著者
桑原 徹
出版者
Japan Association for Quaternary Research
雑誌
第四紀研究 (ISSN:04182642)
巻号頁・発行日
vol.7, no.4, pp.235-247, 1968-12-20 (Released:2009-08-21)
参考文献数
61
被引用文献数
33 26

The tectonic development of the Noobi sedimentary basin is discussed in relation to crustal movements of southwest Japan in the period of the Quaternary.The basin is an eastern part of the Second Setouchi sedimentary province formed in the inland area of southwest Japan during the Plio-Pleistocene. In the Setouchi province, two types of tectonic movements originated in crustal undulation are recognized: Type-1 is of long-wave undulation which has formed the main depressional zone with parallel axis to the trend of the Setouchi province. Type-2 is of short wave undulation crossing, in almost cases, the trend of the axis of the province, which has formed the alternating arrangement of basin and ridge in the depressional zone.From the tectonic point of view, the province is divided into three crustal blocks from east to west:-(1) Chubu, (2) Kinki and (3) Chugoku.The eastside of the Chubu block is marked off by the Fossa Magna, and westside by the Tsuruga-Ise bay line. The Noobi basin is situated in the western end of this block. A subsidence of the basin has been largely caused by tilting movements of the block active since the Pliocene, and less by the crustal undulation. This tilting block movement in large scale is a tectonic movement characteristic in the Setouchi province. And also in the Chubu block, the trend of axis of type-2 undulation changes into parallel direction to that of the Setouchi province.The rate of the tilting movement in the Noobi basin seems to increase in the latest periods. The mean rate of the tilting movement is estimated to be 7×10-8 per year during the latest 35, 000 years according to geological evidences. This figure is almost the same to the one of the recent crustal movements measured geodetically in Japan.
著者
小野 映介 海津 正倫 鬼頭 剛
出版者
Japan Association for Quaternary Research
雑誌
第四紀研究 (ISSN:04182642)
巻号頁・発行日
vol.43, no.4, pp.287-295, 2004-08-01 (Released:2009-08-21)
参考文献数
33
被引用文献数
2 4

完新世後期の濃尾平野における土砂堆積域の変遷について,低地の地形・地質と遺跡の分布や遺物の検出状況をもとに検討した.濃尾平野では縄文時代中期後葉(4,300yrs BP)以降,木曾川扇状地東部を中心に遺跡が分布するようになり,縄文時代後期末(3,000yrs BP)と弥生時代前期末(2,200yrs BP)の2度の画期を経て,西側と南側の地域にその分布域を段階的に拡大させた.各遺跡では,地表面下2m以浅の黒色有機物層やシルトを主体とした細粒堆積物層から遺物が出土しており,遺跡が立地して以降,洪水による堆積物の供給を受けにくい環境が継続したことが推定された.これらから,濃尾平野では完新世後期に木曾川の主流および土砂の堆積域が低地東部から西部へと移行するとともに,堆積環境の安定域が西部や南部へ拡大したことが考えられる.このような変遷過程は,養老断層を境に沈降する西下がりの傾動運動と対応しており,その影響を受けたものと推定される.また,縄文時代晩期(3,000yrs BP)以降における木曾川の顕著な西流傾向と海側の地域における土砂の集中的な堆積は,「弥生の小海退」に相当する海岸線の海側への急速な前進のおもな要因となったと考えられる.
著者
Shigeo SUGIHARA Isao TAKAHARA Mamoru HOSONO
出版者
Japan Association for Quaternary Research
雑誌
The Quaternary Research (Daiyonki-Kenkyu) (ISSN:04182642)
巻号頁・発行日
vol.11, no.1, pp.29-39, 1972-05-25 (Released:2009-08-21)
参考文献数
33
被引用文献数
2 7

