著者
中川 清隆 渡来 靖 福岡 義隆
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.89, 2010

<B>I.はじめに</B> <BR> 立正大学地球環境科学部環境システム学科環境気象学分野は,1998年の学部創設と同時に,熊谷キャンパス気象観測露場において総合地上気象観測装置設置に着手し,2000年1月からルーチン観測および同記録の整備を開始した(福岡ほか,2004).<BR> 観測開始当初は基本的な気象要素のロガー式観測であったが,近年,放射4成分,地表面温度等の観測項目追加およびデータのリモート収録・管理方式導入に着手し,この度,ハード的な整備がほぼ完了した.<BR> データ収録・管理方式切替作業を開始した2009年8月17日以降4ヶ月余りの間の全天日射および下向き長波放射の時系列に基づいて日界から日界までほぼ完全に快晴であったと判断できるのは,当該期間では12月22日の1日だけであった.出現頻度が極めて低い静穏完全快晴日における地上気象要素の日変化の特徴について検討した結果を報告する.<BR><BR><B>II. 観測結果と考察</B><BR> 12月22日06時の地上天気図(省略)によると,東北以北は冬型気圧配置が継続しているが,関東以西は東支那海に中心を持つ移動性高気圧に覆われて南高型気圧配置となり終日静穏晴天が続いた.<BR> 12月22日の日出,南中,日没時刻は,それぞれ,6:55,11:41,16:27なので完全快晴ならば全天日射量は6:55~16:27のみに出現し,11:41にピークを持つ滑らかな一つ山曲線にならねばならないが,12月21日午前や12月23日正午付近はこの条件を満たしていない.12月21日12時~12月23日18時の下向き下向き長波放射量には急激な増減が存在しないので,雲による付加放射は無かったと判断される.南中前後の非対称な日射量日変化は,対流混合層発達に伴う透過率や直達散乱比率の日変化を反映している可能性がある.<BR> 最低温度は日出直後の07:00に現れ,地表面温度(太実線)は-6.88℃,接地気温(実線)は-5.92℃,地上気温(細実線)は-4.57℃である.地表面温度は13:10に日最高温度13.12℃に達し,日最高気温は14:10に,それぞれ,11.23℃と10.58℃に達した.日射と気温の位相差は2.50時間に及ぶ.この事実は,中川ほか(2008)による水平移流のない平坦地における日射-気温日変化位相差形成メカニズムと整合的である.<BR> 日最高気温起時以降翌朝日出時まで,接地逆転が出現している.夜間の温度時系列には様々な振動が認められる.付加的雲放射を伴った12月23日夕刻の一時的な昇温以外の振動は顕著な放射場の変動を伴っていないが,風速の変動と同期しているものが多い.接地逆転層の破壊・再生による可能性が大きいが,風向と風速の変動が同期しているように見え,静穏晴夜の北西風吹走時は西風吹走時より相対的に強風・高温なので,移流の可能性も有り,更なる検討が必要である.静穏晴夜後早朝に反時計回りに風向変化する東風風系,南中後には南風風系が認められるが,これらの風系の形成メカニズムについても検討が必要である.
著者
横川 知司
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2021, 2021

<p>1.はじめに 2021年7月現在,新型コロナウイルスは全世界的に流行し,社会的・経済的な影響を与え続けている。日本においても,感染拡大を防ぐために「新しい生活様式」という考え方が提唱され,多人数が集まるイベントの多くが制限された。伝統行事も例外ではなく,観光イベントでもある大規模な祭りなど,多くが中止になった。しかし地域で行われる小規模な伝統行事がどのように変容したのかは明らかでない。</p><p> そこで,本研究では小正月の神事の一つであるトンドに着目した。トンドは,竹などを組み立てて,やぐらをつくり,正月飾りなどを焚き上げる伝統行事である。名称は異なるものの,共通の祭りが全国各地で広く行われていることから,今後の日本全体の伝統行事の維持を考えるうえで適した事例であると考える。</p><p></p><p>2.対象地域 本研究では,東広島市西条町を対象地域とした。選定理由として, 町内のほとんどの地域でトンドが実施されていること,調査の前年(2020年)に発表者らが悉皆的に調査を行っており,コロナウイルス流行の前後を比較できることが挙げられる。西条町は,農業地域と都市地域の両方が認められ,さらに都市地域縁辺の農業地域では,宅地化が進行し,旧来の住民と新住民が居住する混住地域も見られる。都市・混住・農業地域で催されるトンドを比較することで,コロナ禍に伴う変容の地域的な差異を検討する。なお地域区分については,国土数値情報と国勢調査のデータに基づき,農業地域のうち,人口が増加する地域を混住地域とみなし,それ以外を農業地域とした。</p><p></p><p>3.トンドの変容 2020年に実施された95のトンドのうち,2021年も行われたのは28であった。地域別にみると,都市地域では開催場所である小学校を借りられないなど,開催場所を確保できなかったことが影響し,ほぼすべてが中止になった。自分たちで開催場所を確保できる混住・農業地域でも約7割が中止になった。運営主体と参加人数からみると,住民団体など参加人数が多いトンドほど中止になることが多く,個人など参加人数が少数のトンドは開催されていた。コロナ禍で開催を決定した理由としては,1)正月飾りを焚き上げるため,2)年はじめに顔を合わせておいた方が良いと考えたため,3)無病息災を祈るため,4)中止にするという意見がそもそも出なかったなどが挙げられる。</p><p> 行事内容の変化としては,飲食の制限・禁止が確認された。汁物など共用飲食物の提供は行われず,代わりに弁当やペットボトル飲料など個別のものが増加した。トンドの形状については,少人数・短時間で建てられるように工夫したため,簡素化・縮小化が進んだ。参加人数は,帰省を控えた親族や参加をとりやめた地域住民・外部参加者もいるため,全体的に減少していた。</p><p> 一方で,地区で中止になったため,個人で代替開催したトンドが混住地域では4ヶ所,農業地域では9ヶ所でみられた。開催理由としては,1)正月飾りを焚き上げたい,2)家族に年男年女がいるため,3)子供がいるため,4)昔から続いてきたものなのでやっておかないと気になるなどが確認された。</p><p></p><p>4.おわりに 都市地域など,開催場所を自前で確保できないトンドは中止になり,自前の開催場所をもつ混住・農業地域でも,参加人数が多いトンドは中止になった。開催したトンドを見る限り,親睦の目的が失われ,正月飾りを焚き上げるなどの神事の目的が表出したと考えられる。伝統行事の維持には,場所の確保が最低条件であり, コロナ禍においては参加人数が少数である方が開催されることが確認できた。また,トンドの開催理由から開催者が伝統行事の本来的な意義を認識していることも重要であるといえる。</p>
