著者
渡邊 光 今泉 政吉
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.3, no.10, pp.951-966, 1927

以下二三の感想とでも云ふ可きものを記して此小篇を終ることにする。<br>一、火山分布圖を一見しても明な通り、在來稱せられて居た所謂火山脈又は火山帶中のあるものにはその存在の意義の極めて不明瞭のものがある。それは相當距離の距つた所の火山を結んで作つた火山脈又は帶なるものは、各人の主觀に依り、癖に依つて如何様にも引き得るものであるからである。故に地理的位置の接近して居て、しかも類似の性質を具有する火山を纒めた方が寧ろ要當と思はれる。<br>二、我國に於ける火山は、シュナイダー氏の分類に從へば多くコニーデ状であつて、トロイデは寄生的のものか又は小規模のものに過ぎない。標式的のアスピーテはなく、本分布圖中にアスピーテの記號を以て表しカものは比較的偏平な火山と云ふ程度のものである。ホマーテ、マール、ベロニーテは稀に見ることが出來るのみである。三、火山が地壘上に生ずる傾向があるか、又は陷没地に生ずる傾向があるかに就いては、未だ我國の地形調査が全般に亙つて行はれて居ないので不明瞭な點も多いが、陷没地内に噴出したものが大多數を占めて居るしとば事實である。<br>四、辻村助教授は日本の海岸地形の調査に於て、多くの火山地方はその海岸地帶が沈降の形式を具.へて居ることを認めちれた。例へば北海道は殆ど全島を通じて降起海岸であるが、蝦夷富士火山群附近に於ては室蘭、小樽附近の溺れ谷があり、其他知床半島、増毛附近も亦沈降性であると云ふ。又同様の之とは八甲田山麓の青森灣、伊豆半島、九州の火山地方等に就ても云ふことが出來るのである。期くの如ぐ、海岸附近の火山地方は一般に沈降區域と一致するのであるから、内陸に存在する火山地方も亦直接の證據こそ得られないが、沈降區域に屬するのではなからうかとの想像を抱かせるのである。<br>五、西南日本外帶及び東北日本の阿武隈、北上の地帶に全然火山を缺き、その内側にのみ多く之を認め得ることは決して偶然の結果とは思はれない。<br>六、地形的斷層網と火山噴出との間には明な對比關係は認められないが、斷層網の極度に發達せりと稱せらるる西南日本内帶には火山は少く、これらとて多くは小規模のトロイデであるのに對して、これの適度に發達して居る北海道、東北日本西部、九州地方には多くの火山が密集して噴出して居るのを見るのである。又斷層網發達の極めて惡い西南日本外帶、阿武隈、北上の地帶に火山を全く缺くことも何等かの意味がある様に思はれる。<br>七、我國に於て地形的に火山體と認められるものゝ多くが、第三紀最新層と稱せられる地層上に然も不整合的にのつて居るのを見るのであるが、第三紀層に被はれて居る様なものは絶えて之を見ないのである。荒船火山體の如き、地形上火山體として認められない迄に侵蝕、破壊の進んだものが尚第三紀最新層上にのる受とは既に佐川理學士の認められた所である。即ち換言すれば、我國に於ては地形的に火山體として認めらるゝものは、その火山體建設の最後の活動を修了したのは第三紀以後であると云ふことが出來る様である。而して第三紀時代の地形は、火山地形のみに就て云へば、既に侵蝕しつくきれて殘つて居ないのではなからうかとの疑を抱かせるのである。
著者
柳井 雅也 阿部 康久 小野寺 淳
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

Ⅰ はじめに中国の長春市おける日系自動車会社及び同部品産業の立地展開と当地における事業活動について調査を行った。対象となる会社は10社、うち現地で面接調査(2012年8月17日~23日)を行った会社はトヨタ自動車、IHI,一汽光洋、ワイテックの4社(全体の40%)である。ここではトヨタ自動車(以後、トヨタ)の実態を報告し、発表では残りの会社の分析を含めて報告する。Ⅱ トヨタの長春市進出の経緯中国では、外資系自動車会社は2法人までしか合弁会社が作れない。このことが、トヨタはじめ外資系自動車の、中国における立地と事業活動に制限と工夫が求められているといる。トヨタが天津自動車夏利と組んで本格的に中国進出を果たしたのは1995年のことである。さらに、四川旅行車製造廠(成都:小型バス「コースター」生産)と合弁(2000年)で四川トヨタを設立した。ここで第一汽車(以後、一汽)に資本参加してもらい四川一汽トヨタ(SFTM)を設立し、トヨタはもう1社と組めるようになった。そこでトヨタは広州汽車(2006年)と組むことになった。このやり取りの中で、一汽の本拠地、長春に進出(2002年)が決まった。2003年に一汽が長春一汽豊越(一汽資本100%)を設立して技術指導とV6エンジンの生産を開始した。2004年には一汽豊田(長春)発動機を設立した。長春一汽豊越は2005年、SFTMの分工場(SFTM長春豊越)となり、ランドクルーザー生産(約3万台/年)を始めた。また、プリウスも少量ながら生産している。さらに、新工場(2012年)を建てカローラ(年間10万台予定)の生産を計画している。Ⅲ 部品調達一方、天津で一汽はトヨタと組んで天津自動車夏利に経営参画し、夏利天津一汽トヨタとして規模拡大を続けた。日系関連企業の集積も進んでいる。このため、部品(日本からの輸入も含めて)は、天津経由または大連港(一部)経由で長春に送られている。この物流コストを吸収するには、付加価値の高いV6エンジンやランドクルーザーの生産を行うしか選択肢がない。例えば、ランドクルーザーの物流に関して、名古屋港から部品をコンテナ船で大連港に運び、仮通関後に荷降ろしを行って、陸路または列車で長春に運ぶ。ここで本通関を行う。もし、完成車を輸入しようとすれば関税が25%かかる。そのため、CKD(Complete KnockDown)生産方式で行わざるを得ない。Ⅳ 長春工場の課題長春工場の課題として、①労務コストが高い、②労働者の質の確保、③物流コストが高い、④東北三省の下請工場が無いことと、仮にあっても品質保証が難しい。こと等があげられる。トヨタの長春生産はコスト高になっている。そのジレンマを解決するため、日系の自動車部品企業の集積を徐々に図り、今後は東北三省市場(1億3000万人をマーケット、寒冷地仕様)に発展の余地を見出そうとしている。
著者
三上 岳彦 長谷川 直子 平野 淳平 福眞 吉美
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2019年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.130, 2019 (Released:2019-09-24)