This thesis was written of the topography and volcanic ash layers (the so-called Kanto Loam) of the Musashino upland extending over the western region of Tokyo Metropolis. The results are summarized as follows:1) The geomorphic surfaces of the Musashino upland may be divided into Yodobashi, Narimasu, Akabane, Nakadai and Tachikawa terraces from older to younger in order. These terraces are covered with the volcanic ash layers. It was found that the older terraces are covered with the thicker volcanic ash layers, compared with the younger terraces.2) In classifying Yodobashi and Narimasu terraces, two pumice beds, namely SIP and Pm-1 found in the volcanic ash layers are used as key beds. In the case of Akabane and Nakadai terraces, TP would be used as key bed.3) Beneath the sediments of Yodobashi and Akabane terraces, observed are drowned valley features. Those valleys are filled up with marine sediments representing each of the transgression periods. The amounts of transgression are estimated several ten meters with Yodobashi terrace, and several meters with Akabane.
著者
原山 智 大藪 圭一郎 深山 裕永 足立 英彦 宿輪 隆太
出版者
Japan Association for Quaternary Research
雑誌
第四紀研究 (ISSN:04182642)
巻号頁・発行日
vol.42, no.3, pp.127-140, 2003-06-01 (Released:2009-08-21)
参考文献数
46
被引用文献数
11 16

飛騨山脈の隆起については,鮮新世後期から更新世初頭(2.7~1.5Ma)にかけて,最初の極大期があったとする点では,多くの研究者の意見が一致している.しかし,その後の第四紀の期間にテクトニックな隆起があったかどうかでは,意見が分かれていた.山麓の堆積物から隆起時期を推定する方法では,山脈の隆起がテクトニックなのか,アイソスタティックなのか,判定困難なため,本研究では飛騨山脈,爺ヶ岳一帯に分布する鮮新世後期~前期更新世の火山岩類の構造を解析した.この結果,これらの火山岩類はコールドロンをなしており,東に70°前後傾動していることが判明した.南方の高瀬川流域や槍穂高連峰での資料を加味すると,前期更新世後半(1.3Ma~)以降,飛騨山脈東半部の広い範囲で,東西圧縮場のもとでの挫屈による傾動・隆起を生じていることが明らかとなり,飛騨山脈の2段階にわたるテクトニックな隆起運動が明らかとなった.
著者
藤井 理行
出版者
Japan Association for Quaternary Research
雑誌
第四紀研究 (ISSN:04182642)
巻号頁・発行日
vol.34, no.3, pp.151-156, 1995-08-31 (Released:2009-08-21)
参考文献数
19
被引用文献数
2 2

氷河や氷床の涵養域では,雪とともにさまざまな起源を有する物質が年々堆積している.また雪が氷になる過程では,大気が気泡として取り込まれている.このように,氷河あるいは氷床から掘削により取り出したコアは,過去100~105年の気候や環境変動のタイムカプセルといえ,第四紀研究における分解能のよい情報を提供することになる.雪氷コアの解釈の上で重要なことは,コア年代の合理的な決定である.本論では,季節変化シグナルによる方法,年代示準シグナルによる方法,放射性同位体による絶対年代の決定法,氷の流動モデルによる方法を紹介する.
著者
田島 靖久 宮地 直道 井上 公夫
出版者
日本第四紀学会
雑誌
第四紀研究 (ISSN:04182642)
巻号頁・発行日
vol.45, no.4, pp.287-301, 2006 (Released:2007-07-27)
参考文献数
31
被引用文献数
2 3

