著者
滝波 章弘
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 (ISSN:13479555)
巻号頁・発行日
vol.76, no.9, pp.621-644, 2003-08-01
参考文献数
52
被引用文献数
1 2

本稿は,都市のホテルにおける雰囲気について,空間的な議論を試みたものである.従来の研究は雰囲気を商品や情感として実態的に扱ってきたが,本稿では雰囲気を空間的かつ社会的に構成されるものと考え,その意味を考察した.すなわち事例として,ホテル産業が大きな位置を占めるジュネーブ市街地の著名なホテルを取り上げ,雰囲気を提示することがホテルの当事者にとってどのような意味を持つかを,ホテル関係者のコメントを中心に,ホテルのパンフレット,ホテル編集の雑誌,ホテルの空間構造などを参照しながら分析した.その結果,ホテルにおける雰囲気は,単なる場所の状態ではなく,ホテル側の戦略に基づき,ホテルという場所を,フランス語圏地理学でいうような領域とする役割を持つものとして意識されていることが明らかになった.
著者
青木 賢人
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.249, 2009

I 金沢大学における自然災害対応の枠組み演者の所属する金沢大学では常設の災害対応組織が構築されていない状況下で,2007年3月25日に能登半島地震が発生し,県下の災害に対し全学的な対応を求められることになった.発災当日より,本学のいくつかの災害調査関連の教員グループが自発的に現地調査を開始したが,大学としての正式な組織の発足以前から当該教員間では相互に連絡が取られ,動向が相互に把握されている「緩やかな連携」が成立していた.これは,能登半島地震が発生する以前の2005年より,金沢大学の理学系・工学系・文系教員のうち,災害関連調査を行う教員によって「白山火山勉強会」が設立され,定期的な情報交換が行われていたためである.本学教員による能登半島地震関連調査は,大学の正式組織に整理統合されていくが,通常時の「緩やかな連携」が発災時において重要な役割を果たしたことは,他大学における防災体制構築のヒントにもなるのではないだろうか.II「白山火山勉強会」の設立と展開白山は金沢市の南方約45kmに位置する活火山である.1659年の噴火記録を最後に比較的静穏な状況にあるが,本学名誉教授(元文学部地理学教室)で火山地形学の守屋以智夫氏による一連の研究(守屋,1984など)によって,最近数千年間は100~150年程度の静穏期と300年程度の活動期を繰り返しており,近々活動期に入ることが予想されている.しかし,白山の噴火を前提とした産官学の連携や,発災時の連絡・協力体制,ハザードマップの作製などの事前対策は十分に構築されていない状態であった.そうした中,2005年に白山山頂直下で顕著な群発地震が観測され,噴火の可能性が危惧された.この活動を受け,群発地震の観測成果を速やかに共有することに加え,発災時の協力体制を事前に構築することを目的に,前述の守屋以智夫氏と,自然科学研究科助教授で実際に地震観測を行っていた平松良浩氏を中心に,文系学部(文学部・教育学部)を含む学内の関連教員および,石川県・白山市などの自治体職員,金沢地方気象台,建設コンサルティング会社による「白山火山勉強会(以下,勉強会)」が設立され,演者も早い段階から参加することとなった.III 2007年能登半島地震発生時の災害対応体制2007年能登半島地震は3月25日という,春季休業中の日曜日に発生したこともあり,教員・学生とも多くが大学を不在にしていた.演者も金沢を離れており,直接的な対応をとることが難しかった.こうした状況下で,文・理・工の各領域の災害調査関連教員の所在確認と調査動向の相互把握が勉強会のネットワークを通じて行われ,スムースに情報交換が進んだ.演者が金沢を離れている間にも,勉強会参加教員の調査状況や成果はもちろん,それ以外の教員らによる成果が勉強会のネットワークを通じて提供され,その後の調査計画の立案に大いに役立った.その後,各教員の調査・研究は4月5日に発足した学長直轄の組織である「金沢大学2007年能登半島地震学術調査部会(以下,調査部会)」に集約されるが,この12日間の初動時に,特に文・理をまたぐ情報交換に勉強会が果たした役割は大きかった.また,勉強会として文・理の協働が既に取られていたことが,正式な組織立ち上げの素地となったともいえる.調査部会の発足後は,情報交換,成果の共有・発信,自治体との連携などが調査部会を核として行われている.また,自治体,消防,自主防災組織,一般市民に対する情報提供・防災教育などが,調査部会に参加した各教員によって行われている.IV「緩やかな連携」が果たした役割現在,勉強会は地震調査から離れ,本来の火山を中心とした防災に関する勉強会として調査部会とは独立に活動を継続している.能登半島地震の発生に際して,勉強会が果たした役割を再整理すると,災害発生以前から「学内にいる災害調査関連教員の把握(人材の発掘)とFace to Faceの関係構築が,教員個人レベルにおいてボトムアップ的になされていた」ということを挙げられる.一方,大学の組織である調査部会は,予算措置(とオブリゲーション)を伴うトップダウン型の組織であり,形骸的である側面も否めない.また,正式な組織は公的である反面,その設置までのステップや,多くの教員や様々な学外組織が参加するためには制約も多く,ハードルが高い.発災時において,混乱した状況下で調査組織を立ち上げ,効果的に運用するためには事前の準備が不可欠である.本学のように公的な組織が未整備な大学にあっては,その組織の発足までに多くの時間が費やされ,最も重要である初動時の調査が混乱の元で進められる可能性があった.その意味で,勉強会を通じて「緩やかな連携」が構築されていたことは重要であったといえよう.
著者
渡邊 瑛季
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2016年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100089, 2016 (Released:2016-11-09)

Ⅰ 序論 1980年代後半以降,スポーツツーリズムを取り入れ,地域振興を目指す自治体が先進国を中心に増加している.欧米では,スポーツツーリズムを都市経営戦略として位置づけている例があり(工藤 2009),日本でも1990年代以降,地方行政の施策でスポーツ観光が推進されるようになった(花島ほか 2009; 須山 2010).その多くは,スポーツ合宿誘致やスポーツイベントの開催である. 日本のスポーツ合宿地は,長野県,山梨県など首都圏外縁部に1950年代後半以降立地してきた.一方,1980年代後半以降,宮崎県,北海道,沖縄県など大都市圏から離れた地域にもスポーツ合宿地があらわれた.首都圏外縁部の合宿地に関する地理学的研究はあるが,新たな合宿地に関する研究は限られており,合宿の誘致における行政の主導的役割(須山 2010)の指摘にすぎない. 本研究では,研究事例が無い北海道オホーツク地域を対象に,1980年代後半以降発展してきた新しいスポーツ合宿地の形成過程を明らかにする.研究方法は,ゲストが初めて来訪する際に,ゲストとホストを結びつけた主体である媒介機能と,ホストである宿泊施設の合宿への対応および経営への影響の分析である.Ⅱ オホーツク地域におけるスポーツ合宿受入の端緒 オホーツク地域における夏季のスポーツ合宿は,1985年に明治大学ラグビー部が北見市で合宿を行ったことにはじまる.これは,北見市の誘致活動に加え,北見市出身の同部OBの人脈によるものであった.当時,大学・社会人ラグビー部の多くは長野県菅平高原で夏季合宿を行っていたが,1980年代に高校生チームが増加したことで,1面のグラウンドを複数のチームが同時に使用するなどの状況が生じたため,貸切利用を好む大学・社会人チームの中には合宿地を変更するものが現れた.オホーツク地域には2015年度には284チーム,8,661人(実人数)が訪れた.道外からのゲストの多くは関東地方からの実業団や強豪大学であり,彼らは航空券など高額な合宿費用を負担できる.種目別にはラグビー(3,057人),野球(1,715人),陸上(1,287人)の順に多く,道内と道外チームの人数割合はほぼ半数ずつであった.Ⅲ 媒介機能からみたスポーツ合宿の受入パターン オホーツク地域に来訪するゲストである合宿者と,ホストである宿泊施設を結びつける媒介機能は,行政(受入市町),他チームの指導者が挙げられる.行政の窓口は観光ではなく,スポーツ施設を管理している社会教育関係の部署に置かれていることが多い.網走市の場合,2014年度に合宿を行った49チームのうち,網走市で初めて合宿をした年に,市に問い合わせて宿泊施設を手配したゲストは46ある.このうち他チームの指導者に網走市を紹介された例が8含まれる.一方,市を介さず直接宿泊施設を手配したゲストは3にすぎない.この傾向は,他の自治体でも同様である.これは,行政が合宿誘致事業を先駆的に実施していて,ゲストは行政に合宿申込をすれば,宿泊施設とスポーツ施設の手配が同時にできることが背景にある.練習場所であるスポーツ施設は,公共施設であるため使用には行政に申請する必要がある.Ⅳ 宿泊施設の受入対応および経営への影響 ゲストが宿泊する宿泊施設は,温泉付き大型ホテル,ビジネスホテル,旅館,公営施設など多岐にわたり,受入希望がある宿泊施設に対し,行政がスポーツ施設の利用状況を考慮してゲストを振り分けている.合宿2年目以降は,行政を介さず宿泊施設にゲストが直接予約を行うようになり,合宿地として定着することが多い.オホーツク地域は,流氷,網走監獄,知床などの観光資源がある.しかし,夏季における宿泊者数は1990年代以降,旅行会社による団体旅行が縮小したことで減少しており,この影響を受けた網走市の宿泊施設では,スポーツ合宿の受入が夏季の重要な経営基盤となっている.津別町でも道東では規模が大きく,11月初旬から営業を開始し,スキージャンプ選手などの合宿を受け入れていた津別スキー場が2007年に閉鎖されたことで,宿泊需要が減少した.そのため,夏季のスポーツ合宿は,宿泊施設だけでなく,町内の食材卸・販売店にとっても大口需要となっている.Ⅴ 結論 オホーツク地域では,スポーツ施設の利用と宿泊施設の手配の決定権を行政が握って主導することでスポーツ合宿を受け入れてきた.スポーツ合宿は,宿泊施設の経営に重要で,それ以前のツーリズムに代わるオルタナティブツーリズムとなっている.(本研究は,公益財団法人ヤマハ発動機スポーツ振興財団2015年度スポーツチャレンジ研究助成「日本におけるスポーツツーリズムの空間的構造の解明」(研究代表者:渡邊瑛季)による研究助成の成果の一部である.)
著者
白坂 蕃 漆原 和子 渡辺 悌二 グレゴリスク イネス
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.180, 2010

