著者
植木 純 神津 玲 大平 徹郎 桂 秀樹 黒澤 一 安藤 守秀 佐野 裕子 佐野 恵美香 石川 朗 高橋 仁美 北川 知佳 玉木 彰 関川 清一 吉川 雅則 津田 徹
出版者
一般社団法人 日本呼吸ケア・リハビリテーション学会
雑誌
日本呼吸ケア・リハビリテーション学会誌 (ISSN:18817319)
巻号頁・発行日
vol.27, no.2, pp.95-114, 2018-05-01 (Released:2018-09-20)
参考文献数
115
被引用文献数
10

呼吸リハビリテーションとは,呼吸器に関連した病気を持つ患者が,可能な限り疾患の進行を予防あるいは健康状態を回復・維持するため,医療者と協働的なパートナーシップのもとに疾患を自身で管理して自立できるよう生涯にわたり継続して支援していくための個別化された包括的介入である.呼吸リハビリテーションは原則としてチーム医療であり,専門のヘルスケアプロフェッショナルすなわち,医師,看護師,理学療法士,作業療法士,言語聴覚士,臨床工学技士,管理栄養士,歯科医師,歯科衛生士,医療ソーシャルワーカー,薬剤師,保健師,公認心理師,ケアマネージャー等の参加により,あるいは必要に応じて患者を支援する家族やボランティアも参加し行われるものである.また,呼吸リハビリテーションは病態に応じて維持期(生活期)から終末期まで,急性期,回復時,周術期や術後回復期も含むシームレスな介入である.介入に際しては,評価に基づきコンディショニングを併用した運動療法を中心として,ADLトレーニングを組み入れ,セルフマネジメント教育,栄養指導,心理社会的支援等を含む包括的な個別化プログラムを作成,実践する.達成目標や行動計画を医療者と協働しながら作成し,問題解決のスキルを高め,自信をつけることにより健康を増進・維持するための行動変容をもたらすよう支援する.継続への指導は再評価に基づき行い,身体活動の向上を重視する.呼吸リハビリテーションは息切れを軽減,健康関連QOLやADL,不安・抑うつを改善させ,入院回数・日数を減少させる等の有益な治療介入であり,適応のあるすべての呼吸器に関連した病気を持つ患者に実施される必要がある.
著者
田中 康友 田中 貴子 新貝 和也 北川 知佳 陶山 和晃 城石 涼太 力富 直人 津田 徹 宇都宮 嘉明 神津 玲
出版者
一般社団法人 日本呼吸ケア・リハビリテーション学会
雑誌
日本呼吸ケア・リハビリテーション学会誌 (ISSN:18817319)
巻号頁・発行日
vol.30, no.2, pp.195-200, 2022-04-28 (Released:2022-04-28)
参考文献数
20

【背景と目的】慢性閉塞性肺疾患(chronic obstructive pulmonary disease:以下COPD)患者の入院原因を調査するとともに,併存疾患による入院と健康関連生活の質との関連を検討すること.【対象と方法】安定期のCOPD患者を対象に過去1年間の入院の有無・回数・原因とCOPD assessment test(以下CAT),を評価した.【結果】解析対象者は103例で,入院回数は全原因を含めて63回であった.そのうち併存疾患による入院は28回(44%)で,内訳は心血管疾患が10回(16%)と最も多く,運動器疾患など他の疾患は5%程度であった.また,重回帰分析の結果,併存疾患による入院とCATとの関連は認められなかった(P=0.607).【結語】COPDの増悪に加えて,心血管疾患を含めた併存疾患にも配慮した全身管理やセルフマネジメント指導の必要性が示唆された.
著者
津田 徹
出版者
一般社団法人 日本内科学会
雑誌
日本内科学会雑誌 (ISSN:00215384)
巻号頁・発行日
vol.107, no.6, pp.1049-1055, 2018-06-10 (Released:2019-06-10)
参考文献数
8
被引用文献数
1