日本最大の活火山である富士火山には, 山麓部に複数の扇状地が分布する. 本論では, 富士火山の西側に位置する上井出扇状地について, その形成過程を解明した. 上井出扇状地は堆積物の構成物質や地形より, その形成時期をYFM-K1~K3期の3時期に区分できる. このうち, YFM-K1期 (cal BC 3,400~2,100) は中期溶岩の噴出時期にあたり, cal BC 2,500頃には到達距離の長い岩樋火砕流が発生した. YFM-K2期 (cal BC 1,500~1,000) は, 比較的規模の大きな降下テフラや火砕流が噴出するとともに, 御殿場岩屑なだれと近接した時期に107m3オーダーの規模の大きな猪の窪ラハール-Aが発生した. YFM-K3期 (cal BC 800~AD 300) は, 湯船第2スコリア (Yu-2) をはじめとする山頂火口に由来する降下テフラの噴出時期に対応し, これらに伴うラハールが発生した.マグマ噴出率の変化と, cal BC 3,400以降の上井出扇状地における土砂堆積量の変化傾向は, おおむね一致していることが判明した. 上井出扇状地のYFM-K1期の場合, 大規模な降下テフラの発生が少なく, このため山体近傍に堆積する溶岩の供給量の変化は, 扇状地での堆積量の変化に大きく影響を与えていると考えられる. YFM-K2期については, 107m3オーダーのラハールが短時間に流出する現象が扇状地の形成に関与していた.
著者
松田 時彦
出版者
日本第四紀学会
雑誌
第四紀研究 (ISSN:04182642)
巻号頁・発行日
vol.23, no.2, pp.151-154, 1984-07-31 (Released:2009-08-21)
参考文献数
19
被引用文献数
4 6

The origin of the northward-convex structure in and around the South Fossa Magna, central Honshu is discussed in relation to the collision of the Izu Block on the Izu-Mariana arc with Honshu. The Izu Block has been pushing Honshu since the middle Quaternary when the collision occurred. The 15-30km contraction between the Izu Block and collided Honshu is presumed to have been consumed in the manner as follows: 1) internal deformation of the Izu Block, 2) thrusting, folding and uplift of the Neogene and Quaternary deposits in the South Fossa Magna, and 3) compressive uplift and strikeslip faulting dominant in central Japan outside the Fossa Magna.Geological evidences suggest that the convex structure of the Neogene of this region was formed, inheriting the pre-existing bend of the pre-Miocene terrains surrounding the South Fossa Magna and that the Quaternary collision of the Izu Block contributed to the compression of the region, though it did not strengthen the northward-convex structure significantly.
著者
後藤 直
出版者
Japan Association for Quaternary Research
雑誌
第四紀研究 (ISSN:04182642)
巻号頁・発行日
vol.33, no.5, pp.285-302, 1994-12-31 (Released:2009-08-21)
参考文献数
65

朝鮮半島の原始農耕は, 近年の集落遺跡発掘調査と栽培穀物遺体発見例の増加によって, 耕地・耕作具など不明の部分もあるが, その輪郭が明らかになりつつある. 畑作農耕は, 中国東北地方新石器時代の畑作農耕の伝播により, 有文土器時代中頃 (紀元前4,000~3,000年) に始まったと推定される. 次の無文土器時代 (紀元前1,000年) に農耕社会が形成され, この時代には水稲農耕が始まった. 暖かさの指数の等値線分布と畑作・水稲耕作の分布はほぼ対応し, 漢江流域より北では畑作が主で, 水稲耕作はほとんど行われなかった. 漢江流域以南では畑作とともに水稲耕作が行われ, 水稲耕作は南ほど盛んであった.農耕集落遺跡の立地は5つにわけられる. (1) 山間部の河川中・上流部の河川沿い, 曲流部, 合流部の河岸段丘などは, 漁撈・狩猟・採集にも適し, 小集落, 支石墓が点在するが, 狭隘なため耕地の拡大と農耕社会の発展には限度がある. 水稲への依存度も低い. (2) 河川中流から下流の平野部の河岸段丘や中洲と, (3) 小平野や谷底平野に面する低丘陵に立地する集落は, 畑作農耕・水稲農耕いずれの場合も耕地の拡大が可能であり, 農耕社会発展の中心であった. ここに支石墓のほか, 地域的・政治的統合を示す青銅器副葬墓が多い. (4) 山頂に立地する遺跡は少なく, 何らかの事情による特殊例であろう. (5) 海岸部には農耕をほとんど行わない漁撈民の遺跡も立地する. かれらは, とくに南海岸では海上交易の担い手として, 内陸部の農耕集落と結びついていた.
著者
久保 純子
出版者
日本第四紀学会
雑誌
第四紀研究 (ISSN:04182642)
巻号頁・発行日
vol.62, no.2, pp.47-60, 2023-05-01 (Released:2023-05-16)
参考文献数
88