著者
鷹取 泰子 佐々木 リディア
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

■はじめに:研究の目的 <br><br>北海道十勝総合振興局(旧・十勝支庁)管内(以下、十勝管内)において、農村を志向して移住してきた起業家たちの流動によりもたらされたルーラル・ツーリズムを事例としてとりあげながら、その構築の諸相を明らかにすることを目的とする。<br><br>■研究の背景と事例地域概観 <br><br>十勝管内の農業は、日本の食料供給の重要拠点として機能しながら加工原料などを主たる生産物とする産地形成が進められてきた。畑作では麦類、豆類、ばれいしょ、てん菜の4品目主体の輪作体系が確立され、北海道の典型的な大規模畑作農業地域を構成している。また、農業出荷額の約半分は酪農・畜産によって占められ、冷涼な気候に恵まれて飼料生産にも適した管内は、道内でも有数の酪農・畜産地帯となっている。したがって十勝管内における農業・畜産業の本流は、生産主義を代表するような専門的で大規模化された経営に特徴づけられてきたといえ、ルーラル・ツーリズムに関する先行研究で見られるような、観光農園や直売所といったツーリズムの一形態との親和性は決して高くない。各種直売施設は現在では管内各地に立地しているが、冬季の制約もあり、近年になるまでほとんど存在しなかったという。<br><br>■農村志向の移住起業家が生んだルーラル・ツーリズム <br><br>起業家A氏(札幌出身)の場合、農場ツアー等を企画する会社を開業し、自ら農場ガイドとして圃場を案内する一方、農場経営者と都市住民とを結ぶコーディネータとしての活動も積極的におこなっている。ツアーは作物自体の収穫・消費を必ずしも主眼とはせず、また農場における観光用に準備された栽培もみられない。あくまで農家が提供する生産空間を活用していることが特徴で、ツアー参加者は広大な大地に野菜の花や実、葉が生育した様子を五感で体験することができる。農家がツアー会場に登場することは稀で、通常は農業に専念し、広大な農場というルーラリティの一部の空間を提供しているにすぎない。つまりここではルーラリティの価値が農場ガイドによって新たに引き出されながら、消費者に提供されている。現在の協力農家も消費者との交流活動には興味がありつつも、高度に専門化した農業の片手間での実施が難しかった状況で、A氏が取り持つ形で農場ツアーの実現を見たことが、この起業のきっかけにあったという。同様に、現在管内ではさまざまな動機から農村を志向し、移住してきた起業家が活動している。家庭の事情で東京からUターンし有機志向の活動に取り組む飲食店主、アメリカからCSAを逆輸入した夫婦等、彼らの経営規模はまだ小さいながら起業という形で地域に根ざした活動と協働を実践しているという点等の共通点が見出せた。<br><br>■農村を志向する起業家と地域との協働 <br><br>管外から移住し農村志向の諸活動に関わる起業家たちは、地域の農業やさまざまなコミュニティと複合的に結びつき、自身の事業の安定等を模索しながら、互いの結束を強めたり、新たな絆を生んだりしている。十勝管内のルーラル・ツーリズムの構築を支え、さらに展開させる地域要因としては、各移住者のライフステージの変遷とキャリアの蓄積にみる内容の豊富さ、フードシステムにおける地産地消への動き、有機農業者等のネットワークなどが関わっていた。管内の農業はグローバル化の影響を強く受ける品目も多いが、現在彼らとその仲間によって取り組まれつつあるルーラル・ツーリズムの多様化の諸相が、持続可能な農村空間やネットワークの重層化に寄与しうる等、今後の動向が注目される。<br><br>■謝辞: 本研究を進めるにあたり,JSPS科研費 26580144の一部を使用した。<br>
著者
田中 絵里子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2004, pp.171, 2004

<b>1.研究の背景と目的</b> 昭和50年の文化財保護法の改正に伴って伝統的建造物群保存地区制度が発足して以降、歴史的町並み保全を契機とした地域づくりは全国に広まった。それらの地域では、歴史的建造物の修理、調和した街路景観の整備など、多くの事業が実施されている。なかでも街路景観の整備は、地域の歴史や文化を顕在化させる最も有効的な手段として扱われている。しかし、具体的にどのような街路整備が人々に評価され、その後の地域づくりへ影響を与えるかについては、街路整備事業がいずれの都市でも実施段階であるため、未だ明確にされていない。 そこで本研究では、既に街路整備事業が実施された埼玉県川越市を事例に、町並み保全としての街路整備事業による街路景観の変容およびそれに伴い観光地化した商店街の実態について報告する。なお、街路景観の評価に関しては、観光客、経営者、居住者の3視点から行うものであり、研究対象地域は、一番街、大正浪漫夢通り、菓子屋横丁の3街路とする。<br><b>2.街路整備事業による街路景観の変化と観光客・経営者・居住者による街路景観評価</b> 一番街は、蔵造り町屋や洋風近代建築などの歴史的建造物を多く残しており、川越の町並み保全の中心となってきた。そのため一番街においては、小江戸のコンセプトの基に、歴史的建造物の保全、舗装の整備、電柱の地中化、周辺建物の修景など多くの事業が実施されてきた。