著者
吴 震
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
「心身 / 身心」と「環境」の哲学 : 東アジアの伝統的概念の再検討とその普遍化の試み (ISSN:09152822)
巻号頁・発行日
pp.137-164, 2018-03-30

「心身 / 身心」と「環境」の哲学 : 東アジアの伝統的概念の再検討とその普遍化の試み, 国際日本文化研究センター, 2016年2月19日-21日
著者
山下 暁子
出版者
美術科教育学会
雑誌
美術教育学:美術科教育学会誌 (ISSN:0917771X)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.511-522, 2014-03-20 (Released:2017-06-12)

美術科教育の目標に含まれる「情操」とは何を意味しているか。「情操」を豊かにするための,人間の基本的な機能である「感性」について,風景,環境世界,自己形成をキーワードに,哲学や教育心理学,乳幼児精神医学の文献を参照して考察を行う。自己形成や自己変容の能力を人間が生れながらに本来備えている能力であるとする,D.N.スターンの「自己感」という概念から「感性」の機能を捉え,風景や環境世界の捉え方と関連づけて説明することで,自己形成や自己変容に働きかける「自己感」の機能と,感性や芸術の感受との関係について明らかにした。
著者
齊藤 金作
出版者
日本法哲学会
雑誌
法哲学四季報 (ISSN:24338583)
巻号頁・発行日
vol.1949, no.2, pp.73-99, 1949-02-15 (Released:2008-11-17)
参考文献数
121
著者
西木 政統
出版者
三田哲學會
雑誌
哲学 (ISSN:05632099)
巻号頁・発行日
vol.132, pp.221-253, 2014-03

特集 : 論集 美学・芸術学 : 美・芸術・感性をめぐる知のスパイラル(旋回)#挿表Unique life-size Yakushi Nyorai sculptures characterized by wavelike hair, the left elbow bent at a right angle with the forearm thrust forward, as well as abbreviated forms of expression in the hair and the pleats of the robe, may be found around the Kamakura area. However, because these types of Yakushi images are highly unusual, we may assume the existence of other images that served as models for them. In this paper, I will examine the iconography of such images while arguing that their wavelike hair was originally derived from the Shaka Nyorai at Seiryō-ji Temple, and the characteristic left arm, from the Yakushi Nyorai image at the Konponchū-dō at Enryaku-ji Temple. In addition, by comparing these images to records found in Azuma kagami, I will suggest the possibility that they were created as Ichinichi-zōryūbutsu—images made in response to urgent requests and thus characterized by abbreviated forms of expression—and clarify the importance of these unique Yakushi sculptures which were created around Kamakura during the Kamakura period.

1 0 0 0 OA 思考と労働

著者
黒崎 剛
出版者
日本哲学会
雑誌
哲学 (ISSN:03873358)
巻号頁・発行日
vol.2002, no.53, pp.126-135,246, 2002-04-01 (Released:2010-03-05)

In dieser Abhandlung behandelt der Verfasser das Prinzip des wissenschaftlichen Erkennens, das dem auch für die europaeischen-amerikanischen Philosophien im 20. Jahhundert unueberwindbarem Bewusstsein-Gegenstand-Verhaltnis entgangen ist, wodurch festgestellt werden kann, daß die Identität von Denken und Sein in Hegels Phänomenologie des Geistes vom “absoluten Wissen” zum “Arbeiten” verwandelt wird.Hegel versucht in seiner Phänomenologie des Geistes das fremde Verhältnis von Bewußtsein und Gegenstand durch die Erfahrung des Bewußtseins in dem Element der Identität von Denken und Sein zu überwinden, und mit dieser Identität als Prinzip das wissenschaftlichen Erkennen, d.h. die Ontologie, zu begründen. Nach ihm besteht diese Identität darin, daß das Selbstbewußtsein das andere Selbstbewußtsein als Gegenstand aufstellt und der Gegensatz zwischen ihnen durch die wechselseitige Anerkennung miteinander zur Versöhnung gebracht wird. Also diese Identität, d.h. das “absolute Wissen” als Prinzip des wissenschaftlichen Erkennens aufzustellen heisst, dass wir die Wahrheit nicht erkennen können, insofern die Geschichte nicht endet und keine vernünftige Gemeinschaft besteht. Im Gegenteil folgt daraus der Relativismus, der behauptet, daß fur die Menschen als geschichtliche Wesen nur zeitlich bedingte Erkenntnis existieren kann. Allein das Konzept, das diesen Relativismus uberwindet, enthält die Phänomenologie des Geistes im Begriff der Arbeit. Hegel gibt das Arbeiten auf, das die Natur zum Gegenstand hat, weil für das Selbstbewußtsein nur das andere Selbstbewuβtsein Gegenstand sein kann. Also die Natur und Andersheit verschwinden aus dem absoluten Wissen. Der Verfasser weist auf die mangelnde Logik der hegelschen Entwicklung von “Unendlichkeit→Begierde→Denken” hin und behauptet, daß “das Denken” in der Tat die praktische Tätigkeit des Selbstbewußtseins ist, die den Gegenstand aktiv bildet, d.h. das “Arbeiten”, so daß die Gestalt, in der die “Begierde” überwunden ist, das Arbeiten sein muß, und versucht, den Arbeitsbegriff als das nicht-relative Prinzip des Erkennens wieder herzustellen.
著者
藤井 聡 谷口 綾子 羽鳥 剛史
出版者
東京工業大学
雑誌
萌芽研究
巻号頁・発行日
2006