<B>I 目的</B><BR> 世界のかなりの地域では、厳しい気候条件の結果として、家畜飼養はたったひとつの合理的土地利用としてあらわれる。それにはさまざまな形態があり、定住して営む牧畜のひとつの形態が移牧transhumanceであると筆者は定義する。<BR> 本稿では、ルーマニアのカルパチア山脈におけるヒツジの二重移牧の変容を通して、山地と人間との共生関係の崩壊を考えたい。_II_ジーナの人びととヒツジの二重移牧 ジーナJina(標高950m)はカルパチア山脈中にあり、年間降水量は約500-680mmである。ジーナ(330平方_km_)の土地利用は、その25%が放牧地、15%が牧草地(採草地)で、耕地は1%にも満たない。牧草は一般には年二回刈り取れる。第二次世界大戦後の社会主義国であった時代にもルーマニアでは、山地の牧畜地帯は、これ以上の生産性向上を期待できない地域であるとして土地の個人所有が認められていた。ジーナの牧羊者(ガズダgazdā)は定住しており、多くの場合、羊飼い(チョバンciobăn)を雇用して移牧をする。<BR> ジーナはヒツジの母村であるが、ヒツジがジーナの周辺にいる期間は短い。毎年4月初旬から中旬にかけて、低地の冬営地からヒツジはジーナにもどってくるが、約2週間滞在して、さらに標高の高いupper pasture(ホタル・デ・ススHotarul de Sus)に移動し、5月中旬から6月中旬の間そこにいる。ホタル・デ・ススは約10,000haあり、ここに150-200ほどの小屋(sălaş)がある。<BR> 6月中旬にヒツジは高位の準平原までのぼり9月10日くらいまではここにいる。ここは森林限界を超えた放牧地 Alpine pasture(面積5,298ha)である。移牧はセルボタ山Vf. Şerbota (2,130m)の山頂直下の2,100mに達し、ここが夏営地の上限である。<BR> 遅くとも9月中旬には、ヒツジは高地の放牧地からホタル・デ・ススに下り1-2週間滞在し、10月初旬にはジーナに降りるが1-2週間しか滞在せず、10月中旬には冬営地であるバナート平原、ドブロジャ平原やドナウ・デルタにまで移動する。バナート平原までは約15日、ドブロジャやドナウ・デルタまでは20-25日かかる。<BR><BR><B>III 1989年以前の移牧とその後の変容</B><BR> 社会主義時代には約150万頭(1990年)のヒツジが飼育され、state farmsとcooperative farmsがその1/2以上を飼育していたが、ヒツジの場合、個人経営individualも多かった。1989年の革命後、state farmsとcooperative farmsで飼育されていたヒツジは個人に分けられたが、多くの個人はその飼育を放棄した。したがって、1998年の革命以降ヒツジの飼養数は半減した。また平野部の農用地は個人所有にもどったため、作物の収穫後であっても農耕地のなかをヒツジが自由に通過することは困難になり、さらに道路を通行する自動車などをヒツジが妨げてはならないというRomanian regulationもできた。そのために1,000頭程度の大規模牧羊者gazdāは、バナート平原などの平地でヒツジを年間飼養せざるをえなくなった。しかし彼らはラムのみに限っては夏季に平野部からジーナまでトラックで運搬する。そしてHotarul de SusやP&acirc;şunatul Alpinまでは徒歩で移動し、帰りもまたジーナからはトラックで輸送する。したがって、P&acirc;şunatul Alpinにおける夏季のヒツジの放牧数は1988年の革命以前に比べて極端に減少した。<BR><BR><B>IV EU加盟とヒツジの移牧</B><BR> 今日ではルーマニアの農牧業もEU regulations(指令)のもとにあり、ヒツジの徒歩移動は最大でも50_km_である。さらに条件不利地域への補助金もある。このように、1989年の革命後、それぞれの家族は彼らの持つ諸条件を考慮して牧畜を営むようになった。その結果、こんにち、ジーナにおける牧畜は次のような三つのタイプに分けられる。<BR>1)ジーナに居住し、通年ジーナでヒツジを飼育する世帯(Type 1)<BR>2)ヒツジの飼育もするが、ジーナとHotarul de Susの間で乳牛の 正移牧を主たる生業とする世帯(Type 2)<BR>3)平野部に本拠を移し、ヒツジの飼育を生業として維持する世帯(Type 3)<BR><BR><B>V まとめ</B><BR> 1989年の革命以前には、カルパチア山脈における二重移牧は見事なばかりにエコロジカルな均衡を具現していたが、社会主義体制の崩壊によって、変貌を余儀なくされた。しかしながら、現在のところその形態を変化させつつも、生業としての移牧は継続している。しかしながら、ルーマニアのヒツジの移牧は、「平野」の農村における農業生産力の発展、都市経済の変貌にともなって衰退すべきものであるとみるのが妥当なのかもしれない。
著者
佐々木 リディア
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.151, 2009

本研究では、ルーマニア、ドナウデルタにおける観光の持続性と、環境保全との共存・両立の可能性を考察し、そのために必要とされる対策を明示することを目的とする。 近年、自然環境保全への意識が高まる中、より持続性が高く新しい型の観光が求められている。中でもエコツーリズムはその筆頭である。「環境保全の側に立ち、地元の生活向上に貢献する、責任ある旅行の仕方である」と定義されている(TIES, 1990)。つまり、エコツーリズムは環境保全に貢献し、地元文化の伝承、地元への財政に利益をもたらし、来訪者と地元の双方の環境意識を高めることに寄与する。 1989年の政治・経済改革以降、中東欧諸国では観光業の振興が優先課題となった。ルーマニアも豊富な自然・文化資源により観光業の育成が期待されたが、消極的な政策を採り他の中東欧諸国の後塵を拝することとなった。その結果、2006年の外国人観光客数は604万人、国全体の観光業のGDPへの貢献度は1.92%と期待を下回る。このような、ルーマニアの観光業の発展の阻害要因として、以下の4つの点が挙げられる。_丸1_ 国の観光振興政策・戦略の欠如; _丸2_ 政府と民間との連携の欠如; _丸3_ 地方のインフラ整備不足(交通、宿泊のみならず、上下水道・下水処理場、ごみの収集などといった基礎インフラでさえ不足している); _丸4_ 観光業の人材が質量共に不足。そのため2007年にEU 加盟したルーマニアは、新しい観光振興戦略に基づき、EUからの支援金を受け持続的な観光業の振興に力を入れた。 本研究では、持続可能な観光に豊富な自然資源を有するドナウデルタに焦点をあてる。ドナウデルタ生態系保全地域(DDBR)は、ルーマニア最大の生物圏保存地域であり、多様な生物種(植生、野鳥327種、魚類65種など) により世界遺産に指定されている。1989年以前のドナウデルタは、自然保全エリアを除き、漁業、葦の採取販売、自給自足的農牧業、零細な観光業などが複合的に機能していたが、1990年以降厳密な自然保護地域に指定されたため、これまでの生業の継続が難しくなり新たな収入源が必要になった。当初、観光業は有望な選択肢と見られ、観光客は徐々に増加した。しかし一方で、観光は地域の資源である環境を汚染し、野生動物の生活環境を侵害し、地域文化を喪失するなどマイナスの影響をもたらす。その解決としてエコツーリズムの導入することにより、自然環境と地域文化の保護に対する、観光や地域発展という相反する目的を共に満たし、地域社会の持続的発展を可能にできると考える。 最後に、発表者は持続的地域発展を目的とする真のエコツーリズムを浸透させるためには、以下の4点が重要な対策であることを提言する。_丸1_環境保全、地域発展と観光を調和させるための新しい地域の観光振興戦略を策定する_丸2_国、地方公共団体、DDBR当局と地域コミュニティの間の連携を高める_丸3_行政が、基礎インフラ、そして観光のための投資を優先的に行う_丸4_環境保全活動に対する地域住民の意識を高め、積極的に関与させる
著者
川久保 篤志
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2005, pp.74, 2005