青森県十三湖は日本海に面する汽水湖で、現在は冬季に結氷することはないが、江戸時代にはほぼ毎年結氷(と解氷)し、その連続的な記録が弘前藩庁日記に1705年〜1860年の155年間にわたって残されていることが明らかになった。十三湖には、南から岩木川が流入しており、江戸時代には津軽平野で産出された米輸送の舟運に利用されていたことから、長期間の結氷解氷期日が記録されたと思われる。
著者
澤田 学
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2012, 2012

<b>1.研究目的</b> <br> 2010年7月、成田スカイアクセスの開業に伴う京成スカイライナーの高速化によって、東京都心と成田空港間は30分台で結ばれるようになった。その効果でスカイライナーの旅客は増加した。一方で、国内線中心の羽田空港と国際線中心の成田空港の間の距離が離れているために国内線/国際線相互の乗り継ぎが不便になっている。そのため、羽田空港/成田空港での乗り継ぎを避けて、乗り継ぎに便利な仁川国際空港(ソウル)に切り替える地方旅客の増加しており、両空港を取り巻く環境は決して安泰とはいえない。よって、成田スカイアクセスもそれに対応した路線となることが求められる。そこで、筆者は成田スカイアクセスをさらに活性化した路線とするための新たな案の検討を行い、それについて予想される効果について考察し、東京都心部のさらなる活性化のあり方について考えることが本研究の目的である。<br> <br><b>2.空港アクセス鉄道の現状<br><i> </i></b>東京都心と成田空港との間の空港アクセス鉄道は、JRと京成電鉄(京成本線経由、成田スカイアクセス経由)が競合している。「平成22年度成田国際空港アクセス交通実態調査(カウント調査集計表)」によると、成田スカイアクセスの開業する前後で鉄道利用比が増加している。そのうち、スカイライナーは7.7%から10.2%へと増加している。京成電鉄全体の増加数は1,886人のうちスカイライナーが1,460人の増加なので、成田スカイアクセスの開業によるスカイライナーの高速化効果が利用客の増加につながった。<br><br><b>3.筆者が提唱した案と予想される効果<br> </b>羽田空港と成田空港はアクセス時間距離が長く、国内線と国際線の乗り継ぎが不便である。地方からの乗り継ぎが仁川国際空港に流れている状況を考えると両空港の置かれている状況は厳しいと言える。そのことを踏まえて筆者は、現状で京成上野に乗り入れているスカイライナーを都営浅草線および京急線を介して羽田空港まで乗り入れる案を提唱する。提唱した理由は2点ある、1点目は、外国人に人気の観光スポットやビジネス拠点が都営浅草線沿線に集積しており、利用客増が期待できるから。2点目は、羽田空港乗り入れにより両空港間のアクセス時間距離が短縮され、両空港の需要増に期待できるから。筆者の提唱した案によって東京都心部にヒト・モノ・カネを呼び込むことができると考える。<br>
著者
小川 滋之
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2018, 2018

<b>スイゼンジナ(<i>Gynura bicolor</i>)とは </b>タイからインドにかけての山岳地域が原産とされており,アジア各地域で食される葉菜である.日本では江戸時代中期に中国から伝来し,熊本県で栽培されたのが始まりとされている.熊本県の伝統野菜「くまもとふるさと野菜,水前寺菜」のほか,石川県金沢市の伝統野菜「加賀野菜,金時草」,沖縄県の伝統的農産物「島野菜,ハンダマ」としても有名である.近年,ポリフェノール成分が豊富に含まれ,健康的な野菜であるということが注目されている.安価に通年生産できる強みから,葉菜が品薄になる時期の出荷が期待されている.<br><br><b>研究の背景と目的</b> これまでの研究(小川2018)では,日本国内における産地は宮城県山元町から南西諸島まで広く分布していること,伝統野菜としての自治体認定や特産化を目指している産地(京都府長岡京市など)があることなどが明らかにされた.しかし,伝来経路や産地間の交流については十分とはいえない.基本的な情報を明らかにしていくことが伝統野菜としての生産の維持や普及拡大につながるといえる.<br><br>本報告では,日本にみられるスイゼンジナの伝播経路を明らかにすることを目的にした.スイゼンジナは個体変異が大きいものの,1属1品種であり明確に品種改良された事例はない.しかし,産地ごとに形態の違いがあることに着目して研究を進めた.<br><br><b>材料および方法</b> 国内にみられる16産地と対照として台湾1産地の計17産地を対象にした.生産される個体の起源や生産方法を,各産地において聞き取りした.これに加えて,千葉県の同一条件下で3年間生育させた各産地の個体を用いて形態比較を行った.<br><br><b>伝播に関する各産地の情報 </b>各地に古い地域名や栽培方法が記された文献,南西諸島の呉継志「質問本草」(1837)があることから,19世紀までには全国的に栽培が広がった.しかし生産が途絶えた地域も多く,現在に至る産地は石川県金沢市,熊本県,南西諸島(各島嶼)に限られた.これらの地域が元祖となり,昭和時代以降の産地となったとみられる.たとえば,熊本県御船町から京都府長岡京市,金沢市から愛知県豊橋市や群馬県藤岡市に伝えられた.また苗は挿し芽により生産されており,石川県金沢市内と熊本県内ではいくつかの生産元に特定できた.南西諸島内は,栽培に関する情報が乏しいことから不明であった.<br><br><b>形態的な地理変異 </b>産地ごとの葉の偏平率,鋸歯の深さ,厚み,羽毛の有無に着目した.日本にみられるスイゼンジナは,北限型(宮城県山元町など3産地),東西日本型(石川県金沢市,熊本県御船町など6産地),北中琉球型(屋久島,沖縄島など4産地),南琉球型(石垣島など3産地)に分類することができた.<br><br>葉形態からは,金沢市と熊本県との違いはほとんど見られないものの,宮城県山元町などの北限型とは明確に異なった.北限型は,台湾型や南琉球型と形態的に近く,かつてこれらの地域から導入された可能性がある.南西諸島にみられる北中琉球型と南琉球型は,他産地とは違いが大きく,中国からの伝来経路そのものが異なる可能性が考えられた.<br><br> <br><br>〈引用文献〉<br>小川滋之2018. 日本国内におけるスイゼンジナの産地分布と地域名,生産と流通の特徴.熱帯農業研究11,p15-20.
著者
貝沼 良風
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2019, 2019