利根川と荒川は江戸時代初期には関東平野中央部で合流し,東京湾へ流入していた.現在の利根川は加須低地から鬼怒川下流低地へ本流を移し,また現在の荒川は荒川低地から東京低地に流下している.著者は東京低地の歴史時代・先史時代の地形変遷を皮切りに,利根川・荒川の近世以前の流路や年代を,低地の微地形を手がかりとして考察した.加須低地や中川低地では,かつての利根川河道は自然堤防や河畔砂丘などの発達が手がかりとなるが,渡良瀬川との合流や断片的に残る旧河道などについての解明が望まれる.荒川低地から東京低地にかけては大規模な蛇行流路跡が認められるが,歴史時代にそこに幹川があった記録は認められない.これは堆積物の組成や考古学的データから,利根川の幹川と考えることができ,その年代と河道変遷,流域の火山活動との関係などの解明が必要である.
著者
岡本 透 大丸 裕武 池田 重人 吉永 秀一郎
出版者
日本第四紀学会
雑誌
第四紀研究 (ISSN:04182642)
巻号頁・発行日
vol.39, no.3, pp.215-226, 2000-06-01 (Released:2009-08-21)
参考文献数
30
被引用文献数
6 9

下北半島北東部の太平洋岸には,砂丘砂や泥土に覆われたヒバの埋没林が各所に認められる.この埋没林の形成期は,約2,600~2,000年前,約1,000~850年前,約500年前,および現代である.調査地域に分布する砂丘砂中に認められる埋没腐植層の年代は,14C年代値と白頭山苫小牧火山灰の年代から,約5,300年前,約2,700年前,約1,000~900年前,約600~500年前,そして約200年前に区分された.埋没腐植層の年代により,調査地域に分布する砂丘の形成期は,約5,000年前以降,約2,500年前以降,約1,000年前以降,約600年前以降,約100年前以降と推定された.約2,500年前以降は,砂丘の形成期の年代とヒバ埋没林の形成期の年代とがほぼ一致するため,ヒバ埋没林の形成には砂丘砂の移動が大きく関与している.約2,600~2,000年前のヒバ埋没林は,その年代と分布から,約3,000~2,000年前の小海退にともなう砂丘砂の移動によって形成された.約1,000年前以降に形成された砂丘については,人為的影響によって形成された可能性がある.一方,調査地域周辺には,約700~500年前の製鉄遺跡が数多く分布し,江戸時代後期にも南部藩などによって製鉄が試みられている.砂鉄採取のための砂丘の掘り崩しや,製鉄用の木炭を得るための沿岸部における森林伐採といった人為的影響によって,約600年前以降と約100年前以降に砂丘砂の移動があった.それにともなって,約500年前,現代の年代を示すヒバ埋没林が形成された.
著者
氏家 宏
出版者
Japan Association for Quaternary Research
雑誌
第四紀研究 (ISSN:04182642)
巻号頁・発行日
vol.37, no.3, pp.243-249, 1998-07-31 (Released:2009-08-21)
参考文献数
19
被引用文献数
6 5