本年度は,土木計画における公共受容や合意形成の問題を考える上で,個人の心理的傾向性として「大衆性」に着目した.そして,オルテガの政治哲学理論を踏まえ,行政行為が一切変化しない状況でも,公衆が大衆化することで公共事業に対する合意形成が困難となるであろうという仮説を理論的に措定した.そして,大学生100名を対象としたアンケート調査を通じて,その仮説を実証的に検証した.その際,大衆社会論の代表的古典であるオルテガ著「大衆の反逆」(1930)を基にして構成された個人の大衆性尺度を用い,それら尺度が,政府・行政や公共事業に対する態度に及ぼす影響を分析した.その結果,本研究の仮説が支持され.大衆性が公共事業に対する合意形成を阻害する可能性が示された.以上の結果は,人々の大衆性が昨今の行政不信と公共事業を巡る合意形成問題をもたらし得る本質的な原因であり,そうした問題の解消にあたっては,人々の大衆性を低減することが本質的課題であることを示唆するものである.次に,以上の先行研究を受けて,個人の大衆性を低減するための方途を探ることを目的として,人々とのコミュニケーションを通じた態度変容施策の一つとして,「読書」の効果について実証的に検討した.そして,内村鑑三著「代表的日本人」(1908)に着目し,本書を通読することによって,人々の大衆性が低減するという仮定を措定し,実証実験を通じて本仮説を検証した.その結果,本研究の仮説が支持され,「代表的日本人」を通読することによって,人々の大衆性が低減し得る可能性が示された.

1 0 0 0 IR 贋作について

著者
土屋 純一
出版者
金沢大学
雑誌
金沢大学文学部論集. 行動科学・哲学篇 (ISSN:13424262)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.139-145, 2002-03-15

金沢大学文学部The Faculty of Letters, Kanazawa University
著者
大西 友恵 谷村 千絵
出版者
一般社団法人 日本家政学会
雑誌
一般社団法人日本家政学会研究発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.67, 2015

<b>目的 </b> 「関口富左『家政哲学』の再考-クリティカル・リアリズムの視点から-」(於第61回日本家政学会中国・四国地区支部研究発表会2014年10月)では,1970年代に関口が提示した「家政哲学」を再考し,関口がとらえようとしていた家政学は多様性に対応すること,現実から作り出すことを重視するものであることを明らかにした.関口はドイツの教育哲学者O.F.ボルノーの哲学に依拠していたが,現代においてこれを補う視点として,クリティカル・リアリズム(以下CR)という新たなアプローチを用いることを提案した.本発表では,三者の違いをさらに考察し,家政学とは何かという問いに対する,現代における回答を試みる.<b><br> 方法 </b> 関口富左の「家政哲学」,ボルノー哲学,CRの三考に関わる諸文献をもとに考察する.<b><br> 結果 </b> 関口の批判した科学は,人間の日常における現実から切り離された形式的な科学である.人間存在を重く見た関口は,ボルノー哲学にその可能性を見たが,ボルノー自身は科学について多くを言及していない.他方,CRを教育に援用しているR.オドノヒューによれば,CRはReal,Actual,Empiricalの現実の三つのドメインを想定し,それらを繋げる社会的活動を科学としている.CRの視点を家政学に取り入れることで,主体的に思考する力,即ち,知の創造を育むことが可能になり,新しい家政学のありようを示すことが可能となると考える.
著者
三浦 國泰
出版者
成蹊大学文学部学会
雑誌
成蹊大学文学部紀要 (ISSN:05867797)
巻号頁・発行日
no.48, pp.217-231, 2013-03

