著者
髙島 真理子
出版者
和光大学表現学部
雑誌
表現学部紀要 = The bulletin of the Faculty of Representational Studies (ISSN:13463470)
巻号頁・発行日
no.21, pp.67-83, 2021-03-11

トウェインの日本への関心は、日本で記者活動を続ける友人・エドワード・H・ハウスとの文通が1870 年代後半途絶えたことにより進展することはなかった。トウェインがヨーロッパから帰国後の1879 年にもハウスからの手紙はなかった。しかしハウスはこの間トウェインに代わって、ハートフォードの牧師トウィッチェルとの通信を続けている。ハウスは、1879 年夏に世界一周旅行で日本を訪問したグラント将軍の案内役も務め、その記事も書いている。トウェインの日本への関心が新たな展開を示すのは、1880 年夏に日本から若い日本人の養女を伴って帰米したハウスとの再会からである。そのことは、1880 年のクリスマスに描いたハートフォードの隣人・スーザン・ワーナへの絵(手紙)に読み取ることができる。原画「エジプト逃避途上の休息」のパロディー画であるこの絵は、A Tramp Abroad の口絵"TITIAN'S MOSES" の取り組みを通して得た彼の絵画技術の応用としての表現と捉えることも可能である。口絵のテーマである旧約聖書の「モーセと葦」は、トウェインが作家になる以前からの関心事でもあり、1866 年のニューヨークの雑誌にこの逸話をめぐる8 歳の姪のアニーとのやりとりを発表している。その10 年後の1876 年夏に執筆が開始された『ハックルベリー・フィンの冒険』の第1章では、聖書を読み聞かせるダグラス未亡人の言葉を、ハックはアニーの方言の葦("the bulrushers")と聞き取る。さらに第11 章の冒頭に付けられた女装のハックの挿絵は、A TrampAbroad(1880)の口絵の「モーセ」を想起させる。1880 年前後のトウェインの日本への関心は、クリスマスに描いたスーザンへの絵手紙に関連したことの中にその多くを読み取ることができるのである。
著者
藤井 義博
出版者
藤女子大学
雑誌
藤女子大学QOL研究所紀要 (ISSN:18816274)
巻号頁・発行日
vol.8, no.1, pp.19-31, 2013-03-31

本研究は、宮澤賢治を天才ないしは病人ととらえないで、健常人の枠内において位置づけ解釈する試みであった。その結果、賢治が心象スケッチ「春と修羅」に事実として記録した自らの感性的違和感は、人格(パーソン)の創造過程における新たな経験、未知の経験の証であると理解された。賢治が詩ではなく心象スケッチと認識していた「春と修羅」は、自我に同化し得ない(超越する)他者による幻想する自己に対する自己否定をてことした、人格すなわち内的基準を獲得するに至ったパーソン(トワイス・ボーン・パーソン)の誕生の記録ではなかったのか。この自己否定の過程において、物理学の法則の支配する実在の現象世界から起つことを決意した賢治がそこから受けとった真実の言葉(「まことのことば」)は、普遍的な非個人的な科学法則ではなかった。それは「善逝(スガタ)から来てそしてスガタに至る」徳性により螺旋的回転を続けて止まない陰陽の原則であった。賢治は、この継起する螺旋的回転体を「そらや愛やりんごや風、すべての勢力のたのしい根源萬象同帰のそのいみじい生物」と表明した。それは、自ら表現する「他者の顔」が発し、対話を介して受けとられる個人的な真実(「まことのことば」)が現象世界に存在するとの確信の証であった。賢治の心象スケッチ「春と修羅」は、普遍的な科学の法則に基づいた非個人的な真実の言葉を知った近代人が、現象世界から出発して、非個人的科学的法則ではなく、それとは別次元の個人的真実を把握する伝統的な直観の精神の創造過程を示している。
著者
曽和 信一
出版者
四條畷学園短期大学
雑誌
四條畷学園短期大学紀要 (ISSN:18811043)
巻号頁・発行日
vol.45, pp.6-23, 2012-05

本稿では、東日本大震災で多くの人名と財産を失い、その震災に伴う東京電力福島第一原発事故により、今なおその被災地域において、復興の目途を立てるには厳しい状況にある。そのような状況にあればこそ、村上龍氏の言う「生きる喜びのすべて」を賭して、復興に向けての「希望」とは何かを考えることから出立した。今回の福島原発事故によって、まさにプロメテウスによって人間に与えられたといわれる原子力という火は、ダモクレスの剣に喩えられるように、一見文明の繁栄をもたらすように見えても、実は不安定なものであることが白日の下に晒されたことについて言及した。それに次いで、将来に希望が持てる人と絶望している人とを引き裂く希望格差社会の抱える問題について、フリーターという社会的立場から切り込む赤木智弘氏の論稿をベースにして考えをめぐらした。そして、古市憲寿氏は社会学的な方法でもって、「絶望の国の幸福な若者たち」のおかれているリアルな状況の一断面を提示した。それらの所論を踏まえて、将来への希望をつなぎ、具体的な展望を紡いでいく社会科学としての希望学について論及した。その希望学に触発されつつ、ルイ・アラゴンとパウロ・フレイレの提起した教育の希望とは何かについて考えた。それに次いで、児童福祉法要綱案という児童福祉法と名づけてた最初の案の中で、子どもの福祉における"歴史の希望"と明記された文言の意味についても考察したところである。
著者
石田 尚子
出版者
お茶の水女子大学大学院人間文化創成科学研究科
雑誌
人間文化創成科学論叢
巻号頁・発行日
vol.17, pp.1-9, 2014

The purpose of this study is to show the way we appreciate fictional works by modifying Paskow's\" Realist Theory". Paskow presents Realist Theory to solve " the paradox of fiction", which puts a\question why we have emotional responses to fictional objects. In Realist Theory, our consciousness is\separated in two parts. By consciousness 1, we truly believe in fictional beings, and by consciousness\2, we deny the existence of such objects. Paskow says that this is why we have emotional responses to\fictional objects without confusing reality and fiction.\But there are two problems. First, we can't identify fictional beings in Paskow's view. Second, it is\not clear why the consciousness 2 can emerge.\Paskow's theory may be modified from the view of our psychic functions. I argue that what Paskow\calls "consciousness 1" is the mental functions to appreciate fictional works, and "consciousness 2" is\metacognitive regulation. We believe in fictional beings when we are engaged in appreciating fictional\works, but metacognitive regulation denies that belief. This is why we have emotional responses to\fictional beings without confusing reality and fiction.
著者
石田 尚子
出版者
お茶の水女子大学
巻号頁・発行日
2017

http://hdl.handle.net/10083/61311
著者
陈 昊旻
出版者
愛知大学大学院院生協議会
雑誌
愛知論叢 = AICHI RONSO (ISSN:02896419)
巻号頁・発行日
no.110, pp.23-43, 2021-02-01
著者
和田 敦彦
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.49, no.8, pp.45-57, 2000

ここでは、書物対読者という関係を越えて、現代の多様な情報の様式の中で、それを理解、解読してゆく私たちの行為をどのように問題化してゆくべきかを考える。特に、その中でも急速に普及しつつあるビデオゲームと享受者の関係をとりあげ、その享受において見いだすことのできる独自の問題を明確にし、その検討を通して、現在の私たちの読書行為を考えるうえでの有効な視点、方法について考える。
著者
秦野 貴生
出版者
大谷大学
巻号頁・発行日
2020

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