著者
布施 伸生
出版者
京都大学哲学論叢刊行会
雑誌
哲学論叢 (ISSN:0914143X)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.48-58, 1991-09-01
著者
Saito Akira
出版者
東京大学大学院人文社会系研究科・文学部インド哲学仏教学研究室
雑誌
インド哲学仏教学研究 (ISSN:09197907)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.13-22, 2011-03-31

初期サーンキヤ派が導入した学説の一つにpratibimba(影像)説がある。この学説は、原質(prakṛti)と純粋精神(puruṣa)との二元論に立脚する同学派にとって、いかにして、原質由来の非精神的な知性(buddhi)等が知覚という精神的ともいえる行為をなし、他方また、行為主体でないと規定された純粋精神が対象を知覚しその結果を享受する行為をなしうるのか、という根本問題への回答という文脈において導入された。じっさい同学派において純粋精神は、行為主体でなく、変化することがなく、遍在すると規定される一方、見る者、知る者、結果を享受する者等と伝統的に特徴づけられている。// サーンキヤ派のpratibimba 説については従来の研究も少なくない。『中観心論』Madhyamakahṛdayakārikā およびその注釈『論理炎論』Tarkajvālā を通して、バヴィヤによる同学説批判を論じた研究も複数ある。しかしながら、これらはいずれも『中観心論』のサンスクリット語写本の公開と本格的な校訂研究以前の成果であり、同写本とその校訂作業を基礎にした本論題に関する再検証が待たれていた。一方また、同派のpratibimba説は、イーシュヴァラクリシュナ(4–5世紀)作『サーンキヤ・カ-リカー』には見られず、伝説では第二祖のアースリ頌に帰せられるという。しかしながら、じっさいに同偈頌が引用されるのは、後代のヴァイシェーシカ派やジャイナ教徒等の手になる論典あるいは注釈文献であり、そのテキストと解釈についても今なお問題を残している。// このような意味で、『中観心論』およびその注釈『論理炎論』の第6 章「サーンキヤ派の真実[説への批判的]入門」は、サーンキヤ派による最初期のpratibimba 説を伝える資料としてきわめて重要である。本稿では、総計65偈からなる同章の中から、pratibimba 説の前主張を示す第2偈、および後主張にあたる第22,23両偈を、それぞれに対するバヴィヤの注釈内容とともに分析する。これと併せ、『中観心論』第3章「真実知の探求」第53偈と同偈に対する注釈を手掛かりとして考察し、以下のような結論を得た。// (1) バヴィヤが紹介するサーンキヤ派のpratibimba 説によれば、純粋精神は、その上に月の影像などが映し出される静かな水に喩えられる。すなわち、影像を映す水に喩えられるのは知性(buddhi)ではなく純粋精神(puruṣa)である。// (2) したがって、このばあい静かな水に喩えられる純粋精神は、知性によって確認された知覚対象を間接的に映し出すのであり、あたかもその映像の前後において水自体に変化がないように、純粋精神そのものに変化はないとサーンキヤ派は主張する。// (3) 以上のような前主張に対して、pratibimba 説は「他のものを生じる原因とはならない」「変化しない」等といわれる純粋精神の特質に矛盾する、とバヴィヤは批判する。// (4) バヴィヤはまた、初期のサーンキヤ派には、純粋精神が知性に似てはたらくことの理由を、pratibimba 説とならび、純粋精神の変異(pariṇāma)によると説く学説があったことを紹介する。この学説に対してバヴィヤは、精神性、非原因、遍在性という純粋精神本来の特質との矛盾を指摘して批判を加える。
著者
中村 了昭
出版者
密教研究会
雑誌
密教文化 (ISSN:02869837)
巻号頁・発行日
vol.1962, no.58, pp.53-70, 1962-02-20 (Released:2010-03-12)
著者
Hina Atsuhiro
出版者
東京大学大学院ドイツ語ドイツ文学研究会
雑誌
詩・言語 (ISSN:09120041)
巻号頁・発行日
vol.76, pp.31-42, 2012-03