<はじめに>本研究では,山形花笠まつりを事例に,近代以降に生まれた祭りの存立要因を,祭りの参加者のアイデンティティに着目して検討する.日本においては,近代以降,とりわけ高度経済成長期以降,地域活性化などのために新たに祭りが生み出されていった.そうした祭りの中には,地域を代表する祭りに成長したものもみられる.祭りの参加者に注目すると,このような新たな祭りでは地縁的共同体によらずに参加者を募ることが少なくなく,参加者はそれぞれのきっかけや理由によって祭りに参加している.既往の祭り研究においても,祭りの参加者に着目して検討したものは存在する.そこでは,参加者個人の意識に注目したものもあるが,参加者個人は所属する団体の構成者の一人として捉えられる傾向にある.しかし,現代の祭りの在り方を解明するためには,参加者を特定の所属団体の一人としてだけでなく,参加方法や役割を変えながらも祭りに参加し続ける主体として捉えて分析する必要があるだろう.<研究方法と研究対象の位置づけ>以上を踏まえ本研究では,山形花笠まつりを事例に,祭りの参加者の参加のきっかけや理由と,参加者が形成するアイデンティティを明らかにし,現代の祭りが存立する要因を考察した.分析に用いるデータは,運営組織である山形県花笠協議会と,祭りに踊り手として参加している46人への聞き取り調査から収集した.また,山形花笠まつりに関する書籍や,各団体の資料等も適宜使用した.山形花笠まつりは高度経済成長期に観光誘致のために生み出された,花笠踊りという踊りを中心市街地で踊るパレードが目玉の祭りである.当初は地縁団体やその地域で活動する企業を中心としてパレードが執り行われていた.近年では企業の参加が多い一方で,学校や病院による団体,祭りへの参加のために結成された自主的な団体の参加が増加している.そして花笠踊りは県内外の祭りやイベントで披露されるなど,山形花笠まつりは山形市や山形県といった地域を代表する祭りとなっている.<結果>山形花笠まつりの参加者は,所属組織の一員であることや,知人からの紹介,個人の交流や踊りへの関心といったものを参加のきっかけや祭りに参加し続ける理由としていた.また,子供の頃に踊りを覚えた,あるいは過去に祭りに参加した経験者が,ライフコースの変化に伴い他団体で祭りに参加するケースも目立った.調査対象者の語りからは,団体や祭り,踊り,地域に対するアイデンティティが形成されていることが明らかとなった.まず,多くの参加者が,祭りへの参加は団体のメンバーとの楽しみ,あるいは団体の一員の義務であると語っており,団体に対するアイデンティティを形成している様子が読み取れた.また,沿道の観客との一体感や,踊り・ダンスの経験について語る様子から,祭りや踊りに対するアイデンティティが形成されていることも読み取れた.さらに,参加者は,県外の知人との会話で山形花笠まつりが話題になることなどについて語っており,山形県に対するアイデンティティを形成していることもまた読み取れた.山形花笠まつりを地元の祭りと区別しながら,山形県民としては参加したいと語る様子からは,地元に対するものとともに,山形県に対するアイデンティティも形成されていることが読み取れた.他方で,継続的に参加する参加者は,一参加者という認識から団体のまとめ役や祭りの盛り上げ役という認識へと変化しており,こうした点から,それまで形成されていたアイデンティティが変質する様子が読み取れた.また,様々な団体から祭りに参加することにより,踊りや団体に対するものだけでなく,祭りや地域に対するものといった新たなアイデンティティが形成されていた.様々なアイデンティティは個別で成立しているわけではなく,複数のものが重なり合うものと捉えられる.<考察>山形花笠まつりへの参加を通し,参加者は複層的なアイデンティティをライフコースの変化に沿って形成していた.また,そのようなアイデンティティは,参加者が祭りに参加し続ける動機の一つとなっている.このことから参加者のアイデンティティと祭りへの参加との間には,決して一方向的ではなく,相互に影響しあう関係があると考えられる.参加者のアイデンティティに基づく行動には,団体の一員としての参加の継続や様々な団体への参加,新たな団体の結成などが挙げられる.このような行動によって祭りへの団体の参加が維持されていると考えられる.またそのような参加者の行動は団体を越えた祭りへの参加のネットワークを生みだしている.そのネットワークの中での新たな個人の参加や,経験者の継続した参加が,祭りの存立の要因の一つといえるだろう.そしてそのようなネットワークの軸となるのが,祭りへの参加の志向に繋がる参加者の複層的なアイデンティティであると考えられる.
著者
張 厚殷
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.217, 2010

