著者
高山 秀三
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.55, pp.57-89, 2022-03-31

トーマス・マンは信仰の人ではなかったが,その作品にはキリスト教的なモチーフが多く取り扱われている。マンにとって,キリスト教はヨーロッパ文化の根底にあるものとして生涯をとおして大きな関心の対象だった。『ブッデンブローク家の人々』はプロテスタンティズムを精神的基盤とするドイツの市民社会を舞台とする小説であり,マンにとってはじめて本格的に宗教を取り扱うことになった作品である。この小説では,市民社会のなかでプロテスタンティズムが息づいている様相が,人々の具体的な生活を通して活写されている。舞台となっている時代は大きな社会変動の時代であり,プロテスタンティズム信仰の衰退期でもあった。『ブッデンブローク家の人々』は資本主義の進展や教養市民層の興隆などの社会変動に対応できないままに,信仰を失っていった伝統的な市民家族の四代にわたる没落の歴史である。本論はこの一族の没落と信仰喪失の過程に焦点をあてている。
著者
島 大吾
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.55, pp.157-185, 2022-03-31

「ひめゆり学徒隊」は,沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校という2 校から動員された未成年の女学生によって1945 年に編成された。沖縄戦開始と同時に動員されて戦場で看護活動にあたった彼女たちは,その大半が戦場で命を落とした。今日に至るまで「ひめゆり学徒隊」はさまざまな媒体で物語として語られ,沖縄戦の悲劇を象徴する存在として知られている。本稿はその数多くの作品の中でも1945 年から1953 年までに製作および発表されたものに焦点を当て,それぞれの作品の「ひめゆり学徒隊」描写が,1953 年の宝塚版『ひめゆりの塔』に与えた影響について考察する。菊田一夫は戦中に劇作家として戦意高揚劇を量産した自らの責任を自覚し,戦意高揚劇に熱狂した観客と劇作家の自身との関係を,「ひめゆり学徒隊」と引率教員との間に見出して,宝塚版『ひめゆりの塔』の脚本に投影していた。同時代のナラティヴと比較検討することで,本稿は,宝塚版『ひめゆりの塔』が,戦争の「被害者」をどのような多層的なイメージとして描き出したのかを明らかにする。
著者
渋江 陽子
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.53, pp.167-196, 2020-03-31

本稿では,イタリアの詩人ガブリエーレ・ダンヌンツィオが第一次大戦以前の飛行機パイオニア時代に,飛行機とどのような関わりをもったのかを概観し,考察する。 イタリアの飛行機時代の幕開けは1908 年頃である。翌年4 月にウィルバー・ライトがローマを訪れ,パイロット候補者に飛行訓練を行った。9 月にはブレッシャ近郊で,イタリアでは初めての国際飛行競技会が開催された。この大会はイタリアが飛行機の分野で発展を始める契機となった。 ダンヌンツィオは,ブレッシャ大会で飛行機に乗せてもらう機会を得た。詩人の飛行機への関心は熱狂的なものとなり,この新しい乗り物を表す単語をラテン語から導入することを提唱した。飛行家が主人公の小説を書き,この航空機についての講演会も開いている。 飛行機小説には,主人公がグライダーの滑空練習を経て,エンジン付きの飛行機を製作する場面がある。アメリカやフランスにはあっても,自国にはないと感じた狭義の飛行機パイオニア時代を描くことによって,ダンヌンツィオは現実を補完しようとしたのではないかと思われる。
著者
池田 昌広
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.29-47, 2013-03