1.はじめに 近年、わが国で農産物の輸出拡大をめざす議論が高まっている。これは、近年のアジア諸国の経済発展に伴う購買力の上昇やFTA交渉の進展による関税率の低下などに期待したものであり、現に2000年以降のわが国の農林水産物輸出額は対アジア諸国を中心に20%以上の伸びを示している。 そこで本発表では、このような議論が高まるなかで本当に輸出の拡大は有望なのかを、果実の中で最大の輸出量をもち歴史も古いミカンを事例にその現状と拡大への課題について検討する。2.わが国におけるミカン輸出の近年の動向 わが国のミカン輸出は1980年代にピークに達して以来減少続きで、1990年代後半以降も回復の兆しはみられていない。輸出先についても、カナダ・アメリカの北米2ケ国で輸出量全体の約95%を占めている状況は従来と変わっておらず、東・東南アジア諸国への輸出もそれほど伸びてはいない。また、価格についても1990年の162円/kgから2003年の98円/kgへと大きく低下している。したがって、ミカン輸出の減少はカナダ・アメリカでの販売動向の結果であるといえるが、なぜこのように北米向け輸出が1990年代に減少してしまったのか。 その要因の1つは円高の進行による採算の悪化である。1980年代前半には1$=200円台であった為替レートは、1990年代前半には100円台前半へと大きく円高が進んでしまった。もう1つは、相手国の事情で、カナダについては、円高の進行とも関連して価格競争力を強めた中国産のミカンがカナダでのシェアを伸ばしたことが大きい。一方、アメリカについては、植物検疫上の問題が大きい。アメリカは、ミカンの潰瘍病やヤノネカイガラムシ等の病害虫の侵入に対して強い警戒を示しており、輸出希望国は生産園地の指定とアメリカ人検査官の立ち入り調査など数々の検査手続きを受ける必要があるのである。 このような状況下で、わが国の輸出ミカン産地ではどのような生産流通が行われているのか。以下では、静岡県の現状について検討する。3.静岡県における輸出向けミカンの生産・流通の現状1)旧清水市におけるミカン輸出への取組み 旧清水市は、静岡県で最大の輸出ミカン産地であるが、近年はその生産を大きく減じている。その要因としては、清水市でのミカン栽培自体が衰退傾向を強めていることと、ミカンの栽培品種構成が晩生(12月収穫)の青島種に大きくシフトし、通常11月に行われる輸出時に間に合うミカンそのものが減少してきたことが挙げられる。 現在、JA清水市では青島種以外のミカンのすべてを輸出に振り向ける方針にしているが、輸出向けミカンの採算は目標を大きく下回っている。しかし、そのような中でも労働力基盤が弱く青島種への系統更新を進めることに消極的な農家層にとっては、早生ミカンの輸出は国内相場の低迷する11月に出荷できることや、加工向けに出荷するよりもはるかに利益をもたらすことから、一定のメリットがあると認識されている。2)三ケ日町におけるミカン輸出への取組み 三ヶ日町は静岡県最大のミカン産地で、かつ近年輸出向けミカンの生産が増加している。これは、青島種の大玉果(3Lサイズ以上)の輸出に取組み始めたからである。青島種は静岡産ミカンの主力品種であり、国内販売でも有利に取引きされるため本来なら輸出向けに販売されるものではないが、大玉果は国内販売でも低価格なため、等級によっては輸出向けに回した方が利益が出るという判断がなされるようになってきたからである。 しかし、三ヶ日町で輸出に向けられているミカンは決してグレードの高いものではない。生産者は、国内向け販売から得られる収入との比較の中で輸出向けミカンを選別しているのであり、実態としては国内向け果実の最低ランクと加工向け果実との中間レベルの果実を樹上で選別して収穫しており、極めて特殊である。また、選果箱詰めに関しても農協が行うのではなく旧清水市内の集出荷業者に委託しており、農協の関与は国内向け販売とは比べものにならないくらい小さい。3)藤枝市におけるミカン輸出への取組み 藤枝市は現在ミカンの対米輸出を行っているわが国唯一の産地である。輸出指定園となっているのは、海岸から約10kmも離れた山間部の29haで、気候的に冷涼なため糖度重視の現在の国内市場へ販売するためのミカン作りには適していない。また、園地は急傾斜にあり農作業面でも条件不利地域である。輸出に向けられているのは、輸出指定園内で生産されたミカンの約50%で、品種的には青島種以外の品種の全量と青島種の3Lサイズ以上である。しかし、対米輸出は対カナダ輸出よりも高値で取引されていることから、三ヶ日町のように3Lサイズの中からさらに低級品を選別するといったことは行っていない。
著者
相馬 拓也
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2017年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100051, 2017 (Released:2017-05-03)

1.  はじめに モンゴルには現在でも、500~1,000頭のユキヒョウPanthera uncia(図1)が生息すると推測される。かつては「山の亡霊」と畏れられ、地域の遊牧民はその存在に畏怖を抱き、毛皮のために積極的に捕獲したり、棲息環境を攪乱することは控えられてきた。そして長年ユキヒョウの棲息圏内に暮らした遊牧民でも、その姿を目にしたことのない人物は多い。しかし、ユキヒョウと遊牧民は現在、経験のないほどの緊張関係にある。集中的な保護による個体数の安定とあいまって1990年代以降、ユキヒョウの生態行動にも変化が現れた。人間を恐れなくなり、頻繁に人前に姿を現し、家畜を襲うようにもなった。ユキヒョウと遊牧民の目撃・遭遇事故は、2013年頃を境に急増し、遊牧民の家畜襲撃被害も頻発するようになっている。とくに宿営地まで来て家畜を襲う例が多数発生している。その報復として、国内法でユキヒョウ狩りが完全に禁止された1995年以降にも、遊牧民による私的なユキヒョウ駆除が複数例確認された。 ユキヒョウが希少動物と害獣のはざまを揺れ動く存在となり、地域の牧夫たちもこの双極性に苦悶する。こうした現状を踏まえ、本調査では両者の保全生態を目的として、R1. ユキヒョウ目撃・遭遇事故、R2. ユキヒョウによる家畜被害の推移、により現状把握を行った。2.  対象と方法 本調査は2016年8月7日~23日までの期間、ホブド県ジャルガラント郡、ムンフハイルハン郡、ゼレグ郡、マンハン郡、チャンドマニ群の4ヵ村で実施した。同地のユキヒョウ棲息山地①ジャルガラント、②ボンバット、③ムンフハイルハンで暮らす遊牧民105世帯を訪問し、構成的インタビューにより集中な情報収集を実施した。上記3地点に生息するユキヒョウは、合計約70~90頭前後と推測される。   3.  結果と考察 R1. ユキヒョウの目撃・遭遇事故 遡及調査により、目撃事例180件、遭遇事故53件を特定したところ、2013年頃を境に急増している現状が明らかとなった(図2)。こうした「ユキヒョウ関連事故」の発生状況をみると、「日帰り放牧中」が38.5%ともっとも高く、次に馬群や牛などの「大家畜の見回り」が34.4%と高い。とくに夏季は家畜が採食活動で高所へ赴くため、その見回りの途中でユキヒョウとの目撃・遭遇頻度が高くなると考えられる。「高所への放牧」「見回り」「狩猟」など、遊牧民の生活と切り離せない日常の活動での割合が82.8%となっている。多くの地元遊牧民がユキヒョウを畏れているが、実際にはユキヒョウの対人攻撃性は低く、自身から人間に襲いかかってくることは稀である。現地居住者117名から、本人体験だけでなく伝聞を聴いても、実際に襲われたというオーラルヒストリーは1件も聞かれなかった。 R2. ユキヒョウによる家畜被害の推移 ユキヒョウは高山帯や岩山の放牧地で食草するヤギ、また馬を好んで襲っている(図3)。2000年以降で特定できた馬の襲撃被害104頭のうち89頭が死亡、15頭が生存している。ユキヒョウの襲撃からの生存率は14.4%と低い。その場で即死しなくとも、当日~20日間以内に傷が原因で死亡している。死亡した馬で年齢が特定できた25件の平均年齢は1.04歳(満年齢)で、若年の馬の犠牲が多いことが理解できる。25件のうち14件が1歳未満の仔馬であった。ヤクでもとくに満2歳齢以下が好まれる。被害事例では、宿営地(ホト)付近まで来て家畜を襲った例が23件確認された。時期の特定できた22件のうち、18件が2010年以降で、とくに2015年8件、2016年8件とほとんどが最近2年以内に発生している。3.  今後の展望 ユキヒョウ生息圏に在住する遊牧民のあいだには、「政府によるユキヒョウ被害対策への遅れ」や、「家畜被害に対する補償制度の不在」などの不満が募っている。とくに放牧地を保護地に指定されることへの警戒感や強制移動への不満が噴出している。しかし、ユキヒョウによる家畜被害の増加は、遊牧民自身の生活態度と環境配慮の欠如、例えば(PR1) タルバガンの乱獲、(PR2) 家畜の過大所有と過放牧、(PR3) 家畜防衛の怠り、などに起因する可能性もある。いわば遊牧民自身も、家畜をユキヒョウから守る努力を怠っている側面は否めない。 モンゴルの遊牧民にはかつて、自然のバランスが崩れれば必ず自分たちの生活に跳ね返ってくることを理解しながら、その環境共生観/保全生態観を伝承や戒めとともに受け継いできた。物質面、資金面、制度面等のあらゆる側面で依存体質の現代のモンゴル遊牧民には、能動的な家畜防衛という遊牧活動の原点と自己研鑽こそが、ユキヒョウと遊牧民にとっての望ましい未来を確立するように思われる。
著者
市川 康夫 中川 秀一 小川G. フロランス
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2018, 2018

