著者
金 明美
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.69, no.2, pp.213-235, 2004-09-30

本稿は、戦前の学校や徴兵などによる国民化の過程を通して民衆に身体化されていった国民意識が、戦後どのように維持または変形されてきたのか、現在では庶民生活に身近となっているスポーツの普及過程を通して、そのメカニズムについて考察することを目的とする。ここでは、ローカリズムとナショナリズムの関係に注目する観点から、具体的な事例として、「サッカーのまち」として知られ、戦後日本でいち早く地域的にサッカーの大衆化を経験した清水市におけるサッカーの普及過程を取り上げ、ローカルな場における人々の身体がどのようにナショナルな枠組みに方向づけられていったのか、そこに働く構造化の仕組みについて記述・分析する。これによって、「サッカーのまち」へとローカル・イメージが変化する過程も含め、清水市のサッカー普及過程には、ローカル・アイデンティティの再形成とともに国民意識の身体化が進行するという、ナショナリズムとローカリズムの相互浸透の過程が表象されていることが明らかにされる。「サッカーのまち清水」という一見地域特殊的に見える現象が、いかにナショナルな次元と関係しているかを検証することにより、国民意識の身体化についての人類学的研究が、ナショナリズム研究に貢献できる一つの方向性を提示する。
著者
川口 幸大
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.69, no.2, pp.193-212, 2004-09-30 (Released:2017-09-27)

本稿は、中国共産党政策下において、村落社会の葬送儀礼がいかに変容/あるいは持続してきたのかを、広東省珠江デルタの事例から考察しようとするものである。葬送儀礼に対する共産党政府の改革は主として、葬儀に費やされる出費と、共産主義的なイデオロギーに抵触する「迷信」的な要素を排除することを意図したものであった。しかし、現地調査で得た事例から明らかになったのは、葬送儀礼を全体としてみた場合、帝政後期(およそ1750年から1920年)に確立していたと言われるかたちが、今日においてもほぼそのまま踏襲されているということである。すなわち、現在の葬送儀礼では、死者を居住区域の外へ運び出し、火葬した骨を風水墓地に埋葬する。同時に、魂を冥界へ送って、位牌と墓を設け、崇拝対象としての祖先へと移行させる。そして、これらの行為を規定しているのは、死に対する忌避の念と、死者の魂への適切な処置の方法である。また、この過程において、先行研究で示されてきた「伝統的」な葬送儀礼を構成する諸要素のほぼすべてを見出すことができた。一方、個人レベルに視点を移すと、特にエリート層に属する人々は、たとえば父の位牌の作成を放棄したり、儀礼の伝統的な手続きに否定的な態度を示すという状況が見られた。この相反するかに見える現状の背景には、20世紀初頭から知識人たちによって展開されたモダニズム-中国は伝統の拘泥から脱し、近代化の道を進まねばならない-と、それを引き継いだ共産党政府の宗教・信仰に対する政策がある。中華人民共和国の建国後、特に文化大革命期をピークとして、共産党は「封建」「迷信」というラベリングを施しながら、既存の文化・慣習・信仰等の批判と排撃を進め、そこに負の価値を定着させていった。結果として幹部や高等教育を受けた新たなエリートに関する限り、その宗教や信仰への態度規範を、圧倒的大多数の村落社会の人々が志向してきたもの-すなわち伝統-から切り離すことには成功しつつある。しかし、それ以外の村落社会の一般住民にとって、共産党の政策は、人々の宗教・信仰を対象化せず、死を克服するための観念的あるいは物質的なオルタナティブを提供するものではなかったということができる。

5 0 0 0 OA 共生の実際

著者
シンジルト
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.81, no.3, pp.466-484, 2016 (Released:2018-02-23)
参考文献数
43

