著者
沖﨑 聰
出版者
岡山大学大学院法務研究科
雑誌
臨床法務研究 (ISSN:18811485)
巻号頁・発行日
no.16, pp.1-14, 2016-03
著者
遠城 明雄
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2020年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.79, 2020 (Released:2020-03-30)

1. はじめ19世紀後半以降の近代世界の到来およびそれとの接合という経験において、近代以前に起源を有する地域の祭礼はどのような変化を遂げてきたのであろうか。この問いを人々の意識や行動に寄り添って考えてみる、というのが本報告の試みである。博多祇園山笠は、福岡市の都心に位置する博多地区の櫛田神社で毎年7月1日から15日まで行われる奉納行事である。同地区には近世に起源を有する町の集合体である「流(ながれ)」という地縁的な自治組織があり、この組織が山笠を建設し運営する。七つの流があり、それぞれの地区内で男性が「山」(車輪がついていない山車)を舁き廻って地域の安寧や悪疫の退散を祈願するが、最終日に行われる「追山」は七つの山が同じ順路を移動する行事であるため、タイムを競う雰囲気が高まる。すでに明治期の新聞にも詳しいタイムが報じられており、この祭礼が神事であると同時にレース的な特徴を有することが、参加者と見物人の両者を熱狂させるひとつの要因になっていると思われる。 柳田國男(1942)によれば、「見物と称する群の発生」による祭の変化は明治以前から始まっていた。博多祇園山笠の場合は、近世期から見物人としてのみならず、参加者(「加勢人」)としても、周辺の村人たちが多数博多に足を運び、都市の文化に触れ、それに実際に関与しており、時に祭りの進行を妨げる諍いを起こす場合もあった。山笠行事は、都市内部の地縁組織の想像的な共同性を強化するにとどまらず、都市と農村の人的な接触を生み出すことで、両者の差異を際立たせると同時に、その相互依存的関係を実感させる場になっていたと思われる。 2. 祭礼をめぐる行政と地域社会明治以降、山笠行事をめぐって行政・警察と地域住民の間に激しい対立が幾度もあった。その裸体と「蛮風」、飲酒、時間と資金の浪費、交通への妨げといった理由から、この行事は近代という時代にそぐわないものであるというのが前者の基本認識であり、さらに祭りを通じて醸成される地域の連帯感や共同性の感覚が、市・県の行政執行の妨げになること、また行政・警察への日常的不満が非日常の解放感のなかで、暴力を伴って爆発しかねないことなども懸念されていた。こうした対立は1920年代も続くが、市中心部の人口減少や経済不況などにより山笠行事が衰退すると、福岡市は1937年、観光振興や国策との関連などの理由で、山笠行事に補助金を支給するようになった。地域内外の状況の変化が、山笠を市公認の「伝統行事」に変えていったと言える。 3. 1910年の福岡市と博多祇園山笠 本報告では特に1910年という年に着目してみたい。この年は、その後の福岡市の発展にとって、ひとつの転機になったという評価がある。九州沖縄八県聯合共進会の開催を契機として、市の中心部を東西につなぐ新たな道路が開鑿され、そこに市内電車が敷設・運行されるなど、福岡・博多の空間構造は大きく変容したのである。福岡市はこの社会基盤整備を土台として、近代都市への離陸を果たしたと言えるかもしれない。さて、この時に山笠行事の廃止あるいは継続をめぐって、地域有力者らの意見が地元新聞に掲載されている。その多くは山笠の廃止や行事内容の変更を主張するものであり、こうした有力者らの見解の背景には、地域住民の山笠に対する意識の変化も感じられる。近代性を象徴する諸施設が目の前に具現化されることを通して、人々の場所に対する感性にも揺らぎが生じていたのかもしれない。ただし、地域における話し合いの結果、最終的にこの年の山笠行事は変則的な形ではあったが実施され、その後も継続されることになった。そして、それを可能にした論理は、近代性に対する民衆なりの対抗でもあったと思われる。このように1910年は福岡市、そして山笠行事の過去と現在を考える上でも、興味深い年であると考えられる。本報告は多くの限界を抱えているが、これらの新聞記事を読むことで、最初に掲げた課題に接近してみたい。
著者
坪原 紳二
出版者
公益社団法人 日本都市計画学会
雑誌
都市計画論文集 (ISSN:09160647)
巻号頁・発行日
vol.47, no.2, pp.84-95, 2012-10-25 (Released:2012-10-25)
参考文献数
27

オランダ・フローニンゲン市は1977年、交通循環計画(VCP)に基づき中心市街地を4セクターに分割し、車がセクター間を移動するには一度、環状線に出なければならないようにした。これによって中心市街地の自動車交通量は半減した。本論文はこのVCP導入の政治的プロセスを分析することで、環境にやさしい交通政策の実現にとって必要な民主主義について、示唆を与えることを目的とする。当時導入を主導したニューレフトは、リベラル・デモクラシーの実現手段である政治化、対極化、及び参加民主主義の実現手段である市民参加を、政治信条として掲げていた。ところが実際のVCPの導入プロセスにおいては、政治化と対極化は明確に見て取ることができたが、市民が参加する機会は極めて限られていた。このことは、環境にやさしい交通政策を実現するうえでは、参加民主主義よりもむしろリベラル・デモクラシーが有効であることを示唆している。

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著者
千葉胤秀 (雄七) 著
出版者
木村文三郎
巻号頁・発行日
1880
著者
中田 浩司
出版者
奈良学園大学人間教育学部
雑誌
人間教育学研究 = Journal for Humaistic Education (ISSN:21889228)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.61-71, 2015-12-01

