著者
鈴木 博雄
出版者
横浜国立大学
雑誌
横浜国立大学教育紀要 (ISSN:05135656)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.1-34, 1962-03-30

This thesis tried to inquire the social background of the private schools in the feudal age from a historical stand of view. In middle age of Japan, there were few higher schools because of a internal war continued through the middle age. After the war, in the begininng of Tokugawa era, some private schools were appeared as a center of the movement for cultural and educational enlightenment. The typical schools in these private schools were Matunaga Sekigo's school which was established in 1637, Yamazaki Ansai's school which was established in 1655, Nakae Toju's school which was established in 1635 and Kinoshita Junan's school which was established in 1645. These typical school were founded in or near Kyoto which is a center of culture in the feudal age. In these school, Chinese Confucianism were taught as a moral teachings for not only warrior class but merchant and peasantry. In the middle of Tokugawa era, Ito Jinsai's school and Ogiu Sorai's school were most famous private schools. The former were established in Kyoto (1662) chiefly for merchant and peasantry. The latter were established in Tokyo (1709) chiefly for warrior class. They had a critical thought against Chu, Hsi (1130-1200)'s moral teachings which was most popular educational thought at that time. They improved educational methods, for example, Kaidoku-group reading methods-were used by both school at first. Teaching methods for the pronunciation of Chinese also improved by Ogiu Sorai's school.
著者
長谷川 善和 村田 正文 早田 幸作 真鍋 真
出版者
横浜国立大学
雑誌
横浜国立大学理科紀要. 第二類, 生物学・地学 (ISSN:05135613)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.41-49, 1992-10-30
被引用文献数
1

A tooth described herein represents the first discovery of an indisputable theropod, in Japan in 1979, which has been followed by late discoveries of dinosaurs in Kyushu and other parts of Japan. The tooth is uniquely characterised by an elongated but very thin crown, which suggests an as yet unrecognized group of theropods.
著者
吉田 太郎
出版者
横浜国立大学
雑誌
横浜国立大学教育紀要 (ISSN:05135656)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.123-139, 1968-12-20

