著者
阿部 和俊
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.63, no.1, pp.17-24, 1990
被引用文献数
3

本稿の目的は,日本の首都東京を経済的中枢管理機能という高次都市機能の分析を通して,日本におけるその地位を検討することである。<br> 都市機能の観点からみると,現在の東京を特色づけているのは何よりも大企業本社の集中である。本稿では,日本の民間大企業と日本における外資系企業の本社立地の分析を通して,首都東京の姿を浮き彫りにすることを目的とする。<br> 我が国においては,民間企業本社の東京集中は著しい。しかし,東京への本社集中はとりたてて最近の現象ではない。それは早い時期からみられたのであり,今でもそれが強まりつつ継続している状態であると言えよう。そのことは当然の結果として,日本第2位の都市たる大阪の東京に対する相対的地位低下という事態を招いた。しかも,その傾向は今後しばらくの間は続くことが予想された。<br> 外資系企業本社の立地動向をみると,日本の企業以上に東京への集中は激しく,東京と他都市との差は大きなものであった。
著者
能 登志雄
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.9, no.4, pp.339-343, 1933
著者
廣野 聡子
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.48, 2013 (Released:2013-09-04)

本論では植民地期において官線と同様の規格を持った唯一の私鉄である台北鉄道を事例に、その特徴と性格について明らかにする。台北鉄道は、台北と台北郊外の新店を結ぶ台車軌道をその前身とし、1921年に官設鉄道と同様の軌間1067mmで敷設された鉄道であり、相対的に旅客輸送のウェイトの大きい鉄道会社であった。鉄道の成立は、当時台湾総督府が民間資本の導入によって縦貫線と接続する地域鉄道網を整備する姿勢を持っており、そうした思惑のもと総督府が台湾の内地人企業家や資本家に働きかけた結果である。台北鉄道は10km程度と路線が短く鉄道収入の飛躍的な伸びは中々期待できない中で、世界的な恐慌や災害など不運も重なって経営は低迷する。1930年代初頭には総督府による買収が議論される厳しい局面を迎えたが1930年代半ばからの経済成長を追い風に鉄道の営業成績は向上し、1941年頃には借入金を完済、そして1945年の日本敗戦により国民政府に接収されて歴史を終えるのである。 ただし旅客数は開業初期から比較的堅調に伸び、その後1930年代後半の大きな成長をみることから、台北鉄道の性格を見るうえで台北の都市発展との関連性に着目する必要があろう。 蔡(1994)は、台北の都市内には台湾人と日本人の間で居住分化が見られたこと、また職業面でも公務員や商業で日本人が多く、台湾人は工業従事者の割合が高いことを指摘しているが、台北鉄道沿線の内地人比率を見ると竜口町87.3%、川端町80.0%、古亭町66.5%と極めて内地人比率の高い地域が存在する。沿線地域全体で見ても相対的に日本人が多く住む地域であった。これら日本人は公務員・商業などホワイトカラー職に就く者が多かった点を踏まえると、台北鉄道沿線は台北市内でも相対的に通勤通学人口を多く抱えていたことがわかる。その上で台北鉄道における旅客一人当たりの平均運賃を見ると、開業当初は15.2銭であったのが、1937年には7.7銭 と、輸送の実態が短距離輸送へと変わっていったことが確認できる。 植民地期の私設鉄道の特徴は貨物輸送の大きさであるが、台北鉄道は相対的に旅客の割合が高く、台北と郊外とを結ぶ鉄道として台北の都市拡大の影響を強く受け、通勤通学輸送が卓越した都市鉄道としての性格を強く持っていた。 ただし、その沿線は日本人が多く居住する地域であったため、地域社会に根ざした鉄道というよりも、日本人利用の多い支配階層のための鉄道という性格は免れなかったものと思われる。
著者
ミデール ライムンドS.
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.59, no.6, pp.362-369, 1986

