せん (@senryusai)

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https://t.co/mscLiIA5VM 森川洋(2020)「北海道における年齢階級別人口移動」。 「札幌市の成長は特に著しいわけではないが、その卓越性は強化されており、道内主要都市との階層的格差を一層強めているといえる」
https://t.co/8O6sZpjZzA 森川洋(2020)「東北地方における年齢階級別人口移動」。 ​仙台市は「岡山市の関係圏と同じ程度の圏域しかもたない広島市よりもはるかに関係圏が広く活力がある」「東京に近い福島県の都市では東京特別区との関係が緊密な市町村が多く、仙台市との関係は弱いようにみえる。
https://t.co/r4iadlaSPq 井上史雄,半沢康,山下暁美(2023)「『お父さん』の呼称接辞の記憶時間と実時間 : グロットグラムデータと数値化による2極化」。
https://t.co/dkpf9Pz2Kx 山田里奈(2022)「近世後期江戸語から明治期東京語における『動詞連用形+ます』の使用」。
https://t.co/THjNJmQCnD 矢島正浩(2022)『『上方はなし』に描かれる文法―原因理由辞を指標として―』。
https://t.co/Sos5PuJKKK 大場修(2001)「平入指向の町家形成 近世町家の在来形式と新興形式 前編」。 平入と妻入の全国的な分布についても言及されてる。近畿地方で言及されている妻入の分布は、伊勢の河崎、市場庄。西宮市の生瀬。篠山、園部。湖北の木之本。泉南の信達市場、山中渓など。
https://t.co/CEfvrZ2jSl 光井渉(2007)「書評 大場修著『近世近代 町家建築史論』」。
RT @shimoda_yuma: 拙稿「幕末における薩長軍事構想の再検討―「討幕」の意味に注目して―」(『法政大学大学院紀要』第89号、2022年)は法政大学学術機関リポジトリで公開されています。修士論文の第4章にあたります。良かったら御覧ください。よろしくお願い致します!…
https://t.co/9AKUnsSCQw 小林博(1968)「滋賀県における京都の影響圏」。 大正〜昭和初期の滋賀県各地からの人口移動も載ってる。京都への指向は全県的に見られるが、特に湖西、湖南に顕著。全地点で京都>大阪ではなく、大阪>京都の地点も意外に多いと思た。
https://t.co/i3wdBnf7yG 近畿都市学会編(1968)『近畿圏整備と都市 : 中沢誠一郎先生古稀記念都市論文集』。 「滋賀県における大都市勢力圏の交錯」など。
https://t.co/tbMT9ph6M8 竹中竜雄(1960)『大都市と公益事業』。 当時の話が興味深い。
https://t.co/jXCyw63bLG 中井精一(2022)「岸江信介・中井精一編『地図で読み解く関西のことば』」。 書籍紹介。「地域方言の変容や衰退は、今世紀に入りより顕著な姿を見せる」「大阪や京都を中心とした地域の方言は、長い歴史に裏打ちされなお存在感を示しているが、その衰退は否めない」。
https://t.co/nwLMUC5M06 森勇太(2022)「近世後期洒落本から見た敬語の地域差」 全2ページ。上方と江戸の地域差について言及されている。
https://t.co/m648otavFq 木下順二(1976)「方言を語る  標準語の消しゴムが美しい言葉を消している」。 「ぼくは小学校の上級まで本郷で育って、親に九州・熊本へつれていかれたのです。現地の小学校はもちろん熊本弁しゃべっているわけで、いわゆる標準語のぼくは非常にいじめられた。

1 0 0 0 映画評論

https://t.co/HWwECWOuua 「今日では地域々々でははっきりと区別出来る程ではなく混乱しており、とくにいわゆる純粋の船場言葉などは余りきかれなくなった。もともと船場が大阪のどこを指すのか知らない大阪人すら多いのだから致し方もないことである」。 大阪方言の地域差について。

1 0 0 0 映画評論

https://t.co/bNj5ESDGXL 吉村公三郎(1964)「映画監督の仕事(25)シナリオに浮いて(8)」。 「戦後日本の多くの都会がその個性を失い、京都のような戦災を受けなかったまちが、異国的な雰囲気さえ感じられる程になった」。 京都都心で町家の減少が進んだのは1960年代以降やったかな。

1 0 0 0 夢声自伝

https://t.co/LsAlv6JF4W 徳川夢声(1962)『夢声自伝 [第3] (昭和篇 第1)』より「ラジオというものが、関西の人々に東京弁を聞きなれさせる作用をしたこともあろう。逆にそれが、東京の人々に関西弁を馴染ませる作用もした」。
https://t.co/pgNx6YkLI6 田代晃二(1959)『日本語アクセント教本』。 「その当時はラジオなんてものもなかったし、本に書いている言葉しかなかったものですから、東京弁や標準語を話す機会もないし、東京へ勉強に出ている人がたまに帰ってきて話す東京弁をきいてびっくりしたものです。

4 0 0 0 経済人

https://t.co/zjMJqo19C7 吉田久博(1960)「四カ所の故郷」。 「私などは何と言つても大阪人であり、船場のボンの一人である。ただし、生家は商人ではなく、医家だつたから、私は自分のことを、『ワテ』とは、よう言わぬ」「大阪出身のインテリは、概して国語読本にあるような
https://t.co/G3cgDmGYPL 安田武,高橋和巳(1968)『ふたたび人間を問う』。 高橋和巳「罵りことばとか激語にだけ大阪弁が出てくるのはどういうわけかということで、詰問されたことがあるんです。それはある意味であたりまえであって、ぼく自身は野坂昭如が地のことば自体にも大阪弁を

1 0 0 0 ホトトギス

https://t.co/WqQk2EzRFc 勝本清一郎(1920)「京の宿」。 「『もう私達の言葉も純粋の京都言葉ぢやなくなつているんですよ、祇園あたりのお茶屋の人などの言葉をお聞きになると本当の京都の言葉が分かりますんですよ』と女の人は東京語でつづけた」。

3 0 0 0 現代敬語法

https://t.co/ChQYa3o3pC 「現代の標準語としては『様』が『さん』よりも高い敬称であると感じているのが普通である。故に高官に対しては普通に『様』と申し上げる。但、昔の女房言葉(それは同時に京都語である)の伝統を引く特殊の方面では、右の『様』と『さん』の区別を立てず、

3 0 0 0 現代敬語法

https://t.co/4jkb42pEPp 三宅武郎(1944)『現代敬語法』。 「京都言葉では『さん』の外に『さま』といふ敬称がないところから、上は『天子さん』より下は一般の『さん』に至るまで、すベて『さん』である。明治維新史に有名な『宮さん宮さん』の歌の『さん』も、

1 0 0 0 倚松庵随筆

https://t.co/qZUHfSklZY 「阪神地方で面白いのは、旧大阪市の延長としてさう云ふ町家の習慣が行はれている一方に、昔からあるあの辺の田舎の行事が今も見られることである」。

1 0 0 0 倚松庵随筆

https://t.co/YUvBI52Di5 「私は東京のあの『遊ばせ』言葉と云ふものが分けても嫌ひだ」「大阪で気持ちのいいことは、どんな上流階級でもあれを殆ど聞かないことである。たまに使ふ者があれば、それは東京からの移住者か、東京かぶれした学校の先生くらいである」。