今まで韓国の地域産業政策の大部分は,中央政府の主導で行われ,その政策手段も中央政府から選定された各地域に等しく適用される方式で推進されてきた.しかし,最近韓国では,地方自治制度の復活と発展とともに,既存の産業政策の立案と推進過程に変化が現れ,地方自治体が,地域経済を活性化させるため,政策の決定や執行に主導的な役割を演じ始めた.本発表では,このような地域産業政策のパラダイムの変化に対応した韓国の地域産業政策の展開について大邱ミラノプロジェクトを中心に跡付けていく.<BR> 大邱広域市では,地域の繊維産業を対象とした'繊維産業育成方案(通称:ミラノプロジェクト)'を1999年からスタートさせ,現在は第3段階(2009~2012年)の事業を推進している.政策の目標は,大邱地域の繊維産業を先端高付加価値型の繊維産業に構造を改編し,最終的に世界的な繊維・ファッション産業のメッカとして育成・発展させることであり,イタリアのミラノ市を発展モデルとしている.大邱地域のミラノプロジェクトは,特定地域の特定産業を選定して集中的な支援を行う地域産業政策の最初の事例であり,その後全国的に推進された'地域産業振興事業'の先駆けとなった.<BR> ミラノプロジェクトは,金大中政府の新産業政策として出発した.事業推進の権限は,大邱広域市ではなく,中央政府の産業資源部が持っていた.また,ミラノプロジェクトは,大邱の繊維産業の育成のための独自事業として始めたが,以後,中央政府の決定によって4ヵ地域産業振興事業の一つという位置づけに変更された.第1段階のミラノプロジェクト(1999~2003年)は,17ヵ事業,事業費6,800億ウォンで,基盤造成のためのハード面の整備が事業の中心であった.基盤施設における集中的な投資を通じ,地域繊維産業の構造改善及び高度化のためのインフラが構築された.しかし,政策の企画・設立から多くの問題点を露出した.第1段階のミラノプロジェクトは,事業企画のための基礎調査と分析が不十分であり,全般的にずさんであった.そのため,事業企画に関する協議が不足し,企業間の有機的な協力がなく,また産業界以外の地域内外の主体の参加も不足していた.<BR> 2003年に発足した盧武鉉政府は,韓国の地域政策において画期的な変化をもたらした.盧武鉉政府は,国家均衡発展政策というフレームの下で積極的な地域政策を推進し,国家均衡発展特別法,特別会計,国家均衡発展委員会,国家均衡発展5ヶ年計画などを通じ、地域政策の制度的基盤を整備した.2004年から推進された第2段階の事業では,各地方自治体の企画案を土台とし,中央と地方自治体間の協議調整を経て,事業が設計された.また,第1段階とは,地域の特性を反映した戦略産業の追加,産業別・地域別に特性化されたプログラムに対する投資の強化,部門別事業間・地域間ネットワークと協力の強化,総合的な評価管理システムの構築などの違いがある. 第2段階のミラノプロジェクト(2004~2008年)は,16ヵ事業,事業費1,978億ウォンで,企業の研究開発のためのソフト面の整備に重点を置いた.企業側面から高感度・高機能性の繊維製品を開発する174の事業課題を支援し,人材養成,インフラの補強,融資事業を重点的に推進した.しかし,まだ産学研ネットワーク構造の脆弱,技術開発の活用と事業推進成果に対する評価システムの不備,事業費の有用と公金横領などの予算執行統制システムの不十分などが批判されている.<BR> 長い間,中央集権体制を維持して来た韓国で,地域自らが発展戦略を樹立するということは大きな制度的転換であるが,事業の成否の鍵を握っているのは地方自治体の政策企画能力と事業の運営能力である.いまだに中央政府と地方政府との分野別・政策間の役目分担は不明瞭であり,相互連携も不充分である.また地域産業政策がその地方自治体から立案されているにも関わらず,政策決定は中央政府の権限であるため,強い統制を受けている.
著者
原科 幸彦
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.39, 2010

1.環境計画・政策への参加環境市民とは何か。市民とは公共的な立場で考え行動のできる人のことで、住民に対置されるものである。環境計画への参加には、計画策定への参加と計画実行への参加があるが、環境市民活動は往々にして後者の参加ととらえられている。特に我が国では、計画や政策の意思決定過程への参加が極めて限られていたが、計画・政策をどう作るかが最も重要である1) 効果的な計画・政策ができてこそ、それらの実行段階での参加が意味をもつ。廃棄物処理における焼却主義は、十分な検討がなされたかに大きな疑問がある。温室効果ガスの削減に原子力発電が有効とされるが、燃料や廃棄物処理の持続可能性を考えると本当に推進して良いのか。この政策決定に国民参加はほとんどない。また、従来、不合理な計画の提案がなされた例も多い。例えば、2005年愛知万博では当初計画に重大な問題があった。だが、計画段階でのアセスメントにより良い計画に変えられた。事業仕分けをより丁寧に行うには、評価過程の透明化のため、アセスが必要。2.参加の保証の制度設計2)我が国の参加の黎明期には、参加の障害を除くことが求められたので「参加の保障」と称したが、今は次の段階、参加を確かなものにする「参加の保証」の時代に。市民参加の5段階モデル1.情報提供 (Informing)2.意見聴取 (Hearing)3.形だけの応答 (Formal Reply Only)4.意味ある応答 (Meaningful Reply)5.パートナーシップ (Partnership)参加の保証のためには、レベル4の意味ある応答の参加を実現する条件を与えることが必要。そこで、フォーラム、アリーナ、コートという枠組みで捉える 公共空間での議論計画の策定段階における参加と、実行段階における参加、オーフス条約で提示された環境政策に国民が関与するための3つの条件 フォーラム(情報交流の場) 情報へのアクセス アリーナ (合意形成の場) 意思決定における参加 コート (異議申立ての場)訴訟へのアクセス 3.オーフス条約の3条件(1)環境情報へのアクセス2001年に情報公開法が施行されたが、かえって情報が出にくくなった。情報を早期に廃棄する例も。アメリカの情報自由法:情報提供あるいは裁量的公開の推進、会議情報の公開。重要な政策の選択は審議会などで議論:議事録は発言順に発言者名を公表すべき。(2)意思決定における参加レベ4「意味ある応答」の参加の実現、公共空間での議論が不可欠、計画の策定から実行までの参加を。事業段階からの参加では遅すぎる。戦略的な意思決定段階での参加が、戦略的環境アセスメント(SEA)。(3)訴訟制度へのアクセス訴訟制度へのアクセスが必須。行政手続法で説明責任を義務付けることが必要。政府の決定への国民関与は1993年の行政手続法の制定時にも議論。当時は時期尚早とされたが、時代は変わった。 行政事件訴訟法の改正社会システム構築のチェック機構として、公益性の観点から争えるようにする。2004年6月の行政事件訴訟法の改正により原告適格の範囲が拡大。法廷で争えれば、参加の結果が意思決定に反映される可能性は高まる。例えば、米国連邦政府レベルのアセス制度(NEPAアセス)は訴訟制度との連動により改善された。社会システムの(ソフト)インフラ整備が不可欠。
著者
藤田 和史
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

