著者
久保田 尚之 小坂 優 謝 尚平
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

<br><br><b>1.&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; </b><b>はじめに</b><b></b><br><br>夏季西部北太平洋域での代表的な気圧配置パターンとして、フィリピン海と日本付近の気圧偏差が逆相関の関係で年々変動するPJ (Pacific-Japan)パターンが知られている(Nitta 1987, Kosaka and Nakamura 2010)。これは、日本の猛暑・冷夏と関連して、東アジア太平洋域の夏の天候を広く特徴づける気圧配置パターンである。本研究では、PJパターンを地上データから定義することで1897-2013年のPJパターンを再現し、夏期西部北太平洋域のモンスーン活動の数十年変調を調べた。<br><br><b>2</b><b>.</b><b> </b><b> </b><b>データと解析手法</b><b></b><br><br>夏期(6-8月平均)の高度850hPaの渦度(10-55&deg;N、100-160&deg;E)の主成分解析(1979-2009年のJRA55データ)で得られた第1モードと海面気圧との相関を図1に示す。PJパターンに対応したフィリピン海と日本付近の逆相関が顕著な2地点(横浜と恒春)を選び、6-8月平均の気圧差(横浜-恒春)をPJパターンの指標(PJ指標)と定義した。解析期間は1897-2013年。<br><br><b>3.&nbsp; </b><b>結果</b><br><br>PJ指標が正の年は日本、韓国、中国の長江流域で乾燥・猛暑となり、フィリピン海のモンスーン活動が活発で雨量が多く、沖縄や台湾を通過する台風活動も活発になる(図2)。一方で、負の年は逆に北日本の冷夏、日本のコメが不作、長江の洪水と対応する。PJ指標との関係を1897年まで遡ると、PJ指標とENSOとの相関が高いのは1970年代後半以降であることがわかる(図3)。それに対して1940年代から1970年代は不明瞭、さらに1930年代、1910年代より前は再び明瞭になる関係があり、数十年の間隔で明瞭、不明瞭の時期が繰り返されていることがわかる。日本の夏の気温、コメの収穫量、台湾や沖縄を通過する台風数とPJ指標との関係もまた、明瞭、不明瞭の時期を数十年間隔で繰り返しており、変化が一方向でないことから、変調が地球温暖化よりも気候の自然変動に伴うことを示唆している。
著者
福岡 義隆 丸本 美紀
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.215, 2011

1.いま何故、平城京ヒートアイランドか 昨今の温暖化(平成温暖期とする)に類似の平安温暖期(奈良時代から平安時代にかけて)における都市の熱環境はどうであったか。それは平城京や平安京の繁栄の現われなのか。文献的な検証により、古環境とくに気候環境への適応工夫を見直してみて先人の知恵を学ぶ手がかりにしたい。2.研究方法2-1 古典的な気候学研究方法からの類推(1)SchmidtによるWienにおける都市気温の成因分析.1917,(2)福井英一郎による土地利用比率からの都市気温の推定回帰式とAustasch概念導入.1956,(3)高橋百之による家屋密度Dと気温Tの関係式,T=αD+βで概略描写.1959,(4)河村武による都市温度成因分析,熱的指数1/(cρκ1/2)で微差補正.1964,(5)田宮兵衛による団地の気温分布参考.1968,(6)オーク、福岡、朴らによる人口数Pとヒートアイランド強度HII=AlogP+Bの回帰式で京内外の温度差推定(1987・1992,など)。2-2 平城京内の居住環境と土地利用の推定 馬場基著(2010)『平城京に暮らす』(吉川弘文館)~主に「大日本古文書」「平城宮木簡」「平常京木簡」「平城宮発掘調査出土木簡概報」などに基づく著書、宮本長二郎著(2010)『平城京―古代の都市計画と建築』(草思社)~各種古文書のほか奈良国立文化財研究所や歴史民俗博物館などの模型などに基づき穂積和夫によるイラストでの復元図、奈良文化財研究所編(2010)『平常京―奈良の都のまつりごととくらし』など3.冬季夜間のヒートアイランド推定結果 上記の手法、先行研究方法からの概略図把握および各種文献による微差補正などで下図を得る。 根拠とした数値など;_丸1_平城京の人口は10万~20万人と推定されているので、オーク・福岡らの人口とヒートアイランド強度(HII)の相関図から、おおよそHIIは1.5~2℃とした。_丸2_人が集まりやすい区域、例えば市場(東市・西市)とか頻繁に宴会が催された朝堂院、大学寮(式部省近く)、広場(行基の布教活動支援の大衆集合)等は周辺より高温とした。_丸3_大極殿とか長屋王邸などの屋根のように著熱効果のある瓦が大量に使われている建物群区域もやや高温とみなした(平常京全体で500万枚の瓦が使われた)。_丸4_朱雀大路とか二条通りなどの街路樹(槐、エンジュ)や佐保川とか秋篠川、大極殿北隣の溜池あるいは苑内池付近などの蒸発散面区域でやや低温であったと類推される。
著者
山下 博樹 藤井 正 伊藤 悟
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2005, pp.125, 2005

1.はじめに 成熟時代を迎えた欧米をはじめとする多くの先進諸国では、20世紀に拡散・肥大化した都市地域をいかに持続可能なかたちに再構成するかが、都市政策の主要テーマのひとつとなりつつある。オーストラリア第2の都市であるメルボルンでもその都市圏の市街地は拡大の一途をたどり、住居・商業施設などの郊外化が進展した。しかし、そのような状況の中、メルボルンが位置するビクトリア州政府は都市圏の無秩序で拡散的な拡大を防ぐために、1970年代より郊外核となるアクティビティ・センターと都心の一体的な整備・開発を行ってきた。本報告では、地域住民の日常的な生活行動と関わりの深いショッピングセンターの立地動向より、メルボルン都市圏の地域構造の一端を明らかにする。さらに、アクティビティ・センター開発の特徴について述べる。2.ショッピングセンターの立地展開 メルボルン都市圏の人口336.7万人(2001年センサス)は、メルボルン市を中心にやや東に偏って分布している。その結果、主要なショッピングセンターの立地もそれに類似した傾向を示している。都市圏内に立地するショッピングセンターは、156カ所でその総売場面積は約255万_m2_である。メルボルン都心部に立地するのは10カ所、約13万_m2_に過ぎず、商業施設立地の郊外化が顕著である。売場面積が8.5万_m2_を超えるスーパーリージョナル型は4カ所、5万_から_8.5万_m2_のメジャーリージョナル型は12カ所となっている。ショッピングセンターの立地は、1970年代以後急速に進められたが、90年代後半よりその新規立地は減少傾向にある。3.アクティビティ・センターの開発 アクティビティ・センターの開発構想は、1970年代にさかのぼる。アクティビティ・センター開発の目的は、鉄道などの公共交通利用を基本とした、小売、サービス、オフィスなどの土地利用のミックス化と就業空間の形成である。その背景には公共交通利用の促進や職住接近などによる持続可能性の高いまちづくりがある。アクティビティ・センター開発の基本的な特徴は次のようにまとめられる。_丸1_アクティビティ・センターの開発は基本的には州が基本方針を立て、各自治体がそれを実行している。_丸2_その財源の確保は、基本的にはケースバイケースである。_丸3_郊外間を結ぶ公共交通は、アクティビティ・センター間をバスで結ぶ形で整備を進めている。_丸4_新規のショッピングセンターの開発は、ゾーニングにより基本的にはアクティビティ・センターへ誘導される。アクティビティ・センター以外へのショッピングセンターの開発などは、各自治体が調整を行っている。_丸5_郊外型の大規模ショッピングセンターもバスなどのアクセスを増やし、公共交通体系の中に位置づけている。 本研究を行うに際し、平成16_から_17年度科学研究費補助金基盤研究(C)(1)「成熟時代における都市圏構造の再編とリバブル・シティの空間構造に関する地理学的研究」(研究代表者:山下博樹)の一部を使用した。メルボルン都市圏における主要シヨッピングセンターの立地 1:メルボルン都心部 2:スーパーリージョナル型(売場面積8.5万_m2_以上)3:メジャーリージョナル型( 〃 5万_から_8.5万_m2_)4:リージョナル型( 〃 3万_から_5万_m2_) 資料:『Shopping Centre Directory Victoria & Tasmania (PROPERTY COUNCIL OF AUSTRALIA 刊)』より作成
著者
中川 清隆
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