個人や企業で建物を修景する店舗も増え、その結果、一番街は日本瓦のスカイラインが美しい、統一性、連続性のある街路景観が形成され、観光客、経営者、居住者に高く評価されている。 一番街と同じような歴史的建造物を有する大正浪漫夢通りでは、一番街の後続的なまちづくりとしてアーケードの撤去、歴史的建造物の保全、舗装の整備、電柱の地中化などが実施されてきた。しかし、道路幅員が広く開放的な割にスカイラインに統一性がみられないことや、コンセプトが大正という掴みどころがないことなどから観光客の評価はあまり高くなかった。 菓子屋横丁には、蔵造りのようなシンボリックな建造物はないが、石畳舗装が実施されただけでも十分に雰囲気の感じられる通りになっている。原色の派手な建築物もあるが、道路幅員が狭いことと主な通行人である観光客の視線は店先の商品に注がれることが影響して、それほど大きな問題にはなっていない。<br><b>3.観光振興がもたらした商店街の変容</b> 一番街は、従来、地元客を対象とした店舗で構成されていたが、近年、観光地化が進行するに従って、観光客を対象とした店舗が多数進出してきた。特に重要伝統的建造物群保存地区選定以降の変化は著しく、なかには地域に関係のない土産物店もあり、地元商店主たちの間では戸惑いの声も出始めている。顧客数および売上は、一部の観光客を対象とした店舗では「増えた」ものの、従来からあった地元客対象の店舗では「変わらない」という回答が多かった。大正浪漫夢通りでは、9割近くが地元客を対象とした店舗である(図)ことから、川越の観光客が増えても、顧客数、売上に変化はないという回答が多かった。一方、菓子屋横丁においては、店舗の100%が観光客を対象に菓子の製造・販売を行っている。そのため近年の観光客の増加は、そのままダイレクトに顧客数、売上の増加につながり、いずれも「増えた」との回答が多かった。<br><b>4.まとめ</b> 川越は街路整備事業を実施したことによって、各通りで時代的コンセプトに合わせた統一性のある街路景観を形成してきた。観光振興をしたことにより、一番街や菓子屋横丁は、商店街の活性化に成功したと観光客・経営者・居住者全てに評価されている。しかし、一番街では観光客を対象とした店舗が急増し、従来の商店街としての性格が変化するという事態が生じている。大正浪漫夢通りは、観光客が集まらず観光地化しなかった結果、商店街への影響も見られず活性化しているとはいえない。すなわち、町並み保全に伴う観光振興は、街路景観の統一を促進し、商店街活性化にも貢献したが、商店街の性格を変える原因ともなり得ることが明らかになった。
著者
小島 泰雄
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2018, 2018

0.シンポジウムの問い<br> 中国の改革開放政策は1978年12月に開催された中国共産党第11期三中全会で路線が決定されたもので、ここから中国は経済改革と対外開放によって近代化を進めることとなった。1990年代半ばに始まる高度経済成長もこの政策の延長線上に位置する。しかし20年にわたる高度経済成長は中国社会を大きく変え、その中で改革開放という概念の相対化も進んでいる。いまこの40年の歴史と地理を振り返るべき時期に立っている、と私たちは考えた。<br> 本シンポジウムは、改革開放を単に経済政策の次元において捉えるのではなく、地域構造や生活空間といった地理学的視点から問い直すことを目指している。この再考を通して、同時代の中国を対象として進められてきた地理学研究の位置づけを明確にするとともに、これからの研究のあるべき方向性を探ってゆくことにつなげたいと考えている。あわせて学際領域である中国研究に対して、地理学から発信してゆきたい。<br>1.改革開放の旗手<br> 改革開放政策の下でまず取り組まれたのは、農村と農業の制度改革であった。人民公社に象徴される集団農業が20年あまり続けられ、農業生産は増大したものの、農民の生活は豊かさを実感できるものとはならなかった。集約農業を支える労働意欲の活性化と明快な分配をめざして生産請負制が導入され、農家が経営主体として復活した。この結果、農業生産は伸び、農家の収入も増大した。しかし集団農業の下での純農村化により大量の農業労働力を抱えていた農村を開発することは、農業のみに依存して前進させることは難しかった。1980年代半ばに登場した郷鎮企業は、農村の産業化を通してこの隘路を突破するために設立された経済体であった。<br> 集団化により農民の生活空間は、生産隊―生産大隊―人民公社という基層空間に強く結びつけられていった。生産請負制と郷鎮企業はこの空間構造を前提としていたた点で、社会主義建設期と連続している。改革開放期は農民の生活空間を組み替えることなく始動したとみなされるのである。<br>2.市場経済化と農民工<br> 「離土不離郷」が農村発の改革開放政策における中心的なスローガンとされたことは、ある意味、弥縫策的な改革の一面を示していたとみなされる。しかし中国経済の市場経済化は、農村変化が外在的な要因によって促されるという、近代社会一般に観察された過程への移行をもたらした。1990年前後の経済調整をきっかけに大量の労働者が農村から溢れ出した。「盲流」「民工潮」と名付けた都市住民の驚きと蔑みの視線の中で、農民は都市へ、沿海地域へと労働力としての移動をはじめ、1990年代の半ばには7000万人に達していた。そして農村から出稼ぎに行った労働者は、高度経済成長の最前線である工場の組み立てライン、道路やビルの建設現場、都市の種々のサービスを担ってゆくこととなった。<br>3.連続と不連続<br> 「離土離郷」は農業から離れ、農村を去ってゆく農民の生活空間の分散を捉えた概念である。2017年のモニタリング調査によれば、「外出農民工」は1億7千万人と膨大な数にのぼる。その出現から四半世紀をへて、農民工の内実も多様化している。生産現場の第一線にとどまる者は壮年化し、現場を辞して農村に帰郷する者、都市に生活の拠点をつくる者、そして1980年代以降の生まれである「新世代農民工」と呼ばれる一群は、学歴社会化と歩調をあわせて、労働強度の強い現場を忌避するようになっている。