中国西部の内モンゴル自治区アラシャ地域では、モンゴル族と漢族は大きな葛藤もなく共に暮らし、一種の民族共生を実現している。それが可能になった理由としてまず考えられるのが、乾親という擬制親族関係である。アラシャの乾親関係は民族内部だけではなく、異なる民族間で結ばれることが期待される。多くの研究者は、民族間の乾親は民族境界を消失させ、民族共存を可能にする制度だと理解する。だが、その内部を吟味すると、民族間の乾親関係の締結はむしろ民族境界の存在を前提とし、締結によって民族境界が強化されることに気づく。 乾親は、血縁関係のない他親族集団に子どもを帰属させれば、自親族集団に降りかかった不幸から子どもが守られるという論理に基づく実践である。乾親実践において、血縁は自他集団を境界づけており、血縁を基盤におく境界を越えること、積極的な自己の他者化が重要視されている。自己の他者化は民族間の乾親でもみられた。漢人にとって、モンゴル人は自分と血縁関係がなく、文化的にも接点がない。その他者性故に、モンゴル人は漢人から乾親になることが期待される。しかし、他者性を欲する乾親実践には、民族境界の消失を前提とする民族の共生は期待できない。 民族の共生を考える上で重要なのは、モンゴル人にとって乾親は必ずしも魅力的ではないものの、それでも乾親関係の締結を望む漢人の要請を断れず受け入れる点である。彼らの認識では、万物に絶対的な幸運であるケシゲは遍在しながら増減もする。ケシゲを増やすべく、他者に対する否定的な言動は「エブグイ(不和)」と理解されやすい。エブグイを回避すべく、他者の要請をなるべく拒絶しないように配慮する。配慮の結果、漢人側の要請を受け入れる。この配慮は彼らの論理の産物だが、その論理に必ずしも共感しない漢人からは、「寛容」だと評価される。この寛容さこそ、乾親関係を超えたところに、共生という効果を生み出す。これが一地域社会における共生の実際である。
著者
大村 敬一 木村 大治 磯部 洋明 佐藤 知久
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 日本文化人類学会第47回研究大会 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
pp.140, 2013 (Released:2013-05-27)

人類の宇宙への飛躍が目前に迫っているかもしれない今日の状況下、人類学に何が求められ、人類学に何ができるのだろうか。本分科会の目的は、宇宙空間への人類の進出が同時代的な課題となりつつある今日の世界にあって、「地球」という限定された空間を超えて、「宇宙」 という新たなフロンティアから人類を見つめ直す宇宙人類学の可能性を示し、問題提起を行うことにある。
著者
杉田 映理
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 日本文化人類学会第50回研究大会 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
pp.A03, 2016 (Released:2016-04-22)

報告者は、博士課程の学生かつ未婚であった時にウガンダの農村部において1年強の長期フィールドワークをおこなった。そして14年ほどの時を経て、今度は子ども2人を連れて家族とともに同じ農村において住み込みの調査を実施した。本発表では、子連れでフィールドワークを行ったときの調査地での自分の立ち位置が14年前とどう変化したのか、またそれがなぜなのか、さらにフィールドで得られるデータに変化はあったのかを考察したい。
著者
前川 真裕子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.78, no.3, pp.412-423, 2013-12-31 (Released:2017-04-03)

My research analyzed a small Melbourne community of non-Japanese practitioners of a Japanese martial art (kendo) , focusing on their understanding of their practice, Japanese culture, and Otherness. In particular, I focused on the way that non-Japanese practitioners interpret a practice of the Other by combining their kendo practices with images provided in the media. In the genealogy of representation related to Japan (including that country's martial arts culture), 'things Japanese' have always been targeted by Orientalists who expect a 'Japan that is uniquely Japanese.' Borrowing the words of Edward Said, who stated that 'the Orient is thus orientalized' (Said 1979: 67), Orientalists' views on things Japanese have 'Japanized' Japan, and established dichotomized images as if something essential divided Japan and the West. However, what I learned from the narrative of Melbourne kendo practitioners was the everyday reality that kendo practice does not necessarily stimulate their desire for 'things Japanese.' From my work, I would instead suggest that kendo practice in Melbourne is done to stimulate males' longing for sword-fighting, combined with the image of other Western knight adventure stories such as Star Wars. Some practitioners carry out kendo as a practice with the generalized image of knights' sword-fighting, and do not necessarily highlight its uniqueness as an exotic non-Western practice. They take kendo practice to be their preferred interpretation of invigorating their masculinity. Melbourne practitioners of kendo thus vacillate between the frameworks of dichotomized stereotypical representations produced in Japan and the West. Secondly, I further suggest that kendo for Melbourne practitioners is somehow related to a sense of 'familiarity' with such a practice that they have felt since early childhood. For some Australian middle-aged people, Japanese culture, including samurai sword fighting, represents a thrilling type of entertainment transported from abroad that they once consumed as children in school grounds and their backyards as an ordinary form of play. Analyzing the narrative of one male middle-aged kendo practitioner, I found that kendo practice for such Australians still forms part of the continual process of conducting their everyday lives, and that they make sense of their daily lives through foreign things.
著者
中谷 和人
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.74, no.2, pp.215-237, 2009-09-30