第2次大戦後のポーランド経済,とくに工業の急激な発展によって,急速な都市化過程が生じた.1950~80年の間に,都市人口割合は総人口の38.4%から58.7%へ増大した.この時期に,ポーランドの市・町の人口は1,140万人(54.3%)増加した.そのうち,ちょうど42.4%は自然増加, 33.9%は農村地域からの流入, 23.7%は行政区域の変更によるものである.<br> 1980年末には,ポーランドには804の都市と都市的集落とがあった.ポーランドの町のうちでは,小さい集落(人口1万人以下)が圧倒的に多い.それらの小集落は,都市的集落総数のうち55.9%を占め,同時に全都市人口の約10%を占めている.同年,人口5万人以上の町は75(都市的集落総数の9.3%)を数え,全都市人口の62%以上を占めている.<br> 空間的視点から見て,最も都市化しているのはポーランド西部および南央部であり,全国の都市化指数を超えている.国土には16の都市アグロメレーションがつくり出され,その中で9つが充分に発達したもの(上シロンスク,ワルシャワ,ウッジ,クラクフ,プロツラフ,ポズナニ,シュチェチン,グタニスク・グジニア,ビドゴシュチ・トルニ)であり, 7つがある程度発達した都市アグロメレーションである(スデーティ,スタロ・ポルスカ,ビエルスコ,オポーレ,チェンストホバ,ルブリン,ビアウイストック).顕著な16の都市アグロメレーションは,全国人口の20%以上,都市人口の60%以上,全産業人口の約65%以上を占めている.別に, 4つの都市アグロメレーションの発生が目立つ.すなわち,タルノブジェック—スタロバ・ボラ—サンドミエシ,周カルパチア,下シロンスク,カリシュ・オストルフである. 20世紀末には,ポーランドの総人口は, 3,900~4,000万人の水準に達し,そのうち65~75%は都市人口と推定される.現在目立つ16の都市アグロメレーションは,多中心地結合集落システムの内部で主要な経済的中心地の機能を果たし,ポーランドの都市人口の約80%が集まっているであろう.
著者
野上 通男
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100004, 2016 (Released:2016-04-08)

倭国は海を渡って、大陸の国々と外交を行ってきた.後漢・魏から5世紀の劉宋代までの遣使の史料記録から、それが行われた季節についての考察を扱う. 月の記述がある場合、その年の月の月朔干支を後漢四分暦あるいは景初暦・元嘉暦で計算し、太陽暦の「中」の干支から、その月が太陽暦のいつに当たるか明らかにして、季節との対応を考察した. 対象としたのは次の時代の遣使である      1)倭による後漢代の遣使: 2)魏・倭王卑弥呼時代の遣使: 3)倭および百済・高句麗の遣使:
著者
林 琢也
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:13479555)
巻号頁・発行日
vol.80, no.11, pp.635-659, 2007
被引用文献数
8

本研究は, 遠隔地農村において農業と地域の振興を図るために進められた観光農業の発展要因を, 青森県南部町名川地域 (旧名川町) を事例に考察した. 旧名川町は青森県最大のサクランボ産地であり, 町は1986年からサクランボ狩りを核とした観光事業を進めてきた. こうした活動の推進に際しては, 観光農業における先駆的農家と周囲の農家の組織化を促すほか, 補助事業を積極的に活用することで, 観光農業の充実を目指した地域リーダーの功績が大きかった. また, 集落レベルでの観光農業の普及においては, 専業的な果樹栽培農家に加え, 農外就業経験を有する帰農者の参加や, 集落内とその近隣地域から供給される労働力の存在も重要であった. このように, 多くの住民の協力体制の確立が, 遠隔地における観光農業の発展にとって不可欠であることが明らかとなった.
著者
橋田 光太郎
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100233, 2015 (Released:2015-04-13)

本研究は「都市地理学の視点から見た八幡の変遷に関する研究」の一部をなすもので,研究の目的は旧八幡市の戦災を概観し,市長・守田道隆が展開した復興内容を明らかにすることである。検討の際には,地域形成者としての公権力や為政者の重要性に着目して考察した。
著者
小室 譲
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100167, 2014 (Released:2014-03-31)