1 0 0 0 倚松庵随筆

https://t.co/urniokfxYj 谷崎潤一郎(1932)『倚松庵随筆』。 「昔から『京大阪』とは云ふものの、『京都は大阪の妾である』と云ふ言葉もあるやうに、真に東京に拮抗する実力を持つた大都会は大阪以外にないのであるから、何と云つても大阪が目の敵にされる訳である」
https://t.co/y7iGr9VVEb 岡倉由三郎(1903)『応用言語学十回講話』。 「大阪や京都の如く、東京よりも古くから大都会であり、現在も東京と肩を比べている立派な大都会で用いている言葉は、矢張り東京語と同じだけの資格を以て、標準語となるべきものではあるまいか。
https://t.co/W6MRKEppX9 小沢朝江, 波多野純, 黒津高行, 須田英一, 野口健治, 石丸悠介(2007)「南関東・東海・中部地方における土蔵造町屋の普及実態とその背景」。 https://t.co/Zw6acF4Uum 小島彩乃 , 衣笠聡 , 山﨑正史(2010)「塗屋造町屋の外観分類とその分布に関する研究」。
https://t.co/W6MRKEppX9 小沢朝江, 波多野純, 黒津高行, 須田英一, 野口健治, 石丸悠介(2007)「南関東・東海・中部地方における土蔵造町屋の普及実態とその背景」。 https://t.co/Zw6acF4Uum 小島彩乃 , 衣笠聡 , 山﨑正史(2010)「塗屋造町屋の外観分類とその分布に関する研究」。

1 0 0 0 書物展望

https://t.co/8cKxjF8V1w 織田一磨(1941)「石版随筆」。 「私は大阪へ着いた翌日、一人で心斎橋を渡つて、北の方へ散歩しました。石原時計店の時計台を眺めて、東京をなつかしく思つたことを忘れません。何しろ当時の大阪は風俗がまつたく徳川時代そのままに近く、
https://t.co/xTR2HKgysw 東條操(1934)「現代方言文学」。 「例外となるのは東京や京阪の方言で、三都の言葉は世間にかなり知られて丈に、その辺の斟酌をせず自由に書いても読者があまり困ることはない」「江戸方言や大阪方言、京方言で書かれた文学は昔からある」。
https://t.co/0hLd4RQnnQ 井上史雄,半沢康(2022)「方言の地域差から年齢差へ」。 「ほぼ戦時中生まれの人が、ことばの入れ替わりの境目」「1940年代生まれ以降の人に急速に共通語化があった」。一方でアクセント、文法の共通語化は遅れたとある。
https://t.co/FRWzlAQLEw 安井寿枝(2022)「高浜虚子の三作品からみる方言意識 : 京都・奈良 ・大阪の差異について」。 丁寧断定のデスは20世紀初頭の京都市、大阪市にあったから、たしかに無かったわけではないな。大阪市は口語法調査報告書でデスを報告してへんけど(西成郡は報告あり)、
https://t.co/FA1PDfCJ3k 依田新,日高六郎,木原健太郎編(1965)『講座マス・コミュニケーションと教育 第3巻』。 方言の話がされている。

1 0 0 0 文化庁月報

https://t.co/Dsq9dLecdh 「座談会ー現代の国語をめぐる諸問題」(1992)。 菅野謙「ラジオですと聞いていてちんぷんかんぷんだから、幼児は聞かないんです。ところが、テレビの場合には画面だけ見ていてもおもしろい。場面つきで言葉が出てきますから、そちらの言葉を覚えてしまう」
https://t.co/8Xyp7SZt84 石田甚太郎(1984)『ヤマトンチュの沖縄日記』。 「当時、大阪の四貫島には沖縄出身者や朝鮮人が多く住んでいた。求人募集の広告に『人夫入用。但し琉球人と朝鮮人はお断り』という差別がどうどうとまかりとおる時代だった」

1 0 0 0 OA 国語の講習

https://t.co/gqkz86Dxrg 八波則吉(1928)「国語の講習 第3」。 「吾々は標準語で国語を統一することを期せなければならない」「僕は朝鮮へ行つても、台湾へ行つても、朝鮮語や台湾語は今では日本語の中の方言だ、早く矯正しなければいけないと言つている」。

1 0 0 0 OA 日本の言葉

https://t.co/2DRQJ3Og6n 新村出(1905)「足利時代の言語に就いて」。 「此地理的の分布と云ふ者は、現在の言葉遣を横に調べ、歴史的変遷の方は過去に就いて縦に調べるのであるやうに極ツて居る様でございますけれども、凡て事実が起ツて来るのは或一定の場所に起ツて来る」

1 0 0 0 難波大阪

https://t.co/Pqy2wSVFUg 講談社出版研究所編(1975)『難波大阪』。 「大阪も変った。というより、変わりすぎてしまった」。方言の話は以下か。 「古い大阪弁の良さは忘れられがちで、標準語化されて来たともいえそうだ。つい先日も、私はとある老女が『せんぐり』という形容詞句を使うのを聴いて、
https://t.co/3kHUtejgK1 山谷規代美(1995)「広島方言の社会言語学的研究」。 「各地域毎、多くの場合において、高年層になるほど善くも悪くも明確な方言意識が持たれている」。 90年代の別の地域の調査でもこういうこと書かれてたな。
https://t.co/6IlRdStxih 柳田國男(1934)「村荘閑話」。 「自分等の寄宿舎時代には、最も異色に富んだ国の言葉を、丸出しに使つたのは愛知県の学生であつた」「彼等には二種を使い分ける練習が無いと共に、又その言葉はかはつて居るといふのみで、九州奥羽の端の言葉のやうに、
https://t.co/R6gkRMIPvq 柳田國男(1935)『新語論』。 「中部平野の鉄道沿線、諸国来住の目まぐろしい大都市周囲の村などの、所謂標準語化の徹底した土地では、時によつては以前私などの方言と謂つて居たものを、一言も載せない方言集さへ出て居るのである」

1 0 0 0 随筆京都

https://t.co/AL3idiO6pA 清原貞雄(1941)「京都の郊外」。 「最も京都らしい感じを受ける事があり、而も昔京都在住の時に受けた印象が其のまま蘇つて来るものがある。それは京都の郊外、特に農村の風貌である」「大都会に直ぐに接続する郊外としては京都のそれには他には全く

1 0 0 0 洛味

https://t.co/Ms7AtHh713 井手成三(1956)「京都の周辺」。 「京都は京都人が中心で、また集まつて来ている人達も丹波、丹後、但馬、南山城、近江、若狭の出身者が圧倒的に多い。これらの地区は永い間、京都文化と京都風習を伝受し、之に育くまれている」

1 0 0 0 小説公園

https://t.co/57GXxeSq7E 宇井無愁(1953)『大阪の体臭』。 「大阪の体臭は失われた。あるいは現に失われつつある。三百年の古い歴史がしみついた都市の匂いはそう容易に失せるものではないはずだが、時代の変動はあまりにもはげしかつたのだ」という話。
https://t.co/wNAdi8r5uX 長谷川幸延(1974)「昨今、大阪の女」。 「大阪ことばも、まるで変った。若い女性たちが、戎橋筋などのパーラーで話しているのを聴いても、ブロークンというのではなく、訛りの少い、標準語に近い、その代り潤いのないものになっている」
https://t.co/wJUXM6xatZ 上甲幹一(1953)『標準語の学習指導法』。 「東京以外の地域では、大まかにいえば改まった社会的な言語生活の場合には共通語を、くだけた内輪の場合には方言をというふうに使いわけているのが実状である。東京人にとってだけでなく、その地域の人々自身にとっても、

1 0 0 0 青春物語

https://t.co/nQb8OsFoCb 長田は東京市生まれ。谷崎潤一郎(1933)『青春物語』にはこう書かれていた。 「幹彦君は私と違つて努めて土地の人情風俗に同化しようとする様子が見え、いつの間にか祇園先斗町の廓言葉などを覚え込んで、会話の端にも京風の物云ひやアクセントを洩らす風であつた」
https://t.co/rH2RfBwCHi 長田幹彦(1955)「京ことば」。 「むかしは言葉尻にかならず、『なア』ということをいった。ところが最近では、変な江戸弁めかしいザラザラ声で、『ねえ』をさかんにくっつける」「京ことばのよさも、ぼくの『祇園夜話』あたりで終わってしまったんじゃないだろうか」