<BR><B>Ⅰ. 関東平野北西部猛暑研究の動向</B><BR><BR> わが国観測史上最高気温40.9℃の記録を持つ熊谷をはじめ,館林,伊勢崎,前橋,高崎といった関東平野北西部では,暖候季にしばしば猛暑が集中して発生し,最高気温起時は太陽南中後約3時間と遅い傾向があり(中川,2010),近年その頻度や強度が増加傾向にある(藤部,2012).藤部(1998)は,850hPa気温≧21℃,日照時間≧8時間の著しい高温気団に覆われる晴天日の増加を関東平野内陸域における猛暑日増加の主要因とし,一般風西風型および弱風型猛暑の場合には都市化も要因の一つとした.<BR> 近藤(2001a)は,1992年7月29日猛暑の原因として,①北西上層風の関東内陸部までの長いフェッチに伴う大きな熱移流項と,②山岳風下の関東平野上空における下降気流に伴う大気境界層厚減少による熱容量減少を指摘した.近藤(2001b)は,晴天日の関東地方における,①海岸付近の海風循環低気圧,②長野県-関東平野標高差に伴う対流混合層高度差による内陸低気圧,③谷状地形を呈する関東平野北西部斜面を上る斜面循環流反流収束による前橋付近の強い下降流が形成する熱的低気圧の連携による猛暑発生機構を指摘した.木村ほか(2010)は,理想化実験により,山岳において成長する混合層が平地に比べて高温位の上層大気を混合層内に取り込み,これが一般風および局地風により輸送されて山岳風下側の混合層および地上の温位を上昇させることを指摘した.<BR> 篠原ほか(2009)は,彼らのシミュレーション解析および桜井ほか(2009)の事例解析の結果に基づいて,①背の高い暖かい高気圧下の沈降場における断熱圧縮昇温と鉛直方向の拡散抑制,②高い最低気温,③埼玉・東京都県境での海風前線停滞による海風侵入の阻止および山越え気流の継続,④力学的フェーンによる昇温の4点を,2007年8月16日猛暑の原因とした.<BR> 渡来ほか(2009a,b)は,魚野川-利根川の谷(ギャップ)を塞ぐ数値実験の結果等に基づいて,2007年8月16日はドライフェーンであったが,午前中は浅いフェーンであり,午後に深いフェーンに変化したと結論付けた.Takane and Kusaka (2011)は,2007年8月16日は,山越えの際に日射により加熱された山地斜面から非断熱加熱が付加される,ウェットフェーンでもドライフェーンでもない第3のフェーンであったと主張した.<BR> Enomoto <I>et al</I>.(2009)は,2004年7月20日猛暑は,①チベット高気圧北縁のアジアジェット気流蛇行の東方伝播による小笠原高気圧の強化と,②同高気圧から吹出す高相当温位風による山岳風下フェーンにより形成されたと結論付け,同猛暑が大規模現象と密接に関連していると主張した.<BR> 熊谷地方気象台はHPにおいて,①東京都心からの熱移流と②秩父山地越えフェーンの2点を,埼玉県の平野部が暑くなる理由としている.吉野(2011)は,関東の異常高温時の予察的モデルを提唱した.局地的強風により海風前線が侵入し難い水平距離150~180kmの本州脊梁山地ギャップ出口のほぼ中央部に位置する熊谷と都心の間に海風前線が停滞するため,熊谷以北の地域が,海風による冷却を受けず,日射とフェーンによる加熱を受け,著しい高温に至るとした.<BR><BR><B>Ⅱ. 本シンポジウムの目的</B><BR><BR> 上述の如く,関東平野北西部猛暑の発生メカニズムに関しては様々な説があり,統一見解は未だ得られていない.本シンポジウムは,これらの諸説および7名の話題提供者による新たな見解を吟味・総括し,関東平野北西部猛暑の発生メカニズム研究の今後の課題を明確にすることを目指す.
著者
出口 源吾
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論
巻号頁・発行日
vol.28, no.3, pp.133-144, 1955

In formor times, Kawakami-znura, a high elevated mountain village situated in the uppermost reaches of the Chikuma river, long existed as a typical isolated mountain village in the central part of Japan. But since the opening of the houmi line in 1935 and the establishment of Shinano-hawakami Station, a rapid transformation has taken place. The aim of this paper is to make clear this transformation.<br> 1. The population has increased rapidly. Its ten year increasing rate was 40.5%, from 1930 to 1940. approximately doubling that of the previous ten years. (Figure 2)<br> 2. The percentage of the farm population has decreased, while that of the population in sawing industry, commerce and salaried occupation has increased. We can understand that there has occurred a great change in occupational structure. (Table 1)<br> 3. Nursering of young larch-trees by utilizing the rice fields and growing of truck vegetables suited for cool high elevated regions have become the most important income sources in agriculture. The horse-breeding, the former chief income source, has lost its importance now.<br> 4. At the same time, the land in communal ownership, which was meadows, pastures and forests for fuel, has been divided among the inhabitants as their private land holdings. The utilization of these forests has been greatly promoted, and these pastures are being afforested. It is obvious that forestry is another principal imcome source there.<br> 5. Changes in the extent of trade area, decrease of matrimonies within the village community and the expansion of the sphere of inter-marriage make us acknowledge the enlargement of the community. (Table 5)<br> 6. At the frontier settlements, Kawahake and Azusayama, the settlers depended only on foresty as their chief work, because the coolness indicated by 20&deg;C of the mean temperature in August made them impossible to grow such crops as rice. But now, after they began to grow such truck vegetables as Chinese cabbages and ordinary cabbages and to rear seed silkworms, their income has increased a great deal. But, judging from their ability to pay tax, theirr newspaper reading, their owning of radios, postal matters and so on, the standard of living at those high elevated frontier settlements is lower than the center of the village near the railroad station.<br> 7. Thus, this mountain village, which has been forced to be satisfied with the low level of production caused by the cooler climate and isolated position, is endeavoring to find out the ways to overcome the backwardness in economy and culture, in order to promote the security of living, in response to the modern impoved communication means.
著者
水野 勝成
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2003, pp.174, 2003

国土地理院2万5千分1地形図(以下「地形図」)を眺めると、都道府県や市区町村の行政境界線付近にいわゆる飛地と呼ばれる断片的な領域がいくつか点在していることがわかる。この飛地(とびち)とは、「同一支配下に属する行政区域が地理的に連続せず、離れて他の行政区域に囲まれて存在する」(『地理学事典 改訂版』日本地誌研究所編、二宮書店、1989年)とされている。渡部(1990)は、この地形図にて飛地を所有する地方自治体として109町村を示したが、日本全国にどのような飛地が存在し、その形成理由や消滅理由等を総括した研究は少なかった。 そこで、インターネットGISの代表格である国土地理院「地形図閲覧システム」を活用し、地形図上に記載されている「行政区+飛地」(例、弘前市飛地)の地名表記を検索する。複数の地形図に同一の飛地が認識される場合があるため、各地形図を目視しながら確認することで、全国に232カ所の飛地が地形図に表記されていることが判明した。これらの飛地は鹿児島から青森まで日本全国に広く分布しているものの、北海道や愛知県にはみられず、他方、山形県、千葉県、新潟県、大阪府、鹿児島県には多くみられ、さらに、いくつかの自治体に集中している状況を明らかにした。 この232カ所の飛地情報を本研究のプラットホームとし、まず、史実資料などをもとに、これらの飛地の形成理由を調査した。これらを大まかに分類すると、江戸時代の知行地によるもの、新田開発等の人為的なもの、寺院をはじめとする宗教的なもの、隣接しない自治体の合併によるものの、4種類に類型化できる。これらの事由は単一に作用するものばかりではなく、複数の要因によるものも多い。飛地が多くみられた山形県、千葉県、新潟県、大阪府、鹿児島県における面積の小さな飛地は知行地によるものが主流であり、面積が大きく、その飛地内に学校などの公的設備が存在する場合の多くは、隣接しない地方自治体の合併によるものであった。飛地の境界線が幾何学的(例、長方形)は新田開発等の人為的なものである可能性が高いことも分かってきた。 この飛地の類型化をさらに正確なものにするため、飛地が認識された自治体へ調査票を送付し、歴史的背景を含めて、飛地の形成理由を現在調査中である。さらに、飛地の面積、人口、主要な建物、道路などの交通路、ゴミ回収をはじめとする住民サービスの状況等をGISなどの方法も併用して調査することも計画している。現在、いわゆる平成の大合併により多くの市町村合併が進行中である。多くの飛地がこの合併により消滅し、一方で、隣接しない地方自治体の合併によりさらに飛地が生成されるのではないかと考えられている。これを良い事例とし、飛地の生成・消滅事由を現実に即して類型しつつ、明らかにしたいと考える。【参考文献】長井 政太郎(1960):「飛地の問題」『人文地理』pp.21-31、21-1、人文地理学会渡部 斎(1985):「近世における飛地」『地理誌叢』pp.58-64、26-1/2、日本大学地理学会渡部 斎(1987):「地方行政境界に見られる飛地について ―広島県大竹市の場合―」『地理誌叢』pp.78-84、28-2、日本大学地理学会渡部 斎(1990):「地方行政境界にみられる飛地の現状」「道都大学紀要―教養部―」No.9、pp.45-54、道都大学
著者
森永 由紀
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2012, 2012