慢性閉塞性肺疾患(chronic obstructive pulmonary disease:COPD),間質性肺炎等の非がん性呼吸器疾患では,増悪を繰り返すたびに機能が低下,死に向かうモデルであり,がん疾患と比べて予後の予測が難しい.また,増悪時に救命のための治療が行われていることが多く,どこから緩和ケアを開始するのか判断が難しい.従って,増悪での入院の際には,個人の生き方を尊重できるよう,インフォームド・コンセントをもとに,これからの医療のあり方を患者の意思として確認しておくことが必要である.包括的呼吸リハビリテーションは,終末期に向かう人々のケアも包括しており,在宅酸素療法施行までには,呼吸リハプログラムの導入が望まれる.海外では,最終末期の呼吸困難に対してオピオイド使用が推奨されているが,本邦では,鎮咳以外の保険適用が認められていない.
著者
津田 徹英
雑誌
美術研究 = The bijutsu kenkiu : the journal of art studies
巻号頁・発行日
no.418, pp.1-37, 2016-03-18

The Ichiryû sôshô keizu ( 一流相承系図, Illustrated School Lineage, hereinafter referred to as the Illustrated Lineage) was solely used by the Meikô sect of the medieval period Shinran School, headquartered in Kamakura, as they expanded their activities to Kyoto and western Japan. The Illustrated Lineage was intended to provide a visual representation of the teachings of Shinran (1173-1263), founder of the Jôdo Shinshû Pure Land Buddhist School, which had been inherited by Meikô and were in turn conveyed to his followers. It presents an array of seated portraits across the horizontal handscroll format, with red lines connecting the individual figures. Thus the document clearly presents the connections within the lineage. When the Illustrated Lineage is used in a consideration of extant artworks, it is apparent that it was first used by the community at Bukkôji, developed by the Meikô sect and founded in Kyoto by Ryôgen (1285-1336). There are many instances where the Ichiryû sôshô keizu is known by the alternate name Ekeizu ( 絵系図, Portrait Lineage). However the Ekeizu title is a naming that appears in a criticism of the creation of the Illustrated Lineage by Kaku'nyo (1270-1351), the leader of the Honganji community that stood in opposition to the Bukkôji community. The section titled "Jodai" ( 序題, Preface), attached to the beginning of the Illustrated Lineage since its formation, uses the Ichiryû sôshô keizu title, and thus we should consider that the presenter and recipients of the scroll thought of it in those terms. Today there are seven extant versions of the Illustrated Lineage that were used by the Meikô sect. Four of those works have a preface brushed by Zonkaku (1290-1373). Of those four, the version handed down at Bukkôji, Kyoto (hereinafter referred to as the Bukkôji version) which has a preface dated to 1326 (Kareki 1), can be seen as best conveying the appearance of the original. However, today the Bukkôji version is made up of eight sheets of paper. From the fourth sheet onwards the scroll consists of sections pasted from two other illustrated lineage types. Originally the section from the fourth sheet onwards (hereinafter referred to as the Chôshôin version) was separated and handed down at Chôshôin, located in front of Bukkôji. A closer examination of the Bukkôji version and the Chôshôin version detached from it reveals an admixture of laymen and women among the seated images of priests and nuns, and this is the only extant version with this feature. This admixture corresponds to one of Kaku'nyo's criticisms of the Bukkôji community found his Kaijashô (Impeaching Misconception). However, it shows the original style of the Illustrated Lineage, so the Bukkôji version and its detached Chôshôin version can be seen as indicating the original appearance of the Illustrated Lineage. In the current survey of the Chôshôin version, the author made a number of discoveries not mentioned in previous surveys or studies of the work. This article clarifies the production process of the Chôshôin version based on these new discoveries. In addition, the article goes on to mention the Illustrated Lineage version preserved at Kôshôji, Hiroshima (hereinafter referred to as the Kôshôji version) that was the subject of a similar survey. Through the examination of these two versions, the author confirmed that the portraits presented in seated form in the illustrated lineages employed the visages of then contemporary priests, nuns and laypeople (figures shown without the shaved pate of priests) and can thus suggest that the Illustrated Lineage should be understood as part of the nise-e(likeness portrait) category of medieval Japanese painting. In both the Chôshôin version and the Kôshôji version of the Illustrated Lineage, the garments and composition of the figures are all drawn in the same stereotypical patterns. Thus the only individuality of the portraits can be found in the depiction of the faces. This characteristic is also seen in the retsu'ei zukan (handscrolls presenting seated portrait images of past emperors and ministers). I would like to emphasize here that it is only the faces in nise-e works that reflect the appearance of the actual subject. In fact, this feature of nise-e is not generally understood. This fact reminds us of the "Nyusai kanzatsu" (Nyusai's observation) scene in the Shinran den e (Illustrated Biography of Shinran), which was planned and accompanied by text written by the abovementioned Kaku'nyo. Only Shinran's face appears in that scene, his whole body is not depicted. This can be said to correctly convey how nise-e were produced. In addition, if we also consider that the Illustrated Lineage is presented as a handscroll of seated portraits, then that handling can clearly be linked to the lineage of the above-mentioned retsu'ei zukan scrolls of seated portraits of past emperors and ministers.
著者
渡邊 明義 津田 徹英 早川 泰弘 三浦 定俊 淺湫 毅 中村 康 佐野 千絵 斎藤 英俊
出版者
独立行政法人文化財研究所東京文化財研究所
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
1999