フランス農村は、19世紀初頭から1970 年代までの100年以上に渡った「農村流出(exode rural)」の時代から、人口の地方分散と都市住民の流入による農村の「人口回帰」時代へと転換している。農村流出の契機は産業革命による農業の地位低下と農村手工業の衰退であったが、1980年代以降は、小都市や地方都市の発展、大都市の影響圏拡大によって地方の中小都市周辺部に位置する農村で人口が増加してきた。しかし、全ての農村で人口増がみられるわけではなく、とりわけ雇用力がある都市と近接する農村で人口の増加は顕著に表れる。本稿では、地方都市と近接する農村でも特に人口が増えている村を事例として取り上げ、移住者へのインタビューからフランス農村部における田園回帰の背景とその要因を探ることを目的とする。本調査が対象とするのは,フランスのジュラ山脈の縁辺に位置する山間の静かな農村地帯にあるカンティニ村(Quintigny)である。カンティニ村は、フランス東部フランシュ・コンテ地域圏のジュラ県にあり、ジュラ県庁所在地であるロン・ル・ソニエから約10km、車で20分ほどの距離に位置している。カンティニ村では、フランス全体の農村動向と同じく、19世紀末をピークに一貫して人口が減少してきたが、1980年代前後を境に、周辺地域からの流入によって人口が増加し、1975年に129人であった人口数は、2017年には262人と2倍以上になっている。隣村のレ・エトワール村は、「フランスで最も美しい村」に指定されており、観光客の来訪や移住者も多い。一方で、カンティニ村は目立った観光資源などは持たないが、移住者は静かな環境を求めて移住するものが多いことから、この点に魅力に感じて移り住むケースが多い。<br><br> カンティニ村への移住者は、20~30歳代の若年の子育て世代の流入が多く、自然が多い子育て環境や田園での静かな生活を求め、庭付き一戸建ての取得を目的に村に移住している。カンティニ村内は主たる産業を持っておらず、ワインのシャトーとワイン工場が2件あるがどちらも雇用数は10人程度と多くない。農家戸数も1950年代に26戸あったものが、現在では2戸になり、多くの農地はこれら農家に集約されたほか、移住者の住宅用地となっている。<br>本研究では、2017年8月にカンティニ村の村長に村における住宅開発と移住者受け入れ、コミュニティについて聞き取り調査をし、実際に移住をしてきた15軒の移住世帯に聞き取り調査およびアンケート調査を実施した。移住者には、移住年、家族構成、居住用式、居住経歴、移住の理由等、自由回答を多く含む内容で調査を行なった。<br> カンティニ村における移住者は、1980年代より徐々に増加し、特に2000年代以降に大きく増加している。カンティニ村における移住には2タイプあり、一つは村が用意した移住者用の住宅区画に新しい住宅を建設して移住するタイプ、もう一つは、②空き家となった古い農家建築を移住者が購入し、居住するタイプである。古い農家建築は築200~300年のものが多く、リフォームやリノベーションが必要となる。<br> 農村移住者の多くは、ジュラ県あるいはその周辺地域の出身者であり、知人からの口コミや不動産仲介からの紹介、友人からの勧めをつてにカンティニ村を選択していた。移住者の多くは、小都市ロン・ル・ソニエに職場を持っており、ここから通える範囲で住宅を探しており、かつ十分な広さと静かな環境、美しい自然・農村景観や農村建築を求めて移住を決めている。いずれも土地・住宅は購入であり、賃貸住宅や土地の借入はない。<br> 移住者がカンティニ村を評価する点としては、都市に近接しながらも今だに農村の風情や穏やかな環境、牧草地やワイン畑が広がる豊かな景観があること、美しい歴史地区の農村建築群、安価な住宅価格と広い土地、そして新しい住民を歓迎する村の雰囲気が挙げられている。そして、特に聞かれた点としては、主要な道路から外れてれおり、村内を通り抜ける車がないこと、村内に商店がワインセラーを除いて1件もないことに住民の多くは言及しており、「静寂」と「静けさ」を何よりの評価点として挙げている。また、多種多様な活動にみられるように、「村に活気がある」という点も多く聞かれた。また住民の仕事の多くは時間に余裕のある公務員であり、歴史建築を購入し自らリノヴェーションすることが可能であったこと定着の背景である。
著者
于 燕楠
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2021, 2021

<p>1. 目的と方法</p><p></p><p>需要発生地によってインバウンドの訪問パターンには特徴がみられる.典型的な例として,台湾の団体旅行は地方を含めた全国へ拡大する傾向にある一方,中国の団体旅行は東京—大阪間のゴールデンルートに偏在している.地方訪問について,台湾人の地方志向と中国人の都市志向がよく知られているものの,その要因を検討する実証研究は必ずしも十分とは限らない.地方における台中の訪問パターンを相対化する具体例によって,異なる分布傾向をもたらす要因がわかる可能性がある.</p><p></p><p>本稿の目的は,富山県に訪問する台湾発と中国発の旅行商品の訪問地を明らかにし,その分布要因を考察することである.具体的には,2019年1年間の富山県を経由する台湾389件と中国258件の旅行商品を資料とする分析と,2020年12月に旅行業者を対象とする聞き取り調査を実施した.旅行商品の分析では,目的地をノード,目的地間の移動経路をリンクとして抽象化し,旅行商品をネットワークの視点でとらえる.両ネットワークの面的な分布傾向,線的な周遊ルート,点的な目的地の3つのスケールに着目し,聞き取り調査を踏まえて分析結果を考察した.</p><p></p><p></p><p></p><p>2. 結果と考察</p><p></p><p>台中両ネットワークとも,白川郷と金沢をハブとする構造を有している.富山県を訪れる旅行商品であるものの,富山県は必ずしも主要目的地とは限らない.市町村単位で集計した訪問地の分布について,台湾の旅行商品は訪問地が80箇所と多いこと対し,中国のものは44箇所と旅行範囲が比較的限定されている.特に台湾のツアーには,富山県朝日町や新潟県糸魚川市などの中小都市の多いことが顕著である.これらの地区が中国のツアーに現れていない要因は,商品化までの知名度に欠けることだと考えられ,「造成しても販売が困難」との聞き取り調査の回答と整合的な結果となった.</p><p></p><p>また,周遊ルートの地域差も確認できた.聞き取り調査の結果を参考にし,コミュニティ抽出手法で捉えた周遊ルートを「昇龍道」「アルペンルート周遊型」「ゴールデンルート拡張型」「近畿—北陸周遊型」の4類型にまとめた.地方志向の「昇龍道」「アルペンルート周遊型」が共通しているものの,「ゴールデンルート拡張型」が中国独自のものとして存在している.この類型では,富山や金沢をはじめとする地方部が大都市の脇役とみられ,中国からの地方訪問を促す一因がゴールデンルートのリニューアルだと分かる.一方,この類型は台湾のツアーに全く登場しておらず,東京—大阪に台中間の温度差が存在している.</p><p></p><p>以上から,地方訪問を指向する台湾と,ゴールデンルートに固執する中国の旅行商品の違いが比較的明瞭にみられる.ほかにも旅行形態・ターゲットの設定・旅行商品Webページの記述の特徴を合わせて見ると,両者が違う成長段階にあることが考えられ,市場の成熟度が訪問パターンの差を生じさせた一因だと考察できる.中国では日本の地方部が観光地として知られるようになった日が浅く,なじみの薄い地方訪問がまだ草創期にありながら,台湾は既に訪日の成熟市場であり,大都市よりも地方志向性が向上している.今後一定の期間を経ることで,台湾のような旅行商品が中国にも現れる可能性がある.しかし,市場の成熟度はあくまでも一因であり,今後は入国制限,旅行業者の経営戦略,旅行動機の差などの要素がどれだけ旅行商品に影響を与えるのかを確認する必要がある.</p>
著者
大石 太郎
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2020, 2020