モンゴルの気候は大陸的で冬が厳しく、そこでは数千年にわたって遊牧が行われてきた。遊牧民は草と水を求めて家畜と共に移動し、同時に干ばつやゾド(厳しい冬の災害)から逃れるためにも移動する。彼らは厳しい気候下で生き残るために様々な環境学的伝統的知識を有する。たとえば、彼らは夏に比べて暖かい場所に冬のキャンプ地を定める。彼らは移動することに価値をおき、定住することを避ける、などである。本研究の目的は、遊牧民の移動に関連する遊牧の知識を検証することである。モンゴル北部の森林草原地帯であるボルガン県において、気象・生態学的調査を2008年より実施し、次のような結果が得られた。1)山の裾野にある冬のキャンプ地と盆地底にある夏のキャンプ地での1時間おきの気温の観測値から、冬のキャンプ地は冬季に出現する冷気湖の上部の斜面温暖帯に位置することが明らかになった。さらに、冬季の冬のキャンプ地の気象条件は夏のキャンプ地に比べると体感気温の面でも家畜にとって好ましいことがわかった。2)ヒツジとヤギの移動群れと固定群れの体重の季節変化の比較実験を行った。移動群れの体重は11月まで増加し続けたのに対して、固定群れの体重増加は9月で止まった。冬場の体重減少率は固定群れの方が大きかった。
著者
林 哲志
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2003, pp.78, 2003

_I_.はじめに 愛知県の最南部に位置する渥美半島は、我が国では数少ない東西方向に伸びた半島である。半島の南側は太平洋で、暖流の黒潮が流れているため「常春の岬」と宣伝に謳われる。しかし、風が強く、特に冬期の北西風は体感気温を下げている。そして、ここには縄文時代の貝塚などの遺跡がいくつか展開している。渥美半島の3大貝塚(拠点貝塚)といわれる、吉胡貝塚・伊川津貝塚・保美貝塚の他、北屋敷貝塚・下地貝塚・八幡上貝塚・川地貝塚などが、おもに半島北側の三河湾に面した地域に分布している。この発表は、縄文時代の後半、後期・晩期と区分された時期の渥美半島における縄文人の生活環境や生活様式について考察するものである。そして、今回は主に、人骨出土数日本一といわれる吉胡貝塚の発掘データや周辺環境についてのフィールド調査の結果から、人々がどのような環境で生活を営んでいたか、「暮らし振り」をまとめてみたい。_II_.これまでの発掘調査の経緯吉胡貝塚の発掘は、大正11・12年の清野謙次による多数の縄文人骨発見にはじまり、昭和26年には文化財保護委員会と愛知県教育委員会による「国営発掘第1号」となる調査が行われた。その後、昭和55年に田原町教育委員会による遺跡の範囲を確定するための発掘が行われ、昭和58年には同じく町教委が貝層断面模型を作成するための調査が実施された。最近では、平成7・8年度に貝塚の北西側で区画整理事業にともなう調査が行われた。そして、平成13・14・15年度には史跡整備のための範囲確認調査が実施され、「現況地形」「貝塚範囲」「居住域」「当時の自然環境」「過去の調査区位置」「保存状況」の解明を進めている。以上のように、度重なる発掘調査ごとに報告書や論文などの文献が発行され、基礎データとして活用することができた。_III_.結果の概要今回の考察は、これまで考古学や人類学・民族学などの分野の研究者が行なってきた調査やそこから得られたデータを活用し、人文地理学的な見地から吉胡貝塚における「暮らし振り」をまとめたものである。それを列挙すると次のとおりである。_丸1_柱穴の遺構より、住居址はあったが集落が形成された根拠までは見出せない。_丸2_貝塚や墓があることから生活の場であったことは確実である。_丸3_段丘上は礫質の土壌であるため、柱が容易に建てられず、住居址は認められない。_丸4_貝塚が立地する背景に、河川と海の接点である干潟の存在があるが、吉胡においても汐川干潟が生活の舞台であった。_丸5_貝層の含有物より、人々の食生活は海・川・山(陸地)など周辺環境すべてに依存していた。_丸6_貝塚は段丘崖下に位置しており、そのあたりでは水利が良い。_丸7_段丘上と崖下では気候環境が異なり、前者は冬の季節風が強く、後者は夏の風通しが悪い。季節間の移住が考えられる。
著者
前川 明彦
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2006, pp.66, 2006