彩色文化財の技法と材料について、日本とドイツの美術史研究者、伝統技術者、自然科学者が共同して研究調査を行った。研究期間中は互いの研究者が双方の国を毎年一回ずつ訪問し、あらかじめ選定しておいた現地で詳細な調査を行い、シンポジウムを開催し討議を行うなどして研究をすすめた。研究対象は、ドイツ側では主に南ドイツ(バイエルン地方)の中世彩色木造彫刻を取り上げたが、日本側では彫刻に限らず、絵画、工芸、建造物など広く関心を持って調査を行った。また彩色文化財そのものだけでなく、彩色に用いる顔料の製造工場や、金箔工房など、また各地の修復工房や作業現場でも調査研究を行い、彩色材料やその技法、修復技術への応用などについても相互の理解を深めるようにした。顔料分析については、ドイツにおいてはサンプリングによる試料の分析を積極的に行ったが、わが国の文化財については試料採取が困難なために、現場で試料を採取しないでそのまま顔料分析できるポータブル蛍光X線装置を開発した。この手法は対象作品表面からの測定になるため、彩色層に顔料を混合して用いているのか複数の顔料層か分析結果からだけでは判別できないが、実体顕微鏡を用いた観察と組み合わせることによって、確度の高い情報を得ることができた。本研究を通して、報告書に示すように多くの研究成果をあげることができた。一例としては、源氏物語絵巻物の顔料分析を初めて行い、白色顔料に従来想定されていた鉛を含む白色顔料(おそらく鉛白)だけでなく、カルシウムを含むもの(おそらく胡粉)、軽元素しか含まないもの(おそらく白土)、それにこれまで知られていなかった水銀を含む顔料の4種類を用いていることや、日本の彫刻彩色に緑色顔料として岩緑青以外に、砒素と銅を含むものや軽元素だけの顔料を用いていることを、初めて明らかにしたなどをあげることができる。
著者
吉井 千春 森本 泰夫 二階堂 義彦 田尾 義昭 津田 徹 永田 忍彦 城戸 優光
出版者
日本肺癌学会
雑誌
肺癌 (ISSN:03869628)
巻号頁・発行日
vol.33, no.6, pp.917-923, 1993
被引用文献数
3

rG-CSFは, 白血球数最低値を底上げし, 白血球数減少期間の短縮が期待される薬剤として, 肺癌化学療法での併用が定着しつつある. しかし, どの時点からの投与開始が最適であるかの検討は十分にされていない. 今回我々は, 3つの化学療法レジメン (3日間) で, 投与開始時期により4群 (A群: rG-CSF非投与, B群: 白血球数2000/mm<SUP>3</SUP>以下からの開始, C群: day2からの開始, D群: day5からの開始) に分け, r G-CSFを2μg/kg皮下注して, 各群の白血球数最低値と白血球減少期間を比較した. この結果, D群は全例で白血球数最低値が2000/mm<SUP>3</SUP>以上になり, A群と比べ有意に最低値が底上げされた. またB, C群は同一症例で同一レジメンの比較で白血球数減少期間の短縮傾向を認めた. この結果から, 今回行った化学療法レジメンでは白血球数最低値を確実に底上げする目的ならば, day5からの投与開始が最も有用と思われた.
著者
鈴木 規之 津田 徹 齋藤 利文 森山 京平 ザモーラ ジェーンルイ フレスコ 樫原 茂 藤川 和利 山口 英
出版者
一般社団法人電子情報通信学会
雑誌
電子情報通信学会技術研究報告. MoMuC, モバイルマルチメディア通信 (ISSN:09135685)
巻号頁・発行日
vol.111, no.384, pp.49-54, 2012-01-12
被引用文献数
1

