著者
中村 一創
出版者
東京大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2022-04-22

「文」という概念がなぜ人間に備わっているのか、「文」は我々の言語能力においてどのように定義されているのか、これら二つの問題に科学的解答を与えるのが本研究の課題である。「文」は「句」とは異なる概念であり、人間が思考したり意思を伝達したりするには「句」さえ存在していれば十分である。しかし我々が文と文でないものを見分ける能力を持っているのは事実であり、そうした余分な能力がなぜ存在するのかが生物言語学の重要な問題となるのである。本研究では、文概念の存在を主語・助動詞倒置をはじめとする様々な文法現象と結びつけて明らかにし、さらに哲学・生物学等の知見も活かしつつ、文概念の発生を生物言語学的に説明していく。
著者
北垣 徹
出版者
社会学研究会
雑誌
ソシオロジ (ISSN:05841380)
巻号頁・発行日
vol.40, no.1, pp.69-87,194, 1995-05-31 (Released:2017-02-15)

Sous la Troisième République, on peut apercevoir une nouvelle rationalité qui s'inscrit dans le cadre de l'Etat providence. Les auteurs républicains tentent, en essayant de terminer la Révolution française, d'établir les nouveaux fondements philosophiques pour la République. Dans cette tentative, un des concepts les plus importants est le «quasi-contrat» dont la problématique diffère profondément de celle de Rousseau. En refusant la référence à la «nature», la question de la légitimité se dissimule, chez Durkheim ainsi que chez Bourgeois, derrière une autre idée de contrat qui permet seulement de promouvoir le social, plutôt que de fonder radicalement la société ellemême. En d'autres termes, ce contrat ne se situe plus à l'origine à partir de laquelle se développerait logiquement toute la légitimité de la société. Il doit être sans cesse consenti par les membres de la société, comme si ceux-ci pratiquaient des rituels, pour faire mieux fonctionner les institutions sociales. Tandis que les républicains de la Troisième République élaborent ce concept de quasi-contrat social, la notion de la responsabilité se transforme complètement du point de vue juridique, en s'accompagnant de la nouvelle perspective à l'égard des risques. A la première moitié du XIXe siècle, les libéraux ont considéré le sujet responsable comme noyau théorique de leur pensée libérale. Mais avec l'optique des risques qui fonctionne comme catégorie épistémologique et permet la perception juridique inédite, l'idee de responsabilité perd le rigorisme individualiste que lui a donné le libéralisme et devient aliénable et partageable dans une collectivité. D'où vient la notion de l'assurance. Dans ce qu'on appelle la "société assurancielle" qui voit la floraison des techniques de l'assurance, on peut constater la problématisation indispensable à l'Etat providence.
著者
呉羽 真
出版者
応用哲学会
雑誌
Contemporary and Applied Philosophy (ISSN:18834329)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.62-82, 2021-10-14

本稿は、京都生命倫理研究会2021年3月例会(2021年3月20日、オンライン)での発表「日本人とロボット --テクノアニミズム論への批判」に基づく。
著者
丹治信春監修
出版者
春秋社
巻号頁・発行日
2006
著者
小池 誠
雑誌
研究報告コンピュータと教育(CE) (ISSN:21888930)
巻号頁・発行日
vol.2022-CE-167, no.19, pp.1-2, 2022-11-26

第二次世界大戦中に米国海軍に従軍したウィラード・ヴァン・オーマン・クワインは,1951 年に「経験主義の2つのドグマ」という論文を発表したのだが,2 つのドグマとは分析・合成のドグマ及び還元・検証のドグマを意味する.分析・合成のドグマは最高傑作「純粋理性批判」のカント道徳哲学を「神の声」ないし幻聴として実装するとともに,還元・検証のドグマは哲学者カントの「実践理性批判」で提唱した定言命法を実装する.ここで,還元はリモート・センシングで計測した脳波を解読して言葉に変換することであり,その検証として,論理機械ないし人工知能から電磁波ビームを頭部に照射して対象者の脳波及び行動を変更し,言葉と脳波と行動が対応することを実証する.定言命法の実装は記号論理の実装であり,対人レーダーに搭載された人工知能にゲーム理論が応用されている.バートランド・ラッセルなどの分析哲学,ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインなどの論理実証主義は秘密にされている人工知能の機能を解説するものであり,カントが提唱した理念は,200 年以上に渡る秘密国家プロジェクトで次第に実現していった.フォン・ノイマンは,ゲーム理論に関する秘密の機械の一側面について哲学として開示するのでなく,経済学者モルゲンシュテルンとの共著「ゲームの理論と経済行動」を通じて経済学として開示した.ノバート・ウィーナーはサイバネティクスとして無線通信とコンピュータが一体化した機械を開示した.罪刑法定主義に起因して慣習刑法は禁止されるべきであるが,自然法による制裁が世界各国で慣習刑法として秘密裏に実行された結果,統合失調症が発症する.
著者
黒崎 政男
出版者
日本哲学会
雑誌
哲学 (ISSN:03873358)
巻号頁・発行日
vol.1982, no.32, pp.104-115, 1982-05-01 (Released:2009-07-23)

