著者
水野 浩二
出版者
日本哲学会
雑誌
哲学 (ISSN:03873358)
巻号頁・発行日
vol.1982, no.32, pp.94-103, 1982-05-01 (Released:2009-07-23)

デカルトは、「第三省察」及び「第六省察」のなかで、イデア (idea,idée) についての或る理論を提出している。それは、一般に、「表現的観念 (idées représentatives) 」の理論と呼ばれているものである。その理論によれば、「観念」は、私自身を、物体的事物を、神を、表現する。更には、天使を、動物を、私と同類の他の人間を、表現する (AT. VII, pp. 42-43.Alq. II, p. 441)。デカルトにとっては、我々が志向している対象そのもののなかにあると思われるものは、観念そのもののなかに、対象志向的に (objectivement)、すなわち表現によって (par représentation) ある、と言える。デカルトは、対象志向的・表現的「観念」(意識内容)から出発して、実在的・現実的世界を捉えようとする。それがデカルトの方法であった。超感性的原型としてのプラトンのイデアは、デカルトに至り、人間の意識内容として捉え返された。今や、内なる「観念」と、外界の事物との関係が問題となる。デカルトは、ジビーフ宛の書簡において、「私は、私の内部にある観念を介して以外に、私の外部にあるものについてのいかなる認識をも持ち得ない」と述べている。ところで、問題は、「観念」が事物を表現することができるか否か、という点にあるように思われる。というのも、もし、「観念」が事物を表現することができないのなら、内なる「観念」から出発して、外界に向かおうとするデカルトの方法は挫折せざるを得なくなるから。さて、デカルトの論駁者のひとりのガッサンディ (P. Gassendi) は、「観念」の表現的性格を否定する.そのことは.ガッサンディがデカルトの方法を根底から覆していることを意味する。本稿では、こうした、デカルトの「観念」をめぐるガッサンディの批判を吟味することを、課題とする。ガッサンディのデカルト批判を検討することは、単にガッサンディ自身の哲学を解明することになるばかりか、デカルトの基本的立場を再確認させてくれることにもなり、更には、十七世紀後半以降の哲学史の流れに対するひとつの見取り図をも提供してくれることになる、と思われる。
著者
石毛 弓 Yumi ISHIGE
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
no.16, pp.1-14, 2015

さまざまな哲学者たちが人格の同一性に関する論を展開しているが、なかでもデレク・パーフィットは彼独特の一種ラディカルな見解を示している。それを端的に示せば、「人格の同一性は、私たちの生存にとってもっとも重要なものではない」になるだろう。この見解は彼自身が認めている通り、一般的な経験からすると受け入れることが難しいものである。本論は彼がこの見解に至った過程を考察するとともに、その妥当性を功利主義の観点から検討する。まずパーフィットにおける人格の同一性の概念を、彼の論に沿って「非還元主義」と「還元主義」に分けて解説する。非還元主義とは、人格はなにかによって説明され得るものではなく、それそのものとしか表しようがないとする考えを指す。他方、還元主義では、人格の同一性はなんらかの経験的なものによって説明され得るとみなされ、彼自身の考えは大きくくくればこちらに与する。人格の概念に対してパーフィット流の還元主義を選択した場合とそうでない場合では、私たちの思考や態度は変化するだろう。後半ではこの変化をとくに功利主義の観点から追い、人格に対する彼の主張を検証する。
著者
碇 陽子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学
巻号頁・発行日
vol.80, no.4, pp.513-533, 2016

本稿の目的は、アメリカを中心に展開する肥満差別の廃絶を訴えるファット・アクセプタンス 運動の実践を、哲学者ネルソン・グッドマンの世界制作論に依拠しながら、〈世界〉の制作として記述することである。 ファット・アクセプタンス運動は、公民権運動が盛り上がりを見せる時期のアメリカで1969年 に誕生した。しかし、これまで肥満差別は、人種差別やジェンダー差別などに比べ、廃絶すべき差別として捉えられてこなかった。なぜなら、体重やサイズをあらわす「ファット」カテゴリーは、「公民権法」が擁護する「人種」や「性別」などの公民権カテゴリーと比べ、「本質的」なカテゴリーではないと考えられてきたからだ。 ところが、1980年代後半から、アメリカでは肥満者の急増が社会問題化された。肥満は、病気を引き起こすリスク要因として公衆衛生の予防介入政策の対象となり、健康を自己管理し病気を 予防することは個人の「義務」となりつつある。本稿では、こうした時代を、一方で、不確実性の忌避やリスク管理を志向しながらも、他方では、未来は完全に管理できないという矛盾した事実に直面しながら生きなければならない時代と位置付けた。そして、こうした時代状況で、運動参加者が、肥満を病理化する医学的疫学的な知に対抗し、「ファット」カテゴリーが属する新たな知の体系を再構築していく実践を、対抗的な〈世界〉の制作として描写した。 描写を通じて明らかにされたのは、対抗的な二つの世界は、隔絶しているように見えて、むしろ、近接しているのではないかということである。その近さゆえに、ファット・アクセプタンス運動の人々は、二つの世界をどちらも不完全なまま部分的に通約(不)可能な存在として生きなければならない。この考察から、結論では、文化相対主義を再考し、あらゆる視点から離れた世界はないという「徹底した相対主義」から世界を理解することの意義が明らかになった。
著者
吉田 敬介
出版者
学習院大学
雑誌
学習院大学人文科学論集 (ISSN:09190791)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.1-30, 2009

