著者
上遠野 輝義 福岡 義隆
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2003, pp.94, 2003

1.はじめに これまでにも南関東地方から長野県東北部に至る大気汚染の長距離輸送に関する研究(栗田・植田、1986)や、南関東地方の小地域におけるオキシダント濃度と局地風についての研究(菊池、1983)などがあるが、関東地方全域のオキシダント濃度と局地風の関係についての研究例は、とくに最近10年間極めて少ない。温暖化にともなって最近、各地の光化学スモッグが高濃度化している。 そこで、本研究では、関東地方において特に注意報発令の多発した2000年夏半年について、全国的にみても高濃度日の多かった埼玉県に注目し、光化学オキシダント濃度分布と天気図型及び局地風(風向風速)の分布との関係について解析し考察を試みた。2.研究方法_丸1_使用した資料:2000年5月_から_9月夏半年における関東地方1都6県全域の大気汚染常時監視測定局の毎時データを用いた。オキシダント測定局数は約300局、風向風速は約350局であるが、栃木県の風データは欠測値が多かったのでアメダスデータを使用した。埼玉県における光化学スモッグに関しては1990_から_2000年についての傾向を調べてみた。_丸2_解析方法:光化学オキシダント濃度の分布図と風系図はArc View(GISソフト)を用いて1時間毎に描いた。全事例の中から、天気図型別に注意報発令日(120ppb以上)と非発令日(120ppb以下)の比較考察を行った。3.研究結果 今回は、全体的な傾向と事例研究として最も頻度の多かった天気図型(南高北低型)について、注意報発令日(7月23日)と非発令日(9月2日)とについて考察した結果を報告する。(1) 関東地方の月別光化学スモッグ注意報発令回数が最多県は埼玉(40件)で最少の神奈川の4倍である。(2) 過去5年間における埼玉県において注意報発令日の天気図型は、最も多かったのは南高北低型(33%強)で、移動性高気圧型と東高西低型(各12%前後)が次いでいる。(3) 注意報発令日7/23も非発令日9/2も南高北低型天気であり、後者では熊谷で39.8℃もの高温という残暑であったが、光化学オキシダント濃度分布と風系は異なる。前者では、海風の進入と気温上昇とともに埼玉県中部から群馬県にかけて120ppb以上の高濃度地域が発現している。一方、非発令日には海風などの風系は類似しているが陸風も強くオキシダント濃度は80ppb以下と低い。
著者
澤田 律子 小寺 浩二
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.161, 2011

<B>I はじめに</B><BR> 周囲を海域に囲まれた島嶼の環境では、表流水は即座に海洋へと流出し、それと共に様々な物質が同時に海洋へと流出している。中でも亜熱帯気候に属する八重山諸島では、島の周囲にはサンゴ礁等が発達し、貴重な環境が形成されているため、島を流下し、海洋へと流出する陸水が沿岸域に及ぼす影響は大きい。石垣島においては赤土流出が以前から問題視されており、名蔵川や轟川の土砂や栄養塩の流出解析が流域単位で行われているが、本研究は流域単位にとどまらず、陸水を広域的にとらえ、その季節変動や降雨イベントによる変動を明らかにすることを目的とする。<BR><B>II 対象地域概要</B><BR> 東京から2000kmの距離に位置し、人口、産業の面から見ても八重山諸島の中でも中心的な島として存在する。気候は亜熱帯海洋性で、平均気温は23.7℃、平均降水量は2127.2mmであり、梅雨期と台風時の降雨が年間降水量の6割を占める。北部には県最高峰の於茂登岳(525.8m)を始めとする於茂登連峰が連なり、雨の降り方に地域差が見られる。一級河川は存在せず、主要河川には宮良川、名蔵川、轟川が挙げられ、その他には大小100ほどの名前のついた川や沢が存在する。人口は南部に集中する。<BR><B>III 研究方法</B><BR> 石垣島の諸河川約90地点において2009年2月より、約3か月に1回の頻度で計8回の現地水温観測を実施し、2010年9月の台風接近時には宮良川流域の5地点で3時間ピッチの集中観測、9点で24時間ピッチの観測を実施した。観測項目は、水温、電気伝導度(以下EC)、DO、TURB、TDS、pH、RpH、流量で、サンプルを用いて、イオンクロマトグラフによる主要溶存成分測定、TOC分析計による全溶存炭素量分析を行なった。月一回の頻度で、河川水と降水のサンプリングも実施している。<BR><B>IV 結果と考察</B><BR> 標準偏差が20以下と変動が小さい地点は於茂登岳周辺部に集中し、変動が大きい地点のECの地点平均値は高いことが特徴として挙げられる。石垣島の水質組成は主にアルカリ土類炭酸塩型に分類される。大半がCa-HCO<SUB>3</SUB>型のパターンを示し、特に顕著なのが轟川で、石灰岩地域の特徴が表れたと思われる。一部でNa-Cl型と特異な性質を示すが、これはCa<SUP>2+</SUP>、HCO<SUB>3</SUB><SUP>-</SUP>の含有量が少ないだけでありNa<SUP>+</SUP>、Cl<SUP>-</SUP>の含有量はCa-HCO<SUB>3</SUB>型の他の地点と同程度である。<BR>降雨後には、ECは急激に減少し、9月4日の正午ごろEC250μS/cm以下の最小値が観測された後、ECは増加し始めるが、平常値までの回復には数日間の時間を要した。下流より川原橋(支流の振興橋)、ハルサ農園前(水路)、仲水橋、竿根田原橋と分布しているが、竿根田原橋、仲水橋、川原橋という順で上流ほどECの回復速度が早く、下流に近づくにつれて回復は緩やかなスピードで起こっている。それに連動してCa<SUP>2+</SUP>、Mg<SUP>2+</SUP>、Cl<SUP>-</SUP>も増減しており、地点によってはNa<SUP>+</SUP>、SO<SUB>4</SUB><SUP>2-</SUP>も増減している。降雨イベントによるECの変動は降雨に伴う溶存物質の流出が引き起こしているが、地点によってその大きさに差異が生じていることから、土壌成分が流出しているところと、していないところが存在することが分かった。<BR><B>V おわりに</B><BR> 雨量強度に対する土壌流出の関係性が見いだせれば、降雨時のECの値から雨量を算出することが可能となる。傾斜や地質といった様々な要因から、土壌成分の流失強度を導き、河川のECと雨量の関係を明らかにしていく必要がある。<BR><B>参 考 文 献</B><BR>澤田律子・小寺浩二(2010):八重山諸島石垣島諸河川の水質変動に関する研究,陸水物理研究会発表会,.
著者
遠藤 伸彦 松本 淳
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2016, 2016

旧フランス領インドシナの歴史的気象資料の画像データを作成し,20世紀全体での降水特性の長期変化を明らかにするための基盤となる降水資料のデジタル化作業を行った.1890年代後半から1941年の期間と1949年から1954年の期間について月降水量・月統計値を, また1911年から1930年の期間と観測原簿の存在する期間については日降水量をデジタル化した.デジタル化を実施した15地点である.<br><br>デジタル化した降水資料の品質を確認するため,複数の資料が存在する場合には,日降水量から求めた月降水量・降水日数・月最大日降水量を月報・年報の掲載値と比較した.その結果,手書きの観測原簿の読み間違えや入力の誤り等の問題の多くを発見・修正することができた. 一方で資料間の不整合もいくつか確認された.例えば1902年7月11日にHaNoi で558 mmの降水が観測された.観測原簿には台風接近に伴う極端な降水であると記載されており,たしかな観測値と考えられるが,後年の年報等に記載の Ha Noiの既往最大日降水量とは値が異なっている.旧仏印気象当局が,Ha Noi観測所の移転等に伴う統計切断を行ったのかもしれない. 1999年の11月3日にHue で 977.6 mm の降水が観測されたが,今回デジタル化した15地点の観測値の中でも最大の日降水量であることが確認された.さらに日降水量が500 mmを越える観測がベトナム中部の観測所で複数回観測されていることが明らかとなった.
著者
三上 岳彦 財城 真寿美
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2016, 2016