1.序論 2003年の観光立国宣言以降,政府の積極的なインバウンドツーリズム施策に伴い,訪日外国人客数は約521万(2003)から1,036万人(2013)へ増加している(日本政府観光局「JNTO」).しかしながら観光産業が抱える慢性的な課題として,出国日本人数に対する訪日外国人客数の大幅な赤字が指摘でき,更なる訪日外国人客数獲得のためには各観光地における外国人客への受入れ態勢強化が急務である.2000年代に入り,北海道のニセコに端を発した豪州客を中心としたスキーブームは,近年では白馬や野沢,さらに妙高や蔵王といった幾つかの本州のスキー場においてもみられる.本研究では,長野県白馬村の八方尾根スキー場周辺地域におけるインバウンドツーリズムの動向を分析し,ツーリズムの発展に伴う変容と発展の要因を明らかにする事を目的とする.併せてインバウンドツーリズムの発展に伴う新たな地域課題について検討したい. 2.インバウンドツーリズムの動向 村内最大規模を誇る八方尾根スキー場は, JR大糸線白馬駅から西へ2km程度進んだ北アルプス唐松岳の東斜面にあたる.本研究では,この八方尾根スキー場およびスキー場の麓に位置し,60年代からのスキー観光拡大期にスキー場の宿泊地としての性格を強めた和田野,八方,エコーランドの3地区を研究対象地域とする.2002年に0.3万人であった村内外国人客数は,2011年には5.6万にまで急増しており,また世界最大の旅行口コミサイトTrip adviserの「ベストディスティネーション(観光地)トップ10」において国内第6位の人気観光地に選出されるなどインバウンドツーリズムの発展が顕著である. 3.インバウンドツーリズムの発展に伴う変容 泊食分離と長期滞在を嗜好する外国人スキー客の増加に伴い,スキー場や宿泊施設,さらに飲食施設や娯楽施設では受入れ態勢の強化が進められている。特にキッチン完備の長期滞在施設や異文化体験型施設など従来みられなかった新たな形態の施設が拡充する一方で,外国人スキー客の受入れの有無により施設間,地区間において格差が増大している点が課題として明らかとなった. 4.インバウンドツーリズムの発展要因 ツーリズムの発展要因として,(1)外国人客の直接的な来訪動機となるスキー場の規模や雪質に加えて,民宿発祥の地に根付く「もてなしの文化」による宿泊施設の固定客確保や残存する民宿や温泉といった地域観光資源の存在,(2)70年代以降のペンションブーム期に移住した和田野地区の宿泊施設を母体とする民間主導の外客誘致団体による発地国へのプロモーション活動や素泊まり客に対応した外国人のための飲食店ガイドブック作成と二次交通の拡充,(3)ゲストのホスト化により在住外国人が自ら旅行代理店や空港バス,宿泊施設など外国人スキー客に対応したサービス(事業)を創出している点に大きく分けられる. 5.結論 外国人スキー客の急増は受入れ側である観光地の施設や地域に変容をもたらした.同時にインバウンドツーリズムの発展は新たな地域的課題を与え,ゲストの増加に伴う治安悪化や騒音問題,また施設間・地区間格差の増大やゲストのホスト化に伴う不動産投資や景観問題など,外国人客(住民)と既存住民の共存・共生が求められている.
著者
西川 治
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.62, no.11, pp.765-775, 1989
被引用文献数
1

