著者
垂澤 悠史 松本 真弓 春山 成子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.115, 2010

1. はじめに<BR> 人間活動は自然環境と調和した文化景観を育み、生活・生業の在り方を表す景観地について、当該地域の風土により形成された景観地で日本国民の生活または生業の理解のために欠くことのできないものであり、これらを文化的景観と表現してきた(文化庁)。すでに、春山(2004)は中山間地域の星野村の棚田の文化的景観について、自然環境・人文環境の相互関係の中で成立していることを示し、当該地域の住民のアンケート調査から、「なじみの景観」の中に高い評価点を見出していることも示した。一方、域外からの来訪者の意識の中にはプロトタイプの日本の原風景としての棚田への強い意識の上に文化的景観の咀嚼が認められた。近年では、さらに広い空間を対象として、河川景観に着目して四万十川流域を重要文化的景観として評価されてきているが、必ずしも、河川流域の文化的景観に対しての評価手法が整えられてわけではない。<BR> そこで、今回、三重県、和歌山県、奈良県の県境を流れる一級河川である新宮川(熊野川)流域が世界遺産として登録されている中世以降の信仰地域としての景観を残していることに注目して、河川景観の中に残されている歴史文化的景観のフオトボイス分析手法によって文化的景観の分析を行おうとした。上流地域には林業地域としての景観、神社森を含めた歴史的信仰景観、水運景観が複雑に入り組んでおり、自然災害としての斜面崩壊地、土砂災害などの自然災害と防災に取り組む景観も含まれている。新宮川の美しい自然景観の中に人類の多様な営みの景観が独特に共存しているのである。<BR><BR>2. 景観をとらえる手法について<BR> 文化的景観は局地的な微気候・表層地質と地形・植生などの自然的な環境要素を基層として、この上に成り立っているさまざまな人間の社会的な活動を反映している。ここには、歴史的・民俗的・文化的な要素が複雑に関係生を均衡させている。それらの諸要素の解釈にむけて、将来に向けた河川景観についての評価を考えるために、景観評価を画一的な手法で分析を試みようとした。ここではフオトボイス分析を用いることにした。また、景観評価にかかわり当該地域の住民の心象風景についての聞き取り調査を行った。現地調査は2009年10月、2010年5月に行い、新宮市の教育委員会での資料探査、新宮川河口部から本宮までの河川景観の写真撮影とその解釈を行った。<BR><BR>3. 新宮川(熊野川)の河川流域の中に残る信仰景観<BR> 新宮川下流には速玉神社と神社森、本宮の神社森が重要な信仰空間として上下流に対置している。いずれの社寺地も河川に隣接している。また、日本有数の豪雨地帯を背後に抱えているために、本宮は新宮川の洪水に伴って河道変遷が生じたために、神社社寺地の空間的な立地は大きく変化を受けた。しかし、旧社寺地は神社森として河道近くに保存さており、河川流域の変化を記憶として残している。一方、河川・河道においては、かつての重要な参宮路としての水運のための航路の歴史的な痕跡が残されている。現在、防災施設の設置によって河川景観は大きく変動してはいるが、俯瞰しうる河川景観には信仰景観を大きく感じることのできる空間である。<BR><BR>文献<BR>春山成子編著(2004)棚田の自然景観・文化景観、農林統計協会出版
著者
長谷川 奨悟
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

1.はじめに〈BR〉本研究は,近世・近代の京都および,近世の大坂において,「名所」とされた場所や景物をめぐる「場所認識」(「名所観」)や,名所案内記の編者(多くの場合は知識人層)によって創られた「場所イメージ」の生産(再生産)をめぐる諸様相について,人文地理学的視点から検証を進めるものであり,本報告は,これを進めていくにあたって,必要な問題設定を行なうための手がかりとなる概念的整理を旨とするものである。2.知識人層の場所認識〈BR〉日本の近世から近代のある時期までは,例えば学者や俳諧師などといった知識人層が,その場所で語られる由緒や伝説といった「過去の事象」,あるいは,現在の繁華な様相に基づいて,注目すべき場所や景物を「名所」として見出していく。彼らは,名所地誌本の編纂(著述)を通じて,「名所」という場所イメージの生産(もしくは再生産)の実践をおこなっていたとみなすことができる。このことから,名所をめぐる問題に取り組むにあたり,(1)「名所」とは,経験や知識の集積によって構築された価値観に基づいた何かしらの場所認識や,まなざしによって見いだされ,知識人たちによって生産(あるいは,再生産)された差異の表象であり,場所イメージの1つであること。(2)それらは,旅や読書という行為を通じて一般大衆に受け入れられた文化的事象であると報告者は捉えてみたい。3.メディアとしての名所地誌本・名所絵〈BR〉スクリーチ(1997)は,「名所図会」は旅をしない人々に需要があったのであり,場所をめぐる口桶的な伝統に入った裂け目が名所図会を生んだのだと説く。さらに, (1)無知な人がある場所のことを一応すぐわかることができること。(2)他の人間との関わりなしでも物知りになれること。という2つの機能があったと指摘する。佐藤(2012)は,名所絵(泥絵/浮世絵)とは,景観の見方の規範を生産する文化装置であったことを説き,それぞれの絵画の差異にはその規範の対象なる読者(様々に規定された「共同体」)の「トポフィリア(場所愛)」が結びついた重層的な場所イメージの違いが想定されていた可能性を見いだした。さらに,名所地誌本(の挿絵)や,江戸泥絵などについて,トポグラフィ-場所を描く視覚的表象-としてとらえ,視覚文化の枠組みから捉え直す必要性を述べる。4.文化的構築物としての名所 〈BR〉名所とは,和歌に詠まれる「歌枕」がその原意であり,古代における名所とは,和歌において重要な役割を担うものであり,知識としての場所認識であったといえる。鶴見(1940)によれば,中世には名所や風景をめぐる場所認識は,中国の山水思想などの影響を受けたという。近世には名所地誌本の刊行や庶民文化の発達によって,名所とされる場所は多様化し,近代初頭には,西洋風の近代建築が名所として認識されるなど,時代的・文化的変遷によって,名所とされる場所や景物,さらにその価値付けが変化する流動的な側面を持つと指摘できる。これについて,場所をめぐる概念について整理した,大城(1994)の成果を援用すれば,名所と見なされる場所もまた文化的構築物の一形態であるとみなすことができよう。〈BR〉また,秋里籬島が,『都名所図会』において「京らしさ」や「上方文化」の表象を試み,『江戸名所図会』の編者である斉藤月琴は,江戸の優位性や江戸の特異性を,名所図会というメディアを通じて世間に知らしめることを試みている。つまり,自身が住まう都市に対する都市や,場所への誇り,あるいは,都市や場所をめぐる特定のとらえ方が,自身の作品である名所地誌本に反映されているという見方ができるであろう。5.おわりにかえて〈BR〉名所をめぐる問題には,地理学において議論されてきた「場所」の地域性や差異,つまり,名所とされる場所や景物には,その地域で生成されてきた風土や文化といった諸コンテクストが大きく関与しているという視点に立っての検証が必要となろう。そして,土居(2003)が指摘する「トポグラフィティ」や,トゥアンの「トポフィリア」をめぐる概念が有効な手がかりの1つとなろう。
著者
中井 達郎
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.200, 2009