沖縄トラフは,琉球島弧の北西側に並走して発達し,さらに北西側に展開する広大な東シナ海大陸棚外縁を縁どっている.現在,そこに黒潮が流入しているが,最終氷期には,推定されている“琉球-台湾陸橋”によって流入を妨げられて,南琉球弧南方沖で大きく東へ転向していたと考えられている.この仮説を琉球弧周辺海域,特に沖縄トラフから得た多数のピストン・コアの安定酸素同位体比測定,タンデム加速器質量分析計による14C年代測定,浮遊性有孔虫群集解析などから確かめた.さらに沖縄トラフのコアでは,浮遊性有孔虫Pulleniatinaグループが最終氷期と同様に,約4,400年前以後約1,000年間,ほぼ欠如に近い産出を示すことから,陸橋区域に黒潮の本格的な流入を妨げるバリヤーが形成され,黒潮本流の転向と南方へのシフティングを促したと推論した.この事件が,これまでにいわれている前期縄文時代後半における寒冷化をもたらしたのかもしれない.
著者
柴 正敏
出版者
日本第四紀学会
雑誌
第四紀研究 (ISSN:04182642)
巻号頁・発行日
vol.53, no.5, pp.249-257, 2014-10-01 (Released:2015-07-23)
参考文献数
28
被引用文献数
1 1

青森県で採取された縄文土器の化学組成について電子プローブマイクロアナライザーを用いて検討した.これらの土器に含まれる火山ガラスは,その化学組成により,金木凝灰岩(後期中新世),尾開山凝灰岩(鮮新世),洞爺テフラ(Toya, 後期更新世)および十和田八戸テフラ(後期更新世)に帰属される.これらの土器に含まれるガラスは一つのテフラのガラスからなることが一般的であることから,特定のテフラ層に由来するものと考えられる.今回,下北半島の不備無遺跡から出土した縄文土器から尾開山凝灰岩起源の火山ガラスが見出されたが,尾開山凝灰岩は青森県最北部の下北地域には分布しないことから,当該の土器は津軽地方で製作され,下北地域に運搬されたと考えられる.すべての縄文土器の基質部は,カオリナイトまたはハロイサイトまたはカオリナイト/スメクタイト混合層鉱物からなる.その他の粘土鉱物としては,後背地の地質の違いにより,イライト,緑泥石,イライト/スメクタイト混合層鉱物,コレンサイトがカオリン鉱物と共存する.
著者
馬場 悠男
出版者
Japan Association for Quaternary Research
雑誌
第四紀研究 (ISSN:04182642)
巻号頁・発行日
vol.37, no.3, pp.259-266, 1998-07-31 (Released:2009-08-21)
参考文献数
31

現代日本人の成立に関しては,明治時代から多くの研究者によって,北方および南方からやってきた複数の起源集団による混血の可能性が示唆され,今日でも広く認められている.すなわち,東アジア全体として,更新世末期(3~1万年前)には南方系と考えられる人々が分布していたが,最近(1万年~5,000年前)は北方系と考えられる人々が急速に拡大した,という理解の上に立って,縄文人は南方系の先住集団であり,弥生人は北方系の渡来集団であって,両者の混血によって現代日本人が成立した,と解釈するものである.このような解釈をまとめたのが埴原和朗の「二重構造モデル」である.その際の,南方および北方からの移動のルートとしては,南西陸橋あるいはその付近の海路が有力であるが,北方のルートの可能性も指摘されている.少なくとも,弥生人の渡来に関しては,九州北部を中心とする地域に集中したことはまちがいない.なお,尾本恵市は,遺伝学的データから,更新世後期にすでに南方系アジア人と北方系アジア人が分化していたと考えている.そうすると,縄文人も北方系の人々に起源を持つことになる.筆者は,化石人類の頭部形態から,縄文人の起源は更新世末期に北東アジア沿岸部に住んでいた人々であると考えている.
著者
河村 善也
出版者
日本第四紀学会
雑誌
第四紀研究 (ISSN:04182642)
巻号頁・発行日
vol.31, no.1, pp.1-12, 1992-02-29 (Released:2009-08-21)
参考文献数
34
被引用文献数
2 5

