著者
鶴田 武志
出版者
名古屋短期大学
雑誌
名古屋短期大学研究紀要 = BULLETIN OF NAGOYA COLLEGE (ISSN:0286777X)
巻号頁・発行日
no.59, pp.55-79, 2021-03-15

子殺しをテーマに高度経済成長期の男性の願望の顛末を描いた松本清張「鬼畜」は、その願望の裏側にある女性への一方的な甘えの構造を転倒させることで日常にある陥穽を炙り出す恐怖小説だった。野村芳太郎は、そんな原作の非情な世界観を人間の弱さと恐ろしさ、そして父子の絆を描くヒューマニズム映画へと仕立てた。結果、映画「鬼畜」は、同じく親子愛の映画「砂の器」(1974)に連なる系譜として完成し、霧プロダクションへの決定打となった。しかし、映画「鬼畜」には、正妻と愛人の対決と正妻の子どもらへの過酷な仕打ちという前半の衝撃と親子愛の結末とが巧く嚙み合わないという分裂を抱えていた。この分裂は、「砂の器」に代表される人間主義と「八つ墓村」に代表されるセンセーショナルさ、相克するその二つが1970年代の野村に期待されるものだったからこそ起きたことである。そして、映画「鬼畜」に大衆が望んだのは、前半の過剰なまでのセンセーショナルさだった。大衆の欲求に敏感な野村の在り様は、自作の映画化にヒューマニズムを求めた清張との間にやがて大きな決裂を生む。映画「鬼畜」は、霧プロ設立前から二人の決裂を予見していた映画だったのである。
著者
堀口 真宏
出版者
東洋学園大学
雑誌
東洋学園大学紀要 = Bulletin of Toyo Gakuen University (ISSN:09196110)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.48-62, 2021-02-15

本論文では,救援・支援者の心理的負担に関する先行研究についてバーンアウトとPTSD という観点からレビューを行い,その中でも海岸救援者,東日本大震災の災害支援者の立場における心理的負担について考察を行った。まず,救援・支援者は日々の仕事の業務に持続的に関わることから生じうる業務上のバーンアウトが考えられる。また,持続した緊張感の下で業務が行われる状態の中で「衝撃的な救助・出来事」に対峙したとき,同じ救援・支援者の立場にいる彼らには,PTSD 傾向も考えられ,彼らの心理的負担を理解する上で双方の概念からの理解が不可欠と考えられる。このようなことから,まずバーンアウトとは何か,PTSD とはどのような症状を呈するのかのついての概観を行った。そして第3節では,救援・支援者における心理的負担について主にどのような研究がなされてきたかレビューを行い,彼らの心理的負担の意味付けについての捉えなおしという点から考察を行った。
著者
北島 信哉
出版者
共栄大学
雑誌
共栄大学研究論集 = The Journal of Kyoei University (ISSN:13480596)
巻号頁・発行日
no.19, pp.39-53, 2021-03

本研究は,長野オリンピック開催後の剰余金である長野オリンピック記念基金の実態を「中心-周辺」論を用い,地理的条件,組織的条件,物理的条件の視点から明らかにした。研究の結果,長野オリンピック記念基金は,冬季競技の国内外競技大会開催やジュニア育成,競技力向上事業等に活用されてきた。一方で,地元住民を対象とした事業の補助金割合は,低い現状が明らかになった。スポーツ施設マネジメントの視点から,長野オリンピック記念金の助成期間は,施設運営の財政負担を軽減していた。しかしながら,現在,使用中止の競技施設も存在することから,スポーツ施設マネジメントへの課題も明らかになった。
著者
山本 欣司 大橋 毅彦 永井 敦子 Kinji Yamamoto Takehiko Ohashi Atsuko Nagai
雑誌
武庫川女子大学紀要. 人文・社会科学編 (ISSN:09163115)
巻号頁・発行日
vol.61, pp.11-21, 2014-03-31

We, the Society for the Research of Modern Culture of Kobe, have been studying the cultural formation of the port city of Kobe from various aspects. In this paper( which will form the first part of our whole research) we deliver a report on the trend of movies, theater, performing arts, fine arts and photography in the city, by scrutinizing a series of articles, Zassô-en, written by the Kobe correspondents, in the newspaper Kobe Furoku, Osaka Asahi Shimbun, issued in 1923. Through the Zassô-en articles we can see not only various incidents reported by the correspondents but also their love for their hometown, which encouraged them to plan and carry out diverse cultural and artistic events in the town. We can also find the trend of the picture houses and moviegoers in Shinkaichi, Kobe, in those days, especially the way the entrepreneurs attracted people. Concerning the theater, the articles tell us that the things gladly accepted then were comedy and Shinkokugeki.
著者
西田 かほる ニシダ カオル
雑誌
静岡文化芸術大学研究紀要 = Shizuoka University of Art and Culture Bulletin
巻号頁・発行日
vol.21, pp.243-258, 2021-03-31