明治初年から10年代までの歴史教育の方法は,根本は儒者の教授法式の域を超えたものではないが,上述のごとく幼童に学習の苦痛の軽減を図る改善の跡は十分見うけられる。長年の陋習とも云うべき素読は,入門時に幼童が通らなければならぬ苦難の関門であった。このことはつぎの回想記で明らかである。「総て今までの教へ法は,・・・七・八歳の童子を教ふるに,四書五経などの六づかしきものを読せ,厳しき規則を設け,順序もなく,高尚なる学科を無理に教ふる法ゆゑに,児童は早くも倦が来て,書を読むは水火の責に逢ふ思ひをなす。」(明治文化全集20巻85頁辻弘・開化のはなし)明治の初年は頼山陽著日本外史などを教科書として使った。漢文の棒読と暗誦の連続であり,加うるに板の間に正座して姿勢を崩すことは許されず,常に叱責の教師の姿に幼童はおののいての通学であった。歴史教授の目標は,教師とか教科書を丸暗記することが中心であり,記憶力の分量によって成績の優劣が決定した。積極的に教授に努力したのは,主として暗誦による史実の理解であった。歴史教育によって尊王愛国心を植えつけるこのころの教育方法はどのようであったろうか。歴史教科書は,江戸時代の教科書即ち歴史書そのものであったが,次第に幼童用に解り易く文体を改良したのであっても,史観は変っていない。歴史の視点は,朱子学派の大義名分を重んずる儒教倫理史観で書かれている。そのために皇室関係の用語には敬語が一般化しているし,忠臣については,その事蹟を詳細に伝えているが,殊更に賞讃の文字を使ってはいない。賊臣については,淡々とその史実を述べるに留めて筆誅を強めてもいない。これは,後年の記述に比べて注目すべきである。歴史教育によって明治14年以後の教則によるごとく尊王愛国心に励むようなことは,この時代にはまだ見られない。ただ教科書の基調が君臣の分を重んずるのであるから,読誦する間に自ら尊王心の方が強く印象づけられたと思う。しかし教師によっては,尊王愛国の思想を史実に托して強烈に教えたことはあり得たと思われる。(山崎闇斎の門流の教師であれば,絶対尊王心を強調した筈である)歴史教育の方法は,学習に生徒を参加させる方法として上述のごとく独見輪講とか口授問答の形態をとったが,教授方式はあくまでも教師中心で教科書の暗誦に終始し,史実の暗記量の多いほど秀才と云われた。初等教員養成を使命とする師範学校が設置されたのは,明治5年のことであり,12年になって全国に70の師範学校が設けられた。この学校の付属小学校は各県下の俊才が集っていたので各県下の教育実際界の指導的地位を占めていた。しかしこのような教育をうけた教師の輩出は明治十年代後半のことである。従って明治10年代は,教師自身が儒者の教授形式を踏襲しただけで,新しく歴史のための教授方式を工夫したのでないから旧態依然たる暗誦法に終ったことになる。このために歴史教育独自の新しい教授方法を案出した訳でもなく,経書,史書,文学書を含めての書物の読解法を幼童に行なったに過ぎなかった。明治14〜36年までの約22年の歴史教育は,明治政府の教育政策は,国是の富国強兵を達成するために,国民教育は着々整備され地方にまで文部省からの法令が流通し,中央統制の教育が普及した。歴史科の教育内容は,明治14,24,36年の3回に及ぶ教則によって国家によって規定された。教則は改定ごとに臣民育成を強化し,修身・地理・国語・唱歌の他教科の援助を得て,歴史科はその中核教科となってきた。教科書は,この期間は検定教科書を使用したが,著者が児童の関心と興味をそそるように直観資料を多く取り入れ,自学自習を促がす問題を加えたり,文章は簡潔な文語文にするなど,随分細心の注意を払って改良を加えている。教材は,教則によって大綱は定められているので皇国のために活躍し,尊敬すべき人物中心の物語をも加えて,児童の魂に焼きつくように教師は教えることに力を注いだ。教授方式は,外来の開発主義からヘルバル流の段階教授法を定型化し,歴史科もこの定型に従って5〜3段階に従って授業を区分し一斉教授を行なった。この教授法式は,児童の学習心理の姿を足場にした方法だけに明治初期の伝統的な空読暗誦式の苦脳多き教授方式より遙かに優れた定型であった。歴史教育の内容は,純正史学とは別個の皇国民育成の教育的歴史という国家統制の強いわが国独自の歴史教材であった。これを教える授業形式は,外国の教育理論からなる教授形式を公的に定型化した。歴史教材は純粋な独自の国粋型であるのに,その教育方法は欧米の理論による教授形式を公的に定型化し,全国の教師に利用された。この国粋型の歴史教育の内容と舶来の教授形式との奇妙な結合は,外見からは水と油との間柄であるとみるのは皮相な見解である。明治24年の小学校教則大綱は,ドイツの教授法を基礎にしていることを注目すべきである。天皇制憲法を支える教育勅語の徳目教育の中核教科は修身と歴史科である。ヘルバルトの教育学は,道徳教育を重視する教育思想であるから,意図的に森有礼文相がわざわざドイツからハウスクネヒトを招き東大で教育学の講義をさせその門下生がここの派の学説を舌と筆で唱導した。このような背景があるのでヘルバト教育学説は,公的に承認された教育学になり教授技術の段階説も全国に広まった。この教育学は,知識の伝授よりも徳育の陶冶を重んじたので,歴史教育の内容が教則で定められた尊王愛国心の養成にあることと合致することになる。教授方法は,心理学から発足した教授方式が授業の方法に適合したので当時の学者も教師もこれにとびついたのは当然であった。かくして明治19年以後のこの教授段階説は,ドイツ本国よりも日本で熱狂的に歓迎をうけ急速に全国の教師に流布した。この熱狂的な流行の風潮も20年代の後半になると反省や批判も盛んになってきた。批判の中心は,ヘルバルトの教育学は難解であって多くはその精神は消化し得ず,ただその形骸をまねることに終り,教師独自の考案による授業法の活用をはかるまでに至らなかった。(この部分は倉沢剛小学校の歴史II1023〜1026頁を参考にした。)しかし教育実際界は,五段〜三段の教授法は,上述の批判をよそに明治35,6年ごろまでは「明けても暮れてもヘルバルト一天張り」という盛況であった。こうしたヘルバルトの段階説も明治40年ごろから漸く衰微するに至った。一度全国的に浸透した教授方式は,昭和初年まで実際界ではなお支配力を持ち続けたといわれている。顧みれば,明治前期はわが国の歴史教育の外国に例のない独自であるのに対応して,わが国独自の他教科にみられない歴史教育の方法を創り出さずに終ったといっても過言でないと思う。
著者
長谷川 健治
出版者
横浜国立大学
雑誌
横浜国立大学留学生センター紀要 (ISSN:13406493)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.97-111, 2004-03