It is the purpose of the present address to focus on the enlightening role of geography in the several decades preceding to the French Revolution, to caution ourselves against some faults which many geographers tend to have, to propose several global projects with which geographers in very diversified fields should deal in close cooperation, and finally to suggest the necessity of integrating the many branches of geography into a new system of "Ecumenology" that would include the discipline of Geopacifics.<br> At the beginning of this year the long continued Showa period came to an end in Japan and the new era of "Heisei" started; coincidentally, this year is the two hundredth anniversary of the French Revolution.<br> The historical meaning of the Revolution and its profound effects on the modernization of societies are being discussed and reconsidered by various scholars also in Japan. As a geographer I feel it necessary to awaken them an interest in the role of geography at the time of the Enlightenment. As I am, however, not a specialist in this subject, I must confine myself to the mention of two relevant articles: "Voltaire und die Geographie im Zeitalter der Aufklärung" (Weinert, 1949), and "Die Geographie in der "Encyclopédie" (Dörflinger, 1976). In addition, however, I would like to give some information on the similar effect of geography on the thought and attitude of edified leaders in the Edo period. After the middle of the 16th Century world maps and other geographic materials were brought bit by bit into Japan, from Europe directly or through China. Because the country was kept strictly in seclusion during most of the Edo period, educated people desired eagerly to acquire new information about the world through the narrow window of the Dutch Trading House at Nagasaki. The information they were able to obtain resulted in a substantial change in the world view of the intellectuals and the identification of their country. European astronomy and geography became indispensable parts of culture along with traditional learning in Japanese classics, Confucianism and Buddism. They reformed their appraisal of their own country in the light of world maps and geographic descriptions, as I have written in several papers, guided by the excellent book "Geography in early modern Japan" (Tsujita, 1971).<br> I have not enough space to introduce such works; however, it is worth remarking that many enlightened scholars expressed their geopolitical opinions in various essays. For instance, such opinion leaders as NISHIKAWA Joken (1648-1724), HONDA Toshiaki (1743-1820) and SATO Nobuhiro (1769-1850) proved in comparison with foreign countries that Japan was a big and very fertile country and had enough potential to develop into a leading country if Japan could take advantage of the same trading benefits enjoyed by European countries. It is also interesting to recall such words as those of the prophetic writer HAYASHI Shihei (1738-1793): "Exceedingly important is geography ! Those officers engaged in the government who have no geographic knowledge are bound to fail both in times of war and of peace."<br> The second point of my address is to point out some unfavorable habits into which many geographers, especially younger ones, are liable to fall.<br> The first of them is the capricious character already criticized by Prof. W. Bunge (1973) as follows: "Instead of an accumulation of concepts, what we witness and endure in geography are purges... Environmentalism was decimated by quantification which in turn is threatened by the geography of the human condition. This is exceptionalism among the sciences."
著者
李 炳〓
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.48, no.7, pp.459-484, 1975
被引用文献数
4

日本の梅雨や秋霖と同じ現象である韓国の長森と秋長森について,悪天示数と悪天候日カレンダーとを考案し調査した結果,次のことが明らかになった.長霖は梅雨の中休みにあたる6月23日頃のsingularityの後始まり,韓国の南部では7月中旬,中部では下旬に明ける.長森前線の南北振動によって長霖の中休み及び長霖明け後の長霖のもどり現象が現われる.盛夏に,高緯度低圧帯の低気圧からのびる寒冷前線によって盛夏の中休み現象が現われる.秋長霖は8月下旬から9月初旬にかけて現われるが,日本の秋霖に比べると期間も短いし,現われ方が年によって非常に不規則である.秋長霖は高緯度から南下する寒冷前線によるものと,東支那海から日本列島の南岸沿いに停滞する停滞前線によるものとが認められる. 6月から10月までの寒帯前線の位置と動きは,北太平洋高気圧の動きと密接な関係がある.
著者
加藤 昭一
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.32, no.5, pp.256-260, 1959-05-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
3