沖縄のサンゴ礁では、古来さまざまな人間活動が行われてきた。それは、サンゴ礁の中でも、外洋に面した礁斜面よりむしろ、陸側に位置するイノウ(礁池)を含む礁原(以下「イノウ」と記す)を中心的な活動の場としてきた。「イノウ」は干潮時に干出する部分も多くあり、その際は、徒歩で活動できる場が広がる。サンゴ礁地形がこのような浅場を用意し、人々が容易に集落からアプローチすることを可能とした。アプローチが容易な「イノウ」では、伝統的に、集落の女性、子供を含む一般の人々が活動の主体となってきた。例えば「浜下り」は、女性が主体の祭事的活動である。また、日常的に行われてきたマイナー・サブシスタンス的漁労活動では男性だけでなく女性が大きな役割を果たしてきた。このような漁労活動を通じて「イノウ」を「海の畑」と呼び、陸上の延長として捉えてきた。そこにはサンゴ礁に対する個々人の価値付けが見て取れる。社会的にも集落内の構成要素のひとつとする位置づけもなされてきた。<br> このような伝統的な活動は、特定のプロ集団ではなく、一般の人々が主体となる生活の一部としての祭事活動であり、生業活動である。その中で、これらの活動には、地域の人々にとっての「あそび」的要素、レクリエーション的要素も含まれていたと思われる。例えば、「浜下り」は、春の大潮時の採集活動も含んだ楽しみな年中行事として現代まで引き継がれている。この要素は時代が下るにしたがって増大してきているようにみえる。また同時に変質も感じる。かつては「あそび」的要素は祭事的要素や生業的要素と一体となって、「イノウ」という場の価値付けがなされ、その結果、一定の利用ルールが共有されていた。集落の前面の「イノウ」はそこにすむ集落の人々に限定されていた。しかし、時代が下るにつれて、「イノウ」の価値付けとその利用ルールが変化してきているように思われる。<br> 現代の沖縄社会で、海での「あそび」の中心はビーチ・パーティーのようである。おそらくアメリカ文化がもたらしたものであろう。そこには上記のような伝統的な「あそび」の流れをどこまで引き継いでいるのだろうか。少なくとも、バーベキューの主役は肉であり、「イノウ」とは無縁である。ダイビングも盛んとなり、沖縄の観光にとって大きな役割を果たすようになった。その中心はスキューバ・ダイビングである。スキューバ・ダイビングは、ある程度以上の水深がなければその醍醐味を味わうことは困難である。「イノウ」とは無縁である。また、地域住民が日常的に楽しむ方法とはなっていないようである。一方で、沖縄在住の人々個人のブログやホームページをみると、沖縄の醍醐味として、豊かな海の自然、特に魚介類の採集の楽しさが語られている文章を散見する。しかし、資源の枯渇は著しい。埋立によって集落前面の「イノウ」が失われ、残された健全な「イノウ」に人々は集中する。<br>豊かな沖縄のサンゴ礁を維持し、持続可能な利用の基盤には、地域住民によるサンゴ礁への適正な価値付けが必要である。このような議論を進めるにあたって、サンゴ礁における「イノウ」を再認識することの重要性と、「あそび」場という視点からの再整理が必要だと感じる。
著者
山内 洋美
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

1.はじめに<br> アフリカとラテンアメリカは,高校地理の地誌分野で扱うに当たって,生徒の関心も薄く,誤った認識を持ちやすい地域であるように思われる。例えばメンタルマップにおいて,アフリカ大陸にブラジルを,あるいは南米大陸に喜望峰を記入したりする生徒もみられたりする。また白地図での作業において,アフリカ大陸と南米大陸を取り違える生徒もクラスに複数見られる。このように,この2つの地域は混同しやすい地域であることがうかがえる。<br> なぜ,このように混同しやすいのか。まずアフリカ大陸と南米大陸の形および位置する緯度が似ていること,また双方の地域に位置する国名や地名になじみが薄い,いずれも物理的にも心理的にも「遠い」地域であることが考えられる。したがって,この2つの地域を地誌分野で扱う際に,どうしても貧困や格差,紛争等,過剰に現代的な課題を用いて生徒の関心・意欲をかきたてることになりがちであり,その地域の地誌を適切に提示しているとは言いにくい。<br> 以上のような問題意識を踏まえて,2006年に南アフリカ,2008年にケニア・ウガンダ,2014年にパラグアイ・ブラジルを訪れた経験を活かしつつ,アフリカとラテンアメリカの地誌を比較する授業を立案し,実施の際の課題を提示したい。<br><br>2.無視されるアフリカとラテンアメリカの多様性と共通性<br> アフリカとラテンアメリカは,いずれも授業を組み立てるにあたって最も資料が手に入れにくい地域であり,さらに限られた時数で地誌を扱うためなのか,教科書や副教材等に記された情報にも偏りや強引な一般化がみられるため,それが生徒にとってアフリカとラテンアメリカをさらに「遠い」地域にしているように感じられる。<br> 例えば「アフリカの食事風景」と題してトウモロコシ・雑穀等の粥を食べる写真を紹介しておいて,ともに並ぶ食事風景の写真には「インド」「モンゴル」「フランス」と国名を冠しているなど,複数国が含まれる地域と国を同列に扱うような事例がみられる。「アフリカ」は多様だと述べておきながら,ブラック・アフリカの一部のみの情報が「アフリカ」の情報として与えられるのである。また,「ブラジル」を取り上げることで「ラテンアメリカ」を扱ったことになっている教科書もある。これらの例からも,生徒が触れる教科書や副教材から偏りのあるステレオタイプが植えつけられる恐れがあると感じる。<br> 一方で,これらの地域の日常的な暮らしはなかなか浮かび上がってこない。アフリカのスラムに暮らすアフリカ系黒人の中学生が,携帯電話を持ちナイキのシューズを履いてブレイクダンスに興じる姿はおそらくイメージできないであろうし,ラテンアメリカの内陸部で,明らかにヨーロッパ系白人の風貌を持つ人々が,小規模自給的・集約的な農業に汗水たらしている姿も想像できないであろう。それらもアフリカやラテンアメリカのある地域の一つの姿であるにもかかわらず。これまで地域の特性を表そうとするあまり,そのような例に象徴される多様性を無視して授業を行ってこなかったかと反省しきりである。<br> また,ラテンアメリカ原産のさまざまな作物は,今や世界中で栽培され,食料にそして飼料や工業原料として欠かせない存在となっており,特に生活文化において似たような特性を持つ一つの要因となっているように見える。その中でもトウモロコシとキャッサバを取り上げてみると,アマゾンの熱帯雨林原産のキャッサバはアフリカにおいても熱帯地域で食べられており,ラテンアメリカで食べるのと同じようにゆでて,何らかのソースをかけて食べることが多いという意味で共通性を持っている。一方で,中米原産と考えられるトウモロコシは比較的多様な地域に広がっており,粉にして焼いて食べるトルティーヤやタコスなどが有名であるが,パラグアイではソパ・パラグアーニャと呼ばれるケーキ状のものになる。またアフリカに渡れば粥や餅状になるという意味で多様性が生まれる。<br> このような,これまであまり取り上げることのなかったアフリカとラテンアメリカの共通性と多様性を扱うことで,ステレオタイプから脱却する形の地誌を提示すること,そして2つの地域に共通する事象と大きく異なる事象を比較することでそれぞれの地域について「誌」すことを試みたい。<br><br>3.比較地誌の授業を立案するにあたっての課題<br> 授業のキーワードとして考えているのは「気候」とかかわる「作物の伝播」・「移民」であるが,歴史的背景が重要であり,「多様性」と「共通性」についてわかりやすくシンプルな比較を行うことは難しい。どのような比較を行うか,また具体的にどのような課題が生まれたか等については,当日の発表において述べたい。<br>
著者
原 将也
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