<BR><B>1.はじめに</B><BR> 従来より、世界各国で直面している課題として地域コミュニティの再生という問題がある。我が国においても1960年代以降、工業化を中心とする経済成長による都市の膨張と地方の衰退などから地域コミュニティの衰退が叫ばれ、その再生が問われてから久しい。近年のグローバリズムや市場経済化の進展からNPO・NGOなどを始め、新たな市民活動の動きが世界各地で始まっている(前川,2005)。<BR> 一方、従来より地域コミュニティを支えている組織が疲弊し始めている。日本における、これらの組織には、自治会、町内会、老人会、婦人会など多くの地域組織があるが、多くの立場から、これらの組織がさまざまな理由から必ずしも十分に機能していないといわれている。例えば、自治会・町内会は、行政との助成金・会費等の問題、後継者育成の問題などが指摘されている(神戸新聞、2002ほか)。しかし、多くの諸問題が存在するには各組織の問題だけではなく、地域の構造的課題の存在する可能性もある。本報告では、これらの組織のなかで、少子高齢化のなかで構成員の減少が続く「子供会」を中心に、組織の現状と課題、さらには他の地域組織との課題などを市民活動という視点から既存資料と聞き取り調査など再考してみたい。また、同様に新たな市民活動の可能性もあると思われる、地域ネットコミュニティの動向を一部明らかにしていきたい。<BR><BR><B>2.地域コミュニティ組織の現状</B><BR> 子どもを対象に地域コミュニティとして支えている組織として、「子ども会」という組織がある。これには、社団法人「全国子ども連合会」に属する組織と様々な理由からこの組織に所属しない組織があるが、本報告では全書に所属する「子ども会」の現状で再考していきたい。<BR> 子ども会は、地域の子どもの成長を校外活動を中心に、遊びや行事など生かして育成しようということが主目的である。現在の構成員は,幼児、小学生、中学生が中心であるが、中学生、高校生はジュニアリーダーして参加しており、高校生は他の成人と同様に指導者として参加している。幼児、小学生、中学生の総数は、2000年の約462万人から2005年には約413万人、同様に組織(単位子ども会)数も約12.6万から約11.8と、減少傾向に構成員の加入率(2005年構成員/全就学者数)は、全国平均で小学生42.9%、中学生12.1%で、これらの推移も減少傾向にある。地域的な加入率を小学生から概観すると、福井県の93.9%など北関東、甲信越、北陸、九州地域は70%以上の県が多く、逆に最も低い東京都は11.7%と、都市部は低い傾向にある。<BR><BR><B>3.子ども会の課題と他の組織との問題</B><BR> 組織単体の課題として減少傾向があり、この要因として(1)少子化(2)協力者の問題(3)塾などの校外活動の多様化などがあるが、昨今の市町村合併の影響が出始めている。また、組織の活動の魅力から、子どもが中心ではない大人主導の活動、毎年の行事を消化することだけの活動などが挙げられる。<BR> こうした背景として、少子化、外部環境の変化の中で組織を支える親を中心とする協力者の減少や意識の低下などがあげられ、一番下位の子ども会を支える親たちの役員の輪番制から行事を消化することに向けられてしまうという現実などがある。<BR> また、下位のレベルでは、他の組織との課題として、(1)財政も含めた町内会など組織間の関係(2)青年指導員、体育指導員等との連携の課題(3)行政との課題(4)重複する人材難等の他の組織も関係する構造的諸問題が生じており、従来型組織の低迷が都市部を中心に地域コミュニティの低下の1つの要因とも考えられる。<BR><BR><B>4.地域ネットコミュニティによる新たな動き</B><BR> ネットによる「コミュニティサイト」は、現時点で商業的なものも含めると膨大なものになる。地理的空間の意味合いが強い地域コミュニティとは異なり、ネット上の「場」を用いたコミュニティとも解釈できるが、本報告では、地域発信型のコミュニティサイトから考えていきたい。約120の町内会サイトを町内会サイトを機能性と公式性の2つの面を中心に分析した武藤(2003)は、(1)アクセスが少ない(2)個人管理者も多く、作業、費用負担も多く、後継者が存在しないことなどを指摘しているが、新たに開発された住宅地域では今までとはやや異なる地域ポータルサイトの動きもみられる。これらの研究結果については報告時に詳細を述べたい。<BR><BR>参考文献等<BR>前川明彦(2005)コミュニティ・ビジネスの意義と課題。<BR>「コミュニティ・ビジネス&mdash;新しい市民社会に向けた多角的分析」。白桃書房<BR>武藤宏(2003)「町内会webサイトの実態と課題」http://www.hf.rim.or.jp/hmuto/
著者
太田 慧
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

1.研究目的<br>&nbsp; 本研究は,大都市周辺である千葉県館山市を事例として,海岸観光地における土地利用パターンとその変化プロセスを,時間的・空間的観点から明らかにしたものである.大都市周辺では,都市化と共に農業的土地利用が維持される傾向にある(菊地,1994).さらに,海岸観光地においては,ビーチを中心として都市的土利用が増大する傾向にあるという形態的研究がある(Pearce, 1994).以上のことから,大都市周辺としての都市化の影響と,ビーチ周辺の都市化という2つの影響を考慮し,海岸観光地の土地利用をミクロな視点でとらえ,土地利用変化プロセスのドライビングフォースを時間的・空間的な観点から明らかにすることを研究目的とした. <br>2.千葉県館山市北条地区<br> 房総半島南部に位置する千葉県館山市は,東京都心から約100kmに位置し,大都市周辺に位置づけられる.館山市の北条地区は,JR内房線館山駅が立地するほか,館山市役所やその他の行政機能が集中する南房総地域を代表する都市である.北条海岸海水浴場が立地するJR館山駅の西口は,民宿や宿泊施設が多く立地する観光地として発展している一方,駅東口は従来からの市街地と農地が中心の土地利用である.館山市の観光の歴史は古く,1915年の北条海岸海水浴場の開設にまでさかのぼる.その後,第2次世界大戦以降は観光客数が増加傾向にある.しかし,1990年代以降は人口が徐々に減少し,2010年現在では市の設置要件の基準である5万人を下回った.<br>3.考察<br> 館山市の産業別人口を参照すると,飲食・宿泊業の従業者数が最多である.さらに,産業別人口について特化係数を算出した結果,全国と比較して館山市の産業別人口は飲食・宿泊業が最も特出した産業であり,次いで農林漁業の従業者数が多いことが明らかになった.このため,本研究においては主に観光業と農林漁業に着目して,土地利用変化の要因を明らかにしていく.<br> 館山市の北条地区は,民宿を中心とする個人経営の宿泊施設によって東京からの観光需要を受け入れてきた.民宿を主体とする宿泊施設は,2010年現在ではJR館山駅の西口に集中しており,海岸線沿いを走る内房なぎさラインに沿って立地している.しかし,1993年の館山バイパスの開通や,1997年の東京湾アクアラインの開通によるアクセシビリティの向上によって,館山市の観光客数が増加した一方で,宿泊をともなう観光客が減少した.その結果,民宿数が最多であった1980年の227戸から2010年には55戸にまで減少した.<br> 館山市の農地の現状は,農業地区域のものとその他の農地に分類される.農業地区域においては,大型機械に対応して整備された農地となっており,主に水田として利用されている.一方,その他の農地については,市街地に取り囲まれる形で残存しており,小規模な農地を利用して花卉を中心としたハウス栽培が立地している.しかし,館山市北条地区における農家数は1970年の402戸から2010年には74戸にまで減少し,経営耕地面積についても1970年から2010年にかけて約3分の1にまで減少した.このような農地の減少は,多くのロードサイド店舗が館山バイパス沿いに出店することでさらに促進された.そして,これらの商業地の発展は,JR館山駅前の中心市街地の衰退をもたらした.<br>
著者
太田 慧
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

<b>1</b><b>.</b><b>研究背景と目的</b><br> 大都市周辺の海岸観光地は,数ある海岸観光地の中で最も古い形態の観光地である.このため,近年の大都市に近い海岸観光地では衰退傾向が指摘されており,観光地における新たな地域問題となっている(Urry, 2002; Agarwal, 2007).東京大都市圏に位置する千葉県の南房総地域は,第2次世界大戦以前から海水浴客が訪れていた地域であり,海岸観光地としての長い歴史がある地域である(山村,2009).従来,南房総地域は東京方面からのアクセスが長年の課題であった.しかし,1990年代以降になると,東京湾アクアラインや館山自動車道の開通によって,東京や神奈川方面からのアクセスが著しく改善した.その結果,1980年代をピークに宿泊客数が減少した一方,日帰り観光客が増加傾向にある.このような状況から,南房総地域は日帰り観光地としての性格を強めており,従来の民宿地域は衰退傾向にある.そこで,本研究では房総半島有数の民宿集積地である南房総市の岩井地区を事例として,民宿地域の変容を明らかにすることを研究目的とした.&nbsp; <br>&nbsp;<b>2</b><b>.</b><b>研究方法<br></b>&nbsp; 本研究では,千葉県民宿組合連合会のデータから,房総半島における民宿の最大の集積地として南房総市の岩井地区を選定した.南房総における民宿地域の形成について,町史や地誌をなどの文献から示した.さらに,宿泊客数が最大であった1980年代と現在の民宿地域の構造の変化を,聞き取り調査や土地利用をもとに示し,民宿地域の変容について検討した. &nbsp; <br><b>3</b><b>.</b><b>岩井地区における民宿地域の形成<br> </b> 現在の岩井地区は南房総市の一地区であるが,2006年の町村合併以前は富山町に属していた.旧富山町は海岸側の岩井地区と山側の平群地区からなり,町の中央には南総里見八犬伝の舞台となった富山がそびえている.岩井地区に初めて海水浴客が訪れるようになったのは,明治時代のことである.明治時代の半ばになると,穏やかな海である岩井海岸が中学校の水泳訓練場として利用されるようになった.1918年に北条線(現・JR内房線)が那古船形駅まで延伸されると同時に岩井駅が開業すると,海水浴客や避暑客が増加していった.第2次世界大戦以降には,東京や埼玉などの臨海学校が次々に開設され,1964年にピークに達した(『富山町史』,1993).&nbsp; <br>&nbsp;<b>4</b><b>.</b><b>岩井地区における民宿地域の変容</b> <br> 富山町における海水浴客数は1980年代をピークに減少し続けている.南房総市の岩井地区では,2014年現在における民宿数は最盛期よりも減少したが,現在でも房総半島で最大の民宿地域として維持されている.この要因には,岩井海岸の海水浴場が内房の穏やかな海として臨海学校に利用されているほか,大学生のサークルや臨海学校などの団体客の合宿場として音楽スタジオや体育館や多目的ホールなどを積極的に設置することで,季節型の民宿から通年型の民宿への転換を図ってきた.宿泊客数は夏季の方が多いものの,大学生のサークルが利用することで冬季や春季にも一定の宿泊客が訪れている. さらに,学生の団体客を対象とした「ビワ狩り」などの農業体験や,地域に伝わる昔からの漁法である「地曳網」体験など,農業や酪農や漁業の体験教室を開設することで,従来観光客が集中していた夏季以外の春季や秋季の集客を図っている.また,岩井地区の農家で生産されたビワを使ったワインづくりが行われ,有料道路と一般道の両方から利用できる「ハイウェイオアシス・道の駅富楽里とみやま」で販売されている.以上のように,岩井地区における民宿地域の維持システムには,合宿客をターゲットとした施設改修や農業や漁業をはじめとした地元の産業を活かしたイベントが関わっている.&nbsp; <br><b>[</b><b>参考文献]</b> <br>富山町 1993. 『富山町史 通史編』, pp.476-484. <br>山村順次 2009. 5)南房総地域, 『日本の地誌5 首都圏Ⅰ』朝倉書店, pp.552-567.<br>Agarwal, S. and Shaw G. 2007. Managing Coastal Tourism Resorts &ndash;A Global Perspective.<br>Urry J. 2002. The Tourist Gaze Second Edition, pp.32 Sage.
著者
原 真志
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

