著者
石塚 哉史 小泉 隆文
出版者
日本農村生活研究会
雑誌
農村生活研究 (ISSN:05495202)
巻号頁・発行日
vol.47, no.2, pp.31-36, 2003-03-01
被引用文献数
4

周知の通り、わが国の伝統食品は、食生活の多様化にともない消費率が停滞している。この傾向の要因として高度経済成長期以降に起きた社会生活の変化があげられる。とくに食生活面においては、女性の社会進出による家事の省力化にともなう調理時間の短縮、外食・中食産業の発展による「食の外部化」、「食の洋風化」の進展による若年層の和食離れなどが関係していると思われる。こうした状況は、伝統的な和食食材と位置づけられるこんにゃく製品においても例外ではない。こんにゃく製品は、煮物や鍋物等の食材として消費されていたが、「食の洋風化」、「食の外部依存度の上昇」による影響から、わが国のこんにゃく製品の消費は、1970年代以降は継続して停滞傾向を示している。また昨年(2001)は、BSE(牛海綿状脳症)の影響から、すき焼きの消費量が減少したため、糸こんにゃくの消費動向も同様な動向を示したといわれている。このようにこんにゃく産業を取り巻く環境は厳しいものになりつつあるが、こんにゃく製品に対する消費者の意識と行動に関しては、既存研究もあまり存在しておらず不明瞭な点が多い。そこで本報告は、1.最近のわが国におけるこんにゃく製品の消費動向、2.こんにゃくにたいする消費者意識の特徴、の2点を解明すること、を目的におこなった。
著者
別府 万寿博 三輪 幸治 大野 友則 塩見 昌紀
出版者
公益社団法人 土木学会
雑誌
土木学会論文集E (ISSN:18806066)
巻号頁・発行日
vol.63, no.1, pp.178-191, 2007 (Released:2007-03-20)
参考文献数
16
被引用文献数
4 3

本研究は,鋼製の剛飛翔体がコンクリート板に高速度で衝突した際に生じる局部破壊について検討を行ったものである.まず,高速衝突実験を行うために,質量50g~1000gの飛翔体が衝突速度約100~500m/sとなる性能を有する高圧空気式発射装置を開発した.次に,この装置を用いて普通および高強度コンクリート板に対する高速衝突実験を行い,飛翔体の衝突速度やコンクリート板の板厚・強度の相違が破壊に及ぼす影響を調べた.実験の結果,衝突速度および板厚の大小によってコンクリートの破壊モードが変化することが明らかとなった.また,表面破壊,裏面剥離の破壊プロセスを高速度ビデオカメラで可視化し,破壊の様子を観察するとともに,破壊が進展する際の条件について考察した.
著者
高橋 尚志 黒部 明 浅田 和雄
出版者
一般社団法人 日本高圧力技術協会
雑誌
圧力技術 (ISSN:03870154)
巻号頁・発行日
vol.30, no.4, pp.190-199, 1992-07-25 (Released:2010-08-05)
参考文献数
10

This paper describes an outline of computer simulation techniques for material failuers under a High Velocity Impact Phenomena.Basic equations are solved by finite difference method and material models are taken into onsideration of strain rate effect, thermal softning effect, Tillotson's state equation for thermodynanic effect and espcially Mescall's failure criteria.We are justified for this techniques that are very effective, becase we compared calculation results with experimental ones and confirmed that both are good fitable.
著者
木村 專太郎
出版者
医学書院
巻号頁・発行日
pp.1094-1098, 2012-11-25

まえがき この連載第42話(小誌45巻11号)で「お玉ヶ池種痘所を助けた2人の物語」として川路聖謨と濱口梧陵のことを書いた.先日,東京都文京区本郷の東京大学弥生門の近くにある日蓮宗大正寺(台東区池之端2-1-21)で聖謨の掃苔を行って来た.聖謨は五百石の旗本から抜擢されて,老中の下の位に位置する勘定奉行にまで出世し,蘭方医学がご法度であった当時の時勢にあって,蘭方医から依頼されたために,種痘所の嘆願書を聖謨自身の手で書いて幕府に提出した.かつ幕府拝領地である自分の屋敷を,お玉ヶ池種痘所に無償提供した行動は立派で勇気がある.これこそ快挙である.「川路聖謨」のことを新しい知見も取り入れて,再度書いてみたい.