<b>1. </b><b>はじめに</b><br> アフリカの農耕民は生態環境の特性を認識し、その生態環境にあわせた農耕を営んでいる。アフリカでは微地形や標高、土壌の肥沃度などの生態環境のちがいを生かした農耕形態がみられる。たとえばザンビアのロジの人びとは、ザンベジ川の氾濫原の地形を高低差や土性のちがいによって区分し、それぞれの土地利用を変えている(岡本2002)。<br> ザンビアには、マメ科ジャケツイバラ亜科が優占する疎開林であるミオンボ林がひろがっている。そこでは、バントゥー系の農耕民が移動性の高い生活を営んできた。<br> 本発表で取りあげるザンビア北西部のS地区には、もともとカオンデの人びとが居住していた。カオンデの人びとは焼畑農耕を営み、その生活は自給指向性の強いものであった(大山2011)。1970年代以降、周辺の農村や都市からルンダやルバレ、チョークウェ、ルチャジという異なる民族がS地区に流入し、現在では5民族が混住している。<br> 本発表では、S地区に暮らす先住者のカオンデと移住者の人びとが選択する栽培作物を比較したうえで、人びとがもつ地域の生態環境に対する認識を示しながら、それぞれの土地利用のちがいについて明らかにする。<br><br><b>2. </b><b>研究の方法</b><b></b><br> 現地調査は2011年9月から2015年3月にかけて計6回、約18ヶ月にわたって実施した。S地区の住民に対して、農耕形態と生態環境の認識について聞き取り調査を実施した。2012年8月には、人びとが認識している生態環境ごとに土壌を採取し、日本においてpH(H<sub>2</sub>O)、電気伝導度、全窒素含量、全炭素含量、有効態リン酸含量を調べた。2014年1月から2月には、S地区に居住する89人が耕作する耕作地の位置を、GPSを用いて測定した。<br><br><b>3. </b><b>先住者と移住者が栽培する主食作物のちがい</b><b></b><br> S地区の人びとは焼畑において、モロコシとキャッサバを主食作物として栽培していた。各世帯が栽培する主食作物をみると、モロコシはカオンデの世帯のみ、キャッサバはカオンデ以外の移住者の世帯で栽培される傾向にあった。この傾向は居住者のあいだでも強く認識されており、カオンデはモロコシ、移住者であるルンダやルバレはキャッサバというように、それぞれが嗜好する「伝統的な作物」を選択し、栽培しつづけているといわれている。<br><br><b>4. </b><b>生態環境の区分と土壌の理化学性</b><b></b><br> S地区の人びとは民族にかかわらず、生態環境を季節湿地と季節湿地の周縁部、アップランドの3つに分けて認識していた。季節湿地は雨季に湛水するため、耕作地としては利用されない一方で、ミオンボ林がひろがるアップランドは、季節湿地よりも標高が数メートル高く、耕作地として利用されている。季節湿地の周縁部とは、季節湿地からアップランドにかけてなだらかな斜面になっているミオンボ林のことであり、耕作地に適していると認識されている。<br> 人びとは季節湿地の周縁部の土壌は柔らかく養分が多いため、アップランドの土壌よりも農地に優れていると説明する。土壌の理化学性を検討すると、季節湿地の周縁部の土壌のほうが有効態リン酸の含量が多く、電気伝導度も高いことから、相対的に土壌養分が多い可能性が示唆された。<br><br><b>5. </b><b>考察:農耕形態のちがいと人びとが利用する生態環境</b><b></b><br> 耕作地の分布をみると、先住者のカオンデの人びとは季節湿地の周縁部、移住者の人びとはアップランドを耕作していた。カオンデの人びとは相対的に作物の生産性が高く、耕作しやすい季節湿地の周縁部を耕作していた。<br> 移住者の人びとが栽培するキャッサバは、水分や土壌条件などで土地を選ばず、乾燥地や貧栄養の土地にも作付けできる作物である。そのためキャッサバは、相対的に貧栄養であるアップランドでも栽培することができる。先住者のカオンデと移住者の人びとのあいだでは農耕形態にちがいがあり、栽培作物と利用する土地が異なっていた。現在に至るまで両者のあいだで、耕作地の競合が生じることなく、それぞれが選択した作物を栽培していた。<br><br><b>参考文献</b><br>大山修一 2011. アフリカ農村の自給生活は貧しいのか?. E-journal GEO 5(2): 87-124.<br>岡本雅博 2002. ザンベジ川氾濫原におけるロジ社会の生業構造. アジア・アフリカ地域研究2: 193-242.
著者
植草 昭教
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

千葉市美浜区に形成された幕張新都心は、1970年代後半から東京湾を埋め立て、造成した土地に整備された都市である。1989年、国際会議場とイベントホールからなる幕張メッセがオープンしたところから幕張新都心の歴史は始まった。現在では、幕張新都心の建設は完了に近づき、幕張新都市の空間をどのように利用していくかの段階に移行してきている。今後も魅力ある都市であり続けるために、どのように維持、管理され、そして利用されて行くのかなど、幕張新都心が形成、利用されていく中で、幕張新都心の機能と景観に関して見てみることにする。<br> 幕張新都心は、「職・住・学・遊」が融合した未来型の国際都市を目指して展開している。JR京葉線海浜幕張駅を中心とし、ホテル、シネマコンプレックス、アウトレットモール、スーパーマーケットなどがある「タウンセンター」、幕張メッセとビジネスのエリアである「業務研究地区」、教育機関や研究機関が集まる「文教地区」、幕張ベイタウンなどの「住宅地区」、野球場(QVCマリンフィールド)などがある「公園緑地地区」イオンモール幕張新都心が開業した「拡大地区」、この6つの地区から構成されている。計画面積522.2ヘクタール、計画人口 就業人口約15万人 居住人口約3万6千人。街づくりの特徴は、先進的な都市システムの導入や環境デザインマニュアルによる都市環境の整備と、調和のとれた街づくりである。 <br> 埋立地に整備された幕張新都心は、2011年3月11日に発生した東日本大震災の液状化現象によって、景観などに配慮して整備された街並みが損壊してしまった。しかし約1年6か月後には復旧した。復旧に当たっては、幕張新都心は景観に配慮されて建設されているため、元通りに復旧させた。2012年10月1日幕張新都市は、千葉市の景観形成推進地区の第一号として指定(2013年4月1日施行)された。景観形成推進地区は、地域の特性を活かし、先導的景観形成を図る必要がある特定の地区と位置づけられる景観形成推進地区に指定されると、その区域に建設される建築物は、すべて届け出の対象となる。<br> 幕張新都市は、「職・住・学・遊」の複合機能の集積む進み、就業者、就学者、居住者及び幕張新都心への来訪者を合わせ日々約14万7千人の人々が活動する街となっている。テレビショピングを行っているQVCが、QVCスクエアビル前の歩行者デッキに3Dアート(トリックアート)を期間限定で描いたことが、行き交う人々の話題となり、2013年度千葉市都市文化賞まちづくり部門の優秀賞を受賞している。このパフォーマンスは、遊び心のあるアート空間を演出した。また、幕張新都心を観光地として活用しようとの考えもある。成田空港に近く、ホテルがあり、幕張メッセでイベントも開催されている。2013年12月には、拡大地区にイオンモール幕張新都心が開業し、ショッピングが出来ることなど、幕張新都心の空間に国内外の観光客を呼び込もうとする。この他に、幕張新都心は、多くのテレビや映画、CMの撮影地として登場する。引き続き、マスメディアに取り上げられるような、都市の姿を表現し続けることが求められる。<br> 幕張新都心は、建設から25年が経過し、都市の姿が完成に近づき、様々な都市機能も有してきている。また空間は景観に配慮され、デザイン性の高い建築物が建ち並ぶ。幕張新都心が、成熟段階へと移行する時期になり、今後も魅力ある都市であり続けるためには、良好な都市環境、景観形成の継続が必要であり、加えて幕張新都心の都市文化とも言えるような、都市空間を創出していくことが必要であろう。
著者
川村 壮 橋本 雄一
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2010年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.72, 2010 (Released:2010-11-22)

_I_ 目的と方法 本研究は,寒冷地に多く分布する軟弱地盤である泥炭地が開発されてきた歴史を持つ札幌市を対象とし,都市部における地質と土地利用の相関関係を明らかにし,都市開発における問題点を検討することを目的とする. 本研究で用いる地質情報に関しては,札幌地盤図(2006)を参考に,札幌市の地質を盛土,泥炭,粘土,シルト,砂,砂礫,粘土混じり砂礫,岩盤,火山灰質砂,火山灰の10種類に分類し,電子化された地質図を作成する. 土地利用情報に関しては,2000年及び2007年の都市計画基礎調査を用いて,建物密度(延床面積/建物面積)及び高層化指数(2007年建物密度-2000年建物密度)を算出する.なお,土地利用の種類は専用住宅(戸建住宅等),共同住宅(マンション等),専門商業施設,店舗施設,都市運営施設,工場施設の6種類を抽出し,それぞれ延床指数(任意の建物用途の延床面積/地区面積)及びその変化(2007年延床指数-2000年延床指数)を算出する. 以上のような地質情報と土地利用情報を空間的に結合させ,地質別の土地利用変化を明らかにする.最後に,この結果を用いて都市開発における問題点を検討する. _II_ 札幌市の地質 札幌市における代表的な軟弱地盤である泥炭地は主に豊平川の氾濫原である北東部に分布しており,地盤の不等沈下の影響が出ている地域もある.また,盛土は主に南東部に局所的に分布しているが,これは宅地造成等のために谷が埋め立てられた結果として形成されたものである.2003年の十勝沖地震の際には,札幌市においても盛土の分布域の一部で液状化現象が発生している. _III_ 地質別の土地利用変化の関係 地質情報と土地利用情報を空間的に結合させ,地質別の土地利用変化を分析した結果,建物密度と高層化指数は,いずれの年次においても砂礫や粘土の分布地域で高く,地質条件の良い中心部において建物の高層化・稠密化が進んでいると考えられる.しかし,高層化指数は泥炭と盛土でプラスの値を示しており,当該に地域において建物の高層化・緻密化が進行していることを表している. 次に,建物用途別の延床面積と地質の関係をみると,専用商業施設,専用住宅施設,共同住宅施設は砂礫や粘土の分布地域に立地する割合が高いものの,いずれも泥炭で延床面積が増加している.特に専用住宅と共同住宅が大きく増加しているが,これは地質などの自然条件以外の経済的な理由が建物立地に大きく影響しているためであると考えられる. _IV_ 結論 本研究は,寒冷地の都市内部における地質情報と土地利用情報とを統合して時空間分析を行い,両者の関係を明らかにした.その際,本研究は,寒冷地の特徴的な地質である泥炭に注目して分析を行った. その結果,泥炭が存在する地域には,専用住宅や都市運営施設が多く立地しているが,2000年以降には共同住宅の立地が進むといった動向がみられた.この結果には,近年札幌市においてマンション供給の飽和状態が指摘される中で,より安価なマンションの供給を行うため,土地取得の容易な地域での共同住宅開発が行われていることも影響していると考えられる. 泥炭地における共同住宅開発は,住環境維持のためのコストの肥大化,地震をはじめとする自然災害に対する脆弱性の増大などが伴う可能性がある.こうしたコストやリスクの増大を防ぐためには,地質情報などの自然条件に関する情報と,土地利用に関する情報を統合的に管理し,両者の関係について継続してモニタリングしていく必要がある.
著者
藤井 紘司
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2011年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.86, 2011 (Released:2011-05-24)

