著者
ネリー ナウマン
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:24240508)
巻号頁・発行日
vol.39, no.4, pp.277-297, 1975-03-31 (Released:2018-03-27)

Though mostly spoken of only in generalizations, it is commonly accepted that Jomon clay figurines bear some religious significance. By elucidating the hidden meaning of these figurines we should, therefore, be able to gain insight into the religious thoughts of Jomon people. This study is a first attempt in this direction. Because only a detailed interpretation can serve this purpose, a very small number of figurines coming from a locally and temporally limited area are taken into consideration, namely figurines of the Katsusaka type of pottery (in a broad sense) of the Middle Jomon period. Some features of these figurines are also present in the pottery of the neolithic Yang-shao culture of China as well as in the pottery of precolumbian America. The face of the "weeping deity" is even present in one of the oldest ceramic cultures of Mesopotamia. This "weeping deity" is sometimes connected with the serpent, as is the case with a small figurine from Tonai (Nagano). There is evidence that the iconographic unity presented by these figurines - consisting in an uplifted, dishlike, sunken face, nose and connected eyebrows slightly raised and strokes leading down from the eyes, while a serpent may be coiled up on the head - represents a moon deity.
著者
河西 瑛里子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 日本文化人類学会第43回研究大会 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
pp.128, 2009 (Released:2009-05-28)

英国南西部のグラストンベリーという町は現在、ニューエイジの聖地として、主に欧米諸国の白人の間で知られている。当地では、様々な宗教的実践がみられるが、ヨーロッパ人が主な信者であるスーフィズムのナクシャバンディ教団の活動もその一つである。本発表では、グラストンベリーにおける具体的な活動の実態をフィールドワークに基づいて報告し、この町におけるスーフィズムの位置づけを示す。
著者
齋藤 貴之
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.70, no.1, pp.1-20, 2005-06-30 (Released:2017-09-25)

本稿は、野鍛冶の現状から野鍛冶の生存に不可欠な要素を見出し、それをもとに今後の野鍛冶の生存戦略を提示することを目的とする。野鍛冶とは、1つの地域に1軒、あるいは1つの集落に1軒というほど数多く存在し、さまざまな鉄製品を製作・修理し、人びとの暮らしに深い関わりを持つ鍛冶屋である。野鍛冶製品が工業製品に取って代わられ、野鍛冶の姿を見ることもほとんどなくなってしまった現在にあっても、その利用者との関係は失われることなく、人びとの暮らしとともに野鍛冶は生き続けている。厳しい状況の中で、野鍛冶はさまざまな方法を駆使して変化に対応し、生き残りを図っているのである。本稿が対象とする野鍛冶は、平成14年(2002)から平成15年(2003)年にかけて、計3回にわたって行った秋田県内全69市町村を対象とした調査で確認された27軒の野鍛冶である。これらは、多くの野鍛冶が次々と姿を消す中で生き残ってきた野鍛冶であり、現在の営業の中にさまざまな生存戦略を見ることができる。そして、それらの生存戦略から、野鍛冶の生存に必要不可欠な要素として、「生じた変化を活用し、利用する」、「新たな営業基盤を獲得する」、そして「野鍛冶本来の役割を果たす」の3つを導き出すことができる。現在、これらの要素を満たし、順調に営業を続ける5軒の野鍛冶は、農・林・漁業従事者や周辺地域の住民といった従来の利用者に代わる利用者を獲得し、新たな営業基盤を築き、これまで主としてきた周辺地域の人びとを相手にした製品を従とする営業形態を確立していることがわかる。したがって、本稿は、野鍛冶の製品を必要としている人びとを独自に見出し、その注文や要求に応じた製品を作り出し、またその反応に応じた試行と改良を積み重ねることで、これまで周辺地城の人びととの間にあったものと同様の信頼関係を新たな利用者との間に築き、維持していくことを今後の野鍛冶の生存戦略として提示する。
著者
沼崎 一郎
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 日本文化人類学会第52回研究大会 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
pp.90, 2018 (Released:2018-05-22)

本分科会の目的は、研究技法としてだけではなく、生活技法として、特に「多文化」を生きる技法としてのオートエスノグラフィーの可能性を探ることである。オートエスノグラフィーは、語る主体としての自己を顕在化させつつ、主観と客観、自己と他者、パーソナルなものとポリティカルなものの交差する民族誌的状況を描き出すことによって、再帰的/反省的に人類学的な考察をを展開しようとする試みである。それは、いわゆる「『文化を書く』ショック」以後の人類学における「再帰的/反省的転回」の提起する諸問題を、最もラディカルかつパーソナルに受け止めようとする試みの一つである。本分科会では、各発表者が、それぞれの人生と人類学的営為とを往復しつつ、研究技法としてのみならず、生活技法として、とりわけ「多文化」を生きる技法としてのオートエスノグラフィーの可能性を探る。
著者
江上 波夫
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:24240508)
巻号頁・発行日
vol.13, no.3, pp.278-284, 1949 (Released:2018-03-27)