1 0 0 0 国語教育

https://t.co/0ncZqsLg5X 土居重俊(1955)「国語教育を考える」。 「近畿型や一型の地方では、関東型の標準語アクセントは敬遠されているのが現状のようですが、もうそろそろある程度の積極論が出てもいいような気もします。わたくしたちのように近畿型のアクセント圏内で育った者が、

1 0 0 0 文化庁月報

https://t.co/Vnt1gkeNLN 阪倉篤義(1977)「京都文化」。 近代の文学者の出身地は440人中、東京都107人、大阪府34人、神奈川県20人、岡山県15人、長野県14人、京都府・兵庫県・福岡県・新潟県12人、北海道10人。
https://t.co/4OmakuZAvp 服部四郎(1955)「方言と共通語」。 「理想としては一地方の実在の方言をそのまま共通語として採用すべきではないわけである。しかし、わが国の場合、現実には東京方言式の言語が行われているから、それを引続き利用して行くことが差支ないであろう」。
https://t.co/jQMBEk7iK8 服部四郎(1956)「共通語と方言」。 「国家主義の盛んであった戦前には、地方によっては『方言撲滅』運動が強力に推進されたのである。戦後は、戦前に勢力を得ていたような、排他的な国粋主義的な国家主義はおとろえたが、世界連邦を理想として進む場合でも、

1 0 0 0 実践国語

https://t.co/DiL2N7kN9i 「研究討議」(1954)。 工藤(青森)「方言は悪くない、広く幸福な生活のために、誰にでもわかることばを使うということで標準語指導をしている」。 進藤(山形)「近代的なものの考え方をさせなければならない。全国同じことばで考えるようにと喜んでやっている」。
https://t.co/XD9nIIEhWi 東條操(1952)「アクセント教育の問題」。 「大槻文彦博士が言海にアクセントをつけなかつた理由は、東京アクセントをすぐ採用すべきか否かについて考慮され躊躇されたためだという」。 記されていた場合の方が後世の研究者にとっての資料にはなったやろうなぁ。

1 0 0 0 随筆京都

https://t.co/ETkO3xCGiZ 井上吉次郎(1941)「京洛文化の行方」。 「京に田舎あり、と昔はいはれたが、今は新興都市が簇生して、新しい文化を盛り出すと、古い京都に、と知人が京は田舎だ、といふひよんな気を起さぬ、とも限らぬ。その時が、京中心の意識に動揺の来たるときで、敏感な婦人が、
https://t.co/Pk1MzSvTrm 佐々木清治(1931)『郷土の地理的研究法』。 「各地方の人々の集合によつて各種の方言が混淆し、又はどの方言にも属せず、標準語に近い一種の方言が新たに生れることがある。台湾・北海道・樺太の如き、或は八幡・大牟田・宇部・呉などの如く急激に膨張した都市に

1 0 0 0 八尾市史

https://t.co/0qjObsCci9 『八尾市史 近代 本文編』(1983)。 「西鶴の小説にも、金持ちではあるが田舎の里人という河内人の話がある」「江戸時代から明治・大正期にかけてまでの河内は、大阪のすぐ近くの田園農村地帯であった」
https://t.co/DNs2jhyVsl 平井昌夫(1960)『国語のできない子ども』。 「純粋な方言はその地域でしぜんにくずれかけているというべきでしょう。そして、方言とも何ともつかぬコトバがそれぞれの地域で用いられています」「その土地の方言を純粋な形で採集しようとすると、
https://t.co/9vTf1PJO2O 諸星美智直(1993)「人相書の言語事項について」。 近世〜明治初頭。当時の呼称、方言観が興味深い。 「中国言葉」「常陸言葉」「水戸言葉」「江戸言葉」「京言葉」「江戸言葉之様ニなまり有(京都にて)」「東京言語」「上方言葉」

1 0 0 0 旧柳川藩志

https://t.co/jkSZlpySP5 渡辺村男(1957)「旧柳川藩志 中巻」。 「今は上流社会に行はれし言葉遣いを用ゆるもの少く中流社会の言葉遣い多きこととなれり」。 原稿ができあがったのは1910年代。こういう方言の位相差は衰退が早かったから記録もかなり少ないまま衰退していったやろな。
https://t.co/SVB1NfViBR 清水康行(1989)「二十世紀早期の演説レコード資料群に聴く合拗音の発音」。 「演説レコードは、同時期の音声言語資料群である東京(ないし上方)落語レコード資料群と比べ、その言語資料的正確に違いがある」「東京落語レコードでは、その芸能形態上、
https://t.co/L385W8Ag5K 丹羽一彌(1981)「微細言語地図の調査法について」。 「方言で育った高年齢層でも、今では日常会話において共通語化した語形を使うことが多くなった」「今の日常会話を取るか共通語化以前の物を取るか、ここで立場が二つ分かれる」

1 0 0 0 教育愛知

https://t.co/FPcfIkgQNT 三浦貞作(1981)『特集 愛知県の方言4 失われていく方言』。 山本格安(1748)『尾張方言』は特殊語彙が中心になていたのもあって、稲沢市在住のやや年配の方で使用率は40%。『愛知県方言集』(1920)の尾張西部のものと思われる語彙について調査すると使用率93%。

1 0 0 0 現代国語学

https://t.co/FnBPNkmvEp LAJの頃の座談会。 「座談会 日本語の将来 岩淵悦太郎 大石初太郎 林大 柴田武」(1958)。 岩淵「程度の問題はあるけれども、全体としては方言的な違いが薄れてきている。この傾向が進めば方言の違いはあるかもしれないが、非常に小さな違いになってしまって、

1 0 0 0 OA 学窓雑記

https://t.co/y4edcTy0Vd 小泉信三(1936)『学窓雑記』。 「言語が混雑しているといへば、門司もさうである。九州の一角でありながら、必ずしも九州らしくない。交通の関係上か、人が流れて来るものか、存外大阪弁系統の言葉をきくことが多いと思つた」。

2 0 0 0 日本語

https://t.co/E3v3J4RaaB 服部四郎「標準語的共通語が理想に近い状態において日本全国に普及する時代が来るとしても、それまでに長い過渡期が存するはずである」「今後数百年の間、アクセントの地方的訛が消失しないと予想される以上、各地出身の日本人相互の間におこり得る感情問題について

1 0 0 0 コトバ

https://t.co/vmTwtMu7rP 柳田國男(1939)「言語生活の指導に就いて」。 「我々の知る限りでは、旅館とか小売商人とかの客商売をして居る者が、旅人に対してはなるだけ標準語を使ひ、自分等どうしでは心安く、土地の語で話をして居るのを聴くが、是等としても精々一重半の生活である。
https://t.co/C4kLqy17e2 「敬語について 座談会「言語生活」読者」(1959)。 大川「私の郷里は熊本の南の方なんですけど、標準語の『ます』っていうことばが向うでは一番いい言葉なんです。方言で『ございます』に当たるのが一番古いのでは『ござす』ですが、

1 0 0 0 顔兄弟

https://t.co/oJPwRWG7xR 稲田昌植(1940)『顔兄弟』。 「汽車に乗つて仙台駅に着くと駅員がプラツトホームで大声で『落ちた人が死んでから、乗つて下さい』と叫んで居る」。 方言の話。