研究の目的 本報告では、琉球弧のもっとも南に位置する八重山諸島を対象にして、「高い島」と「低い島」とで構成されたこの海域世界における19世紀末期から20世紀初頭における島嶼間交流を復原することに目的がある。島嶼間交流の研究は、おもに異なる生業経済を持った主体間の交流に焦点を絞ってきた。しかし、本報告は、歴史的に「低い島」の住民が「高い島」の生態環境を利用し、耕作地や水源地を所有してきた事例を通して、海上を越える埋め込まれた生業適応のあり方について分析する。なお、本報告では、この海上を越える生業適応を「通耕」という語彙を用いて、森林資源や飲料水の獲得といった行為を含めて使用する。 研究の方法と結果 本報告では「高い島」への通耕経験を跡付ける史料として、竹富町役場の所有する土地台帳とそれに付随する地籍図を用いた。また、地籍データの欠如した箇所は、税務課に保管されていた和紙製の「旧公図」を適宜用いて復原した。 まず、土地台帳に関しては、記載項目を相互に照らし合わせ、合計2083筆の土地について、その所有者の属する大字(所有質取主住所)を1筆ごとに特定し、これを地籍図上で彩色表示した。本報告では、これを「土地の所有権者住所大字分類」と名付けている。 さらに、統計データとしては、1885(明治18)年当時の八重山諸島に位置する村落の実態をまとめた田代安定(1857-1928)の復命第一書類(国文学研究資料館所蔵)の第28冊「八重山島管内西表嶋仲間村巡檢統計誌」と第35冊「八重山島管内宮良間切鳩間島巡檢統計誌」とを使用した。1892(明治25)年時の「沖繩縣八重山嶋統計一覽略表」(国立国会図書館所蔵)と併せて、当時の「高い島」と「低い島」との関係を検討するためには貴重な史料である。 また、同時代史料として、「低い島」の頭職に就いていた宮良當整(1863-1945)の記した日誌や備忘録、南島踏査を行った笹森儀助(1845-1915)の『南島探驗』(1894年)を参照した。さらに、視覚的な史料としては、1890年代の前半に作成されたと考えられる「八重山古地図」(沖縄県立図書館所蔵)と「八重山蔵元絵師の画稿」(石垣市立八重山博物館所蔵)とを使用した。 これらの史料と、土地台帳とそれに付随する地籍図、および明治30年代の状況にふれた「宮良殿内文書」の分析、また聞き書きによるフィールド調査や伝承されてきた古謡の分析をもとに、八重山諸島における「高い島」と「低い島」との交流史を復原した。 これらの調査によって、本報告の対象とした事例には、狭域集中型の通耕と広域分散型の通耕の2つの形態があり、また、「低い島」の住民は、「高い島」に水を得るための「池沼」や、通耕先で寝泊まりするための「宅地」を村(字)持ちで所有していたことをあきらかにした。 1904(明治37)年の「琉球新報」には、本報告の対象とした「低い島」の住民による刳舟の操縦技術の卓越さを記した記事があり、おそらく、通耕と操舟の技術とは、歴史的に併行し成長してきたといえる。「高い島」と「低い島」とで構成されたこれらの海域世界は、このような「海上の道」を維持することによって、島嶼環境に規定された制約性に対応し、埋め込まれた生業適応という現象を発生させてきたのである。
著者
堤 純 須賀 伸一 生澤 英之 原澤 亮太 鵜川 義弘 福地 彩 伊藤 悟 秋本 弘章 井田 仁康
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

本研究では,iOSおよびAndroid OSのタブレット端末やスマートフォン用のアプリであるjunaio(ドイツのmetaio社が開発した無償ARビューア)を用い,群馬県立前橋商業高校における研究授業の実践などを通して,高等学校地理授業における位置情報型ARの利活用の可能性について検討した。このシステムを構築したことにより,群馬県高等学校教育研究会地理部会のメンバーならば誰でも情報を加除修正できるため,メンバー教員全員が授業用コンテンツづくりに積極的に関わることができるようになった。すなわち,GISのスキルに長けた一部の教員のみに多大な負担をかけてしまうことなく,「シェア型」,あるいは「情報共有型」ともいうべき授業用のARコンテンツが作成できるようになった。本研究のARシステムは,魅力的な地理教材作成において,今後の発展のポテンシャルが高いと思われる。<br>2015年1月に,群馬県立前橋商業高等学校2年生4クラス(160名)を対象とした地理Aの授業では,地域調査の単元(全6時間で計画した「前橋市の地域調査」)において,最初の1時間目をARシステムを援用した地域概観の把握とした。すなわち,高校最上階7階の教室窓から遠方に眺められる建物(高層ビル)について,その名称や用途・高さ・完成年等を,ARシステムを通じて確認しながら,前橋市の都市構造の理解に努めた。その結果,前橋駅南北での開発状況の比較や高崎市との都市機能の違いなどを,現地まで出かけなくても高校の校舎内に居ながら体感することができた。
著者
岩谷 宣行
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2004, pp.108, 2004