班固『漢書』は成書以来,複数のテキストが行われてきた。初唐に顔師古による校注本があらわれ,これが普及するにつれ標準本となった。小論は唐代における師古本普及のさまを推測するため,盛唐に成った司馬貞『史記索隠』と張守節『史記正義』とが師古本を利用しているか否かを調査した。その結果,索隠では利用に否定的,正義では肯定的結論を得た。索隠がおもに依拠した『漢書』テキストは師古本以前の標準本たる東晋の蔡謨集解本であったらしい。 正義では蔡謨本利用の痕迹は見つかっていない。 果たして,旧来の蔡謨本によった索隠と,あらたな師古本によった正義と,両者の『漢書』テキストの選択は対照的といえる。これの成因は索隠と正義との成立の時間差と思われる。正義は開元24年(736)の成立,索隠はそれより一世代分ほど早く成ったようだ。この間隔に師古本の普及が一定程度すすみ,正義の師古本利用を可能にしたと推量される。このことから師古本は成立後,急速に普及したのではなく漸次的に普及し,盛唐のころ蔡謨本から師古本へ 『漢書』の標準本の交替がおこったと考えられる。
著者
小林 武
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.52-76, 2010-03

西洋近代的なutility の観念は,19世紀後半に中国や日本に紹介された。「功利」や「利用」「楽利」といった漢語がその訳語にあてられたが,儒教や道家思想が「利」や「功利」の追求を,人間を打算的にし,心の純粋さを汚すと否定的に考えてきたこともあって,「功利」という訳語は,中国では日本と違って普及しなかった。清末においては,「楽利」の語が代わって用いられたが,それでもutility の考え方は,何にとっての利,誰にとっての利なのかという公私観とも関連して,その理解が容易に進まなかった。 このように清末におけるutility観念の受容と理解の問題は,たんに翻訳論に止まらず,中国の倫理思想上の大きな問題に関係していたが,本稿では,この大きなことがらには踏みこまず,次の4点に限って考察したい。 (1)19世紀の漢英字典・英漢字典に見えるutility の訳語 (2) 清末と明治において翻訳紹介されたW.S.ジェヴォンズ(1835 ~ 82)の経済学書に見えるutility の訳語 (3)「功利」という言葉に対する伝統的理解の概略 (4) 李提摩太(ティモシー・リチヤード)(1845 ~ 1919)の著書と梁啓超(1873 ~ 1929)の論文に見られる分業と利の捉え方 要するに,清末における功利観を主として言葉を手がかりに考察し,utility観念の受容と理解の背後に,人間と倫理をめぐる大きな文化的背景のあったことを知ろうとする。
著者
今井 薫
出版者
京都産業大学
雑誌
産大法学 (ISSN:02863782)
巻号頁・発行日
vol.46, no.1, pp.1-8, 2012-07
著者
鍵本 優
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.293-330, 2022-03-31

「self」「personality」「主体」「identity」「自己」「自分」といった諸用語は,類似した意味を含みながらも,それぞれ特徴と限界をもつ。本稿の目的は,「自分」と諸用語を比較検討し,社会学的な「脱・自分」論の対象を分類・整理する認識枠組みを示すことである。本稿の結論は次のようになる。「自分」の語と概念には近代日本社会特有の複雑さがある。自分が「脱」の対象となるとき,その複雑さはとくに反映される。この考察は社会学に新たな理論的知見をもたらす。自分の再帰性には,内容の多様性以外に,形式の多元性が関わる。今後は,自分の再帰性に関わる多元的な形式にも着眼した社会学的議論が期待される。
著者
吉田 眸
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.113-133, 2004-03

『セイレーンの沈黙』という標題で知られるカフカ版のオデュッセウス・テクストを,校訂 版に基づいて精細に読み直す。同時に,ホルクハイマー/アドルノの『啓蒙の弁証法』におけ るオデュッセウス像とカフカ版のそれとの違いにあらたに分け入る。その際,『啓蒙の弁証法』 には弁証法的な光を当てる一方,カフカ理解においては弁証法的なものの混入を斥ける。
著者
高橋 純一 大庭 伸也 熊野 了州
出版者
京都産業大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2017-04-01