日本の公式気象観測は、1872年の函館気象観測所、1875年の東京気象台、1876年の札幌気象観測所で開始された。しかし、その数は1881年においても12カ所で、1877年から観測を開始した全国灯台の33カ所に比べてかなり少なかった。 著者らの研究グループでは、1877年~1886年の全国灯台気象観測データをデジタル化し、主要な台風接近・上陸時の天気図復元を計画している。今回は、1882年8月上旬に四国に上陸し、暴雨風・洪水災害をもたらした事例について、海面気圧データから天気図を復元し、台風経路の復元を試みた。
著者
菅澤 雄大 伊東 真佑
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

2013年10月11日に発生した台風26号は,10月15日の夜から10月16日の明け方にかけて関東地方沿岸に最接近した.この台風26号は10年に1度の規模の大型台風と言われ,伊豆大島では大規模な表層崩壊と土石流が発生し,36人が死亡,3人が行方不明となる甚大な被害をもたらした(「朝日新聞」2013年12月30日朝刊).首都圏でも強風や大雨で交通網が乱れ,通勤・通学に支障が出た. 台風26号は,関東地方の東の太平洋上を通過したため,太平洋に面した平野部や海上において主に被害をもたらした.その一方で,関東地方や中部地方の山岳地域での土砂災害の報告は少なかった.近年,これらの山岳地域には,いわゆる「登山ブーム」によって多くの登山客が訪れている.今回の台風では登山客を巻き込む土砂災害は発生しなかった.しかし,強風や大雨の影響を受けやすい山稜部の登山道では倒木や小規模な崩壊が起こり,登山客の利用を妨げる障害が起こった可能性は十分にあり得る.このような被害は小規模であったとしても放置されることによって,登山道の管理を困難にするだけでなく登山者の事故を引き起こす可能性もあり,決して看過してはならないものと考える. そこで今回は,南アルプス北部,鳳凰三山の薬師ヶ岳(標高2780 m)に至る登山道において,台風26号が最接近した10月16日の2日後の10月18日に台風による倒木や登山道の崩壊の状況を調査し,山小屋の小屋人の聞き取り調査から登山道の整備活動についても知ることができたので報告する.薬師ヶ岳は南アルプス北部の鳳凰三山の一角で,山梨県南アルプス市と韮崎市の市境に位置している.多くの登山者は,甲府駅から山梨交通のバスを利用して,夜叉神峠登山口(標高1375 m)からこの山に登る.この登山コースは東京からのアクセスがよく,登山口から山頂までの標高差も小さい.また,岩場やガレ場などの危険箇所も少ないコースであることから,登山客の年齢構成も幅が広く,子供から年配者まで多くの登山者が訪れている.今回は,夜叉神峠登山口から薬師ヶ岳山頂までの登山道を調査地域に選定した. まず,気象状況を明らかにするため,台風26号が最接近した10月16日の前後2日間の降水量と風向・風速のデータを甲府気象台と山梨県・長野県のAMeDAS(計7ヶ所)から収集した.現地調査は,台風通過2日後の10月18日に行い,登山道沿いに見られた倒木や登山道の崩壊の発生位置をGPS(GARMIN社製Oregon 550TC)を用いて測量した.また,この登山道沿いに立地する薬師ヶ岳小屋(標高2711 m)と南御室小屋(標高2429 m)の小屋人から,台風接近時の小屋周辺の状況や登山道の整備活動に関する聞き取りを実施した.調査結果は以下のようにまとめられる. ① 調査地域に一番近い韮崎の気象データを見ると,降水量は10/15の22時から増え始め,10/16の6時には0.0 mmとなった.また,10/16の1時から2時に時間雨量の最高値(8.5 mm)を観測した.風は,10/16日の2時から強くなり,7時~8時に最大平均風速(15.6 m/s)を観測した. ② 現地調査の結果,登山道沿いにおいて倒木は18ヶ所,登山道の崩壊は9ヶ所存在することが明らかになった. ③ 倒木は,夜叉神峠登山口~夜叉神峠小屋(標高1375~1750 m)のカラマツ植林地,辻山(標高2584 m)周辺のシラビソ林で多かった. ④ カラマツ・シラビソの倒木には胸高直径が30 cm以上の樹木(年輪計測の結果,樹齢100年以上)が多かった.倒木の状態には,幹折れと根返りが認められた. ⑤ 調査地域北部の南御室小屋から薬師ヶ岳山頂付近までの登山道沿いに小規模な崩壊が多く見られた. ⑥ 辻山(標高2584 m)周辺で発生した倒木は,調査を行った10/18(台風最接近日の2日後)には短く切られ,登山道の通行を妨げない場所に移されていた.これは,南御室小屋の小屋人が独自に行った活動であった.また,小屋人は,地元の登山者の知らせで倒木の存在を知ったとのことである. ⑦ 聞き取り調査から辻山周辺は強風が吹き抜け,倒木が発生しやすい場所である一方,南御室小屋から薬師ヶ岳山頂まではこれまでも倒木が少なかったことが明らかになった.
著者
藤塚 吉浩
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2007, pp.63, 2007

<BR>I. 研究目的<BR> 日本列島南部では台風の進路の関係から、民家には強い風雨への備えが必要である。本発表では、多くの強い勢力の台風が通過する高知県東部をとりあげ、伝統的な民家のかたちにある強い風雨への備えについて検討する。<BR> 本報告ではまず、高知県東部の歴史的な集落の形成にかかわる自然条件と社会経済的な背景について、広域的に考察する。次に、強い風雨に備えるための伝統的建造物に関して、その機能と地理的分布の関係を考察するとともに、残存状況についても検討する。<BR><BR>II. 高知県東部の伝統的建造物の分布<BR> 室戸半島の歴史的集落のうち、戦災がなく、都市化の影響を受けなかったところでは、第二次大戦前の伝統的な建造物が残されている(図1)。<BR> 室戸半島の港は、岬付近の岩礁に建設されたものがあり、その近くに集落が形成されている。岬は三方向を海に囲まれ風を遮るものがなく、特に風が強くなるため、室戸岬の高岡や行当岬の新村のように、石垣で民家を囲っているものが多い。石垣を構成する石は大きく、より堅固になるように積まれている。<BR> 海岸からの強風を受ける小高い丘のところでは、吉良川町の丘地区のように、民家をいしぐろで囲むものが多い。いしぐろは河原の丸石などを積んだり、割石を使って、外観を整えたものもある。旧街道沿いには、丸石や割石を整然と積んで、意匠面を重視したものが多い。<BR> 旧街道沿いや市街地中心部では、建物の壁面や前面に水切り瓦の使われることが多い。これは、空間的制約から石垣やいしぐろを置けないためと、浜堤や近くにある民家が強風を緩和し、水切り瓦で壁面の浸食を防ぐことができるためである。土蔵や民家の壁面には、水切り瓦とともに、耐水性のある土佐漆喰も併用されている。<BR> 徳島県に近い東洋町の旧街道沿いでは、蔀張が多くみられる。街道に面して間口があり、空間的制約から強い風雨を効果的に防ぐ仕組みとして用いられたのである。地理的に京阪神地方に近く、交易により、蔀張の建築様式がもたらされたことも、高知県で最も東に位置する東洋町に多くみられる要因である。<BR><BR>III. 伝統的建造物の残存状況<BR> 高知県東部における、強い風雨を防ぐための伝統的な建造物の残存状況は、その性質により次の差異がある。<BR> 石垣やいしぐろは、石の採取が容易でないことや石工の減少等により、より費用の安価なブロック塀やコンクリート塀にかえられている。水切り瓦は、左官職人の減少により技術の継承は容易でないが、近年その優れた意匠が評価され、新築に取り入れられるものも少なくない。蔀張は、空調施設の導入やアルミサッシへの改修により、取り外されたり、取り壊されるものが多い。<BR> いしぐろや水切り瓦は、優れた意匠から文化財として指定されるものも多い。高岡や新村にある石垣は、文化財としての価値は十分認識されていない。蔀張は、木製のため老朽化しやすく、放置すれば消滅する危機にある。<BR> 強い風雨を防ぐ伝統的な建造物は、先人の知恵によって生み出され、風土に適する優れたものである。歴史を後世に伝える文化財として、伝統的建造物をまもり受け継ぐことは、今後の重要な課題である。<BR>
著者
町田 尚久
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

