著者
時田 浩
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.45, pp.355-369, 2012-03

ギリシア悲劇以来の長い演劇史の中で,現実そっくりの舞台をつくることは19 世紀後半か ら試みられるようになったにすぎない。その時代には,芝居がかった演劇手法は排除され,自 然主義的な演劇が高く評価された。ゾラの主導のもと,イプセン,チェーホフ,トルストイらが 自然主義的作品を発表し,それまでは舞台に載せられなかった世界が描かれるようになった。 トルストイが異常なほどにシェイクスピアを嫌悪していることはよく知られている。特に, 『リア王』を挙げて詳細に批判している。それにもかかわらず,シェイクスピアのこの戯曲は 現在も傑作として名高い。ヤン・コットが言うように,現代の演劇に通ずる要素をもっている からであり,ベルトルト・ブレヒトはそこにシアトリカルな演劇の可能性を見出した。 ブレヒトは〈異化〉という概念で新たな演劇の方向を探ったが,その際には意図的にシアト リカルな身ぶりを求め,同化を目的とする演劇とは違う楽しみを観客に与えようとした。それ は観客に考えることを期待したのであり,そのために異化という手法を作品の中に導入した。 彼はシェイクスピアなどの演劇の手法を再利用し,それによって,自然主義以前の演劇の手法 を復権させ,新しい演劇の可能性を追求した。
著者
吉田 卓爾
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.51, pp.418-387, 2018-03

京都の北山にある鹿苑寺は、開基足利義満、勧請開山夢窓疎石とする禅の名刹である。しかし、鹿苑寺に現存する頂相・墨蹟を初めとした什物の伝来や性格には不明な点が多い。近年、禅文化との関わりが指摘される奇想なる美術への関心が高まる一方で、禅宗寺院における信仰の姿に目が向けられる機会は少なく、とりわけ、近世鹿苑寺における信仰と美術作品との関係について取り上げた研究は皆無に等しい。本稿では、第一に諸資料を精査し、鹿苑寺に現存する什物の伝来過程や使用方法についての情報を広く収集する。第二に、第一の成果に基づき、特に遠忌記録における什物の使用例に着目し、本山相国寺の状況とも比較しながら、諸々の什物が備える機能や役割について考察する。以上の成果を踏まえて、最後に近世鹿苑寺における信仰の在り方と変遷についてまとめることとする。
著者
並松 信久
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.33, pp.46-73, 2005-03
被引用文献数
1

京都帝国大学は,わが国で二番目の帝国大学として創設される。その創設以来,沢柳事件・河上事件・瀧川事件というように,大学の自治をめぐる事件が数多く起こっている。しかしながら,総長人事や教授人事に関する問題は,これらの事件が発生する以前に,すでに起こっている。その先駆的な事例が岡田総長退職事件である。第二代総長となる岡田良平は,その在任期間が約10 カ月と短く,しかも総長退職をめぐって教授側と文部省との対立をみている。 岡田良平は幼い頃から報徳主義の影響を受け,文部官僚となった後も,この思想をモデルとすることがしばしばみられる。岡田良平は文部官僚だけでなく,第一高等学校教授,山口高等中学校校長などの教職も歴任する。報徳主義の影響と教職の経験によって,岡田は自らの教育理念をつくっていくが,それを創設後約10 年を経過していた京都帝国大学において実践する。岡田良平の就任時の京都帝国大学は,創設期における独創性を失い,その研究教育体制の構築において苦悩していた時期である。したがって,文部省から送り込まれた官僚である岡田良平の実践は,教授側の猛反発を招く。 岡田良平の総長退職は,岡田良平の文部次官と総長の兼任をきっかけに,急速に展開する。結果的に山県有朋の判断で,岡田良平は総長を退職して文部次官専任となるが,それはもちろん京都帝国大学が新たな研究教育体制を構築したからではない。岡田良平が突きつけたのは,大学のあり方に関する問題であるが,京都帝国大学はそれに答えることなく,大学自治の問題が,主要な課題となっていく。つまり大学の問題は,研究教育体制の確立ではなく,自治の問題へと転化している。一方,岡田良平は総長退職後に文部大臣となり,現在の高等研究教育制度の基礎となる大学令の公布に大きな役割を果たす。この大学令には,岡田良平の報徳主義や京都帝国大学での経験による成果がみられる。 1.はじめに 2.京都帝国大学の創設期 3.岡田良平の経歴 4.岡田総長の大学運営 5.岡田総長退職後の展開 6.結 語
著者
井尻 香代子
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.50, pp.163-179, 2017-03