対馬、壱岐、北九州、大分に侵入した特定外来種ツマアカスズメバチについてミトコンドリアDNAの全長解析から国内に侵入した個体間には遺伝的変異は存在しないこと、自然分布地の中国、台湾、ベトナム、中国浙江省の個体と一致することがわかった。食性は樹冠に生息する昆虫類であることをDNAバーコーディング法により明らかにした。捕獲トラップは地上部よりも、樹冠10m付近が最も多く捕獲することができた。繁殖は、主に樹冠で交尾をするキイロスズメバチと交雑をしており、在来種に対して繁殖干渉を行っていることがわかった。
著者
渡辺 史央
出版者
京都産業大学
雑誌
高等教育フォーラム = Forum of Higher Education Research (ISSN:21862907)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.13-24, 2022-03-29

近年、スポーツのグローバル化に伴い、海外から日本にスポーツを目的に留学する外国人留学生が増加傾向にある。しかし、彼らへの日本語教育や言語支援についての具体的な実践研究はこれまでほぼなされていないのが現状である。本研究は、外国人スポーツ留学生の日本語支援の一環となる教材開発や教育実践に向けた研究ノートである。授業において、ラグビー情報誌からの英語とトンガ語の語彙リストの作成を学習者主体の活動として行った。考察の結果、英語からの借用語以外に、スポーツ全般に共通する語、一般的な意味とは異なる使い方や競技特有の状況や文脈における使われ方をする語などがあり、今後の専門日本語教育の実践において留意すべき点が明らかになった。さらに、授業におけるタスク活動の取り組みを紹介し、スポーツを目的とする留学生の日本語クラスでは、学習者ニーズを特定化することの重要性に加え、TBLT 理論に基づくタスク・ベースの授業実践が有効であることを示唆した。
著者
近藤 浩一
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.52, pp.237-260, 2019-03-30

本稿は,『日本書紀』にみられる新羅の真平王代後期に展開された対倭外交について,既往の研究と異なり新羅史の観点から検討した。これを通して,真平王代後期の対倭外交は,従来の指摘のように百済・高句麗との対立から倭の支援を引き出そうとした従属的な態度で始まったのではなく,対隋・唐外交の進展と国内の官制整備を達成した自信をバックに,積極的な外交政策のもと実行されたことを明らかにした。 真平王代(579~632)に展開された対倭外交の特徴をみれば,真平王は在位後半に至るまで倭に対しほとんど外交活動を実施しなかったが,真平王32年(610)を契機に態度を大きく変化させた。これ以後,真平王は立て続けに使者を派遣し倭と活発な外交活動を推進している。 こうした背景としては,即位直後から着手した真平王の国内外政策の成功が原動力となったと考えられる。真平王は,国内の官制整備が一段落する真平王16年(594)に,隋に使者を派遣して対中国外交を始動した。さらに唐が建国されると,領客典を設置するなどその動きを一層加速化させている。こうした関係をもとに高句麗・百済に対抗できるまでの外交能力を獲得したが,真平王はそれらをもとに一層王権強化を実現し,後期には対外意識が大きな高まりをみせたのである。 それゆえ,当該期の対倭外交は,積極的な外交政策のもと展開したとみられる。新羅側の新たな動向は,日本側の記録であるが『日本書紀』の内容にみられる通りであり,まず真平王代後期から倭に多くの仏教文物を送り始めている。特に真平王44年(622)は,新羅使節が仏像及び仏舎利・幡など多くの仏具を持参する様子が鮮明に確かめられる。さらにこのときは,百済や高句麗の僧侶たちが集まる飛鳥寺に代わり四天王寺が新たに登場し,新羅が送った仏舎利などの仏教文物はそこに施入されている。 この要因を考える上では,真平王代の新羅国内での仏教の役割が注目される。新羅では,前代の真興王以降国王を転輪聖王・釈迦仏に比定し貴族を弥勒菩薩とすることで,王権と貴族勢力が一定の秩序を形成していた。新羅仏教は王権を象徴する思想的基盤であったといえ,新羅が貢納した仏像・仏具も同じく新羅王権の象徴物であったことが窺い知られる。したがって真平王は,このような仏教文物を倭に送り新羅の王即仏思想を伝えることで,倭王を真平王の仏国土に引き込もうとしたと考えられる。 さらに同じ622年には,新羅使節が新羅経由で在唐倭人留学生を倭に送り届けている。この時から新羅と倭の間では,留学生を通じた外交関係が真平王に続く善徳王代まで継承されたのである。こうした留学生は,帰国直後に新たな外交政策を提言した恵日らの言動からわかるように,倭の外交活動に直接影響を及ぼす存在であった。真平王は,622年を契機に在唐倭人留学生とも関係を築きながら,倭に新羅の思想・制度などを伝播させようとし,それらを通じて倭国内でいわゆる「新羅化」を模索した可能性までが推察される。
著者
鈴木 紀子
出版者
京都産業大学
雑誌
研究活動スタート支援
巻号頁・発行日
2021-08-30