On the southern slope of Mt. Ogi and Momokura in Yamanashi Prefecture, there runs a thrust fault line where an easy slope lies toward the River Katsuraa Though it seems as if it were the river terrace of the River Katsura, the slope consists of rock dust called Miyatani rock-dust-bed containing rock-dustbed slate, hornfels, diorite and andesite and the fine material bed alternately. According to the results of my observation, it is 24.82 meters thick at Jakotsuzawa, and the Miyatani rock-dust-bed runs down with a dip of 8°_??_14° from Mt. Momokura to the River Katsura or the River Kuzuno, The upper part is seen even when the surface of the earth is cut, and blue-grayband of clay material containing tiny plantseeds lies in the lower. Judging from the facts I conclude as follows: 1) The bed rock is of the conglomerate of the River Katsura. 2) Upon the bed rock were deposited in the still water blue-gray band and Miyatani rock-dust-bed. 3) After that the bed rock was elevated and the present surface was formed, but rejuvenation took place again.
著者
鈴木 比奈子 内山 庄一郎 堀田 弥生 臼田 裕一郎
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.234, 2013 (Released:2013-09-04)

1.背景と目的過去の自然災害の履歴は,その場所における現在の自然災害リスクに大きく関係するため,ハザード・リスク評価に必須の情報である.特に,地域等での防災の現場において,その場所で発生した過去の自然災害を知ることは,地域の脆弱性をより正確に把握し対策を立案していく上で欠かすことができない.一方で,国内の過去の災害事例は膨大であり,それらが記載された文献資料の種類や形態も様々である.そこで,日本国内における過去の自然災害事例を網羅的に収集し,一般にも公開可能な共通の知識データベースを構築することを目的として,全国の地方自治体が発行する地域防災計画に記述されている自然災害事例の抽出とそのデータベース化を開始した.データベースは現在試験段階であるが,将来的には相互運用可能なAPIを通して配信し,外部システムから動的に呼び出して使用可能となる予定である.2.自然災害事例のデータモデリング災害事例をデータベース化するためには,地域防災計画等の出典資料から,発生した災害の記述を読み取り入力する必要がある.しかし地域災害史の項目は説明的な記述が多く,統計データ的な取り扱いをすることが難しい.そのため,次の要件を満たすべくデータモデリングを行った.要件1:情報の取りこぼしを最小限に抑える要件2:できる限り簡易な作業で入力できる要件3:内容をベタ打ちする項目を作らないこの結果,データベースの内容を9つに大分類し,合計112の入力項目を設定した.データ項目を詳細に区分したこと,およびデータ入力の際に,文献に記載がない情報は原則として空欄とするルールを設定したことによって,出典資料の情報の取りこぼしを抑え,入力作業に必要な専門的な判断を最小限にした.また,分類項目のいずれにも格納できない例外的な情報の発生は許容することとし,例外情報を文章としてベタ打ちでデータベースに入力しないこととした.この理由は,入力作業の簡易化とデータベースとしての可用性向上である.また,歴史災害を対象とした自然災害事例の抽出を行うため,現在の災害種別と災害発生当時の災害種別とを対比させる必要がある.災害種別は大分類として5種類に分け,さらに小分類として23の災害種別を設定した.過去の文献における災害の呼称と,小分類の災害種別との対応を各種文献から調査し対応表を作成した.この他,災害名称は地域の自然災害のインパクトを推し量る上で重要な要素と考え,比較的詳細な入力仕様を設定した.3.今後の展開現在,約34,000件の災害事例を試行的に入力した.このペースでは,日本全国でおよそ10万件程度の災害事例が抽出されると推定している.まずは,このデータベースの充実を推進する.次のステップとして,このデータベースから自然災害が社会に与えたインパクト‐災害マグニチュード‐を求める手法を検討する.一定の災害マグニチュード以上の自然災害については調査・解析を行い,データベースの高度化を行いたい.このデータベースによって,地域の災害脆弱性とその影響範囲をより明確に提示し,地域の防災力向上に資するシステムを目指す.
著者
久野 久
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.13, no.9, pp.836-845, 1937