多様化しながら連続する農民工は、その存在こそが問題でもある。すなわちどこで働こうが、農村出身者は農民と捉えられ、社会主義建設期に形成された二元構造に基づく身分としての農民という規定が根強く残っているのである。<br> 一方、農村は衰退に転じている。1980年代半ばの豊作貧乏を機に、農民にとっての農業は相対化されてゆき、穀物生産も停滞することとなった。農民の収入に占める非農業就労や出稼ぎによる収入は増大し、農業収入は縮小していった。農村の労働力は1995年の4.9億人から2016年には3.6億人に減少し、このうち1.7億人が出稼ぎに行き、さらに1億人が農村内部で非農業就労している。農業は農村に残された高齢者が担うという側面も強くなっている。改革開放がめざした農村開発は基層空間の農業については連続していない。<br>4.いくつかの論点<br> 農民の生活空間の変遷から改革開放期を振り返ると、そこから検討を深めるべき点が浮かび上がってくる。まず社会主義建設期の何を改革し開放しようとしたのか、という目的をめぐる検討である。シンポジウムでは空間論を軸に、ここに挙げた中からいくつかの論点を取り上げて討論してゆきたい。
著者
勝又 悠太朗
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2021年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.159, 2021 (Released:2021-03-29)

1.研究背景と目的 1991年の経済自由化を契機に,インドは急速な経済成長を経験している。このような中で,都市化の進展や大都市の発展,郊外空間の拡大,工業地域の形成,都市農村間の結合の強化など,急激な空間的変化が生じている(岡橋,2015)。しかし,経済成長の程度には地域ごとに差異があり,地域格差の拡大も確認される。 本研究の取り上げるウッタル・プラデーシュ州(以下,UP州)は,経済的後進性を示すヒンディーベルトに位置し,インドにおいて最大の人口を有する州である。そのため,雇用機会が限られ,膨大な余剰労働力をかかえているため,就業を目的とした州外への人口移動が顕著に進んでいる(宇佐美・柳沢,2015)。本研究は,インドのセンサスデータを使用し,UP州の人口動態を分析することを目的とする。 2.UP州の概要と人口特性 UP州は,インド北部に位置する。2011年の人口は199,812,341人であり,インドの総人口の16.5%を占めている。1991年の人口(132,061,653人)と比較すると,増加率は51.3%となり,インド全体(43.1%)を大きく上回る。 同州の人口を都市・農村別にみると,農村人口が77.7%と多くを占める。一方,人口100万人以上の大都市も州都のラクナウを含め7つ所在する。また,同州の一部は,デリー首都圏地域(以下,NCR)に含まれ,ノイダやガージヤーバードはデリーの郊外都市として発展をみせている。3.UP州における人口移動 2011年のセンサスデータをもとに,UP州における州間人口移動(5年以内)の地域的特徴を検討する。同州の州間人口移動を流入移動と流出移動に分けると,前者が892,750人,後者が3,037,088人と200万人を超える流出超過を示している。これは,インドの州の中で最多の流出超過数である。 UP州への流入移動をみると,最大の流入元州はビハール州(218,968人)である。これにデリーとマディア・プラデーシュ州が続き,いずれも移動者は10万人を超える。近隣の州からの移動が卓越するが,デリーからの移動はNCRの郊外発展を反映したものと思われる。 一方,UP州からの流出移動は,マハーラーシュトラ州の727,234人を最多に,デリー,グジャラート州,ハリヤーナー州の順となる。高い経済成長を示すインド西部とデリーおよびその周辺への人口移動が活発であることがわかる。 発表では,経年変化を踏まえた分析や県レベルでの集計データを使用した分析についての考察も行っていく。
著者
中村 努
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.72, 2009

<b>I.はじめに</b><br> 日本の医薬品業界は2009年6月に改正薬事法が施行されたことでコンビニやスーパーで大半の一般用医薬品が販売可能となるなど、制度環境が激変しており、流通システムの再編が予想されている。そうした動きに流通の中間段階に位置する医薬品卸売業も対応を迫られている。1990年代以降、医薬品卸は大規模化し現在では大手4社で8割のシェアを占めるに至っている。この寡占状態は10年前の米国と同様の状況であり、両国の国民性や制度環境は異なるにもかかわらず、卸売業の再編成の方向性について共通点が多い。したがって、今後日本の卸売業の役割はいかに変化するのかを占ううえで海外の動向は示唆に富んでいる。<br> 本発表は、米国の卸売業のビジネスモデルや空間的展開を概観することで、日本の医薬品卸売業が業界において果たしている役割を相対化することを目的とする。<br><br><b>II.米国における医薬品卸売業の再編</b><br> 米国では日本と異なって、民間による医療保険制度が充実しており、薬価も一部公的に償還されるものを除いて市場で決定される。医薬品の価格交渉は製薬メーカーと保険会社から委託された医薬品給付会社(PBM=Pharmacy Benefit Management)との間でなされることが多い。しかし、PBMは配送機能をもたないため、医薬品卸が医薬品の配送を請け負っている。医薬品卸を経由する処方薬の割合は30年前に5割程度であったが、現在は8割にまで高まっており、流通システムにおける卸の存在感はむしろ高まっている。それにもかかわらず、利幅は縮小しており、規模の拡大と、定期配送を原則とした徹底した物流効率化が実現している。さらに、追加サービスを利用した分の料金を徴収する体系が確立しており、情報の付加価値利用を利益に還元する仕組みが整っている。米国の医薬品卸には日本のMSにあたる営業マンは存在せず、その存在価値を物流機能と情報提供機能でアピールせざるを得なかった。