Many prehistoric forts (the so-called gorodishches) have been found in Russia, particularly in the Volga-Kama area and in Western Siberia, which some date as far back as 800 B. C., most are from the turn of the Christian era, that is, Bronze and Iron Age. They are believed to have been built by ancient Finno-Ugric peoples. These forts resemble the Aino chash or chashkot very closely, both in ground plan and construction of the forts, and in the abundant bone implements which they contain. The author is therefore inclined to conclude that ancient Finno-Ugric culture elements may have been transmitted to the Aino, or conserved by them with other Continental culture elements from the West.
著者
煎本 孝
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:24240508)
巻号頁・発行日
vol.53, no.2, pp.125-154, 1988-09-30 (Released:2018-03-27)

アイヌの狩猟の象徴的意味と行動戦略を、文献資料、調査資料に基づき、生態学的および民族生態学的視点から分析した。アイヌの狩猟技術の特徴は、矢毒(トリカブト)、自動装置(仕掛弓)、手持ち弓と狩猟犬の使用である。矢毒と犬は、それぞれトリカブトの神、庭にいる神と考えられており、火の媼神の使者として山の神(熊)を招待する役割を持つ。アイヌ(人間)とカムイ(神、精霊)との間の互酬性は、山の神(熊)の招待と送還という肯定的機序、および、悪い神(悪態;狩猟の不確定性、危険性の象徴)に対する防御、反撃、制裁という否定的機序から成る。熊祭は人間界で飼育された子熊を、特別な使者として熊の先祖のもとに送還することにより、互酬性の反復を意図とする発展した肯定的機序として解釈される。また、占い、夢見は良い狐の頭骨の神、森の樹の女神からの伝言と考えられており、狩猟行動の意志決定における重要な機能をはたす。以上の分析から、狩猟における行動戦略は、人間によって認識された自然と、現実の自然との間の相互作用の動的過程として理解される。
著者
平田 昌弘
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.82, no.2, pp.131-150, 2017 (Released:2018-04-13)
参考文献数
36
被引用文献数
1

本稿では、アンデス高地のリャマ・アルパカ牧畜で搾乳がおこなわれなかった要因を検討するために、牧畜民のリャマ・アルパカ群管理、特に牧夫の母子畜間の介入について現地調査をおこなった。リャマ・アルパカの子畜の出産に際し、毎日の日帰り放牧を実現させるために、母子畜分離を実施するかどうかを検討した結果、母子畜分離を全くおこなわない、おこなう必要がないことが明らかとなった。その理由は、1)子畜が数時間で歩き始めるというリャマ・アルパカの身体特性、2)放牧の移動速度が遅いというリャマ・アルパカの行動特性、3)目的とする放牧地では家畜群はほぼ停滞しながら採食するというリャマ・アルパカの行動特性、4)放牧領域が狭いというリャマ・アルパカ群放牧管理の特性、5)放牧地の独占という所有形態に起因していた。更に、夜間の子畜の保護のための母子畜分離、子畜の離乳のための母子畜分離も全くおこなわれていなかった。リャマ・アルパカの母子畜管理の特徴は、母子畜は基本的には自由に一緒に過ごさせ、母子畜を強制的に分離していないことにある。「非母子畜分離-母子畜間の関係性維持」の状況下においては、母子畜間への介入は多くを必要としない。孤児が生じたとしても、牧夫の「家畜が死ねば食料になるという価値観」から、乳母づけもしない。母子畜間に介入の契機が生じないということは、搾乳 へと至る過程も生起し難いことになる。つまり、リャマ・アルパカにおいては搾乳へと発展していかなかったことになる。これが、牧畜民と家畜との関係性の視座からのリャマ・アルパカ牧畜の非搾乳仮説となる。リャマ・アルパカ牧畜では強制的に母子畜を分離しないことによる母子畜間の関係性維持、そして、催乳という技術を必要とするなどラクダ科動物の搾乳への行為に至る難しさが、搾乳へと向かわせなかった重要な要因と考えられた。
著者
謝 黎
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 日本文化人類学会第54回研究大会 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
pp.B09, 2020 (Released:2020-09-12)

現在、中国では「国服」の議論が起きている。その議論の中心に「旗袍派」と「漢服派」がいて、両者の間で互いに「自分こそが正統である」と論争している。さらにこれに、APEC唐装が加わる。旗袍と漢服のような「戦い」はないものの、「漢族の伝統服」という議論において、旗袍と漢服の中間に位置する存在だと考えられる。本発表は、中国社会における「伝統」のあり方について、服飾論争のそれぞれの根拠を通して考察する。
著者
煎本 孝
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.66, no.3, pp.320-343, 2001-12-30
被引用文献数
2