研究者の研究活動活性化の支援を目的として日本にURA制度が導入されて10年が経過し、現在、国内の研究機関に約1,500人のURAが配置されている。これまでURAのキャリアについては、着任前の職種に主眼を置いた大規模な調査研究が行われてきた。しかし有期雇用が半数以上を占めるURAのキャリアパスの実態を知るには、前職の調査研究だけではなく、後職、すなわちURAが別の研究機関・職種へと異動・転職する過程にも着目する必要がある。そこで本研究では、URA経験者にインタビュー調査を行い、着任前後を通してキャリアを分析することで、URAの定着性、研究機関間の流動性、キャリアパスの多様性を明らかにする。
著者
蓮井 敏 濱地 賢太郎
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.195-202, 2004-03

経済学教育において数学の利用が増加しているいっぽう,経済学部学生の数学の学力にはむしろ低下が見られ,早期に基礎学力の回復と向上のための数学教育が必要である。 そこで,経済学学習に支障をきたす恐れのある数学の学力が十分でない新入生を対象とする入門授業を開講した。入学直後の新入生全員を対象に,数学についてのプレイスメント・テストをおこない,とくに成績下位の学生には受講を強く勧めた。中学高校の教科内容を中心に,努めて経済学からの例題を教材として活用した。また演習と質疑に重点をおくために,大規模人数の講座を避けて複数の講座を開講した。 この授業の効果を3ケ月後に調べると,同一問題についての正解率は着実に向上している。とりわけ成績が下位であった学生において顕著に効果が現れたことからも,早期に学力回復・向上を目的とする数学の講座に効果があると言える。
著者
藤野 敦子
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
no.29, pp.39-68, 2012-03

