に郵送で新幹線の評価に関する調査を実施し、計313人から回答を得た(回収率35%)。本研究では、この調査結果に基づき、地域社会の変化を住民の視点から分析するとともに、新幹線開業の意義や地域政策としての可能性、および課題について検討する。<br><br>2)新幹線の利用動向<br> 新幹線の利用経験は、「11回以上」と答えた住民が八戸市では70%を超えたのに対し、青森、弘前両市では30%台だった。利用頻度でも、八戸市では「年に1~2回」以上と答えた人が70%を超えたが、青森、弘前両市では40%台にとどまった。新幹線開業に伴い鉄道の利用頻度が「大きく増えた」「少し増えた」と答えた人は、八戸市で半数を超えたのに対し、青森、弘前両市では30%前後だった。<br> 他方、青森市では、回答者の50%が、新幹線開業に伴い「新幹線で出かけたい気持ちが強くなった」と答え、八戸市の42%、弘前市の36%を大きく上回った。このことから、青森市でも今後、新幹線の利用が活発化し、定着していく可能性を指摘できる。<br><br>3)鉄道や地元の変化に対する評価<br> 3市とも、新幹線がもたらした変化で最も評価が高いのは「東京や仙台、盛岡との行き来が活発になったこと」である。この項目を除くと、3市の回答にそれぞれ大きな特徴がみられる。<br> 八戸市では、回答者の9割近くが「盛岡や仙台、東京への所要時間が短くなった」と評価しており、青森市の66%、弘前市の68%を大きく上回った。八戸駅は新幹線駅が在来線駅に併設されたのに対し、青森市は新駅にターミナルが移転したこと、弘前市は奥羽線で乗り継ぎが必要なことが影響しているとみられる。<br> また、八戸市では新幹線開業に伴い「市の知名度が上がった」と評価している人が48%に達し、交通面での利便性向上とは直接、関係のない「存在効果」への評価が高い。半面、「新幹線駅一帯が代わり映えしない」ことを心配する人も44%あり、2002年の開業後、駅一帯の整備や開発が大きく進展しないことへの不満や不安も大きい。<br> 青森市では、知名度の向上や観光客の増加を歓迎する回答が多い一方で、22%が「駅の利便性が低下した」と回答し、ターミナル移転への不満が強い。加えて、新青森駅前の開発が進まない現状に対し、回答者の54%が、開業をめぐって「心配なこと」に挙げ、新青森駅の景観や機能への不満はさらに強い。<br> 弘前市は、観光客の増加を評価する回答が34%と高いが、市内に活気が出ていないこと、新青森駅前の開発が進まないことへの不満が強い。<br> これらの変化に対する評価を総合して、「自分の暮らし」「自分が住んでいる市」「青森県全体」の3項目について、新幹線がもたらした変化を「良い効果をもたらした」「悪い影響をもたらした」「何とも言えない」から選択してもらった結果、同一の市でも項目ごとに評価の傾向が異なる上、市によっても評価傾向が異なった。<br> 全体的に肯定的な評価が目立ったのは八戸市で、3項目いずれも「良い効果をもたらした」という回答が40%を超えた。一方、青森市では、「自分が住んでいる市」について「良い結果をもたらした」が34%、弘前市では31%だった。<br><br>4)北海道新幹線開業への予測<br> 北海道新幹線が及ぼす変化の予測については、「自分の暮らしに良い効果をもたらす」と答えた人は3市とも20%台、「悪い影響をもたらす」と答えた人が4~6%で、7割前後が「何とも言えない」と答えた。青森県全体に及ぼす変化については、回答傾向がやや異なり、「良い効果をもたらす」が八戸市で39%だったのに対して、青森市では28%止まりだった。また、「悪い影響をもたらす」と答えた人が3市とも1割を超えた。<br> 具体的な懸念材料としては「道南・函館に観光客を吸い取られる」ことを挙げた人が3市とも最多で、青森市では63%、他の2市でも48%に達した。<br><br>5)考察<br> 新幹線開業がもたらす変化について、住民は「自分の暮らし」「自分の市」「県全体」とで異なる評価の視点を持つことを確認できた。また、「知名度の向上」など、いわゆる「存在効果」への評価も重視していること、さらには新幹線駅周辺の機能や景観が整わない「負の存在効果」にも敏感であることが確認できた。