北海道阿寒湖畔において50年間続けられてきたまりも祭りは、アイヌの伝統的送り儀礼の形式を取り入れて創られた新しい祭りである。当初、この創られた伝統は、アイヌ本来の祭りではない、あるいはアイヌ文化を観光に利用しているという批判を受けることになった。しかし、祭りを主催するアイヌの人々は、この祭りは大自然への感謝祭であると語る。本稿では、まりも祭りの創造と変化の過程、それをめぐる語り、阿寒アイヌコタンと観光経済の関係、さらに現在行われているまりも祭りの分析から、アイヌの帰属性と民族的共生の過程を明らかにする。その結果、(1)アイヌの民族性の最も深い部分にある精神性の演出により、新しいアイヌ文化の創造が行われていること、(2)この祭りの創造と実行を通して民族的な共生関係が形成され、それが維持されていること、(3)そこでは、アイヌとしての民族的帰属性が、アイヌと和人とを含むより広い集団への帰属性に移行していること、が明らかになった。さらに、最後に、民族的共生関係の形成を可能にするのは、経済的理由や語りの技術によるだけではなく、異なる集団を越えて、それらを結び付ける人物の役割と人間性が重要であることを指摘した。
著者
片岡 樹
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

愛媛県菊間町の秋例祭に登場する牛鬼は、当初は妖怪として想像されたが、のちに疫病よけの御利益を期待され、今日に至っているものである。牛鬼は神輿とは異なり正式には神としての扱いを受けないが、にもかかわらずいくつかの場面では神の類似行為を遂行する。なかば祀られた存在であり、神に限りなく近づいてはいるがなおかつ神にはなれていない存在としての牛鬼から、神とは、宗教とは何かについて考えたい。
著者
髙山 善光
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.83, no.3, pp.358-376, 2018

<p>これまで呪術を説明すると考えられてきた「類似」は、認知科学の発展によって、普遍的な認知機能の一つであることが明らかにされ、呪術に限定されるものではないということがわかってきた。このため、呪術の知的世界の特徴を理解するためには新たな理論が必要であり、この新しい理論の形成に向けて、「思考の現実化」という考えを私は以前提出した。本論では、この「思考の現実化」という理論を深めることで、近代「呪術」概念の定義の問題を乗り越え、新しく「呪術」を定義してみたいと考えている。近代呪術概念の特徴は包括性にあり、その包括性は、「呪術」が宗教的認識によって現実化された推論を意味しているということに起因していると主張したいと思う。</p><p>近年の呪術概念に関する議論は、大きく二つの潮流に分けることができる。まず一方には、この近代的な呪術概念を放棄すべきだと考える研究者がいる。そして他方で、やはり保持すべきだと主張する研究者がいる。本論ではまず、この矛盾は、前者の研究者が、近代的な呪術概念の包括性に対する理解を欠いていることに起因しているということを論じた。そして次に、この包括性は、「呪術」が推論という普遍的な要素を指しているということに関係があると議論した。</p><p>しかし、この呪術的な推論には、宗教的である一方で、科学的にも判断されるというさらなる問題がある。この問題を解くために、次に、宗教的認識という独自の理論を用いた。結論として、私は、近代的な呪術概念は、この宗教的認識によって現実化されている推論のことを指している概念だと結論づけた。そのために、呪術は、宗教的認識あるいはその推論的な側面のどちらに注目するかによって、宗教的にも、科学的にもなり得ると論じた。</p>
著者
大戸 朋子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 日本文化人類学会第50回研究大会 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
pp.I15, 2016 (Released:2016-04-23)

本発表は、「腐女子」と呼ばれる男性同性愛を主題とするフィクションや想像などを嗜好する少女/女性たちの二次創作活動とメディア利用を対象として、メディアを含むモノとの連関の中で形成される腐女子のつながりとはどのようなものであるのかを明らかにするものである。調査からは、二次創作を行う腐女子のつながりが、個々人の「愛」という不可視のモノを中心に形成され、メディアを通して評価されていることが明らかとなった。
著者
村崎 恭子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
季刊民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.27, no.4, pp.657-661, 1963
著者
濱 夏
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2021, 2021

発表者は、レヴィ=ストロースによる神話研究を手がかりにしながら、現代日本でサブカルチャーとして消費される漫画などのコンテンツを、神話として研究する「立体としての神話」研究の枠組みを模索している。本発表では特にクルアーンと古事記についての先行研究を継承し発展させながら、CLAMPの漫画を取り上げて図像(モチーフ)と音(セリフなどの反復やリズム)の観点から事例分析を試みる。
著者
シンジルト
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2018, 2018

毎年夏至の日に、中国南西部の広西チワン自治区玉林市において開かれる犬肉祭は、しばしば動物(犬)の生きる権利(狗権)を優先すべきか、それとも人間の動物の肉を食する権利(人権)を優先すべきかをめぐる議論の絶好の材料として位置付けられてきた。そこで、犬や犬肉そして犬肉祭は、副次的なものあるいは一種の結果としてしか理解されてこなかった。本発表では、犬肉や犬肉祭を主役に位置付け、ほかならぬ犬という非人間との関係において、人間の本来あるべき姿をめぐる議論が、いかに、俎上に載せられているかを、民族誌的な情報をもとに考察していきたい。