1980年代の半ば以降、「芸術」や「芸術作品」という現象やモノをいかに論じるかは、人類学にとって最も大きな課題の一つになっている。従来の議論では、しばしば美術界やその制度的・イデオロギー的なシステム(「芸術=文化システム」)への批判、あるいはそれに対抗するかたちでの文化の差異の生産や構築に焦点が当てられてきた。だがその視角は、「異議申し立て」や「交渉」を行なう自律的な主体の存在が前提とされている。一方アルフレッド・ジェルは、「芸術的状況」や「芸術作品」を美術制度との関わりによっては規定しない。ジェルにとってそれらの存在を証明するのはモノとエージェンシーを介して生じる社会関係であり、またその関係は「エージェントのバイオグラフィカルな生の計画」へと結び付けられねばならない。本論文は、現代日本において障害のある人びとの芸術活動を進める二つの施設を事例に、その対外的な取り組みと実践の状況を検討する。一方の施設は、「アール・ブリュット/アウトサイダー・アート」という美術界の言説を逆手にとって利用することで自らの目的を達成しようとする。またもう一方では、こうした美術界の一方向的なまなざしから距離をおき、自らの「アート」を自らで決定しようと試みる。本論では、各施設が展開する戦略と運動を跡づけるとともに、活動現場での相互行為や社会関係がいかに多様な創作・表現(物)を生みだしているか、またそれら「芸術(アート)」の多元的な意味が当事者の生の文脈とどのように接合しているかを解明する。
著者
安念 真衣子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 日本文化人類学会第50回研究大会 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
pp.C07, 2016 (Released:2016-04-23)

本発表の目的は、現代ネパールの農村地域における女性のリテラシー実践について考察することである。ネパールではこれまで、政府、NGO、民族運動団体などが識字教育活動を実施してきた。学習者として対象とされるのは多くの場合女性である。本発表では、女性たちが日常生活の中で、文字を習う実践の場である識字教育活動にいかに関わり、そこで得られる知識や技術やネットワークをどのように生活の中で利用しているかを検討する。
著者
李 セイ
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
vol.2016, 2016

本発表では日本東京都北区王子市での調査中に出てきた「カワイイ妖狐」について語りの読み解きから、現代日本都市部における「大衆的な妖狐」の認識について試論を展開する。「カワイイ妖狐」の特徴を捉え、「民俗的キツネ」と「学術的キツネ」から受け継いだ連続性を検討する。また、同じく「妖狐」として扱われているが、おおむね同じ存在ではないと主張する。
著者
阿部 年晴
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.62, no.3, pp.342-359, 1997-12-30

文化人類学で用いられる呪術概念は, 近代ヨーロッパの形成過程において, 宗教(キリスト教)や科学や近代的な社会制度から排除され否定的な価値を付与された残余カテゴリーであった。この残余カテゴリーの指し示すところにしたがって始められた呪術研究においては, 連想の原理の誤用, 心理的言語技術, 融即, 象徴的表現, 物語生成装置, 構成規則にしたがう技術, ゼロ記号などさまざまなとらえ方が提出された。その過程で, 非合理的でマイナーな慣習と見なされていたものの研究が, 文化的存在としての人間生を根底で支えているものでありながら近代的な諸科学が気づかなかった行為の諸側面や, 文化的秩序の基本的な再生産装置に光を当てるという逆説的な事態が生じている。しかもそのような行為の諸側面や文化装置の弱体化は, 現代文明が草の根において遭遇しつつある危機とかかわりをもっていると思われる。このような観点から呪術研究をさらに展開するために必要なことの一つは, 日常的文脈における呪術世界の研究を基盤として, レヴィ=ストロースのマナ論にみられるような理論的考察と民族誌学的な記述分析と内在的記述とを結び付ける作業である。
著者
コーカー ケイトリン
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.86, no.4, pp.617-634, 2022-03-31 (Released:2022-07-20)
参考文献数
53