<b>1.研究目的</b><br>&nbsp;&nbsp; 2016年はVR(Virtual Reality)/AR(Augmented Reality)/360度映像といったVR関連技術(以下VR)が大いに注目され,「VR元年」と呼ばれるほど商業化の動きが加速しており,コンテンツ産業だけでなく観光,医療,製造業など多産業に及ぶ大きな影響が予測されている(原,2016; 岩田, 2016; Goldman Sachs, 2016). 日本ではHMD(ヘッドマウントディスプレイ)やゲーム・スマホ関係の話題が中心であるのに対し,米国ではハリウッドメジャーやシリコンバレーのIT企業を巻き込み,特にストーリーテリングに関する実験的取組みが盛んに行われている点が注目される.本研究は, CGの学会兼展示会であるSIGGRAPH(2016年8月アナハイム),SIGGRAPH ASIA(12月マカオ))等で情報収集し,LAや東京で実施したVR等関連企業の現地調査を基に,「破壊的」技術と考えられるVRが(原,2016),ストーリーテリングに関するイノベーションとどのように結びついてハリウッド映画とその関連産業に変化をもたらそうとしているのか,その地理的な含意はいかなるものかを考察することを目的とする.&nbsp;<br><br><b>2.ストーリーテリングと「古典的ハリウッド映画」</b><br>&nbsp; 近年,ストーリー性やストーリーテリングが組織論において企業戦略に重要と認識されるとともに(Brown <i>et al</i>., 2005; Denning, 2007; 楠木, 2010),地理学においても関心が高まって来ている(Cameron, 2012;&nbsp; Kerski, 2015).映画産業の黎明期に先進地だったヨーロッパや米国東海岸の「動く絵」に対し,後発のハリウッドが優位に立てたのは,ストーリーテリングの導入・確立というイノベーションによるものであり(Thompson and Bordwell, 2003; Cousins, 2004; Maltby, 2003; Bordwell and Thompson, 2008), Bordwell <i>et al</i>.(1985)は, コンティニュイティ編集,目標志向の主人公,原因と影響,クライマックス,強力な結末等から特徴づけられる観客に分かりやすい「古典的ハリウッド映画」を支配的なモードとして提示している.<b>&nbsp;</b><br><br><b>3.VRとハリウッド映画産業</b><br>&nbsp; HMDでのVR鑑賞では360度の視線の自由が与えられ,またカメラワークや編集の技法が使えないため,演出意図を一義的に視聴者に伝えるのに困難が生じる.伝統的な映画の方法論の不十分さを克服し,「VR酔い」を防ぎ,VRの没入感を活かす新たなVRストーリーテリングの開発が市場での成功に不可欠なものと認識されている(Pausch <i>et al</i>.,1996; Curtis <i>et al</i>.,2016).ハリウッド映画産業にとってVRは機会と脅威の両側面で捉えられ,Digital Domain, Technicolor, 20th Century Fox&rsquo;s Innovation Lab等従来のハリウッド映画関連企業がエンターテインメント系VRプロジェクトに参入している.他方シリコンバレー周辺においても,FacebookやGoogle等IT企業やVCが関与する形で,様々な実験的コンテンツ制作が行われている.そのような例として,ハリウッドのアニメ映画監督を招聘して優れた短編360度VRアニメ「Pearl」を制作したGoogle Spotlight Stories社 ,360度VR映像コンテンツの制作支援を様々な形で行っているOculus Story Studio社,Oculus Story Studio社 のCo-founderのEugine Chung氏が創業した Penrose Studios社,短編360度VRアニメ「Invasion!」を制作し、長編アニメ映画製作の資金調達に成功しているBaobab社等があげられる.&nbsp;<br><br><b>4.VRストーリーテリングとネットワーク社会</b><br>&nbsp; 約1世紀前に撮影・上映という技術革新を基にした映画産業の確立にストーリーテリングという感性価値に関するイノベーションが大きな役割を果たしたことが,21世紀のVRの時代に再来している.ただし排他的特許戦略をとったエジソンの例を他山の石としてか(Thompson and Bordwell, 2003),SNSとオープンイノベーションが普及している現在では,買収したOcculusを通してFacebookがVRコンテンツ制作のノウハウの開発と普及を図り,また開発した4Kの360度カメラをすぐにオープンソースにするなど,長期的戦略の投資で産業確立のための公共財提供を行って参入を促し市場成長を牽引している点は興味深い.
著者
福岡 義隆 中川 清隆 渡来 靖
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.260, 2009

1.はじめに熊谷と多治見が日本一高温になった理由をヒートアイランドというlocal-climateのみならずmeso-climateのフェーン、macro-climateのラニーニャなどとの関係で考察し、WRFモデルによるシミュレーションの可能性と限界にも触れる。2.暑さの原因およびメカニズム 熊谷や多治見が暑いのは何故か、考えられる要因を次にいくつかあげてみよう。_丸1_内陸型気候説(海岸からの距離)_丸2_都市気候成因説_丸3_フェーン説~近くの山岳(高原)の影響(滑昇反転下降流)_丸4_谷地形(谷風循環反転下降流)_丸5_逆転crossover現象との関係_丸6_夏のモンスーンとラニーニャ 本稿では特に_丸2_の都市気候説と_丸3_フェーン説を中心に考察を進めた。3.都市気候形成のバックグラウンド 気候の内陸度については、大陸度(K:、ゴルチンスキーの式、A:気温年較差、Φ:緯度) K=1.7×(A-12sinΦ)/ sinΦ によると、東京が43.7であるのに対して熊谷は45.8と大きい。なお、名古屋は48.2、多治見は51.9 である。仮に海風で東京や名古屋の方からの熱移流があったとしても海岸からの距離や、低温の海風による昇温抑制効果などを考えると、臨海大都市の影響はあまり考えられない(東京37℃、34℃)。 さらに、2007年の夏だけについて考えられることは、かなり強く広範囲に及ぶラニーニャの条件下にあって西太平洋全般に高温状態にあったことも確かである。3.フェーン説に関する考察 2007年8月16日や2005年8月6日などの熊谷市の高温時には明らかに西~北西風が吹いていた。この2例以外でもかなりの割合で関東山地越えの風の時に猛暑になっている。明らかにフェーン風発生にともなう気温上昇と考えられる。まれにはウェットフェーン時のタイプもあるが、多くはドライフェーン時のタイプである。フェーンによる熊谷市など北関東の高温現象は、渡来靖ら(2008)のシミュレーション解析でも明らかにされている。参考文献河村武 1964. 熊谷市の都市温度の成因に関する二三の考察、地理学評論 37 560-565浅井冨雄 1996. 『ローカル気象学』 東大出版
著者
高木 仁
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