1.はじめに私たちの生活において,「レンタル」という行為は広く認知されている.企業・個人問わず,そのモノを購入する場合と比較して費用節約に及ぼす効果は大きく,またその業態の社会経済における位置づけも上昇してきている.立地とその特性を追求した地理学的研究は,小売業に関するものが大部分を占めている.そしてそれらは都市の地域構造を考察する際に大きな役割を担っている.しかし,レンタル業というものに視点をおいて行われた研究はみられない.レンタル業はその特徴的な業態から,蓄積されてきた同種の研究と同様にこれから検討していくことの意義は大きいものと考える.その中で,地域的な背景が店舗展開に影響を及ぼしていると思われるレンタカー業を研究対象として設定した. 2.研究対象地域と研究方法 「旅客地域流動調査」における交通機関別旅客輸送分担率によると,自家用車分担率が高く,また全国で最もモータリゼーション化が進んでいるといえる群馬県を対象地域とした.そして,全国展開するレンタカー事業者8社48店舗を考察対象とした.協力が得られ,聞き取り調査を行うことができたのは6社40店舗である.2社8店舗については観察で調査の一部として扱った.3.立地特性 群馬県におけるレンタカー店舗の立地は14市町村にみられる.その半数は高崎市と前橋市に立地している.太田市・月夜野町が両市に続くものの,その他の10市町村には1ないしは2店舗の立地がみられるにすぎず,その格差は大きい.各店舗の立地特性から,駅前に近接する店舗を「駅前指向型」,幹線道路に面する店舗を「幹線道路指向型」として立地形態分類をすると,両者の立地がみられるのは高崎市・前橋市・太田市・桐生市である.また,各店舗を利用者のレンタカー利用目的から,「レジャー中心型店舗」・「ビジネス中心型店舗」・「代車中心型店舗」・「複合型店舗」の4パターンに分類した.レジャー中心型店舗は北毛地域と西毛地域に集中しており,そのいずれもが1990年以降開設されたものである.ビジネス中心型店舗はJR高崎駅前とJR前橋駅前に集中している.代車中心型店舗は1988年以降に開設された新しい形態で,県央地域と東毛地域に立地している.複合型店舗は県央地域と東毛地域に立地している.4.地域的展開群馬県内において,県央・北毛・西毛・東毛の各地域によってレンタカー店舗の立地・利用形態には大きな差異が認められた.その差異をもたらした要因は,それらの地域が都市機能をもつ地域か観光機能をもつ地域かにあるといえる. 群馬県内における都市地域は,県央地域と東毛地域に広がっている.これらの地域は人口が多いことから,自動車に対する需要が高い.自動車同士による交通事故の発生を成立条件とし,地元住民が利用者の大部分となる代車中心型店舗は,県央・東毛両地域にのみ立地している.また,主として新幹線が停車することで,交通の結節点となり拠点性を発揮しているJR高崎駅前には,群馬県外からのビジネス需要に応えるビジネス中心型店舗が立地している. 一方,北毛地域や西毛地域は,都市地域的な要素が少なく,観光地域的な色彩が強い.両地域に存在する観光地の多くは,鉄道駅からさらなるアクセス手段を必要としている.そのため,両地域ではレジャー利用が主体となるレンタカー店舗がほとんどを占めている. そのレジャー中心型店舗は,地元住民の需要を主たる成立条件としていない.都市的機能を有しないこれら両地域では,その機能が成立の基本となるビジネス中心型店舗・代車中心型店舗は立地しえないのである.
著者
丸山 洋平 吉次 翼
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2016年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100043, 2016 (Released:2016-11-09)

2011年3月に発生した東日本大震災から5年以上が経過した。その間、被災地および被災者に対する様々な支援が行われてきたが、集団移転、復興まちづくりの長期化、福島第一原発事故に伴う避難指示区域の設定等の理由により、居住地の変更を余儀なくされている人々が多数存在している。被災者の移動による転出と転入が生起しており、結果的に東日本大震災は被災地とその周辺自治体の人口分布変動を引き起こしている。人口移動を把握する方法として住民基本台帳人口移動報告を利用することが考えられるが、平時から住民票を動かさずに転居するという実態がある。それに加えて、原発避難者特例法等により、原発付近に居住できなくなった人々が、元の自治体に住民票を残しながら避難先自治体で行政サービスを受けることが可能になっており、とりわけ福島原発周辺自治体の人口移動を正確に把握することが困難であった。2016年6月末に2015年国勢調査の抽出速報値が公表され、都道府県と人口20万人以上の市で男女・年齢5歳階級別人口を分析できるようになった。本報告では被災自治体、特に福島県と県内人口20万人以上の市である福島市、郡山市、いわき市を対象として、2010年から2015年までの年齢別の人口移動、その結果としての人口分布変動を分析する。そして、それを以て被災地の復興計画や地方人口ビジョン・地方版総合戦略に見られる将来人口の見通しを批判的に検討することを試みる。なお、国勢調査の抽出速報値は、標本誤差の影響によって後に公表される確定値から少なくない乖離があることに留意する必要がある。 総人口の変化を見ると、2005年~2010年、2010年~2015年の2期間の人口増加率は、岩手県は-4.0%、-3.8%、宮城県は-0.5%、-0.6%、福島県は-3.0%、-5.7%であり、福島県において震災後に人口減少傾向が強まっている。2010年~2015年の年齢別純移動率を見ると、岩手県、宮城県では過去のパターンからの変化が小さいが、福島県では年少人口の大きな転出超過、前期高齢者の転入超過、後期高齢者の転出超過等があり、年齢構造が大きく変化し、少子高齢化の進行を早める結果となっていた。福島県内の3.市では、福島市といわき市の総人口が減少から増加に転じており、県内人口移動の影響が想起される。年齢別の純移動率を見ると、年少人口が転出超過になる点は福島県全体と同様であるが、福島市と郡山市では高齢期の転入超過が明確に表れているのに対し、いわき市では20歳代後半以降の全年齢層で転入超過になるという違いが見られる。浜通り地方にあるいわき市は沿岸部ではあるものの、福島第一原発付近の町村の多くが街ごといわき市へ移転し、原子力災害による避難者のための災害公営住宅が集中的に整備されていること等から、高齢者だけではなく幅広い年齢層で転入超過になっていると考えられる。中通り地方にある福島市と郡山市にも復興公営住宅が集中して整備されており、これが高齢者の転入超過に結びついていると推察される。以上をまとめると、福島県からは子どものいる世帯が主に流出し、県内では被災者向けの施策の影響で特定の都市部に人口が集中するという変化が起きているといえるだろう。 原発周辺地域の居住制限は短期間で解除されるものではなく、被災者は長期にわたって避難先での居住を続ける可能性があり、将来的には特定地域が極端に高齢化すると考えられる。加えて、年少人口の流出は将来の再生産年齢人口の減少から出生数の減少へと結びつき、福島県全体の少子高齢化を加速させる。各自治体の地方人口ビジョンを見ると、郡山市といわき市は原発避難者の状況分析と将来推計を行っているが、福島県と福島市では特に言及されていない。また、地方人口ビジョン全般に言えることだが、将来の出生率と純移動率に楽観的な見通しを与えた推計結果を目標人口に相当するものとして扱っており、とりわけ被災自治体では、こうした目標人口を掲げて現実を直視しないことが、復旧・復興を長期化させるのみならず、かえって地域の持続性を損なう可能性もある。今後の復興計画を単なる精神的な規定ではなく、実質的かつ効果的な政策枠組みとして機能させるためには、震災後の人口変動を踏まえ、よりシビアな将来人口の見通しを基準とする政策形成へと舵を切る必要がある。
著者
高村 弘毅 小玉 浩
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2006, pp.4, 2006

1.降雨・地下浸透蒸発観測システムの概要<BR> この装置は、降雨による雨水の蒸発量、浸透量を計るライシメータおよび気象観測システムで構成されている。<BR> 立正大学熊谷キャンパス内林地に、縦2.5m、横1.2m、深さ1.6mの穴を掘り、そこにステンレス製のライシメータカラム(1m×1m×1.4m)を電子天秤上に設置し、現場の関東ローム層土壌を充填した。電子天秤の最大計量可能重量は3000kgで、分解能(最小目盛り)は降水量1mmに相当する1kgである。ライシメータの表面積が1m<SUP>2</SUP>であるので、1kgの重量減少は、カラムの底からの排水がみられない場合蒸発高は1mmとなる。 <BR>ライシメータカラムには、上部より200mm間隔に、水分センサー(TDR)、地温センサー(サーミスタ)、EC(電気伝導度)センサー、pHセンサーの4種類、各6本を挿入した。ライシメータカラムの底には浸透量観測用として、内径20mmのパイプの中心が底より40mmの位置に横向きに取り付けてある。 気象観測システムは、2.5mのポールに、風向・風速計、純放射計、温度計、湿度計、雨量計が取り付けてある。上記の各種データをデータロガにより任意の時間間隔でデータを記録することができる。解析に用いたデータは1時間間隔である。<BR>2.観測結果<BR> 2004年3月30日午後4時から31日午前3時までに降った計34mmの雨について、ライシメータカラム内の土壌水分の変化をみると、深度の浅いところから変化し、深度120cmではほとんど変化が認められなかった。pHは、深度40cmではpH6.4から6.8の間で変化。深度80cmではpH7.4前後を示し、各深度のなかで最も高かった。深度100cmではpH6.4から6.8の間で変化し、深度120cmではpH6.0前後で変化した。電気伝導度も深度80cmが最も高くなっており、この深度に水質の変換点が存在している。地温は、深度の深いところが低く、深度の浅いところが高くなっている。また深度20cmでは、地温の日変化がみられる。深いところでは、上昇傾向ではあるが、顕著な日変化はみられない。 <BR> 台風接近による大雨時の観測データの分析結果について述べる。2004年10月8日午前11時から9日午後7時までの降雨191.5mm(台風22号)と、2004年10月19日午前11時から21日午前7時までの降雨121.5mm(台風23号)について解析した。電気伝導度は、深度60cm以外、雨量が増えると増加し、その後減少、ある一定以上の雨量になると変化がなくなり約100μS/cmに集まる。台風22号では降り始めからの降水量が115.5mmに達した時点で、台風23号では降り始めからの降水量が117.0mmに達した時点で集束状態みられる。深度100cmのみ電気伝導度がやや低い傾向にあった。<BR> 地温についてみると、台風22号と23号接近時ではかなり違う傾向を示した。台風22号接近時では、地温は日射が遮られるとともに減少し、降雨が止むと上昇に転じた。深度20cmでは、興味深い温度変化があらわれている。降雨強度が時間あたり10mmを超えると、減温傾向から反転し一時的に上昇する。台風23号接近時は、全体として増加傾向を示すが、深度20cmでは降雨強度の増加とともに急激に温度が上昇した。それ以外の深度では降雨にはあまり関係なく一定の増加率で温度が上昇した。<BR> 土壌水分の変化は、台風22・23号接近時とも類似の傾向を示した。深度が浅いところほど速く、また変化率も浅いところほど降雨に速やかに反応する傾向にあった。しかし、深度80cmと100cmの観測値に着目すると、反応の早さ、変化率の激しさが深度順とは逆転する現象がみられた。 <BR> 本研究は、立正大学大学院地球環境科学研究科オープンリサーチセンター(ORC)「プロジェクト3『環境共生手法による地下水再生に関する研究』」の一環として実施したものである。
著者
茗荷 傑
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.134, 2008