本論では、ポールダンス実践の生成変化に焦点を当てて、その経験的かつ物質的な側面を明らかにする。その目標は、人類学的な研究における情動の捉え方および伝え方に貢献することにある。まず、情動論的転回とその問題点を紹介する。そして、これまでの情動論が心身二元論の片方あるいは両方を別々の領域としてきた傾向を問題として取り上げる。この問題に対し、本論は人類学における情動論の原点の1つといえるドゥルーズとガタリの『千のプラトー』の第10章をもとに、情動そのものの定義を問い直す。より具体的にいえば、情動の発現をドゥルーズとガタリのいう生成変化そのものと捉える。これを基盤に、ポールダンス実践において実践者の間で最も共有される現象であるアザを出発点とし、アザの思い出、そしてアザがほのめかすエンスキルメントの過程における想像力に注目することで、フィールドでの情動的な次元をより鮮明に浮かび上がらせる。このように情動の実践的かつ身体的な側面を明らかにすることで、人類学における情動概念および方法論の新たな展開を目指す。
著者
小川 さやか
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.82, no.2, pp.182-201, 2017 (Released:2018-04-13)
参考文献数
30

グローバリゼーションや都市の近代化と深く関連したジェントリフィケーションやゲーテッドコミュニティの出現、非-場所的な空間の拡大により、都市公共空間をめぐるアクター間の緊張関係が問われるようになった。これを受けて、路上商人問題を、国家や路上商人、市民社会のあいだで路上という資源をめぐり「働く権利」、「公平な労働のための権利」、「通行/運送の権利」、「移送/賃貸権」、「管理・運営権」など様々な権利の拮抗として位置づけ、路上商人による組合化とそれを通じた集合的行為に注目する研究が台頭している。本稿では、これらの研究が期待するインフォーマルセクターによる組織化とは、既存の都市公共空間の管理運営に迎合的なかたちにインフォーマルセクターの経済実践を埋め込むことを目指すものであることを指摘し、タンザニアの路上商人マチンガによる組合形成の過程および組合運営の特徴を、現実の路上空間とパラレルに存在する「イ フォーマルな政治空間」の拡大としてみる視点を提示することで、路上商人が都市公共空間を管理・統制する国家と取り結び始めた新たな関係をめぐる先行研究の議論を再考する。
著者
川田 順造
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.71, no.3, pp.311-346, 2006-12-31 (Released:2017-08-28)

本稿は日本文化人類学会第40回研究大会(東京大学駒場キャンパス)で2006年6月3日に、同じ題名で行なった同学会の第1回学会賞受賞記念講演の内容を、大幅に補って文字化したものである。始めに、文化人類学、それも自然人類学、先史学、言語学なども含む総合人類学の教育を日本の大学で受けた第一世代であり、その後自然史の一部としての人類学・民族学の伝統の強いフランスで学んだ筆者の体験を基に、文化人類学者形成のあり方、自然史の一部としてのヒトの科学の位置についての考察を行なった。このような研究基盤と日本、アフリカ、フランスでの長期のフィールド・ワーク体験とから、筆者は文化人類学が他の学問と異なる特徴として、(a)専門化された一研究分野であるよりは、一種のメタ・サイエンスであること、(b)ヒトについての極大のパラダイム知と長期の異文化体験によって得られる個人的な体験知との結合、(C)マイナーなものへの注目と定性分析、(d)自然史の一過程としてヒトとその文化を捉える視野、等を挙げた。こうした基本性格をもつ文化人類学は、(イ)直接の形では現実の社会に役立たない非実学であるが、広い視野で現実を捉え位置づけるという、すぐには役立たないことによって役に立つ学問であるべきこと、(ロ)その意味でヨーロッパでのルネッサンス以来の「ユマニスム」の精神を現代に受け継ぐものであること、(ハ)そのために文化人類学者は、現実の社会に起こっていることに対して常に強い関心をもつべきであること、(ニ)かつてのヨーロッパの「人間中心主義」のユマニスムではなく、人類学は自然史の中にヒトを位置づけ種間倫理の探求を志向する、現代のユマニスムであるべきこと、等を述べた。現代社会との関わりにおける筆者自身の実践として、靖国神社・遊就館、千鳥ケ淵墓苑、東京都慰霊堂などへの中・韓・米などからの留学生も含めた、友人学生との毎年8月15日のフィールド・ワーク、ユネスコの有形・無形文化財の保護活動への参加、消滅しかけている日本の無形文化遺産の調査、「開発」問題とのかかわり等を挙げた。また集合的記憶の場、文化的意味を担う動態的な場としての「地域」の視点から、擬制としての近代国民国家を相対化する研究計画や、日本の事例も含めた市民社会論の可能性に触れた。文化認識に不可避の主観性を相対化し、対象化する方法の一つとして、研究者の文化、人類学の視点を生み出した文化、その方法によって研究対象とした文化の3者を、「断絶における比較」から相互に参照点とする、筆者の提唱する「文化の三角測量」について述べ、それに基づいた研究成果のいくつかを挙げた。
著者
藏本 龍介
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.78, no.4, pp.492-514, 2014-03-31 (Released:2017-04-03)
被引用文献数
1