帝釈峡遺跡群に属する観音堂, 堂面, 穴神, 馬渡の4遺跡から産出した哺乳動物化石の層序学的な分布を, 現在までに得られた資料をもとにまとめた. これらの遺跡から産出した哺乳類の約69%は現在もこの地域に生息する種類で, その大部分は後期更新世の後半から連続してこの地域に生息していたものと考えられる. 一方, 全体の約19%は現在この地域には分布しないが, 他の地域には生息している種類で, これらは後期更新世から完新世にかけてのいろいろな時期に, この地域から絶滅したと考えられる. 残りの12%は絶滅種で, それらはすべて後期更新世末までに絶滅したと考えられる. 現在この地域に分布しない種類や絶滅種のこの遺跡群における消滅層準の年代は, 32,000から21,000年BPの間 (ヒョウ), 21,000から16,000年BPの間 (ニホンモグラジネズミ, ヒグマ属, ゾウ科の動物), 16,000から12,000年BPの間 (ニホンムカシハタネズミ, ブランティオイデスハタネズミ), 10,000年BP頃 (ヤベオオツノシカ), 6,000から5,000年BP頃 (オオヤマネコ) で, これらの年代は各種類の本州におけるおおよその絶滅時期と対応する可能性が高い.
著者
伊藤 剛 阿部 朋弥 宮川 歩夢
出版者
日本第四紀学会
雑誌
第四紀研究 (ISSN:04182642)
巻号頁・発行日
vol.59, no.5, pp.105-116, 2020-10-01 (Released:2020-10-15)
参考文献数
68
被引用文献数
4

西三河平野南西部の油ヶ淵低地で採取したボーリング試料中の更新統下部の礫層に含まれるチャート礫及び珪質泥岩礫から放散虫化石を抽出した.チャートの中亜角礫からペルム紀放散虫を,中亜角礫~亜円礫から三畳紀放散虫を,中角礫からジュラ紀放散虫を得た.これらの礫の供給源は,調査地域南方の渥美半島に露出するジュラ紀付加体秩父テレーンである可能性が最も高い.そして,重力異常(ブーゲー異常)に基づくと渥美半島と西三河平野南西部の間に大きな基盤の隆起帯が無いと推定されることから,礫層の堆積時(約100~80万年前)には渥美半島から西三河平野南西部に礫を供給しうる水系が存在していたことが示唆される.
著者
町田 洋 松島 義章 今永 勇
出版者
Japan Association for Quaternary Research
雑誌
第四紀研究 (ISSN:04182642)
巻号頁・発行日
vol.14, no.2, pp.77-89, 1975-06-30 (Released:2009-08-21)
参考文献数
21
被引用文献数
4 8

The tephrochronological study of the eastern foot of Mt. Fuji (Fig. 1) would provide abundant data for analyzing not only eruptive history of Fuji volcano but also other late-Quaternary events, because there lies a large quantity of tephra derived mainly from the volcano. Several marker pumice layers are found sandwiched within great numbers of scoria sheets and are correlated with those in south Kanto, where stratigraphic position and radiometric age of them were well established (Table 1, 2 and Fig. 3). The revised stratigraphy and chronology in this area should play significant role in discussing several Quaternary problems around there.1) Mt. Fuji volcano became active ca. 80, 000 y. B.P., when the most important marker pumice, the Ontake Pm-I, showered. Since then, the eruption of “Older Fuji stage” had occurred more or less continuously until ca. 10, 000 y. B. P. without any significant periods of quiescence. The Older Fuji tephras are estimated at approximately 250km3 in volume, which are distributed extensively in south Kanto (Fig. 6). These explosive activities ended at about 10, 000 y. B. P. and there followed a long quiescent period, succeeded by “Younger Fuji stage”.2) The fluvial formation formerly called “Suruga Gravels” is a deposit of the ancient Sakawa river ca. 80, 000 y. B. P. The ancient river took its rise in Tanzawa mountains and might have flowed west- or southwestward into Suruga bay, instead of Sagami bay, the present course flows into. The change in river course appears to have taken place during the period from 80, 000 to 60, 000 y. B. P., associated with the growth of the volcanic edifice of Mt. Fuji (Fig. 5).3) The Kannawa fault, one of the most important tectonic lines in central Japan, runs east to west along the northern margin of the area. It branches westwards into two faults; Kn and Ks. Along the Kn fault a thrust is found dipping northward, whereas along most of the course the fault plane is nearly vertical (Fig. 9). The movements of the both faults are younger than the Suruga Gravels, which is displaced vertically more than 50 metres during the last 80, 000 years.
著者
貝塚 爽平
出版者
Japan Association for Quaternary Research
雑誌
第四紀研究 (ISSN:04182642)
巻号頁・発行日
vol.1, no.1, pp.22-30, 1957-05-30 (Released:2009-08-21)
参考文献数
15
被引用文献数
4 3

