著者
飯島 典子
出版者
一般財団法人 アジア政経学会
雑誌
アジア研究 (ISSN:00449237)
巻号頁・発行日
vol.57, no.2, pp.19-34, 2011

Contrary to popular belief, the Cantonese were not always oriented on working overseas as has been presumed in recent studies of overseas Chinese. In fact, the Cantonese were active investors in the mining business in southern China, especially in tungsten mining in Jiangxi province, the southern border of which is adjacent to the northeast of Guangdong. Although archives from the Qing period contain much about the involvement of the Cantonese in tin mining in the east of Guangdong, little has been investigated of their activities afterwards. However, during 1930s in the Republican era, the Guangdong Ministry of Construction started supervising the development of the newly exploited tungsten mining in Jiangxi by controlling tungsten exports. Traditionally, the southern part of Jiangxi came within the economic sphere of Guangdong, and thus the control of tin mining in Jiangxi by the Guangdong authorities was not considered as economic invasion across the provincial border.<br>The Cantonese spread their mining business as far as Yunnan province. In 1910, the completion of Dian-Yue (Yunnang-Viet Nam) railroad promoted the rapid transportation of tin from Yunnan to Hong Kong through Viet Nam. By the time of the Sino–Franco agreement of 1933, the Chinese had won almost total freedom of residency and business in Viet Nam, which stimulated their local business. From the statistical point of view, based on the number of residences of outsiders in Yunnan during the Republican era, there were relatively few Cantonese in Yunnan but the archives show that the Cantonese were economically the most active group in the mining and export of tin, while the Fujianese left almost no trace in the province.
著者
中森 広道
出版者
日本災害情報学会
雑誌
災害情報 (ISSN:13483609)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.76-86, 2007 (Released:2021-04-01)
参考文献数
14

我が国の震度情報は、近年、めまぐるしい展開を見せている。しかし、その一方で、震度情報に関する問題やトラブルが大きく取り上げられることも多くなった。「新潟県中越地震」や「千葉県北西部の地震」などの昨今の地震では、「震度情報の遅れ」などの問題に対する批判的な評価がみられるようになっている。震度情報に関わる問題は最近始まったことではないが、1995年の「阪神・淡路大震災」で震度情報の遅れが初動体制を遅らせたという点が指摘されて以来、大きく注目されるようになったようだ。これは、震度観測が体感から計測震度計に移行し、無人の観測点や気象庁以外が管理する観測点が増えたことによりトラブルが顕著になったこと、震度が「記録性」よりも「速報性」を重視するようになっていることなどが挙げられる。ただし、器械による計測である以上、地震により何らかのトラブルが生じることは仕方がない面もある。そのために、「阪神・淡路大震災」の教訓から「震度5弱以上未入電情報」が発表されるようになっているが、この点は必ずしも有効に活かされていない。本来は状況を把握するための「参考情報」の役割を果す震度が、正確な状況を把握するための「確定情報」のような役割を求められるようになっている現状を再考する必要があるのではないだろうか。
著者
畠山 武道
出版者
北海学園大学法学会
雑誌
法学研究 (ISSN:03857255)
巻号頁・発行日
vol.40, no.3, pp.573-623, 2004-12
著者
Ferdowsi Ali
出版者
日本貿易振興機構アジア経済研究所
雑誌
中東レビュー (ISSN:21884595)
巻号頁・発行日
no.2, pp.122-137, 2015