本稿は東京大学ドイツ文学研究室で2011年6月30日に行われたドクター・コロキウムの発表原稿に加筆したものである。今回は1990年代のドイツ語詩を代表する詩人トーマス・クリング(1957-2005)の「ミューラウ,†」を取り上げた。この詩が1925年にブレンナーによって行われたゲオルク・トラークルの遺体(かれは1914年にクラカウの野戦病院で死亡し、その土地に埋葬されていた)のミューラウ墓地への輸送をテーマにしていることを実証しつつ、それを現代詩特有の複雑な統語法に支配された当作品を解読するための<鍵>であると考えた。さらに作品の目的が、単にトラークルの埋葬という歴史的事象を言語の中へと写しとることにではなく、その<音>による再構成をとおして同時的に、異なった歴史的事象へと意味内容をシフトさせることにこそあると考えた。ここで筆者は、哲学者ミシェル・フーコーの講演「異なった諸空間 (Andere Räume)」とそこで提起される<ヘテロトピア>という概念を積極的に参照し、詩という場所を舞台にした諸イメージの往来をクリングの詩学として定立せんと試みた。(本文ドイツ語)
著者
近藤 隼人
出版者
東京大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2009

本年度は、イーシュヴァラクリシュナ(4-5c)著『サーンキヤ頒』(Samkhyakarika,SK)に対する注釈書『論理の灯火』(Yuktidipika,YD)(ca.680-720)における認識論解明の総仕上げとして、正しい認識手段(pramana)の一つ<信頼できることば>(aptavacana)に焦点を当てた。この<信頼できることば>はSK第5偈にて"aptasruti"と換言されるが、YDはその"aptasruti"に対して三種の複合語解釈を示す。第一は、人為でないヴェーダを<信頼できることば>に含める解釈、第二は、ヴェーダ以外の人間の手に成る聖典や教養文化人(sista)など世間的な人物の言明を含める解釈、第三は、一語残留規則(ekasesa)を用いて上記二解釈を折衷する解釈をとっていた。SK第2偈で示されるように、サーンキヤはバラモン正統哲学の一派としては例外的にヴェーダ供儀に対して懐疑的な姿勢を示しているが,YDはそのような純粋な意味では正統派とは呼びがたいサーンキヤの伝統から踵を返し、<信頼できることば>に対してSKが与える定義的特質はヴェーダも含意しうることを理論的に示すことによって他の正統哲学諸派との折り合いをつけようとしたことが、この複合語解釈から窺知される。その姿勢を裏付けるためにも、YDがaptaをいかに位置づけているのかを検討した。この問題はヴェーダの非人為性,すなわちaptaは「信頼できる」という形容詞として解釈すべきか、「信頼できる人」として解釈すべきか、という議論とも密接に関連する。形容詞の場合には上記第一解釈、「人」の場合には上記第二解釈に相当する。YDにおけるaptaおよびaptavacanaの位置づけをすべて検討した結果、YDにおける本来的なaptaの用法としては、「信頼できる人」、とりわけ世間的に信頼できる人物を念頭におき、日常生活を営む上での試金石ともいうべき位置づけを与えていたものと結論づけた。本研究のこの成果は、仏教思想学会(於東洋大学)、日本印度学仏教学会(於龍谷大学)、インド思想史学会(於京都大学)にて口頭発表し、論文としても発表した。
著者
綿内 真由美 ワタウチ マユミ Mayumi Watauchi
出版者
千葉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
千葉大学人文社会科学研究科研究プロジェクト報告書 (ISSN:18817165)
巻号頁・発行日
vol.255, pp.99-114, 2013-02-28

千葉大学大学院人文社会科学研究科研究プロジェクト報告書第255集『子どものための哲学教育研究』山田圭一 編"Studies of Philosophical Education for Children" Report on the Research Projects No.255
著者
松岡 誠
出版者
創価大学
雑誌
創価法学 (ISSN:03883019)
巻号頁・発行日
vol.35, no.1, pp.95-113, 2005-09
著者
森川 亮
出版者
日経BP社
雑誌
日経コンピュータ (ISSN:02854619)
巻号頁・発行日
no.851, pp.40-43, 2014-01-09