卸各社は自社の競争優位を獲得するため、情報化を活用した支援情報システムを調剤薬局に提供しており、1990年代半ばには受発注などの定型業務をはじめ、従業員教育、カード決済、経営戦略情報まで網羅したメニューを揃え、日本よりも早くからリテールサポートを充実させてきた。<br> 米国の医薬品卸は合併再編を繰り返して、物流や情報機能を強化するための投資余力を向上させるとともに価格交渉力を高める努力をしてきた。1980年に約140社あった医薬品卸は、現在では37社に集約され、大手3社(マッケソン、カーディナル・ヘルス、アメリソース・バーゲン)で95%のシェアを握る寡占市場が形成されている。<br> 米国の配送システムは1日1回の定期配送が基本である。その背景にはHMO(Health Maintenance Organization)やPBMが医師や薬局を指定することで、薬局の需要予測が容易になるという取引上の要因と、夜間に高速道路を利用して広範囲の配送圏をカバーできるという技術的側面が影響している。物流センターは1社平均5ヵ所であり、西低東高の分布傾向を示すが、その規模は年々拡大している。大手3社についてみると、本社の位置はそれぞれ異なるものの、物流センターの分布密度は各社とも2州に1カ所程度である(図)。30の物流センターが全米をテリトリーにすると、1センターが日本の面積とほぼ同程度の広範囲をカバーすることから、米国では日本の小規模分散型物流システムとは対照的な大規模集約型システムが浸透している。<br><br><b>III.日米における医薬品卸のビジネスモデルと空間的展開</b><br> 米国の医薬品卸は近年、単価が決まった在庫、営業、配送、棚割りといった各サービスに対して利用分を請求する出来高払い(Fee-For-Service)方式を採用している。これによって、薬局や病院の在庫管理、トレーサビリティの導入による医薬品の品質管理、薬局のフランチャイズ事業など付加価値を収益に結びつけつつある。翻って、日本では小規模かつ多数の顧客への営業機能を維持しながら、多頻度小口配送を実現してきた。また製薬事業や薬局事業への進出もみられる。しかし、米国のように付加価値を収益の柱とするビジネスモデルが確立しておらず、米国ほど物流拠点の集約化は進んでいない。日本の医薬品卸は取引先との力関係上、営業機能を残しつつ、物流拠点の集約化と分散化のバランスをとらざるを得ないのが現状である。
著者
北村 康悟 江崎 雄治
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

<b>1.&nbsp; はじめに<br></b>&nbsp; 日本では明治以降,特に戦後の高度経済成長期を中心に,各地で経済性を顧みず鉄道が敷設され,その多くが赤字ローカル線となった.1980年の国鉄再建法の公布により,地方ローカル線は大きな転機を迎え,不採算路線が「特定地方交通線」に指定され路線の廃止,第三セクター鉄道化,バス転換が行われた. <br>&nbsp; 第三セクター鉄道に転換され,廃止を免れた路線も1990年代以降,沿線のさらなる過疎化,少子高齢化の中で厳しい経営状況に置かれた.これら多くの路線は,高校生のような代替の移動手段を持たない住民の定期収入が大きな割合を占める.しかしその高校生も少子化の進行により減少し,鉄道を維持していくことが困難になりつつある.今後も地方の人口減少は避けられず,第三セクター鉄道を支援する地方自治体の財政も厳しさを増すことが考えられる.さらに「平成の大合併」で市域が拡大したことで,税金投入に対し全市域の市民の理解を得ることが難しくなった.また沿線自治体数が減少したことで,存廃の決断をしやすくなったと考えられる.<br><br> <b>2.本研究の視点 </b> <br>&nbsp; 本研究では,特定地方交通線から第三セクター鉄道へ転換された路線とその沿線に着目し,「地域が鉄道に与える影響」を考察するという立場で, 小地域統計をGISで分析するなどの基礎的作業の上で現地調査を行い,第三セクター鉄道の存立基盤について明らかにし,その将来を展望することを試みた.その結果,以下の点が明らかとなった.<br><br><b>3.結果<br></b>&nbsp; 調査対象各社の収支状況は,①鉄道事業はほぼ全社が赤字である.②兼業での収入が小規模ながら拡大しつつある.③鉄道事業での損失は横ばいかやや拡大傾向である.④補助金などによる特別利益によって損失が相殺されている. <br>&nbsp; 次に,各社の輸送人員は,①伊勢鉄道を除き全社が減少傾向である.②通学定期が大半を占め,通勤定期の割合が非常に低い.③定期輸送が減少し,定期外輸送の割合が増加している.<br> また,2000年から2010年にかけて沿線人口は減少しており,特に高校生にあたる15~19歳人口が30%以上減少している沿線もある.<br>&nbsp; さらに各路線の沿線で急速な高齢化が進行している. 現地調査の結果,これらの事業者では車両更新費用が大きな負担であり,その費用を捻出できるかが存続の大きな条件になりうることが分かった.各社への聞き取りの結果,車両購入費用の多くが沿線自治体により肩代わりされ,事業者負担が軽減されていることが分かった. また,各社ともこれまで収入面で依存してきた高校生の減少に伴い,定期外輸送を増加させることを目指し,観光需要の掘り起こしを図っているほか,鉄道事業での損失を補てんするために,グッズ販売や旅行業の活性化など付帯事業での増収を図っている.<br><br><b>4.考察</b><br>&nbsp; 近年では,民間出身者が社長に就任し状況の打開に努力し,収支が改善する傾向がみられている事業者もある.その一方で,厳しい経営状況のため人材の確保が難しく,特に若い世代の社員が不足している.しかし現在,開業時からのプロパーの職員が経営の中心になりつつあり,さまざまな新しい企画を立案し運営している.この世代の活躍や,その次の世代を育てていくことが,今後観光需要を重視した経営を進めるうえで必要となっていくだろう.<br>&nbsp; 現状においては,第三セクター鉄道が自立した経営を行うことは困難である.当面,付帯事業の実施と観光需要の喚起で延命を図ることが,特定地方交通線から転換された第三セクター鉄道の目指すべき方向性であると考えられる.