1 0 0 0 国語国文

https://t.co/vQmX1zb9Ds 柳田國男(1938)「敬語と児童」。 昔の「播州中部の生まれ在所」と「下総利根川べりの農村」の比較。後者は「子供の仲間に、サンとかチヤンとかいふ敬称が少ない。他所から新たに来て加入した者、特に言葉に気をつける商家などの児だけは別になるが、村に共々に育つた者は、
https://t.co/4nDeSLPQ6e 「文法座談会」(1930)。 堀江秀雄「私の国では、『でおす』とはつきり言います。『です』は私なども国では使はなかつた」。 1873年滋賀県生まれ。
https://t.co/TezkwwppWU 柳田國男(1939)「国語の将来」。 「村では外部の人と接触するには、比較的世間に慣れて度胸があり、且つ上手に標準に近い語を操つる人を、所謂土地の口ききとして選定して居た。此の人間だけが内外二様の口を話し、通弁見たやうな地位を占めて居たのである。
https://t.co/Rf5MqNgSd6 吉田留(1935)「国語問題に就いての反省」。 「私は一日も早く方言を廃して国語を統一する事が、国家の為に必要な事と思ふ」「私ども方言研究の必要を説き、一日も早くそれを完成しなけれなならぬことを主張するものであるが、

4 0 0 0 週報

https://t.co/NAjLJS9vrr 朝鮮総督府(1945)「戦ふ朝鮮の姿」。 「現在国語を自由に使ふものは、統計上では全人口の二割くらい、片言交じりで話せる程度の者を加へると三割七分くらいといはれているが、これは老人から赤ん坊まで含めた全人口からみた率であるから、実際社会に活動する成人、
https://t.co/9BF3jBBsn4 今泉忠義(1944)『現代語の性格』。 オラナイを用いているのは「東京に出た関西の人の癖である」。「殆ど皆東京語を真似ながら、やはり真似切れないところの残つている人なのである」「一流の国語学者として自他共に許すほどの大家にもある」

1 0 0 0 日本語

https://t.co/MFsedkcnNP 「座談会 国語の反省」(1943)。 西尾実「地域による注意が必要かと思はれます。純粋な方言を持つている土地と、大体標準語的な言葉が行はれている土地と、もう一つは両者の混乱している土地と三つくらいありはしないかと思ふのです。

1 0 0 0 コトバ

https://t.co/8ajSFXZTDJ 志波末吉(1941)「大都市國語敎育の特殊問題」。 東京市の話。

1 0 0 0 OA 方言採集簿

https://t.co/PSUYqSk9Ix 国語調査委員会編(1904)『方言採集簿』。 「地方の人々は方言を問はるるに当たり、深く之を恥ぢて往々隠蔽し、或は、殊更に東京語又は漢語等にて答ふることあり。方言採集者は常にこの点に注意して、純粋なる方言的特質を明にするに努むべし」。

1 0 0 0 OA 発音と表情

https://t.co/dGlFFxJyNl 遠藤隆吉(1908)『発音と表情』。 「京都人の喋舌るのは丸で女子の様である、それであるから京都人が関東言葉を真似んとするときは何でも角々しく言ひ立てれば宜いと思つて居る」。

1 0 0 0 OA 国語学精義

https://t.co/hh3ITsAb8c 保科孝一(1910)『国語学精義』。 「明治維新以前においては、或る部分にそれぞれ標準語が存在して居たことで、禁中には禁中言葉、武家には武家言葉があり、その武家にも階級によつて、それぞれ一定の標準語があつた。往来書簡文等にも、その用語形式等に、

4 0 0 0 OA 長岡市史

https://t.co/KpbEaDrLqZ 長岡市編(1931)『長岡市史』。 「長岡及其の付近の方言訛語も、亦三州牛久保から移住した士分の用語と市郷の庶民の用語とは随分大きな相違があつたようである。固より二百数十年間には、両者の間に種々の変化が生じ、

1 0 0 0 OA 随筆茶壷

https://t.co/xh7f444sOm 成瀬閑次(1946)『随筆茶壷』。 桑名の「船馬はいはゆる資産家、問屋筋、大商店、花街で、ここは大阪弁の強い桑名言葉、口向は一般町家で、伊勢弁としての桑名言葉、それからお屋敷は、旧藩が奥州白河に永年いた関係から、尻上がりの奥州弁のぬけきらぬ士族言葉がつかはれ、

118 0 0 0 OA 宝塚グラフ

https://t.co/Si9YpUmhiK 宝塚少女歌劇団出版部(1938)『宝塚グラフ』。 「私が初めて舞台に立ち多くの上級生と接して特に感じた事は、言葉づかひ、即ち宝塚弁とでも云ふ変わつた言葉です。それは大阪弁でも東京弁でもなく、それ等をいつしよにした様なもの」。
https://t.co/6c7ZjsACkx 宮本常一編(1962)『日本祭礼風土記 第2』 「元来大阪では町とその周辺の村の生活が江戸の如く隔絶していなかった。それは言葉の上でもはっきり言えることで、町も村もわずかなニュアンスの違いを除いてはいずれも大阪弁一色であった。
https://t.co/rou8ioZrio 宮本常一(1974)「都市と周辺農村」。 1940年頃東京郊外を歩くと、東京駅を中心とした半径20キロ位はほとんど農村であり、小学生たちのうち東京に行ったことがあるのは10人のうち1人か2人であった。

1 0 0 0 社員根性

https://t.co/fWSiWJhH9R 源氏鶏太(1960)『社員根性』。 「個人主義が発達しているかもわからない。東京では、隣近所に無関係でも生活していけるが、大阪ではそうはいかない。悪くいえば、おせっかい、良くいえば、親切である」。

1 0 0 0 綴方風土記

https://t.co/UzfXApfKga 『綴方風土記5 関西篇』(1953)。 「田島や猪飼野のへんはとても工場の多い所だ」「このへんの工場は多ぜいの人がかよっている工場もあるが、たいていは家族の人がよってか、あるいは奈良県、三重県、和歌山県のいなかのほうから、住みこみで学校を卒業した人たちを

1 0 0 0 方言研究

https://t.co/YwbmSeJcSS 沖縄県では「沖縄口を罷めてさへしまへば、たとへ奥州出の先生の真似をしやうとも、熊本訛りにかぶれてしまはうとも、それを皆成功の部に入れて居たのは笑ふべきことであつた」。

1 0 0 0 方言研究

https://t.co/RiiDP2zhnX 柳田國男(1941)「標準語について」。 「本所、深川と本郷とでも、はや少しづづは変わり方の差があつて、それが影響し合ひ又勝ち負けをする。子供などが恐らく無心の働き手であらうが、此頃ネーエと長く引張つたネが耳だち、

1 0 0 0 方言研究

https://t.co/AynwPgfJPg 塩田紀和(1941)「方言に対する標準語の問題」。 「甲府から来た叔母さんは『勉強しなさい』といふのを『勉強をしろし』とか『勉強をやれし』などおつしやる」。
https://t.co/L2cUu1mMxI 宮川菊芳(1930)『読方科教育問答』。 「郷土愛の涵養を叫びながら、どうして方言を絶やさなければならないといふのでせう」についての答え等。
https://t.co/N1G10GkHfa 平田直江(1902)『小学国語科教授法』。 「標準は孰れにとるべきか東京語か上方語か将た東北の言葉か九州の語か孰れにも正い所と誤れる所とあり、どれにも一定し難いが東京の中流に行はるる語は比較的正くあつて且今日中流に立つ人士は一度東京に行てこの語に感染して居る
https://t.co/n9UoOf00Gk 春山作樹(1934)『現代人の修養と教育』。 「只今では違つて来たでせうが、私共、学生時代等に隅田川を渡つて向島の後ろに行きましても、方言が違つて、田舎と云ふ感じがしました。練馬は勿論であります」。 1876年生まれの人の話か。
https://t.co/6zXpFqvizA 友納友次郎(1915)『読方教授法要義』。 「方言の矯正に方言其の物を矯正するといふ方法は策の得たものではない。方言は方言として其の儘に放置しておいて、それよりも専ら標準語其の物の普及に力を用ひたい」「先づ標準語其の物に十分な内容を与えへ、之に対する語感を
https://t.co/P2BDIIyQqO 飯田恒作(1917)『教案中心綴方教授の実際案』。 「標準語の普及徹底は中々むづかしい。東京に近い、或は都会地の人々は、次第に東京語に同化される傾向があるが、交通の不便な片田舎に行くと、この標準語を地方々々の方言に訳さなければ解らぬ所もある。