I はじめに<br> 国内における家庭用品産地は,主として東京城東地域など大都市圏に展開してきた.国内における地方産地の一つに,海南産地がある.海南産地は,シュロ産業から発展したたわし生産を基礎に,非金属系家庭用品を中心に産地を形成してきた.しかしながら,家庭用品は途上国での生産が台頭し,国内の産地においては縮小傾向が続いている.海南産地も例外ではなく縮小傾向が続いているが,反面国内外の展示会への参加や企業同士の組合活動での協調など多様な活動を展開している.この中で,新製品開発や多角化など,個別企業の変化もみられるようになってきている.これらは他者とのネットワークによる活動であり,産地の革新を支えるネットワークでもある.これらの活動・ネットワークがいかなる特性を持つのかを検討することは,今後の地場産業産地を考察する上で重要と考えられる.<br> 本報告は,海南産地に展開する家庭用品産業を事例に,近年活発になりつつある製品開発や販路拡大などの活動における企業間ネットワークの役割とその空間性について検討することを目的とした.<br><br>II 海南産地の形成過程<br> 海南産地の起源は,市域北東部の旧野上村を中心とする野上谷で発達したシュロ産業である.野上谷を中心として,和歌山県内の旧海草郡から有田郡の山中は,第二次世界大戦後まで全国一のシュロ皮の産地であった.シュロは,弘法大師が唐から持ち帰ったともいわれているが,この地域では文永年間に阿氐河庄(現在の紀美野町清水)に山中に帰化自生していたものを観賞用として植栽したものが起源といわれている.シュロが明確な作物として栽培されるようになったのは弘和年間といわれているが,記録よって確認できるのは江戸時代以降である.『毛吹草』,『紀伊続風土記』,『紀伊国名所図会』などにシュロの栽培・樹皮の生産の様子が記録されており,江戸後期に不足した竹皮の代替材料として樹皮を江戸や大阪に出荷したとの記録が残っている.<br> 海南産地が,シュロ産業から家庭用品へと展開していったのは,主として戦後のことである.明治期以降,海南産地ではシュロ繊維を利用して箒,漁網や縄類が生産されていた.その後,戦中にタワシ材料として利用されていたパーム繊維の輸入が途絶えために,代替材料として東京のメーカーがシュロに着目したことで利用価値が高まった.戦後にパームの輸入が復活してからは,主として地元の業者がシュロタワシの生産を始め,ブラシや化繊タワシの生産,その他の製品へと拡大していった.<br><br>III 家庭用品生産の生産構造と産地の変容<br> 海南産地の生産業者は,素材やコンセプトを変えながら家庭用品の生産を行ってきた.現在,産地全体としての主な製品群は①タワシ・クリーナー類,②浴用関連小物・バス用品,③キッチン小物,④ランドリー用品,⑤トイレタリー用品である.かつては,シュロ敷物などから派生した布巾・ドアノブカバーなど繊維小物も多くを占めたが,現在では縮小している.これらの製品は差別化が図りにくいものが多く,かつ陳腐化しやすいという商品特性を持っている.そのため,各企業とも開発競争は過酷である.また,煩雑な製品も多い一方で,価格は低くなるという製品特性も有している.ゆえに,ランドリー用品等を中心として,プラスチックを利用した多工程製品は30年ほど前から海外での生産が増加し続けている.その一方で,国内ではスポンジタワシなど一部の製品の生産が継続されている.しかし,企業によってその比率や海外生産の形態は多様である.報告では,地域内の大手製造卸への聞き取り調査等をもとに,産地の変容と企業の対応を紹介していきたい.
著者
相馬 拓也 バトトルガ スヘー
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