<p>Ⅰ はじめに</p><p></p><p> 国家やエスニック集団の記憶は,そのアイデンティティ形成に重要な役割を果たしており,それらは博物館やイヴェントを通じて強化され,継承される.たとえばカナダでは,実質的な建国記念日であるカナダ・デーを祝うイヴェントが首都オタワの連邦議会議事堂前広場において総督や首相が出席する国家行事として開催され,二言語主義や多文化主義といったカナダの国是に沿った演出がなされてきた(大石 2019).エスニック集団の記憶も,たとえば矢ケ﨑(2018)がアメリカ合衆国におけるさまざまな集団の事例を検討し,移民博物館やエスニック・フェスティヴァルがその記憶と継承に大きな役割を果たしていることを示した.本報告では,カナダ東部の沿海諸州(ノヴァスコシア州,ニューブランズウィック州,プリンスエドワードアイランド州)のフランス系住民アカディアンの記憶とその継承を,5年ごとに開催される世界アカディアン会議に注目して検討する.報告者は,2014年開催の第5回および2019年開催の第6回世界アカディアン会議に参加していくつかのイヴェントを観察するとともに,関連資料を収集した.</p><p></p><p> </p><p></p><p>Ⅱ アカディアンと世界アカディアン会議</p><p></p><p> アカディアンはカナダの沿海諸州に居住するフランス系住民であり,北アメリカに入植した最初のヨーロッパ人であるフランス人入植者の末裔である.18世紀にイギリスの支配下に入って以降,英語への同化が進んでしまったが,フランス語が英語と並ぶ公用語となっているニューブランズウィック州を中心に,現在もフランス語を母語として維持している.そこで一般には,統計的に把握しやすいこともあって,沿海諸州に居住するフランス語を母語とする者をアカディアンとみなす場合が多い.ただし,沿海諸州のフランス語話者にはケベック州出身者が一定程度含まれる一方,同化されてしまった家系にもアカディアンとしてのアイデンティティを維持する者が存在する.</p><p></p><p>アカディアンの先祖であるフランス人入植者は,1755年にイギリス植民地当局によって入植地(現在のノヴァスコシア州)から追放された.この「ディアスポラ」体験は,今日まで彼らのアイデンティティの核となってきた.また,19世紀末の一連のアカディアン・ナショナル会議で選ばれた象徴(守護聖人,旗,歌など)も,アカディアンのアイデンティティを今日まで支え,また可視的なものとしてきた.</p><p></p><p> 世界アカディアン会議は,入植400周年を10年後に控えた1994年に第1回が開催されて以来,アカディアンが居住する各地をホスト地域として5年ごとに開催されている.</p><p></p><p> </p><p></p><p>Ⅲ アカディアンの記憶と継承</p><p> 報告者が参加した第5回はニューブランズウィック州北西部を中心にアメリカ合衆国とケベック州の隣接する一部の地域を,第6回はプリンスエドワードアイランド州とニューブランズウィック州南東部をそれぞれホスト地域として開催された.興味深いのは,それぞれのホスト地域とのかかわりでアカディアンのアイデンティティが再確認されることである.すなわち,世界アカディアン会議はアカディアンのアイデンティティを統合・強化するのみならず,居住する各地を参加者らに展示する役割をも担っている.</p>
著者
原 真志
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.52, 2009

1.はじめに 文化と経済の双方向での融合が進行し(Scott, 2000),高コストの大都市に集積するコンテンツ産業に対する関心が高まり、わが国でもコンテンツ産業政策支援の議論が活発になって来ている.知識ベース集積論では,イノベーションに重要な暗黙知の共有のために対面接触に有利な近接立地が促進される側面が強調されているが(Maskel and Malmberg, 1999),間接的実証のみで,対面接触の直接的実証が欠如している(Malmberg and Power, 2005).コンテンツ産業の特徴としては,都市空間においてプロジェクトベースで多数の主体が相互作用して離合集散するプロジェクトエコロジーを形成している面が重要であり(Grabher, 2002),単に主体間のネットワークのパターンを静態的に特定するだけでは不十分である.本研究は,コンテンツ産業クラスターにおいて,プロジェクトベースでどんな主体のいかなる相互作用によって,どのようにして多様な主体が時限組織の中に編みこまれて,プロジェクトが開発され,実行されるのかのダイナミズムを明らかにすることを目的とする.2.方法 地理学においては,主体間のコミュニケーション分析として,コンタクトアナリシスがあるが(T&ouml;rnqvist, 1970;荒井・中村,1996),定常的コンタクトの分析が中心であった.報告者は,これまでサーベイ・対面調査・参与観察等の手法により,ハリウッド映画や日本のアニメ・実写のコンテンツプロジェクトにおける主要な主体間のコミュニケーションの実証を行ってきたが(原,2002a;原,2002b;原,2007),プロジェクト期間中の,確定された参加者を対象としたものであった.産業クラスターあるいはプロジェクトエコロジーの核心部分は,プロジェクトがいかに立ち上がるのかという開発段階あるいはそれ以前の試行錯誤を含む相互作用ではないかと考えられる.その検証にはプロジェクトの正式な開始以前の長期のデータ収集が必要となるが,コミュニケーションの対象範囲の特定の困難さ,膨大な量,心理的抵抗,守秘義務などの障壁から,そうした段階の長期のデータ入手は困難であった. 本研究は,調査協力者を得て,こうした問題を克服するために「半リアルタイム定期調査法」という方法を考案してデータ収集を行った.「半リアルタイム定期調査法」では,調査協力者に,日常的にコミュニケーション日誌にすべてのミーティングスケジュールを記録してもらい,それを基に1~2カ月に一度の定期的ヒアリングを実施し,各ミーティングに関する詳細な内容を聞き取るというものである.この手法により,シングルケースであるが,1年間を越える長期の大量のコミュニケーションデータの収集が可能となった.聞き取る項目としては,いつ・どこで・誰と何のために会ったかという基本事項に加え,会う契機,定例-非定例,プロジェクトベースか否か,相談・依頼の有無と方向,金銭の授受の有無,情報の送受信量と相対量,コミュニケーションの結果としての認識の変化や意思決定の有無などの項目が含まれている.3.対象 本研究で具体的な調査対象とする松野美茂氏(現在ミディアルタ社取締役)は映画・テレビのVFXスーパーバイザー・VFXプロデューサー等として活躍しており,代表作に平成ガメラシリーズ,ウルトラマンシリーズ,SDガンダムフォース,生物彗星WoO等がある.企業に所属している時期も,企業を超えた形で次世代技術をいち早く活用するプロジェクトを起こすフリーランス的な仕事を行ってきており,またCG関連のソフト・ハード製品についての先見性が業界で伝説になっている.本研究では,松野氏に対して半リアルタイム調査法によりデータ収集を行い,分析を加えた.データ収集は2005年11月から開始し,2008年度日本地理学会春季学術大会において,2006年末までのデータの分析結果を報告した.今回は,2007年度分のデータを加えて,合計六百件強の約2ヶ年のデータの分析結果を報告するが,2006年には従来のフリーランス的な行動が反映されたものであったのに対し,2007年は松野氏が新規起業に関与していった時期であることに起因する興味深い違いが現われている.
著者
亀井 啓一郎 原 美登里 鈴木 厚志
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 = Proceedings of the General Meeting of the Association of Japanese Geographers
巻号頁・発行日
no.69, 2006-03-10
参考文献数
1

1 はじめに<BR> モノやヒトや自己との対話をとおし、協力・協働のある学びが提唱されて久しい。地理教育に関する文献では、古くから野外観察や野外調査に基づいて自ら情報を目的に応じて収集・処理し、それを解釈・判断し、自らの考えを述べる能力育成の大切さが指摘されてきた。自らの観察や調査によって構成された心象は、視聴覚教材等によって得られたものより狭い地域範囲にとどまるが、観察や調査に基づき得られた内容には深さと多角的側面が備わり、地域を認識する基礎となるためである。このようなことが指摘されてきたにもかかわらず、それらを実践する組織的な方法や、評価・展示のための仕組みを十分に構築してきたとはいえない。本発表は、4年目を迎えた「彩の国環境地図作品展」の実践報告である。これにより、地理教育の基礎・基本を視座に据えた、大学と地域社会との協働ネットワークづくりの一端を紹介したい。<BR><BR>2 「彩の国環境地図作品展」の組織と概要<BR> 「彩の国環境地図作品展」は、2002年度より埼玉県内の小・中・高・特殊教育諸学校に在籍する児童・生徒を対象として開始している。立正大学地球環境科学部と埼玉県北部地域創造センターは、県の推進する「職・住・遊・学」拡充戦略の一つにこの地図作品展を位置付けた。そのため、当初より埼玉県や埼玉県教育委員会、熊谷市教育委員会、地元の現職教員、生涯教育施設の長に実行委員として参加頂き、初年度の組織を立ち上げた。2005年度の実行委員は総勢17名、その内10名は県内諸機関から参加頂いている。 後援団体としては、埼玉県やさいたま市、教育委員会、公益法人、そして日本地理学会をはじめとする地理学・地図学系学会に協力を依頼している。また、東京電力(株)埼玉支店には、特別協賛という形で発表会・表彰式の会場を提供頂いている。 2005年度の「彩の国環境地図作品展」の年間日程は以下の通りである。5月から6月にかけて、埼玉県内の小・中・高校や生涯教育施設などに作品募集のポスター・チラシを配布し、作品応募を呼びかけた。作品の受付は9月2日から16日である。10月に作品審査となる実行委員会を開催し、11月から翌年2月にかけて、発表会・表彰式と作品展示会を開催している。 なお、この地図作品展の事業経費は、立正大学地球環境科学部予算と同大学院にて実施するオープンリサーチセンター経費から支出されている。<BR><BR>3 地域協働ネットワークづくり<BR>産官学協同事業の事例を示す。「彩の国環境地図作品展」の作品募集の一環として、「地図作り教室」を開催している。開催当初は、立正大学地球環境科学部の施設のみで観察・調査・地図作成のすべてを行っていた。2004年からは、北本市にある埼玉県自然学習センターとの事業として、7月の第3・4週の土曜日に開催している。「地図作り教室」では自然学習センターの指導員が中心となり、自然学習センターのある自然観察公園で観察・調査を行い、その翌週、立正大学地球環境科学部において地図化と発表会を行っている。さらに、2005年は熊谷市環境対策課と協働で「地図作り教室」を開催している。入賞作品については、発表会・表彰式を開催し公表している。発表会・表彰式は、東京電力(株)の普及施設であるTEPCO SONICを会場とし、実行委員や国土地理院や埼玉県などの授賞団体の関係者に出席頂いて開催している。作品展は巡回展示により行っている。展示会場はTEPCO SONIC・埼玉県自然学習センター・さいたま川の博物館・立正大学熊谷キャンパスで、入賞作品だけではなく、多くの応募作品を展示・公開できるように配慮している。このように、発表会・表彰式と巡回展示においても地域社会との協働体制を推進している。<BR><BR>4 作品の特徴<BR> 2005年度の応募は34作品であった。そのうち10作品を入賞作品として選出した。入賞作品を学年別にみると、小学生5作品、中学生3作品、高校生1作品、中学生と高校生のグループによるものが1作品である。このうち、国土地理院長賞を受賞したのは、熊谷市立佐谷田小学校元荒川環境調査隊H17の「がんばれムサシトミヨ!ムサシトミヨの食料編」である。また、埼玉県知事賞と日本地理学会長賞を受賞したのは、こどもエコクラブザ・すぎちゃんズの「ようこそ鳥さん元荒川へ」である。両作品とも埼玉県内を流れる元荒川をテーマとしてグループで観察・調査をし、その結果を図表や写真を用いて表現豊かにまとめた作品である。これらは、本地図作品展の目的の一つである、身近な環境や地域の姿を自ら観察・調査することを実践した質の高い作品である。また、このような作品は増える傾向にある。これは、われわれの取り組む事業の趣旨が出品者側にも伝わり、地域恊働ネットワークが少しずつ形成されている証拠ともいえよう。
著者
山口 勝
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2020, 2020