1 0 0 0 OA

https://t.co/XRIXUWpWW2 「方言矯正について面白い事は知識階級の人であると自分がイとエとを取り違へ、シとスとを間違へる事をよく承知して居るので、時にどちらが正しいのだか判らなくなり、一層ひどい場合には直さなくても良い音まで直して却つて間違つた発音をする事が屢々ある」。

1 0 0 0 OA

https://t.co/bxPjbY2Wr6 小幡重一(1938)『響』。 「田中舘愛橘先生が八十歳の高齢に達せられる今日、猶メガダ(目方)、スロト(素人)、ゲンピキヨウ(顕微鏡)等と岩手弁丸出しであられる」「若槻礼次郎男がシウギエンギエン(衆議院議員)、エイモノハエイなどと云はれ

2 0 0 0 OA 国語の教へ方

https://t.co/KaZpinnkQb 森田悟郎(1943)『国語の教へ方』。 「皆さん方は朝鮮では全く標準語が行はれて居つて、方言などは探してもあるまいといふやうにお考へになつて居られるかも知りませぬが、残念ながらさうぢやないのです。かなり広く誠にかんばしからぬ内地の方言が行はれて居ます。
https://t.co/XkZ0X9Ql3n 上田庄三郎(1938)『新しき教育への出発』。 「内地の方言の中でも沖縄県のやうな言葉と朝鮮語を較べたときに、はたしてどちらが標準語に遠いかも問題である。更に今や、満洲語、蒙古語、支那語と朝鮮語をを較べれば、

お気に入り一覧(最新100件)

拙稿「幕末における薩長軍事構想の再検討―「討幕」の意味に注目して―」(『法政大学大学院紀要』第89号、2022年)は法政大学学術機関リポジトリで公開されています。修士論文の第4章にあたります。良かったら御覧ください。よろしくお願い致します! https://t.co/8w9tC1VVQB
PDFあり。 ⇒後藤 致人 「『昭和天皇独白録』をめぐる 天皇の記憶と論理(その1)利用統計を」 『愛知学院大学文学部紀要』第51号 (2022/3) https://t.co/iHRyBlM8Pc
松浦玲「日本における儒教活用の一局面」(『総合研究所報』14-1、1988年)は、当時の日本では珍しく勝海舟が日清戦争に反対したのは、「日本化」された「武断儒教主義」ではなく、幕末期に横井小楠から「普遍的な儒教」の思想を受け継いだからと指摘し、その意義を分析。 https://t.co/L0x1pOPwbc
加藤真生「日清戦争における環境変動と赤痢流行」『歴史学研究』1019、2022年2月。 https://t.co/IiivzsNXD6 日清戦争での日本軍の朝鮮進軍時、軍隊内で猖獗を極めた赤痢流行の要因を、環境と軍の相互作用の視点から考察。突き詰めれば不十分な「水」の問題だが、いくつかの重要な洞察を含む論文。
「学校文化の地域性と起源」という論考。学校方言・文化に関して、興味深い事例が多数指摘されている。 新潟の「先生にかけられる」(=指名される)、宮城の「おはよう靴下」(=穴の空いた靴下)、愛媛の「おちょっぽ」(=体育座り)、長野の「同級会」(=同窓会)など。 https://t.co/9tu48zrKt6
伊故海貴則「明治維新期地域社会における「多数決」導入」(『立命館大学人文科学研究所紀要』124、2020年)は、静岡県駿河国地域では、地租改正によって「総員の納得できる合意は事実上、不可能」と認識され、「合意形成の一手段として「多数決」が選択された」と言う。 https://t.co/rI0Xr5OiJE
明治前期から戦前期までの日本の医師の資格別の動向をみてみましょうか。医大・医学校卒の西洋医がようやく過半を占めるのは1920年代、明治初期に大半を占めていた従来開業医(江戸時代からすでにお医者さんだった人、多くは漢方医)がいなくなるのは1930年代です 出典:https://t.co/zNJcZvZaGW https://t.co/fCVLWNrnkM

19 0 0 0 OA 衆議院議員実伝

昔からある誤字なのか、昔からある書き方の一つなのかの判定は困難ですが、手書きでは昔から屢々あるものですね。 https://t.co/vxXR17Gefu とか、 https://t.co/t6tWsBffyK の包み紙の手書き文字とか。 https://t.co/YdC9UL8C3t これは中間的 https://t.co/TU5dAGuO6W
昔からある誤字なのか、昔からある書き方の一つなのかの判定は困難ですが、手書きでは昔から屢々あるものですね。 https://t.co/vxXR17Gefu とか、 https://t.co/t6tWsBffyK の包み紙の手書き文字とか。 https://t.co/YdC9UL8C3t これは中間的 https://t.co/TU5dAGuO6W
天王寺・岡山合戦、家康のいた天王寺方面に比べて秀忠が担当する岡山方面は川や湿地が多いので、主戦面は前者というが、江戸時代の地図だと天王寺方面も池が多くあり、戦場としてはあまり変わらない 後、豊臣方が茶臼山から岡山に至る微高地沿いに布陣したことがよく分かる https://t.co/WI5So2zALD
慶応3年5月24日(1867年6月26日)、兵庫開港が勅許。青山忠正「通商条約の勅許と天皇」(『佛教大学歴史学部論集』5)曰く、2年前の条約勅許で「現実に行われている外交・貿易と、その事実を国家のトップが認めていないというねじれ構造は解消」したが、兵庫のみ例外だった。 https://t.co/lV0aK3S2pd
『江戸より奥州津軽まで道筋の図』 江戸からはるばる津軽までの道が巻物に描かれている。 なかなか見ていて面白い。 https://t.co/VzN2kr1oqH https://t.co/ShO7rqQeX3
井上勲「大老 井伊直弼」(『学習院史学』35)曰く、官位について、「井伊家をこえる位をもつ家は、三家と三卿と加賀前田家だけ」。井伊家の特別さについては、野田浩子「井伊家の家格と幕府儀礼」(朝尾直弘ほか編『譜代大名井伊家の儀礼』サンライズ出版)などもある。 https://t.co/SaZ2sGjtnd
長洋一氏の「古代播磨の石と石神」(1979年)を読んでいる。 風土記の記述から、東播は石を加工する文化、西播は自然の石の文化とみなし、そこを基調に磐座、石神を論ずるが独特な論理が多い。 https://t.co/J6LZ40V1mi
檜皮瑞樹「一九世紀樺太をめぐる「国境」の発見-久春内幕吏捕囚事件と小出秀実の検討から-」(『早稲田大学大学院文学研究科紀 第4分冊』54)は、檜皮氏の著書『仁政イデオロギーとアイヌ統治』(有志舎)第6章の元論文。幕末の北蝦夷地をめぐるロシアとの緊張関係を分析。 https://t.co/ByrXKBKeCN
井上勲「幕末政治社会の形成」(『学習院大学史料館紀要』9)によれば、ペリー来航に際して福井藩の松平慶永(松平春嶽)らが主張した、オランダから要求拒絶の意志を米国に伝達してもらう方法は、自ら折衝の場を設けて逆に通信の関係が成立することを避ける目的があった。 https://t.co/W9VCdt8DfF
『日本海軍の軍政機関と軍令機関─「協同輔翼」をめぐる慣行─』 著者:浅井隆宏 https://t.co/zliPHjCebU
@yearman 同題名の本が2種ありますが、「明治にさかのぼる」のほうですね、「武ン士たちのかたりくち」の方ではなく。 https://t.co/dkE2loGZY8 『語文研究』68の「会員近著紹介」による。 https://t.co/Fm5Xhw5OuQ
いっぽう、陸軍の陸軍兵器行政本部が編纂した 『兵器取扱の科学知識. 下巻』 https://t.co/llxCoOCw8r すごくしっかりとした概説とともに、将来の無線操縦兵器に対する展望が書かれていたりする とくに、『テレビジョン』と結節することによって無線操縦兵器はさらに進歩するといっている https://t.co/Sf3RwycBD3
呉永台「幕末期肥後における〈藩是〉確立とその意味」(『年報地域文化研究』23、2020年)は、文久2年4月、藩是を決定した肥後藩政府には「徳川恩顧の大名としての自己認識があった」と指摘し、藩是の確立を要求した肥後勤王家とは、将軍家への距離感に違いがあったとする。 https://t.co/RlbIB3pMu0