ハッジ・サイヤーフ(1836-1925年)は広く19世紀中葉の欧米を見聞した旅行家であり、またイラン人として最初にアメリカ合衆国の市民権を得た人物である。彼がその生涯で訪れた国や地域は順にコーカサス地方、イスタンブール、ヨーロッパ諸国、米国、日本、中国、シンガポール、ビルマ、インドなどに及ぶ。またメッカは9度巡礼しており、エジプトも数度訪れている。だが彼の本領は単なる世界旅行者というよりも、彼が卓越した旅行記作家だったところにある。本論は前半においてサイヤーフの生涯を改めて簡潔に紹介し、後半部では彼の記録から典型的な事例を4つほど引用してその個性的な自己認識と自己形成を跡付ける。それは総じて非ヨーロッパ系のアジア出身者として西欧的な「市民」概念とどう対峙し、それを自らの属性として血肉化したかを具体的に物語っている。これを読むとハッジ・サイヤーフは欧米の一流の政治家・知識人と交流を持っていたことが理解される。またサイヤーフは当時の著名な汎イスラミスト、ジャマール・アッディーン・アフガーニー(1838/9-97年)とも親交があった。最後に筆者はサイヤーフが明治維新直後の1875年に日本(横浜)を半年ほど訪れ、ハッジ・アブドッラー・ブーシェフリーなる人物と邂逅したことを紹介している。上記4番目の事例はサイヤーフが日本を訪れる直前インタビュー記事だという。
著者
清藤 麻子 菅原 浩二 青柳 圭祐 大北 大 大林 雄次 神成 まき 平田 祐介 安田 浩哉
雑誌
全国大会講演論文集
巻号頁・発行日
vol.46, pp.9-10, 1993-03-01

rj4O6は32ビットのload/storeアーキテクチャのRISCであり、5ステージのパイプラインにより基本的に1命令1サイクルの処理速度を実現することが可能である。[table]算術論理演算命令は加・減演算、論理演算及び算術・論理シフト演算がレジスタ間と16ビットイミディェイト値で実行できる。オーバーフローのチェックは行っていない。乗・除演算、浮動小数点演算は演算実行に複数サイクルを必要とするため外部コプロセッサで処理を行わせることにし、内部では処理を行わない。そのためにコプロセッサに対する命令が用意されている。ロード・ストア命令はデータサイズとしてワード(32ビット)とバイト(8ビット)の2種がある。ロード・ストア命令はバスを占有するため後の命令のフェッチが行えない。このため最低1クロックのストールをする。また、ロード命令はデイレイドロード(delayed load)であり直後の1命令はこのロード命令で読み出された値を使用することが出来ない。ブランチ命令とジャンプ命令は遅延方式(delayed branch)であり直後の1命令は分岐するしないに関わらず実行される。遅延方式にすることで1命令1サイクル実行が可能となるがこのためにPCブロックの回路が複雑になっている。ブランチ命令はレジスタの内容の零非零.正負の条件判定を行う。rj4O6ではLHI(load high immediate)命令とオーバーフロー検出をする演出命令は実装されていない。
著者
木本 愛之 花岡 晃郎 笹又 理央 宮田 桂司
出版者
公益社団法人 日本薬理学会
雑誌
日本薬理学雑誌 (ISSN:00155691)
巻号頁・発行日
vol.131, no.2, pp.127-136, 2008 (Released:2008-02-14)
参考文献数
38
被引用文献数
1

