著者
山崎 順子
雑誌
湘南国際女子短期大学紀要
巻号頁・発行日
vol.5, pp.77-87, 1998-02-01
著者
田口 茂
出版者
北海道大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2017-04-01

第一に、現象学的観点から見た「現実の手応え」とも言える明証論を追究し、現実を自然に生きる態度と、それについての「超越論的な気づき」との間の密接な関係を明らかにした。第二に、田辺元の「媒介」概念の研究により、現象学を媒介論的に展開するアイデアを複数の論文等で発表した。第三に、神経科学者、数学者、認知科学者との共同研究により、「意識」の学際的研究を推し進め、量子論とも整合的で、数学の「圏論」のアイデアを採り入れた新しい現実観を書籍等で提示することができた。
著者
植村 邦彦
出版者
關西大学經済學會
雑誌
関西大学経済論集 (ISSN:04497554)
巻号頁・発行日
vol.47, no.5, pp.481-510, 1997-12

マルクスの数多い著作の中でも、1852年に書かれた『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』ほど、これまでに様々な読まれ方をしてきたテクストはないだろう。たとえばエドワード・サイードは、文学批評の方法を論じたエッセイの中で小説と「情況的現実」との関係を論じながら、やや唐突に次のように述べている。「しかしながら、いかなる小説家も、『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を書いたときのマルクスほどに現実的情況について明確な態度を取ることはできないだろう。私から見れば、現実的情況が甥[ルイ・ボナパルト]を革新者としてではなくて、偉大な叔父[ナポレオン]の笑劇的な反復者として仕立て上げたことを示すときの筆法の正確さがこれほどに才気あふれ、これほどに圧倒的な力をもって迫ってくる著作はない(1)」。サイードが強調する第一点は、「マルクスの方法にとって言語や表象は決定的な重要性を持って」おり、「マルクスがあらゆる言語上の工夫を活用していることが『ブリュメール18日』を知的文献のパラダイムたらしめ(2)」ているということであり、第二は、ナポレオン伝説によって育まれた「実にひどい過ち」を修正するために、「書き換えられた歴史は再び書き換えることが可能であることを示」そうとするマルクスの「批評的意識(3)」である。こうして、マルクスにおけるレトリックという問題が設定される。あるいは、「オウムと世界最終戦争」という副題をもつ著書『虚構の時代の果て』の「あとがき」で、大澤真幸はこう述べている。「民主主義体制の下で極端な独裁が国民の広範な支持を獲得できたのはなぜか。マルクスは、この人物、ルイ・ボナパルト(ナポレオン三世)のク・デタが人民投票で承認された直後に、彼が政権を獲得するまでの過程を社会学的に考察する『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を著している。今日でもなお、マルクスのこの議論は、ボナパルトが成功しえた理由についての、最も説得力ある分析であろう。ちょうどこのマルクスの分析のような、私たちが内属している『オウム』という文脈に対する透徹した考察が必要である(4)」。ここでは、マルクスのこの書は、「考察する者自身が内属している<現在>」に関する「社会学的考察」の模範例とみなされている。このような『ブリュメール18日』の読み方は、言うまでもなく、「マルクス主義」の側からの正統的な読み方とはかなり異なる。マルクスの死後まもない1885年に、エンゲルスはこの書の第三版に付した序文で、次のような位置づけを試みているからである。「マルクスこそ、歴史の運動の大法則をはじめて発見した人であった。この法則によれば、すべて歴史上の闘争は、政治、宗教、哲学、その他どんなイデオロギー的分野でおこなわれようと、実際には、社会諸階級の闘争の――あるいはかなりに明白な、あるいはそれほど明白でない――表現にすぎない。そして、これらの階級の存在、したがってまた彼らのあいだの衝突は、それ自体、彼らの経済状態の発展程度によって、彼らの生産、およびこの生産に条件づけられる交換の仕方によって、条件づけられているのである。……マルクスは、ここでこの[フランス第二共和制の]歴史によって自分の法則を試験したのであって、彼はこの試験に輝かしい成績で合格した、と言わざるをえないのである(5)」。この見方によれば、『ブリュメール18日』は「唯物論的歴史観の定式」の一つの例示だということになる。本稿の課題は、『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』に関する最近の注目すべきいくつかの「読み方」の批判的検討を通して、マルクスの思想の展開の中に占める『ブリュメール18日』の位置づけを明らかにすることにある。マルクスにおける歴史認識の方法、それがテーマとなる。
著者
佐藤 啓介
出版者
日本ミシェル・アンリ哲学会
雑誌
ミシェル・アンリ研究 (ISSN:21857873)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.25-49, 2014 (Released:2019-07-12)
参考文献数
16