野外に於ける諸事實に基き,箱根火山體を横斷して第1圖に鎖線で示した位置に一つの構造線を推定し,之を"金時山-幕山構造線"と名附けた。<br> 箱根火山古期外輪山熔岩噴出期の中頃に,本構造線の西北部では東北側地塊が東南部では西南側地塊が夫々反對側地塊に對して隆起し,其の結果火山體は第3圖に示した如き外形を呈するに至つた。又此の運動に伴つて金時山・幕山等の火山體が構造線上に噴出した。<br> 金時山熔岩其の他此の運動後に流出した各種の熔岩は,當時の斜面上の凹所(沈降部)を選んで流下し之を填めた結果,火山の外形は再び比較的凹凸の少いものに變じた。<br> 本火山最後の活動を代表する中央火口丘群も,本構造線に沿ふた弱線を利用して噴出した(第1圖参照)。<br> 古期外輪山熔岩の活動に關係した寄生火山,岩脈等の分布區域は,本構造線の運動によつて沈降した區域と略〓一致して居る事も明かになつた。<br> 本構造線の運動方向は,丹那斷層竝に足柄層の構造と共に,現在本邦本州各地に生ずる地震斷層の運動方向と類似する點が多い。
著者
香川 雄一 莫 佳寧
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100175, 2015 (Released:2015-04-13)

現在、世界の各地で湖の面積縮小問題が湖沼の保全面において難題になっている。アラル海をはじめ、カスピ海やチャド湖、中国の洞庭湖や鄱陽湖などでこうした問題が起こっている。長江の中流に位置する洞庭湖は、19世紀前半までの面積が約6,000km2にまで達していた。その後の土砂堆積と人工的な農地干拓により、1998年には約2,820km2にまで縮小した。本研究では過去の地形図の変遷を通して、洞庭湖の面積縮小の具体的な過程を検討する。 本研究では外邦図と中国で発行された地形図を資料とする。1910年代は「中国大陸五万分の一地図集(湖南省部分)」、1920年代は「東亜五十万分の一地図(洞庭湖地区)」、1930年代と1950年代は「洞庭湖歴史変遷地図集」、1960年代は「1964年 湖南省地図集」、1970年代は「旧ソ連製 中国五万分の一地図(洞庭湖地区)」、1980年代は「1985年湖南省地図集」、そして最新のものは「2005年洞庭湖地区地図」を利用し、洞庭湖の面積変化の過程を洞庭湖全体と詳細な部分とで解析していく。 全体の湖面積の比較から見れば、1920年代から1930年代までの間が洞庭湖の変化がもっとも著しかった時期であり、面積と形状が大きく変化している。1930年代から1950年代までの時期には洞庭湖本湖の面積が縮小しながら、周辺の大きな内湖の面積も次第に小さくなっていった。1950年代から1970年代までの間に洞庭湖の本湖が次第に縮小し、大規模な国営農場の建設や河川整備のために、本湖の周辺に分散している内湖の面積も激しく縮小した。1970年代から1980年代には洞庭湖本湖の面積は安定していたが、周辺内湖で面積縮小が進んだ。1980年代に中国水利部は洞庭湖付近での干拓停止を決定した。また、1998年の長江大洪水を契機として、中国政府は治水政策の転換をはかり、「退田還湖」政策を実施し始めた。2000年以降、「退田還湖」政策により洞庭湖の面積は少しずつ回復してきている。こうして1980年代以降は、政府が環境政策を転換したため、2005年までに洞庭湖では779km2の水面が増加した。 洞庭湖の各部分として、東洞庭湖・南洞庭湖・西洞庭湖の変化を比較すると、1920年代から1950年代の間にかなりの面積縮小が進んでいたことが分かった。1950年代以後は面積縮小が緩くなり、周辺の内湖の数量と面積が急減した.これは新中国の成立後、食糧危機と人口増加にともなって湖を干拓し、耕地化させるという政策と密接な関係があったと考えられる。 洞庭湖の周辺では湖の面積が縮小したため、洞庭湖の洪水調節能力が低下し、洪水被害が頻繁に発生した。1998年の夏秋に発生した長江大洪水は洞庭湖地区に非常に重大な損失をもたらした。1998年の大洪水期の衛星画像と1920年代の地図を比較すると、洪水期の東洞庭湖に生じた浸水域の面積は過去の水域とほぼ一致し、西洞庭湖とその周辺地区で水没した地域は過去の地図ではほぼ湖であったことが分かった。 地図の比較を通じて、洞庭湖の面積変化の原因は時代の変容にともなって変わっていくことが分かった。1950年代以前は主に周辺住民が浅い沼で自発的に新田開発を行ったことより面積が縮小した。1950年代からは政府に主導された堤防の建設や国営農場の建設が面積縮小の主な原因であった。過去約1世紀にわたる地形図の変遷を追うことにより、洞庭湖の面積縮小過程を理解することができ、環境問題の要因も把握できた。
著者
吉田 和義
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:13479555)
巻号頁・発行日
vol.81, no.8, pp.671-688, 2008
被引用文献数
1 1