大規模災害時において,建物の倒壊や負傷により移動できない被災者を救出するためには,発生直後から如何に迅速な救助活動を行うかが重要となる.しかし,災害時には,既存の通信インフラが使用できないため,被災者の情報を入手することが困難となる.そこで,本稿では,各ユーザのスマートフォン間で蓄積運搬転送型通信を行うことで,被災者からの救助要請メッセージを伝搬し,救助者が被災者の状態や位置を把握できるアプリケーション(SOSCast)の設計を提案し,実装する.SOSCastは救助要請メッセージに含まれている被災者のGPS情報と,救助要請メッセージの受信者のGPS情報を用いて,多くの救助要請メッセージを収集することで,被災者の位置の把握を行うことができる.また,プロトタイプシステムを用いた実験評価では,被災者のGPS情報が誤差を含んでいる,または取得できない場合においても,受信者のGPS情報をもとに被災者の位置を推測できることを示した.
著者
森 大地 板木 雅俊 岩佐 恭平 大濱 慎一郎 北川 知佳 田中 貴子 池内 智之 河野 哲也 津田 徹 神津 玲
出版者
一般社団法人 日本呼吸ケア・リハビリテーション学会
雑誌
日本呼吸ケア・リハビリテーション学会誌 (ISSN:18817319)
巻号頁・発行日
vol.31, no.3, pp.305-310, 2023-08-31 (Released:2023-08-31)
参考文献数
19

【目的】慢性呼吸器疾患患者の要介護度は過小評価される傾向にあり,患者の不満が多いと報告されている.今回,認定結果に対する不満の有無とその関連因子について検討した.【方法】通所リハビリテーションを利用する慢性呼吸器疾患患者を対象とした.認定結果への不満の有無で2群に分け,比較検討を行った.患者特性,身体機能,ADL(BI,NRADL),呼吸困難,呼吸機能,心理状態を調査・解析し,不満の有無を従属変数としたロジスティック回帰分析を行った.【結果】解析対象は31例で,不満なし群(21例),不満あり群(10例)であった.ロジスティック回帰分析の結果,NRADL(オッズ比0.914,95%CI 0.852-0.980)が不満の有無と有意な関連を認めた.【結論】認定結果への不満にはNRADLが関連しており,NRADLの点数を考慮することで,要介護度の過小評価を是正できる可能性が示唆された.
著者
森 大地 板木 雅俊 岩佐 恭平 大濱 慎一郎 北川 知佳 田中 貴子 池内 智之 河野 哲也 津田 徹 神津 玲
出版者
一般社団法人 日本呼吸ケア・リハビリテーション学会
雑誌
日本呼吸ケア・リハビリテーション学会誌 (ISSN:18817319)
巻号頁・発行日
pp.22-01, (Released:2023-03-29)

【目的】慢性呼吸器疾患患者の要介護度は過小評価される傾向にあり,患者の不満が多いと報告されている.今回,認定結果に対する不満の有無とその関連因子について検討した.【方法】通所リハビリテーションを利用する慢性呼吸器疾患患者を対象とした.認定結果への不満の有無で2群に分け,比較検討を行った.患者特性,身体機能,ADL(BI,NRADL),呼吸困難,呼吸機能,心理状態を調査・解析し,不満の有無を従属変数としたロジスティック回帰分析を行った.【結果】解析対象は31例で,不満なし群(21例),不満あり群(10例)であった.ロジスティック回帰分析の結果,NRADL(オッズ比0.914,95%CI 0.852 - 0.980)が不満の有無と有意な関連を認めた.【結論】認定結果への不満にはNRADLが関連しており,NRADLの点数を考慮することで,要介護度の過小評価を是正できる可能性が示唆された.
著者
津田 徹英
雑誌
美術研究 = The bijutsu kenkiu : the journal of art studies
巻号頁・発行日
no.408, pp.1-94, 2013-01-18