著者
松村 嘉久 大谷 新太郎
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.150, 2009

<B>1.はじめに</B><BR> 新羅時代の古都・慶州市は,韓国屈指の観光地である。世界遺産「石窟庵と仏国寺」(1995年登録)が,市街地東南15kmほどの所にあり,市街地南部から南山地区にかけた「慶州歴史地域」も,2000年に世界遺産登録されている。慶州市での観光開発の歴史は古く,朴正煕大統領の指示で1971年から始まり,普門観光団地などが建設されている。市街地北20kmほどに位置する良洞民俗マウルでも,世界遺産登録申請に向けて集落内外での景観整備や施設建設が進みつつある。<BR> (中略)本発表では,慶州市の主な宿泊施設の集積地域で行ったフィールドワークから,宿泊施設の内実と分布特性を概観し,観光機能の分化に迫りたい。<BR><B>2.慶州市の主な宿泊施設の集積地域</B><BR> 慶州市には統計上は333軒の宿泊施設が存在し,客室総数は1万室を超える。その内訳は,A:等級付きの観光ホテル(13軒2,321室),B:コンドミニアム(8軒2,096室),C:旅館(276軒6,090室),D:旅人宿(36軒398室)となる。最も多いCの内実は,観光・ビジネスホテル的なものからモーテル・ラブホテル的なものまで多様である。ただし,韓国のモーテルやラブホテルは客室を時間貸しする所が少なく,一般的な観光客もよく利用する。C・Dのなかで立地条件の悪い所は,廃業状態にあるものも少なくない。<BR> 慶州市の主な宿泊施設の集積地域は,1:慶州高速バスターミナル周辺(50数軒),2:慶州駅周辺(20数軒),3:普門観光団地(20数軒),4:仏国寺周辺(40数軒)である。以上の四つの集積地域で,慶州市の全宿泊施設数の3分の1強を占め,客室数ならば約8割を占める。我々はこれら宿泊施設の外観と周辺の観察に加えて宿泊料金の確認を行い,宿泊施設が分散分布する2を除いた三地域では,包括的な土地利用調査も行った。<BR> 慶州市役所提供の統計資料によると,近年の外国人観光客は50万人前後,国内観光客は600から800万人くらいで推移している。外国人観光客の4割強は日本人が,国内観光客の4割強は学生が占める。2000年の世界遺産登録を契機とする顕著な観光客増は統計から見出せないが,外国人観光客を中心に宿泊を伴うものが確実に増えてきている。<BR><B>3.慶州市における宿泊施設の分布特性と観光機能の分化</B><BR> 集積地域1の宿泊施設はほぼ全てCに属する。宿泊料金は1部屋で2万₩から6万₩,5階建てまでの小規模なものばかりである。民家も多く残るが,バス停付近にレストランや小売店舗が多く,個人観光客が過ごしやすい空間編成が構築されている。格安ゲストハウス集積地域としての認知度が高く,外国人個人観光客の利用も多く,英語や日本語の看板も散見される。2000年の世界遺産登録の恩恵を受け,1の宿泊需要は増加傾向にあるためか,建設・改装中の宿泊施設もあった。<BR> 2の宿泊施設も全てCに属し,宿泊料金は2万₩から4万₩くらいである。日本でいう駅前旅館が多く,サウナ併設で客室を時間貸しする怪しげな所も数軒あった。2010年に慶州KTX新駅ができ,現在の慶州駅は廃止される予定なので,経営維持は困難になると見込まれる。外国人が宿泊するのは極めて稀で,国内ビジネス客が主な客層である。<BR> 湖畔リゾートである3の宿泊施設は,規模が大きく宿泊料金の高いA・Bが中心であり,カジノ・温泉・プールなど,付属施設も充実している。湖畔から離れた所にCが数軒立地している。主な客層は国内観光客と外国人観光客であり,個人よりも団体やパッケージでの利用が多い。国内観光客は9割以上が普門を訪問するが,外国人観光客は5割前後にとどまる。<BR> 仏国寺周辺4はCが多く,AやBも数軒立地する。国内修学旅行生向けの大規模なユースホステルが数軒あるが,学生の長期休暇が終わると次のシーズンまで事実上閉鎖する所が多い。宿泊料金が3万₩から4万₩くらいの小規模なモーテルも立地するが,利用客は少ない。市内循環バスの乗り場付近以外のレストランや複合商業施設は,実に閑散としている。建物こそ真新しい地域であるが,宿泊施設も含めて,すでに廃業,あるいは開店休業状態の所が目立つ。<BR> 慶州市は釜山からの日帰り観光圏で,KIXの開通でそれはさらに広がるであろうが,集客力の高い観光資源が郊外に点在するため,宿泊を伴う観光客は今後とも増加するであろう。宿泊施設の集積地域1・3・4は,各々が異なるタイプの観光客の受け皿となり,観光機能の分化が生起しつつある。1と4では空間的リストラクチャリングが起こる可能性も高い。<BR>
著者
森木 良太 小寺 浩二
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.113, 2008

新河岸川は江戸時代から舟運が盛んであり、流域には舟問屋が建ち並んでいた。東上線開通後は水上交通が衰退しつつあったが、流域には水田が広がり、現在でも河川との関わりは深い。一方、支流上流部や河川から離れた地域においては、江戸時代から茶や芋の生産が盛んである。畑作中心の地域では、本川や流域下流部とは異なり、河川への関わりはあまりない。本研究では流域全体の小学校の校歌を調べ、自然景観との関わりの地域差を明らかにする。 小学校は、川越市、ふじみ野市、富士見市、志木市、朝霞市、新座市、和光市、所沢市、狭山市、入間市の公開分の校歌を使用した。 新河岸川流域について歌われている小学校は108校中28校であった。富士見市、朝霞市、新座市の小学校で多く歌われていることがわかった。一方、同じ流域であっても、所沢市、狭山市ではあまり歌われていない。新河岸川流域は、戦後のベットタウン化により新設された小学校が多いが、昭和以降に新設された小学校ほど流域の表現が歌詞に出てこない傾向があった。 新河岸川流域の歌詞が存在する小学校の多くが、明治時代からあった小学校だということがわかった。ただし、歴史のある小学校でも新河岸川流域の表現が歌詞に出てこない小学校はあった。流域で最も歴史のある小学校は川越や志木、所沢にあり、いずれも明治初期に開校しているが、いずれも新河岸川流域が歌われていない。川越で最も古い中央小学校では、歌詞には入間川の表現が使われ、新河岸川の表現が出てこなかった。
著者
寺谷 亮司
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