1.はじめに<br> 東ニカラグア・ミスキート諸島海域には、中米最大規模のサンゴ礁海域が発達し、そこに暮らす住人のみならず、多くのものがこの豊饒な海の恩恵を受けて暮らしている。地元住人達による漁場利用に関する先行研究は、この地で優れた業績を残したアメリカ人地理学者のベルナルド・ニーチマン博士による極めて詳細で、かつ広範囲を網羅している認知地図研究がある(Nietschmann 1997)。しかしながら一方で、この残された認知地図そのものや漁場としての機能にはいまだ謎が多いとも感じる。本発表の目的は、①東ニカラグア住人による漁場利用の実例を提示し、その結果が先行研究者の提示する認知地図を読み解く一助となりうるのか否か、もしなり得るのであればどのような点であるのかを議論することである。現地調査方法は漁師たちの航行に加わって、船上で聞き取りや観察する方法をとった。<br>2.研究結果<br>1)ミスキート諸島海域の漁場利用、その概況<br> ミスキート諸島は、ミスキート族やその混血子孫たちが暮らす複数の村々が共有するこの地域では比較的大きな漁場であった。中心的な利用は、海岸部に発達した人口5万人の港町Aとその北側の湿地に位置するA~Eの5つの小規模漁村(約千人~3千人程度)と中規模の村F(人口約1万人)の一都市、6村落であった。 <br> 各村々で漁撈・漁業の対象とする生き物やその空間・利用の強度には違いがあるようであった。例えば、港町Aに隣接するA村とB村は比較的交通の便がよく、氷の入手がしやすい。大きな湖の河口に位置しており、豊富な沿岸汽水域の魚を捕獲・流通させて暮らしていた。また、極端に人口の多い港町Aや湿地によって陸上交通が未発達のD~F村では、より沖合にて巻貝やロブスターを対象とした潜水漁業や大型魚に力を入れているといった印象を受けた。主な調査地のC村だけは、アオウミガメの網での捕獲をほぼ独占的に発展させていた。<br>2)アオウミガメ漁による漁場利用<br> アオウミガメ漁師たちは一週間から10日、多い時ではそれ以上を木造船の上で過ごした。漁師たちはこの地域に広く分布するサンゴ礁が堆積する小島や比較的浅い海域を停泊拠点とし、季節ごとに異なるアオウミガメの分布・経路を見極め、なんとか過酷な漁を手短に終わらせようと専心していた。<br> 漁船の船長たちが最も注意を払っていたのは、「アオウミガメが夜眠りにつく岩」と考えられている海底の岩場(Walpa)の位置であった。船長や乗組員たちは毎日のように浅瀬の位置を変え、海面の色の変化に注意しながら、好ましい漁場を見つけては網を仕掛けた。漁が成功した時は、その岩場の位置を目印にして近隣の岩場を攻め、失敗したときは、長い航海の末に別の新しい岩場を発見し、そこでの成功を祈って網を仕掛けていた。<br>3.考察<br> 文献には、先行研究社が部分的に提示した認知地図が残っており、その中には計43ヶ所の名称がある。中でも海底のいわば(Walpa)に通ずる言葉は、20ヶ所に記載がある。<br> 本発表で提示するアオウミガメ漁に関する結果は、この岩場を重視する住人の認識を支持するものであった。ただ、得られた結果では、この岩場に関する漁師たちの認識はかなり流動的で、実際、漁師たちはその場その場で想像力豊かに「アオウミガメが夜眠りにつく岩」を生み出したり、消失させたりしていたので、認知地図での岩場に関する記載も、それほど固定的ではないのかもしれない。先行研究者が残した東ニカラグア住人の認知地図には数多くの個人名称、地形境界、Bunfka, Tiufka, Muhtaなどのよくわからないミスキート語が凝縮して平面図に投影され、非常に難解である。今後は、こうした疑問点を現地調査で更に追求していきたい。<br><br>参考:Nietschmann Bernard. 1997 Protecting Indigenous Coral Reefs and Sea Territories, Miskito Coast, RAAN, Nicaragua, in "Conservation Through Cultural Survival: Indigenous People and Protected Areas, Stanley F. Stevens (ed). Island Press, Washington.
著者
増根 正悟
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2016, 2016

&nbsp; 1989年の体制転換以降、中東欧の旧社会主義諸国では、旧土地所有者への農地返還の過程で多くの個人農が創出された。農地返還は社会主義体制以前の土地台帳に基づいて行われたため、歴史的に零細農家が多かったスロヴァキアでは、きわめて狭小な農地を所有し家族労働力に依拠した小規模個人農が多く誕生した。現在のスロヴァキアでは、大規模な農業経営体である協同組合と会社農場が卓越しているが、近年は商業的な農業経営を行う小規模個人農の増加が目立っている。とくに、スロヴァキアにおける小規模個人農の特徴は、ワイン生産農家が卓越する点にあり、スロヴァキア農業の全体像を明らかにするうえで、小規模ワイン生産者の動向の分析が不可欠となっている。そこで本研究では、体制転換後の新たなスロヴァキアの農業形態と農地所有状況の変化を把握するために、首都ブラチスラヴァの近郊に位置するペジノク郡を研究対象地域として取り上げ、小規模ワイン生産者の経営実態を明らかにすることを目的とする。<br>&nbsp; &nbsp;ペジノク郡では、2000年代以降、これまであまりみられなかった小規模ワイン生産者が急激に増加するようになった。その要因としては、まず市場経済に適応できない協同組合の解体が相次いだことがあげられる。すなわち、協同組合の中には、市場経済に適応できず、消滅や規模縮小を余儀なくされる経営体が多かったが、解体に伴って生じた耕作放棄地を借地したり購入したりすることにより、小規模ワイン生産者が農地を確保することが可能となった。また、2004年のEU加盟前後からスロヴァキア経済が急成長を遂げ、それに伴って消費者の嗜好が従来のバルクワインから上質ワインに転換していったことも、小規模ワイン生産者が経営基盤を確立するうえで重要であった。こうした消費者のニーズの変化が、個性豊かな上質ワインをおもに生産してきた小規模生産者にとって有利に働く結果となった。 小規模ワイン生産者は、ブドウ栽培・ワイン醸造の専門学校の授業や、長年自家製ワインを生産してきた家族を通じて、経営を開始する以前からブドウ栽培・ワイン醸造の十分なスキルを身に付けていた場合が多かった。また、ワイン関連以外の仕事に従事した経験をもつ者が多く、そのことがブドウ栽培・ワイン醸造に必要な資金を調達することを可能にした。さらに、家族労働力を主体とする経営であるため人件費を抑制できたことや、知人・家族から無償または廉価で農地を借入れたり購入したりするなど、低コストで経営拡大を実現できたことも、生産者の増加の要因として重要であった。<br>&nbsp; &nbsp;小規模ワイン生産者は、ブドウの自家栽培の有無、専業か否かなどにより、いくつかのタイプに区分することができるが、多くの生産者はブドウの自家栽培とワイン生産の専業化を目指している。生産されたワインの出荷先は、ペジノク郡及び近隣自治体である場合が一般的であり、醸造所での直売のほか、近隣の飲食店やワイン専門店への出荷が多い。また、市場の確保だけでなくワインツーリズムの集客についても、首都ブラチスラヴァに近接していることが大きな意味をもっていることが分かった。そして、各自治体で開催されるワイン関連のイベントへの参加も、ワインの販売促進において重要な役割を果たしていた。 しかし今後、小規模ワイン生産者が経営の拡大を図っていくうえでは、いくつかの課題も存在する。1つ目は、非効率的な土地利用の問題である。小規模ワイン生産者は市内外の複数の土地所有者から農地を借入れるか、または購入してブドウ栽培を行っているが、それらの農地は分散して存在している場合が多い。その上、各圃場の面積がきわめて狭小であるため、機械による作業を行うことが難しい。2つ目は、耕作放棄地の耕地化の問題である。長期に及んだ土地整理事業の中で拡大した耕作放棄地を、再びブドウ栽培が可能な状態にするためには、新たな苗木の購入や除草等の労力が必要であり、生産者への負担が大きい。3つ目は、地価上昇の問題である。近年ペジノク郡はブラチスラヴァの近郊住宅街として人気が高まっており、土地所有者にとっては住宅地としてより高額で売却する方が魅力的であるため、農地の確保が次第に難しくなっている。 ただ、これらのネガティブな条件にもかかわらず、多くの小規模ワイン生産者はブドウの自家栽培にこだわり、農地のさらなる借入れや購入を志向する場合が多い。その背景には、近年のブドウの買取り価格の上昇のほか、保護原産地呼称制度の導入にともないブドウの原産地が消費者に重視されるようになってきたこと、個性的なワインを生産することで大規模ワイン生産者との差別化を図れること、などがある。小規模ワイン生産者は、美しい農業景観の維持や、ワイン生産の伝統継承という役割も担っており、今後の一層の発展が期待されている。
著者
アコマトベコワ グリザット
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