In the 10th month of 1295, 33 years after Shinran’s death, his great-grandson Kakunyô (1270–1351) created the first illustrated biography of Shinran (1173–1263), the founder of the Jôdô Shinshû Buddhist sect. Immediately after this first production, Kakunyô made changes to the painting scrolls, and the extant Rin’a version records his involvement and the production date of the 10th month of 1295 in its colophon. Similarly, other extant versions exist today, namely the Takada version which was completed in the 12th month of 1295, the Kôei version which dates to 1343, the Shôganji version dated to 1344, the Gugan version dated to 1346 and the Josenbô version dated to 1360. All of these examples were created in handscroll form, as was the first version, contrary to the later trend to create Shinran illustrated biographies in hanging scroll format. Of particular note amongst all these is the Bukkôji version (proper name Zenshin Shônin Shinranden-e), which has been handed down at Bukkôji, the main temple of the Bukkôji school of the Jôdo Shinshû sect. The Bukkôji version consists of two handscrolls, and until the modern era there were only limited opportunities for the public to see the work, as it was carefully preserved and handed on at the temple. This careful handling has meant that the scrolls maintained their original bright colors, with almost no oxidation of the silver used and with almost no conservation work seen on the painting papers. Unfortunately, there are no extant documents directly related to the production of the Bukkôji version. The bright colors apparent on the scrolls have meant that previous scholars have considered the work to be younger than it is, with some scholars considering it to date from the 15th century, and some even to the 17th century. And yet, a careful re-examination of the Bukkôji version reveals that both the explanatory text and the paintings were reated at the same time, and that the explanatory texts are thought to be in imitation of the calligraphy style of Emperor Fushimi (1265–1317, reigned 1287–1298), known for its combined use of Chinese characters and Japanese syllabary. According to the Masukagami completed in the 14th century and the Shuboku-sho of Prince Son’en (1298–1356), it is known that the calligraphy style of Emperor Fushimi was highly regarded as the standard for the calligraphy of the day. Thus the explanatory texts of the Bukkôji version appear to have been created during a period when Emperor Fushimi’s calligraphy was deemed most important, in other words, sometime within the first century after his death. Further, the calligraphy on the Bukkôji version texts is particularly well written. Clearly a calligrapher of this talent level would have created the explanatory texts for other illustrated handscrolls. An examination of other extant medieval period illustrated handscrolls indicates that the same calligrapher was involved in the explanatory texts on scrolls 4, 8, and 9, and the colophon on scroll 10 of the Konrenji version of the Yûgyô shonin-engi-e. Further, the same calligrapher wrote the texts for scrolls 4 and 5 of the Tôji version of the Kôbô Daishi gyôjô-e. The latter work is known to have been created around 1374–78. In addition, the old records that accompany the latter handscrolls attribute the texts on scrolls 4 and 5 to “Go-Oshinokoji, the Minister of the Interior.” The question then arises, who was this Go-Oshinokoji former Naidaijin (the Minister of the Interior)? That title refers to Sanjô Kintada (1324–1383) who is known to have been the calligrapher of the 2nd volume of the Boki-e, thought to have been completed in 1351. A comparison of both the Chinese characters and the Japanese syllabary found in the Bukkôji version, the Konrenji version of the Yûgyô shonin Engi-e, the Tôji version of the Kôbô Daishi gyôjô-e and the Bukkoji version indicates that all of these works were written by the same hand. Given that the text and the paintings of the Bukkôji version were both created at the same time, and the fact that the calligrapher for the texts was Sanjô Kintada, then it is certain that the production of the Bukkôji version dates back to the 14th century. Given this dating, the paintings of the Bukkôji version must be reconsidered. In this reconsideration the author took note of the Josenbô version of the illustrated biography of Shinran created in 1360. There are many instances of the same motifs used in the various scenes on the Josenbô and the Bukkôji versions. This Josenbô version’s overall composition was based on the earlier Kôei version, and while the Josenbô version used the Kôei version as its model, it also incorporated some of the elements and scenes from the Bukkôji version. Thus, the Bukkôji version can be seen to pre-date the Josenbô version known to have been painted in 1360. Given that the year 1361 marked the centenary of Shinran’s death, the actual production of buildings for use in the centenary commemoration would have been carried out at that time, with a five-day period of dedication rituals for the new structures recorded to have been held in the 3rd month of 1360. It can then be surmised that the Bukkôji version was also created during this period. Thus the Bukkôji version creation has as its terminus the 1360 creation of the Josenbô version, and it would seem appropriate that it predated that time to some degree. Five examples of illustrated handscrolls with texts written by Sanjô Kintada are known, including the four extant works and one known through documents. Thus Kintada must be considered in the role of calligrapher for illustrated handscrolls when we consider the calligraphers of medieval period handscrolls. Of the five projects he is known to have worked on, including the Bukkôji version, both the Boki-e and the Kôbô Daishi Gyôjô-e were painted by the head of the imperial court’s painting studio. The painting skills and technical standard of such a studio head would have been commensurate with the high ranking aristocratic calligrapher, Sanjô Kintada, chosen for the accompanying texts. Thus, it can be assumed that the painter and painting studio who brushed the Bukkôji version would have been a painter whose rank, skills and technical abilities were commensurate with the high ranking aristocrat Sanjô Kintada who wrote that version’s texts. The depiction in the Bukkôji version has previously been noted as “vulgar or coarse.” However, what has been overlooked about this painting style is the scene of Shinran’s cremation, where the dense foliage of the trees and the snow-dusted distant mountain views can be seen as sourced from the scenery depiction of the lightly snow-dusted Mt. Mikasa in the Kasuga Gongen-Genki-e of 1309. Similarly, the intricate ink-line depiction of the waves on the surface of Lake Ashino in Hakone seems to be sourced in the same 1309 work. The figural depiction, such as the facial expressions of the manifestation of the Kumano deity, seen with Shinran in the Kumano Shrine building, along with their garments have been extremely intricately colored in fully elegant form. The painter of these elements, and his affiliated painting studio, clearly must be seen as having had considerable talent and technical ability. What must not be overlooked as well is the fact that somewhat earlier than the 1360 date of the Bukkôji version, the Bukkôji sect regularly commissioned paintings from the painting studio affiliated with the Gion Shrine. The chief painter of the imperial court’s painting studio would have been chosen from the Gion Shrine-affiliated painting studio, and in addition to the creation of the Boki-e for which Sanjô Kintada wrote the texts, that studio would have also created a set of handscrolls, the Suwa Daimyôjin-ekotoba (scattered and now lost), whose text written by high ranking nobles in 1356. The Gion Shrine-affiliated painting studio can thus be considered to be a painting studio of sufficient rank and talent to match the calligraphy commissioned from Sanjô Kintada. Thus, confirming the 14th century date of the Bukkôji version will have an important influence upon the study of the medieval handscrolls. This new dating is related to the understanding of handscroll painting style in the latter half of the 14th century. The basis for the previous ca. 15th century attribution of the Bukkôji version can be found in its so called “clear and strongly vulgar or coarse painting style,” but in fact it must be noted that this painting style itself was one of the trends of the latter half of the 14th century. The awareness of this trend suggests the necessity for a re-evaluation of the dating of the handscrolls attributed to the 15th century on the basis of this style. The confirmation of the 14th century date for the Bukkôji version is particularly meaningful for this stylistic matter.
著者
津田 徹英
雑誌
美術研究 = The bijutsu kenkiu : the journal of art studies
巻号頁・発行日
no.404, pp.82-97, 2011-08-30