近世哲学、特にいわゆる大陸合理論においては、感性は下位の認識能力とされるか、あるいは誤謬の直接間接の原因と看做されるのが常であった。真理は、精神から感性的なものをとりのぞく時に初めて得られるものであり、人間は知性によってのみ「永遠真理」の領域に達することができる。ところがカントの場合には、感性は誤謬の原因とされるどころかむしろ「実在的認識の源泉」として、そもそも認識が成立するための「不可欠な契機」とされている。つまり「純粋理性批判」 (以下KdrVと略す) によれば、認識は感性と悟性が合一することによって初めて成立する、とされているのである。感性が真理獲得のために不可欠であるとするカントの哲学観はしたがって、感性的なものを排除することによって真理が獲得できるとするカント以前の哲学観と大きく異なることは明らかである。本稿の目的は、このような哲学観が、一七七〇年の「就職論文」から一七八一年KdrV成立までの、著作のほとんど存在しないいわゆる「沈黙の十年」の思索において真に確立されたということを、七一・七二年のヘルツ宛て書簡や七五年の遺稿集である博 “Der Duisburg'sche Nachlass” などの考察を通じて明らかにすることにある。もちろん七〇年論文の段階でも、カントはすでに感性的なものを十分肯定的にとらえている。すなわち、感性的認識において質料と形式の対比から、時間・空間を何かがわれわれの感官の対象となり得るための形式の「主観的条件」 (Aka. II. S.400) として、また「純粋直観」 (ibid)としてとらえ、これを扱う「純粋数学」は「非常に判明」 (II. S.394f.) で「極めて真なる認識」 (II. S. 397f.) になり得るとされている。このように、七〇年論文において主張された「時空の主観性」説は、それだけを独立してみるならば確かにKdrVの超越論的感性論の思想とほぼ同一視することもできるかもしれない。このようなことから、七〇年論文は「悟性の実在的使用」が断念されればKdrVの思想に直結すると語られることが少なくない。確かにKdrVと七〇年論文を表面的に比較するならばこのような解釈もあやまちとはいえないだろうが、しかし私には不十分な解釈であるように思われる。つまり、この両著作の間には「経験」概念あるいは「現象」概念について微妙ではあるがしかし決定的な差違が存するように思われるからである。この決定的な変革を介してのみ、今のべたような哲学観が真に確立され得たと私は考えるのである。従って、両著作の関係についてさまざまな観点からの解釈が可能であろうが、本稿では、これまでほとんど取られたことのないと思われる観点、すなわち、沈黙の十年を現象概念の確立過程ととらえ、これを感性と悟性との関係を中心に考察を加えてみたいと思う。この考察を基にして KdrV を再解釈することが本来の目的ではあるが、紙面の関係上本稿ではこの点については若干の見通しを与えるだけで満足せざるを得ない。
著者
堀 まどか ホリ マドカ Madoka HORI
出版者
総合研究大学院大学
巻号頁・発行日
2009-09-30