遠江国敷知郡入野村の龍雲寺は、後二条天皇の孫康仁親王を開基とする。康仁親王の子孫である木寺宮は戦国期に入野村に居住し、戦国大名武田家に味方して徳川家と戦かったが、家康から龍雲寺を安堵されたという由緒をもつ。ただし、その後木寺宮は断絶し、龍雲寺も住職がいない状況が続いたため、江戸時代の前期には木寺宮の実態は分からなくなっていた。その様な中で、地誌の作成や幕府の古文書調査、明治期の陵墓調査などを通じて木寺宮の由緒が形成されていった。近世社会の中で木寺宮はどのように理解され、位置づけられたのかについて、主に龍雲寺に残された史料を紹介しつつ考える。
著者
亀山 光明
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.62, pp.93-110, 2021-03-31

2000 年代以降の近代日本宗教史研究において、「宗教 religion」なる概念が新たに西洋からもたらされることで、この列島土着の信念体系が再編成されていったことはもはや共通理解となっている。とくにこの方面の学説を日本に紹介し、リードしてきたのが宗教学者の磯前順一である。人類学者のタラル・アサドの議論を踏まえた磯前によると、近代日本の宗教概念では、「ビリーフ(教義等の言語化した信念体系)」と「プラクティス(儀礼的実践等の非言語的慣習行為)」の分断が生じ、前者がその中核となることで、後者は排除されていったという。そして近代日本仏教研究でも、いわゆるプロテスタント仏教概念と親和性を有するものとして磯前説は広く取り入れられてきたが、近年ではその見直しが唱えられている。 こうした研究史の動向を踏まえ、本稿は明治期を代表する持戒僧・釈雲照(1827 ~ 1909)の十善戒論を考察する。歴代の戒律復興運動の「残照」とも称される雲照は近代日本社会において戒律の定着を目指した幅広い活動を展開し、その営為は明治中期に全盛期を迎える。さらに本論では従来の「持戒―破戒」という従来の二元的構図に対し、在家教化のために戒律実践がいかに語られたのかに着目する。ここで雲照は儀礼や日々の勤行などの枠組みで「心」や「信」などの内面的領域を強調しながら、その実践の体系化に努めている。さらにその語りは、伝統的に非僧非俗を貫き易行としての「念仏」を唱えてきた浄土系教団に対抗しながら、十善戒こそが真の「易行」であり、文明の道徳社会に相応しい実践とするものであった。本稿はこの雲照の戒律言説の意義を近代日本宗教史に位置付けることを試みるものである。
著者
スムットニー 祐美
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.62, pp.35-67, 2021-03-31

本論文は、16 世紀末に来日したイエズス会東インド管区巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが作成した茶の湯関連規則が、千利休によって形成されたわび茶の影響を受けていた可能性について、ローマイエズス会文書館所蔵の史料を用いて検証するものである。 ヴァリニャーノは日本視察を通して意図の異なる2 つの茶の湯関連規則を作成し、修道院内に茶の湯による接客態勢を整えた。その規則とは、1579 年から1582 年までの第1 次視察中、豊後(大分)において作成された『日本の習俗と気質に関する注意と助言』(Advertimentos e avisos acerca dos costumes e catangues de Jappão 以下、『日本イエズス会士礼法指針』と称す)と、第2次日本視察を終え、1592 年に滞在先のマカオにおいて作成した「日本管区規則」である。本稿では主に、後者に収録されている「茶の湯者規則」(Regras para o Chanoyuxa)と「客のもてなし方規則」(Regras do que tem comta de agasalhar os hospedes)を扱い、そこに示されている茶の湯規則と利休の茶の湯の心得との共通点を明らかにする。 本稿では『日本イエズス会士礼法指針』から、ヴァリニャーノの指示によって修道院で行われた茶の湯の準備態勢について検証したのち、「茶の湯者規則」「客のもてなし方規則」との相違点を浮き彫りにする。さらに、後者に示されている精神性と、『南方録』の「覚書」にみる利休の茶の湯の心得との共通性を検証する。以上の研究で導き出された結果から、「茶の湯者規則」と「客のもてなし方規則」には、わび茶の影響が及んでいたことが明らかとなった。
著者
山村 奨
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.62, pp.111-130, 2021-03-31