<B>はじめに</B><BR><BR>茗荷・渡邊(2008)では有田郡広川町と函館市椴法華地区の事例から両者を比較しつつ災害と土地機能の回復について考察した。土地の機能とは土地の有用性である。そして有用性は有為転変するという特徴を持つ。全滅に近い状態となった土地のその後の過程がその地域の持つポテンシャルを推し量る便となるのではないかと考えられる。今回は絶海の孤島である青ヶ島のたどった状況から考察していきたい。<BR><BR><B>青ヶ島事情</B><BR><BR>八丈島から60km、都心から360km離れた青ヶ島は古来流刑地として知られ、東京最後の秘境と呼ばれる絶海の火山島である。本土から青ヶ島への直行便は無く八丈島からの連絡となる。八丈島までは東京から12時間の船旅、あるいは航空便を利用する。青ヶ島に入る方法は2つある。八丈島からの連絡船「還住丸」(111t、所要3時間、1日1往復)か、または八丈島からのヘリコミューター(所要20分・1日1往復)を利用する。しかし環住丸は欠航率5割とも6割とも言われ、安定した便とは言いがたい。一方ヘリは9人乗りで重量物を搭載する余裕があまり無い。さらに周囲を絶壁に囲まれた青ヶ島には港が無い。桟橋が外海に直接に突き出ているだけである。したがって外海のうねりの影響をまともに受け、接岸が極めて困難である。(写真)少しでも海が荒れると欠航になる理由がここにある。桟橋を目の前に見ながら接岸する事ができず、八丈島に戻ることも珍しいことではない。<BR>島には産業がなく物資のほとんどを島外に頼っているため、島の生活はしばしば天候に左右されているのである。<BR><BR><B>青ヶ島の災難</B><BR><BR>天明3年3月10日(1783年4月11日)この島の運命を変えることになる大爆発が起こった。池の沢より噴火し、その噴火口は直径300mを越す巨大なものであったともいわれている。ここから50年にわたる青ヶ島の苦難の歴史が始まった。<BR>天明3年2月24日、突然の地鳴りとともに島の北端、神子の浦の断崖が崩壊を始めた。このときおびただしい量の赤砂が吹き上がり島中に降り注いだと言われる。<BR>同年3月9日未明より地震が8回起こり、池の沢に噴火口が出来てそこから火石が噴出した。当時池の沢は温泉があり14名が湯治に来ていたが、たちまち焼死したと言う。<BR>このときの噴火の様子は八丈島からも観測され、記録が残されている。それによると、困窮する青ヶ島の島民を少しでも八丈島に移すよう便宜を図ったとの記述があり、すでに天明3年の噴火で島民の八丈島脱出が始まっていたことがうかがえる。<BR>家屋は大半が焼失し農地は荒れ放題、更に池の沢は青ヶ島の水源であったためいよいよ生活は困窮し、飢饉が発生しつつあった。天明5年3月10日(1785年4月18日)、再び未曾有の噴火が始まり青ヶ島は完全に息の根を止められた。<BR>同年4月27日、八丈島からの救助船が青ヶ島の船着場である御子の浦に到着したが、驚いたことに島民全部を収容するにはとても足りない3艘の小舟だけであった。舟に乗り込めなかった130~140名の島民の最期は悲惨なもので、その多くは飢えで体力を消耗した老人と幼児であったと言う。彼らは救助船に取りすがって乗船を懇願したが、舟縁にかけた腕を鉈で切断され、頭を割られ海に沈んで行った。<BR>なぜ八丈島は充分な数の救助船を派遣しなかったのか記録は残っていないが、八丈島も慢性的に食糧事情が悪く、青ヶ島島民を全て引き受ける余力がなかったためではないかと思われる。<BR>こうして青ヶ島は島の3分の2が焼き尽くされ無人島となった。以後還往と称える帰島までの半世紀は生き残った者にも言語を絶する苦難の道程であったと伝えられる。その後青ヶ島に噴火は発生していない。<BR><BR>このように青ヶ島はきわめて生活に困難な環境である。<BR>しかし逆に言えば青ヶ島の唯一のメリットといえばその孤立性にある。つまり外部からの人口の流入が少なく、島民全員が顔見知りで家族同然というわけなのである。<BR>青ヶ島は無人化の後、半世紀の時を経ても住民が帰島して復興の過程を進むことになり、現在に至っている。この島の復興を可能にした要因は何なのか、多様な項目にわたって青が島全体の環境を俯瞰できるよう、文献や現地調査等に基づき考察する。
著者
内山 庄一郎 堀田 弥生 折中 新 半田 信之 田口 仁 鈴木 比奈子 臼田 裕一郎
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2016, 2016

クライシスレスポンスWebサイトの目指すところは、自然災害発生時における、あらゆる災害情報の自動アーカイブと、これらのオンデマンドな災害情報・災害資料の提供である。しかしながら、技術的にも著作権的にも多数の課題があることは自明である。そこで、現在は多様で広範、かつ動きの早い災害情報のアーカイブに関する実証実験として実施している。具体的には、1)迅速対応の実践として、災害発生後ゼロ日以内に第一報を提供すること。また発災からしばらくの期間、継続的に更新を行うこと、2)情報の整理として、災害発生直後から泡のように現れては消えてゆく災害情報の検索と整理を行い、3)情報の提供として、それら災害情報への簡便な一元的アクセスの提供を目指している。並行して4)これらをドライブするシステム開発を推進している。
著者
秋本 弘章 秋本 洋子 伊藤 悟 鵜川 義弘
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