野口米次郎(1874-1947)は、英語・日本語で多彩な言論活動をくりひろげ、二〇世紀前半期には国際的に広く知られた日本詩人であった。従来、英文学分野での野口の英米文壇との関わりを論じる研究は行われてきたものの、日本文学の側からは研究がほとんどなされていない。野口の生涯を基礎資料や出典文献の吟味を経て通観した著述や、それをふまえた研究も行われてこなかった。野口が日本文学史の主流から排除された理由は、彼が戦時期に「帝国メガフォン」として活動した為、敗戦後、長く忌避されたことにある。こうした研究上の欠落を是正するため、本論は野口の戦時期活動を含め、従来の研究の欠落部分であった日本文壇における活躍を検証し、国際的文化思想潮流の中における野口の生涯を捉え直そうとするものである。<br /> それゆえ、本論は第一に、明治・大正・昭和の敗戦時にまで及ぶ野口の生涯を通じて、その活動の全容を明らかにし、これによって従来の研究の克服をめざす。第二に、野口の文学世界の本格的な探究を基盤づけるために、野口を取り巻き、変動を重ねた同時代の国内外の諸文学の動向を明らかにし、それらとの関係の再考を試みる。第三に、野口米次郎は、文芸にとどまることなく、日本美術や浮世絵、能・狂言の海外への紹介者として活躍した。このことが海外のジャポニスムにどのように働きかけ、どのような役割を担ったのかを考察する。総じていえば、野口という人物とその作品の再評価を課題の中心に据えるが、そのために、従来の日本文学・英文学という個々の領域を超え、文化全般さらには思想全般の国際的、国内的な動向とを関連づけて野口米次郎の足跡を考察する。<br /> 本論は大きくわけて、三部構成をとる。第一部「出発期―様々な〈東と西〉、混沌からの出現」では、詩人野口米次郎がどのように自己形成を遂げていったかを明らかにする。第一章で野口の渡米までの成長過程における英語学習の様子や、早くから芭蕉俳諧に親しんでいたこと、渡米の動機などを考察する。第二章では、アメリカ西海岸のボヘミアニズムの潮流下で、ポーやホイットマンを尊敬しそれらを芭蕉俳諧と重ねて理解した野口が、詩人としていかにデビューしたかを、その周辺の詩人たちの理解や当時の国際的な文化潮流とあわせて、伝記的に再確認する。第三章は、ジャポニズム小説の隆盛期の流れに棹さして執筆した日記風小説に焦点を当て、野口の視点の独自性と問題意識の原点を探る。第四章は、英国詩壇で一躍人気を博したことについて、一九〇三年当時の野口が翻訳や英詩作に対していかなる自覚や意図を持っていたのかを探る。また英国詩壇で野口の英詩の方法や表現がいかに受容されたかを検討する。<br /> 野口の人生中期を捉える第二部「東洋詩学の探求と融合―〈象徴主義〉という名のパンドラの箱」では、東洋の伝統と西洋のモダニズム詩論との交差の中で、野口の詩学や詩作がどう展開したかの分析を試みる。第五章では、野口の一九〇四年の帰国が、日本の詩人たちによる象徴主義詩の移入時期と重なっていたこと、野口が象徴主義を芭蕉と比較して説明したその先に、日本国内での芭蕉再評価の気運を認めうることを明らかにする。第六章では、日本帰国後の野口が積極的に英文執筆に取り組み、国外の様々な新聞雑誌に、舞台芸術や美術そして政治状況などの多岐多彩な著述を書き送り、日本文化の海外発信に努めていた点を分析する。また帰国後に刊行した詩集や評論集が、海外では不可解と思われていた「日本」の本質や日本人の精神構造を伝えるために書かれていることを考察する。第七章では、日本文化の解説者として重要な役割を演じた一九一四年の英国講演をとりあげる。野口が芭蕉俳諧の精神哲学と詩学を論じたことは、国内外に多大なインパクトを与えた。