2 0 0 0 OA 官報

著者
大蔵省印刷局 [編]
出版者
日本マイクロ写真
巻号頁・発行日
vol.1934年10月27日, 1934-10-27
著者
武末 祐子 タケマツ ユウコ TAKEMATSU YUKO
出版者
西南学院大学学術研究所
雑誌
西南学院大学フランス語フランス文学論集 (ISSN:02862409)
巻号頁・発行日
vol.57, pp.1-46, 2014-02

古代ローマのネロ皇帝の黄金宮に描かれていた装飾が、ルネサンスイタリアで発見されるやラファエロによってヴァチカン宮殿のロッジアに応用され(図1 )、そのロッジアがエカテリーナ2 世の望みでロシアのエルミタージュ宮殿に再現され(図2 )、19世紀のヨーロッパでは新古典主義建築様式に広く適用されるという歴史をたどるグロテスク装飾は、鉱物、植物、動物、人物が混じりあった形態の美しさ(あるいは奇異さ)を特徴とする。建物の壁や天井、窓枠などに描かれた(あるいは埋め尽くされたhorror vacui)模様である。このハイブリッドな幻想的世界を生み出す装飾に魅かれた18世紀イタリアの建築家・版画家がジョヴァンニ=バティスタ・ピラネージ(1720─1778)である。ルネサンスやクラシックという言葉が、過去に対して新しい目が向けられたときに誕生するように、グロテスクという言葉も、古代ギリシア・ローマからヨーロッパ中世へ何らかの形で伝えられている伝統的装飾を、別の目で発見し認識したときに現れた言葉である。古代ローマの帝政時代に発展した壁画装飾を、ルネサンスイタリアの芸術家たちが偶然に地下宮殿から発見し新しい目で観察し、15、16世紀の芸術に導入していったことは、周知のとおりである。グロテスク模様は建築や庭園、あるいはタペストリーなどに活用され、フィリップ・モレル1 が研究するようにヴァチカン宮殿、フィレンチェのウフィツィ宮殿、マントバのテ宮殿、ローマ郊外のティボリのエステ荘などイタリアでは、ルネサンスからマニエリスム時代にかけて隆盛を極める。バロック・ロココ時代にはより洗練されていく。グロテスク模様が、18世紀終わり頃から19世紀にかけて一般名称としてのアラベスク模様に包含され吸収されていくまで、グロテスク模様という言葉は使われ続ける。このような時代と環境に馴染みながらピラネージは、建築と装飾、そして版画制作に独創的な才能を発揮する芸術家である。ピラネージは、ローマの古代建築物や近代建築物を題材にした多くの版画を出版するが、アヴェンティーノの丘にたつプリオラート教会建築に携わる一方、廃墟を中心とした都市風景に関心を持ち、古代ローマの遺構に関する研究と分析を行い版画制作をした。したがって建築事業、遺跡の測量的(考古学的)考察、廃墟の風景版画出版までその活動範囲は広い。特に版画制作はピラネージが選んだ彼の才能に最も適した表現方法であった。グロテスク装飾とピラネージの関係は、あまり語られてこなかった。グロテスク模様の歴史を起源前1 世紀の古代ローマ帝政時代から始め、中世の写本装飾enlumineurs に言及し、19世紀のロートレックまでを射程にいれたアレッサンドラ・ザンペリーニの『グロテスク装飾』の中では、晩年のピラネージの暖炉装飾が新古典主義様式として取り上げられている。「ジョヴァンニ=バティスタ・ピラネージの美学論の重要性と特に根本的な貢献を過小評価することはできない。『グロッテスキ』とタイトルがつけられた彼のエッチング作品で、廃墟の偉大さの感情が優っているとしても、彼の後の作品、特に建築論と暖炉装飾芸術論Diverse Maniere d'adornare icamini は創作の独立性、開かれたシンタックスと複数の考古学的スタイルの混交の重要性を主張している。」3我々に興味深いと思えるのは、ピラネージの初期の作品に『グロッテスキ』と題された4 枚の版画作品があり、それと晩年の暖炉装飾作品では大きな違いがあることである。