<B>1.はじめに</B><BR> 寛保2年の洪水は,埼玉県長瀞町の寛保洪水位磨崖標などに代表されるように,関東地方では荒川流域や利根川流域,千曲川流域を中心に大きな被害をもたらした.特に千曲川流域の浅間山周辺では大きな土砂災害や洪水災害がもたらされた(丸山1990など).この洪水にかかわる古文書は,近畿地方から関東地方にかけてあり,近畿地方では鴨川や近江の災害がみられるものの詳細な記録は数少ない.また,関東甲信越地方では,多数の古文書やそれにかかわる文献がある.この洪水の原因に関しては,国土交通省北陸地方整備局(2002)によって複数の台風の進路が提示されているが,諸説あるため,実態に則して気象現象を明らかにする必要がある.そこで本研究では,埼玉県内の寛保2年災害にかかわる複数の資料に記載されている気象実態から,災害の実態との関係を考察する.なお,本研究では日付を旧暦にて表記する.<BR><B>2.寛保洪水にかかわる資料と気象実態</B><BR> 寛保2年の気象の記録は,現在の埼玉県越谷市(越谷市史),深谷市(武州榛沢郡中瀬村史料),加須市(加須市史),羽生市(羽生市史),県外では長野県松本市(松本市史上巻)がある.たとえば,越谷市史の西方村旧記の弐(越谷市役所市史編纂室1981)には次のような天気の変化が記録されている.<BR><BR> 越谷市史(西方村旧記 弐)<BR> <I>寛保ニ戌年七月廿七日より八月二日迄雨ふり続き申候、<BR> 尤朔日之朝より大雨降リ八ツ過より丑寅風にて、雨の降<BR> る事矢之ごとく、同晩四ツ時より辰巳風に成大風にて大<BR> 木もたおれ、雨は桶よりまけることくして,二日之朝七<BR> ツ時より雨風しづかに成、五ツ時より天気能三日之昼九<BR> ツ迄川通リ水少に(略)</I><BR><BR> 気象の実態を解釈し抜粋すると,越谷市では,8月1日の八ツ過(14時過ぎ)より「丑寅風」(北東),同じ晩の四ツ時(20時)より「辰巳風」(南東)となる.2日の朝七ツ時(4時)には,「雨風しづか」となり,降雨をもたらした気象現象がほぼおさまったと考えられる.<BR><B>3.資料からみた埼玉周辺の気象の実態</B><BR> 埼玉県内の越谷,加須,羽生,深谷の各地点では,降雨が27日から認められる.28~29日には,降雨がある場所ない場所に分かれるため,不安定な天候であったこと推察され,29日に限っては小康状態となっていた可能性が極めて高い.一方で29日の夜には,深谷で北東風(艮風)と大雨,長野県松本で大雨との記載があるが,その他で明確な表記が少なく不安定な天候が8月1日の午前中まで続いていたと解釈できる.<BR> 8月1日になると埼玉県内の各地点と長野県松本のすべてで,大雨となり風もあった.特に越谷では14~16時に東北風(丑寅風)が,長野県松本市では16~18時に北風が吹く.そして22~24時には越谷で南東風(辰巳風)となり,風向きの変化がみられることから,台風と考えられる.そして越谷では台風の北から東側にあたる位置であったと解釈される.松本は,山間地域の北風であることを考慮すると,少なくとも台風の西側の位置にあたる.このことから台風の中心は,埼玉県越谷と長野県松本の間を通過したと考えられ,関東・東海から北上し,日本海方面へ向けて通過したと判断される.<BR><B>4.台風の検証と異常気象との関係</B><BR> 越谷で大風の影響が14時~翌4時で最大14時間である.この記録を基に一般的な台風(直径400㎞)を想定すると,平均移動速度が約29㎞/hとなることから比較的速い速度で通過したことになる.寛保2年の全国的な天候を長崎県諫早や青森県弘前などの古文書を参考に解釈すると,比較的天候に恵まれており冷夏や異常気象の記載がみられない.一方で台風の直径が400km以上になると,近畿地方から関東地方にかけてが,台風の影響範囲と一致するので,寛保2年の災害は台風によるものと判断できる.しかし近畿地方の資料には,時間の記録がある資料を得られていないことから,さらに精査する必要がある.<BR><B>5.台風によってもたらされた崩壊とその後の影響</B><BR> 丸山(1990など)は,千曲川流域の災害の実態を古文書などから復元し,町田(2011)は寛保洪水位磨崖標の高水位の原因をマスムーブメントと指摘した.この実態に沿うように,武州榛沢郡中瀬村史料(河田1971)には,西上州の山々の崩壊が記されている.このことから利根川流域の西側では数多くの崩壊をもたらしたと推察できる.一方で秩父では崩壊の記録は少ないため,そこから浅間方面に向けて崩壊地が増加していたと考えられる.従来の歴史水害の研究は,水害の要因を降雨の増加にともなった流量の増大として考えることが多いが,崩壊が河川への供給源となって土砂を下流側へ供給することで,水害が発生することも考慮する必要がある.今後,氾濫の実態から河床変動との関連性を明らかにする.
著者
永迫 俊郎 箕田 友和 髙山 正教
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2016, 2016

<b>はじめに </b>「種子島・海の学校」は2016年7月で8回目となる短期集中型のサイエンスキャンプである.本研究は,野外教育の有する多角的な効果について,海の学校を事例に明らかにしようとする試みで,子どもたちがどのように成長したか,種子島という地理的条件を踏まえつつ考察していく.全貌の理解が困難といえる野外教育に対して,環境地理学の視点から独自にアプローチできればと意図された研究である.<br><br><b>3</b><b>回の参与観察 </b> このサマーキャンプを総括する教頭先生のH氏の勧めにより,髙山は2014,2015,2016年7月の三度,箕田は2015,2016年7月の二度,海の学校のスタッフを務める好機を得た.子どもたちは教室から離れて日常生活とは異なった自然環境の中で生活することによって,はだで自然に触れ,大自然の懐の中に入ることによって全体として自然についての理解を深め,生物相互の依存関係や人間と自然との関係についての理解をも深めることができる(江橋,1987)という野外教育の最大の特色に注目しながら,4泊5日,3泊4日で行われた活動全般について参与観察を行った.<br><br><b>海の学校の活動内容 </b>種子島・海の学校は,浦田海水浴場でのキャンプを基軸に島中をくまなくまわるメニューが用意されている.参加者は理科実験を取り入れたサイエンス塾にふだん通っており,多彩なプログラムの中から種子島を選んだ子どもたちを塾のスタッフが大阪や広島から引率してくる.塾の先生も同行するものの,サイエンスキャンプ中は現地スタッフが主導権を握る.大阪と広島の子どもが一緒になることはなく,参加者数(10~30名)およびこれに連動する予算規模に応じてメニューや現地スタッフの人数が調整される.<br> スタッフは子どもから先生と呼ばれ,様々な野外活動を共に行い健康・安全管理,食事の準備等をする.活動内容の計画や遂行はH氏が統括し,必要時には助っ人が合流する.内容は,犬城海岸での古第三紀の化石採集から宇宙科学技術の最先端である種子島宇宙センター見学まで多岐にわたり,エリア的にも最北端の喜志鹿﨑灯台から南東部の宇宙センターまで種子島を縦断するものである.拠点は島の北端近くにある浦田海水浴場で,西之表市街地から多少離れた場所に位置し,砂浜と隣接する浦田キャンプ場は自然豊かである.<br> <br><b>子どもたちの成長</b> 子どもたちは観察や採集を通して自然環境の諸事象に興味・関心を抱き,とくに採集時には工夫を凝らし積極的に行動していた.自然の美しさに対する感動や面白さを出発点とし,主体的に行動を起こし創意工夫に至る一連のプロセスの中で,子どもたち同士が互いに働きかけ成長する場面もあった.遊びの体験,自然とのふれあい,生活体験・労働体験と大人側は分類してメニューを提供するが,子どもの側にとってそうした類型化は意味をなさずそれらは融合し独自の色合いを帯びてくる.子ども特有のこうした化学反応が促進されるのは,直接体験という五感を駆使した本物の経験があってこそである.ダイビング体験は,海の学校が用意している子ども成長反応の触媒の一つである.<br> &nbsp;教室における学習と違って野外教育は計画通りに催行されるとは限らず,変更を余儀なくされることも少なくない.海の学校2014は台風接近のため1日旅程が短縮され,帰路の高速船での船酔い体験もできれば避けたかったが,予期せざる学習場面としては非常に好例である.台風と波浪も成長反応の触媒となりうる.また,自然や環境を総体としてシームレスに理解する手がかりは,体系化された個々の教科教育の中にはなく,子どもたちが五感を使った直接体験にこそ潜んでいる.多感な子どもの成長にとって,実際の現場に身を置いてこそ得られる自然の豊かさや美しさに対する感動,心を揺り動かされる経験が鍵を握っている.野外教育の多角的な効果のお陰で,子どもたちは確かに成長して帰って行った.<br><br><b>まとめ</b> 教育は指導者と子ども,子ども同士の相互作用の結果と痛感させられる.野外教育について,裾野の広がりと多彩な教育的効果をある程度明示できたのは,個々の活動に焦点を絞らず全体を通した解釈を試みたためと考える.個体進化は系統進化の過程をたどるというが,海で誕生した生命の一枝である我々人間は母胎の思い出も影響してか海に親近感をおぼえる.前半2泊は,波の音が子守歌になる浦田浜でのキャンプである.海水浴やダイビング体験はまさに海に入る.海での遊びの体験で起こし,自然とのふれあい(解説)さらに生活体験・労働体験を盛り込み,フィールドも種子島一円に広げていく.「野外のための」,「野外についての」,「野外による」の三要素をカバーし,種子島ならではのロケットセンターでサイエンス塾の子どもたちに未来像を描かせる.一連の活動に常に寄り添うのは種子島の美しい海である.
著者
久保田 尚之 小坂 優 謝 尚平
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