第八章では、欧米モダニズム思潮の中での野口の位置と評価、その時代背景について考察する。英詩改革を試みた英詩壇が東洋への指向性を深めてゆく様子を、インドの詩人たちとの関係などをも含めて明らかにする。第九章では、従来ほとんど研究がなされてこなかった、大正期詩壇の中で野口が果たした役割と存在意義を、幾つかの詩誌から解明する。大正から昭和への転換期には、様々な思潮が混沌として渦巻いた。野口はこの時期、文化相対主義的な観点から国内外に向けて伝統意識と前衛意識について語っている。第十章ではこれら両者の重なりが、昭和初期に日本主義が立ちあがってくる兆しと如何なる関係にあったかを浮き彫りにする。第十一章では、野口がL・ハーンについて残した著述とその内容を明確にし、日本主義の潮流に巻き込まれる「境界人」としての二人の位置について考える。 第三部は「「二重国籍」性をめぐって―境界者としての立場と祖国日本への忠誠」と題して、文明批評家としての国内外の評価も確立していた野口の、後半生における屈折を、国際関係論、東西文明交渉史、植民地主義批判に目配りしつつ論じる。第十二章では、野口の〈境界〉性や自己存在の不安定さについて、従来指摘されてこなかった幾つかの局面から論究する。野口は人類の普遍主義に立つ文化相対主義の立場から、自国の文化を創出することを考えていた。時代は彼に政治問題や民族・国家の独立問題と関わることを要請し、かつ野口自身もそれを当然のことだと考えていた。しかし、二〇世紀の国際関係は、その立場に亀裂や動揺を生みだしてゆく。その実態を捉える。第十三章では、早くからインドとアイルランド文学の共通性を意識していた野口のアジア認識を、インドとの関わりを中心に論じる。野口のインドに対する発言や論述といえば、従来はもっぱらR・タゴールとの論争ばかり注目されてきたが、それは野口と「インド」との関係の一頁に過ぎないことを、インドで発掘した資料などをもとに明らかにする。第十四章は、野口の戦時期の詩について、従来知られていなかった作品にも照明を当て、野口米次郎の詩想の全容の解明に努め、その内部にかかえた亀裂の様をあきらかにする。第十五章は、敗戦後の野口と没後の評価を扱い、野口の遺志が受けつがれてきたことを示す。<br /> 野口は、国際的な象徴詩運動が様々なモダニズムへと分化してゆく中で、前衛性と庶民性、国際性と地方性、そして民族の魂といった要素の融合する二〇世紀の詩精神を守り育てることに腐心し、大正期の詩壇で尊敬を受け、また海外に自分なりの日本文化の神髄を紹介することに邁進して国際的に活躍の場を拡げた。象徴性、暗示性、幽玄の世界、精神性を表現することが、野口の「詩一つに生きる」ことであり、文化相対主義の立場から日本文化の普遍性を敷衍することを、野口は自らの使命とした。しかしそのことが、戦争の時代には、野口の中に自分自身では処理しきれない問題を抱かせることになった。<br /> 野口が自らを「二重国籍者」と述べたとき、それは自嘲であっただけではなく、精神的複合性をもった詩人としての自覚であり、「近代」的視野を持つ国際人としての自負でもあった。本論は、蹉跌の思いと痛みを抱えて、激動の時代を生きぬいた野口米次郎というひとりの詩人の軌跡を、二〇世紀における国際詩想潮流の動きと文化交流の実態とに重ね合わせながら、解明することをめざした。この詩人の達成と挫折とが共に、日本近代のたどった思想史や文化史の展開を照らし出している。
著者
田中 彰吾
出版者
一般社団法人 日本体育学会
雑誌
日本体育学会大会予稿集 第70回(2019) (ISSN:24241946)
巻号頁・発行日
pp.10_2, 2019 (Released:2019-12-20)