1.はじめに<br> 地方中小都市は,人口規模の大きな他の都市規模階層都市に比べ,人口減少が顕著であり,中心商店街の衰退程度もより深刻である。地方中小都市は,県庁所在都市のような中枢管理機能を持ち得ず,工業などの特殊機能の集積も概して少ない。地方中小都市の主たる基盤機能は,周辺地域の中心地としての古典的な中心地機能であろう。このため,地方中小都市の衰退要因としては,①大型小売店・コンビニなどの進出によって,中心地機能の発現主体としての小売店やその取引先の卸売店・生産者など地元企業の連鎖的衰退,②顧客である自市および周辺人口の減少,商圏の広域化による近隣大都市や郊外店への買物客の流出などを指摘できる。本報告では,1990年代以降における地方中小都市の人口や商業の変化動向を,滝川市を中心とする北海道都市を事例に検討する。<br><br>2.北海道都市の人口・商業動向<br> 北海道35都市は,人口規模(2000年)からみて,地方中核都市(人口30万人以上,札幌・旭川・函館),地方中心都市(同10~30万,釧路・帯広・苫小牧・小樽・北見・室蘭・江別),地方中小都市Ⅰ(同5~10万,岩見沢・千歳・石狩・北広島・登別),地方中小都市Ⅱ(同2.5~5万,滝川・稚内・網走・伊達・名寄・根室・美唄・紋別・留萌・深川・富良野・北斗),地方中小都市Ⅲ(同2.5万未満,士別・砂川・芦別・赤平・夕張・三笠・歌志内)に区分できる。これら都市規模類型別に人口変化率(1990~2010年)を算出すると,地方中核都市+7.6%,地方中心都市-5.1%,地方中小都市Ⅰ+10.4%,地方中小都市Ⅱ-12.9%,地方中小都市Ⅲ-32.7%であり,札幌圏のベットタウン都市群で構成される地方中小都市Ⅰを除けば,人口規模が少ないほど人口減少率が高い。最も人口が減少した地方中小都市Ⅲは旧炭鉱都市群であり,人口の過小さから都市と呼べる存在ではない。このため,滝川などの地方中小都市Ⅱが,地方中小都市の典型である。地方中小都市Ⅱの年間商業販売額の推移(1991~2007年)をみると,小売業が-11.1%であるのに対し,卸売業は-43.1%となり,より深刻な衰退状況にある。<br><br>3.買物流動よりみた北海道の都市システムの変化<br> 「北海道広域商圏動向調査(1992年・2009年)」によって,買物流動からみた北海道市町村間結合の変化(1992年&rarr;2009年)をみると,①自市町村内買物比率の低下(47.9&rarr;32.6%),②最多買物流出先市町への流出比率の増大(31.9&rarr;41.1%),③最多流出先が最寄りの中小都市から遠くの大都市へ変化(羽幌町における留萌&rarr;旭川など),④中心都市から近郊町村への流出比率の増大(釧路市から釧路町への流出比率が3.8&rarr;20.9%など)を指摘できる。これらは,市町村間結合の強化,商圏の広域化,大都市が直接市町村を支配する短絡的結合の増加,近隣市町への大型店立地による都市における都心機能の地位低下を示しており,いずれも地方都市の地位低下に直結する。<br><br>4.滝川市の事例<br> 滝川市は,石狩平野の東北部に位置する中空知地域の中心都市である。上記「北海道広域商圏動向調査」によれば,1992~2009年の変化として,中空知市町から滝川市への平均買物流出比率,さらに遠距離の北・南空知市町からの同比率も高まり,滝川の中空知における商業拠点性は高まり,その商圏は拡大した。しかし現在,滝川市の主たる商業機能を担っているのは,中心商店街ではなく,1990年代後半以降,国道12号線滝川バイパス沿いに集積した大型小売店である。一方,滝川市の中心商店街(鈴蘭通り・銀座通り・大通商店街)の現況をみると,空き店舗が多く(164店舗中35店舗),3つの大型ビル(売り場面積6,921・7,311・16,072㎡)はキーテナント撤退の結果,ほぼ廃ビルの状況にある。
著者
小関 祐之
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2021, 2021

<p><b>1.はじめに</b></p><p></p><p> 高大接続改革は,高等学校教育,大学教育,大学入学者選抜の三位一体の改革である.大学入学者選抜改革の一環として,大学入試センターではセンター試験から大学入学共通テスト(以下共通テスト)へと変更された.新高等学校学習指導要解説では,これからの学校教育では,子どもたちが様々な変化に積極的に向き合い,他者と共同して課題を解決していくことや,様々な情報を見極め,知識の概念的な理解を実現し,情報を再構成するなどして新たな価値につなげていくこと,複雑な状況変化の中で目的を再構築することができるようにすることなどが求められている.共通テストにおいても同様の方向性で問題が作成されている.</p><p></p><p><b>2.高大接続改革を意識した大学入学共通テストの方向性</b></p><p></p><p> 令和4年度共通テストの問題作成方針では,①センター試験における問題評価・改善の蓄積を生かしつつ,共通テストで問いたい力を明確にした問題作成,②高等学校教育の成果として身に付けた,大学教育の基礎力となる知識・技能や思考力,判断力,表現力等を問う問題作成,③「どのように学ぶか」を踏まえた問題の場面設定の3点が示されている.また,地理A・Bの問題作成方針には「地理にかかわる事象を多面的・多角的に考察する過程を重視する.地理的な見方や考え方を働かせて,地理にかかわる事象の意味や意義,特色や相互の関連を多面的・多角的に考察したり,地理的な諸課題の解決に向けて構想したりする力を求める.問題の作成に当たっては,思考の過程に重きを置きながら,地域を様々なスケールから捉える問題や,地理的な諸事象に対して知識を基に推論したり,資料を基に検証したりする問題,系統地理と地誌の両分野を関連付けた問題などを含めて検討する」と示されている.これらの方針に沿って共通テストは作成されている.</p><p></p><p><b>3.センター試験と共通テストにおけるデータ比較</b></p><p></p><p> 令和2年度センター試験と令和3年度共通テストの地理Bについてデータを基に大まかに比較してみたい.共通テストは,大問数が1減じられている.その大問は比較地誌の大問である.また,センター試験と共通テストともに多くの資料が活用されている.しかし,細かく分析すると,小問数が共通テストでは5問削減されているのにもかかわらず,総資料数は37,38とほぼ同数である.