<br><br><b>1.&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; </b><b>はじめに</b><b></b><br><br>夏季西部北太平洋域での代表的な気圧配置パターンとして、フィリピン海と日本付近の気圧偏差が逆相関の関係で年々変動するPJ (Pacific-Japan)パターンが知られている(Nitta 1987, Kosaka and Nakamura 2010)。これは、日本の猛暑・冷夏と関連して、東アジア太平洋域の夏の天候を広く特徴づける気圧配置パターンである。本研究では、PJパターンを地上データから定義することで1897-2013年のPJパターンを再現し、夏期西部北太平洋域のモンスーン活動の数十年変調を調べた。<br><br><b>2</b><b>.</b><b> </b><b> </b><b>データと解析手法</b><b></b><br><br>夏期(6-8月平均)の高度850hPaの渦度(10-55&deg;N、100-160&deg;E)の主成分解析(1979-2009年のJRA55データ)で得られた第1モードと海面気圧との相関を図1に示す。PJパターンに対応したフィリピン海と日本付近の逆相関が顕著な2地点(横浜と恒春)を選び、6-8月平均の気圧差(横浜-恒春)をPJパターンの指標(PJ指標)と定義した。解析期間は1897-2013年。<br><br><b>3.&nbsp; </b><b>結果</b><br><br>PJ指標が正の年は日本、韓国、中国の長江流域で乾燥・猛暑となり、フィリピン海のモンスーン活動が活発で雨量が多く、沖縄や台湾を通過する台風活動も活発になる(図2)。一方で、負の年は逆に北日本の冷夏、日本のコメが不作、長江の洪水と対応する。PJ指標との関係を1897年まで遡ると、PJ指標とENSOとの相関が高いのは1970年代後半以降であることがわかる(図3)。それに対して1940年代から1970年代は不明瞭、さらに1930年代、1910年代より前は再び明瞭になる関係があり、数十年の間隔で明瞭、不明瞭の時期が繰り返されていることがわかる。日本の夏の気温、コメの収穫量、台湾や沖縄を通過する台風数とPJ指標との関係もまた、明瞭、不明瞭の時期を数十年間隔で繰り返しており、変化が一方向でないことから、変調が地球温暖化よりも気候の自然変動に伴うことを示唆している。
著者
福岡 義隆 丸本 美紀
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.215, 2011

1.いま何故、平城京ヒートアイランドか 昨今の温暖化(平成温暖期とする)に類似の平安温暖期(奈良時代から平安時代にかけて)における都市の熱環境はどうであったか。それは平城京や平安京の繁栄の現われなのか。文献的な検証により、古環境とくに気候環境への適応工夫を見直してみて先人の知恵を学ぶ手がかりにしたい。2.研究方法2-1 古典的な気候学研究方法からの類推(1)SchmidtによるWienにおける都市気温の成因分析.1917,(2)福井英一郎による土地利用比率からの都市気温の推定回帰式とAustasch概念導入.1956,(3)高橋百之による家屋密度Dと気温Tの関係式,T=αD+βで概略描写.1959,(4)河村武による都市温度成因分析,熱的指数1/(cρκ1/2)で微差補正.1964,(5)田宮兵衛による団地の気温分布参考.1968,(6)オーク、福岡、朴らによる人口数Pとヒートアイランド強度HII=AlogP+Bの回帰式で京内外の温度差推定(1987・1992,など)。2-2 平城京内の居住環境と土地利用の推定 馬場基著(2010)『平城京に暮らす』(吉川弘文館)~主に「大日本古文書」「平城宮木簡」「平常京木簡」「平城宮発掘調査出土木簡概報」などに基づく著書、宮本長二郎著(2010)『平城京―古代の都市計画と建築』(草思社)~各種古文書のほか奈良国立文化財研究所や歴史民俗博物館などの模型などに基づき穂積和夫によるイラストでの復元図、奈良文化財研究所編(2010)『平常京―奈良の都のまつりごととくらし』など3.冬季夜間のヒートアイランド推定結果 上記の手法、先行研究方法からの概略図把握および各種文献による微差補正などで下図を得る。 根拠とした数値など;_丸1_平城京の人口は10万~20万人と推定されているので、オーク・福岡らの人口とヒートアイランド強度(HII)の相関図から、おおよそHIIは1.5~2℃とした。_丸2_人が集まりやすい区域、例えば市場(東市・西市)とか頻繁に宴会が催された朝堂院、大学寮(式部省近く)、広場(行基の布教活動支援の大衆集合)等は周辺より高温とした。_丸3_大極殿とか長屋王邸などの屋根のように著熱効果のある瓦が大量に使われている建物群区域もやや高温とみなした(平常京全体で500万枚の瓦が使われた)。_丸4_朱雀大路とか二条通りなどの街路樹(槐、エンジュ)や佐保川とか秋篠川、大極殿北隣の溜池あるいは苑内池付近などの蒸発散面区域でやや低温であったと類推される。
著者
山下 博樹 藤井 正 伊藤 悟
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2005, pp.125, 2005