1. 目的 <b><br></b>&nbsp;キルギス国有財産管理局の所有である温泉施設オーロラは, 一年中営業し温泉や泥治療を提供している. 夏季にはイシク・クル湖で湖水浴をすることもできる. オーロラのソ連時代の正式名称は,「ソ連共産党中央委員会管理部門所属サナトリウム-イシク・クル湖」であった. 一般人はオーロラの敷地内に入ることすらできなかった. しかし, 1991年のソ連からの独立と国家の体制転換に伴い, オーロラの利用者も変化していった. 本研究は, 社会主義時代と資本主義化以降のオーロラの利用や利用者の属性(集客圏,年齢,性別,職業)および温泉施設での利用形態や利用時期を明らかにすることを目的とする. <br>2. 研究の手続き&nbsp; <br>&nbsp;まず, オーロラ滞在者のソ連時代1989年12月~1990年12月末(1543人)および独立以降の2011年(342人)の「診療・処方カルテ」の分析を行う. 次に, 利用者と温泉施設スタッフへのインタービュー調査や参与観察を分析する. そして, オーロラの過去と現在を照らしわせ,キルギスの観光への影響を考えたい. <br>&nbsp;3. 結果&nbsp; <br>&nbsp;ソ連時代オーロラリゾートの最多滞在者は, ロシアからの滞在者691人(44.8%)であり, オーロラへのバウチャー配給は, モスクワにおいて決定されたが, 原則として全ソ連の地域別面積に比例して配布されていた. <br>&nbsp;オーロラリゾートでは, ソ連時代, 共産党員が温泉や泥治療等を受けていた.しかし, 党員の党内階級レベルにより訪問時期が異なっていた. オーロラに滞在した共産党の書記官115人を所属階級別に分けた結果, 中央の書記官は100%が多客期の夏に滞在しており, 「特権」を利用していたことが伺われる. 一方, 地方レベルの書記官とソフホーズとコルホーズの書記官の多くは, 冬に滞在するという傾向があった. <br>&nbsp;ソ連からの独立後は, オーロラは一般解放されたため, 職業・地位に関係なく利用者が訪れている. しかし, 料金設定が高いため, 滞在できるのは高所得者に限定されている. しかし, 高所得者以外も外来診療で「オーロラ」の温泉治療・泥治療や理学治療を受けることができ, さらにオーロラの湖畔も利用可能である.&nbsp; <br>&nbsp;以上のように, 社会体制の転換は, 温泉施設利用の変化にも影響を与えている. 具体的には, 旧ソ連時代, オーロラは社会主義エリート限定の健康管理施設であったが, 資本主義化に伴って富裕層を中心に国民一般のためのリゾート施設になった. このように社会体制の転換が, それまでの健康管理施設をリゾート施設に変化させることが, ポスト社会主義国の観光の特徴と考えてよいであろう. &nbsp; <br>
著者
池田 真利子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

都市ベルリンは,分断都市としての歴史を背景とし東西で異なる変化を遂げてきた.とくに政治転換期以降,ベルリンの旧東西境界域では,その場所の開発を巡り,都市の在り方と併せ議論が成されてきた.本研究は,2000年代初頭から計画されていたシュプレー川沿岸域におけるメディアシュプレー計画と,それに対抗する文化施設および市民団体の反対運動に着目することにより,都市空間において文化が担う意味を多面的に分析する. 東西統一以降,旧東ベルリン地区では芸術や音楽に関連する文化的利用が発現した.なぜなら,東西分断期にて急進的に近代化・都市化が進められた旧西独地区に比較して,旧東独地区には,放置・老朽化した空き家や未利用地が未修復・未解体の状態で残されていたためである.また,こうした空き家や未利用地の一部は,旧ドイツ民主共和国(以下,DDR)に位置したため,その所有権の所在において不明確なものも多かった.こうした所有権の不明な土地・建物において,東西統一前後から,アーティストや市民団体による文化的利用が積極的になされた.シュプレー計画とは,シュプレー川沿岸域において計5地区にわたり計画された事業であり,事業面積は約180haにも及ぶ.事業主は,2001年に土地所有者である市議会・地区議会・商工会議所(IHK)の代表者により期間限定的に設立されたメディアシュプレー有限会社(Mediaspree GmbH)である.同有限会社は,2001年から,「コミュニケーション及びメディア関連産業」を中心とするオフィス・商業施設の誘致を開始した.2006年にメディアシュプレー計画に対して,最初の反対運動が発生した.運動主体は文化施設運営者や市民イニシアチヴから成る市民イニシアチヴ連合(以下,市民連合)であった.この市民連合は,公共緑地の不足と,シュプレー川沿岸域の文化施設の立ち退きに対する反対を主張した.特にメディアシュプレー計画が多く位置するフリードリヒスハイン=クロイツベルク地区では,反対運動への賛同者が多く,デモンストレーションや署名活動の結果,16,000人分の有効署名を基に地区選挙が開催された.地区選挙の結果,①新規建設に際し,河岸より50m以上の距離を保持,②地上から軒下までが22m以上の高層建築の禁止,③橋梁建設の禁止という案が87%採択された.しかし,投票結果はその後,市政に反映されず,現在では個々の文化施設が移動する際に反対運動が発生する程度にとどまっている.旧東西境界に近接する場所は,東西分断時には国家の縁辺部として衰退していたが,統一後に地理的中心性を回復した.こうした衰退地域において,アーティストや市民が文化的利用を行った結果,クリエイティヴな場所のイメージが創出され,こうした都市イメージを利用した都市開発メディアシュプレー計画が考案された.こうした文化的価値が経済的価値へと置換されていく過程は,新たなジェントリフィケーションとして理解することができるのではないであろうか.また,こうした変容過程において,市民運動の主体は観光資産としての重要性において自らの存続を主張する.こうした市民運動そのものが,新自由主義経済下において変容を遂げつつあると解釈できる.
著者
小川 正弘
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2007, pp.15, 2007