<p><b>1.はじめに 「新たなステージ」に対応した防災・減災 を受けた動き</b></p><p>2019年の台風19号をはじめ、毎年のように自然災害が発生している。政府は2015年1月に、既に明らかに雨の降り方が変化しているとして「新たなステージに対応した防災・減災のあり方」を公表した。「比較的発生頻度の高い降雨等」に対しては、施設防御を基本とするが、それを超える降雨等に対しては、従来の避難勧告に加え「状況情報」の提供による主体的避難の促進によって「命を守り、社会経済に対して壊滅的な被害が発生しない」ことを目標にすることにした。本稿では、防災機関やメディアから地理情報として発信されるようになった防災・災害情報の現状について報告し、現状と課題を検討する。</p><p><b>2.情報で「命を守る」 マップによる「状況情報の提供」</b></p><p>国交省国土地理院は、ハザードマップポータルhttps://disaportal.gsi.go.jp/で全国の自治体のハザードマップを見られるようにした。また気象庁は、2018年に大雨、洪水警報の危険度分布の発表を始めた。切迫度の高いリアルタイムの災害情報が、テキストから線や面といった画像や地理情報で伝えられることになったのである。洪水予報河川だけでなく全国約2万の中小河川を対象とする画期的な取り組みである。台風19号を受けて2019年末には、大雨の危険度とハザードマップをWEB上で重ねられるようさらに改良した。「川が溢れる」→「ここまで浸水する」→「すぐ逃げて」と情報で「自らの命は自らが守る」ことを促進させるねらいである。また、この間、台風など時系列を踏まえた対応が可能な場合は、あらかじめ社会的な対応を取っておく「タイムライン防災」が提唱され、鉄道の「計画運休」などが実施されている。リアルタイムの時空間情報に基づく防災対応が行われている。 </p><p><b>3.メディアにおける地理情報の重要性 マス・パーソナルコミュニケーション</b></p><p> このように災害の激化、頻発化、局地化によって防災機関が、災害情報発信に地理情報を使うようになると、速報メディアを中心に地理情報の活用が活発化した。例えば、Yahoo!は、2016年に「Yahoo!天気・災害」などで、地図上に河川水位情報を示し、ハザードマップと重ねられるようにした。NHKでは、東日本大震災以降、気象データなどのビックデータを可視化するNMAPSという地理情報システムを開発し、2015年関東東北豪雨では、線状降水帯の形成過程を3次元のデジタルアース上で可視化した(山口、2016)。現在では各局の気象情報でも日常的に利用している。また、2018年の大雨・洪水の危険度分布の運用に合わせて、気象庁や「川の防災情報」などの防災機関のWEBを、スタジオのPCで操作しながら解説する「リアルタイム解説」を始めた。災害が起きてからの災害報道ではなく、防災・減災報道を充実させるためである。また、「命を守る」公共メディアとして「いつでも、どこでも、だれでも」防災情報を得られるよう「NHKニュース防災アプリ」や「NHKニュースウェブ」といったネットを使って、警報などの情報を原稿(テキスト)だけでなく、位置や範囲示す危険度分布や河川カメラの映像とともに地理情報でリアルタイムに発信するようにしている。</p><p><b>4.まとめ</b></p><p> 台風19号では、10月12日の午後には「川の防災情報」のページがつながらなくなった。本稿では、地理情報による情報発信が、主にネットで個人に対して行われていることを示したが、情報ニーズが高まる災害時に機能しないのでは困る。輻輳のない放送など複数の手段による災害情報の発信が必要である。また、目の悪い方やラジオなどの音声メディアに向けて、画像や地理情報で提供される災害情報をAIなどでテキスト化、音声化し、優先度や位置情報にもとづいて伝えられるようにするなど、さらなる工夫も期待されている(山口、2019)。</p>
著者
加藤 周人
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2018, 2018

目的と方法<br> 福島第一原子力発電所の事故をきっかけに福島県沿岸での操業は自粛された.いわき地区では2013年10月より試験操業が開始され,本格操業にむけて少しずつ水揚げ量が増加しているものの,水産物の風評被害も依然残っており,流通への影響も大きい.また水産物の出荷が止まることによる影響について勝川(2011)は,被災地の水産業が元の状態に戻ったとしても,取引先が入荷先を変更してしまうために,結果として水産物の出荷先を失う可能性を指摘している.<br> 原子力災害をきっかけとした福島県の水産物流通の変化は他県とは異なる.そこで本研究では震災前後の変化を示すだけでなく,仲買人の多様な流通が原子力災害の影響によってどのような影響を受けたのか,そしてどのような対応をしてきたのかを仲買人の経済活動というミクロな視点から明らかにしていく.<br> 調査期間は2017年2月から10月にかけて断続的に調査を行い,夏季期間は2017年8月24日から9月15日まで現地滞在し,聞き取り調査を行った.また原子力災害後の水産物流通についてはいわき市漁協の期間別,魚種別出荷先別のデータも用い分析を行った.<br><br>仲買人の経済活動と出荷状況<br> 聞き取り調査から,産地仲買人は1度に多くの鮮魚を仕入れ,主に消費地市場へ出荷する大口仲買人と,数キロ程度の鮮魚を仕入れ,鮮魚店などを営む小口仲買人に分けられた.<br> 大口仲買人B-11は主に活魚を仕入れそれを消費地市場に出荷していた.災害後は取引先との関係を維持させるため,他地域の産地卸売市場まで赴き,水産物を買付し出荷を継続させていた(表1).大口仲買人の多くは長期的な利益を見据え,経済活動を行っていた.一方小口仲買人は災害後,産地卸売市場で鮮魚を購入できず,入荷先をいわき市中央卸売市場や他県の鮮魚店などに変更し,対応してきた.<br> また災害後の水揚げ量は徐々に増加傾向にあるが,常磐ものブランドであったメヒカリ(アオメエソ)の販路は依然として縮小傾向にあり,魚種によって出荷傾向が異なっていた.<br><br>参考文献<br><br>勝川俊雄2011.『日本の魚は大丈夫か―漁業は三陸から生まれ変わる―』NHK出版新書.
著者
野中 健一 新井 綾香
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2016, 2016