近代日本において「人格」という言葉にどのような意味が与えられたのかという点と、その影響について論じる。まず1912 年に出版された『英独仏和字彙』において、Personificationという言葉に「人格化」という訳語があてられたことに対して、この言葉にどのような意味が想定されていたのかを考察する。その際、特に『英独仏和字彙』の編者である井上哲次郎と中島力造の主張を参照する。「人格化」は一般的に、「擬人化」と同様の意味で用いられている。しかし、中島の考える人格は、人間に元来ある「人格になる萌芽」、種のようなものであり、育てていくべきものである。さらに中島は、人格を自ら変化させ、よりよい状態にしていくことを主張する。中島にとって人格は道徳的な意味を含んでおり、向上させていくものである。それは井上にとっても同様であり、この点から、井上と中島らがあてた「人格化」の訳語には、よりよい状態への変化の意味があると考えられる。 中島は人格の向上のために修養を求めたが、続いて、近代日本における修養の考え方について、陽明学との関連で考察した。明治期には時代的な影響から、陽明学による精神修養を国家主義に援用する向きもあり、本論文では吉本襄や東敬治を紹介した。それに対して亘理章三郎は、陽明学によって「人格修養上の教訓」を得ようとしている点が、特徴的である。亘理には、中島や井上が人格に道徳的な意味を持たせて、その向上を求めた人格観と共通の要素がある。 最後に、安岡正篤の陽明学観を取り上げた。安岡は『王陽明研究』の中で「人格」を重視する姿勢を見せる。それを井上哲次郎の影響とする研究もあるが、本論文では安岡が特に参考文献として書名を挙げている高瀬武次郎や亘理章三郎の影響について言及した。安岡は近代日本の学術をまっとうに吸収し、陽明学が内面の修養に援用できることを主張していた。
著者
野村 育世
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.62, pp.9-34, 2021-03-31

有田焼の創始者の一人百婆仙は、豊臣秀吉の朝鮮侵略の際に、武雄の領主後藤家信配下の廣福寺別宗和尚に連れられ、被虜人として、夫の宗傳と共に渡来した。夫婦は内田に土地を与えられて陶器を焼いた。夫の死後、百婆仙は一族を率いて有田に移住し、磁器生産に励んだ。96 歳まで生き、1656 年に死去した。百婆仙は有田焼の創始者の一人であるにもかかわらず、これまでほとんど知られてこなかった。本稿は、百婆仙についての研究史を整理し、史料の紹介、校訂、読解を試みたものである。 百婆仙研究の嚆矢は久米邦武の仕事である。久米は百婆仙の碑文を校訂して紹介した。1930 年代後半になると、日本史の人名辞典に百婆仙が立項されたが、その背景には当該期の政策の中で植民地朝鮮の人物を国史に包摂していく方向性があった。戦後の辞典では韓国史上の人名は除かれたが、日本の伝統工芸の祖である百婆仙たちまでが削除された。1970年代になると、小説家が書いた『肥前おんな風土記』が百婆仙を取り上げたが、その虚実入り混じった内容は今もなお強い影響を残す。21 世紀の現在、日韓の市民の間で百婆仙に対する関心が高まっているが、学術研究においては出遅れている。 百婆仙の史料は、没後50 年に曾孫が建立した法塔が唯一のものである。原本は磨滅しているが、久米による写しが存在する。『後藤家御戦功記』新写本にも掲載されている。それらの写しと、碑文に残るわずかな文字を元に校訂を試みた。 碑文からわかる百婆仙の容貌は、眉を抜かず、耳にピアスの穴の跡があった。夫の宗傳(法名。日本名深海新太郎)の名について、近年「金泰道」とする説が出されたが、これは百婆仙の戒名を誤読したことによる謬説である。 最後に、百婆仙夫妻の渡来事情について、『後藤家御戦功記』新写本の解説と、碑文そのものの内容を比較すると、彼らが朝鮮において陶工であったのかなかったのか、後藤家信は彼らが陶工だから連れて来たのか、はたまた無差別な拉致であったのか、という議論を喚起しうる。 以上、現段階で可能な基礎的考察を試み、今後は科学技術を応用した碑文の読解が望まれること、国際的な学術交流が必要であることを展望した。さらに、韓国と日本のジェンダー史の流れを比較しつつ、2 つの社会を生きた百婆仙のジェンダー史上での立ち位置を考察することを、提唱した。
著者
大籔 良祐 川合 誠 野口 拓
雑誌
全国大会講演論文集
巻号頁・発行日
vol.第71回, no.ネットワーク, pp.95-96, 2009-03-10
著者
伊里 友一朗 松下 和樹 塩田 謙人 三宅 淳巳 Izato Yuichiro Matsushita Kazuki Shiota Kento Miyake Atsumi
出版者
宇宙航空研究開発機構(JAXA)
雑誌
宇宙航空研究開発機構研究開発報告: 高エネルギー物質研究会: 令和元年度研究成果報告書 = JAXA Research and Development Report: Technical Report of The Research Activity for High Energy Materials (2019) (ISSN:24332216)
巻号頁・発行日
vol.JAXA-RR-19-003, pp.27-33, 2020-02-20