Étienne Bonnot de Condillac, French philosopher of the eighteenth century and founder of sensualism,was appointed preceptor of the Infante Don Fernando Parma in 1758. He was in charge of his education until 1767.After this important mission, Condillac, in 1775 published study courses for the instruction of the Prince of Parma, atremendous work in 16 printed volumes. He presented his educational thought and the content of his teaching. In thisarticle, we would like to highlight the axis of the educational thought of Condillac, specifically analyzing the methodthat this philosopher has proposed. First, we will present the situation and the physiognomy of Parma at that time as apreparatory study, mentioning the appointment's history and the pedagogical activity of Condillac. We will then makea brief introduction of the Study Course for the prince of Parma statement related to the Mirrors of princes, traditionalliterary genre in Europe. Secondly, we propose to analyze the pedagogical situation that Condillac criticized in theeighteenth century. According to him, the education process at that time was only meant to provide basic knowledge orgeneral principles, requesting the memory only. Finally, we will try to identify the main idea of Condillac's education, aneducation that aims to engage children in the observation and reflection. Is the sensualist really attaching importance
著者
南谷 美保
出版者
四天王寺大学
雑誌
四天王寺大学紀要 (ISSN:18833497)
巻号頁・発行日
no.68, pp.61-85, 2019-09-25

四天王寺に現存する江戸期以前の童舞舞楽装束はさほど多くはないが、「四天王寺舞楽之記」をはじめとする関連史料によれば、江戸時代の四天王寺における舞楽法会では頻繁に童舞が演じられていたことがわかる。したがって、現在の四天王寺に伝来する江戸期以前の童舞舞楽装束の現状と、江戸時代の舞楽上演状況とは合致していないといえる。この矛盾を踏まえ、本稿では、江戸時代の四天王寺の舞楽法会における童舞上演の実態を、常楽会と聖霊会を中心に分析し、童舞で演じられた舞の実態を明らかにする。さらに、童舞を担当する楽家の子弟の年齢分布について考察し、走舞の舞童が同時に平舞を大人の舞人とともに舞っている事例があることを踏まえ、童舞かそうではないかの区別に関しては、走舞についてのみ厳密にこれがなされ、その区別をする基準は、童舞装束を着用するかどうかよりも、面を着用するかどうかであったことではないかとの推論を立てた過程について述べるものとする。これらの考察を踏まえ、四天王寺に伝来する童舞舞楽装束の実態と、江戸時代における童舞の演奏実態との間の矛盾はどのように理解すべきなのかについて考察する。
著者
嶋田 奈穂子 山根 周
出版者
日本建築学会
雑誌
日本建築学会計画系論文集 (ISSN:13404210)
巻号頁・発行日
vol.75, no.647, pp.111-118, 2010-01-30 (Released:2010-04-02)
参考文献数
24

I plotted all the Shinto shrines found in the Yasu river drainage area on a large scale topographic map and tried to find out a functional meaning on the location of each shrine. Historical elements of the area were also taken into consideration. The 374 Shinto shrines studied were classified into 8 categories ; type of mountain summit, type of mountain foot, type of water head, type of river bank, type of breach, type of port, type of irrigation reservoir, type of paddy in narrow.
著者
彦坂 佳宣
出版者
日本語学会
雑誌
日本語の研究 (ISSN:13495119)
巻号頁・発行日
vol.6, no.4, pp.110-124, 2010-10-01

『方言文法全国地図』第38図「寒いけれども〜」を逆接確定条件の代表とし、言語地理学的、文献方言学的解釈を試みた。新古の点は、日本の外輪に(1)バッテ(ン)類と(2)ドモ類、中輪に(3)ガ類、中央に(4)ケレド(モ)類の分布から、(4)(3)(2)の新古順とした。(1)は、分布様態と、古く仮定条件でその後の確定化の経緯から(2)に遅れて局地的な発生と考えた。接続法では、もと已然形承接の(1)(2)が終止形承接となったが、この類は「旧・已然形+バ」の主要仮定条件類の周辺分布域とほぼ一致し、この承接法が仮定用法化した時期に承接法を変えたと考えた。伝播面では、古い(1)(2)(3)は近畿中央から全国に、新しい(4)は上方で盛行し江戸に伝播した2極放射で、圧迫されたガは東西ごとの周辺分布となり、中国地方では理由ケーニと同音衝突もあって残存したと見た。近世方言文献からは、今日への途上、ないしほぼ現況に近い模様が出来ていたと推測した。
著者
Yasuhiro TAKAI Seiichiro UEHARA
出版者
Japan Association of Mineralogical Sciences
雑誌
Journal of Mineralogical and Petrological Sciences (ISSN:13456296)
巻号頁・発行日
vol.107, no.2, pp.110-113, 2012 (Released:2012-05-03)
参考文献数
7
被引用文献数
3 5

Rhabdophane-(Y), ideal formulaYPO4·H2O, occurs in a druse of the Higashimatsuura basalt at Hinodematsu, Genkai-cho, Saga Prefecture, Japan. It occurs as short rod-like crystals and forms radial aggregates. Rhabdophane-(Y) is hexagonal, P6222, a = 6.959(2) Å, c = 6.384(2) Å, V = 267.7(1) Å3, Z = 3. It is yellowish white to yellowish brown in color with a silky to dull luster. The density is 4.54 g/cm3 (calc.). The strongest lines in the X-ray powder diffraction pattern are [d (I/I0) hkl] 2.821 (100) 102, 3.013 (77) 200, 6.026 (76) 100, 4.385 (47) 101, 3.480 (44) 110, 2.127 (28) 003, and 1.854 (26) 212.