10 0 0 0 OA 官報

著者
大蔵省印刷局 [編]
出版者
日本マイクロ写真
巻号頁・発行日
vol.1888年09月06日, 1888-09-06
著者
三浦 修
出版者
東北地理学会
雑誌
季刊地理学 (ISSN:09167889)
巻号頁・発行日
vol.71, no.3, pp.120-127, 2019 (Released:2020-07-18)
参考文献数
38
被引用文献数
1
著者
中澤 渉
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.72, pp.151-169, 2003-05-25 (Released:2011-03-18)
参考文献数
36
被引用文献数
2

C. Wright Mills once criticized Lazarsfeld's work as abstracted empiricism. I understand the current state of the sociology of education in Japan as resembling this kind of empiricism. We want the sociology of education to be policy science or applied science, and empirical data, especially numerical values, seem to be useful. However, inside of the field of sociology, sociologists are divided according to their methodologies, so there is no common language or communication method. If they insist on one methodology, especially statistics or multivariate analysis, they will lose sight of the linkage between the empirical data and sociological theory, or forget the sociological significance for using that type of method. In addition, they may make statistical errors because the packages (for example, SPSS) enable people who do not understand statistical theory or are poor at mathematics to use statistical methods, and statistical methods have improved rapidly.Incidentally, sociologists who want sociology to be a policy science take some risk. Sociological data seem to be objective and scientific. If they want sociology to be useful, sociology will be influenced by power because power decides the criterion for usefulness. Ideologies always try to take advantage of objective and scientific data and theory. Furthermore, sociological knowledge, which seems to be objective and scientific, influences social conditions, sometimes changes people's actions and causes self-fulfilling prophecies. We sociologist must always be conscious of that kind of problem.

10 0 0 0 OA 群馬県史

著者
群馬県教育会 編
出版者
群馬県教育会
巻号頁・発行日
vol.第4巻, 1927

10 0 0 0 OA 官報

著者
大蔵省印刷局 [編]
出版者
日本マイクロ写真
巻号頁・発行日
vol.1893年05月10日, 1893-05-10
著者
若狭 芳男 佐々木 幹夫 藤原 淳 飯野 雅彦
出版者
公益社団法人 日本薬理学会
雑誌
日本薬理学雑誌 (ISSN:00155691)
巻号頁・発行日
vol.126, no.1, pp.5-9, 2005 (Released:2005-09-01)
参考文献数
37
被引用文献数
1 1

薬物自己投与実験では,動物がレバースイッチを押すと静脈内あるいは胃内に留置されたカテーテルを介して一定量の薬液が体内に自動注入される方法が多く用いられ,アカゲザルおよびラットでの研究報告が多い.自己投与実験法により,薬物の強化効果の有無,強さおよび発現機序の研究が行われる.強化効果の有無は,自己投与回数の多寡によって判定されるが,自己投与回数は,自己投与の経路,静脈内への薬物注入速度,用量範囲,実験スケジュールなどの要因によって影響を受ける.すなわち,静脈内経路ではレバー押し行動に引き続き薬理効果が迅速に発現するため,胃内経路と比べて強化効果をとらえやすい.静脈内自己投与では,1回に注入される用量が同じでも注入速度を増すと摂取回数が増加する.強化効果を検索するための用量範囲は,弁別刺激効果もしくは何らかの中枢作用の発現用量などを目安に選定することが妥当と考えられる.Substitution proceduresでは比較的短期間に幅広い用量の強化効果の有無を検索できるが,ベースライン薬物がテスト薬物の自己投与に影響する場合がある.テスト薬物の自己投与を比較的長い期間観察する連続自己投与実験法では,強化効果の有無をより高い精度で検索できる.強化効果の強さを薬物の間で比較するための方法としては,比率累進実験法あるいは行動経済学の考え方に基づく需要曲線を用いる方法などが報告されている.強化効果の発現機序の検索には,特定の受容体のノックアウトマウスを用いた自己投与実験が行われている.自己投与実験期間中に発現する中枢作用の観察により,その薬物が乱用された場合の危険性を予測する参考情報が提供される.
著者
佐藤 綾 上田 哲行 堀 道雄
出版者
一般社団法人 日本生態学会
雑誌
日本生態学会誌 (ISSN:00215007)
巻号頁・発行日
vol.55, no.1, pp.21-27, 2005
参考文献数
16
被引用文献数
1