著者
由井 義通 神谷 浩夫
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100036, 2016 (Released:2016-04-08)

1.  研究の背景と目的経済活動のグローバル化は,同時に多様な人材のグローバル化をもたらす。企業の海外進出は,本国から派遣する駐在員とともに,駐在員を支援するスタッフや彼らの生活を支援する飲食店などの各種サービスが必要となるため,企業の国際展開は,進出先に必要とされる人材を紹介する人材ビジネスの国際的展開も必然的に伴うのである(由井,2015)。日本人の海外就職者の大部分は,人材会社の就職情報をweb上で得ており,中澤(2012)によるシンガポールでの海外就職者へのインタビュー調査結果によると,日本人女性の海外就職者の大部分は,人材会社が提供するwebサイト上の就職情報を得て就職活動を行っていた。また,諸外国でもwebサイト上の人材情報が海外就職において重要な情報源の1つとなっている(Niles and Hanson 2003)。日本人女性の海外就職についてシンガポールとバンコクで調査した際に,人材会社について調査した結果,人材会社の求人情報では,いずれの都市においても男性の営業職やサービス職に求人が多かった。しかし,海外就職のために人材会社のwebサイトに登録するのは女性が多かった(Yui,2009, 由井,2015)。そこで,海外就職に重要な役割を果たしている人材会社について,人材を募集する企業が求める人材の特徴を明らかにし,また海外就職者の特徴を把握することを目的として,人材紹介会社への聞き取り調査を行った。2.    ドイツにおける在留邦人数と日系企業数 本研究は調査対象地域をドイツのデュッセルドルフとフランクフルトとした。ドイツを研究対象とした理由は,外務省の「海外進出日系企業実態調査」(2015)の結果,平成26年10月1日時点で海外に進出している日系企業の総数(拠点数)は,国別でみると中国3万2,667拠点(約48%),アメリカ合衆国(約11%),インド(約5.7%),インドネシア(約2.6%),ドイツ1,684拠点(約2.5%),タイ(約2.4%)となっており,ドイツはヨーロッパで最多の日系企業の進出先で,それに伴って日本人の就職者が多い国となっていたからである。ドイツ国内で日系企業の拠点は,ミュンヘン総領事館に677拠点,デュッセルドルフ総領事館に570拠点,フランクフルト総領事館に242拠点だが,日本に本社を置く日系企業162社のうち,デュッセルドルフには63社,フランクフルト35社,ミュンヘン31社で,日本から派遣される駐在員はデュッセルドルフに多い。3.    ドイツにおける日本人向け人材会社の概要ドイツにおいて日本人を対象とした人材紹介を行っている人材会社は5社の独占状態にあり,そのうち1社は管理職クラスのヘッドハンティングを中心業務とし,4社は日系企業や日本との取引を行う現地企業に現地採用者を紹介する業務を行っている。5社はいずれもデュッセルドルフもしくはフランクフルトに本社を置き,創業は2002~2009年で比較的新しい会社である。それぞれの人材会社の顧客に占める日系企業の割合は95~100%で,紹介実績では日系企業に日本人を紹介するのを主とする人材会社が2社,日系企業に日本人とドイツ人を紹介するのが半々となっている人材会社が2社,日系企業にドイツ人を紹介するのを主としている人材会社が1社であった。
著者
有馬 貴之
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