本研究は,ベトナム北部山岳地域に居住するタイ族,ザオ族の1年間の食事内容の記録の分析,また両民族への栄養摂取源に関する聞き取り調査を報告し,ベトナムの少数民族における動物性食物,植物性食物の摂取状況,貧困層と非貧困層の食物摂取の相違等を総合的に考察する. <br> 政府は農村においては月額400,000VND(約20ドル)以下の世帯を貧困層と位置付けており,ベトナムでは貧困層の70%を少数民族が占めるといわれており,その栄養改善が指向されている.少数民族の栄養改善は政府の政策の中でも最優先分野となっている。<br>調査の対象はイェンバイ省バンチャン郡の2コミューン(村)(ソンルアン/タイ族・ナムライン/ザオ族)であり,ハノイから北西部の山岳地帯に位置している.<br> 調査はソンルアン村にて90世帯(全体の13.0%),ナムライン村にて70世帯(全体の9.8%)を対象に実施した. 調査では各世帯が1日に食した食物(農産物及び非林野副産物)を種類別(肉魚類,昆虫類,穀類,野菜・果物類)に全て記録してもらい,1年間に食した頻度を記録する作業を行った.また,頻度の調査に加え,タイ族,ザオ族双方を対象としてフォーカルグループディスカッションを2度行い,年代における食事の変化や,特定の食物の種類など,日誌調査法や頻度の分析では得ることができない追加情報を得た.<br>調査の結果,動物性食物の摂取においては貧困層と非貧困層でその摂取状況に大きな差が出た.ザオ族の動物性食物摂取のうち,貧困層及び非貧困層の自然資源と農産物の比はそれぞれ29%・71%,16%・84%であり,動物性食物に関しては貧しければ貧しい程自然資源に栄養源を頼っていることが分かった.一方,植物性食物の摂取は貧困層,非貧困層に関わらず自然資源への依存度が非常に高い(41%~45%)結果となった.経済状況に関わらず,多くの野生副産物が食事に組み込まれており,微量栄養素の摂取源になっていることが示唆された. <br> さらに,①自然資源摂取状況,②植物性食物と動物性食物の摂取状況,③たんぱく源となる食物選択,④微量栄養素となる食物選択,⑤各食物の季節性の変化,⑥個人差の比較について分析と考察を進めていきたい。<br>
著者
今井 理雄
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.159, 2010

規制緩和以降の乗合バス市場において,公営バス事業の民営事業者への移管や委託といった動きは,少なからずみられており,それに伴う影響や課題も顕在化している.これらは当初,移管および委託をスムーズに実施するためのプロセスに注意が払われてきたが,数年が経過し,路線や運行水準の維持および効率的な再編といった,サービスの持続可能性を問う課題が指摘されるようになってきた.公営バス事業は,その社会的な意義や民営事業者では運行が難しい不採算路線の維持など,民営バスとは異なる存立基盤にあることが,これまで経営を維持する目的となってきた.しかし一般的に公営バス事業は,おもに経費に占める人件費の割合の高さから,民営事業者に比べ経営環境が悪く,整理の対象となった(今井,2003).札幌市においては2001年12月,公営バス事業としては今後の収支の改善は望めないことを理由として,事業からの撤退を打ち出し,政令指定都市としては初めて市営バス事業すべてを段階的に民営事業者に移管し,2004年3月末をもって事業を廃止した.<br><br> 今井(2009)では,その移管過程,さらにその後生じた路線廃止をめぐる課題について整理,検討した.また地元紙などでは当初から,行政(交通局)と事業者とのあいだでの不協和音が指摘されてきた.その結果,市営バスから北海道中央バスに移譲された,市域東部に位置する白石営業所所管路線の存廃をめぐり,行政と事業者の公的補助についての思惑の違いから,2008年6月,市民や第三者となる別事業者を巻き込んだ混乱へと発展した.既存事業者が廃止届を提出したため,行政は受け皿となる事業者を選定し,さらに運行を委託することで補助金を拠出し,路線の維持を図ろうとした.しかし巨額の補助金に対する批判報道が集中したため,結局,既存事業者が継続運行することに表明し,廃止届を取り下げた.行政は抜本的な路線維持方策の変更が必要であると判断し,公的補助制度の拡大となる改定が行われたうえで,当該地区の路線を効率的に再編するため,行政,事業者,住民,市民団体を構成員とする検討会議を設置した.これにより「白石区・厚別区地域バス交通検討会議」として,2009年6月から5度にわたって会合がもたれ,意見交換がなされた.また従来,行政と事業者との協議内容が市民に開示されず,批判を受けたこともあり,会議は公開とされた.しかし,抜本的な改善をもたらすような議論がされているとはいい難く,目前の課題に対処するのが限界である.<br><br> 本研究では,札幌市における公営バス事業の民営移譲の事例に着目し,それに伴って生じた民営事業者によるサービス提供の限界に対して,行政や事業者,および住民の意思決定の過程を明らかにするとともに,その方策と課題について考察する.<br><br>(参考文献)<br>今井理雄 2003.規制緩和にともなう路線バス事業の変容.日本地理学会発表要旨集64:67.<br>今井理雄 2009.札幌市における公営バス事業の民営移譲による影響と課題.日本地理学会発表要旨集75:140.<br>
著者
山下 亜紀郎 羽田 司 宮岡 邦任 吉田 圭一郎 オーリンダ マルセーロ エデュアルド アウベス シノハラ アルマンド ヒデキ ヌネス フレデリコ ディアス 大野 文子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

<b>1.はじめに</b><b></b><br> 本研究が対象とするブラジル・ペルナンブコ州ペトロリーナは,ブラジル北東部(ノルデステ)の内陸にひろがるセルトンと呼ばれる熱帯乾燥・半乾燥地域に位置している.1960年代以降,当地域を流れる大河であるサンフランシスコ川を水源とする大規模灌漑プロジェクトが各地で実施された.その中流域にあたるペトロリーナおよび周辺地域でも,1978年にソブラディーニョダムが建設され,広大な灌漑耕地が新たに開発された.そして1990年代以降には,マンゴーやブドウなどの果樹生産が飛躍的に普及し,その結果,現在のペトロリーナおよび周辺地域は,ブラジルでも有数の灌漑果樹生産地域となっている.<br> 本発表では,そのような大規模灌漑プロジェクトが実施されたサンフランシスコ川中流域のペトロリーナを対象に,近年の干ばつが毎年続いている状況下における,水供給側の取水・給水の実態と水需要側(農家)の灌漑の実態に関する現地調査の結果を報告し,灌漑果樹農業の持続性について考察する.<br><b><br> 2.ペトロリーナ周辺地域の水利事情</b><b></b><br> セルトンは干ばつの常襲地域であり,ペトロリーナの降水量データをみても数年に一度の周期で少雨の年があるが,2011年以降は毎年,年降水量400mm以下の少雨年が続いている(山下・羽田2016).それはソブラディーニョダムの集水域としての上流部も同様で,そのため同ダムの貯水率も非常に低下しており,2015年8月には12%,そして同年12月には6%まで下がった.その後再び回復したとはいえ,10~20%程度で推移している.<br> サンフランシスコ川中流域で実施された灌漑プロジェクトのうち最大のものは,プロジェクト・セナドール・ニーロコエーリョ/マリア・テレザであり,ペトロリーナ市街の北側に広がる灌漑耕地面積は20,000haを超える.その耕地にソブラディーニョダムを水源とする用水を供給しているのが,DINCと呼ばれる組織である.DINCによる取水量の変遷をみると,干ばつが続く2011年以降においてむしろ取水量が増えており,月別データをみても雨季より乾季において取水量がより多い.一方で水需要側(農家)がDINCに支払う水使用料は値上げ傾向にある.<br><br><b>3.果樹農家の灌漑方式の変遷と現状</b><b></b><br> 当地域に多くの農家が入植した1980年代には,灌漑プロジェクトのインフラとして整備されたaspers&atilde;oと呼ばれるスプリンクラーによる灌漑方式が主流であった.1990年代になると,micro aspers&atilde;oやgotejo(点滴)などといった節水灌漑が急速に普及した.しかしながらその理由は,水を節約するためというよりも,労働力や水使用料も含めてより少ないコストでより多くの収量・収益を得るためという経済的側面が強い.したがって干ばつが続く近年にあっても,作物の収量や品質を維持することが最優先され,水使用料が値上げしているとはいえ,農家による用水量の削減というのはほとんど行われていない.<br><br><b>4.おわりに</b><b></b><br> 本発表の内容をまとめると以下の通りである.<br> 降水量やダム貯水率の現状からは,当地域では干ばつが続いているといえる.しかしながらDINCも農家も,水を節約することよりも作物に必要な水を与え続けることを優先している.とはいえ当地域では従前から節水灌漑が広く普及していたため,今のところこのことが問題化するには至っていない.むしろすでに節水灌漑が広く導入されているからこそ,干ばつであっても容易にこれ以上用水量を減らすことができないといえる.<br><br>
著者
山下 亜紀郎 羽田 司 吉田 圭一郎 宮岡 邦任 オーリンダ マルセーロ・エドゥアルド・アウベス シノハラ アルマンド・ヒデキ ヌネス フレデリコ・ディアス 大野 文子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2016, 2016