セレコキシブ(日本名;セレコックス®錠,米国名;セレブレックス®カプセル)は,世界初のシクロオキゲナーゼ(COX)-2選択的阻害薬として1999年に米国市場に登場して以来,主に消炎鎮痛薬として,現在まで世界100か国以上で使用されている.本邦では,関節リウマチ(RA)・変形性関節症(OA)を適応として2007年6月に発売された.セレコキシブは,COX-2を標的としたX線結晶構造解析にもとづきドラッグデザインされており,組換えヒトCOX-1,COX-2を用いた実験において,COX-2に対して強い阻害活性を示した.その阻害活性をIC50値で比較した場合,COX-1に対する阻害活性よりも360倍強いことが確認された.ヒト由来細胞を用いたCOX阻害選択性試験において,セレコキシブはCOX-1のみを発現するリンパ腫細胞よりも,COX-2を発現するIL-1β刺激線維芽細胞のプロスタグランジン(PG)E2産生を強く阻害し,既存の非ステロイド性抗炎症薬(NSAIDs)よりも高いCOX-2選択性を示した.ラットカラゲニン誘発痛覚過敏モデルにおいて,セレコキシブは温熱侵害刺激に対して低下した疼痛閾値を用量依存的に改善し,炎症組織および脳脊髄液PGE2量も用量依存的に減少させた.このときの鎮痛作用(ED30値)は既存のNSAIDsと同程度であった.また,LPS誘発体温上昇モデルにおいて,セレコキシブは単回経口投与により用量依存的に体温上昇を抑制した.ラットアジュバント関節炎モデルにおいて,足根関節屈曲による疼痛評価を行った結果,セレコキシブは関節炎発症後投与で有意な鎮痛作用を示した.さらに,セレコキシブは足腫脹を用量依存的に抑制するとともに足根部のX線評価において骨破壊を抑制することが示された.一方,ラットにセレコキシブあるいは既存のNSAIDsを単回経口投与したときの胃粘膜組織の肉眼所見では,セレコキシブは障害性を示さず,胃組織中PGE2量に対しても有意な影響を示さなかったのに対し,既存のNSAIDsは用量依存的に胃粘膜障害を惹起し,胃組織中PGE2量を用量依存的に減少させた.健康成人を対象とした第I相臨床試験において,セレコキシブは良好な体内動態と認容性を示した.RA・OA患者を対象とした第III相臨床試験において,RAの臨床症状の改善度の指標として用いた米国リウマチ学会(ACR)改善基準,あるいはOAの全般改善度における改善率において,セレコキシブはプラセボ対照群に対し有意な改善作用を示すとともに,ロキソプロフェンNaに対して非劣性であることが検証された.一方,NSAIDsの代表的副作用として知られている消化管粘膜障害,腎機能障害に関して,薬剤との関連性が否定できない事象についてはロキソプロフェンNaの方がセレコキシブよりも多かった.特に,OA患者における血圧に対する影響において,ロキソプロフェンNa群でセレコキシブよりも有意な収縮期血圧の上昇が認められた.以上の前臨床薬理試験および臨床試験の成績より,COX-2を選択的に阻害することにより関節リウマチ,変形性関節症等の運動器疾患における疼痛に対して既存のNSAIDs並の有効性を維持しつつ,COX-1阻害作用に基づくと考えられる副作用を回避するというコンセプトが立証され,COX-2選択的阻害薬セレコキシブは臨床的有用性の高い薬剤であることが示された.
著者
Ferdowsi Ali
出版者
独立行政法人 日本貿易振興機構アジア経済研究所
雑誌
中東レビュー
巻号頁・発行日
vol.2, pp.122-137, 2015

<p>ハッジ・サイヤーフ(1836-1925年)は広く19世紀中葉の欧米を見聞した旅行家であり、またイラン人として最初にアメリカ合衆国の市民権を得た人物である。彼がその生涯で訪れた国や地域は順にコーカサス地方、イスタンブール、ヨーロッパ諸国、米国、日本、中国、シンガポール、ビルマ、インドなどに及ぶ。またメッカは9度巡礼しており、エジプトも数度訪れている。だが彼の本領は単なる世界旅行者というよりも、彼が卓越した旅行記作家だったところにある。</p><p>本論は前半においてサイヤーフの生涯を改めて簡潔に紹介し、後半部では彼の記録から典型的な事例を4つほど引用してその個性的な自己認識と自己形成を跡付ける。それは総じて非ヨーロッパ系のアジア出身者として西欧的な「市民」概念とどう対峙し、それを自らの属性として血肉化したかを具体的に物語っている。</p><p>これを読むとハッジ・サイヤーフは欧米の一流の政治家・知識人と交流を持っていたことが理解される。またサイヤーフは当時の著名な汎イスラミスト、ジャマール・アッディーン・アフガーニー(1838/9-97年)とも親交があった。最後に筆者はサイヤーフが明治維新直後の1875年に日本(横浜)を半年ほど訪れ、ハッジ・アブドッラー・ブーシェフリーなる人物と邂逅したことを紹介している。上記4番目の事例はサイヤーフが日本を訪れる直前インタビュー記事だという。</p><p>(文責・鈴木均)</p>
著者
古川 竹二
出版者
日本民族衛生学会
雑誌
民族衛生 (ISSN:03689395)
巻号頁・発行日
vol.1, no.3, pp.324-340, 1931-08-13 (Released:2010-11-19)