Ⅰ.大地の遺産とは何か 大地の遺産とは、端的にいえば「貴重な土地」のことである。「土地」はそれぞれに環境、景観、文化、社会を持つ。また、「貴重」とは、その対象物(ここでは土地)が希少性、固有性、特異性を持っているということである。地理学の学問性を重んじれば、「貴重」性は、その土地で自然現象と人文現象が同時にみられる、もしくはそれらの相互の関係がみられるということになる(詳しくは、岩田 2012、目代 2011、目代ほか 2010)。 大地の遺産とその百選について地理学者が言及する背景には、地理学の社会的貢献の必要性、より具体的にはジオパークに対する貢献がある。これまでに25のジオパークが日本で設立され、各々の地域では熱心な活動がみられるようになった。地理学者の多くも活動に参画しており、その学術団体として社会的なプレゼンスをより高める必要性がある(目代ほか 2010)。このために、日本地理学会ジオパーク対応委員会(以下対応委員会)が主体となって大地の遺産百選選定の作業を進めている。Ⅱ.アンケート調査(第1回)の結果と考察 対応委員会は2012年の春の大会シンポジウムで大地の遺産百選に関する講演と参加者へのアンケート調査(第1回)を行った。アンケート調査では、21名(無記名含)の会員から計39の候補地があげられた。この数は百選を選ぶ数としてはまだまだ少なく、今後の課題としてより多くの地理学者により多くの候補地を提案していただくことがあげられる。また、推薦された候補地では関東以西、特に九州地方の候補地が多く、今後は、他の地域の候補地の推薦も求められるであろう。 推薦された候補地の空間スケールについて吟味すると、今回のアンケートの結果では、全体の70%以上が市町村レベルの空間スケールから複数県にまたがる空間スケールでの提案となっていた。おそらく、これらの空間スケールを基本に土地の貴重性を求め、大地の遺産百選として選定する事が解り易い空間スケールとみられる。ただし、大地の遺産百選の選定で重要視される根本的な部分は、その空間スケールではなく、冒頭に述べた自然現象と人文現象の関係である。言い換えれば、その候補地で「ひとつの地誌学的なストーリー」が構築できることが重要となる(例えば、大野 2011)。 それでは、その「地誌学的なストーリー」はアンケート調査の結果からも読み取れるであろうか。アンケートで推薦された39の候補地のうち、推薦理由として自然と人文の双方の現象について記述されたものは23ヶ所(59%)であった。このことから、大地の遺産の地誌学的な捉え方はある程度浸透していると考えられる。なお、35(90%)の候補地で地形・地質(自然)の特徴が推薦理由として論じられていた。したがって、推薦された候補地の多くは貴重な地形・地質を基盤とした土地であることがわかる。これはこれまでの対応委員会の発表や議論に類似した結果でもあるが、複合的学問である地理学の性格を考えれば、今後は他の自然現象や人文現象、およびそれらとの関係にも配慮していくことが必要といえる。 アンケート調査の結果をみる限り、対応委員会がこれまでに大地の遺産について発表、議論してきた内容と参加者の推薦する候補地やその考え方に大きな相違点はみられなかった。しかし、このことは、逆にいえば、多くの地理学者は、対応委員会にフォローする形のみで参加していると考えられる。実際に、頻繁に議論へ参加している地理学者は決して多くない。そのため、今後も対応委員会が主体となって、多くの研究者を巻き込む積極的な姿勢が必要であろう。 なお、アンケート調査の結果によれば、大地の遺産の重要な要素と考えられる保全、教育、ツーリズムのいずれかが推薦理由として言及されていた候補地は9ヶ所(23%)と僅かであった。Ⅲ.今後の選定スケジュール 今後のスケジュールとしては、本発表時(3月)に第2回アンケート調査を、地球惑星連合学会(5月)に第3回アンケート調査を行う。ウェブアンケートも2013年1月から実施している(https://sites.google.com/site/ajggeo park/home/annouce/dadenoyichanbaixuananketo)。また、郵送によるアンケート調査も検討中である。アンケート調査後は、対応委員会を中心に候補地リストからの選定を行い、10月の秋季学術大会で大地の遺産百選の発表を目指していく予定である。