日本、欧州ともに、労働市場において、非正規雇用者が増加してきている。サービス業の比率上昇や、グローバル化の進展とともに雇用流動化が進められてきているためである。そのような中で近年、日本において、非正規化問題の政策的な議論が活発になされるようになってきている。特に、最近は、日本の問題を多面的に捉えるために、欧州の非正規雇用との比較が重要視されるようになってきた。 そこで、本稿では、EU諸国の中核にあるフランスの非正規雇用に焦点を当て、その特徴や実態を考察するとともに、非正規雇用者の就労意識をフランス・日本で比較分析したいと考える。そこから日本の非正規問題の課題について考える契機としたい。なお、本稿での考察、分析には、著者が、2008年に日本で実施したアンケート調査とインタビュー調査、2010年にフランスで実施したアンケート調査とインタビュー調査から得られたミクロデータを使用する。 得られた主要な知見は以下の通りである。 第一に、雇用流動化とともに拡大してきたフランスの非正規雇用における有期限雇用者の仕事全般の満足度は決して低くない。有給休暇の権利や職業訓練の権利が無期限雇用者と同じ条件で与えられる他、不安定雇用を保障する手当が上乗せされるといった措置があるからである。また、無期限雇用に移行するステップとして考えられていることも関連している。 第二に、フランスの非正規雇用のパートタイム雇用者は、非自発的な選択であることが多い。パートタイム男性の場合は、約6割強が非自発的選択をしており、日本の男性パートタイマーとよく似た状況であることが示されている。 第三に、日本の場合には正規雇用では雇用安定性、賃金に満足度が高く、非正規雇用では、時間や休暇に満足度が高い。日本の働き方の選択は、安定と賃金を取るか、時間や休暇を取るかという二者択一の状況にあることが反映していると思われる。一方、フランスの場合には、非正規雇用でも雇用安定性に満足であったり、賃金に満足であったりする働き方が存在している。 日本には、1970年代以降に志向してきた性別役割分業社会がなお根強く残っている。今もなお、正規雇用は男性的、世帯主型の働き方で、非正規雇用は女性的、家計補助型の働き方である。一方、フランスは、同時期以降、就労する女性を積極的に支援する男女平等型社会を志向してきた。そのような中でフランスでは、雇用形態あるいは性別によって、労働条件、社会保障に差別のない制度を不断なく構築してきている。なおパートタイムに男女不平等的な側面が若干見られるものの、労働者側の非正規雇用に対する満足度が日本に比べ、多様でかつ高いのは、そのような普遍的な制度構築のためであろう。要旨1.はじめに2.データ3.フランスの非正規雇用の特徴と実態 (1)フランスにおける非正規雇用とは何か (2)フランスの有期限雇用契約の定義と実態 (3)パートタイム契約の定義と実態 (4)非正規雇用の平均収入、労働時間の実態について4.就労意識のフランス・日本の比較 (1)仕事全般の満足度 (2)雇用形態間でのフランス・日本の仕事満足度(各項目)の比較 (3)仕事全般の満足度と①~⑩の仕事の各要素の満足度の相関分析5.おわりに6.参考文献7.脚注
著者
瀬邊 啓子
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.209-222, 2006-03

中国では近年巨額コストをかけた映画やハリウッド映画の人気を集め,低コスト作品や地方制作の映画がヒットすることが難しい情況にあった。そんななか2002年,地方の映画制作所で制作された低コスト作品の映画『暖春』が異例のヒットを飛ばした。映画『暖春』は最初制作された山西省で都市部のみならず,山西の貧困地区でも人気を博した。そのため『暖春』の人気は口コミで広がり,山西省のみならず北京や上海,香港などの大都市でも成功をおさめ,わずか200万元の制作費に対して,1,500万元の興行収入をあげ,"暖春現象"と呼称される現象にまでなった。 本稿ではこの『暖春』現象を通して,中国における映画市場の現状について概観するとともに,『暖春』の成功の要因を分析した。 『暖春』は山西と思しきある貧困農家に少女が拾われたことで繰り広げられる人情ドラマである。"暖春現象"にまで昇華したのは,フィルム・コピー数が異例の560強を数え,また制作費に対しての利益率の高さによる。同時期に公開された映画『英雄(ヒーロー)』の興行収入と中国では公開劇場数が多かった『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』のフィルム・コピー数の2つの側面から比較して見ると,『暖春』のヒットは二級市場におけるヒットであることが分かる。この点から中国の映画市場の二分化がより明確になり,『暖春』現象が「二級」市場として歯牙にもかけられなかったマーケットの新たな市場性を示唆したことが明らかとなった。 『暖春』は「泣ける」映画として人気を博したが,驚異的な興行収入をあげた『英雄』の存在がこのヒットと関連していると考えられる。まずは『英雄』を凌駕したという話題性に加え,『英雄』などの娯楽大作に対して,徹底した人情ドラマを分かりやすい手法で表現したことがあげられる。次に山西という特異な地域で制作,公開されたことによる。山西は中国において貧困地域であり,映画のなかで描かれた農村における理想像は,自分たちの貧困からの脱出への活路を示していた。主人公たちの苦しく貧しい生活を自分たちの現実に投影しながらも,教育を受けて大学に進学し,かつ卒業後に村へ戻って村に貢献するという理想的な姿を示したことで,多くの貧困地域の観客を惹きつけた。 全国でヒットした背景にはさらに主人公小花を演じた張妍のけなげな演技がある。小花の姿はあたかも「おしん」のようであり,ここから『おしん』型のヒットと言うこともできる。 以上のように,『暖春』現象から中国における映画市場の二分化の現状が明確になり,『暖春』現象が示唆した新たな市場が中国映画界にとって新たな命題となったことが分かる。そして山西という特異な地域であったからこそ『暖春』が受け入れられ,全国に波及し『暖春』現象にまで昇華されていったのである。
著者
岩本 康志 福井 唯嗣
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
no.28, pp.159-193, 2011-03