This article reviews Kojima Michihiro's recent book about rakuchů rakugai zu. Kojima's book focuses on the earliest examples of this genre, four pairs of screens that were created in the sixteenth century. The article summarizes Kojima's main points, the organization of his book, and its methodology. It concludes that while the book's central argument, namely that the earliest rakuchů rakugai screens ("Kyoto screens") could only have been created for the political elite in late medieval Japan, is sound, the book's overall methodology and argument presented in the longest chapter in particular merit thorough interrogation. This chapter, covering over half of the book's length, deals with the earliest pair of screens, which are kept in the National Museum of Japanese History. The reviewer first takes issue with Kojima's methodology, which essentially follows that of other historians who have written about Kyoto screens. According to this approach, rakuchů rakugai zu are "visual documents" that should be "read," and should thus be understood as literal, unmediated depictions of the old capital at a certain point in time. While Kyoto screens depict an actual place and reflect to a certain degree the historical conditions that contributed to their creation, Kojima's approach offers little nuance or evidence of the impact of debates that developed in regard to this methodology. Thus "reading" the screens as documentary accounts of Kyoto in the 1500s, Kojima stacks hypothesis upon hypothesis, which lead him to conclude that, for example, the earliest extant example of the genre was created in 1525 in simultaneous commemoration of both the political ascent of Hosokawa Tanekuni (who died in the same year, we subsequently learn) and theshogun Ashikaga Yoshiharu's installment at a new palace. Following the same approach for the other three sixteenthcentury Kyoto screens, Kojima presents similar, if far briefer, interpretations based on identifications of figures and places one encounters in these other works. Kojima's attempts to discover "portraits" (shôzô) of historical figures in the early rakuchú rakugai zu are not totally without foundation, and reflect shifts in the study of Kyoto screens in recent years. We would expect the occupants of a building labeled "Konoe" on the screens, for example, to be members of this noble house. The reviewer notes that it is where Kojima's approach strays from the plausible, however, that weakens his arguments, and ultimately undermines his entire project. The reviewer also critiques Kojima's visual analysis, which, through only the most impressionistic of comparisons combined with circumstantial evidence based on the author's hypotheses, proffers that Kano Motonobu painted the earliest extant screens. Decades of formal analysis by art historians, including the reviewer, have arrived at different conclusions, none of which are seriously considered in Kojima's study. The review concludes that while Egakareta sengoku no Kyoto presents an uneven and often problematic analysis of Kyoto screens, it is welcomed as a study that focuses on the earliest examples of the genre, and that conveys to readers a wealth of information about historical developments and the material culture of the late medieval capital.Bibliography: Kojima Michihiro, Egakareta Sengoku no Kyoto, Tokyo:Yoshikawa Kôbunkan, 2009.
著者
加治木 章 津田 徹 山崎 裕 城戸 優光
出版者
The Japanese Respiratory Society
雑誌
日本胸部疾患学会雑誌 (ISSN:03011542)
巻号頁・発行日
vol.30, no.7, pp.1290-1295, 1992-07-25 (Released:2010-02-23)
参考文献数
19