パフォーマンスの速さと正確性、チームワーク、他者との身体的相互作用などが競われる点で、eスポーツはそれ以外のスポーツと多くの共通点を持っている。ただし、すべてのパフォーマンスがコンピュータに媒介されている点(computer-mediatedness)は、他とは異なるeスポーツの顕著な特徴である。コンピュータ媒介性は、次の2点で競技者の身体活動のあり方に変化をもたらすと思われる。第一は「道具使用」である。競技中のほぼすべての活動は、手元のデバイスと眼前のモニターを利用してなされる。ボールゲームや体操における道具使用と比べて、eスポーツにおけるそれは、目と手の協調を限定的かつ極端に推進する。第二は「仮想現実」である。競技が行われる場所は、現実のフィールドではなくモニター上に展開される仮想現実である。競技者は一人称視点でフィールドに入り込んだり、俯瞰しつつフィールド全体にかかわったりするが、いずれにしても、仮想現実における仮想身体を利用しつつパフォーマンスが行われる。当日の報告では、以上の2点について、現象学的な観点からさらに踏み込んで読み解いてみたい。
著者
呉 琳
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.99-113, 2016-12-15

本研究の目的は,現代日本語における基幹慣用句を選定することである。「基幹慣用句」とは,林(1971)が提唱した「基幹語彙」にのっとった概念で,調査された言語資料の中で,多方面にわたって高頻度で用いられている慣用句の集合を言う。本研究の調査対象は,佐藤(2007)と橋本・河原により選定された926句(延べ936句)の慣用句である。調査資料は,『現代日本語書き言葉均衡コーパス(BCCWJ)』の書籍サブコーパスである。この書籍データは,図書館で利用される日本十進分類法(NDC)に従い,0.総記,1.哲学,2.歴史, 3.社会科学,4.自然科学,5.技術・工学,6.産業,7.芸術・美術,8.言語,9.文学,n.分類なしの11に下位分類されている。つまりは,書籍データにおけるジャンルごとの各慣用句の使用度数が調査可能である。その結果を基にして,慣用句がいくつのジャンルにわたって出現するかを広さの指標,使用度数の多少を深さの指標として設定し,複数のジャンルにわたって高頻度で使用される慣用句を基幹慣用句として選定する。

1 0 0 0 OA 洒落哲学

著者
土子金四郎 述
出版者
哲学書院
巻号頁・発行日
1887
著者
土屋 陽介
出版者
学校法人 開智学園 開智国際大学
雑誌
開智国際大学紀要 (ISSN:24334618)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.41-54, 2018 (Released:2018-03-01)

本稿では、今般の道徳教育の拡充において主要な授業方法の改善案として掲げられている「考え、議論する道徳」を取り上げ、「考え、議論する」ことは道徳教育にとってなぜ必要なのかを明らかにする。本稿の議論によれば、「考え、議論する」ことは、「道徳性」を構成する三要素の一つである「道徳的な判断力」の教育に特に寄与する。本稿では、このことを、古代ギリシアの哲学者アリストテレスが提起したフロネーシスの概念と、それをめぐる徳倫理学上の議論を参照することによって明らかにする。 本稿では、まず、道徳的な判断とはどのように下されるものであるかを検討することで、適切な道徳的判断を下すためにはフロネーシスと呼ばれる知性の働きが不可欠であることを明らかにする。次に、フロネーシスとは正確にはどのような種類の知性の働きであるかを明らかにする。その上で、私たち人間はフロネーシスをどのように獲得するのかについて、アリストテレスはどのように考えていたのかを明らかにする。最後に、子どもの哲学の創始者であるMatthew Lipmanの議論を参照して、哲学対話を通した「考え、議論する」教育が、フロネーシスの教育(すなわち、「道徳的な判断力」の育成)にとって理想的な方法であることを明らかにする。
著者
伊藤 耕一郎
出版者
関西大学哲学会
雑誌
関西大学哲学 (ISSN:0910531X)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.77-114, 2018
著者
岡崎 宏樹
出版者
日仏社会学会
雑誌
日仏社会学会年報 (ISSN:13437313)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.69-90, 2015-11-30 (Released:2017-07-03)

Le présent essai a pour but de mettre en évidence, à partir du cas de la sociologie durkheimienne, la prépondérance du dialogue de la sociologie avec la philosophie au niveau de la constitution d’une perspective et de la discipline de la sociologie. La perspective de la sociologie durkheimienne se base sur la différenciation entre la conscience individuelle et la conscience collective. Selon Durkheim, « considérer les faits sociaux comme des choses » en les appréhendant du dehors permet d'étudier de façon empirique la conscience collective. En adoptant cette méthodologie, Durkheim a séparé la philosophie et la psychologie individuelle de la sociologie, et établi la sociologie en tant que discipline. Cependant, dans la réflexion sur le développement de la sociologie durkheimienne, Les règles de la méthode sociologique apparaissent comme un texte transitoire mentionnant des règles provisoires. En effet, la méthodologie dans Les formes élémentaires de la vie religieuse ne consiste pas uniquement à considérer les choses du dehors, mais de tenter d'aborder la vie sociale en décrivant de l'intérieur les expériences du sujet. Par ailleurs, l'effervescence collective, notion clé de cet ouvrage, pointe du doigt le phénomène montrant la difficulté à établir une distinction entre la conscience individuelle et la conscience collective. Au crépuscule de sa vie, Durkheim s'est penché plus profondément sur cette question, dans une étude de la philosophie pragmatique. Au cours de cet essai, nous étudierons la méthodologie dans Les formes élémentaires de la vie religieuse, puis mettrons en lumière la signification théorique particulière de la notion d’effervescence collective, selon une perspective ontologique. De plus, en nous référant au Pragmatisme et sociologie de Durkheim, nous aborderons l'importance de poursuivre la réflexion « entre » la sociologie et la philosophie pour la reconstitution de la discipline.