1. 武蔵野台地は, 地形面の連続性と関東ローム層によつて, 下末吉面, 武蔵野面, 立川面およびそれ以下の段丘に大別される. これら各面をつくるものは, 武蔵野面および下末吉面の東京山の手地域にあるものをのぞくと, いづれも礫層であつて, これらの礫層よりなる各面は, 主として多摩川の作つた扇状地である.2. これら各面の縦断面形の比較と武蔵野面の等高線異状の考察から, 武蔵野台地の北部は北東に傾き下る撓曲をうけて変形したことが明らかにされた. この変動は大宮台地には及んでいない. また, 古い地形面ほど大きい変形を示すことから, この運動が継続的なものであることが知られる.3. 洪積世末期には, 武蔵野台地の南部から松戸附近の下総台地に至るほぼ東西の軸を境として, これ以北では関東平野の中心部に向う造盆地運動がありこれ以南では, とくに房総半島北部の地形に著しくあらわれている東京湾の低地を作る沈降運動が行われた.
著者
宮地 直道 能城 修一 南木 睦彦
出版者
日本第四紀学会
雑誌
第四紀研究 (ISSN:04182642)
巻号頁・発行日
vol.23, no.4, pp.245-262, 1985-01-31 (Released:2009-08-21)
参考文献数
14
被引用文献数
2

The eastern and southeastern slopes of Fuji Volcano which are covered with Fuji 1707 Tephra lack subalpine coniferous forests. At three sites on the southeastern slope, geological and paleobotanical studies were made on the fossil forests buried under this tephra. This pyroclastic fall deposit ejected from the Hoei Craters of December 16, 1707 A.D. consists of a lower pumice bed (Ho-Ia) and upper scoria beds (Ho-Ib) in this area. The wood fossils and other plant macrofossils are buried in or beneath the Ho-Ia, which consists of many bombs and coarse pumice fragments, with a maximum thickness of 70cm. The occurrence of wood fossils and other plant macrofossils indicate that leaves, branches and stems were buried in that order in the lower pumice bed very rapidly. Most of the wood fossils were carbonized by the heat of the pumice fragments.The forests which existed until December 16, 1707 A.D. were reconstructed. At site MK-4 (1745-1785m in alt.), there were stands composed of subalpine conifers such as Abies veitchii, Tsuga diversifolia and Picea jezoensis, one stand of Larix and one small stand of deciduous broad-leaved trees, that were distributed in patches. At site MK-2 (1680m in alt.), there was a forest of Abies, Tsuga diversifolia, and Picea jezoensis with a few broadleaved trees. At site MK-5 (1630m in alt.), there was a forest of Abies, Picea jezoensis, and Picea cf. maximowiczii with a few montane-zone elements such as Pterocarya or Pourthiaea.These facts indicate that, prior to the eruption, subalpine coniferous forests and montane ones existed on the southeastern slope of Fuji Volcano, and that the boundary between the subalpine zone and the montane zone was at about 1650m in alt. around the three sites. The elevation of this boundary is lower than that of the present one on the southern slope of Fuji Volcano. Since then, the forests have been replaced by a Larix forest or a Quercus and Betula forest at sites MK-2 and MK-5 where the surfaces have become relatively stable; whereas, a volcanic desert still exists around site MK-4 situated in the course of an avalanche chute.
著者
西田 史朗 高橋 豊 竹村 恵二 石田 志朗 前田 保夫
出版者
日本第四紀学会
雑誌
第四紀研究 (ISSN:04182642)
巻号頁・発行日
vol.32, no.3, pp.129-138, 1993-07-31 (Released:2009-08-21)
参考文献数
33
被引用文献数
3