13 0 0 0 OA 幕末史の研究

ちなみに『幕末史の研究』(昭和元年・井野邊茂雄)には毛利家編輯所員の中原邦平が知る古老の言い伝えとして、毎月(年?)元日に賀儀を行う前、藩主がまず「もうよからうか」と言い、近臣が「まだ御早う御座います」と答えた後で年賀の式が始まることが書かれてますよ〰️ https://t.co/8uWinqgg4P https://t.co/cuQ6HhTKqm
「経済をめぐらせる」が、江戸時代に使われていました。洒落本「うかれ草紙」(寛政九年1797) 写真は『江戸時代文芸資料』第一巻 https://t.co/pj424scJyK ただし、この形で探したら沢山用例がある、というわけではないようです。 https://t.co/P0YZd3Dyeb
CiNii 論文 -  万歳の誕生 (近代の文法) https://t.co/vZB1ob5LvI #CiNii 読みたいorz
近世初期北奥大名の領知高について(1983) https://t.co/ekmitYIWH6

13 0 0 0 OA 日本大辞書

https://t.co/xsMWvNFvfz 明治東京アクセントの資料である、山田美妙の『日本大辞書』には、「東海道」などは載ってない。
1946-47年撮影の「モージャー氏撮影写真資料」は名古屋の写真が多い。この写真は広小路通側から堀川越しに北西の非戦災地区を撮ったもの。https://t.co/KDDTDc6XpQ https://t.co/xAFwLz7Umb
せめて『神武天皇聖蹟調査報告』(文部省、1942年)(いちおう言及はある)の水準ぐらいは踏まえてほしい。1930年代の学者たちが国策で寄ってたかって神武東征のルートを調べて、結果的にそれがいかに正確に決定し難いかを示したものです。 https://t.co/7FOQ5NWRKs
生田澄江「幕末におけるフランス艦隊の琉球来航と薩琉関係」(『沖縄文化研究』19、1992年)は、1840年代のフランス船の琉球来航によって、琉球が薩摩と清国に両属していることの意味を、幕府が真剣に再検討する契機になったと指摘。 https://t.co/sthXNHKFom
菊池勇夫「松浦武四郎と義経蝦夷渡り伝説」(『キリスト教文化研究所研究年報 民族と宗教』44、2011年)は、源義経と弁慶が生きていて、彼らがアイヌに文化を伝えたとする伝説が史実であるかのように流布されたことと松浦武四郎の関係を考察。 https://t.co/v7vfOnzrfR
「士農工商」がえらく話題になっていたので,大島真理夫「「士農工商」論ノート」(『経済史研究』(大阪経済大)2号,1998年)を読み直してみた。その中で大島氏は,早くは西川如見が「士農工商」という言葉を用いていることを指摘する。→ https://t.co/2O8wrJ1X8g

137 0 0 0 OA 夢二絵手本

竹久夢二が大正時代に刊行した『夢二絵手本』(1923)の少年の絵に「あんまり沢山柿がある」と書いてあります。今なら「すごく沢山ある」、または条件節で「あんまり多すぎたので」としか言わない。90年経つと日本語は変わるね、という例です。https://t.co/GroHdPC5L2
PDFあり。 思想戦と「日本地政学」 : 小牧実繁のプロパガンダ活動の展開とその社会的影響 https://t.co/uaDPR4tAbZ アジア・太平洋戦争期の戦略研究における地理学者の役割 : 綜合地理研究会と陸軍参謀本部 https://t.co/ajfnzNpfoi
PDFあり。 思想戦と「日本地政学」 : 小牧実繁のプロパガンダ活動の展開とその社会的影響 https://t.co/uaDPR4tAbZ アジア・太平洋戦争期の戦略研究における地理学者の役割 : 綜合地理研究会と陸軍参謀本部 https://t.co/ajfnzNpfoi
CiNii 論文 -  長州藩尊攘派の形成及び抬頭に関する一考察 https://t.co/rVlSjeus9W #CiNii ↓の文久元年の産物方関連で探していた論文見つけたので #メモ https://t.co/An6ekfPWRt
佐野真由子「持続可能な外交をめざして-幕末期、欧米外交官の将軍拝謁儀礼をめぐる検討から-」(『日本研究』48、2013年)は、幕末期に来日した各国外交官の将軍への拝謁儀礼が整備されていく過程を分析し、幕府の対外認識も考察。 https://t.co/OmjnEaCZj0
小山直子「明治後期から大正期における紋付羽織袴の社会的地位 : 衆議院委員会で審議された礼服問題」『風俗史学』 (55), 73-107, 2013-11 https://t.co/DpX6h23XcD
山添博史「江戸時代中期に胚胎した日本型「近代的」国際秩序観」(『国際政治』139、2004年)は、寛政期からのロシア南下に対し、日本人が現状の国際秩序がどのようになっているのか関心を強めたことが幕末に活かされたのではないかと分析。 https://t.co/xJ0ayKOpHq
落合弘樹「幕末政局と木戸孝允」(『明治大学人文科学研究所紀要』76、2015年)は、木戸孝允が、幕末期に政治家としての資質や立場を確立させていく過程を分析。長井雅楽の航海遠略策や島津久光の率兵上京などの動向を見据えて論じる。 https://t.co/iMTeMjJYxq
前田結城「姫路藩における版籍奉還への政治過程」(『Link : 地域・大学・文化 : 神戸大学大学院人文学研究科地域連携センター年報』5)は、慶応4年から明治2年の版籍奉還建白までの姫路藩の状況や、建白の意図を分析する。 http://t.co/0StUkqoMR7
猪飼隆明「維新の激動と近代福井の成立」(『福井県文書館研究紀要』2、2005年)は、講演録。猪飼氏は福井県生まれだが、熊本の維新史を深く研究している方。福井の維新史を調べると、熊本とは成り立ちが全く違う、その違いが面白いと語る。 http://t.co/o3vrK5msvI
星原大輔「明治5年前後の井上毅」(『ソシオサイエンス』15、2009年)は、井上毅にとって明治5〜6年の渡欧がその後の活躍の足がかりだとした上で、それ以前の井上の事績や思想の研究が少ない状況の打開を目指し、また新史料を紹介したもの。 http://t.co/UEUQZ7EeHP
堅田智子「アレクサンダー・フォン・シーボルトの日本皇室観」(『上智史学』59、2014年)という論文があり、下記リンクから読める。表題の人物は、有名なシーボルトの息子で、アーネスト・サトウの幕末期の同僚にして、明治のお雇い外国人。 http://t.co/Z9W0gVxKIc
安岡昭男「井上馨論」(『国際政治』33、1969年)は、明治12年から20年まで外務卿・外務大臣を務めた井上馨の、外交の特質などを論じる。古い論文なので、安岡氏の著書に再録されているかもしれないが、未確認。 http://t.co/XqE25lDPjm
榎本浩章「文久の参勤交代緩和と幕政改革について」(『法学新報』121-1・2、2014年)は、政事総裁職・松平春嶽と将軍後見職・一橋慶喜による文久幕政改革で実現した参勤交代緩和の意義、実態、緩和のその後の状況などを分析する。 http://t.co/vHO8bddevr
星山京子「徳川斉昭と「有志」大名の情報ネットワーク」(『国際基督教大学学報 3ーA アジア文化研究』25、1999年)という論文がある。従来の徳川斉昭研究が、政治舞台での言動の分析や評価が中心だったことを指摘し、「私」の部分に着目。 http://t.co/AKMu4Iz1GH
下記リンクから、奥田晴樹氏の講演録「幕末政治と立憲政体」(『金沢大学サテライトプラザミニ講演記録』9-2、2008年)を読むことができる。奥田氏は、『立憲政体成立史の研究』(岩田書院)などの著書がある研究者。 http://t.co/gYXSkrjLrm
川口暁弘『明治憲法欽定史』(北海道大学図書刊行会、2007年)という、500ページを超える研究書がある。本書の詳しい内容については、下記リンクにある橋本誠一氏の書評(『法制史研究』58、2009年)参照。書評はかなり手厳しい。 http://t.co/zJJx0PctZk
荒野泰典「近世の日本において外国人犯罪者はどのように裁かれていたか?-明治時代における領事裁判権の歴史的前提の素描-」(『史苑』69)は、幕府が欧米との条約で領事裁判権を認めたことは、伝統的な紛争処理方法に則したものだったとする。 http://t.co/llsgm4uJSi
岡田精一「「佐佐木高行日記」と彼の人生観」(『東京音楽大学研究紀要』9、1984年)。 幕末の土佐出身者として、維新後は侯爵になった佐々木高行について、その日記などを通じて人生観を考察し、明治という時代を読み解く試み。 http://t.co/vDEjv23ukv
小川原正道「征韓論政変後の政府転覆計画」(『武蔵野学院大学研究紀要』3、2006年)は、明治7年1月1日に起きた、芝増上寺の放火事件を分析。小川原氏は別稿で、放火原因について宗教的側面を指摘したが、この論文では政治的側面を考察する。 http://t.co/XPxClkeMrF
吉田松陰を思想史の観点から分析した近年の研究書に、桐原健真『吉田松陰の思想と行動-幕末日本における自他認識の転回-』(東北大学出版会、2009年)がある。 下記リンクから、『年報日本思想史』12に掲載された、岩田真美氏の書評を読める。 http://t.co/kAaEhyBpvG
小野雅明「集団勤労作業の組織化と国民精神総動員 宮崎県祖国振興隊を事例として」http://t.co/bgBYmkhEf3
拙稿「禁門の変における薩摩藩の動向について」(『平成25年度神田外語大学第26号紀要』)は、以下からご覧いただけます。 https://t.co/AwuVqn9wdy
石坂尚武「黒死病でどれだけの人が死んだか 現代の歴史人口学の研究から」http://t.co/PjnPo9Kr7r 実に162頁。イタリアの地域ごとでのペストの死亡率とかも出てくる。 「≪峻厳な神≫とペスト的心性の支配」とか「イタリアの黒死病関係史料集」シリーズとかも長いけど。