Methylphenidate (リタリン®) 静注乱用者2名に高度の閉塞性換気障害と拡散障害を認めた. 胸部X線所見上1例はブラ, 無気肺を伴う肺気腫所見を示し, 自然気胸も合併した. 他の1例は間質性陰影を主体としていた. 両者とも静注乱用をはじめて約10年で労作時呼吸困難を自覚するようになった. 当時の静注乱用の仲間で現在生存している他の1名も胸部X線所見にて肺気腫を認めている事, 比較的若年で発症している事より, これらの肺障害はリタリン静注乱用によりおこったものと考えられた. 若年性の肺気腫や, 拡散障害を伴う閉塞性換気障害の症例ではこのような薬物静注乱用の可能性も考慮する必要がある.
著者
有賀 祥隆 浅井 和春 山本 勉 武笠 朗 長岡 龍作 津田 徹英 泉 武夫 瀬谷 貴之 井上 大樹
出版者
東北大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2006

三か年の期間中に、東北(岩手・宮城)、関東・甲信越(群馬・千葉・東京・神奈川・山梨)に加え、範囲を関西(京都・奈良)と中国地方(広島)にも一部広げ、都合、寺院・神社24ヶ所、34件46躯1箇1片、公共機関6ヶ所、8件20躯1双1柄、個人1ヶ所、1件1躯の物件を調査し、詳細な写真と基礎データを収集した。この成果は刊行準備中である。
著者
川勝 一郎 津田 徹
出版者
一般社団法人 軽金属学会
雑誌
軽金属 (ISSN:04515994)
巻号頁・発行日
vol.29, no.3, pp.83-88, 1979-03-31 (Released:2008-10-30)
参考文献数
6
被引用文献数
3 2