<b>フィールドワークにおけるARシステム活用の意義 </b>高校地理教育においてフィールドワークは重要であることは言うまでもない.しかし,効果的な実施ができていないという報告がある.10人程度の少人数であればともかく,クラス単位や学年行事として実施をする場合,フィールドで適切な指示が難しいからである.スマートフォンによるARシステムは,フィールドで,実際の地理的事象を観察しながら,その地理的背景の探求や理解を助ける情報を提供するものである.このようなAR機能をもつGISが教育現場に提供できれば,野外観察をより効果的に実施することができる.<b></b> そもそもARシステムは,スマートフォンやタブレット端末での利用を前提に開発されてきた技術である.これらの端末が広く普及すれば,ARは容易に利用できることになる.ここ数年におけるスマートフォンの急速な普及は誰もが認識している通りである.実践を行った早稲田高校においてもほとんどの生徒が所有し,日常的に利用していため,新たなアプリを使うことに対しても抵抗感はほとんどななかった.なお,校内においては通常スマートフォンの利用は禁止している.学習活動に利用するという目的で時間と場所を限って許可を与えて行った. <b>教材の開発と実践 </b>教材の開発は,昨年の春から行った.グループ学習という前提であるため,グループで見学コースを決めてまわることができるように,多数の観察ポイントを用意した.具体的には都内の100個所以上の見学個所として,質問項目を作成した.これらの質問項目は,Google Mapsのマイマップの機能を使って登録したうえで、AR機能を持つアプリであるWikitudeに書き込んだ. 授業実践は,早稲田高校1年生を対象に行った。従来関西研修旅行の予行として都内近郊でグループ学習を行っていた時間を使った.全体集会においてスマートフォンのアプリの利用方法等を伝えるとともにHRの時間を使ってグループワークのコースを作成させた。そのうえでフィールドワークではARシステム等を使って,スマートフォン上に提示される観察ポイントをめぐり,観察ポイントごとに示された課題を回答する.フィールドワーク終了後,江戸から東京への変遷、地形的特色などをまとめたレポートを提出させた. <b>授業実践の効果 </b>早稲田高校の生徒は,中学校の社会科地理の時間に学校周辺の引率型のフィールドワークを経験している.また,理科の授業でも野外観察も行っている.そのため,「教室の外」での学習が効果的なことを理解していたようである.また,スマートフォンを使って観察ポイントを探すという方法は「ゲーム感覚があり,楽しかった.」と好評であった.しかし,生徒は東京およびその周辺在住していながら,観察ポイントのほとんどを訪れたことなかったと回答している.その意味でも大きな意義があったと思われる.また,引率を担当した学年の先生方からも,生徒がグループで協力しながら学習を進めている姿に好意的な感想が寄せられた.観察ポイントについても,新たな東京の姿を発見できたなど高い評価を得た.もちろん,改善点もある.システム上の問題としてはWikitudeが古い機種のスマートフォンでは作動しないことである.また,当時の我々の技術では写真等を載せることができなかった.実践上の問題としては、時間内の回ることができなかったグループが多かったことである。見学範囲,見学個所の整理が必要かもしれない.
著者
山下 清海 尹 秀一
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2008年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.157, 2008 (Released:2008-07-19)

問題の所在 韓国は「チャイナタウンがない国」と呼ばれてきた。それは,第二次世界大戦後,韓国政府が国内の華人に対して厳しい政策をとって来たために,形成されたチャイナタウンが消滅したこと,あるいは新たなチャイナタウンが形成されなかったことを示している。 しかし,1992年の韓国と中国の国交樹立を契機に,韓国における華人社会を取り巻く状況は大きく変化した。韓国と中国の間の貿易や人的な交流が深まるとともに,韓国政府や韓国人の華人に対する対応も変わってきた。それらの変化の象徴が,かつて形成されていたチャイナタウンの再開発や新たなチャイナタウンの建設構想である。 報告者の一人である山下は,2000年に仁川(インチョン)を調査し,かつてのチャイナタウンおよび華人社会の状況について報告した(山下 2001)。その後,仁川のチャイナタウンは「仁川中華街」として,急速に再開発復興された。本報告は,仁川中華街の再開発の過程と現状を明らかにするとともに,仁川中華街の再開発の意義について考察するものである。 なお,現地調査は,2007年3月および2007年11月に実施し,仁川中華街繁栄聯合会,韓中文化館,仁川広域市中区庁,仁川中山中・小学校(華僑学校),中国料理店をはじめとする華人経営店舗などから聞き取り,資料収集を行うとともに,仁川中華街の土地利用・景観調査を実施した。 仁川における華人社会の変遷 1882年,朝清商民水陸貿易章程により,仁川は,釜山,元山とともに中国側に開港された。そして,仁川には清国租界が設けられ,チャイナタウンが形成された。華人の出身地をみると,黄海を挟んで対岸に位置する山東が最も多かった。 第二次世界大戦後,李承晩政権(1948~60年)および朴正煕政権(1963~79年)の下で,民族経済の自立を掲げて実施された華人の経済活動に対する厳しい規制強化により(外国人土地所有規制,外貨交換規制,飲食業への重課税など),華人社会は大きな打撃を受けた。韓国での生活を諦めざるを得なくなった多数の華人は廃業して,アメリカ,カナダ,台湾,日本など世界各地に移住し,仁川のチャイナタウンは事実上消滅した。 仁川中華街の再開発 2001年から仁川広域市中区庁は,外国租界時代の歴史的建造物が多く残る地区を整備して,新たな観光ベルトを形成する事業を開始した。その中核をなすのが「仁川中華街」の建設であった。2002年,サッカーの日韓共催ワールドカップの際,多数の中国人の来訪も期待されていた。 2002年には,仁川広域市中区庁のさまざまな部門の職員が,仁川中華街再開発の参考とするために,横浜中華街を視察に出かけた。また同年には,仁川中華街のシンボルとなる最初の牌楼(中国式楼門)が,仁川の姉妹都市である山東省威海市の寄贈で建設された。その後,さらに二つの牌楼,三国志壁画通り,韓中文化館,中華街公営駐車場などが建設され,チャイナタウンらしい街路や景観がしだいに整ってきた。 仁川中華街の再開発に伴い,仁川中華街の外部で中国料理店やその他の店舗を営んでいた華人が,仁川中華街で開業するようになった。2001年には5軒しか残っていなかった中国料理店は,2007年11月の調査では,30軒あまりに増えた。また,約30軒の中国物産,食品などの店舗が,仁川中華街に立地している。規模の大きな中国料理店では,中国出身の料理人や従業員を雇用している。また,中国物産,食品店の経営者の多くは,最近山東省などから来韓した「新華僑」である。 仁川中華街の再開発事業は,仁川広域市,特に中区庁が主体となって進められた。財政的な支援も,仁川中華街の建設計画も,ほとんどが行政側によるものである。地元の華人社会は,これまでの仁川中華街の再開発では,付随的な役割しか果たしていない。この背景には,これまでの韓国政府の非常に厳しい対華人政策により,華人社会の経済的,社会的な力が徹底的に弱体化されてきたことを反映している。 〔文献〕 山下清海 2001.韓国華人社会の変遷と現状.国際地域学研究(東洋大学) 4:261-273.山下清海『東南アジア華人社会と中国僑郷―華人・チャイナタウンの人文地理学的考察―』117-135.古今書院に再録. 尹 秀一 2005.韓国―中国語ブームと韓流のなかで―.山下清海編『華人社会がわかる本―中国から世界へ広がるネットワークの歴史,社会,文化』186-198.明石書店.
著者
一 広志
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2005, pp.5, 2005

1.はじめに 2004年、愛媛県地方は台風の相次ぐ接近・上陸によって各地で風水害や土砂災害が多発した。これらのうち、9月29日の午後に四国南岸を東北東に進んだ台風21号(T0421)による東予地方の大雨の事例を採り挙げ、降水の成因を擾乱の構造の視点から解明することを試みる。2.考察東予地方の降水は、以下に示す3回の極大が認められる。 (1) 7時から9時頃にかけての新居浜、富郷、三島におけるピーク (2) 正午頃の成就社、丹原(石鎚山麓)におけるピーク (3) 15時頃から19時前にかけての東予地方のほぼ全域におけるピーク (1)は台風が九州に上陸する前後で、気圧場の風によって四国南岸から流入する暖湿気塊が、中国地方から瀬戸内海中部にかけての相対的に低温である気塊と衝突することによって相当温位傾度が大きくなっている領域に発生している。 (2)における台風の位置は宮崎県北部で、降水の成因は地上風の地形による強制上昇を主因とする収束の持続と考えられる。 (3)は台風が四国西南部に上陸し、南岸部を東北東に進んで紀伊水道に達するまでの時間帯であり、三者の中で最も多い降水量を記録している。この時間帯の降水の特徴として、降雨強度の極大時付近に南風成分の減少と西風成分の増加で表される地上風の急変が認められ、気温が急激に低下している(2_から_3℃/30min程度)ことが挙げられる。四国とその周辺における地上相当温位分布とその変化に着目すると、極大域は台風中心の東側にあり、中心を経てほぼ北東から南西の方向に延びる急傾度の領域が形成され、台風とともに東進している。地上風の急変はこの領域の通過後、等相当温位線にほぼ直交する方向に生じており、相当温位の低い気塊が流入したことを示している。 以上より、解析された相当温位の急変帯は寒冷前線の性質を持っており、降水の極大は低相当温位気塊の流入によって発生したことがわかる。AMeDAS観測地点毎の降水ピーク時における10分間降水量の値を比較すると、山間部や東部における値は北西部・島嶼部の2から3倍に及んでおり、四国脊梁山地の地形による増幅が認められる。3.類似事例との比較 経路および降水分布が類似している事例として、T9916とT0423が挙げられる。T9916は降水のピーク時に南風成分の減少と西風成分の増加で表される地上風の急変と気温の低下を伴なっている。この時の中心位置は四国のほぼ中央部であり、松山付近が地上相当温位の極小域となっている。地上相当温位傾度はT0421と比較すると緩やかであるが、降水の極大は低相当温位気塊の流入によって発生しており、前述の(3)と同じメカニズムによってもたらされたものと言える。T0423による降水は、ピーク時における強度(10分間降水量)はT0421の約1/2であるが、強雨の持続によって総量が多くなっている。新居浜や丹原では降水が継続している間は北東寄りの風が卓越しており、気温の急激な変化は認められない。降水のピーク時においては紀伊水道から四国を経て日向灘に至る領域で南北方向の相当温位傾度が大きくなっており、これの解消とともに強雨は終息している。
著者
近藤 暁夫 鈴木 晶子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