1952年の血のメーデー事件は戦後日本共産党の最も大規模な武装闘争であり、講和発行のわずか3日後に起こったため日本国内、海外に強いインパクトを与えた事件であった。ここでは、共産党の武装闘争の主役を担った学生運動家などに焦点を当てながら・血のメーデーが如何に経験され・意味づけられたかを検証する。共産党の武装闘争方針下の学生運動は大衆的な盛り上がりを見せることがなかったが、血のメーデーにおいては通常不法デモに参加することがない「一般学生」の多くが参加し、共産党の闘士たちと共に血に染まった人民広場 (皇居前広場) に立った。彼ら、彼女らの多様な経験をさらに掘り起こしていくことによって、1950年代前半の大学及び社会全般の政治文化の一面を鮮明に描き出していくことができるだろう。
著者
依田 明 飯嶋 一恵
出版者
横浜国立大学
雑誌
横浜国立大学教育紀要 (ISSN:05135656)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.117-127, 1981-11-30
被引用文献数
1

出生順位と性格特性との関連について,1963年におこなった調査をもとに,その年代的変化を検討するために,再調査を実施した。2人きょうだいの小学校5年の児童と,その親187組を対象に,質問紙によって調査した。性格特性に関するデータは,51項目の日常生活における行動の記述が,きょうだいのどちらによりあてはまるかという,相対的判断を求めることによって得た。再調査の結果,次のようなことが見出された。(1)長子的性格・次子的性格の存在は,非常に明確に検証された。しかも,1963年調査時の結果と比較して,ほとんど変化がみられず,固定化したものと言える。男子的性格・女子的性格についても,ほぼ同様のことが言える。(2)きょうだいの年齢差が近いほど,長子・次子の性格特性の差異は,はっきりとあらわれない。(3)日常生活において,長子が次子から,きょうだい内の地位をあらわす普通名詞で呼ばれている場合の方が,固有名詞で呼ばれる場合よりも,性格特性の差異が明確にあらわれる。以上,再調査の結果は,ほとんど,20年前の1963年調査と一致している。この事実は,家族やきょうだいに関する文化は,表面的な社会的変動の影響をほとんど受けていないということを示唆している。また,長子と次子の生育環境も,この20年間に,大きな変化はみられないと言える。
著者
外山 嘉奈子 高木 秀明
出版者
横浜国立大学
雑誌
横浜国立大学教育紀要 (ISSN:05135656)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.15-31, 1994-10-31

This study reports the process of a play therapy (mainly sandplay therapy) for a eight-year-old girl. The client had refused to go to school, and the cause of her school refusal was that a relationship between her and her parents was weak, with the result that she had lost balance in her mind. The play therapy had been continued once a week for one year and five months. In the course of the therapy, the client made many sandplay works, and told the story about a work after making it every time. The theme of the story was about the growth of a princess who didn't have her parents. The princess was cared by the animals in a forest, and grew up healthy. Probably the client must have projected herself on that princess, and could see the mystical unconscious world that people usually experience only in dreams. Through the sandplay therapy, the client had been healed and her problem was solved.
著者
柴 由花
出版者
横浜国立大学
巻号頁・発行日
2004

要旨のみ
著者
小川 捷之
出版者
横浜国立大学
雑誌
横浜国立大学教育紀要 (ISSN:05135656)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.1-33, 1974-10-05

In Japan a neurosis called anthropophobia is common, and is thought to spring from Japanese culture (especially from the Japanese mode of interpersonal relationships). Symptoms of this neurosis are of a wide variety, such as fear of blushing, of exchanging glances, of being regarded as disagreeable, and of being exposed to the public eye. But in spite of these symptomatic differences, there seems to be a common self-consciousness among anthropophobics. In a therapeutic situation, they always complain about feelings of inadequacy. The purpose of this study was to investigate these characteristics of self-awareness from the psychological point of view. 1. The worries that are thought to be had by these neurotics were collected and arranged into 445 items. 100 college students and 50 anthropophobics were asked to make a self-evaluation on these 445 items, each accompanied by a 7 degree rating scale. Statistically significant differences were found in 341 of the 445 items (p<.01). According to this fact, it can be considered that anthropophobics are inclined to regard themselves as being "ill". To them, inferiority in one aspect results in considering themselves as being inferior to others in all possible ways. In other words, anthropophobics have a strong negative self-awareness. 2. Furthermore, after statistical consideration, 117 items were selected from the 341 items, and were used in the self-evaluation of 120 anthropophobics. As a result of the factor analysis concerning these 117 items, 8 factors were extracted. Factor I. Worry of the inability to blend into the group. Factor II. Personal dissatisfaction with oneself, and with one's mental function. Factor III. Awareness of others, resulting from worry of being regarded as disagreeable. Factor IV. Worry about the inability to feel "at home" in the presence of others. Factor V. Self-consciousness in the presence of others. Factor VI. Constant sense of feeling "low" and not "right". Factor VII. Worry of being overwhelmed by a crowd of people. Factor VIII. Worry of being regarded as an odd person. (In this factor, there were only a few items showing high factor loadings.)