Effects of ultrasonic on capillary penetration of a solder, effects of oxide film thickness on the base metal on solderability and a relation between the output power and the wet area on a single sheet were examined. Al-1200 sheets 0.5mm in thickness were soldered at 420°C using a 95%Zn-5%Al soldering alloy and a 20kHz ultrasonic soldering equipment. The ultrasonic soldering is applicable to a wider gap than the conventional soldering. When the sheets are soldered at a capillary gap, an upper part of soldered joint is incompletely joined showing apparent wetting. If the dipped sheet is single one, no apparent wetting is found. The thicker the oxide film, the wider the part of apparent wetting. The wet area on the single sheet is in accordance with a logarithmic law in relation to the dipping time.
著者
進藤 崇史 金田 瑠美 津田 徹
出版者
公益社団法人 日本理学療法士協会
雑誌
理学療法学Supplement Vol.43 Suppl. No.2 (第51回日本理学療法学術大会 抄録集)
巻号頁・発行日
pp.0813, 2016 (Released:2016-04-28)

【はじめに】慢性閉塞性肺疾患(以下:COPD)には末梢血管,メタボリック,骨格筋や心理・精神的な併存症があるといわれ,低酸素血症にかかわらずCOPD患者は認知機能の低下が存在すると示される。臨床の現場において,COPD患者の治療の際に頻回の指導を行うが内容が反映されず,酸素の出し忘れや吸入手技が獲得できない,問題行動が多いなど認知機能の低下を予測させるようなことがある。認知症スクリーニング検査としてMini-Mental State Examination;MMSEを行うが,陰性を示すこともたびたびある。本邦では,鈴木らによってJapanese Version of The MONTREAL COGNITIVE ASSESSMENT;MoCA-Jが作成され,軽度認知機能障害(以下:MCI)の鑑別に高い感度と特異度を示し,信頼性,妥当性の高い検査としている。しかしながら,COPDにおける認知機能低下に対するMoCA-Jの有効性を述べたものはない。そこで,COPDの認知機能低下を鑑別するスクリーニングテストとしてMMSEと比較してMoCA-Jが有効かであるかを検討することとした。【方法】安定期COPD患者11名(男性8例,女性3例),年齢70.1±8.0歳,一秒量/予測一秒量47.8±28.7%を対象に1対1面接法式にてMMSE,MoCA-Jの順で各々一週間以内に行った。MoCA-Jは10分程度で実施可能な30点満点の評価で記憶,言語,実行機能,ワーキングメモリ,視空間認知,概念的思考など多面的に評価する課題構成となっており,従来の認知症スクリーニング検査の難易度を高くした内容となっている。得られたデータに対し対応のあるt検定にて差の検定をした。統計解析はSPSS ver18を使用し,有意水準は5%未満とした。【結果】11例のCOPD患者においてMMSEに比較してMoCA-Jでは有意に得点が低く(MMSE vs MoCA-J:27.8±1.8 vs 23.5±3.8)MMSEではカットオフの23点を上回っているにも関わらずMoCA-Jのカットオフである26点を下回る結果となった。【結論】先行研究においてCOPD患者(45例)と対照群(50例)を置きCOPD患者にはMCIがあることを示し,MMSEよりMoCAがその選別に優れている可能性を示している。また,SylviaらはCOPDにおけるMCI検査としてMMSEと比較してMoCAは妥当性があるとしており,今回の研究では,COPD患者においてMMSEで抽出されない認知機能低下がMoCA-Jによって抽出できる可能性を示唆した。自己管理能力を向上させるためには認知機能の低下は阻害因子になりうる。MMSEのみの評価だけでなく,MoCA-Jを使用し認知機能面へのアプローチを考える必要があると考える。今後の課題としてAlexandruらはMoCAを用いてMCIの評価を行った際COPDは安定期,増悪期問わずMCIが存在していると報告している。今後,症例を増やし重症度別の認知機能低下やMoCA-Jにおいてカットオフ以上と以下での身体特性の違い,その他のパラメータとの相関関係を示すものなど検討していく必要がある。