1 0 0 0 OA 闢邪小言 : 4巻

@BlogJoseph 大橋訥庵『闢邪小言』あたりにあるかと思ってざっと見てみたが、http://t.co/WRKxENisCxない。そもそも大橋の大橋の西洋蔑視・排斥は、倫理と物理を連続したものとして捉える「朱子学的な合理的思考」に拠るものだから、(続
「徴兵忌避の手段」http://t.co/wMhlap954n in『兵役須知 : 適令者必携』(大正5年、兵事雑誌社)@近デヂ。一「逃亡または隠匿して行方不明」二「身体を毀傷し疾病を作為」三「検査場にて詐病を申立て・・」四「神仏に祈願」五「学力を偽り家計困難等の事故を作為」・・

2 0 0 0 OA 裁判医学

「徴兵忌避」http://t.co/ogiqMvvZDW in『裁判医学』山本善夫 編 (明治19年)@近デヂ。徴兵逃れのために液体注入で睾丸を膨張させたヒトの実例。スキャンが汚く読みづらかつたのっす。。

35 0 0 0 OA 浅草経済学

石角春之助『浅草経済学』(1933)http://t.co/sLdvLqSxKCという本が面白い。観音様のお賽銭の相場から、飲食店、露天商、興業、売春…と言った浅草の各業種の昭和恐慌から立ち直る前の物価が克明かつ面白く描かれている。五銭から十銭が喫茶店の珈琲の相場だったとか…
…決して国民の意志などを眼中に措く必要は無いと心得て居るのである」(野間五造「立法一元論 : 貴族院無用論」1926)http://t.co/tiEsaGS6ea

51 0 0 0 OA 日本漫画史

巷間によく言われるところの「「鳥獣戯画」こそが日本マンガの起源である…」という日本漫画史のフレームワークは、漫画家の細木原青起が『日本漫画史』(雄山閣 1924)http://t.co/09HuXUgJPKで唱えたことに始まるようだ。

8 0 0 0 OA 戦争と貞操

アホ男根主義すぎる。:「戦争は人間を本能的にする。……戦争が女性の性的興奮を来すことはいふまでもないことで、そこに貞節の乱れるのを注意しなければならない」(島影盟『戦争と貞操』(大東京出版社、1937年)への諸岡存による序文)。http://t.co/ht1DIZ9iut