<B>1.はじめに</B><BR><br> ブラジル北東部(ノルデステ)の内陸には、セルトンとよばれる熱帯乾燥・半乾燥地帯がひろがり、厳しい自然条件などから、かつてはブラジルでもっとも開発の遅れた地域であった。この地域を流れる大河であるサンフランシスコ川の流域では、20世紀後半以降とくに1970年代以降、国家的な大規模灌漑プロジェクトが実施され、農業開発が進められてきた。この当時の詳細についてはすでに先行研究にまとめられているが(斎藤ほか1999;丸山2000など)、本研究の目的は、その後のセルトン、とくに2000年以降のサンフランシスコ川中流域における灌漑果樹農業の現状と変遷を詳らかにし、今後の展開について考察することである。<BR><br><B>2.ペトロリーナの気候</B><BR><br> 研究対象としたペルナンブコ州ペトロリーナは、サンフランシスコ川中流の沿岸に位置する。気候区分としてはステップ気候に属する。月別平年値(1985~2014年)によると、5~10月は降水がほとんどないが、11~4月にはある程度の降水がある。気温にも若干の年変動がみられ、7月がもっとも低く(24.2℃)、11月がもっとも高い(27.5℃)。ここ40年ほどの年降水量の変遷をみると、比較的多雨の年と少雨の年が周期的に交互に現れる傾向にあり、最多雨年は1985年(1023.5mm)、最少雨年は1993年(187.8mm)である。しかしながら2011年以降、年降水量500mm未満の少雨年が続いており、このことがペトロリーナにおける農業経営や住民の日常生活に大きな影響を与えつつある。<BR><br><B>3.果樹農業の発展</B><BR><br> 1980年代までのペトロリーナではマメやトウモロコシ、トウゴマ、スイカ、トマト、メロンといった単年性の作物が多く生産されていた。しかし、土地集約的な農業を続けたことで、連作障害が問題となった。1990年代になると、灌漑技術の発達もあって、果樹とくにマンゴーとブドウの生産が増加した。2000年以降も果樹生産は増加を続け、2014年におけるペトロリーナの農産物収穫面積は、マンゴーがもっとも多く(7,880ha)、続いてブドウが多い(4,642ha)。ほかにもグァバやバナナ、ココヤシ、アセロラといった果樹の生産も顕著であり、ペトロリーナは果樹複合産地となっている。<BR><br><B>4.さまざまな灌漑方式</B><BR><br> ペトロリーナでもっとも初期の灌漑方式は、BaciaやSulcoとよばれる農地へ直接水を流すものであった。1980年代前半までは大型スプリンクラー(Canh&atilde;o、Aspers&atilde;o)が主流であり、センターピボット(Piv&ocirc;)もみられた。これらはいずれも水浪費型の灌漑方式である。1980年代後半以降、小型スプリンクラー(Microaspers&atilde;o)や点滴(Gotejo)といった節水灌漑が普及し、現在ではこれらが約8割のシェアを占める。最近ではDifusorとよばれる小型霧吹きのような新しい節水器具も導入されている。<BR><br><B>5.おわりに</B><BR><br> 2011年から続く少雨によって、サンフランシスコ川の水資源量も現在劇的に減少している。ペトロリーナでは節水灌漑が普及しているとはいえ、現状の果樹農業が将来的に維持できるかどうかについては、今後も注視していく必要がある。<BR>
著者
ラナウィーラゲ エランガー
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

保護区域における 観光は、収入と雇用の増加を通じて、自然を保護しながら維持管理のための資金調達をするといった経済発展を促す可能性を提供している。保護地域は重要な環境価値を有しており、それらしばしば敏感な環境に置かれている。そのため、これらの地域の観光は持続可能なものであるということが重要になってくる。 &nbsp; <br>持続可能な観光を確立させるには、観光客による環境に対する有害な影響を抑制し、地域コミュニティーを守り、そして訪問者の満足度に対しての管理が必要となります。特に発展途上国では、観光からの短期間のうちに経済利益を得るための政治的圧力により実行不可能な慣行がしばしば推奨され、結果として観光影響観光の経済的利潤の遅延を招くことがある。本研究で取り上げるスリランカは観光客を誘致する多くの自然の魅力をもつ発展途上国である。 &nbsp; <br>本研究はウダワラウェ国立公園と呼ばれるスリランカの有名な保護区域を事例にスリランカの保護地域での観光に関連する特色と問題点を、スリランカの保護地域の運営に関する資料の分析、および国立公園内やその他の保護地域での観光の管理や政策を担当する当局のさまざまなメンバーへのインタビュー、そして 、公園にて観光客へのアンケート調査や観光客の行動や観光活動を直接観察することによって検討したものである。 &nbsp;<br> 現在の公園管理システム、観光客の特性や行動の分析によると、観光活動による動物への攪乱 、過密化、ガイドや通訳システムの乏しさが公園内の観光の主な課題であることが明らかになった。
著者
今野 絵奈
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2007, pp.52, 2007

<BR>1. はじめに<BR> 農業の持続的発展において重要なことは、有機廃棄物を再利用し、環境へ過度に負荷をかけないことである。都市近郊では、混住化に伴い、地域住民から、悪臭や騒音などの苦情が発生し、畜産農家は、経営を維持していくために、排せつ物処理を適正に行い、悪臭や衛生害虫などの公害発生の予防措置を行う必要があった。本報告ではどのように排せつ物が処理されているのか、また副産物である堆肥がどのように流通しているのかを明らかにして、都市近郊における環境保全に配慮した地域内循環型養豚業の課題を考察することを目的とする。この課題を考察するために、報告では養豚農家の飼養、環境に関する苦情などの現状を統計より把握した上で、環境保全に対する行政や農家の対応を聞き取り調査に基づき明らかにしていく。調査対象として、全国に先駆けて畜産の環境対策に力を入れてきた神奈川県の養豚農家を設定した。<BR><BR>2. 堆肥化と公共下水処理の比較<BR> 排せつ物を処理するために、浄化槽と密閉縦型強制発酵装置が利用されている。初期投資に1,500~6,000万円かかり、その30%にあたる450~1,800万円の補助が市町村によって行われている。また、排せつ物を処理するために、電気代や燃料代として、約10万円/月かかる。副産物としての堆肥を販売することで、1ヶ月のランニングコストとほぼ同じ金額の収入を得ている。しかし、装置の修繕費は1回に200~500万円かかり、農家の負担は大きい。<BR> 公共下水の初期投資は、10~100万円で、従来の処理施設より安価である。処理費用は約6円/頭であり、1ヶ月あたり約4万円/18t(7,800頭分)である。堆肥化処理に比べると初期投資、処理費用、労働力における農家負担は小さい。しかしながら、畜産公害の改善を図るため、経費・労働力削減のために、多くの農家が公共下水を導入したら、堆肥の生産量が減少する。その結果、耕種農家は、多量の化学肥料を投入し、地力低下の進行、作物育成障害が生じ、環境に負荷を与えかねないことになる。<BR> 市街化区域外の畜産農家は市街化区域内の畜産農家と比べて、排せつ物処理費用の負担が重く、環境に配慮した養豚業を営むために、公共下水の利用を検討している。農家は排せつ物処理費用を国民の税金に頼ることとなり、汚染者負担の原則に反することと考えられる。また、経費・労働力削減のために、多くの農家が公共下水を導入したら、堆肥の生産量が減少する。その結果、耕種農家は、多量の化学肥料を投入し、地力低下の進行、作物育成障害が生じ、環境に負荷を与えかねないことになる。そのため、公共下水の処理費用を1頭あたり6円から10円に値上げし、従来の処理費用と同じような金額にする必要があると考えられる。<BR><BR>3. 堆肥の価格と流通範囲<BR> 堆肥を利用する農家は、牛・豚・鶏ふん堆肥を用途によって使い分けている。養豚農家は、密閉縦型強制発酵装置で生産した堆肥を利用量に応じて、袋詰めとバラ売りに分けている。生産した堆肥はほぼすべて消費されている。<BR> 耕種農家は軽トラやダンプで養豚農家に出向き、1m<SUP>3</SUP>あたり1,300~3,000円で購入している。一方、家庭菜園のように少量の堆肥使用のための袋詰め堆肥は、1袋10~16kgで300~500円で取引されている。袋詰め堆肥は袋の印刷代や作業コストも含まれるため、多少割高の価格設定になっている。<BR> 畜産農家では、毎日同量の堆肥が生産されるため、堆肥舎に保管できる量は限られている。そのため、販売することで収益を上げることよりも堆肥の残量を増やさないために、継続的な購入者に、同じ価格でも量を増やして販売するなどの工夫を行っている。<BR> 堆肥の流通範囲は、養豚農家のある厚木市、藤沢市、横浜市、綾瀬市の野菜農家や家庭菜園や近隣の海老名市、津久井町、箱根の宿舎と契約している小田原市の農家、大根やキャベツで有名な三浦市や横須賀市の耕種農家にも販売している。堆肥は養豚農家の近隣にある耕種農家や家庭菜園を中心に、小規模な範囲で流通している。<BR><BR>4. まとめ<BR> 神奈川県では、堆肥化施設をいち早く取り入れたため、臭気発生は激減し、苦情も減少した。さらに、2004年から家畜排せつ物の適正な管理及び処理が法律により義務づけられ、生産者は、従来以上に、環境負荷を軽減する取り組みが求められるようになり、飼育環境や制限保守などに、より一層神経を遣うようになった。<BR> 家畜排せつ物の再利用法として、堆肥化を促進させるためには、公共下水処理の価格引き上げや散布しやすいペレット堆肥の開発が必要である。また、宅地転用のため、1990年代以降、耕地が減少している。今後、堆肥を還元する農地を保全することも重要である。