1.はじめに 成熟時代を迎えた欧米をはじめとする多くの先進諸国では、20世紀に拡散・肥大化した都市地域をいかに持続可能なかたちに再構成するかが、都市政策の主要テーマのひとつとなりつつある。オーストラリア第2の都市であるメルボルンでもその都市圏の市街地は拡大の一途をたどり、住居・商業施設などの郊外化が進展した。しかし、そのような状況の中、メルボルンが位置するビクトリア州政府は都市圏の無秩序で拡散的な拡大を防ぐために、1970年代より郊外核となるアクティビティ・センターと都心の一体的な整備・開発を行ってきた。本報告では、地域住民の日常的な生活行動と関わりの深いショッピングセンターの立地動向より、メルボルン都市圏の地域構造の一端を明らかにする。さらに、アクティビティ・センター開発の特徴について述べる。2.ショッピングセンターの立地展開 メルボルン都市圏の人口336.7万人(2001年センサス)は、メルボルン市を中心にやや東に偏って分布している。その結果、主要なショッピングセンターの立地もそれに類似した傾向を示している。都市圏内に立地するショッピングセンターは、156カ所でその総売場面積は約255万_m2_である。メルボルン都心部に立地するのは10カ所、約13万_m2_に過ぎず、商業施設立地の郊外化が顕著である。売場面積が8.5万_m2_を超えるスーパーリージョナル型は4カ所、5万_から_8.5万_m2_のメジャーリージョナル型は12カ所となっている。ショッピングセンターの立地は、1970年代以後急速に進められたが、90年代後半よりその新規立地は減少傾向にある。3.アクティビティ・センターの開発 アクティビティ・センターの開発構想は、1970年代にさかのぼる。アクティビティ・センター開発の目的は、鉄道などの公共交通利用を基本とした、小売、サービス、オフィスなどの土地利用のミックス化と就業空間の形成である。その背景には公共交通利用の促進や職住接近などによる持続可能性の高いまちづくりがある。アクティビティ・センター開発の基本的な特徴は次のようにまとめられる。_丸1_アクティビティ・センターの開発は基本的には州が基本方針を立て、各自治体がそれを実行している。_丸2_その財源の確保は、基本的にはケースバイケースである。_丸3_郊外間を結ぶ公共交通は、アクティビティ・センター間をバスで結ぶ形で整備を進めている。_丸4_新規のショッピングセンターの開発は、ゾーニングにより基本的にはアクティビティ・センターへ誘導される。アクティビティ・センター以外へのショッピングセンターの開発などは、各自治体が調整を行っている。_丸5_郊外型の大規模ショッピングセンターもバスなどのアクセスを増やし、公共交通体系の中に位置づけている。 本研究を行うに際し、平成16_から_17年度科学研究費補助金基盤研究(C)(1)「成熟時代における都市圏構造の再編とリバブル・シティの空間構造に関する地理学的研究」(研究代表者:山下博樹)の一部を使用した。メルボルン都市圏における主要シヨッピングセンターの立地 1:メルボルン都心部 2:スーパーリージョナル型(売場面積8.5万_m2_以上)3:メジャーリージョナル型( 〃 5万_から_8.5万_m2_)4:リージョナル型( 〃 3万_から_5万_m2_) 資料:『Shopping Centre Directory Victoria & Tasmania (PROPERTY COUNCIL OF AUSTRALIA 刊)』より作成
著者
中川 清隆
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

<BR><B>Ⅰ. 関東平野北西部猛暑研究の動向</B><BR><BR> わが国観測史上最高気温40.9℃の記録を持つ熊谷をはじめ,館林,伊勢崎,前橋,高崎といった関東平野北西部では,暖候季にしばしば猛暑が集中して発生し,最高気温起時は太陽南中後約3時間と遅い傾向があり(中川,2010),近年その頻度や強度が増加傾向にある(藤部,2012).藤部(1998)は,850hPa気温≧21℃,日照時間≧8時間の著しい高温気団に覆われる晴天日の増加を関東平野内陸域における猛暑日増加の主要因とし,一般風西風型および弱風型猛暑の場合には都市化も要因の一つとした.<BR> 近藤(2001a)は,1992年7月29日猛暑の原因として,①北西上層風の関東内陸部までの長いフェッチに伴う大きな熱移流項と,②山岳風下の関東平野上空における下降気流に伴う大気境界層厚減少による熱容量減少を指摘した.近藤(2001b)は,晴天日の関東地方における,①海岸付近の海風循環低気圧,②長野県-関東平野標高差に伴う対流混合層高度差による内陸低気圧,③谷状地形を呈する関東平野北西部斜面を上る斜面循環流反流収束による前橋付近の強い下降流が形成する熱的低気圧の連携による猛暑発生機構を指摘した.木村ほか(2010)は,理想化実験により,山岳において成長する混合層が平地に比べて高温位の上層大気を混合層内に取り込み,これが一般風および局地風により輸送されて山岳風下側の混合層および地上の温位を上昇させることを指摘した.<BR> 篠原ほか(2009)は,彼らのシミュレーション解析および桜井ほか(2009)の事例解析の結果に基づいて,①背の高い暖かい高気圧下の沈降場における断熱圧縮昇温と鉛直方向の拡散抑制,②高い最低気温,③埼玉・東京都県境での海風前線停滞による海風侵入の阻止および山越え気流の継続,④力学的フェーンによる昇温の4点を,2007年8月16日猛暑の原因とした.<BR> 渡来ほか(2009a,b)は,魚野川-利根川の谷(ギャップ)を塞ぐ数値実験の結果等に基づいて,2007年8月16日はドライフェーンであったが,午前中は浅いフェーンであり,午後に深いフェーンに変化したと結論付けた.Takane and Kusaka (2011)は,2007年8月16日は,山越えの際に日射により加熱された山地斜面から非断熱加熱が付加される,ウェットフェーンでもドライフェーンでもない第3のフェーンであったと主張した.<BR> Enomoto <I>et al</I>.(2009)は,2004年7月20日猛暑は,①チベット高気圧北縁のアジアジェット気流蛇行の東方伝播による小笠原高気圧の強化と,②同高気圧から吹出す高相当温位風による山岳風下フェーンにより形成されたと結論付け,同猛暑が大規模現象と密接に関連していると主張した.<BR> 熊谷地方気象台はHPにおいて,①東京都心からの熱移流と②秩父山地越えフェーンの2点を,埼玉県の平野部が暑くなる理由としている.吉野(2011)は,関東の異常高温時の予察的モデルを提唱した.局地的強風により海風前線が侵入し難い水平距離150~180kmの本州脊梁山地ギャップ出口のほぼ中央部に位置する熊谷と都心の間に海風前線が停滞するため,熊谷以北の地域が,海風による冷却を受けず,日射とフェーンによる加熱を受け,著しい高温に至るとした.<BR><BR><B>Ⅱ. 本シンポジウムの目的</B><BR><BR> 上述の如く,関東平野北西部猛暑の発生メカニズムに関しては様々な説があり,統一見解は未だ得られていない.本シンポジウムは,これらの諸説および7名の話題提供者による新たな見解を吟味・総括し,関東平野北西部猛暑の発生メカニズム研究の今後の課題を明確にすることを目指す.
著者
水野 勝成
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2003, pp.174, 2003

国土地理院2万5千分1地形図(以下「地形図」)を眺めると、都道府県や市区町村の行政境界線付近にいわゆる飛地と呼ばれる断片的な領域がいくつか点在していることがわかる。この飛地(とびち)とは、「同一支配下に属する行政区域が地理的に連続せず、離れて他の行政区域に囲まれて存在する」(『地理学事典 改訂版』日本地誌研究所編、二宮書店、1989年)とされている。渡部(1990)は、この地形図にて飛地を所有する地方自治体として109町村を示したが、日本全国にどのような飛地が存在し、その形成理由や消滅理由等を総括した研究は少なかった。 そこで、インターネットGISの代表格である国土地理院「地形図閲覧システム」を活用し、地形図上に記載されている「行政区+飛地」(例、弘前市飛地)の地名表記を検索する。複数の地形図に同一の飛地が認識される場合があるため、各地形図を目視しながら確認することで、全国に232カ所の飛地が地形図に表記されていることが判明した。これらの飛地は鹿児島から青森まで日本全国に広く分布しているものの、北海道や愛知県にはみられず、他方、山形県、千葉県、新潟県、大阪府、鹿児島県には多くみられ、さらに、いくつかの自治体に集中している状況を明らかにした。 この232カ所の飛地情報を本研究のプラットホームとし、まず、史実資料などをもとに、これらの飛地の形成理由を調査した。これらを大まかに分類すると、江戸時代の知行地によるもの、新田開発等の人為的なもの、寺院をはじめとする宗教的なもの、隣接しない自治体の合併によるものの、4種類に類型化できる。これらの事由は単一に作用するものばかりではなく、複数の要因によるものも多い。飛地が多くみられた山形県、千葉県、新潟県、大阪府、鹿児島県における面積の小さな飛地は知行地によるものが主流であり、面積が大きく、その飛地内に学校などの公的設備が存在する場合の多くは、隣接しない地方自治体の合併によるものであった。飛地の境界線が幾何学的(例、長方形)は新田開発等の人為的なものである可能性が高いことも分かってきた。 この飛地の類型化をさらに正確なものにするため、飛地が認識された自治体へ調査票を送付し、歴史的背景を含めて、飛地の形成理由を現在調査中である。さらに、飛地の面積、人口、主要な建物、道路などの交通路、ゴミ回収をはじめとする住民サービスの状況等をGISなどの方法も併用して調査することも計画している。現在、いわゆる平成の大合併により多くの市町村合併が進行中である。多くの飛地がこの合併により消滅し、一方で、隣接しない地方自治体の合併によりさらに飛地が生成されるのではないかと考えられている。これを良い事例とし、飛地の生成・消滅事由を現実に即して類型しつつ、明らかにしたいと考える。【参考文献】長井 政太郎(1960):「飛地の問題」『人文地理』pp.21-31、21-1、人文地理学会渡部 斎(1985):「近世における飛地」『地理誌叢』pp.58-64、26-1/2、日本大学地理学会渡部 斎(1987):「地方行政境界に見られる飛地について ―広島県大竹市の場合―」『地理誌叢』pp.78-84、28-2、日本大学地理学会渡部 斎(1990):「地方行政境界にみられる飛地の現状」「道都大学紀要―教養部―」No.9、pp.45-54、道都大学
著者
森永 由紀
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2012, 2012