<BR>1.はじめに<BR> わが国では,高度経済成長期以降,地域に根ざした生活様式や伝統文化が変貌する一方で、全国で町づくり,村おこしなどの地域活性化の手段として伝統的な祭りや新しく創出された市民祭りを活用するなどの行政側の動きが見られた.<BR> 本研究の対象地域である八王子市は,第二次世界大戦後の1955年さらに1959年,1964年と合併を行い,市域拡大や人口増加が急速に進んだ.そこで,新旧住民の連帯感を高め,合併後の新市一体化を促進するために,行政主導で創出された市民祭りが「八王子まつり」である.<BR><BR>2.研究方法<BR> 本研究では,市民祭りとして新たに創出された「八王子まつり」を事例としてとりあげ,市民祭りの成立や展開過程を考察し,伝統的祭礼とは異なる市民祭りの特徴を,まつりの担い手とその内容に着目した.また市民祭りを通して,いかなる地域文化が,実践・継承されているのかについて検討を行った.<BR><BR>3.結果<BR> 現在の八王子まつりにおける内容の特徴は,伝統的祭礼である山車や神輿を全面に押し出している内容であるが,実は市民祭から開始されている.また,まつりの変遷過程を考察した結果,大きく以下の4つの時期ごとに異なるまつりの特色が把握された.それは,1)市民祭形成期(市民祭的内容),2)八王子まつり原型期(鎮守的神社祭礼の参加,融合,共存,まつり名称の変化),3)八王子まつり発展期(伝統的文化と非伝統文化(イベント型)の対立,差異化,4)八王子まつり変革期(伝統的文化の重視と非伝統文化の排除)である.<BR> また,八王子まつりの運営主体であるまつり事務局も時期ごとに変化していた.前述の時期区分によると,市民祭形成期~八王子まつり発展期においては,行政主体で企画・立案を行っていたが,八王子まつり変革期移行は,市民祭開始以前から八王子の旧宿場町を中心にして行われていた神社祭礼の氏子組織やまつり参加団体の代表等が多数参加し,新たなまつり実行委員会が組織されて,まつりの企画・運営等を行っていた.<BR> 八王子まつりが時代的に変化した要因は,八王子まつり開始期から現在におけるまつりを主催する行政団体におけるまつりの運営・実施方針などが大きく影響している.とくに2002年にだされた八王子まつり検討委員会の答申の影響は大きく,従来の八王子まつりの形態・内容及びまつりの運営組織まで変化させたことが判明した.<BR> 八王子まつりにおける担い手は,大別すると伝統的祭礼の担い手と非伝統的祭礼(イベント)の担い手に分類できる.伝統的担い手としては,神社の氏子町会組織が中心であった.その氏子組織は,多賀神社と八幡・八雲神社から構成された.また氏子組織(町会)内には他町会に対する競合意識や市外祭礼に積極的に出向する氏子組織もあった。このことから氏子町会が八王子まつりの形態・内容に影響を与えた.<BR> 一方非伝統的担い手としては,子ども音頭と民踊流しの参加団体及び構成員を事例としてとりあげた.いずれの担い手とも行政関係の支援を得ながら,子ども会組織や地元の民踊教室,企業,学校,民踊クラブ等などを活用して組織された.また踊りで使用される曲は、まつりを主催する行政団体が八王子という地域に因む曲を作成し,それを参加団体に提供した。これは演技だけでなく郷土愛育成等を意識しながら,八王子まつりに参加させるねらいがあった.<BR> 以上のように,八王子まつりにおける地域文化の一部分として存在し,実践・継承をしている担い手や文化は,現在の時点で氏子町会が所有する山車・神輿等にみられる伝統的祭礼,子ども音頭,民踊流しと考えられる.そして,これらは八王子まつりを通してそれぞれが所有する文化の知識・技術の維持管理や継承の努力を続け,知識や技術の伝達する必要性や継承性の強い地域文化として再生され創出されたものといえるだろう.
著者
浜田 純一 松本 淳 ハルヨコ ウリップ シャムスディン ファドリ 山中 大学
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

「海大陸」と呼ばれ、モンスーンなど大規模大気循環の熱源と考えられるインドネシア域では、オランダ統治下の1860年代より、ジャカルタ(当時のバタビア)を始めとした地点で気象観測が実施されてきたが、社会的・経済的な理由によりデータが一般に公開されず、これまで気候学研究の「空白」領域となっていた。しかし、近年、「データレスキュー」活動など、現地の観測研究環境の変化を通して、インドネシアを含む東南アジア域においても、気候変動の解明に資する「日」単位の長期気象データが整備・公開されつつある(例えばSACA&D: Southeast Asia Climate Assessment & Datasetなど)。 <br><br>これらの長期気象データセットに基づき、ジャカルタの気象極端現象の長期変化や、降水極端現象の年々変動とENSOとの関連に関する研究などがインドネシア人研究者自身らにより活発に進められ始めている(Siswanto et al., 2015, &nbsp;Supari et al., 2016, Marjuki et al., 2016など)。また、我々自身も、日降水量データを中心としたインドネシアでの気象データベース構築を内外の研究者との協力の上で進め、海大陸域におけるモンスーン降水の年々変動の動態把握、ENSOや冬季アジアモンスーンとの関連について研究を進めてきている(Hamada et al., 2012, Lestari et al., 2016など)。<br><br>インドネシアの首都であるジャカルタにおいては、気象台が設置された1866年より定常的な観測が開始され(雨量観測は1864年より実施)、150年以上に及ぶ気象観測データが蓄積されている(K&ouml;nnen et al., 1998, Siswanto et al., 2015)。また、これらのデータのデータベース化も進められ、観測開始当初からの日単位の気象データがSACA&D、月降水量に関してもGlobal Historical Climatology Network (GHCN) などで公開されている一方、1990年代以降の近年のデータは、依然、十分に整理されていない状況にある。 従って、本発表においては、近年のインドネシアにおける気候変動研究の動向を概括し、最も長期間のデータが蓄積されたジャカルタに焦点を当て、気象観測資料のデータベース化状況、及びモンスーン降水長期変動に関する初期解析結果について報告する。
著者
太田 慧 池田 真利子 飯塚 遼
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2018年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.000220, 2018 (Released:2018-06-27)

1.研究背景と目的 ナイトライフ観光は,ポスト工業都市における都市経済の発展や都市アメニティの充足と密接に関わり,都市変容を生み出す原動力としても機能し得るという側面から2000年代以降注目を浴びてきた(Hollands and Chatterton 2003).この世界的潮流は,創造産業や都市の創造性に係る都市間競争を背景に2010年代以降加速しつつあり,東京では,東京五輪開催(2020)やIR推進法の整備(2016),およびMICE観光振興を視野に,区の観光振興政策と協働する形で,ナイトライフ観光のもつ経済的潜在力に注目が向けられ始めている(池田 2017).このようなナイトライフ観光の経済的潜在能力は,近年ナイトタイムエコノミーと総称され,新たな夜間の観光市場として国内外で注目を集めている(木曽2017).本研究では,日本において最も観光市場が活発である東京を事例として,ナイトタイムエコノミー利用の事例(音楽・クルーズ・クラフトビール)を整理するとともに,東京湾に展開されるナイトクルーズの一つである東京湾納涼船の利用実態をもとにナイトライフ観光の若者の利用特性について検討することを目的とする.2.東京湾納涼船にみる若者のナイトライフ観光の利用特性東京湾納涼船は,東京と伊豆諸島方面を結ぶ大型貨客船の竹芝埠頭への停泊時間を利用して東京湾を周遊する約2時間のナイトクルーズを展開している,いわばナイトタイムの「遊休利用」である.アンケート調査は2017年8月に実施し,無作為に抽出した回答者から117件の回答を得た.回答者の87.2%に該当する102人が18~35歳未満の若者となっており,東京湾納涼船が若者の支持を集めていることが示された.職業については,大学生が50.4%,大学院生が4.3%,専門学校生が0.9%,会社員が39.3%,無職が1.7%,無回答が2.6%となっており,大学生と大学院生で回答者の半数以上が占められていた.図1は東京湾納涼船の乗船客の居住地を職業別に示したものである。これによれば,会社員と比較して学生(大学生,大学院生,専門学校生も含む)の居住地は多摩地域を含むと東京西部から神奈川県の北部まで広がっている.また,18~34歳までの若者の83.9%(73件)がゆかたを着用して乗船すると乗船料が割引になる「ゆかた割引」を利用しており,これには18~34歳までの女性の回答者のうちの89.7%(52件)が該当した.つまり,若者の乗船客の多くはゆかたを着て「変身」することによる非日常の体験を重視しており,東京湾納涼船における「ゆかた割」はこうした若者の需要をとらえたものといえる.以上のように,東京湾納涼船は大学生を中心とした若者にとってナイトライフ観光の一つとして定着している.