<b>I&nbsp; </b><b>はじめに</b><b></b> <br>モンゴル西部バヤン・ウルギー県(Баян-Өлгий)アルタイ山脈一帯では、19世紀半ばから新疆一帯のカザフ人(Қазақ)の流入が断続的に続いた。そのため同地域には、いわゆる「ハルハ・モンゴル人(以下、モンゴル人)」社会とは異なる文化的・宗教的背景に根ざした、アルタイ系カザフ人(以下、カザフ人)による独自のコミュニティが形成されてきた。県内人口およそ9万人の内、カザフ人はその88.7%を占め、モンゴル国内最大のマイノリティ集団となっている。同地域のカザフ人は1990年代の民主化移行により、カザフスタンへの「本国帰還」や、自民族のアイデンティティ確立などをへて、モンゴル人社会とは異なる人的流動と自己定義の重層により形成された。しかし、ポスト社会主義時代を通じて加速した、カザフの伝統文化・習慣の振興、イスラーム教への回帰、都市部へのカザフ人口の流入・拡大等により、モンゴル国内では近年、カザフ人そのものを異質視する否定的感情も急速に広まりつつある。さらに近年モンゴル西部地域は、トルグート(Торгууд)、ウリャンハイ(Урианхай)などの氏族集団も、モンゴル人との差異を意識的に文化表象へと連結しはじめ、民族表象の揺籃となったローカルな社会構造は複雑化している。 上記の現状を踏まえ本発表では、①遊牧民の実生活・牧畜生産性の現状、②イヌワシを用いた伝統文化「鷹狩」の文化変容、③近年のイスラーム教の復興と宗教意識の変化、の領域を横断した3つの調査結果を統合し、カザフ人社会が国内で調和的に存続するための、持続可能な社会体制の在り方、伝統文化振興、宗教活動、地域開発の方向性などを考察した。 <br> <br><b>II&nbsp; </b><b>対象と方法</b><b></b> <br>各テーマの調査は2011年7月から2014年10月までの期間、各調査地(ソム)でテーマ別に行った。調査方法は上記①は構成的インタビューと統計学的手法(サグサイ、ボルガン)、②の民族誌的記録は半構成的インタビューと参与観察(サグサイほか)、③は集中的な定性調査と宗教指導者へのインタビュー調査(ウルギー市内)など、質的・量的双方の方法により実施した。<br><b><br>III&nbsp; </b><b>結果と考察</b><b></b> <br>(1)夏営地での集中的な基礎調査により、カザフ人と他氏族集団との経済格差(家畜所有数、消費数、幼獣再生産率など)が確認された。当該調査地では牧畜生活世帯の約60%が、家畜所有数100頭以下の貧窮した現状にある。経済活動の根幹をなす牧畜生産性の停滞および、生活水準の低迷など、カザフ人社会を経済的・心理的に圧迫する社会背景が明らかとなった。 (2)民族伝統の鷹狩文化を中心にすえた民族表象が、マイノリティであるカザフ人の文化的地位を劇的に飛躍させている現状が見られた。全県には現在も100名程度の鷲使いがいる。しかし、2000年度にはじまった「イヌワシ祭(Бүргэдийн наадам/ Бүркіт той)」の開催による急速な観光化がもたらす文化変容により、鷹匠は「文化継承者」として偶像化されると同時に、実猟としての鷹狩は消えつつある。さらに、伝統知の喪失、技術継承の停滞など、文化の持続性に多くの課題が確認された。 (3)現在のイスラーム復興は、1992年の「モンゴル・イスラーム協会」の設立により再始動された。カザフ人社会は、生活・経済的困窮から宗教への依存心が生じやすく、復興の原動力を後押しすることとなった。とくに宗教的リーダーであるイマーム個人の布教活動とリーダーシップが、重要な影響力をもつことが明らかとなった。そのため人々の宗教意識は多様化し、(i)トルコ、サウジアラビアを模範としたイスラームの厳格化、(ii)生活・文化の一環としての柔軟な復興、の2つの傾向が見いだされた。 <br><br><b>IV&nbsp; </b><b>おわりに</b><b></b> <br>以上、3領域の調査結果から、カザフ人社会の持続的開発には、(I)世帯ごとの牧畜技術と習熟度を向上させ、地域の牧畜生産性を高めること。(II)鷹狩や伝統工芸などの自文化の継承と持続性を確立すること。(III)イスラームと国内の他宗教との調和的拡散と深化、が学術的知見として示唆された。また、カザフ社会で停滞するモンゴル語識字率を向上させ、モンゴル人社会での就業機会と相互のコミュニケーションを安定させる必要も指摘される。本研究は国内最大のマイノリティ集団「アルタイ系カザフ人社会」の現状と文化・宗教復興の現状を把握し、過去の歴史・変容体験と未来への持続可能な社会を予見するための基礎研究と位置づけられる。 &nbsp;
著者
多賀 洋志
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2002, pp.79, 2002

高度経済成長期以降、大規模小売店舗の立地動向に交通網の変化がどのように影響しているのかを明らかにするために、1990年と2001年の2期での変化を見た。大規模小売店舗の変化に関しては、小売業施設のなかでも特に郊外における商業機能の中核である大規模ショッピング&middot;センターに着目する。まず、ターミナル型とロードサイド型の立地に分けて把握し、次に、規模&middot;開店年度などについて考察する。ロードサイド型が多く出店する特徴的な地域として、JR横浜線の橋本駅付近から東名高速道路の横浜&middot;町田インターチェンジ付近までの国道16号線沿いがある。また、16号線沿いは道路の新設および拡幅された場所に出店するという傾向を顕著にしめしている場所である。この国道16号線沿いは、埼玉県、千葉県においても同様に集積している。このほかに、国道246号線、国道6号線沿いなどにも集積がみられる。
著者
安藤 万寿男
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.31, no.9, pp.536-547, 1958