モンゴルの気候は大陸的で冬が厳しく、そこでは数千年にわたって遊牧が行われてきた。遊牧民は草と水を求めて家畜と共に移動し、同時に干ばつやゾド(厳しい冬の災害)から逃れるためにも移動する。彼らは厳しい気候下で生き残るために様々な環境学的伝統的知識を有する。たとえば、彼らは夏に比べて暖かい場所に冬のキャンプ地を定める。彼らは移動することに価値をおき、定住することを避ける、などである。本研究の目的は、遊牧民の移動に関連する遊牧の知識を検証することである。モンゴル北部の森林草原地帯であるボルガン県において、気象・生態学的調査を2008年より実施し、次のような結果が得られた。1)山の裾野にある冬のキャンプ地と盆地底にある夏のキャンプ地での1時間おきの気温の観測値から、冬のキャンプ地は冬季に出現する冷気湖の上部の斜面温暖帯に位置することが明らかになった。さらに、冬季の冬のキャンプ地の気象条件は夏のキャンプ地に比べると体感気温の面でも家畜にとって好ましいことがわかった。2)ヒツジとヤギの移動群れと固定群れの体重の季節変化の比較実験を行った。移動群れの体重は11月まで増加し続けたのに対して、固定群れの体重増加は9月で止まった。冬場の体重減少率は固定群れの方が大きかった。
著者
林 哲志
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2003, pp.78, 2003

_I_.はじめに 愛知県の最南部に位置する渥美半島は、我が国では数少ない東西方向に伸びた半島である。半島の南側は太平洋で、暖流の黒潮が流れているため「常春の岬」と宣伝に謳われる。しかし、風が強く、特に冬期の北西風は体感気温を下げている。そして、ここには縄文時代の貝塚などの遺跡がいくつか展開している。渥美半島の3大貝塚(拠点貝塚)といわれる、吉胡貝塚・伊川津貝塚・保美貝塚の他、北屋敷貝塚・下地貝塚・八幡上貝塚・川地貝塚などが、おもに半島北側の三河湾に面した地域に分布している。この発表は、縄文時代の後半、後期・晩期と区分された時期の渥美半島における縄文人の生活環境や生活様式について考察するものである。そして、今回は主に、人骨出土数日本一といわれる吉胡貝塚の発掘データや周辺環境についてのフィールド調査の結果から、人々がどのような環境で生活を営んでいたか、「暮らし振り」をまとめてみたい。_II_.これまでの発掘調査の経緯吉胡貝塚の発掘は、大正11・12年の清野謙次による多数の縄文人骨発見にはじまり、昭和26年には文化財保護委員会と愛知県教育委員会による「国営発掘第1号」となる調査が行われた。その後、昭和55年に田原町教育委員会による遺跡の範囲を確定するための発掘が行われ、昭和58年には同じく町教委が貝層断面模型を作成するための調査が実施された。最近では、平成7・8年度に貝塚の北西側で区画整理事業にともなう調査が行われた。そして、平成13・14・15年度には史跡整備のための範囲確認調査が実施され、「現況地形」「貝塚範囲」「居住域」「当時の自然環境」「過去の調査区位置」「保存状況」の解明を進めている。以上のように、度重なる発掘調査ごとに報告書や論文などの文献が発行され、基礎データとして活用することができた。_III_.結果の概要今回の考察は、これまで考古学や人類学・民族学などの分野の研究者が行なってきた調査やそこから得られたデータを活用し、人文地理学的な見地から吉胡貝塚における「暮らし振り」をまとめたものである。それを列挙すると次のとおりである。_丸1_柱穴の遺構より、住居址はあったが集落が形成された根拠までは見出せない。_丸2_貝塚や墓があることから生活の場であったことは確実である。_丸3_段丘上は礫質の土壌であるため、柱が容易に建てられず、住居址は認められない。_丸4_貝塚が立地する背景に、河川と海の接点である干潟の存在があるが、吉胡においても汐川干潟が生活の舞台であった。_丸5_貝層の含有物より、人々の食生活は海・川・山(陸地)など周辺環境すべてに依存していた。_丸6_貝塚は段丘崖下に位置しており、そのあたりでは水利が良い。_丸7_段丘上と崖下では気候環境が異なり、前者は冬の季節風が強く、後者は夏の風通しが悪い。季節間の移住が考えられる。
著者
前川 明彦
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2006, pp.66, 2006

<BR><B>1.はじめに</B><BR> 従来より、世界各国で直面している課題として地域コミュニティの再生という問題がある。我が国においても1960年代以降、工業化を中心とする経済成長による都市の膨張と地方の衰退などから地域コミュニティの衰退が叫ばれ、その再生が問われてから久しい。近年のグローバリズムや市場経済化の進展からNPO・NGOなどを始め、新たな市民活動の動きが世界各地で始まっている(前川,2005)。<BR> 一方、従来より地域コミュニティを支えている組織が疲弊し始めている。日本における、これらの組織には、自治会、町内会、老人会、婦人会など多くの地域組織があるが、多くの立場から、これらの組織がさまざまな理由から必ずしも十分に機能していないといわれている。例えば、自治会・町内会は、行政との助成金・会費等の問題、後継者育成の問題などが指摘されている(神戸新聞、2002ほか)。しかし、多くの諸問題が存在するには各組織の問題だけではなく、地域の構造的課題の存在する可能性もある。本報告では、これらの組織のなかで、少子高齢化のなかで構成員の減少が続く「子供会」を中心に、組織の現状と課題、さらには他の地域組織との課題などを市民活動という視点から既存資料と聞き取り調査など再考してみたい。また、同様に新たな市民活動の可能性もあると思われる、地域ネットコミュニティの動向を一部明らかにしていきたい。<BR><BR><B>2.地域コミュニティ組織の現状</B><BR> 子どもを対象に地域コミュニティとして支えている組織として、「子ども会」という組織がある。これには、社団法人「全国子ども連合会」に属する組織と様々な理由からこの組織に所属しない組織があるが、本報告では全書に所属する「子ども会」の現状で再考していきたい。<BR> 子ども会は、地域の子どもの成長を校外活動を中心に、遊びや行事など生かして育成しようということが主目的である。現在の構成員は,幼児、小学生、中学生が中心であるが、中学生、高校生はジュニアリーダーして参加しており、高校生は他の成人と同様に指導者として参加している。幼児、小学生、中学生の総数は、2000年の約462万人から2005年には約413万人、同様に組織(単位子ども会)数も約12.6万から約11.8と、減少傾向に構成員の加入率(2005年構成員/全就学者数)は、全国平均で小学生42.9%、中学生12.1%で、これらの推移も減少傾向にある。地域的な加入率を小学生から概観すると、福井県の93.9%など北関東、甲信越、北陸、九州地域は70%以上の県が多く、逆に最も低い東京都は11.7%と、都市部は低い傾向にある。<BR><BR><B>3.子ども会の課題と他の組織との問題</B><BR> 組織単体の課題として減少傾向があり、この要因として(1)少子化(2)協力者の問題(3)塾などの校外活動の多様化などがあるが、昨今の市町村合併の影響が出始めている。また、組織の活動の魅力から、子どもが中心ではない大人主導の活動、毎年の行事を消化することだけの活動などが挙げられる。<BR> こうした背景として、少子化、外部環境の変化の中で組織を支える親を中心とする協力者の減少や意識の低下などがあげられ、一番下位の子ども会を支える親たちの役員の輪番制から行事を消化することに向けられてしまうという現実などがある。<BR> また、下位のレベルでは、他の組織との課題として、(1)財政も含めた町内会など組織間の関係(2)青年指導員、体育指導員等との連携の課題(3)行政との課題(4)重複する人材難等の他の組織も関係する構造的諸問題が生じており、従来型組織の低迷が都市部を中心に地域コミュニティの低下の1つの要因とも考えられる。<BR><BR><B>4.地域ネットコミュニティによる新たな動き</B><BR> ネットによる「コミュニティサイト」は、現時点で商業的なものも含めると膨大なものになる。地理的空間の意味合いが強い地域コミュニティとは異なり、ネット上の「場」を用いたコミュニティとも解釈できるが、本報告では、地域発信型のコミュニティサイトから考えていきたい。約120の町内会サイトを町内会サイトを機能性と公式性の2つの面を中心に分析した武藤(2003)は、(1)アクセスが少ない(2)個人管理者も多く、作業、費用負担も多く、後継者が存在しないことなどを指摘しているが、新たに開発された住宅地域では今までとはやや異なる地域ポータルサイトの動きもみられる。これらの研究結果については報告時に詳細を述べたい。<BR><BR>参考文献等<BR>前川明彦(2005)コミュニティ・ビジネスの意義と課題。<BR>「コミュニティ・ビジネス&mdash;新しい市民社会に向けた多角的分析」。白桃書房<BR>武藤宏(2003)「町内会webサイトの実態と課題」http://www.hf.rim.or.jp/hmuto/
著者
太田 慧
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