スマートフォン向けの通話・メッセージアプリ「LINE」が猛烈なスピードでユーザーを増やしている。飛ぶ鳥を落とす勢いのLINE 森川亮社長にスピード重視、ユーザー目線の経営哲学を語ってもらった。──LINEの登録ユーザーが2013年11月に世界で3億人を突破しました…

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著者
碧海純一 著
出版者
弘文堂
巻号頁・発行日
1964
著者
斉藤 茜
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:18840051)
巻号頁・発行日
vol.62, no.3, pp.1139-1143, 2014-03-25

中世インドの言語哲学の発展は,文法学派が立てたスポータ理論をひとつの頂点とする.彼ら文法学派は,ことばを構成する最小のユニットとしてスポータ(sphota)を提唱した.その開顕に関して,我々はBhartrhari(5世紀)の著作Vakyapadiyaに最初の具体的な議論を見ることができる.Mandanamisra(8世紀初頭)はBhartrhariの思想を継承し,自身の著作Sphotasiddhi(SS)において,スポータ理論を完成させた.さて,SS最後1/4の部分で,対論者が音素論者(ミーマーンサー学派)から,音素無常論者(仏教)へ交代し,対論としてDharmakirti著作Pramanavarttika及びその自注(Svavrtti)(PVS)が,度々引用されるようになる(1章 Apauruseyacinta『非人為性の考察』).Mandanaが引用する対論の主張(pp.210-234)はPVS当該箇所の要約といってよい.本論文では,対論の内容をDharmakirti, Mandana,両者の視点から整理し,互いに異なる思想の中で,それぞれの特徴及び対立点を明らかにすることを試みる.仏教側の議論は,主として語を発信する側と受信する側の「意識」の問題に重きが置かれるが,話し手の側の意識の因果関係と,聞き手の側の意識の因果関係はPVSにおいて分けて記述されるため,両者の接続が妥当かどうかが議論の焦点となる.一方Mandanaの論駁においては「話者の同一性」の検証が重視され,これに関連して,普遍を有さない完全に個別的な音素が,どうやって話し手と聞き手の間で共有されるのか,という問いが対論に対して投げられる.
著者
高橋 紀穂
出版者
太成学院大学
雑誌
太成学院大学紀要 (ISSN:13490966)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.167-175, 2014-03

本稿の目的は,意識のエネルギーと生産的労働によってもたらされるエネルギーを同一の地平で考えるジョルジュ・バタイユの思考を明確化することにある。議論は以下の手続きによって進められる。まず,バタイユの労働概念を,次に,彼の労働と言語との関係の思考を見る。続いて,彼が,ヘーゲル哲学の分析の中で,労働と言語的意識の両者を,エネルギー論というひとつの視点から捉えたことを示す。その後,その正当性をデリダの言語論から考える。そして,彼が思考した消費の倫理を示す。最後は,バタイユが現代のわれわれにもとめた「自覚」について考える。
著者
藤沼 司
出版者
日本マネジメント学会
雑誌
日本経営教育学会全国研究大会研究報告集
巻号頁・発行日
no.54, pp.37-40, 2006-10-27

今日の「知識社会」への端緒を切り開いたF.W.ティラーの科学的管理は、また同時に「組織(中心)社会」の端緒を切り開くものでもあった。科学的に正当化された専門的知識に基づく管理という着想を核心とする科学的管理の進展は、<管理=組織原理の官僚制化>をもたらした。これにより「命令の非人格化」(個人の機能化)が可能となったが、それが「再人格化」(個人の再主体化)と両立(機能化即再主体化)するには、経営哲学が必要であるとM.P.フォレットは指摘する。今日、仕事を通じた自己実現や目標管理、脱官僚制化を指向する分権組織など、一見すると機能化即再主体化が果たされつつあるように見える。本報告では、こうした事態をどのように把握しうるか、フォレット経営思想を手がかりとして考察する。