1. 石川県羽咋郡甘田海岸において, 打ち上げ海藻を利用する小型動物相と, それを餌とする高次捕食者であるイカリモンハンミョウ成虫の捕食行動を調査した.海浜性のイカリモンの成虫は, 石川県では6月中旬∿8月に見られ, 砂浜の汀線付近で餌探索する.2. 打ち上げ海藻より採集された小型動物には, ハマトビムシ科の幼体, ヒメハマトビムシ, フトツヤケシヒゲブトハネカクシ, ケシガムシ属が多く見られた.3. イカリモンの成虫の捕食行動を, 個体追跡により観察した結果, イカリモンは, ハマトビムシ類の幼体を多く追跡あるいは捕食していた.また, 砂浜に埋めたピットホールトラップからは, 多くのハマトビムシ類の幼体が得られた.4. 本研究より, 打ち上げ海藻(一次資源)-ハマトビムシ類(腐食者)-イカリモン(捕食者)という砂浜海岸における生物間関係の一つが明らかとなった.
著者
相原 健志
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶應義塾大学日吉紀要. 言語・文化・コミュニケーション (ISSN:09117229)
巻号頁・発行日
no.49, pp.1-15, 2017

序1. 「存在論的転回」の焦点 : 概念創造2. 概念創造の条件3. 概念「創造」という問題 : 主体の弱さから4. 結論と展望
著者
熊田 千尋
出版者
京都産業大学日本文化研究所
雑誌
京都産業大学日本文化研究所紀要 = THE BULLETIN OF THE INSTITUTE OF JAPANESE CULTURE KYOTO SANGYO UNIVERSITY (ISSN:13417207)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.148-102, 2020-03-31

「本能寺の変」が発生した当時、変の原因について、主な公家や織田信長の家臣たちは、信長の四国政策変更によるものとみていた。これが「四国説」の始まりである。 本稿では、変の原因について四国説に求める先行研究の成果と2014 年に公表された『石谷家文書』から新たに判明した史実を結びつけることにより、明智光秀の謀叛実行に至る過程をより明確にした。『石谷家文書』よって、織田信長と長宗我部元親との国分条件に係る交渉過程において、天正9 年(1581)冬、安土において長宗我部元親を巡って、長宗我部元親を悪様に罵る讒言者と近衛前久・明智光秀との間で争論が行われていたことが明らかとなった(また、本能寺の変後に近衛前久が、織田側から光秀との共謀を疑われたが、その理由は、この争論で長宗我部元親を擁護したためであった)。 信長は讒言者の意見を重視して、一方的に東四国から元親を排除する措置に出た。この讒言者について、本稿において、信長の側近で堺代官の松井友閑であることを明らかにした。すなわち、光秀は松井友閑に外交面で敗北したのである。ただ、信長は、元親が土佐一国の国分条件を受け入れるなら断交はしないとし、光秀はその説得交渉の使者を派遣した。しかし、その後信長は元親の返答を確認しないまま、三男信孝に四国出兵を命じ、一方的に元親を敵対視する措置に出た。この命令は光秀を通した元親への説得中に出されたので、光秀の交渉は無視されたことになった。この二度にわたる信長の一方的な四国政策の変更により、光秀の謀叛の動機が形成されたと考えられる。 謀叛実行のきっかけは、天正10 年(1582)5 月に羽柴秀吉からの援軍要請により、信長が毛利攻めの親征を決め、光秀がその先陣を命令され、加えて、徳川家康らを接待するため、信長が毛利攻めの途中京都の本能寺に殆ど無防備の状態で立ち寄ったことにあった。本能寺の変は、光秀がこの舞い込んだ一瞬のチャンスを活かし、信長を襲撃したものである。