上座仏教の出家生活は、社会から離れることを重要な前提とする一方で、社会からの布施に依拠しなければ成立しえないというアンビバレントな特徴をもつ。M.モースの『贈与論』に依拠するならば、こうした出家生活は、成立不可能なものである。なぜなら出家者は布施を受け取ることによって、社会に対して負債を負うことになるからである。実際、上座仏教徒社会の民族誌が明らかにしているのは、社会との贈与交換関係に組み込まれざるをえない出家者の姿である。それでは「出家」という生き方は、不可能なものなのか。いいかえれば、<世俗=贈与交換の世界>を超えることは可能なのか。この問題を明らかにするためには、出家者の視点から社会との関係を捉え直す必要がある。そこで本論文では、ミャンマー(ビルマ)のT僧院を事例として、「出家」を目指す試行錯誤とその帰結を分析する。こうした作業を通じて、上座仏教における教義と実践の複雑で動態的な関係を浮き彫りにすることが本論文の目的である。まず、T僧院がどのように設立され、何を目的としているかを分析する。そしてT僧院においては、「出家」を実現することこそが、出家者だけでなく在家者をも利することになるという、独特な布教観がみられることを示す。次にこうした<出家=布教>の挑戦は、具体的には(1)「森」に住む、(2)社会と贈与交換関係を築くことの拒絶という、徹底した社会逃避的な態度として現れていることを確認する。最後に、実際にT僧院はミャンマー社会にどのように受け入れられているかを分析する。そしてT僧院の<出家=布教>という挑戦は、仏教に目覚めた都市住民と結びつくことによって、出家者についてまわる(1)経済的リスクと(2)崇拝対象となるリスクを回避しえていることを示す。このようにT僧院の事例は、「出家」という形式が、出家者と在家者双方の努力と理解によって実現可能であるということを示唆している。
著者
大石 高典
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.86, no.1, pp.076-095, 2021-06-30 (Released:2021-09-23)
参考文献数
46

現代生態学によれば、地球の自然は異なる生物種どうしが競争するだけでなく、共生することによって作られる共生系と呼ばれるネットワークによって成り立っている。植物の花粉媒介のことをポリネーション(pollination)、それを担う動物のことをポリネータ(pollinator)という。ポリネーションでつながっている関係性の束のことを送粉共生系という。本論考では、森林を地上から支える送粉共生系に目を向けることで、脱人間中心主義を掲げる「人間以上の民族誌(more-than-human ethnography)」における「共生系」のアナロジーの可能性について検討する。日本列島は、在来種であるニホンミツバチと明治期に導入された外来種であるセイヨウミツバチが共に分布し、養蜂やポリネーション・ビジネスに利用されている点で独自の位置を占めている。長崎県・対馬、北海道・道北、東京都内で蜂を飼っている養蜂家に加え、ミツバチ研究者を訪ねて参与観察を含む聞き取り調査を行なったところ、「伝統的養蜂」か「産業養蜂」かにかかわらず、その種の視点から環境を見ることの重要性が語られた。また、飼っている種の如何を問わず、人とミツバチの関係には略奪的側面と伴侶種的側面の両方が見られた。産業養蜂家は、特に農業資材として群れを貸し出すポリネーション・ビジネスを貴重な収入源と認識しながらも、群れやミツバチ個体に及ぼされる損失に心を痛めている。国内の異なる文脈での調査から、人と2種のミツバチの関係をめぐって、蜜源植物を提供する景観、その景観を分かち合う野生動物、農家や林家、猟師などの主体、さらに科学者、行政を巻き込んだ種横断的なアソシエーション、あるいは「たぐい」が形成されていること、その間でさまざまな交渉が行なわれている様子が明らかになった。生態系の生存基盤をなしている共生系というネットワークを意味する生態学的概念のアナロジーを、経済のみならず社会文化にまで拡張することで、人と自然を捉える新たな視点を獲得できる。ミツバチやマツタケは、媒介者として種間の出会いに偶然性をもたらし、「たぐい」が生み出される。それによって種を超えたにぎわいを作り出すのである。