「ヴェネチアの建築家」と自称するピラネージはグロテスク装飾をどのように解釈したのであろうか。ネロ皇帝のドムス・アウレアで発見されたグロテスク模様が各国の宮殿建築に適用され洗練されていくのと並行し、再び古代ローマの廃墟から出発し、独自の表現を見出し、19世紀に橋渡したピラネージのグロテスク装飾解釈を検討したい。18世紀ローマの建築と廃墟の風景は、グランドツアーでローマへ旅行するイギリス人たち、アカデミーの芸術コンクールで優秀な成績を収めてやってくるフランス人の芸術家たち、フランドル、オランダ、ドイツなどからやってくる貴族や芸術家たちに広く好まれる。ピラネージはそのようなイタリアブームのただなかにいた。ピラネージと関係を持った、あるいは影響を受けた芸術家、批評家、文筆家は数多い。フランス人画家ユベール・ロベール、クレリッソー、フラゴナールを始め、シャール、ド・マシー、ドラフォース、ルジェなど1976年に刊行された『ピラネージとフランス人たち』4 には多くの18世紀芸術家たちとピラネージとの関係が研究されている。また、18世紀の古代ギリシア・ローマ建築様式論争においては、『建築試論』(1753)のマルク・アントワーヌ・ロージエ、『ギリシア美術模倣論』(1755)のヴィンケルマン、『ギリシア最美の古代建築の廃墟』(1758)のジュリアン・ダヴィド・ルロワなどのギリシア建築擁護派に対して、ローマ建築の熱烈な擁護者としてピラネージは論争の渦中にいたこともよく知られている。イギリスにおいてピラネージは、最も影響力をもった。1757年、37歳の頃、ロンドン王立古物研究家協会(のちの考古学協会)の名誉会員になる。ジョン・フラックスマン、ホラス・ウォルポール、ウィリアム・チェンバーズ、ロバート・ミルン、ジョージ・ダンス、ロバート・アダム、ジョン・ソーンなど直接的間接的に影響を受けた人は数知れない。ピラネージ作品の集大成ともいえる『古代ローマのカンプス・マルティウス』(1762)はイギリスの建築家ロバート・アダムに献呈されている。ピラネージは、建築、庭園、風景画、廃墟画、版画、装飾の分野で知られ、後にはフランスロマン主義文学作家たちにおいてもジョルジュ・プーレやリュツィウス・ケラーによってその影響が研究される。作家マルグリット・ユルスナールの『ピラネージの黒い脳髄』は20世紀においてもピラネージへの関心の高さを示す。ピラネージの作品のいったい何が時代を超え、分野を超えて共鳴を呼ぶのであろうか。ヴェネチア生まれのピラネージは故郷に戻らず、ローマで生涯を送ることになるが、彼を引きつけたものは、その作品からも明らかなように、古代ローマの廃墟である。この廃墟をモチーフにして、ピラネージがグロテスク模様をどのように捉えたのかを、まず彼の作品『グロッテスキ』に探り、彼が舞台芸術から学んだこと、彼が追求した美的効果について、そして暖炉のグロテスク装飾の4 つの視点から考察していきたい。
著者
周藤 利一 越澤 明
出版者
公益社団法人 日本都市計画学会
雑誌
都市計画論文集 (ISSN:09160647)
巻号頁・発行日
vol.39.2, pp.95-104, 2004-10-25 (Released:2017-08-02)
参考文献数
33

本研究は、大韓民国の開発制限区域 (グリーンベルト ) 制度の歴史及び効果を取り扱っている。韓国のグリーンベルトは、日本と英国の制度に倣って導入された経緯があるが、土地利用や建築行為に対して何ら補償なしに極めて厳格な規制を課すなどの特徴を有する。本研究は、既往研究や既存資料に加えて未公開資料や関係者の証言などに基づき、日本の制度との関係を考察するとともに、韓国のグリーンベルトの歴史、現状及び課題を分析し、政策決定及び都市計画の観点からみた制度の効果を検証する。