<b>1.</b><b> 研究の目的</b><br><br> 経済循環が,大きく生産分野,流通分野,消費分野の連携で成り立っている以上,経済地理学においても,この三者三態の空間的特徴の総体的な把握が望まれる。この中で,近年農業分野において六次産業化の掛け声のもと,生産・加工・流通・消費を一連のまとまりとして議論,実践する動きが顕在化していることが注目されよう。現実に,各地で生産者と消費者を架橋する施設として直売所が急増している。今回はその中でも既往研究のほとんどない「インショップ形式の農産物直売所」を取り上げる。<br> インショップ形式の農産物直売所とは,スーパー等の量販店や生協の店内に開設し,少量多品目の農産物やその加工品を周年販売する半独立のコーナーを指す。近年,全国的にインショップが急速に売上額を増やしているが,その小規模性と店舗内の一コーナーという位置から,インショップの全国的な実態や実績をまとめた資料は未整備で,売上額の調査などもなされていない。<br> 本研究は,静岡県磐田市内のJA系列のスーパーマーケット「A店」とその中に設置されているインショップ形式の農産物直売所を取り上げ,店舗,生産者,消費者の検討から,インショップの存立を支える地域的な基盤の抽出を目的とした。<br>&nbsp;<br><br><b>2.</b><b> 研究の方法</b><br><br> 生産者としてインショップへの農産物出荷者34名,流通者としてA店の関係者,消費者として来店者397名に聞き取りとアンケート調査を実施した。なお,生産者には営農の実態と直売組織に参加した理由,インショップに出荷する作物と他の流通形態の作物の使い分け等を,流通者にはインショップの設立背景や運営方法,店舗経営全体の中でのインショップの役割等を,消費者には購買実態とどのような時に競合店舗ではなくA店とインショップを選択・利用するのかを訪ねた。そして,これら3者の動向をもとに,インショップ型の農産物直売所の存立を可能とする地域的な基盤の検討を行った。<br><br> <br><b>3.</b><b> 研究の結果</b><br><br> A店内の直売所への農産物の納入者は,店舗から3㎞圏内に位置する農家である。このような圏的な囲い込みが成しえたのは,A店がJA系列の店舗であり,地域の農家とのつながりがもともとあったことと関係している。しかしながら,A店が属する地域農協に所属する農家自体は3㎞より遠方にも多く居住していることから,日常的に店舗まで農産物を納入可能な範囲として3㎞がひとつの目安になっているといえよう。多くの場合,彼らは,友人や農協等による勧誘をきっかけに,通常の農協への出荷以外の副次的な農業収入を得たいと考えて,産直に参加した。農家の多くは高齢層で,売れ残った商品は自家で処理する。また,農産物の納入等でA店に来訪する折に店内で購買を行うこともまれではない。<br> A店の側は,農産物直売所自体の収益は売り場面積の割に高くないものの,競合する店舗に対して絶対的に差別化できる商品であること,来店者が同時に食料品等の他の売り場の商品の購買を期待できることから,直売所の充実に積極的である。<br> 消費者は,店舗から半径2㎞程度の圏内を中心に来店している。その多くは,食料品全般の購入のために来店する主婦層であるが,多くの場合,インショップの商品も同時購入しており,直売所の存在が店舗選択において一定のウェイトを占めている。<br> このように,A店をめぐり,生産者は自家消費の余裕分を出荷することで無理なく副収入を得る道が開け,流通者は集客の目玉を得ながら売れ残りのリスクを回避できる。消費者は農家が食べるのと同じ新鮮で安心な野菜を手軽に入手できる。このような,インショップを中心としたごく近距離間の「地産池消」の構図により,当地の農産物直売所は存立している。これには,工業地帯に位置し,混住化が進行している磐田の地域的条件が大きく関係している。他地域においても,一律横並びの整備ではなく,インショップ,独立店,道の駅など,その地域性に最も合致するような,柔軟な農産物流通の形態を探る議論が求められる。
著者
竹内 裕希子 廣内 大助 西村 雄一郎
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

<b>1.&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; </b><b><u>はじめに</u></b><b><u></u></b> 東日本大震災の「釜石の奇跡」が例に挙げられるように,防災教育を実施する重要性とその効果が認識されている。しかし,防災教育の実施は未だ手探りである場合が多く,体系化したプログラムが提供されていないため,学校防災では現場教員の意識・知識に頼らざるを得ない状況であり,実施内容や頻度は学校において違いが生じている。 本報告では,愛媛県西条市において2006年度から取り組まれ続けてきた防災に関する「12歳教育」の現状と課題を考察する。ヒアリング調査・アンケート調査から「12歳教育」の効果と継続性の要素を整理し,地理的要素である空間認識と地域特性の理解を取り入れた総合的防災教育プログラムである「新12歳教育」の提案を行うことを目的としている。 <b>2.&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; </b><b><u>愛媛県西条市</u></b><b><u></u></b> 愛媛県西条市は瀬戸内海・豊後水道に面し,背後に石鎚山を最高峰とする四国山地に囲まれた愛媛県の東部に位置する。2004年に来襲した台風21号・23号により市内の河川が氾濫し,荒廃した山地からの流木により大きな被害が発生した。この災害を教訓として西条市は,大人に近い体力・判断能力が備わってくる12歳という年齢に着目し,防災教育や福祉や環境に関する活動などを行うことによって社会性を育て,子供たちが災害時には家庭や地域で大きな働きをなせるような力を身につけていくことを目的として2006年度から「12歳教育」に取り組んでいる。 「12歳教育」は,西条市内の小学校6年生児童を対象に総合学習の時間を用いて実施されている。各学校は4月に1年間の防災教育課題を決定し,夏休みに代表児童が西条市が実施する「防災キャンプ」に参加し,防災に関して学ぶ。その後各学校で防災教育活動を行い,2月に西条市内の全6年生が集まり「こども防災サミット」と題した発表会を行う。 <b>3.&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; </b><b><u>調査概要</u></b><b><u></u></b> 西条市教育委員会へのヒアリング調査並びに,西条市内に立地する小学校25校・中学校10校の校長・教頭にアンケート調査を実施した。ヒアリング調査は2013年12月,2014年5月に実施し,アンケート調査は2014年7月に実施した。アンケート調査は,①2006年度から実施されている12歳教育の取り組み内容,②12歳教育の防災教育効果,③総合学習の時間以外の各教科科目内での防災教育の取り扱い状況,④学校管理上の防災の課題の4つの大項目で設計した。 <b>4.&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; </b><b><u>12</u></b><b><u>歳教育の防災教育効果</u></b><b><u></u></b> 12歳教育の防災教育効果を西条市が掲げる教育理念23項目ごとに4件法で回答を求めた。 全ての学校で23. 「防災教育の充実・発展」の理念向上に12歳教育が影響を与えていると回答した。また,11.「西条市の特色ある教育」として捉えられており,17.「ふるさとを愛す態度を養う」21.「コミュニケーション能力の育成」に影響を与えていると回答した。「12歳教育」では,地域住民に話を聞き地図を作成する「防災タウンウオッチング」や学習成果を地域に広める取り組みを行っている学校が多く,それらの地域学習を通じた効果であることが推測される。
著者
一ノ瀬 俊明
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
E-journal GEO (ISSN:18808107)
巻号頁・発行日
vol.13, no.1, pp.332-337, 2018 (Released:2018-05-31)
参考文献数
1
被引用文献数
1