センター試験では資料を用いない問題が5問出題されていたが,共通テストでは,資料を用いない問題は出題されていないだけでなく,複数の資料を読み取り傾向性や規則性を問う問題が出題されている.当日の発表では,これらの分析とともに,令和3年度共通テストを数問取り上げ,高大接続改革を意識した問題はどのような問題か,思考力等を発揮して解く問題とはどのような問題か,受験者に身に付けてほしい資質・能力や高校現場に求めたい授業の実践等について,大学入試センター試験の過去問題と比較しながら報告したい.</p><p></p><p><b>文献</b></p><p></p><p>文部科学省(2018)高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説・地理歴史編.東洋館出版社</p><p></p><p>大学入試センター(2011)令和4 年度 大学入学者選抜に係る 大学入学共通テスト問題作成方針</p><p></p><p>https://www.dnc.ac.jp/kyotsu/shiken_jouhou/r4.html</p>
著者
岩船 昌起
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2019, 2019

<p><b>【はじめに】</b><b> </b>2019年7月に南九州では,「記録的な大雨」で「がけ崩れ」が多発した。筆者は,住民の避難行動等を現在検証中であり,本稿では,「がけ崩れ」等にかかわる基本的な情報を整理する。</p><p><b>【降水量等の概要】</b>気象庁の降水量データから,後述の2災害現場に最寄りの3観測所では,九州に停滞した梅雨前線との関係で6月26から7月4日に断続的に雨が降り続いていた。日降水量は,6月28日には鹿児島76.5㎜,八重山163㎜,輝北60㎜,7月1日には鹿児島121㎜,八重山327㎜,輝北248.5㎜であり,西南西―東北東に延びる線状降水帯が鹿児島と熊本との県境付近に停滞していたことと関連して,6月28日と7月1日の大雨時には県北部での降水量が相対的に多かった。一方,7月3日には,鹿児島368㎜,八重山206㎜,輝北402㎜であり,薩摩半島や大隅半島で降水量が多かった。</p><p><b>【</b><b>6</b><b>月</b><b>28</b><b>日概要】</b>未明から雨が降り始めて早朝からその強度が高くなった。鹿児島県・鹿児島地方気象台(以下,県・気象台)では,6:50に県土砂災害警戒情報第1号を,7:25に同第2号を共同発表して,土砂災害への警戒を強めた。また,気象台も「県薩摩地方の早期注意情報(警報級の可能性)」を7:00に発表した。これらに応じて,鹿児島市(以下,市)では,7:30に災害警戒本部を設置し,土砂災害への警戒から7:40に「【市内全域(喜入地域を除く)】大雨に係る避難勧告」を,浸水への警戒から同7:40に「【新川・稲荷川流域】避難勧告」を発令した。また,8:30には市内83カ所に避難所を開設している旨を市公式HP上に掲載した。一方,気象台は,「鹿児島市[継続]大雨(土砂災害、浸水害),洪水警報」を8:56に発表した。しかし,人命にかかわる被害が生じることなく,10時過ぎに大雨の恐れがなくなり,県・気象台は10:50に県土砂災害警戒情報第3号を共同発表し,「全警戒解除」を鹿児島市,薩摩川内市,日置市,いちき串木野市,姶良市,さつま町に伝えた。また,気象台は11:20に鹿児島市等に「大雨警報(土砂災害)」を継続しつつも,警報から引き下げる形で「洪水注意報」を発表した。市では「大雨警報(土砂災害)」の継続を受け,土砂災害への警戒から,市南部の喜入を除く市全域に避難勧告を発令し続けた。</p><p><b>【</b><b>7</b><b>月</b><b>1</b><b>日概要】</b>県・気象台では,1:45に県土砂災害警戒情報第1号が鹿児島市に対して発表された。これを受け,市では2:40に市北部「吉田,郡山,吉野,一色,中央,松元」各地区に土砂災害に対する警戒から「避難勧告(警戒レベル4)」を,市中部「桜島,谷山」各地区に「避難準備・高齢者等避難開始(警戒レベル3)」を発令した。前日30日から降雨がほぼ連続し,八重山で5時に時間雨量67.5㎜が記録される等,降雨強度が1日未明から早朝に高くなった。このため,7時過ぎに,比高約40~60mの斜面上部で幅約30mにわたりがけ崩れが生じ,家屋に入り込んだ土砂に70代女性が巻き込まれた。救出搬送されたものの,病院で死亡が確認された。この斜面は,土砂災害警戒区域に指定されており,斜面下部から中部では補強されていたが,斜面上部には"手当て"が及んでいなかった。線状降水帯の南下による「猛烈な大雨」に伴い,市では警戒を強めて7:45に「喜入を除く市内全域」に土砂災害への警戒から「避難勧告(警戒レベル4)」を,喜入地区に「避難準備・高齢者等避難開始」を同7:45に発令した。</p><p><b>【</b><b>7</b><b>月</b><b>3</b><b>日概要】</b>前日2日の気象庁の会見等もあり,「特別警報クラスの大雨」への警戒を強めた。9:35に「市内全域」に「避難指示(警戒レベル4)」を発令し,特に「崖や河川に近い場所など,危険な地域」の居住者の避難を強く意識した。降雨強度は3日未明から4日未明までが高く,大雨警報(土砂災害)の危険度分布が3日19:10には市全域が「極めて危険【警戒レベル4相当】(濃い紫)」に判定される等,薩摩半島と大隅半島で土砂災害の危険性が高まった。曽於市大隅町坂元で80代女性1名が犠牲になった「がけ崩れ」は3日夕方から4日未明までに発生したと思われ,検証中である。がけ崩れが生じた斜面は,土砂災害危険区域に未指定の箇所であり,被災家屋横の車道造成時に掘削したのり面で,比高0~20m弱,幅約20mである。10m間隔の等高線では表現できない小規模の急傾斜地であった。</p><p><b>【おわりに】</b>7月3日9:35の鹿児島市全域への避難指示は,前年2018年7月7日に桜島古里で80代男女2名が犠牲となった土砂災害を顧みての判断であった。崩落土砂が入り込んだ自宅の住民が今回事前に避難する等,避難において一定の効果があったと筆者は考える。発表当日には,避難指示の発令や避難所運営のあり方,住民の避難行動等にも触れる予定である。</p>
著者
渡邊 光
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.5, no.1, pp.1-15_1, 1929
被引用文献数
1