子どもの知覚環境は, 成長に伴って野外での遊び行動を通して発達すると考えられる. 本研究はアンケート調査と手描き地図調査を用いて, ニュータウン地区における子どもの知覚環境の発達プロセスを明らかにすることを目指した. 就学前児童から中学校第1学年までに対し調査を行った結果, 次の事実が明らかになった. ニュータウン地区の子どもの遊び行動は制約が多い. 手描き地図の分析によれば, 保育園の年長児ですでにルートマップが形成され始め, 小学校第4学年以降サーベイマップの割合が次第に増加することが明らかになった. また, 建物表現に注目すると, 立面的な表現から位置的な表現へ, 視点が転換され, 相貌的な知覚の傾向が弱まる. それでもサーベイマップを描く子どもは, 中学校第1学年においても約半数にとどまり, 広域の空間を知覚する機会が少ないため, ルートマップからサーベイマップへの移行がハート・ムーア (1976) の研究結果に比較して遅くなる傾向にあることが明らかになった.
著者
植村 円香
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100104, 2015 (Released:2015-04-13)

I 研究の目的<BR> 高度経済成長期以降,東北地域では農家の兼業化が進展した.東北地域の兼業農家の特徴として,農業経営面積が大きいことが挙げられる.それは,東北地域の労働市場が安定的なものではなく,出稼ぎなど不安定なものとなることから,農業への依存度が高いからである.<BR> 不安定兼業に従事してきた農業者は,加齢に伴って兼業先を退職した後,専業的に農業に従事する傾向がある.その際,高齢農業者は,生きがいとしてではなく,生計維持の手段として農業に従事する可能性がある.それは,不安定兼業に従事してきた高齢農業者の年金受給額が恒常的勤務であった者のそれと比べて低いため,戦略的な農業経営を行うことで生計を補う必要性があると考えられるからである.<BR> そこで本発表では,不安定兼業に従事してきた農業者の多い地域として知られる秋田県羽後町において,高齢農業者の農外就業と農業経営を分析することで,彼らの生計戦略を明らかにすることを目的とする.こうした視点は,高齢農業者を農地管理や生きがい農業をする者として捉えてきた既存研究とは異なる.<BR> <BR>II 羽後町の概要<BR> 羽後町は秋田県南部内陸部に位置し,雄物川沿いの水田地帯と出羽山地に入り込んだ山間地帯からなる.また,県内屈指の豪雪地帯であり,山間地の積雪量は2mを超すこともある.高度経済成長期には,農家の次男,三男だけでなく,長男も出稼ぎに従事するようになった.その理由としては,地場産業の衰退,東京オリンピックを契機とする建設事業ブーム,米の生産調整が挙げられる.特に,米の水田単作地帯であった羽後町では,減反政策による米代収入の減少が,出稼ぎに拍車をかけた.<BR> 1970年代に入ると,出稼ぎ需要が低下するなかで,羽後町の出稼ぎ労働者は地元で求職せざるを得なくなった.しかし,地元の労働市場が狭小であるため,正規雇用として就業するのは簡単ではなかった.そのため,農業を主要な生計手段としながら,羽後町で開始された土地改良事業や地元の公共事業の作業員として,農閑期である冬に不安定兼業に従事したのである.<BR><BR>III 羽後町における農家の生計戦略<BR> 2014年12月から2015年1月にかけて,羽後町新成地区嶋田集落(農家世帯数50戸)の農家に聞取り調査を実施した.その結果,ほとんどの農家は農閑期である冬に不安定兼業に従事していた.不安定兼業の種類には世代差がみられ,70歳代以上の農家は出稼ぎや地元の公共事業に70歳代まで従事し,50歳代から70歳代の農家は除雪作業に従事していた.不安定兼業からの収入は,出稼ぎ,除雪作業とも100万円程度であった.<BR> 農業経営に関しては,1970年の生産調整以降,農協が米から大豆,スイカ,施設野菜への転換を唱えたことで,複合経営が展開されるようになっている.農家への聞き取りでは,栽培作物のうち米や大豆など価格の低い作物を集落営農組織等へ委託し,価格の高いスイカや施設野菜を集中的に栽培する傾向がみられた.特筆すべき点は,こうした負担の大きい戦略をとる傾向が,50歳代だけでなく70歳代においても多くの農家でみられたことである.このことから,東北地域の豪雪地帯の高齢農家が,農地管理や生きがい農業でなく生計維持の手段として農業に従事しているということが示唆された.<BR><BR> 本研究は,公益社団法人東京地学協会平成26年度研究・調査助成金(植村円香,東北地域における高齢離職就農者の農業経営とその役割)を使用した.
著者
三木 理史
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:13479555)
巻号頁・発行日
vol.75, no.1, pp.1-19, 2002