1827年1月31日、ゲーテはエッカーマンに次のように語っている。「われわれドイツ人は、われわれ自身の環境のようなせまい視野をぬけ出さないならば、ともするとペダンティックなうぬぼれにおち入りがちとなるだろう。だから、私は好んで他国民の書を渉猟しているし誰にでもそうするようにすすめているわけさ。国民文学というのは、今日では、あまり大して意味がない、世界文学の時代がはじまっているので。だから、みんながこの時代を促進させるよう努力しなければだめさ。」(傍点、引用者)世界文学という概念を考えるとき、どうしても時代の背景として、「国民文学」対「世界文学」という対立概念を考えざるをえないだろう。国民文学なくして自国の文学が成り立たないからである。ヘルダーの要請により、ドイツのシェイクスピアたらんとしたゲーテがドイツ国民文学の基盤を築いたことは文学史上の常識である。にもかかわらずゲーテが「もはや国民文学が意味を持たず、世界文学を志向しなければならない」と語った意図はどこにあったのだろうか。ゲーテが「世界文学」に期待した意図には、ゲーテの文学観ばかりでなく、その時代的背景として、当時のドイツの抱えた政治的-歴史的な状況も関わっている。初期のシュトゥルム・ウント・ドラング時代から、中期の古典期の時代、『ヴィルヘルム・マイスター』における新大陸への期待、そして晩年に完成した時間と空間を超越した壮大なスケールの『ファウスト』文学や『西東詩集』の世界。そこではファウストとヘレナの結婚、ハーフィスとズライカの恋愛に象徴されるように、古代と近代、そして東洋と西洋の融合が語られている。ゲーテの文学的奇蹟は、政治的な保守的態度にもかかわらず、ゲーテ自身の生涯にも似て、つねに狭い垣根や固陋な慣習やモラルを否定しようとする地平の拡大を求めている。ゲーテにとって「世界文学」概念に込められた希望は、ウエルテルの反抗、ウィルヘルムやハーフィスの遁走、そしてファウストなどの飽くなき冒険に込められたゲーテ自画像のあらたな地平の拡大を意味していた。トーマス・マンは「市民的教養概念」として、さらに国家社会主義の偏狭な国粋的文学観に対する警告として「コスモポリタニズム」の立場からゲーテの「世界文学」概念を継承し、その積極的な意義と限界を指摘している。そしてトーマス・マンはその限界を克服する方向性の中に、あらたな「今日の世界文学」の「普遍的」意義を模索したのである。また哲学者ガダマーは異文化との対話的理解、あるいは地平の融合としての受容美学的、解釈学的観点から、ゲーテの「世界文学」に積極的な意義を見いだしている。ガダマーの「規範も変質する」という柔軟な規範性概念は「開かれた地平」を約束している。その際、異文化理解に重要な作業として「翻訳」の積極的な課題が強調される。なぜなら「国民文学」が「世界文学」になるためには「翻訳」は不可欠であるからである。しかし情報化・グローバル化する現代社会においては、「文化の平均化」にともなう「文学の平板化」という文学の価値低下が危惧される。そうした「文学の平板化」に抗する視点としてヘルダーや和辻哲郎の「風土性」の概念は依然として有効であろう。しかし先に引用したエッカーマンとの対話のなかで、すでにゲーテ自身が「文学の平均化」に警告を発している。あるいはまたニーチェ、ベンヤミン、アドルノなども文化産業-メディア批判として文化批判を展開した。われわれはグローバル化という地平の拡大と平均化という文化の質低下の岐路に立たされている。ゲーテの世界文学概念は、メディア産業化された社会の中にあって、そもそも「文学とは何か」という問いを再考する機会として、今日的な課題をわれわれに提供している。そこにゲーテの「世界文学」の新たなパラダイムを求める今日的意義があると思われる。なお本論考は、2009年3月、ミュンヘン大学日本文化研究所においてドイツ語で講演した原稿に加筆修正を施したものである。
著者
ナンシー ジャン゠リュック
出版者
首都大学東京人文科学研究科 人文学報編集委員会
雑誌
人文学報. フランス文学 (ISSN:03868729)
巻号頁・発行日
vol.513-15, pp.5-27, 2017-03-25

特集:ジャン=リュック・ナンシーの哲学の拍動
著者
辻村 江太郎
出版者
一般社団法人 日本統計学会
雑誌
JOURNAL OF THE JAPAN STATISTICAL SOCIETY (ISSN:03895602)
巻号頁・発行日
vol.21, no.3, pp.317-321,264, 1992

日本は世界でも有数な統計大国である.短期,中期,長期の統計資料が国民の生活全体をカバーしている.この豊富な資料を活用するには,国の経済のあり方についての哲学的判断と経済学的判断が重要である.統計では, 1987年から91年にかけて実質経済成長率が当初の政府見通しより大きくなっており,労働の需給状況についても失業率が政府見通しより小さくなっている.この統計は真実を反映しているが,それを成長率が高すぎると読むか,好ましい成長率の中で労働力が不足していると読むかは哲学的判断による.一方今回の景気上昇の中で,恐れていたインフレ・狂乱物価が統計に現れなかったのは何故か,という疑問が出されていて,経済学者が解答を出せないという局面があった.しかしよく考えてみると,それは地価の上昇が物価指数に含まれていなかったためで,表面下では大変激しい物価上昇が起きていたのである.これは経済学的判断の盲点であった.