This article investigates Henry’s transcendental Interpretation of John critically. The ideas on God and Jesus which John tells are close to the structure of Life in Henry’s phenomenology in that God, Jesus, Truth, Life and Logos are identical and they preexist in God himself together. It is not the case, however, that John changes Henry’s philosophy, but rather that the method of his biblical interpretation can be called “check for the correspondence”. Moreover, his correspondence-method fails on that it cannot cover the death of Jesus John tells as “death in God’ glory”. This failure appears clearly in Henry’s interpretations of John 10:1-18 (parable of the Good Shepherd and His Sheep) as Henry’s interpretation cannot include the phrase “lays down one’s life” (in 11, 15, 17 and 18) which Jesus declares. Jesus which Henry tells doesn’t die, contrary to John’s narrative.
著者
茶谷 直人
出版者
神戸大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2001

本年度は前年度に引き続き、アナロギア(アナロジー・類比)概念をキーワードに、アリストテレス哲学における解釈上の諸問題の解決、古代・中世哲学史の連続的把握、応用倫理学上の諸問題への新たな視点の提供を目指す、といった長期的展望のもとに研究を進めた。それにより、主に次の研究成果を生み出した。1.前年度からの継続課題として、アリストテレス『形而上学』Θ巻における二つのデュナミス(能力と可能態)の内実と関係、およびΘ6におけるアナロギアの意義を探った。両デュナミスの差異は排他的でなくパースペクティブ上のものであるがΘ3で両者の連続性が見出されること、Θ巻前半で提示される<能力:運動>というデュナミス:エネルゲイア図式は、Θ6でアナロギア(<現実態:可能態>関係の類比的説明)を展開する上で方法論的意義を有すること、などを示した。なお本研究については、日本哲学会編『哲学』へ論文を投稿の結果、審査を通過し掲載が決定した(論文題目:「アリストテレス『形而上学』Θ巻におけるアナロギアと二つのデュナミヌ」、本年3月公刊)。2.類比概念を、論証的知識から一歩距離を置きつつも単なる話術や修辞にも留まらない独特な知の様式として捉え評価し応用倫理学上の諸問題にアプローチする、という作業の一環として、インフォームド・コンセント(IC)に関し独自の観点からの考察を行った。そこではICについて、「医師の開示内容についての患者の有効な理解を如何に導得るか」という観点から検討し、それを実現する説明様式の一つとして、「アナロジーによる説明」を提示した。これは、高度に専門化された事象について患者の理解を促す策との一つとして有効である。本研究は、昨年11月に日本生命倫理学会大会において発表された(題目:「インフォームド・コンセントにおける<情報開示>と<理解>の関わりをめぐって--アナロジーの可能性」)。
著者
塚原 東吾 三浦 伸夫 小笠原 博毅 中島 秀人 隠岐 さや香
出版者
神戸大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2012-04-01

本研究は科学機器の歴史について、主に望遠鏡と顕微鏡に光をあて、イタリア・オランダ・イギリスのケースに加え、フランスの事例の研究を行った。この研究では哲学機器とも呼ばれた数学機器や、望遠鏡と四分儀を組み合わせた測地機器、また物理教育に使われた一連の力学機器などを検討したその際、科学機器自体の歴史を基礎に、科学の組織化、いわゆるアカデミーなどの制度化についても検討を行った。科学機器の歴史を通じて、科学史をより広く、また深い観点から検討するための基礎的な作業である。
著者
山本信編
出版者
東京大学出版会
巻号頁・発行日
1973
著者
深澤 浩洋
出版者
日本体育・スポーツ哲学会
雑誌
体育・スポーツ哲学研究 (ISSN:09155104)
巻号頁・発行日
vol.38, no.2, pp.117-132, 2016 (Released:2017-04-10)
参考文献数
80
被引用文献数
2 1