5 0 0 0 OA 厚生新編

ショメルの『家政百科辞典』。Noël Chomel, Dictionnaire oeconomique ( http://t.co/WKm6lGeeF1 )。そして、それの江戸時代の邦訳『厚生新編』( http://t.co/A6cwGviuTx )。
木村洋(2002)"第二次世界大戦期に於ける日本人数学者の戦時研究 (数学史の研究)"  http://t.co/woT1svhLLf
@hayakawa2600 調べましたが、長野県や和歌山県紀の川市、その他地方でも生活改善申し入れがありますね……。昭和11年の生活改善運動まんまの内容なので……http://t.co/gCYnqexLis
【備忘録】「公議政体派」と薩摩倒幕派―王政復古クーデター再考―http://t.co/ts4i1rOIwN あとで読もっと
【備忘録】「公議政体派」と薩摩倒幕派―王政復古クーデター再考―http://t.co/ts4i1rOIwN あとで読もっと
これか 「1930年前後における京大学生運動」http://t.co/zW29RlEsCp 「1920年代前期における学生運動の諸相(上)」http://t.co/nhhA1OY4ah 「1920年代前期における学生運動の諸相(下)」http://t.co/0dDcXTIBwL
これか 「1930年前後における京大学生運動」http://t.co/zW29RlEsCp 「1920年代前期における学生運動の諸相(上)」http://t.co/nhhA1OY4ah 「1920年代前期における学生運動の諸相(下)」http://t.co/0dDcXTIBwL
これか 「1930年前後における京大学生運動」http://t.co/zW29RlEsCp 「1920年代前期における学生運動の諸相(上)」http://t.co/nhhA1OY4ah 「1920年代前期における学生運動の諸相(下)」http://t.co/0dDcXTIBwL
やっぱり面白そうだな。 KAKEN - 保主主義・性・階級-20世紀初頭イギリス女性警察を通して-(17720196) http://t.co/GkRrvfo4vZ
@nekonoizumi 「レクチャー第一次世界大戦を考える」シリーズ、もうひとつは女性と「制服」の話。面白そう。「カーキ・フィーバー」ってなんだと思ったら、ここにあった。 http://t.co/h6J0mi8YCC
「アメリカにおける統一標準時の導入」http://t.co/laS9v5CpHG 「18世紀末まで、法は神の定めとする意識が強かったアメリカで、19世紀になると、次第に法を社会改革の手段とする考えが強まり始める。これは、以前は時間を神のものと考え、それを人為的に改めることに、(続
「大東亜戦争」以前の調査とはいえ、インドネシア民族運動についての帝国側の評価が知りたい。 南満洲鉄道株式会社経済調査局編『新亜細亜叢書第3 南方民族運動』(昭和17-18年) http://t.co/LrPxn0WRrt
中立売門を突破した長州兵は公卿門へ向かい会桑藩兵と戦闘。突破できず日野邸に籠り銃撃。そこに薩摩砲兵隊が大砲を放つが会桑兵の方に飛んでくるので旗を降って存在を示す(p 33-34)/近代デジタルライブラリー - 桑名藩京都所司代中の事情 http://t.co/SaJohLHKsL
幕府歩兵隊長からの教練。京都邸内で銃工を雇用し、小口径の二ツバンド・3ツバンド施條銃(←ライフル?)300挺位を作成。(p.68‐69)/近代デジタルライブラリー - 桑名藩京都所司代中の事情 http://t.co/SaJohLHKsL
鷹司邸付近には、本来、一橋家の大砲2門があったはずが、変事にはなぜか見当たらないため膠着状態になっていたのを、会津の砲隊が御花畑のほうから大砲を持ってきたようだ(p.36-37)/近代デジタルライブラリー - 桑名藩京都所司代中の事情 http://t.co/SaJohLHKsL
これが詳しそうです。維新史料編纂会による聞き書きですが。同じく加太。/近代デジタルライブラリー - 桑名藩京都所司代中の事情 http://t.co/SaJohLHKsL
震災からの雇用の復興(pdf)http://t.co/kY39vjaX4K「被災者雇用の仕組みを一時的な緊急支援と捉えるか、恒常的な中間的就労の仕組みに発展させるかという論点は、「中間的就労だから低賃金」でよいのかという今後の日本の労働市場の全体像を占う課題につながる」
中央協和会編『内地在住半島同胞銃後美談第1編』(昭和16年)がデジタル化され国会図書館で公開されている http://t.co/BZLqLd56Wn 「内鮮一体」とはかくも残酷なものだったのかとあらためて思い知らされた。これは怒りなくして読めない。まじで。
究極の服従=「自我奉還」! 一億総恍惚化計画とも言える。これだから日の丸はおっかねえ:大日本日の丸会『新体制と自我奉還』1943年 http://t.co/aI3JYYsiFZ 本文中には谷口雅春、石原莞爾への言及もあります。
あと、頭脳警察もびっくりの『日本百年戦争宣言』(高嶋辰彦著、世界創造社、昭和14年)も近デジにあった。http://t.co/q4eIm2IAdO
奇書『支那人は日本人なり』(アジア問題研究所編、世界創造社、昭和14年)が、近デジで読めるなんて!! http://t.co/9wCep5Mr1m
川島四郎先生は、戦後もやらかしていた: 「「人間の肉」を食う栄養学的観察」桜美林短期大学紀要, 家政学編 , 1974年  http://t.co/29Boq5Je
こっちもか。→KAKEN - 農林資源開発の比較史的研究-戦時から戦後へ- http://t.co/N7OiPyph 食肉開発(役牛から役肉兼用牛へ)とか満州移植馬事業とかをはじめとても面白そうなのも多いな。
国民精神総動員運動真っ最中の、教師向け尋常小学校学級経営指南書なんだが、タイトルからして怖い。「非常時尋四(=尋常四年)学級経営の根本義」とか、国会施政方針演説よりもガチガチにカタい。:緒方明吉『革新的尋四学級経営 : 長期建設』近デジhttp://t.co/hMyXlyRg
『小学校長講習会講演録』(長崎県西彼杵郡教育会、1918年, p. 195.)「臀部を手又は笞で打つ事も善くない殊に臀部を打つ事は性欲を興奮せしむる物であるから大に注意せなければならん」何を言ってるんだか。 http://t.co/tDAAnT1s
『小学校長講習会講演録』(長崎県西彼杵郡教育会、1918年, p. 195.)「我国に於て体罰をやつたのは西洋カブレの為めであつた 独逸に行わるゝ体罰を崇拝した為めではあるまいか」 http://t.co/tDAAnT1s
日本の近代教育法では、体罰は1879年の教育令で禁止、1885年の教育令改正で禁止事項削除、1890年の小学校令改正で再び禁止(渋谷徳三郎『教育行政上の実際問題』敬文館、1922年, pp. 100-101.) http://t.co/xnm1asqL

32 0 0 0 OA 官報

小学校令(明治23年勅令第215号、1890年10月7日公布)第63条「小学校長及教員ハ児童ニ体罰ヲ加フルコトヲ得ス」 http://t.co/0zEcnoub

7 0 0 0 OA 官報

小学校令(明治33年勅令第148号、1900年8月20日公布)第47条「小学校長及教員ハ教育上ト認メタルトキハ児童ニ懲戒ヲ加フルコトヲ得但シ体罰ヲ加フルコトヲ得ス」 http://t.co/1LkNFnU1

4 0 0 0 OA 官報

国民学校令(昭和16年勅令第148号、1941年3月1日公布)第20条「国民学校職員ハ教育上必要アリト認ムルトキハ児童ニ懲戒ヲ加フルコトヲ得但シ体罰ヲ加フルコトヲ得ズ」 http://t.co/kXGQUH2e
ホーリネス教会関連では、この香ばしい著書も中田本とともに発禁処分となっていた。:一宮政吉訳『ハルマゲドンの戦争 : 何時おこるか』ホーリネス教会出版部、1933年。国会図書館デジタル化資料 http://t.co/yDg0R3yg
幻に終わった昭和15年の東京オリンピックをあてにした、ダイレクト過ぎる題名のビジネス本w。>「オリンピック東京大会 - 三億円の金が落ちる!何をして一諸けするか!」(読書新聞社編/1936年) http://t.co/iWo8NqSg

40 0 0 0 OA 世界人の横顔

敗戦一年後に出た世界の偉人列伝。「戦勝国」の人間ばかり、かつヨイショが凄いw:「世紀の偉人マツクアーサー元帥」、「天才政治家チヤーチル」、「新生中國の"太陽”蒋介石」、「巨人スターリン」>「世界人の横顔 」(西日本新聞社外信部, 1946)http://t.co/2Tjhk9WD

14 0 0 0 OA 比島決戦場

敗戦の5ヶ月前に出版された、同盟通信記者の手による「比島決戦」のルポ。米機動艦隊は台湾沖航空戦とレイテ沖海戦により壊滅、レイテ島の米軍は孤軍となった!とか、文字通りの架空戦記となっているw。>「比島決戦場」(篠原滋/日本報道社/1945年)http://t.co/JOxyQ02B
軍隊生活と大陸での日本軍の活動を、ほのぼのタッチの一齣漫画で説明。最後は「皇軍南京入城」の場面で終わっている。>「輝く無敵陸軍 : 軍隊教育漫画」(軍事普及会/1938年) http://t.co/lVJCRq1d
軍隊生活と大陸での日本軍の活動を、ほのぼのタッチの一齣漫画で説明。最後は「皇軍南京入城」の場面で終わっている。>「輝く無敵陸軍 : 軍隊教育漫画」(軍事普及会/1938年) http://t.co/lVJCRq1d
そのころ古文書の研究者養成のことも含めてさんざん文句を書いたのだが、結局だめだった。「日本の史料地震学研究の問題点と展望」(PDF)https://t.co/ykIbGfRV

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