本稿は,第一次・第二次両世界大戦間期の大阪市の交通調整事業が,統制経済の一環にとどまらず,都市計画事業に通じる都市膨張への対応の面を併せ持ったことを,都市交通の領域性に着目して明らかにする.都市交通の領域性とは,都市交通が都市内交通と郊外交通に機能的領域区分を形成することを指す.本稿での検討から,戦間期の大阪市の交通調整は,明治期に都市交通の領域区分を基礎として成立した市内交通機関市営主義を,都市膨張を発端とする都市交通の一体化に対応するものに修正することをねらいとしていたことが明らかになった.そうした理念は同時期の都市計画事業にも通じるものであり,従来注目されてきた市営一元化への企業間調整や合併は,本来その理念実現の中で要請されたものと考えられる.しかし,その実現には戦時体制の活用が不可欠で,それが都市交通調整と経済統制や戦時統制との峻別を困難にしていたことも明らかとなった.
著者
斎藤 功
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.41, no.10, pp.623-640, 1968-10-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
10
被引用文献数
1 1 1

群馬県東南部で,酪農地域の発展過程を牛乳産業を構成する搾乳業者,酪農家,乳業会社の歴史的関連から考察した結果,酪農地域は牛乳産業の分化にともない6期の発展過程を示した. 搾乳業者は,幾多の変化をしつつも,戦前まで当地域の牛乳産業をリードしてきたが,第IV期における地元乳業会社の成立と戦時統制,続く第V期の外来中小乳業会社,第VI期の大手乳業資本の進出のなかで,地域社会と結びついた学校牛乳業者と牛乳販売地盤を生かしつつ大手乳業会社の牛乳販売店へと転化した. 明治30年代に乳牛飼養を開始した農家は,大正末期に搾乳産業組合を設立し,牛乳の処理・販売に着手したが,多くは失敗した.戦時統制により集乳圏が明治のSpot, 大正のlocalからRegionalとなるなかで,戦後の広範は酪農の普及が準備された. 昭和31年,集約酪農地域の指定以降,東京集乳圏の拡大にともなう大手乳業資本の進出のなかで多頭育酪農が行なわれた.この結果,農家の複合経営のなかで,酪農部門が経営結合の中心的地位を占めると同時に農家間結合をひきおこすに到り,牛乳産業は,単に酪農家のみならず,地域社会に及ぼす影響が大きくなった.