Was war die „neue Philosophie" bei Kierkegaard? Ich möchte im vorliegenden Aufsatz diese Frage untersuchen. In seiner Schrift der Begriff Angst (1844) unterschied er zwischen der „ersten Philosophie" (pr√th filosofºa) und der „zweiten Philosophie" (secunda philosophia). Jene ursprünglich von Aristoteles so genannte „erste" Philosophie, der Hegel weitgehend folgte, lässt sich wesentlich „Immanenz" und die „Erinnerung" kennzeichen. In der neueren, von Kierkegaard begonnenen „zweiten" Philosophie handelt es sich dagegen wesentlich um „Transzendenz" und „Wiederholung". In der ersten Hälfte des 20. Jahrhunderts haben nicht wenige Philosophen, wie etwa Jaspers oder Heidegger, aus ihren eigenen Kontexten jeweils positiv Kierkegaards „neue Philosophie" aufgenommen und interpretiert. Sowohl Jaspers als auch Heidegger waren nämlich der Meinung, Kierkegaard habe zum ersten Mal, im Unterschied zum Begriff des „Wesens" (essentia), den Begriff der „Existenz" (existentia) als solchen herausgestellt. Gibt es aber, so fragen wir, noch eine andere Interpretationsmöglichkeit, durch welche wir, weder aus der Jaspers'schen noch aus der Heidegger'schen Perspektive, sondern vielmehr aus Kierkegaards ganz eigener Perspektive, seinem „Existenz"-Begriff eine ihm eigentümliche Bedeutung entnehmen könnten? Wenn man sich auf die Tatsache beruft, dass das einzige Ziel von Kierkegaards philosophischen Anstrengungen darin lag, ein »wahrer Christ« zu werden und dass die ihn überzeugende Wahrheit ausschliesslich im christlichen Glauben zu finden war, dann wird der Charakter seiner Philosophie klarer und deutlicher. Seine „zweite Philosophie" soll uns zeigen, dass die Existenz des einzelnen Menschen gegenüber der „absoluten Transzendenz" bloss ein absolut negatives Motiv ist und dass der einzelne Mensch deshalb durch „Bewegung" oder „Wiederholung" ständig zur Wahrheit streben muss. Der Glaube zielt auf etwas jenseits der menschlichen Gedankens hin. In diesem Paradox kann der Einzelne es wagen, das »Verschwinden der Existenz« zu bestreben. Der Mensch als ein zeitlich Seiendes kann aber diese Wahrheit nicht spekulativ begreifen. Die Philosophie für die endlichen Menschen kann von einer solchen Wahrheit nicht mit einer Objektivität reden. Diese Philosophie verlangt also, dass der einzelne Mensch in seiner Existenz gerade mit seiner Subjektivität auf die Wahrheit zustreben soll. Seine Philosophie kann nicht mehr als eine Veranlassung zur Wahrheit in jedem Augenblick sein. Die Philosophie als „Veranlassung" kann nicht als ein geschlossenes System konstruiert, sondern lediglich als „Brocken (Smuler)" gekennzeichnet werden. Sie kann also nur „Philosophie zur Veranlassung", „unbestimmte Bestimmung" oder „unwissenschaftliche Wissenschaft" genannt werden. Die »zweite Philosophie« bei Kierkegaard ist nichts anderes als die „Philosophie als Brocken".
著者
佐藤 幸三
出版者
筑波大学哲学・思想学会
雑誌
哲学・思想論叢 (ISSN:02873702)
巻号頁・発行日
no.20, pp.63-72, 2002-01-31

フッサール現象学は初め直感の普遍的な妥当基礎づけを問題にした。そして、不明瞭な所与を明瞭にする方法論的な根拠づけを論じた。しかし、後に構成作用に時間概念が導入されるに至って、現象がどのように発生するかが問われることになる。 ...