1.研究目的<br>&nbsp; 本研究は,大都市周辺である千葉県館山市を事例として,海岸観光地における土地利用パターンとその変化プロセスを,時間的・空間的観点から明らかにしたものである.大都市周辺では,都市化と共に農業的土地利用が維持される傾向にある(菊地,1994).さらに,海岸観光地においては,ビーチを中心として都市的土利用が増大する傾向にあるという形態的研究がある(Pearce, 1994).以上のことから,大都市周辺としての都市化の影響と,ビーチ周辺の都市化という2つの影響を考慮し,海岸観光地の土地利用をミクロな視点でとらえ,土地利用変化プロセスのドライビングフォースを時間的・空間的な観点から明らかにすることを研究目的とした. <br>2.千葉県館山市北条地区<br> 房総半島南部に位置する千葉県館山市は,東京都心から約100kmに位置し,大都市周辺に位置づけられる.館山市の北条地区は,JR内房線館山駅が立地するほか,館山市役所やその他の行政機能が集中する南房総地域を代表する都市である.北条海岸海水浴場が立地するJR館山駅の西口は,民宿や宿泊施設が多く立地する観光地として発展している一方,駅東口は従来からの市街地と農地が中心の土地利用である.館山市の観光の歴史は古く,1915年の北条海岸海水浴場の開設にまでさかのぼる.その後,第2次世界大戦以降は観光客数が増加傾向にある.しかし,1990年代以降は人口が徐々に減少し,2010年現在では市の設置要件の基準である5万人を下回った.<br>3.考察<br> 館山市の産業別人口を参照すると,飲食・宿泊業の従業者数が最多である.さらに,産業別人口について特化係数を算出した結果,全国と比較して館山市の産業別人口は飲食・宿泊業が最も特出した産業であり,次いで農林漁業の従業者数が多いことが明らかになった.このため,本研究においては主に観光業と農林漁業に着目して,土地利用変化の要因を明らかにしていく.<br> 館山市の北条地区は,民宿を中心とする個人経営の宿泊施設によって東京からの観光需要を受け入れてきた.民宿を主体とする宿泊施設は,2010年現在ではJR館山駅の西口に集中しており,海岸線沿いを走る内房なぎさラインに沿って立地している.しかし,1993年の館山バイパスの開通や,1997年の東京湾アクアラインの開通によるアクセシビリティの向上によって,館山市の観光客数が増加した一方で,宿泊をともなう観光客が減少した.その結果,民宿数が最多であった1980年の227戸から2010年には55戸にまで減少した.<br> 館山市の農地の現状は,農業地区域のものとその他の農地に分類される.農業地区域においては,大型機械に対応して整備された農地となっており,主に水田として利用されている.一方,その他の農地については,市街地に取り囲まれる形で残存しており,小規模な農地を利用して花卉を中心としたハウス栽培が立地している.しかし,館山市北条地区における農家数は1970年の402戸から2010年には74戸にまで減少し,経営耕地面積についても1970年から2010年にかけて約3分の1にまで減少した.このような農地の減少は,多くのロードサイド店舗が館山バイパス沿いに出店することでさらに促進された.そして,これらの商業地の発展は,JR館山駅前の中心市街地の衰退をもたらした.<br>
著者
太田 慧
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

<b>1</b><b>.</b><b>研究背景と目的</b><br> 大都市周辺の海岸観光地は,数ある海岸観光地の中で最も古い形態の観光地である.このため,近年の大都市に近い海岸観光地では衰退傾向が指摘されており,観光地における新たな地域問題となっている(Urry, 2002; Agarwal, 2007).東京大都市圏に位置する千葉県の南房総地域は,第2次世界大戦以前から海水浴客が訪れていた地域であり,海岸観光地としての長い歴史がある地域である(山村,2009).従来,南房総地域は東京方面からのアクセスが長年の課題であった.しかし,1990年代以降になると,東京湾アクアラインや館山自動車道の開通によって,東京や神奈川方面からのアクセスが著しく改善した.その結果,1980年代をピークに宿泊客数が減少した一方,日帰り観光客が増加傾向にある.このような状況から,南房総地域は日帰り観光地としての性格を強めており,従来の民宿地域は衰退傾向にある.そこで,本研究では房総半島有数の民宿集積地である南房総市の岩井地区を事例として,民宿地域の変容を明らかにすることを研究目的とした.&nbsp; <br>&nbsp;<b>2</b><b>.</b><b>研究方法<br></b>&nbsp; 本研究では,千葉県民宿組合連合会のデータから,房総半島における民宿の最大の集積地として南房総市の岩井地区を選定した.南房総における民宿地域の形成について,町史や地誌をなどの文献から示した.さらに,宿泊客数が最大であった1980年代と現在の民宿地域の構造の変化を,聞き取り調査や土地利用をもとに示し,民宿地域の変容について検討した. &nbsp; <br><b>3</b><b>.</b><b>岩井地区における民宿地域の形成<br> </b> 現在の岩井地区は南房総市の一地区であるが,2006年の町村合併以前は富山町に属していた.旧富山町は海岸側の岩井地区と山側の平群地区からなり,町の中央には南総里見八犬伝の舞台となった富山がそびえている.岩井地区に初めて海水浴客が訪れるようになったのは,明治時代のことである.明治時代の半ばになると,穏やかな海である岩井海岸が中学校の水泳訓練場として利用されるようになった.1918年に北条線(現・JR内房線)が那古船形駅まで延伸されると同時に岩井駅が開業すると,海水浴客や避暑客が増加していった.第2次世界大戦以降には,東京や埼玉などの臨海学校が次々に開設され,1964年にピークに達した(『富山町史』,1993).&nbsp; <br>&nbsp;<b>4</b><b>.</b><b>岩井地区における民宿地域の変容</b> <br> 富山町における海水浴客数は1980年代をピークに減少し続けている.南房総市の岩井地区では,2014年現在における民宿数は最盛期よりも減少したが,現在でも房総半島で最大の民宿地域として維持されている.この要因には,岩井海岸の海水浴場が内房の穏やかな海として臨海学校に利用されているほか,大学生のサークルや臨海学校などの団体客の合宿場として音楽スタジオや体育館や多目的ホールなどを積極的に設置することで,季節型の民宿から通年型の民宿への転換を図ってきた.宿泊客数は夏季の方が多いものの,大学生のサークルが利用することで冬季や春季にも一定の宿泊客が訪れている. さらに,学生の団体客を対象とした「ビワ狩り」などの農業体験や,地域に伝わる昔からの漁法である「地曳網」体験など,農業や酪農や漁業の体験教室を開設することで,従来観光客が集中していた夏季以外の春季や秋季の集客を図っている.また,岩井地区の農家で生産されたビワを使ったワインづくりが行われ,有料道路と一般道の両方から利用できる「ハイウェイオアシス・道の駅富楽里とみやま」で販売されている.以上のように,岩井地区における民宿地域の維持システムには,合宿客をターゲットとした施設改修や農業や漁業をはじめとした地元の産業を活かしたイベントが関わっている.&nbsp; <br><b>[</b><b>参考文献]</b> <br>富山町 1993. 『富山町史 通史編』, pp.476-484. <br>山村順次 2009. 5)南房総地域, 『日本の地誌5 首都圏Ⅰ』朝倉書店, pp.552-567.<br>Agarwal, S. and Shaw G. 2007. Managing Coastal Tourism Resorts &ndash;A Global Perspective.<br>Urry J. 2002. The Tourist Gaze Second Edition, pp.32 Sage.
著者
原 真志
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