This essay attempts to identify the meaning of the expanding experience (EE) that emerges through the practice of sports activity. The author shows the meaning of EE as a reflective experience rather than a living experience and reconsiders the aspect of this experience from the perspectives of perception and feeling, examining its difference from dissolving experience (DE). In this essay, the characteristics of EE are described through the development of the relationship between the self and the other. When two judoka throw each other and be thrown as if they are one, or, when runners feel each other’s physical pain, the experiences are termed “dissolving experiences”, which are living and subjective experiences. There is a lack of objective feeling in this kind of experience. Also, it is considered that DE emerges through a widening of the origination of sensation: it is a factor of empathizing with the other, or understanding their feelings at the physical level. DE shifts toward EE through the perception of this experience as an object. When both the self and the opponent reflect DE, which is irrational and beyond both athletes’ control, then the experience has emerged as the representative object and has become EE for them. Both athletes come to recognize the representation or the personality of the other as peers who engage in sports activities together. We can find EE for both athletes in this situation. Thus, EE is an experience which athletes cannot share with spectators but only with other athletes.
著者
大井 正
出版者
日本哲学会
雑誌
哲学 (ISSN:03873358)
巻号頁・発行日
vol.1971, no.21, pp.55-59, 1971-05-15 (Released:2009-07-23)

1 0 0 0 OA 追悼記事

著者
三浦 俊彦
出版者
The Philosophy of Science Society, Japan
雑誌
科学哲学 (ISSN:02893428)
巻号頁・発行日
vol.46, no.1, pp.77, 2012 (Released:2016-01-13)
著者
堤田 泰成
出版者
上智大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2018-04-25

本研究の課題は、ショーペンハウアーの哲学、特にその救済思想(「意志の否定」論)を中世キリスト教思想の受容と展開という点から明らかにすることにある。最終年度にあたる本年度は、昨年度の研究成果を踏まえつつ、当初の年次計画通り(2) 普遍と特殊、(3) 自由意志と恩恵、というテーマから研究課題を遂行した。(2)について、ショーペンハウアーが中世スコラ学の「個体化の原理」というタームを用いて現象界の数多性を説明している点に着目し、「一者」としての意志(普遍)とその現象である個体(特殊)の問題を、トマスやスアレス、ロック、ライプニッツの個体論なども参照しながら検討した。これにより、中世スコラ学からスアレス、近世哲学を経由してショーペンハウアーへと至る「個体化の原理」の哲学・思想史的系譜を文献的な裏付けをもって解明することができた。(3)について、ショーペンハウアーの「意志の否定」論とキリスト教の恩恵論との関係性を、エゴイズム(我意)の放棄という共通項から考察することを試みた。昨年度の研究成果からショーペンハウアーの「意志の否定」論とキリスト教の神秘主義、聖人論との間に予想以上に深い関連があることが判明したため、彼が「意志の否定」の体現者と見なしているアッシジの聖フランチェスコを考察の対象とした。ショーペンハウアーの所蔵していた『聖ボナヴェントゥラによる聖フランチェスコ伝』(ビヒャルト編、1847年)の書き込みの検討を行い、彼がフランチェスコのうちに清貧・禁欲・同情という「意志の否定」において重要とされる三つの要素を見出していたこと、またフランチェスコの人間と自然への歓びに溢れた生活のうちに本来的な自己を実現・現実化する積極的な生(人生)の肯定のあり方を見出していたことなどを確認した。
著者
新山 喜嗣
出版者
日本生命倫理学会
雑誌
生命倫理 (ISSN:13434063)
巻号頁・発行日
vol.17, no.1, pp.82-92, 2007-09-20 (Released:2017-04-27)
参考文献数
22

カプグラ症候群では、身近な人物における属性とは無縁な「このもの性」としての<私>が、自分の眼前から消失するという、言わば「純粋の死」を体験することになる。われわれにとっての死も、その核心がこのような<私>の消失を意味するとすれば、そのような死は善きことか悪しきことか、それとも、そのどちらとも言えないことなのであろうか。20世紀の分析哲学は、不在の対象について善い悪いといった何らかの言及をすることが困難であることを教える。このことからすれば、この世にすでに不在となっている死した人物についても、その死が善きことか悪しきことかを語ることができないことになる。今や、自分の死についても、また、他者の死についても、その死の意味の収斂先を失うのである。それでもなお死の意味を求めようとすれば、死を<私>の完全な消滅としてではなく、カプグラ症候群のように<私>の変更として捉える道があるかもしれない。しかし、属性を伴わない<私>の変更は、<私>にとって気づきうることでもなければ、<私>にとって何らかの関係を持ちうることでもない。もはや残された死の意味は、隣の<私>の消失としての他者の死と、将来における自分の<私>の消失としての自分の死という、虚空だけとなる。