琵琶湖周辺に位置する彦根市曽根沼, 比良山地の小女郎ヶ池湿原, 福井県鳥浜貝塚の湿原堆積層中で, 鬼界アカホヤ火山灰層の上位に存在する火山灰層について, 火山ガラスの主要元素組成と屈折率を測定したところ, それらが互いに対比できることが分かった. 一方, これらの測定値は, 伊豆半島カワゴ平火山を給源とするカワゴ平降下火山灰層の火山ガラスの主要元素組成と屈折率の測定結果ともよい一致をみる. すでに, カワゴ平降下火山灰層が東から西に飛んだ火山灰であると報告されていることから, 今回測定した火山灰層がカワゴ平降下火山灰層であると考えるに至った. カワゴ平降下火山灰層は3,000年BP前後の噴出と考えられるので, 伊豆半島から近畿地方にかけての地域で, 縄文時代後・晩期の有効なマーカーテフラの発見となる. 日本列島をおおう第四紀の広域火山灰層のほとんどは, その給源火山を分布域の西端近くにもつか, 西方に予想されてきたが, 上記の火山灰層については当てはまらない. カワゴ平降下火山灰層を西方に吹送するような日本列島に広く東風の吹く気圧位置として, 梅雨期と秋雨期, さらに本州沖を巨大台風がゆっくりと東進する場合が考えられる. 今回の気象条件は特定できないが, これらのいずれかとカワゴ平火山の噴火時期が一致して西方へ運ばれたと考えられる.
著者
鈴木 三男 能城 修一
出版者
Japan Association for Quaternary Research
雑誌
第四紀研究 (ISSN:04182642)
巻号頁・発行日
vol.36, no.5, pp.329-342, 1997-12-31 (Released:2009-08-21)
参考文献数
55
被引用文献数
4 5

遺跡から出土する木材化石の樹種を調べることにより推定される縄文時代の植生の変遷と,縄文人の木材利用による植生の改変について概観した.最終氷期には亜寒帯性針葉樹林が全国的に拡がっている.それ以降の気候温暖化に伴って冷温帯落葉広葉樹林を経て,縄文時代前期には西南日本ではアカガシ亜属,シイ類を中心とする照葉樹林に,関東地方ではトネリコ属,クヌギ節,コナラ節,クリなどの落葉広葉樹林が,本州北部の三内丸山遺跡ではトネリコ属,モクレン属,カエデ属,ブナ属などからなる冷温帯落葉広葉樹林になっていた.トネリコ属(ヤチダモ)林は,縄文時代に中部~関東,東北日本の低湿地に広く分布していたが,弥生時代以降,ほとんどが失われた.同様に,スギの平地林,モミの丘陵地林も,縄文時代以降に失われた.縄文社会が拡大し,人口が増えて集落が拡大することにより,これらの自然林は改変され,クリ,コナラ節,クヌギ節,エノキ属などからなる二次林が成立し,これは現在の雑木林(里山)へとつながっているものである.このような森林環境から縄文人は燃料材,さまざまな器具材,建築材,土木用材等に樹種を選択的に,あるいは非選択的に利用し,そのような利用がまた森林の改変に拍車をかけた.そして,縄文時代を通して大量に利用されたクリ材は,自然状態での再生産のみでは需要に追いつかず,人間が積極的に栽培・管理した可能性を指摘した.