高毒性を有するヒドラジン系化合物を代替する革新的なグリーンプロペラントとして,アンモニウムジニトラミド(ADN)を主剤とするイオン液体推進剤(EILPs)の研究を行ってきた.その研究過程において,当該EILPs実用化に向けた課題についても明確になり,喫緊に着火方法の確立が必要である.EILPsはイオン液体の高い熱安定性が,推進剤としての着火性をトレードオフとして失わせているのである.そこで光や電気化学反応による着火システムに我々は着目した.それらは熱的な化学反応とは反応ルートが全く異なるため,熱的に難着火性のEILPsに関しても着火を誘起することが期待できる.その可能性を検討するため,量子化学計算および詳細反応モデルを用いて,ADNの電解反応経路とADN/硝酸ヒドラジン(HN)混合溶液の熱分解反応を調査した.その結果,ADNは電気的に還元されることによって速やかに,かつ不可逆的に分解することが示唆され,電解過程でNO2等のラジカルを生成する.またADN/HN溶液は,NO2をラジカル担体とする連鎖分岐反応によって瞬間的に熱分解することがわかった.これらはADN系イオン液体に関する電解着火方式の実現性を支持する結果である.

1 0 0 0 OA 水戸藩の香統

著者
堀口 悟 鈴木 健夫 村田 真知子 Satoru Horiguchi Takeo Suzuki Machiko Murata
出版者
茨城キリスト教大学
雑誌
茨城キリスト教大学紀要 I.人文科学 = Journal of Ibaraki Christian University I. Humanities (ISSN:13426362)
巻号頁・発行日
vol.53, pp.197-217, 2019

When the four volumes of the Book of the Way of Incense (Kōdōsho) in the collection of the Mito City Museum were shown to the public for the first time in 1992, Akiyama Takashi contributed the introductory essay for the occasion. In this essay, Akiyama expressed doubts on the theory endorsed so far by Nishiyama Matsunosuke in his Iemoto seido no kenkyū(Research on the iemoto system)published in 1982 by Yoshikawa Kōbunkan, although he fell short of producing evidence against it. Nishiyama had stated that inside the domain of Mito, approximately the same territory as today’s Ibaraki prefecture, in regard to new disciples for the Shino School of incense “not even one was to be found for the entire period [of the Mito feudal domain]. It is thus conceivable that the way of incense was not accepted by the milieu in the Mito domain that developed Mitogaku”.In our research, drafted by three authors, we thoroughly examined the four volumes of the Book of the Way of Incense, consisting of Mito-shi hakuzō Kōnoki-jo (Introduction to Ko-awase, an incense matching game- Mito City Museum), Mito-shi hakuzō Kotokumikō (The earlier ten kinds of kumikō - Mito City Museum), Mito-shi hakuzō Hachikumikō (The eight kinds of kumikō- Mito City Museum) and Kōdō meikan (Compendium of the Way of Incense). While taking into account the previous studies by Midorikawa Fumiko and others, we also considered the historical documents of the Mito domain, with the purpose of investigate the relations between the domain of Mito and the way of incense in the early modern era (1603-1867).On one hand, we proceeded to reprint and revise the four original volumes of the Mito City Museum, adding explanatory notes, a translation into modern Japanese and related essays. The book we are currently writing with these contents will be entitled Kinseishoki no Kō-bunka (The culture of the incense in the early modern period) and its publication is planned for March 2020. It intends to clarify the culture of the incense in Kyoto (cultural capital) and in Mito (province) in the early modern period, from the year 1603 to the year 1700.On the other hand, in the present paper titled The incense tradition in the Mito domain we have broadened the outlook to the whole early modern period and considered the above-mentioned theory by Nishiyama.Consequently, it came to light that the first daimyō (feudal lord) of the Mito domain Tokugawa Yorifusa was enthusiastic about the way of incense, wrote a book himself on the subject and presented it to the Emperor Go-Mizunoo. Furthermore, Tokugawa Mitsukuni, the second daimyō of the Mito domain, presented the Emperor Go-sai with the book Fusō-shūyōshū, while both the fourth daimyō Munetaka and the eight daimyō Narinobu showed interest in the art of incense. The analysis of the documents also revealed that two vassals of Yorifusa, Okajima Matayuki and Iio Biku were practicing and researching the way of incense, proving that the tradition of incense continued until the latter part of the Edo period.However, regarding the way of incense in the Mito domain there are still aspects needing further investigation, which prevent us to reach a full clarification of the matter. Therefore, we are hereby releasing our findings in the form of research notes.