ここでいう近郊農業とは近接する都市の市場に農産物を出荷するうえに距離的に有利な交通地位を占め,地代高く,かつ狭い耕地を集約的に利用して営む農業をいう.この近郊農業の一部門としての果樹作を一般的果樹であるりんご,みかんにつき主として名古屋市近郊で検討した結果,次のことがいえる.<br> (1) 都市近郊の果樹作は遠郊のそれに比し輸送費の点で有利である.しかし,現在の輸送技術では包装荷造費の占める割合が高く都市近郊にとくに著しいので,都市近郊がこの包装荷造費の点で節約できるとその有利性は格段と高くなる.包装荷造の完全さの要請は果実の性質とともに市場機構と大きな関連がある.<br> (2) 出荷組織の上では出荷に利用しうるオート三輪の個人農家への普及利用が著しく,このことと市場に関する知識の普及と相まつて共同の団結がくずれた場合は個入出荷に傾き易い.しかし,中間に商人が介在することはほとんどない.<br> (3) 日本は全体として果樹作の規模が零細であるが,都市近郊でも例外ではなく,むしろ著しい.部落の農業組織や果樹の出荷形態において,専業と兼業との間に分化の傾向が認められ,専業は果樹の種類・品種・生産資材などでより集約的である.<br> (4) 生産資材の上で都市の下肥と果樹との関係は認められないが,塵埃は有機質肥料の供給源に乏しい近郊では遠郊に比し豊富かつ安価に入手しうる.他の生産資材の購入場所は名古屋市よりはむしろ背後に町村との関連が濃い.<br> (5) 労働力雇傭の上では都市の雇傭力と競合する点で不利ではあるが,背後の農村や遠方の農村から供給される.その賃金の地域差は全国的視野からみた僻遠の地に比較すれば格段の差があるが,愛知県内相互程度の範囲では大きくない.<br> (6) 都市の膨張につれて,都市発展の前線では地価が高騰し果樹園の増加は遮げられる.この宅地化の具体的な進行は土地の地目・肥沃・度所有権が関興するが都市化がより進行すれば園の潰廃も起る.<br> (7) みかん・りんごのような一般的かつ代表的な果樹作を例にとつてみても,大都市近郊には果樹作を中心とした特色ある近郊農業の経営形態が展開することが認められる.果樹作が一般に高度の集約度をもつ関係もあつて,都市近郊の果樹作の生産上の集約度はとくに高くないが,流通部門の集約度は高く,総じて流通部門にその特色をもつ.この経営形態が展開する地域は疏菜の場合よりは広く,現在の交通輸送技術の段階では名古屋の場合に名古屋市を中心として30~40粁の範囲をその地域とみたしうる.
著者
石原 潤
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.71, 2008

<BR> 急速な経済発展を示す中国では、青果物の流通システムも、急速に変容しつつある。本研究では、寧夏回族自治区の首都銀川市における、卸売・小売両段階の流通システムについて、実地調査の結果を報告する。対象地域としては、銀川市の商業中心である興慶区を主として採り上げる。<BR><BR>1、卸売段階<BR> 銀川市で消費される蔬菜の80%が経由するとされる北環市場と果物の最大の卸売市場である東環市場とがある。<BR><B>〔北環市場〕</B>1991年建設。蔬菜の卸売が主であるが、他の食料品の卸売も。全国の蔬菜を集荷(夏は寧夏の蔬菜が多く、冬は南方の野菜が入る)、周辺諸省約500kmへ出荷。蔬菜の2006年交易量33.6万トン、年交易額5.5億元。取引の電子化、全国の価格情報の電子掲示、残留農薬の検査などを進めている。この市場は、2つの村民小組が土地を出し、村と郷が資本を出して出来た。現在関係団体が委員を出す董事会に決定権があり、運営は彼らが作った公司が行う。市場の大規模商人は、数人でグループを組み、一部が外へ買い付けに行き、大型トラックをチャーターして荷を運んで来る。市場内に、倉庫や頂棚を借りて営業する。中・小規模商人は、夫婦等で営業。出身地等に自ら買い付けに行き、小型トラックなどで運んで卸売。あるいは市場内で商品を仕入れ、露天で卸兼小売。これら商人の一部は地元の都市戸籍保有者だが、大部分は農村出身(陝西省や安徽賞など)の農村戸口で、市場近くで間借りしている。<BR><B>〔東環市場〕</B>1988年開設、果物の卸売が主であるが、他の諸商品の卸売も。果物の集荷は、寧夏(35%)の他、全国各地から。果物を買いに来る商人は、市内だけでなく、内蒙古からも。果物の年交易量30万トン、年交易額4.8億元。この市場は、元は露天の小売市場だったが、ある村民小組の農民らが卸売市場を建設した。その後農民らは都市戸籍化、市場は有限会社として残り、董事会(住民の会)が運営。一般に卸売商人は、集団で経営、買い付けに一人を先方に送り、運輸会社のトラックを雇い、荷を運んで来て、朝、小売商人に売る。この市場最大の果物商は、十人余を雇用する卸売業のほか、スーパーマーケットの中にも出店。さらに郊外農場を持ち、温室栽培や無農薬栽培。<BR><BR>2、小売段階<BR> 小売段階で蔬菜や果物が売られる場は、小売市場とスーパーマーケットがある。前者のシェアーがなお高いと思われるが、後者の数も急増しつつあり、無視できない存在になりつつある。<BR><B>〔小売市場〕</B>工商所が管轄しているものとしては、興慶区の市街地には、7ヵ所の市場があり、設備は地下封囲式が1、封囲式2、簡易封囲式が2、頂棚式が2と、整備されている。工商所が管轄していないものとしては、確認し得た限りでも、4ヵ所の市場があり、封囲式が1、頂棚式が1、露天式が2と、設備はあまり良くない。経営主体は、公司、街道弁事所、居民委員会、村民委員会が各1であった。この他、早市(3ヵ所で確認)でも野菜の出市が多く、夜市(2ヵ所で確認)では果物の出店が見られる。これらは、いずれも露天で、工商所の勤務時間(8時半から18時半)外を狙って営業していると言う。一般に小売商人は農村出身で農民戸口、市場の近くに部屋を借りて居住。大部分は卸売市場で、一部は郊外の農民から直接仕入れている。小売商人の輸送手段は、三輪自転車から、オート三輪へと急速に転換しつつある。<BR><B>〔スーパーマーケット〕</B>野菜・果物を扱うスーパーマーケットは都心部にも、周辺部にも急速に立地しつつある。都心部立地では、A百貨店の1階、B百貨店の地階、4階建て綜合スーパーの1階(以上新華系)、南大門広場の地下(北京華聯超市)などがそれに当たる。周辺部立地型は、双宝超市a店(2階建)、同b店(地下・小規模)、同c店(1階建・小規模)、及び金風区に入るが新華趙市d店(広いワンスパン)などがそれである。市街地縁辺部に形成されつつあるマンション団地の分譲広告には、最寄りの小売市場と共に、これらスーパーが記載されており、スーパーでの購入が生活スタイルの中に定着しつつあることを示している。新華(大規模店中心)と双宝(小規模店中心)のローカルチェーンが店舗網を形成しつつある。これらの店舗の蔬菜・果物の仕入れは、卸売市場に依るもののほか、生産農場を持つ大きな納入業者に依存する形が生れている。<BR> 野菜の小売価格を比較したところでは、都心部の百貨店併設のスーパーで、値段が高いことがわかった。
著者
小池 拓矢 菊地 俊夫
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2016, 2016