<b>1.研究目的</b><br>&nbsp;&nbsp; 2016年はVR(Virtual Reality)/AR(Augmented Reality)/360度映像といったVR関連技術(以下VR)が大いに注目され,「VR元年」と呼ばれるほど商業化の動きが加速しており,コンテンツ産業だけでなく観光,医療,製造業など多産業に及ぶ大きな影響が予測されている(原,2016; 岩田, 2016; Goldman Sachs, 2016). 日本ではHMD(ヘッドマウントディスプレイ)やゲーム・スマホ関係の話題が中心であるのに対し,米国ではハリウッドメジャーやシリコンバレーのIT企業を巻き込み,特にストーリーテリングに関する実験的取組みが盛んに行われている点が注目される.本研究は, CGの学会兼展示会であるSIGGRAPH(2016年8月アナハイム),SIGGRAPH ASIA(12月マカオ))等で情報収集し,LAや東京で実施したVR等関連企業の現地調査を基に,「破壊的」技術と考えられるVRが(原,2016),ストーリーテリングに関するイノベーションとどのように結びついてハリウッド映画とその関連産業に変化をもたらそうとしているのか,その地理的な含意はいかなるものかを考察することを目的とする.&nbsp;<br><br><b>2.ストーリーテリングと「古典的ハリウッド映画」</b><br>&nbsp; 近年,ストーリー性やストーリーテリングが組織論において企業戦略に重要と認識されるとともに(Brown <i>et al</i>., 2005; Denning, 2007; 楠木, 2010),地理学においても関心が高まって来ている(Cameron, 2012;&nbsp; Kerski, 2015).映画産業の黎明期に先進地だったヨーロッパや米国東海岸の「動く絵」に対し,後発のハリウッドが優位に立てたのは,ストーリーテリングの導入・確立というイノベーションによるものであり(Thompson and Bordwell, 2003; Cousins, 2004; Maltby, 2003; Bordwell and Thompson, 2008), Bordwell <i>et al</i>.(1985)は, コンティニュイティ編集,目標志向の主人公,原因と影響,クライマックス,強力な結末等から特徴づけられる観客に分かりやすい「古典的ハリウッド映画」を支配的なモードとして提示している.<b>&nbsp;</b><br><br><b>3.VRとハリウッド映画産業</b><br>&nbsp; HMDでのVR鑑賞では360度の視線の自由が与えられ,またカメラワークや編集の技法が使えないため,演出意図を一義的に視聴者に伝えるのに困難が生じる.伝統的な映画の方法論の不十分さを克服し,「VR酔い」を防ぎ,VRの没入感を活かす新たなVRストーリーテリングの開発が市場での成功に不可欠なものと認識されている(Pausch <i>et al</i>.,1996; Curtis <i>et al</i>.,2016).ハリウッド映画産業にとってVRは機会と脅威の両側面で捉えられ,Digital Domain, Technicolor, 20th Century Fox&rsquo;s Innovation Lab等従来のハリウッド映画関連企業がエンターテインメント系VRプロジェクトに参入している.他方シリコンバレー周辺においても,FacebookやGoogle等IT企業やVCが関与する形で,様々な実験的コンテンツ制作が行われている.そのような例として,ハリウッドのアニメ映画監督を招聘して優れた短編360度VRアニメ「Pearl」を制作したGoogle Spotlight Stories社 ,360度VR映像コンテンツの制作支援を様々な形で行っているOculus Story Studio社,Oculus Story Studio社 のCo-founderのEugine Chung氏が創業した Penrose Studios社,短編360度VRアニメ「Invasion!」を制作し、長編アニメ映画製作の資金調達に成功しているBaobab社等があげられる.&nbsp;<br><br><b>4.VRストーリーテリングとネットワーク社会</b><br>&nbsp; 約1世紀前に撮影・上映という技術革新を基にした映画産業の確立にストーリーテリングという感性価値に関するイノベーションが大きな役割を果たしたことが,21世紀のVRの時代に再来している.ただし排他的特許戦略をとったエジソンの例を他山の石としてか(Thompson and Bordwell, 2003),SNSとオープンイノベーションが普及している現在では,買収したOcculusを通してFacebookがVRコンテンツ制作のノウハウの開発と普及を図り,また開発した4Kの360度カメラをすぐにオープンソースにするなど,長期的戦略の投資で産業確立のための公共財提供を行って参入を促し市場成長を牽引している点は興味深い.
著者
福岡 義隆 中川 清隆 渡来 靖
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.260, 2009

1.はじめに熊谷と多治見が日本一高温になった理由をヒートアイランドというlocal-climateのみならずmeso-climateのフェーン、macro-climateのラニーニャなどとの関係で考察し、WRFモデルによるシミュレーションの可能性と限界にも触れる。2.暑さの原因およびメカニズム 熊谷や多治見が暑いのは何故か、考えられる要因を次にいくつかあげてみよう。_丸1_内陸型気候説(海岸からの距離)_丸2_都市気候成因説_丸3_フェーン説~近くの山岳(高原)の影響(滑昇反転下降流)_丸4_谷地形(谷風循環反転下降流)_丸5_逆転crossover現象との関係_丸6_夏のモンスーンとラニーニャ 本稿では特に_丸2_の都市気候説と_丸3_フェーン説を中心に考察を進めた。3.都市気候形成のバックグラウンド 気候の内陸度については、大陸度(K:、ゴルチンスキーの式、A:気温年較差、Φ:緯度) K=1.7×(A-12sinΦ)/ sinΦ によると、東京が43.7であるのに対して熊谷は45.8と大きい。なお、名古屋は48.2、多治見は51.9 である。仮に海風で東京や名古屋の方からの熱移流があったとしても海岸からの距離や、低温の海風による昇温抑制効果などを考えると、臨海大都市の影響はあまり考えられない(東京37℃、34℃)。 さらに、2007年の夏だけについて考えられることは、かなり強く広範囲に及ぶラニーニャの条件下にあって西太平洋全般に高温状態にあったことも確かである。3.フェーン説に関する考察 2007年8月16日や2005年8月6日などの熊谷市の高温時には明らかに西~北西風が吹いていた。この2例以外でもかなりの割合で関東山地越えの風の時に猛暑になっている。明らかにフェーン風発生にともなう気温上昇と考えられる。まれにはウェットフェーン時のタイプもあるが、多くはドライフェーン時のタイプである。フェーンによる熊谷市など北関東の高温現象は、渡来靖ら(2008)のシミュレーション解析でも明らかにされている。参考文献河村武 1964. 熊谷市の都市温度の成因に関する二三の考察、地理学評論 37 560-565浅井冨雄 1996. 『ローカル気象学』 東大出版