現在多様な言語で作られているハイクの普及プロセスと特色を明らかにするため,筆者はアルゼンチンのケースについて,受容プロセス,季語,韻律,価値観の変化という四つの視点から調査・分析を行った。その後,季語については現地特有の動植物や時候の変化,生活習慣や宗教的,文化的行事を表現する多くの言葉が,豊かな意味と感性を含み受け継がれていることに気づくようになった。移民国家であるアルゼンチンにおいてこうした言葉のグループはさまざまな側面を含みつつ,徐々に共有されることとなった感受性の目録と捉えることができる。本稿では,現時点で重要と思われる言葉を中心に歳時記構築への第一歩を踏み出すことを目指している。第1 章では日本の伝統詩歌において季語がどのように誕生し,変化してきたのかを概観し,現代の俳句季語をめぐる状況を考察する。第2 章では,国際ハイク研究者や実作者の近年における季語の扱いを検証する。そして第3 章では,アルゼンチンのハイク作品集から季語としてふさわしい語を抽出し,歳時記構築に向けた試みに向けていくつかの例を提示したい。この作業は,アルゼンチン・ハイクの特色を理解し,ひいては国際ハイクの現状をあぶり出す試みとなるだろう。
著者
長谷川 晶子
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 = Acta humanistica et scientifica Universitatis Sangio Kyotiensis (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
no.48, pp.317-331, 2015-03

本論の目的は,シュルレアリスム運動の理論家アンドレ・ブルトンの絵画論における神話をめぐる思考を明らかにすることである。現代の特殊性を歴史としてではなく,暗示的で謎めいた神話として語ることは,シュルレアリストたちに共通したふるまいであり,とりわけ第二次世界大戦後のブルトンによる神話論はこれまで多くの研究対象となっている。これに対して本論は,ブルトンの神話に対する関心の芽生えた時期である1920 年代に焦点を当て,さらに絵画論をコーパスとすることによって,ブルトンの抱いていた神話という観念の特色を明確にすることを目指す。まず,ブルトンがイタリアの画家ジョルジオ・デ・キリコの絵画にどのような神話的要素を見出していたのか,次いで,その現代の神話とされたものの特徴のいくつかを検討する。個々の絵画の分析を踏まえて,ブルトンが1910 年代に創作されたキリコの一連の作品群の変遷を,シュルレアリスムの自動記述の冒険を象徴的に予言したものと捉えていることを論じる。最後に,キリコの作風に決定的な変化が生じたことをうけて,ブルトンがキリコの才能の死を宣告し,神話の語り部としてのキリコの役割を終わらせたことの意味を考える。今後,ブルトンは他の画家の絵画論において,どのように現代世界の原理や未来の暗示を絵画の中に読み取るかという課題を追求していくことになる。
著者
三好 博之 戸田山 和久 郡司 幸夫 檜垣 立哉
出版者
京都産業大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2003

三好は計算が二つの意味で記述不可能であるという困難を明確にし,リフレクションと呼ばれる計算から着想を得た形而上学的装置一式を導入してこの困難を間接的に手懐けるというアプローチを見いだした。その記述と理解のためにHume-Bergson形式と呼ぶ記述形式を導入し,これらと上記の困難を結びつけて,その困難を超えた明証的な理解があり得ることを示した.さらにこれが時間論における入不二の考察と近いことを示した。また精神病理学および物理学への応用に向けて予備的な研究を行った。戸田山は今までFieldらにより主に数学と物理学について議論されている認識論の自然化を,現象としての計算に適用する場合の問題点について,普遍的な計算概念よりもむしろ個別の事例について検討を行うことにより研究を行った.そこでは認識論の自然化と同時に実在論を擁護する立場を強調した。郡司は動的情報射を用いた動的・局所的意味論に関する研究を行った。さらに観測由来ヘテラルキーの理論についての研究を行い,ゆらぎを持つ環境の中で頑健な挙動を示すシステムの一般的理論を展開した.現在これらはオープンリミットというアイデアとして一般化されつつある。檜垣は西田幾多郎の哲学において議論されている数理的な議論が現象としての計算という観点から見ると重要な意味を持つことを見出し,このことについて検討を重ねた.その際西田およびドゥルーズの生命論との関連に特に着目して議論を行った.そこでは西田の哲学における数理的側面についても改めて光を当てている。塩谷賢は、「計算」とは科学哲学、技術論、哲学的方法論を含む様々な問題に関する集約点の一つを示す根源的な自然種であるという立場から、「計算」について得られた知見を「計算=操作性のレベルにおける接続子による操作性の延長」として再検討することを提唱した。