<B>1. はじめに</B><BR> ジオパークを訪れた人びとは火山や海洋、河川などの営力によって形成されたダイナミックな景観を目にすることになる。これらの景観はジオパークの来訪者に大きなインパクトを与えるコンテンツである。よって、どこでどのような景観が来訪者に評価されたのかを検討することは、ジオパークの管理や運営をする上で重要である。そこで、本研究は伊豆大島で行われたジオツアーを事例として、ジオツアーの参加者がどこでどのような景観を評価しているのかを明らかにする。<BR> 伊豆大島は東京の都心の南方に位置しており、2010年10月に「伊豆大島ジオパーク」として認定された。伊豆大島には玄武岩質の成層火山である三原山をはじめとしたジオサイトが存在する。<BR><B>2. 研究方法</B><BR> 本研究は、首都大学東京の都市環境学部自然・文化ツーリズムコースで開講された野外実習における伊豆大島でのジオツアーに対して調査を行った。ジオツアーは2015年6月30日に行われ、これに参加した学生13名に調査に協力してもらった。<BR> ジオツアー参加者の景観評価を明らかにするために、本研究は参加者がツアー中に撮影した写真を分析するVEP(Visitor Employed Photography)という手法を用いた。参加者にGPS機能付きのデジタルカメラを貸与し、ツアー中に自由に写真を撮影してもらった。ジオツアーは2つのグループに分かれて行われ、それぞれのグループにガイドが1人ずつ付いて学生を案内した。2名のガイドが行ったインタープリテーションの内容をICレコーダーで記録し、インタープリテーションと景観評価の関係性について考察した。ジオツアー終了後には、参加者に撮影した1枚1枚の写真の撮影対象などを問うアンケートを行った。このアンケートでは、撮影対象のほかに、それぞれの参加者が気に入った写真5枚を選んでもらい、これらについても分析の対象とした。<BR><B>3. ジオツアー参加者の景観評価</B><BR> VEPを用いた調査を行った結果、一方のグループ(参加者7名)からは694枚の写真が、もう一方のグループ(参加者6名)からは581枚の写真が得られた。両グループともに地形景観や地質資源の写真がよく撮影されており、これらの写真の撮影地点に対してカーネル密度推定を行った結果、写真撮影が集中して行われた場所はすべてガイドによるインタープリテーションが行われた場所であった。ただし、その集中がみられた位置はグループごとに多少の違いがみられた。<BR> 次に、ツアー参加者が選好した写真についての分析を行った。参加者によって撮影されたすべての写真の撮影対象と比較して、参加者が選好した写真は人間を撮影したものの割合が大きかった。以上の結果から、ツアー参加者はあくまで記録として地形や地質に関する写真を撮影するが、記憶に残りやすいのは友人との楽しい時間の思い出であると考えられる。ツアー参加者に楽しかった記憶や満足した記憶が残れば、その地を再度来訪したり、他人に来訪を薦めたりする可能性は高くなる。<BR> 起伏に富んだ地形や非日常的な自然景観を利用して、人物のユニークな写真を撮影できるのがジオパークの特徴であり、ジオパークのガイドはツアー参加者にこれらの地質的・地形的資源を「観察」させるだけでなく、「体感」させるようなインタープリテーションを行うことが重要であるといえる。菊地・有馬(2011)はジオツーリズムの役割として、「広く一般に地形・地質や地球科学の知見が楽しく有意なものだと認識してもらうことがより重要である」と述べている。本研究の結果も、ジオパークにおけるインタープリテーションはただジオサイトに関する情報を提供するだけではなく、楽しさを同時に伝えることが必要なことを示唆していた。
著者
千葉 晃
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2020, 2020

<p>2011年3月11日の東日本大震災当日・避難時に、どこで降雪があったのかを、動画投稿サイトYouTubeの動画と生徒の作文集を用いて特定した。本研究は、先行災害の復旧途中で別の災害が加わる複合災害を意識し、今後の減災への情報提供としたい。津波襲来時に最も激しく雪が降っていたのは、宮城県東松島市である。YouTube上に投稿されている「震災を忘れない」の番組配信動画からである。そのなかで宮城県多賀城市では河川への津波遡上時に、うっすらと積雪があることを確認した。宮城県石巻市では、日和山公園において住民の避難時に降雪がみられた動画が存在する。宮城県仙台市宮城野区南蒲生浄化センター、夢メッセみやぎでも降雪が確認できた。特筆すべきは仙台沖15海里の海上で大粒の雪が降っている動画もあった。前述の「つなみ」作文集でそれを補った。一例として宮城県気仙沼市立大谷(おおや)小学校3年生(当時)、同名取市にある宮城県農業高校1年生(当時)の証言から、これら行政域内で降雪があったことが証明された。以上のように大震災当日に降雪が確認できた範囲は、連続的ではないものの最も北は宮城県気仙沼市、南は同県岩沼市まで直線距離で約110kmにわたっていた。</p>