本稿は、医療・介護保険財政モデルの最新版(2009年9月版)を用いて、長期的な視野からの社会保障の公費負担の動向について分析する。今回のモデル改訂では、社会保障国民会議の医療・介護費用のシミュレーションの経済前提を取り入れるとともに、国民健康保険と全国健康保険協会管掌健康保険の加入者数を推計することで、これらの制度への公費負担を考慮に入れた。 社会保障国民会議による推計によれば、医療・介護費用に対する公費負担は、2007年度から2025年度までGDP比で1.8%増加する。本稿の分析では、2025年度以降も公費負担の増加がつづき、2050年度にかけてGDP比で2.3%(医療が1.25%、介護が1.05%)増加すると推計された。さらに、2050年度以降も約20年間にわたり、公費負担は増加を続ける。長期的視点にたった税制のあり方を検討する際には、このことを考慮に入れて、安定的な財源確保の手段を考えるべきである。 後期高齢者に重点的に公費が投入されていることから、将来の公費負担の伸び率は保険料の伸び率よりも高いことを今回の推計は示している。すでに混迷しつつある税による財源調達は、今後はさらに困難になることが懸念される。財源調達の重点を税から保険料に移す方向への改革も検討する必要がある。その際には、給付と負担の関係をより明確にし、国民の理解を得る制度上の工夫が必要である。医療・介護費用の事前積立はその工夫の一つである。
著者
福冨 言
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
vol.24, pp.67-89, 2007-03

本研究は、日本のマーケティング研究の学術誌である『季刊マーケティング・ジャーナル』と『マーケティング・サイエンス』に過去10年間(1994年~2004年)において掲載された全論文を対象にその内容を分析するものである。この分析のため、各論文の執筆者が“何を説明しようとしているのか”、“その説明の際にどのような要因を重要視しているのか”について集計した。前者を“被説明変数”、後者を“説明変数”と呼び、各論文において用いられている尺度の種類とともにダミー変数を作成し、相関分析をおこなった。 その結果から、近年日本のマーケティング研究の2つの柱石を確認することができる。第1の柱石とは、“メーカーの対外的・戦略的な行動”を“メーカー間の競争や協調といった水平的関係に関する変数”と“メーカーに内在する変数”(技術や資産など)に注目して説明しようとするものである。 第2の柱石は消費者行動に関する研究である。ほぼ半数の論文が“消費者の購買行動”や“消費者の内的な特性”を説明変数としていることがわかる。特に“消費者の内的な特性”(製品知識や関与水準など)は“消費者の購買行動”を説明する際によく用いられている。ただし、消費者に関するこれらの変数を用いた実証研究はリアクティブな尺度を用いた調査に依存していることを確認した。その他の発見事実については本文中において触れる。 以上のことから、日本のマーケティング研究者の関心は、メーカーの行動と消費者の行動・特性を主要な変数とすることに集中しているといえる。この集中傾向は“マーケティングとは何か”、あるいは“マーケティング研究とはどのような研究か”という問いに対する学界の1つの回答であると同時に、日本の学界において見過ごされてきた研究課題をも示唆するものであろう。